詩劇 水仙と木魚

――一少女の歌える――

三好十郎




   プロローグ

私は京極光子と申します
年は十七年三カ月
学問は中学を卒業しただけで
病気のために寝たきりで
自分一人では一メートルも動けない
詩を読んだのは
宮沢賢治とホーマアのオデッセィの二冊だけです
その私が、おどろくなかれ
水仙と木魚という題で
長い長い詩を書きますから
どうぞ皆さん覚悟してくださいな
この中で私は
人類よ、思いあがって
水爆や原爆なんぞをポカポカとおっことして
地球をこなごなにしないように気をつけろ!
アメリカとソビエットよ、のぼせあがって
したくもない戦争を
しなくてはならぬようなハメに持って行かないように気をつけろ! と
オトナたちを叱ってやろうと思います

びっくりなすった?
実はそれウソですの
私がホントにここに書きつけるのは
小さな小さなことばかりで
エンの下の蟻の巣の中で
蟻がどんな声で泣き悲しんだかということや
二番目の水仙が芽を出したのは
二月の幾日の朝であったかということや
カリエスの腰がどんな日に一番痛むかということや
すべてそういう、人さまにはどうでもよいことばかりを
ゴタゴタと書きつけて
昇さんに見せようというだけです

     1

これは
小さい町の町はずれの
竹やぶの蔭のお話です
その竹藪は明るくゆれて
風が吹くとサヤサヤとささやき渡り
子供が向うから小石を投げると
カラン・カラ・カラ・カチッと
青い幹にあたって鳴りひびく

その竹やぶのこちら側に
小さいお寺があるのです
お寺には本堂のわきに庫裡があって
庫裡の裏に離れがあって
その離れの縁側の静臥椅子に
もう三年もジッと寝ているお寺の子なの
それが私

お母さんは小さい時に亡くなって
お父さんと二人きりで
他に耳の遠い婆やさんが一人
お父さんはお寺の主人だから、もちろん、お坊さんよ
ほら、今も朝早くから
お経をあげて、おつとめなさってる!
ほらね、ポクポクポク、ポクポクポク!
良い音でしょ?
あれは、トクガワ時代から
このお寺に伝った木魚だそうよ
ちかごろでは私の腰もめったに痛まないけど
時々ズキズキする朝があっても
あの木魚の音とお父さんのお経を聞いていると
痛みが少しづつ薄らいで行くのです
ポクポク、ポクポク!

     2

それはそうと、もうソロソロ八時だから
竹藪の小みちを通って
昇さんがここに来る頃です
昇さんはうちのお隣りの
花を育てる農園の一人息子です
私より二つ年上だから今十九で
私とは小さい時からの仲良しで
昼間はお父さんの手伝いで
温室の手入れや市場への切り花の荷出しで働きながら
夜間の学校に通っている
昇さんは毎朝のようにお父さんにかくれて
温室の裏をまわって
垣根の[#「垣根の」は底本では「恒根の」]穴をソッと抜け
竹やぶの径を小走りに
私のところに来てくれます
「光ちゃんよ、お早う!」
「昇さん、お早う!」
「元気かよ? 昨日の午後の熱はどうだった? 今朝はあるの? 痛むかい?」
「今朝は平熱で、それほど痛まない。昨日の午後は七度一分で大したことないの」
「そら、よかった。はい、花だ」
「まあ、きれい! ありがとう昇さん
もう春の花が咲くのね」
「今、父さんが市場へ持って行くのを自転車に積んでるんで
そっと一本もって来たんだ
ほら、フランス語初等科講座テキスト
やっと有ったよ」
「あらあらあら、有ったのね
実は私あきらめてたの
もう講座がはじまってふた月
いくらお父さんに頼んで捜してもらっても
町中の本屋さんに無かったのよ」
「僕も方々さがしたあげく
市場の裏の小さな本屋にたった一冊
残っていたのを見つけたんだ」
「どうもありがとう昇さん
お金はあとでさしあげるから」
「金はいいんだよ
切花の仕切の金は僕がもらってるから
それは光ちゃんに僕買ってあげたんだから」
「ありがとう昇さん
ありがとう昇さん」
「そらそら、また泣くのはごめんだぜ
僕はきらいだ」
「いいえ泣かない。ただ私、うれしいのよ
笑っているでしょ?」
「ははは、そうそう、笑う方がいいんだよ人間は
しかしそれにしても、おかしいなあ
そうやって寝たっきりの光ちゃんが
しかもお寺の一人っ子の光ちゃんが
どうしてフランス語など習うんだろ?」
「だって何を習おうと人間の自由でしょ?」
「それは自由だけどさ、つもりがわからない光ちゃんの」
「つもりがわからないのは昇さんだって同じだわ
だってそうでしょ、昇さんは農園の後をついで花作りになるんでしょ?
それがどうして工業学校などに行くの」
「人間は夢を見る動物なり」
「だから人間は夢を見る動物なり
あたしだって、こいで人間の内よ」
「あっはは!」
「ほほほ!」

     3

昇さんが笑う時には眼を糸にして
鼻の穴を上へ向け、ノドの奥まで見せて
ワッハ、ハと、それは良い声をあげるのです
二人が笑っていると
ズッと聞えて来ていた本堂の木魚の音が
急に大きくなったと思うと、
ガーン・ガーンと鐘が鳴り出した
「あっ、いけねえ、小父さんが怒りだした!」
と昇さんと私は顔を見合せて、二人で耳をすませながら
鼻の穴を開いて
臭いをかいでいるのです
「ほらね、やっぱりだ」
朝のそよ風に乗って
腐ったような、えぐいような、ねばりつくような
いやないやな臭いが流れて来る
昇さんはゲッソリした顔をして
「おやじも、いいかげんにしてくれるといいけどね」
「どうして、しかし小父さんは
そんなに木魚の音が嫌いなのかしら?」
「木魚の音などに関係ないと言うんだ
花作りが一日に一度肥料の加減をしらべるのは
くらしのつとめだからと言うけどね
それは口実さ
朝っぱらからコヤシだめをあんなに掻きまわして
こんなにひどい臭いをさせなくても
肥料のかげんは調べられるさ
そうじゃないさ、おやじは
小父さんの木魚の音がすると
ムカムカとガマンができなくなるんだ
あんだけほかのことでは静かな人間が
どうしてあんなに気ちがいじみてしまうんだろ?」
「ホントにそうよ
内のお父さんだって、ほかのことでは
そんなにわからない人では無いのよ
それがお宅のこととなると
どうしてあんなに直ぐにカッとなるんでしょ?
オトナはみんな頭がおかしいんじゃないかしら?」
「そうだね、とにかく馬鹿だ、みんな」
昇さんがそう言った時に廊下に足音がして
「なにが馬鹿だね?」と言いながら
私の父がふすまを開けて入って来ました
声の調子は機嫌良さそうに作っていますが
腹を立てているのは
額口に青筋を立てているのでわかります
「今日は。小父さんお早うございます」
「お早う。いつも光子のお見舞いで、すまんね」
「お父さん、この花、いただいたのよ」
「そうかね、それはどうも――」
と言ったきり、私の膝の上のダリヤを父はギロギロと睨んでいます
「じゃ僕は市場へ行くから、これで――」
「お父さん、それから、この本も昇さんがわざわざ買って来てくだすったのよ」
昇さんはバツが悪くなってぴょこんと一つおじぎをして竹藪の方へ立ち去って行きます
「どうしたの、お父さん?」
「うむ、昇君は親切な良い青年だ」
父はそう言って、水仙の花を睨んでいるのです

     4

その昇さんは私のところを離れると
本堂の裏を墓地の方へ曲ります
するといきなり花婆やのブツブツ声が聞こえます
「そうでございますよ
みんなみんな、おしまいになるのですからね
ナムアミダブツ、ナムアミダブツ
みんなみんな、大々名から
こじきのハジに至るまで
こんりんざい、間ちがいなし!
地面を打つツチに、よしやはずれがありましても
こればっかりは、はずれようはございませんて!
百人が千人、一人のこらず
おしまいは必らず、こうなるのですからね!
生きている時こそ、なんのなにがしと
名前が有ったり金が有ったり慾が有ったりしますけれど
ごらんなさいまし!
こうなるとコケの生えた石ころやら
くさりかけた棒ぐらいですわ
ナムアミダブツ、ナムアミダブツ
ちっとばかり生きていると思って
慾をかいて、汗をかいて
くさい臭いをプンプンさせても
無駄なことではございますまいかの」
花婆やはカナつんぼのくせに
おそろしいおしゃべりで
しかもひとりごとの大家です
そこら中につつぬけに響く大声でしゃべりながら
墓地と垣根にはさまれた
細長い無縁墓地に並んだ
無縁ぼとけの墓の間を
毎朝の日課の、ほうきで掃きながら
昇さんが近くを通るのにも気もつきませんが
垣根の向うの花畑の方で
かきまわされるコヤシの
音はまるきり聞こえなくても
鼻はつんぼでないものだから
ムカムカするほど、かげるからです
花婆やは、それはそれは人の良い
念仏きちがいの婆やですけど
内の父の気持が伝染して
コヤシの臭いを憎んでいるのです
いえ、正直いちずの人の好い人間の常で
当の父よりも伝染した方の婆やの方が
憎む気持がいちずです
ははは、お婆さん今日もやってるなと
にが笑いしながら垣根の切れ目から
ソッと自分の内の農園の方に抜け出ると
お父さんは案の通り向うのコヤシだめで
怒った顔をしてかきまわしていて
ズッとこっちの垣根のそばでは
昇さんのお母さんの、おばさんが
苦労性の青い顔で
「昇や、急いでおくれ
お父さんは、もう花を自転車に積みおえなすったから
お前、ボヤボヤしていると叱られるよ
あああ、ホントに私は毎朝いまごろになると
ハラハラして頭が痛くなりますよ」
「だってお母さん
市へ出かけるのは、もうあと十分近くありますよ」
「いえ、お前のことじゃありません
あれごらん、お父さんはあの調子だし
それでお隣りの木魚の音が
やっと聞えなくなったと思うと
婆やさんが、あの声でああだろう
あれではお父さんにもつつ抜けだよ
少し遠慮してくれるといいけどねえ」
「でもしかたが無いでしょう
お婆さんはなんと言ったって
オシャベリはよさないし
それに臭いは
お婆さんの言う通りですからね」
「そらそら、またお前までがそんなことを言う、それはね、どんなに臭くても
花造りのコヤシいじりは内の家業ですからね」
「しかしタメをかきまわすのは昼すぎだってできるんだ
朝っぱらからする必要はないですよ
お父さんのは隣りの木魚が鳴り出すとたちまち始まるんだ
まるきりシッペ返しみたいだからな」
「おおい、昇! そんなところで何をぐずぐずしているんだあ?」
となりの小父さんがタメのところからどなります
「そらそら昇、急がないと!」
「花は自転車につけたぞう!
早く行かないと花が可哀そうだぞ!」
「はあーい!」と昇さんは答えてかけ出します

     5

このように内のお父さんと
隣りの小父さんの、睨み合いは
すこしずつ、すこしずつひどくなりながら
毎朝のようにくりかえされるのです
そして竹藪の梢が
新芽どきとはまたちがった黄色をおびた緑色を濃くして
ルリ色のそらにきざみ込まれたまま
ゆれるともなくゆれながら
小さい町に音もなく
一日一日と冬が過ぎて行きます

翌日の朝はその時間になっても
いくら待っても昇さんが来ない
もしかすると小父さんの代りに
農園の用事で東京へ行ったかもしれない
しかしそれならそのように
たいがい前に言ってくれるはずなのに
この日はなんにも言ってくれなかった
それでもホノボノとした静かな朝で
お父さんの朝のおつとめも始まらない
――と私は思っていたのです
なんと悲しいことでしょう
人間というものが
なんでもかでも知っているように思ったりどんなことでも考えることができると思ってる
そういう人間のゴーマンさがですの
ホントはたかが二つの目と耳としか持たず
たかがフットボールぐらいの大きさの頭を持っているきりで
見ることも聞くことも考えることも
お猿さんといくらもちがわないのにね
いいえ、人間というものがと言うとまちがいです
この私がです!
この私が椅子に寝て、小さな町に音もなく
冬の朝のおだやかな光がみちみちて
青空にはめこんだ竹の梢を眺めている間に
お隣りとの垣根をはさんで
内のお父さんと隣りの小父さんとの
大喧嘩がはじまっていたのです!
そうです大喧嘩です
今にも斬り合いがはじまるかと思った――
昇さんが私にそう言いました
「なに、僕も夜になってから母から聞いて知ったんだ
母の話では、昨日の朝は天気は良し
まだ木魚の音もきこえないので
ノンビリした気持で
父と母は
垣根のそばの苗木の世話をしていたそうだ
垣根のこちらではお花婆さんが
無縁墓の大掃除をはじめたらしい
ホウキで木の葉をはき出したり
鎌で草の根っこを掘り出したりしながら
例のデンで高っ調子のひとりごと
それも墓石を相手に念仏からお経の文句
無縁ぼとけの故事来歴をしゃべりちらしているうちはよかったが
やがて、今に臭い臭い匂いがして来るから
がまんしにくかろうが、がまんしろの
お金をもうけるためには
あんな匂いをさせてごうを重ねなくてはならないのと
遠慮もえしゃくもない高声だから
垣根ごしに父も母にもつつぬけに聞えるんだ
母は今にも父が怒り出しはしないかと
ハラハラしながら横目で父を見ると
父はお花婆さんの口の悪いには馴れているし
腹には毒のないことも知っているが
さすがにおもしろくは無いと見えて
舌打ちをしてコエだめの方へ行って
コエをかきまわしはじめたと言うんだ
そらそらそら! ほとけさんたちよ
業の匂いがはじまりましたよ
鼻がもげぬように用心するこった!
お花婆さんが声をはりあげる
あんまりだと思って母が垣根の方をヒョイと見ると
思いがけない、君のお父さんが真青な額に青筋を立てて
垣根の方からヌッと首を出して
内の父の方を睨んでいる!
びっくりしてよく見ると
ブルブルふるえる右手に、鎌を握りしめている!
その形相が凄いんだよ!」

「いいえ、あなた、御院主さんは
あんまり天気が良いものですから
その朝はおつとめの前に御自分もお墓の掃除の加勢をしようとおっしゃっていましてね
わたしの後からお墓へおでましになって
わたしから鎌を受取って
草の根なんぞを掘り起していなすったんですよ
そこへあなた、お隣りさんが、人の鼻の先きで
あの腐った匂いをいきなりはじめたんですからね
誰にしたって腹も立ちますよ
そいで御院主さんは立ちあがって垣根から
隣りの畑を見てござらしただけですよ!」
「君のお父さんの形相があんまり凄いので
内の母は、これは今にも垣根を破り越えて来て
親父に斬りかかるのかと思ったそうだ
母はあの通り気が小さくて臆病だし
君のお父さんと内の父との不仲では
永い間、苦にやんで苦にやんで
夢の中でうなされるまでになっているのだから
トッサのうちにそう思うのも無理がないんだ
それでハッとして鍬を持ったまま
父の所へ走って行って目顔でそれを知らせると
今度は父も血相を変えて垣根の方を睨んでいたが
すぐに母から鍬を取って
君のお父さんの方へドシドシと歩いて行って
垣根の前に立ちはだかって
鍬を構えた両手をブルブルふるわせる
君のお父さんの顔は真青で
僕の父の顔は反対に真赤になって
それが鼻と鼻とを突き合わさんばかりに、なんにも言わないで
互いに相手を咒い殺すような目つきをして
睨み合って立っていた!
ちょうどそこへ僕が帰って来たんだよ
僕には何のことやらわからんし
ただ両方のケンマクだけは物凄いので
びっくりして立って見ていたんだ
そしたら、さすがにお花婆さんもドギモを抜かれて
しゃべるのを胴忘れして見ていたっけ
そのうちに先ず内の父が僕の姿を見て気はずかしくなったのか
鍬をおろして顔をそむけた
すると君のお父さんも鎌を引っこめて垣根を離れる
それで、なんのことは無い、犬の喧嘩が立ち消えになったように
なんのこともなくおしまいさ!」

     6

そうやって昇さんは
ふざけたように話すのだけれど
内の父と隣りの小父さんの睨み合いが
どんなにすさまじいものであったか
その目の色を見るとわかります
私は聞いているだけで身内がふるえて来たのです
「馬鹿なものだよオトナなんて!
たかが木魚の音とコエダメの匂いじゃないか
相手をゆるす気にさえなれば
実になんでもないことなんだ
それが、君のお父さんはこの町のお寺さんの中でも
立派なお坊さんで有名な人で
内の父だって俳句をこさえたりして
文句のつけようの無い良い人なのに
そいつが、わけもなしに憎み合う!
どう言うのだろうと僕が母に言ったら
わけは有るんだと母は言うのだ
そうは言っても、くわしいことは母も知らない
母が父の所にお嫁になって来るズットズット以前のことなんだ
だから君の亡くなったお母さんも、まだお寺に来ない時分
もしかすると、君のお父さんもまだこの寺に養子に来る前かも知れない
だからもちろん僕も君も生れるズット以前の話だ
この寺の先々代の住職の坊さんと
僕んちの父の父――つまり僕は知らないが僕の祖父にあたる老人が
その頃この町で流行のように行われた
耕地整理をキッカケにして
あの竹藪のこっちがわの境界線のことで
ひどい争いをしたと言う
それもホンの長さ十間ばかりの間、幅が二尺か三尺
坪数にして僅か十坪ぐらいを
自分の畑だ、おれの地面だと言いつのって
どうにも決着がつかぬままに
裁判にまで持ち出したけど
もともと両方とも先祖から持ち越した土地のことで
どちらの物と決められる証拠はなし
裁判所でもウヤムヤになってしまった
それ以来、君んとこの先々代と僕の祖父は犬と猿のようになってしまい
僕んとこではそのうらみを僕の父に受けつがせ
君んとこではそいつを先代に、先代はまた君のお父さんに吹き込んで
ズーッとつづいているそうだ
母が言うには
毎年毎年、春と夏はそれほどでもないけれど
秋になってくると、おかしなことに
お父さんと隣りの院主さんの争いが激しくなって来る
そして冬になって寒くなると、表立っていさかいはなさらないけど
両方で自分の家でふくれながら
先方をそれはそれは憎みなさるんだよ
いつものことなので少しは馴れっこになったけど
どう言うのか戦争がすんでからこっち
また一年一年とひどくなって来てね
この分で行くと、お前も見たように
どんなことがはじまるかと思って私は気苦労でしかたが無い
戦争が終って民主主義とやらになって
自分自分の慾が強くなって
人間みんな喧嘩早くなったのかねえ
――母はそう言う、馬鹿な話さ!
そいで母と僕とで、それとなく
もうそんな争いはやめにしてくださいと言うと
父は、自分はやめる気でも相手がやめないから仕方がないと言うんだ
どうして毎朝毎朝いりもしない木魚を
おれをからかうように叩くんだと言うんだ
君のお父さんはお父さんで、きっと似たようなことを言うにちがいない
自分がやめる気でも相手がやめない
毎朝毎朝、こちらが嫌いと知りながらコエの匂いをなぜさせる
喧嘩を売る気があるからだ、と言うにきまっているんだよ!
木魚の音が先きかコエの匂いが先きか
どっちもどっちで相手をとがめてキリが無いのだ
馬鹿は死ななきゃ治らないと言うけれど
ほかのことでは賢い父とこちらの小父さんが
二人で向い合うと馬鹿の中でも一番の馬鹿になる
そうだ、死ななきゃ治らないものなら
いっそ二人で斬り合いでもなんでもやって
殺し合って死んでしまえばいいんだよ
しかしね、光ちゃんよ
君と僕とはその馬鹿の子供同士だけれど
父親たちの争いを受けつぐのだけはごめんだね
どんなことがあっても
たとえどんなことが起きたとしても
君と僕とは仲良くしようぜ
いいね光ちゃん、げんまんだぜ!」

そう言って昇さんはニッコリしながら話すのだけど
本気で言っていることは涙ぐんでる目つきでもわかりました
私は一人になってから胸が痛くなり
ボロボロと涙が流れ出してとまりません
私はぜんたいどうすればいいの?

     7

「私はぜんたいどうすればいいんです?」と
私は父に言ったのです
その晩、夕食もすみおつとめもすみました父が
毎晩の例になっているように
寝る前のいっときを
私の枕もとに来て坐ってからです
「え? 何のことだえ?」
「いえ、昇さんも言うんです
ほかのことではあんなに賢い、良い人なのに
両方が寄ると、どうしてこんなに馬鹿げたことで争うのだろうって」
「昇君が? なんのことだ?」
「お父さんと隣りの小父さんのことです」
「今日のことかね?」
「いえ、今日のこととは限らないの
ホントにホントに、ねえお父さん
もう争いはよしてほしいと思うんです
私がこんな生意気なことを言ってはすみませんけど
ぜんたい、どういうわけで、内とお隣りは仲が悪いんですの?」
言いながら涙が流れてしかたがなかった
父は何か強い言葉で言いかけたが
私の顔をヒョイと見ると
言葉を切って、急に黙りこみ
永いことシンと坐っていました
その末にヒョイと立って本堂の方に行って
やがて何か大福帳のような横長にとじた
古い古い帳面を持って来て
私の枕元にドサリと置いて
まんなかどころを開きました
「お前がそこまで言うのならば
わたしもハッキリ話してあげよう
いずれお前もこのことはちゃんと知っていて
この寺を末始終、守ってくれなくてはならぬ人間だ
よくお聞き、どうして隣りの内と仲たがいをしたか
いやいや、と言うよりも、どんなに隣りの内がまちがっているか
これ、ここにちゃんと書いてある!
これはこの寺の名僧として名の高かった先々代の住職
その方が書き残した過去帳だ
それ、ここを読んでごらん
ひとつ、当山敷地のこと」
その筆の文字はウネウネと曲りくねった漢字ばかりで
私には一行も読めません
それを父は昂奮した句調で説明してくれるのですが
何やらクドクドとして、一つとしてハッキリとはわからない
なんでもその住職の若い時分は
隣りとの地境もハッキリしていなかったし
ことに竹藪の向う側あたりは
この奥の村のお大尽の土地の地つづきで
荒れ果てた林であったのを
そのお大尽がこの寺に寄進したと言うのです
その時にちゃんと測量でもすればよかったのだが
昔のことで唯、山林二十なん坪とだけで
登記も正確にしたかどうか
とにかくそれ以来寺の土地として捨ててあったのを
間もなく、その時分のお百姓だった隣りの家で
種芋や苗などの囲い穴を作るから
その山林の一部分を貸してくれと言うので
さあさあと気持よく貸してやったと言うのです
それ以来、別に地代も取らないが
隣りの家から季節季節の野菜などを届けたようだ
それから十五六年はそれですんだが
耕地整理の測量で、地境をハッキリさせることになった時に
隣りの内で、その土地を自分の内のものだと言い出した
それでこちらでは以前そのお大尽の野村さんから寄進された土地だと言うと
いや、その後、その野村の旦那から
金や貸借のカタに受取ったものだと隣りでは言う
隣りの内の先代というのが
鶏の蹴合いバクチの好きな男で
ホントのバクチも打ったらしい
そこへ野村という大地主がやっぱり闘鶏にこっていたから
もしかすると勝負の賭けにあの林をかけて
隣りの先代に取られたのかもしれないがね
しかし証拠もなんにも無い話だし
野村の旦那もとうの昔に亡くなっていて
誰に聞こうにも聞く人もない
とにかく久しく当山の土地であったものを
そんなアヤフヤなことで隣りに渡すわけには行かないとことわると
さあ隣りの先代がジャジャばるわ、ジャジャばるわ
嫌がらせやら、おどかしやら、果ては墓地に入りこんで乱暴をする
どうでバクチでも打とうと言うあばれ者のことで
することがむちゃくちゃだ
当山の住職も、最初のうちは、たかが荒れ地の十坪あまりのことだ
次第によっては黙って隣りに進呈してもよいと思われたそうだが
しかし隣りのやりくちがあんまりアコギが過ぎるので
そんなことならこちらもおとなしく引っ込んではいられないと
いち時は檀家の者まで騒ぎ出して
えらい争いになったそうだ
その後、裁判沙汰にまでなったが
ついにウヤムヤになってしまって
それ以来、隣りの内と当山の先代から今に至るまで
この問題は持ち越されて来ているんだよ

(……それなら、だけどお父さん
お願いですから、お隣りの内で言う通りにしてて下さい
現にお父さんだって、たかが十坪ぐらいの土地は惜しくないと言ってるじゃないの
お願いですから、きれいに土地をさしあげてお隣りと仲良くして下さい……)
と私は言いたかったのだけれど
しんけんに喋り立てている父の顔を見ていると
とてもそうは言えません
父としては古い古いゆいしょのあるこの寺の土地を
たとえ一坪でも半坪でも
自分の代になってから減らしたくない
今となっては死んでもゆずりはしないという目の色です
その父がだんだん私には気の毒に見えて来る
ガンコなようでも、ほかのことではとっても人が好くて
お母さんが亡くなってからは私のために奥さんももらわず
まだ五十六だのに歯が抜けてしまって、ひどいお爺さんみたいになって
私という病気の娘と二人っきりよ
かわいそうな、かわいそうなお父さん!
私にはなんにも言えないの
それで黙って涙を流れるままにしていたら
それを見て父は喋るのをパタリとやめてしまいました
……竹藪を冬の夜風の渡るのがサラサラと
かすかに、かすかにして来ます
父の目にも涙がにじんでいるようです
やがて、しゃがれた低い声で
「風が出て来たようだな
光子、足が寒くはないかえ?」
とポツンと言いました
返事をすると泣き声が出そうなので
私が黙ってかぶりを振ると
父も黙って毛布をかけてくれました
その次ぎの日の明けがたです
私は三時ごろに一度目がさめて
まだ早いのでウトウトしているうちに
またもう一度グッスリと眠りこんだらしくて
その物音が耳に入っても
はじめはビックリもなにもしませんでした
遠くでパリパリパリッとはぜる音につづいて
誰かがキャァと叫んでから
なんとかだぁっ! と男の声でどなる声
それから表の街道の方から
多勢の人が駈けて来る気配がする
どうしたんだろうと思って、あたりを見ると
いつも隣りに寝る花婆やの姿が見えないのです
変だと思って
いつもフスマを開けた次の部屋に寝る父の寝床の方を見ると
これも大急ぎで起きたと見えて
フトンは蹴りのけてあって、父はいない
どうしたのだろう?
何がはじまったか?
私の頭には、昨夜のことがあったせいか
いきなり父と隣の小父さんが喧嘩をしてる
そのありさまがパッパッと電気のように現われて
垣根のところで父は鎌を小父さんは鍬をふりかぶり
両方とも顔から首から血だらけにケガをして
ケモノのようにたたかっている!
いけない! いけない! いけないと
起きあがろうとしてもギブスをはめた身は
どうしても起きあがれない
お父さん! 花婆やっ! お父さんっ!
誰か来てっ!
もがき苦しんでいる間も
表の騒ぎはやみません
どこかでしきりと井戸水をくみあげる音もする!
わーっ、そっちだ! あぶないっ!
ウォーッ! と男の人たちの声々!
バリバリバリッと何かのこわれる音!
ああ、どうしよう?
お父さんが殺される!
早く来てっ! 誰でもいいから早く来てっ!
畳に爪を立てるようにもがく!
そこへ出しぬけに窓の雨戸をガタン・ゴトン・ガラリと押しのけ
障子をサッと開けながら
「光ちゃん、光ちゃん、どうした?
おれだよ、昇だ、大丈夫だよ!」
昇さんは目をギラギラと昂奮した顔をして
頭から肩からグッショリと水に濡れてる!
しかし直ぐハッハと笑って見せて
「光ちゃん、心配しなくてもいいよ
一時はどうなるかと思ったけど
もう大丈夫だ、ハハ
おれ、光ちゃんのこと思い出してさ
どうしてるかと思ったもんで駆けて来た
やっぱり小父さんも婆やさんも光ちゃんのこと
置いてきぼりで行ったんだな、ハハ
しかしもう大丈夫だ
安心したまい、光ちゃんよ!」
「ああ、昇さん、いったいどうしたの?
またうちの父とお宅の小父さんが喧嘩したんでしょ?」
「え? 喧嘩?
ハッハハ馬鹿な! 喧嘩なんかじゃないよ!」
「ですから、あたしには何のことやらサッパリわからないんじゃないのよ?
さっきからの騒ぎ
表のオコシヤさんの角の辺に聞えたけど
一体全体どうしたの?」
「あ、そうか、そうだな、光ちゃんにはわからないのが当然だ
そうなんだよ、オコシヤで火事を出したんだよ
オコシヤの裏の工場でアラレを作るんで
あんまり火を燃しすぎたと見えてね
釜場の裏のハメ板が加熱しちゃって
不思議じゃないか、そっちの方は燃えないで
そら、僕んちの物置がすぐあの裏に立ってるだろ
あの物置の草屋根の下から燃えあがったんだ
その火を一番最初に見つけたのが誰だと思う?
こっちの花婆ちゃんさ
ハッハ、耳は遠いが目は早いんだね
暗いうちに、はばかりにでも起き出したか
お宅の本堂のわきから表を見ると僕んちにカーッと火がついてるんで
「火事だあっ!」と呶鳴って
いきなりハダシで飛び下りて僕んちの背戸へ来て火事だ火事だっ!
叩きおこしてくれたんだよ
父も母もびっくりして飛び出して見ると
物置の草屋根がパチパチと音を立てて燃えている
夢中になって裏の井戸から水を運んで
さあ、ぶっかけた、ぶっかけた!
オコシヤさんからもみんな出て来て井戸からバケツのリレーなんだ
花婆さんもみんなを呶鳴りつけながら水をくむ
なんとうまく行ったものか
たちまち火は消しとめたんだ
そのころになって、やっと誰かが電話してくれたと見えて
町の消防車が駆けつけてくれたけど
もう用がなくて、やれやれさ!
ところがね光ちゃんよ、おどろくなよ
そうやって火を消しちゃって
まだブスブスとくすぶっている背戸のところで
みんながやっとホッとして息を入れながら
お互いに顔を見合わせてみたら
バケツ・リレーの先頭に立っていたのが、お宅の小父さん
光ちゃん、君のお父さんだったんだ!
花婆ちゃんもリレーの中にいるし
二人とも寝巻のままで水と汗とで
グッショリ濡れて変なかっこうさ!
僕んちの火事に
君んちの小父さんがその姿で
死にものぐるいで火を消していたんだよ!
内の父も母もそれを見ると
急にお礼の言葉も出て来ない
目を白黒させてモグモグ、モグモグ
そうすると君んちの小父さんもバツが悪くなったのか
モジモジと真っ赤な顔をして
目ばかりグリグリさせているんだ!
そのコッケイなありさまと言ったら!
内の父と君んちの小父さんが仲の悪いのを知っている
オコシヤの小父さんも
火事の煙でまっくろにすすけた変な顔をして
ジロジロと両方を見くらべているんだ
ねえ光ちゃん、人生は輝きだよ!
これが人間のホントの姿さ
どんなにふだん喧嘩をしているようでも
ホントのイザとなると助け合うのだ
君んとこの小父さんは、やっぱり偉い坊さんだよ
僕んちの父だって今までのことを恥じたに違いない
これからは、きっと、君んとこの一大事には
理屈ぬきで駆けつけるだろう
みんなみんな良い人間なんだよ
これをキッカケにして君んとこの小父さんと
僕の父とはスッカリ仲良くなるにきまってる!
太鼓判をおすよ僕が!
よかったね光ちゃんよ!
手を出せよ、握手をしよう
ね、人生に栄光あれだよ!」
そう言って昇さんは私の手をにぎって振ってくれるのです
うれしくてうれしくて私は胸がドキドキして
なんにも言えず昇さんの手を握ったら
それがビッショリ濡れている
私は急に昇さんの顔が見えなくなりました

     9

だけど私たち人間の喜びは
なんとはかないものでしょう!
昇さんの言った人生の栄光は
ホンのつかの間の幻よ
人間はそうかんたんには救われない!
それから二三日たった朝
父の朝のおつとめの木魚が鳴り出しても
隣からコエダメの臭いがして来ないので
私はホッとしていたら
やがて臭いが流れて来た
すると木魚の音が乱れはじめて
コエの臭いは鼻がもげそうになって
しまいに本堂の方でガタンと言って
木魚の音がやんだかと思うと
お父さんがドシドシと足音をさせて外に出て行った
カンカンに怒ったお父さんがその足で
垣根の所に行って、いきなり首を突き出して
隣りの小父さんの方を睨みつけたと言うのです
――後で昇さんから聞きました
すると隣りの小父さんも気がついて
その日は鍬こそ振りかぶらないけれど
内の父の睨む目つきがあまりに憎々しいので
小父さんの方でも次第に喰いつきそうな目でにらむ
そのまま二三十分も両方で突っ立っていた末に
昇さんのお母さんがこちらに向っておじぎをしてから、小父さんの袖を引いて家に連れ込んで行ったので
やがてお父さんも本堂にもどって来たと言うのです
それ以来、またまた以前と同じように
三日にあげず睨み合いの喧嘩です
ああ、ああ、なんと言うことでしょう
火事騒ぎであれだけ我を忘れて
力を合わせることができたのに
もとのもくあみとは、なさけない!
お父さんにしてからが
そうやって喧嘩をしているのがホントのお父さんか
隣りの火事を消しに駆けつけたのがホントのお父さんか?
「どちらもホントなんだよ、光ちゃん
いいや、僕としては火事を消しに来てくれたのが
お宅の小父さんのホントの姿だと思いたいのさ
しかしね、垣根から内の父と睨み合ってる小父さんの真青な顔を見ていると
冗談でできる顔ではないからね
それもウソだとは思えない
つまり、どちらもホントなんだよ
内の父にしたって同じだ
火事のことでは君んちの小父さんに感謝してるんだ
そして、やっぱり良い人だと言ったようなことを言ってたんだ
それがあの調子で君んちの小父さんを睨みつけるんだもの
どっちもがウソでは無いんだよ」
昇さんはそう言うのです
「だけど、それでは私にはわからないわ」
「そうさ、僕にもわかりはしないよ
しかしそうなんだから仕方がないさ」
「オトナは、すると、みんな気が変なのじゃないかしら?」
「そうさ、そうかもしれんなあ
しかし、やっぱり父も小父さんも気ちがいじゃないしなあ」
そう言って昇さんは苦しい苦しい表情になって
「もしかすると、アメリカとソビエットが
事ごとにいがみ合ったり原爆競争をしているのも
デカイことと小さいことの違いこそあっても
これと同じようなことかも知れんなあ」と言いました。
「そうなの、そうなの!
実は先日から私もそれを考えていたのよ!
もともと両方とも良い人たちなのよ
そして何が善いことで何が悪いか
ちゃんと知っているのよ
それがお互いに相手のすることにいきり立って
カッとなってやり合うのよ!」
「しかし、それにしたって、やっぱり、わけはわからないのよ
話し合ってすべてのことをうまく片づけて
仲よくできないことはないのに
それをしないで張り合っている
やっぱりオトナは気が変だよ!」
そうして私と昇さんは互いに顔を見合ったまま
永いこと永いこと考えこんでいたのです

     10

それから私は考えつづけていました
しまいに頭が痛くなりました
すると三四日してから昇さんがヒョックリ現われるとイキナリ
「光ちゃん、やっぱり両方ともホントなんだ」
と言うのと同時に私が
「昇さん、私はこうしたらいいと思う」と言うと
両方がぶつかり合って
二人で笑ってしまいました!
「え? 喧嘩をしないでやって行ける法があるの?」
「いいえ、やって行ける法とは言えないかも知れないの
しかしね、私はこう思ったの
両方のどちらか
自分の方が相手よりも強くて賢いと思ったら
そう思った方が相手に負けてあげるのよ
自分よりも弱い者や[#「者や」は底本では「音や」]愚かな者と喧嘩して
勝っても自慢にはならないでしょう?
だから負けてあげるのよ」
「すると相手からぶたれてもなぐられてもかね
相手からののしられても踏みつけにされてもかね?
なるほどそうすれば喧嘩は成り立たないから、平和になるだろうが
しかし、どちらかがそうできるかね
君んちのお父さんにしても内の父にしてもさ
ソビエットにしてもアメリカにしても、でもいいや
できるかね、それが?
それができれば世話はない
それができないから、今のようになっているんだ」
「すると昇さんはどうすればいいと思うの?」
「だから両方ともホントで、それが人間と言うものだから
どうすればいいかわかりはしないよ現在は
しかし光ちゃん、ぼくらは祈ることはできるんだ
祈ると言って悪ければ、花婆ちゃんの言う念仏をとなえると言ってもよい
つまり希望を持ちつづけることなんだ
人間は結局はそんなに馬鹿ではない
そのうちにはキット自分たちのこんな愚かさに気がつくと思う
ね光ちゃんよ!
君と僕とは希望を持ちつづけよう!
そして、いついつまでも仲良くしよう!
たとえどんなことが起っても
たとえ君のお父さんと僕の父が
どうにかして斬り合いをしても
君と僕とは希望を捨てず
いついつまでも仲良くしよう!」
「ええ、そうしましょう!
どんなことがはじまっても仲良しよ
だってホントに仲の良い人が
地球上に一組でも二組でもいるかぎり
昇さんのお父さんと私の父も
けっきょくは仲なおりができるだろうし
ソビエットとアメリカも仲良しになることができるわ
その可能性がある道理だわ
仲良しよあなたと私、昇さん!
さあ、ゲンマンしましょう!」
そうです子供らしいと笑いなさい
そうです子供のように二人とも
ゲンマンしながら頬笑んでいたけれど
心はシーンと、まじめでした

それから昇さんがイタズラそうにニコニコしながら
「しかしね光ちゃん
僕らは新らしい時代の若い者だ
古い人たちの落ちたワナに落ちてはならんのだよ
旧い人たちの中には、こんなことから
男と女として仲良くなってしまって
恋愛なぞをはじめる人もいるが
僕らはそうなっては、あかんのだよ
恋愛は恋愛、仲よしは仲よしだよ
なぜこんなことぼくが言うかと言うと
いつか内の母がきげんの良い時にぼくをつかまえて
「お前にお嫁さんもらう時には
おとなりの光子さんのような
気立ての良い子がいいね」
と言って、からかったことがあるからだ
母は本気でそれを望んでいるのかもしれんのだよ
だから君んちの小父さんと内の父の不仲を
よけいに苦にやむのかな、ハッハハ!
いいかい、光ちゃん、それからね
親と親とが仲が悪いと、そのためにかえって
逆に子供と子供が恋愛に落ちることだってあるんだぜ
いつか「ロミオとジュリエット」と言うのを読んだことがあるだろう?
あれさ! あれもワナだよ
裏返しにしたワナだよ
気をつけようぜ、光ちゃん!
僕は光ちゃんが大好きだ
将来、光ちゃんが丈夫になって
僕たちは互に好きになって
僕は君にお嫁になってくれと申しこむことがあるかもしれない
その時はその時で、今は今だ
これは別々のことなんだ、いっしょくたにはしまいね!」
「ほんとうよ、昇さん
よく言って下すったわ、私もそれを言おうと思っていたの
昇さんの言う通りだわ
私たちはワナに落ちてはならないわ!」

それからも毎日毎朝
昇さんは私のところに来てくれます
内の父は木魚を叩き
昇さんのお父さんはコエダメをかきまわし
花婆やはとんきょう声でブツクサと喋りちらし
昇さんのお母さんはいろいろなことで心配ばかりしながら
昇さんは花作りのかたわら学校に通い
そして私のカリエスはすこしずつ、すこしずつ良くなってると先生がおっしゃって
そしてラジオで教わるフランス語は
短い文章の訳読に入りました

父と昇さんのお父さんの喧嘩は
相変らず続きながら
やがて春が近づきます
そらそら、今も木魚の音がしはじめたから
やがてコエの匂いが流れて来るでしょう
私には笑えてくるのですよ
ビヤン! フランス語では、それも結構と言うのを、そう言うのよ

昇さん、これで私の長い長い詩はおしまいよ

     エピローグ

私は祈ります
深い冬の空に向って
どうぞ私から希望をとりあげないで下さい
私の合わせた掌がすこし揺れる
竹藪の竹の梢もすこし揺れる
杉の梢と椎の梢がかすかに揺れる
それがみんな冬の陽に静かに光りつつ
祈っています
合掌して祈りながら
空に向って揺れています





底本:「三好十郎の仕事 別巻」學藝書林
   1968(昭和43)年11月28日第1刷発行
初出:「婦人公論」
   1957(昭和32)年4月号
入力:伊藤時也
校正:伊藤時也・及川 雅
2008年12月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について