絵画について

三好十郎




 マチェールへの愛

     (一)

 以前は私などの所へも時々若い人で戯曲やラジオドラマを勉強したいから指導してくれとか作品を書いたから読んでみてくれとか言って来る人があった。ひどい時には一月に四五人くらいそういう人がいたものである。ところが三四年前からパッタリそういうことがなくなった。初めは近年私が作品をあまり発表しないから私の名前を知っている人が少くなったせいだと思っていた。以前ひんぴんとそういう人が来た頃からそういうことをうるさがるたちなので来ないにこしたことはないのでそれ自体としてはありがたいわけだ。ところでこういう現象は私一人のことではないらしいことに最近気がついた。一般に若い人たちが先輩作家をたよって指導してもらうということは非常に少くなったらしい。そしてこの現象の中に現代というものの著しい性質が現れていると思う。つまり今の時代はもしかすると非常な急角度で新しいエポックの中に突入しつつある時代ではないかという気がする。しかも残念ながらそれは歓迎することのできない新しさである。
 これは諸芸能やいろいろの手仕事でも同様の由、文楽、能楽、歌舞伎などはもちろんのこと、大工その他の手元の芸など。たとえば家を建てる大工職など小僧の時代から七八年修業しなければ一人前の大工になれないのが普通だが、そういう人が最近ほとんどいなくなったそうだ。もちろん若い世代の人々がその必要を感じなくなったせいであろう。つまり内の娘が日本着物を一枚も持たないし裁縫もできないのと同じことで、結局はその必要を感じないからである。
 小説や戯曲の世界では志賀直哉などの作品とは殆ど縁のない、新人作家が続々と発生して来たり、真山青果の名も知らない劇作家や俳優が大勢できて来ている。
 このことは考えようでそれでよいとも言えるし困ったことだとも言えよう。その方がよいと思われる点はこれから全く新鮮な新時代が来ることである。つまりこれまでの伝統や先人などの古くさい味が全くなくなって何もかも新しくなるという点だ。困ると思われる点は古い伝統や先人の中には古くさくあっても多くの人々の血のでるような努力でもって長い間に蓄積されたその道の専門的な財産や高さがあるのだが、若い世代がそれまでうち捨ててしまえばあと十年二十年たってから若い世代が到達する地点が先人がすでに到達していた地点と同じところならまだしもそれよりもずっと低い所であることもあり得るような気がする。
 つまり新しい世代が現在古い世代と断絶しつつある現象は必ずしも歓迎できない。いちばん望ましいのは新時代が今までの伝統や蓄積の上に立ちながらそれから悪く支配されないで生れることである。
 しかしどうせそのようなことはさしあたり望めないような[#「望めないような」は底本では「望めないようが」]気がする。
 それは結局マチェールへの愛情が失われて来ているからである。
 たとえば絵が好きだというのは、結局はその絵のマチェールが好きだということだ。
 文学のマチェールとは、つまり文体であり文章である。
 チェホフ「雨が降っていた」と書け。
 奇をてらった形容詞の多い文章が多すぎる。

     (二) ある画家へ

 たしかに、自然主義的な写生だけでは、もう既に現代の全体としての現実がとらえがたくなっていることは事実です。しかも芸術が常になによりもまず新奇を目がけることは是非の問題ではなくて芸術の運命のようなものでしょうから、君たちの多くがシュールやアブストラクトやアンフォルメなどへ自ら方向をとろうとしていることには、強い必然性があります。ことに青年が思いきってやって見ようとすることに無駄なことは何ひとつないと私は思っています。しかし最近のこのような傾向の中には、しんそこからの必然性を欠いて、単に新奇な流行への迎合の調子もかなり有るようです。それをまた新しいもの新しいものと追いかけるのが商売のような美術批評家たち――リードなどもその一人です――が煽っている形がある。いずれにしろクールベよりはミロの方が新しいことは事実としても、新しいだけのためにミロの方がすぐれているとするような底の浅い見方で創作や批評がされては、おもしろいことにはならないでしょう。
 自分のことを語るのは気がさしますが、私は二十歳前後の時期に画家を志したことがあり、新しいものをいろいろあさったあげく、当時最前衛であったカンディンスキイあたりの作品と理論に強く動かされて、自分でも何十枚となく抽象的な構成主義の絵を描いたことがあります。その次にイタリイのマリネッツイなどが先導した未来派に引かれ、さらに進んでは今で言えばモビールにあたる――人生と社会のあらゆるアクションの組合せが偶然に創り出す美こそ真正の最高の美であると言う考えにとりつかれた。そのへんから当然美を純粋に追求すればするほどタブロウにはなり得ないと言った自己矛盾におちいり、ついに描かれない絵――したがって誰の目にも見えない絵――だけがホントの絵だという自己破壊的な結論に到達するに及んで私の遍歴は終りました。その後、現在まで私は一貫して写実的な絵だけを描いています。つまりがシュールやアブストラクトはいつでも描けるがすぐ飽きる。写実だけが自分を飽きさせないのです。
 本職の画家でない私の例は参考にはならぬかも知れぬが、正直の話、どうでしょうか? 未開の土人や子供などがけんめいに写実を志して描いた非写実的な絵に時に私は感動する。また写実を追って追い抜いた末に反写実的になってしまった近代画家の絵に往々私は感動する。しかし一つの新奇なるスタイルまたは習慣的な演戯としての前衛絵画のどのような作品の前では一度も率直に感動したことがないのです。君はどうですか?
 そして人が自分を真に感動させたことのないものの方へ進むのは結局は虚偽か、少くとも軽薄さではないでしょうか?
 もちろん人間はどんな絵でも描くでしょうし、またそれはゆるされています。こころみてはならぬ芸術的手段などはないのです。新しいものは生れる方がよい。しかしピカソの方がジオットウよりも新しいとするような考え方自体がすでに古いのです。そんな所からホントの新しいものは生れないでしょう。
 作家が自己の全身心をかけた所から促し立てられて押し出してくるものならば自然主義的な写生画もアンフォルメルやモビールも、新旧と価値において全く同じことです。

 ピカソのつまらなさ

 H君――
「ピカソは何故つまらないか、あなたはそれを話してくれる義務がある」と言う。
 先頃私がある雑誌に書いた文章の中で「正直に言って良いことは正直に言った方が良い」ということを書いた中に「ピカソはつまらない」と書いていたのに君はこだわったようだ。君の手紙には詰問するような調子がある。なるほど近代の絵画を真剣に考えている君としては、私の言葉は無責任な放言のように聞えたかもしれないし、また私がイコジになって逆説を弄してるようにとれたかも知れない。しかしそれは二つながら当っていない。私は真面目にそして正面からものを言ったのだ。ただもう少しくわしく述べる義務があるようだから、ここで述べる。
「何故ピカソがつまらないのか?」と君は問うが、まず第一に子供らしい答え方で答えるならば私は「何故つまらないかをぬきにして、まずピカソの絵は私にはつまらないのだ」としか答えられない。だからまず逆に私は君に対して次のように問いかけてみる。
「それでは君はピカソの絵を本当に良いと思って見たことがあるか?」
 本当にということは文字通り正直にという意味であって、時に美術批評をもしている君が大勢の人々の中で人々を相手にしてものを言ったり考えたりする場合ではなく、本当の君一人の室の中でそう思うかという意味だ。どうであろう?
 私が自分の勤労によって働き出した金がある。その金で一枚の絵を買うために展覧会または画商の所へ行ったとする。そこにはたくさんの美しい作品がある。さてしかし自分にとって大切な金を出してどの一枚を買おうかと思って眺めると、美しいものとそうでないものの差がハッキリしてくる。そして最後にこれだと決めて買う気になった作品が良い作品だった。実際において買わなくても、そういう角度から絵を見ると絵の良し悪しが非常にハッキリすることが多い。そしてまたこれまでに見たピカソの絵(もちろんほとんど複製)で私に大事な金を出して買いたいと思わせた絵は一枚もなかった。

 次に絵画の観賞の仕方に次のような考え方がある。それは最初に見た時にその美しさにビックリして惹きつけられ、それを座右に置いて始終見ている間につまらなくなってしまう絵と、最初に見た時は平凡な絵だと思ってたいした刺戟も受けなかったが、長く見ている間に次第に深い味が出て来て惹きつけられる絵と、最初に見た時に強い刺戟を受けそれをくりかえして見ているうちにその刺戟が深まり、つぎつぎと新しい味が出て来ていつまでも見飽きない絵。もちろんこの場合最初見てつまらなくていつまで見ていてもつまらないというレベル以下の絵は除外しての話だ。そして言うまでもなく第三番目の絵が良い絵であると言うことについては君も異論がないだろう。そしてピカソの絵は初めの頃においては私を最初驚かし、そして長く見ていると退屈させた。わずかに彼の絵で私をそれほど飽きさせなかったのは「青の時代」に属する新古典的な絵のいくつかに過ぎなかった。この十年ばかりピカソの作品はその複製を見るたびにその愚鈍なマンネリズムで私を全く飽き飽きさせる。彼の作品全体は、もう盛りを過ぎて真に興味があるプレイができなくなった野球選手が、そのことを反省する力を失ってしまった不感の中でとくとくとしてスタンド・プレイを演じている姿のようにしか見えない。しかもそのスタンドに彼のプレイを未だかっさいして迎える大衆がいること、その大衆とそのプレイヤーとの関係のいやらしさと同じようなものを私は感ずるのである。
 ピカソのことを天才だとする世間があるようだが、彼の作品から天才の持つ美・均整・鋭さ・単純さ・異様さなどを感じたことは私は一度もない。例えば彼の作品にある遠近法の逆用や多視角の併存や色彩のスペクトル化やお乳のそばにお尻を描くといった風のアブノルマリティや作品の多角性や多産などは天才のものではなくて、ただ精力的なだけの商人のもののように見える。たしかに才能には恵まれているようである。天才的画家の才能にではなく天才的ショウマンとしての才能に。
 彼の後期の代表作だと言われる「グルニカ」などを見ても私には中位のできばえの戦争映画の中の戦場の場面の一コマを見ているほどの感銘もおきない。戦争の悲惨と平和への希望を無感動な念仏として抱いている文化的スノッブを予想して描かれた思いつきの平俗なパノラマだ。同じくショウマン画家にしてもマチスには美があった。絵画に対しても観客である一般大衆に対しても謙虚なものがマチスにあったからである。とにかく美しいパーフェクトリイを提供して人々の眼に奉仕しようという心がマチスにはあった。ピカソはただ人々をビックリさせて拍手させようと思うだけだ。人がビックリしている間はそれで良いがビックリしなくなると退屈する。
 ピカソの絵は一見近代的なものに見えるが、彼が真に近代的であったことは一度もない。近代の科学性・自我意識・矛盾・人間性などは彼には全く無縁のものであって、彼ほど本質において古めかしく、その古めかしさを新しく見えるもので包みこんでいる画家は珍しいといえよう。ただ一つ彼が近代の絵画とその作者である画家との関係を非常に変えてしまったということだ。子供が遊ぶように絵をかき散らしたということ、そしてそのことに何十年となく飽きなかったということ。これはある意味でたしかに偉い。あるつまらぬことをはじめ、それを毎日くりかえして四十年も飽きなかった人間はある意味で偉いにちがいない。そのような偉さだけをピカソの中に私は認める。
 以上私がどんな風にピカソをつまらないと思っているのかあらましを述べたが、もし必要とあらばもう少し理論的に分析的にこまかくピカソ否定論を展開することはできなくはない。だがもともと美術作品の観賞や批評は非常に強く生理的な適・不適や好悪にかかっているものであるからこれをいくら理論的にこまかく広く展開しても結局はまた生理的なものへ舞いもどってくるものだ。だからこれだけで私はピカソについては言い尽くしたと言えないこともない。とにかくこれは理屈ではない。ピカソの絵を見て私がこう思ったということの報告である。世の中には私と反対の見方をする人が多いかもしれない。いや現に多い。しかし私は私の評価をそのために撤回する気にはならないであろう。
 なお世間には岡本太郎流のピカソ否定論があちこちにあるが、それらを重要視することは私はできない。それらはほとんど皆小さなショウマンが大きなショウマンを嫉妬したり邪魔にしたりして否定しているだけであって、鳴りはためいている大太鼓の中で小太鼓が騒いでいるようなものであって格別の意味をなす発言だとは思われない。なおわれわれが絵画ことにヨーロッパの絵画を論ずる場合には常にそうであるが、今ピカソの場合も私が見たピカソのオリジナルはごく少数であってほとんどその複製であったということは申しそえておかねばならぬだろう。複製を見ただけでまるでオリジナルを見たと同じように思う思い方は考えようではコッケイであるが、そしてできるならばオリジナルを見るにこしたことは言うまでもないが、しかしこのことはある程度まで止むを得ないことであって、今となってはある程度まで許されることだと私は考えている。
(一九五七年六月中旬)





底本:「炎の人――ゴッホ小伝――」而立書房
   1989(平成元)年10月31日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:伊藤時也
2009年3月24日作成
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