浮標

三好十郎




時…………現代
所…………千葉市の郊外
人間…………
 久我 五郎(洋画家。三十三歳)
    美緒(その病妻。三十三歳)
 小母さん (四十四歳)
 赤井源一郎(五郎の友人。三十歳)
   伊佐子(その妻。二十三歳)
 お貞   (美緒の母親。五十一歳)
 恵子   (美緒の妹。二十八歳)
 利男   (美緒の弟。二十六歳)
 比企 正文(五郎の友人。医学士、三十七歳)
    京子(その妹。二十五歳)
 尾崎 謙 (小金貸。三十八歳)
 裏天さん (家主の荒物屋。四十八歳)
 酔つた男
 少年
 少女 1
 同  2

1 家で


 海添ひの村の一角に建てられた旧さびれた借家を庭の方から見た所。
 上手から下手へ座敷(病室)、三畳の玄関、六畳の居間、その前に廊下、廊下を通つて湯殿、便所の順序で、何の曲もなく一列に細長い平屋。上手は垣根を隔てゝ隣家、下手は便所の角を曲つて裏木戸へ通ずる。庭には二三本の樹とこはれかゝつた藤棚と、少しばかりの草花。
 夏の末のよく晴れた正午前。遠い沖の方を通る船の汽笛がボーツと響いて来る。……四辺はジーンとする程静かだ。

 美緒が、病室の前の縁側に据ゑられた静臥椅子の上に横になつて、ウツトリしてゐる。中形の浴底の[#「浴底の」はママ]胸にはでな色の大きな経木製の海水帽を抱いてゐる。患つても顔はあまり痩せぬたちで、どちらかと言へばフツクラとして顔色も良いし、チヨツト見には病人のやうには思はれぬが、実は第三期の殆んど重態と言つてよい位の患者である。よごれぬ白足袋を穿き、身だしなみ良く、白い柔かい顔を縫取つてゐる[#「縫取つてゐる」はママ]ユツタリとした束髪。永い間の病苦にさいなまれ尽した末、それに抵抗する事の不可能なことを知つた結果、普通とは反対に、極めて無邪気な幼児の様に柔順な明るい人柄になつてしまつた。時々、自分の眼の前に在るものを透して遠くの物を眺めてゐるような虚脱状態を呈することがある。
……そのまゝで、永い間。

小母さんの声 (此処からは見えない台所で)……ふえゝ! まあま、出しぬけにビツクラするぢやないかいな! いつもその通りですなあ、あんたはん! 声も掛けんと、だまあつて入つて来てヌーと突立つておいやす。ホンマに……(あとはハツキリ聞えなくなる。この小母さんは、かなりひどいツンボのために、口の利き様がスツトンキヨウに高調子だ。京都生れだが、中年から大阪や東京や田舎などに移り住んだせゐで、いろいろな言語が混り込んで、不思議な京都弁になつてしまつた。誰か台所口に訪ねて来てゐる声がゴトゴトする。それを相手に喋つてゐるらしい)……アツハハハ、ハハハ、そんな事お言ひやしても、私はツンボーではおまへんで、ハハハ、どれどれ、なにが有るか見せとくなれ。ホウ!
美緒 ……(その方へ耳を澄ましながらニコニコしてゐる)
小母さんの声 ……(ハツキリしないまゝに続いてゐたが、再び聞えはじめる)そないな片意地な事言はゝると、お嫁さんの世話してあげまへんえ! こゝの奥さんの生徒さんには、綺麗な方がターンとお居やすからな、今度めお見舞ひにおいなした時に、あの魚屋さんチヨイとオツな若いしやなと見染めなしたお方が有つても、私、だまつてゝなんにも言つてあげまへんえ! えゝか?
青年の声 (それまでゴトゴト言つてゐたのが、ハツキリする。)小母さんに逢つちや、かなわんのう!
美緒 ……(クスクス笑ひ出してゐる)
小母さんの声 な! そんな、あんたはん見たやうな青年団がケチケチするの、見とむないぜ。青年団は青年団らしくイサギようしなはれや、な! 日本国は今、非常時どすえ! チヤンとすべき時が来れば、チヤンとしますからな! この間、大臣さんもラヂオで、そう言つてはりました……(あとはハツキリしなくなる。尚、互ひに押問答をしてゐるらしい)……
(間)
小母さん (下手を廻つて庭へ出て来ながら、裏木戸の方を振返つて)大丈夫、お嫁さんの事は、私があんじよう世話してあげますよつて、安心しておいなれ。ハツハハハ。(右手に鮮魚の大きいのを一尾ぶら下げてイソイソと美緒の方へ。質素だが、まだ上品な美しさを残してゐる様子が、小母さんと呼ばれるには少しふさはしく無い位の人柄である。京都の旧家ママ人となつて、その後、種々の不幸に見舞はれ、今、かうして半ば好意から旧い知り合ひの此の家に働きに来てゐる身分である。眼をズルさうに輝かしながら)ヘツヘヘヘ、奥さん、これ、見なはれ!どうや!
美緒 ……(両手の指を全部パツと開いてビツクリした事を示す)
小母 これで今夜のおさいがでけた。三枚におろして、サシミを取つたり残りをおツユにしてあげまつさ。
美緒 ……? (手真似で魚はいくらしたと訊ねる。唖かと思はれる位に手真似の会話に馴れてゐる。絶対安静中は声を出してはいけないと命じられてゐるし、又、此の小母さんに聞える位に大きい声を出すことは彼女には既に困難になつてゐるのだ)
小母 これで八銭どす! 十五銭と言ふたのをチヤツと八銭でまき上げてこましたわ。凄腕どすやろ!
美緒 ……(うれしがつて拍手をして見せる。しかし銭のなかつた事を急に思ひ出して、心配さうに指で丸を作つて見せて、代金はどうしたと訊ねる)……?
小母 へ? アハ(と手を大きく振つて)大丈夫、大丈夫! そないなものミソカでよろし。
美緒 (非常に低い澄んだ声。この時だけで無く彼女の声は始終ひどく低く小さい。高く大きな声はもう出ない)だつて、小母さん、あの魚屋さんには、もう二ヶ月も払ひが溜つてゐるんぢやなくつて?
小母 (美緒の言葉は耳に入らない)そんなもんミソカでよろしおす。これ位のことグズグズ言ふやうでは、あきうど冥利に尽きますえ。
美緒 ……(手で小母さんの片方の耳を引つぱつて自分の口の近くへ持つて来て)……だつて、あのね、あの魚屋さんには、もう二ヶ月も溜つてゐるんでせう?
小母 へ? へえ。なあに、二ヶ月位が、なんどす! 三十円や四十円、みんながみんな払はんと逃げ出しても大事おへんわ! それ位の儲けは此の二年の間にチヤーンとさせてありますがな!
美緒 だつて、そんなわけには行かなくつてよ。
小母 奥さんは、そないな心配せんと置きやす。余計な心配おしなすから、五郎はんに年中おこられはる。ええか! お金なんぞ全体なんどす? 有る所へ行けば、いくらでも有りますがな。今に五郎はんがターンと絵を描きはつて、トクマン円でもなんでも儲けて来てくれはりますがな。
美緒 ……(嬉しさうに、しかし同時に寂しさうに微笑んでゐたが、やがて湯殿の方に眼をやる)
小母 クヨクヨしたら、あかん! 奥さんは大々名にならはつた気でソツクリ返つて空でも眺めて暮してゐなはれ。五郎はんはこんな綺麗な海水帽も買うてくれはるし、奥さんが心配なさる事など、なんにもあれしまへん! さうどつしやろ!
美緒 うん……(耳を引つぱつていた手で小母さんの頭を撫でる)
小母 (自分も左手で美緒の腕を撫でゝやりながら)さうどすえ! 威張つてゐなはれや。そしたら、あてが此の弁で以てな、魚屋でも米屋でも、裏天はんでもベラベラとだまくらかして、あんじようしてあげまつさ。向うが、何かウダウダ言ふても、あてはツンボーどすよつてに、なんにも聞こえへんのどつせ。太平楽どす。アハハハ。
美緒 小母さん、ありがたう……。(涙)
小母 なんどす? ……ほらほら、又、泣かはる! それがいかん! 五郎はんおこられはるぜ。コラアツ!(眼をむく)
美緒 ……ハツハハ(こらへてゐたが笑声を出してしまふ)
小母 アツハハハ、かうどすやろ?
美緒 ……(クスクス笑ひつゞける)
小母 ハツハ、さ、お午の支度や。……だが、なんだすなあ、近頃兵隊さんチヨツトもお見えになりまへんな? 兵隊さん見えんと五郎はん、なんやら寂しさうにしてはります。どうぞなさつたかいな? もしやすると、いきなりもう出動なさつてしもたんではないやらうか?
美緒 さうぢやないの、今度の日曜あたり見えるさうよ。東京から伊佐子さんも来るさうだから、此処で赤井さんと落合ふ事になるわ。
小母 どすかいな? でもいくらお上の事でも、それぢや、あんまりではないかいなあ。
美緒 いえ、だから、この日曜には赤井さん御夫婦が来て下さるのよ。
小母 どすかいな? でも日曜日に、東京の御親類の皆さんがお見舞ひなんぞに来て下さるのも、もうよろし! 皆さんがお見えると、後、奥さんがキツトお加減が良う無いのどすさけ。(話がトンチンカンになつてしまふ)
美緒 さうぢや無いの、あのね……(自分の声では話が通じないのでガツカリして、再び小母さんの耳を引つぱりにかゝる)あのね、兵隊さんは、此の日曜に……。
 言つてゐる所へ、湯殿のガラス戸が、ガラツと開いて、運動シヤツ一枚にサルマタ、手拭で向ふ鉢巻をした久我五郎が出て来る。一仕事終つた後のホツトした気持で何か旧い外国の民謡を唸るやうな声でハミングしながら。両手はポスターカラアで汚れ、顔や胸から汗がタラタラ流れてゐる。湯殿をアトリエ代用にして絵を描いてゐたのである。しつかりした骨組の男で、善良で神経質らしい顔。たゞ眼の光と、頬のかげが、極めて強い偏執性をたゝへてゐるのが、時に依つて善良さや神経質の感じを裏切つて、非常にしつこい、動物的なシブトさを現はすことがある。栄養不良と絶え間のない心労とのために、肉体も精神もひどく痛めつけられて居り、殆んど、ドタン場に追ひ詰められた野獣の様なあはれな有様だ。しかもそんな自分の状態を美緒に気取られまいための努力が永い間続いて来たために、美緒の眼の前では明るく呑気で平静であり、それだけに、その反動で美緒の居ない場所ではイライラと神経質になり、表情も言語動作も激しく動物的なものに変つてしまふ。その変り方も変り目も彼自身は意識してゐず、全く自然に行はれてゐるが、はたから見てゐると変化があまりはげしい対照をするために、まるで別人を見るやうな感がある。
小母 (美緒が湯殿の戸の開いた音でハツとそちらを見るので、その視線を追つて)あゝ、こらいかん! お仕事をすましはつた。
五郎 (廊下をドカドカ歩いて来ながら)こら! また喋つてゐたな!
小母 (首をすくめて、逃げ腰になりながら)奥さんはなんにも言ははらんのどす。私だけが、兵隊さんの噂をしてゐたのどすえ。
五郎 (美緒に)チヨツト油断をしてゐると直ぐにベラベラやり出してゐる。食事前の時間は、喋つてはいけないと、あれだけ言つてゐるのが解らんのか。
美緒 ……(手真似で喋りはしなかつたと打消しながら、子供が叱られたやうに眼をオドオドさせてゐる)
小母 ホンマに、お喋りをして居たのは私だけどすえ。
五郎 (しきりに弁解してゐる小母さんの右手で鮮魚がブラブラしてゐるのを見て)どうしたんです、それ?
小母 生きのえゝ魚どすやろ? 魚屋の若いしから買うたのです。お嫁さんと引つ代へこにな。
五郎 お嫁さん?
小母 ハツハハ。ほい、しもた! 御飯の支度がしつぱなしや! (ごまかして小走りに台所へ去る)
五郎 (それを見送つてゐたが)……ホントに俺の言ふ事を聞かないと、張り倒すよ。
美緒 だつて私、そんなに話はしないんだもの……。
五郎 (遮つて)返事はしなくつていゝ。嘘をつけ。たつた今笑つてゐたぢやないか!
美緒 だつて――。
五郎 返事はしないでいゝと言つたら、馬鹿め。……今お前にとつて食慾と咽喉をチヤンとした状態で保つと言ふ事がどんなに大切かと言ふ事は知つてゐるだらう?
美緒 ……(うなづきながら、手拭を持つた手を伸して、立つてゐる五郎の首や胸の汗を拭いてゐる)
五郎 小母さんはお前の気を浮き立たせようと思つて面白い事を喋つて呉れてゐるんだ。それはわかる。小母さんは良い人だ。しかし、蛇の黒焼が一番どつせなぞと言ふ人だもの、科学的には全然無智なんだよ。そこはハツキリ区別してゐないといけない。お前までが小母さんの調子に乗つて安静を破る法は無いんだ。
美緒 ……(クスクス笑ひ出す)
五郎 なんだ!
美緒 ……(五郎のヘソの辺を指す。そこにはポスターカラアのとばつちりがコテコテくつついてゐる)
五郎 (うつむいて見て、苦笑)フフ、今日は少し能率を上げたからな。五枚描いた。好文堂の金庫から一金拾円がとこチヨロマカした次第だ。
美緒 でも湯殿は暑いでしよ?
五郎 なに、あれで丁度いゝんだよ。うん気で以てカーツと頭へ来た所で描きまくる。
そこへ、今度は居間を通つて小母さんが用意の出来た大型の膳を運んで来る。
小母 へい、御馳走どすえ! そこであがりまつか、庭へ出まつか?
五郎 こりや甘味さうだ。ホーレン草がよく有つたなあ。どうする庭へ出るかい?
美緒 ……(コツクリをする)
五郎 小母さん、すみませんが椅子の方を――(と美緒の肩と両脚の下に手を入れて、ソーツと抱きかゝへる。小母さんは椅子をかゝへて、庭の樹の下へ運んで日蔭に据ゑる)
美緒 ……(海水帽を指して)あれを――。
五郎 いゝぢやないか、陽は当らないよ。
美緒 うゝん、かぶるの。……かぶるのよ!
五郎 しようが無えなあ。小母さん、それ取つて。
小母 へ? へいへい、奥さんの大事な大事なシヤツポや。(取つてかぶせてやる)これ、かぶらはると飛んだ別嬪はんに見えまつせ。
五郎 (庭へ下りて、美緒の身体を動揺させぬ様に運んで行きながら)そら!
美緒 ……(帽子の下でニコニコしながら)軽くなつた? 重くなつた?
五郎 さうだなあ。昨日よりも八匁だけ重くなつた……。(ムツと怒つたやうな顔になつてゐる。美緒の身体がひどく軽いのには、馴れつこにはなつてゐても、その度に何かドキリとする気持を押しかくすのに努力を要するのである)やれ、どつこいしよ!(美緒を椅子の上に静かに臥せ、腰から下を毛布でくるんでやる)
美緒 ……きれいな空! (シミジミと空に見入る)
五郎 (近くの椅子代りの石油箱を引きずつて来て腰をかけながら)あんまり仰向くとクシヤミが出るぞ。(小母さんが縁側から運んで来た膳を自分の膝の上に受取る)……今日は僕が食はせますから、小母さん先きにやつて下さい。
小母 でも、あんたはん、お疲れどす。
五郎 なあに、小母さんこそ腹が減つたでせう。僕あ、まだあんまり空かんから。ユツクリ食べて下さい。
小母 さうどすか? ぢやま、お先きにいたゞきま。又、喧嘩せんやうに、仲良う、ターンとおあがりやす。(笑ひながら台所へ去る)
五郎 寒くは無いか? もう少しくるんでやらうか?
美緒 ……なんて良い人でせうね、小母さんは。
五郎 良過ぎる。……だから、あゝして不仕合せだ。(食物をスプーンや箸で美緒の口へ持つて行つて養つてやりながら)
美緒 (食物をユツクリ噛みながら)私はさうは思はないわ。小母さんは結局、一番幸福な人よ。
五郎 ……お前をシンから好いてくれてゐるんだね。こないだ、お前のタンが詰つた時、いきなり口をつけて吸ひ出してくれたにや驚いた。伝染するなんてまるで考へてゐない。ありがたいけど少しありがた迷惑だ。止めようと思つても止める暇もありやしないものな。……自分の娘みたいな気になつちやつてるんだな。
美緒 娘以上よ。……私なんぞ、小母さんが居てくれなからうもんなら、トツクの昔に死んぢまつてるわ。
五郎 ……へん。お前より、俺の方が先きに死んぢやつてら。
美緒 ……(五郎の顔をママヂマヂ見守つてゐる)……ホントにあなたも、少し休養して頂戴な。痩せたわ。
五郎 俺は少し痩せて良い男になるつもりだ。蓮池あたりの娘さんや後家さん連中を少し唸らしてやる。
美緒 どうぞ。
五郎 お前は本当にしないが、これで仲々もてるんだぞ。二三日前も市場の角でタマネギを買つたら、あすこの娘さんがリユツクサツクの中に一つだけ余分に入れて呉れた。奥様がお悪くつちや、お大変ですわねえと言ふんだ。ホロリズムは利いてゐる。あれは、もう一押しで物になるね。
美緒 御遠慮なく、押してね。……でもどんな娘?
五郎 それ見ろ。べつぴんだぞ。惜しいことに、少しビツコでね。
美緒 フフフ……。(笑いながら軽く咳く)
五郎 そらそら、もう黙つて。……噛みやうが、まだ足りない。フレツチヤリズム、フレツチヤリズム。呑み込まうと思ふからいけない。自然にノドに流れ込むまで噛むんだ。そら今度はハムだ。
美緒 ……頤が、だるい。
五郎 口を利くな。生きてるんだから、頤ぐらゐだるいよ。……一切れのハムを十度噛めば十カロリー、百度噛めば一万カロリーだ。……一万は少し多過ぎるかな。いづれにしても、等比級数的に栄養は増すんだ。……医者の薬はあまり効かず候。小生の病気に最も有効なる療法は、うまい物を噛みに噛んで貪り食ふ事にて御座候。あまり噛むせゐか、近頃にてはどの歯もどの歯も欠け落ちて口中満足なる歯は一本も無き程に候。……子規居士に俺は賛成だな。……お前なんか、歯は全部満足にそろつてゐる。大したもんぢやないか。(養つてやりながら、美緒が噛んでゐる間を、退屈させまいとポツリポツリと話しつゞける)……なんだ、今のは、せいぜい三十度位だつたぜ。
美緒 ……(せつせと噛み込んでゐたが、息苦しくなつてハアハア言ひながら)……チヨツト、ストツプ。
五郎 苦しいのか? ……室の中で食つた方がよかつたかな。空気が少し荒い。……(美緒が首を横に振る)……タンか? (美緒がコツクリをする。五郎、チリ紙を出して、美緒の口に附けてソツと取つてやる)……一分間の休憩、チエツ、まけてやらあ……(言葉とは反対に眼はジツト注意して病人の様子を見てゐる……間)
美緒 ……(少し楽になつて)いやんなつちやうな。
五郎 なにが?
美緒 だつてさ、あんまり噛んでると、食べ物みんな、口ん中でうんこになつてしまやしないかな。
五郎 バ、バ、馬鹿な! 馬鹿を言ふな。
美緒 でもヒヨツとそんな気がする事があつてよ。口ん中が黄色くなるやうな気がするの。そしたらもう駄目。
五郎 さう言へば、小さい時そんな話を聞いた様な気がする。或る所に馬鹿がゐたが、それが食事のたびにシキリと何か考へ込んでゐる。その内に時々ヒヨイと居なくなるから、どうするかと思つて付いて行つて見たら、椀のメシを便所へ持つて行つてママうり込んでゐるんださうだ。……どうせしまひにはさうなるんだから、食べて身体を通すだけ無駄な手間だと言ふんださうだ。……お前も段々その馬鹿に似て来たわけだ。
美緒 えゝ、どうせ私は馬鹿よ。……だからかうして、あなたの仕事を一寸きざみに食ひつぶしてゐるんだわ。
五郎 なんの話だい?
美緒 ……あのね。……私、こんなに御馳走を食べなくつたつてヘイチヤラだから、時々はあなたホントの絵を描いてよ。
五郎 又はじめた。……子供の絵はホントの絵ぢやないのか? ……そりや、描けば金になるから俺あ描いてゐる。それでいゝぢや無いか。……しかしそれだけぢや無い、美しい絵を描いてそれが絵本になれば、日本中の子供がそれを見るよ。……金儲けだからヤツツケ仕事をする気は無いんだ。又、そんな事は俺にはとても出来ない事はお前も知つてゐる筈だ。俺あこれでも本気で描いてゐるんだ。
美緒 ……知つてるわ。だけど……だから、ホンの一月に一枚でもいゝから、油で制作をして欲しいの。
五郎 ……純粋絵画の価値に就て、俺あ疑ひを持ちはじめてゐるから駄目だね。美とは全体なんだい? ……描けば描けるよ。しかしそいつを、誰が何処で見るんだい? 詰らんよ。そんな時代ぢや無い。
美緒 ……うん……だけど、私が見たいのよ。あなたがコツテリと油で描いた風景かなんかを、私が見たいの。それならいゝでしよ。
五郎 お前が見たいんなら描く。その内に描いてやらあ。……だが、お前の言つてゐるのは嘘だ。俺に制作をさせたいために、わざとそんな事を言つてゐるんだ。
美緒 ……だつて、あなたは、天才だと言はれた画描きよ。……私もさう思つてゐるわ。
五郎 それ見ろ、それがお前の本音だ。……お前なんかに何がわかるもんか、天才なんてナンセンスだよ。世の中に天才なんて有るもんぢや無い。ありや形容詞だ。
美緒 ぢや、唯の才能と言つてもいゝわ。それをあなたは殺さうとしてゐるのよ……。
五郎 へん、そのセリフの一番最後にお前が言はうとして言はなかつたセリフを俺が言つてやらうか? 「私のために」と言ふんだ。へつ、しよつてらあ。お前なんぞのために、誰がどんなものでも殺すものか。亭主に犠牲を払はせてゐると思ひ、それを済まない済まないと思つてゐる事で以て、二重に良い気持でゐる病身の妻。……そんな気の良い役を自分だけで取らうというのはチツと虫が良過ぎるよ。もう今では、天才や才能なんかは死なゝきやいかんのだ。しかしそれは細君の病気の中やなんかで死ぬんぢやなくつて、今の時代の中でだ。そんな物はみんなぶち殺して、人民の中に叩き込まなきやならんのだ。叩き込んで、もう一度鋳直さなきやならんのだ。……今、日本は戦争をしてゐるんだぜ。
美緒 ……この近くだけでも、もう二人出征した人があるわね?……すまないと思ふ……それに何だか考へるたんびに、怖くなつて、私、身内が顫へ出して来るわ。
五郎 ……お前も戦争をしてゐるんだ。お前もぢやなくつて、お前が戦争してゐるんだ。他人の事ぢやない。顫へ出すなんかと言つて、自分だけは病人だから責任は負はないでいゝなどと思つてゐると大変な量見違ひだぞ。まして、食物を噛むのがいやだなんて、怪しからんよ。クソになつたつて石になつたつてなんだい。……さ、食べよう。(再び食物をスプーンで養つてやりはじめる)
美緒 ……(黙つて噛みながら涙ぐんでゐる)
五郎 (それを、わざと無視して)……そら、ホーレン草。……あゝ、この土曜に目黒診療所の比企さんがやつて来るさうだよ。今朝手紙が来た。……日曜には赤井達が来るし、利男君も来るだらうし、賑やかになる。
美緒 ……比企先生?……さう?
五郎 なんでそんな変な顔をするんだ? いやか?
美緒 うゝん。だけど……あんた手紙を出したの?
五郎 うん、こないだ。あんまり御無沙汰してゐたからね。
美緒 ……私の身体、又、そんなに悪くなつた?
五郎 なんだい? なにを言つてゐるんだ! 俺が来てくれと言つてやつたわけぢや無いぜ。向うで避暑に来たいと言ふんだ。
美緒 だつてあなた、今頃になつて、避暑なんて、変ぢやないの?
五郎 邪推するのもいゝ加減にしないか。診療所が忙しくつて、みんなのキマリの休暇が今迄遅れてゐたのが、やつと土曜から三四日取れたから見舞ひかたがた行きたいと言ふんだよ。お前の病気に医者を呼ぶ必要が起きたら、そんな卑怯な真似を俺がするか。現に比企さんの妹も一緒に泳ぎに行くからと言つて来てゐる。
美緒 ……京子さんは、声楽の方はまだなすつてゐるのかしら?
五郎 さうらしいね。
美緒 ……そいで、夜具はどうするの? 二組なんて内には無くつてよ。
五郎 いや、此処は駄目だよ。そこの臨海亭にでも泊つてもらうさ。先方でもそんな積りらしい。
美緒 ぢや前もつて臨海亭に頼んで置かないと……。
五郎 なに、もう客は無いから大丈夫だよ。……でも、とにかく後で、さう言つとこう。
美緒 (噛みながら)……御飯すんだら、又、万葉集読んでね。
五郎 でもお前、俺の解釈を笑ふぢやないか。
美緒 ……だつて、をかしいんだもの。……でも万葉の歌と言ふのは、好きだ。……私にだつて解るわ。……歌なんて私には解らないと思つてゐたけど、この頃、わかるやうな気がする。……聞いてると、とてもいゝ気持よ。
五郎 ぢや、後で読んでやる。……万葉こそは俺達の故郷だと言ふ気がするな。……どうだ寝てる間に全部あげて、病気が治つた時は万葉学者になつちまうか? ハハ、ところが、その歌の解釈が全部まちがつてゐたつてね。なあに、それでもいゝんだよ。古典には色々の解釈が有つていゝわけさ、ハハハハ。
 玄関の奥(入口)に二個の人影が立ち、その中の一人はズカズカあがつて来る。これは美緒の母親で、大変上品で立派な顔形と、それと激しい対照をなすひどく粗野な表情動作を持つてゐる。他の一人は、あがらないで、一度下手奥へ消へて、下手から庭伝ひに出て来る。母に従つて東京から見舞ひに来た美緒の妹の恵子。母親にも姉にも似ない線の鋭い尖つた顔を、ドーラン化粧で塗り上げ、よく伸びた身体に表現派模様を藍で染め上げた着物に草履。
恵子 (姉夫婦から少し離れた所に立つて)……やつて来たわ姉さん。どう、具合は? (美緒はニツコリしてうなづいて見せる)
五郎 やあ、いらつしやい。遠い所を、どうも――
小母 (居間で母親と挨拶を交してゐる)これは、これはようおこしやす。(母親も何か言つてゐるが此処からハツキリ聞えない)
恵子 すばらしい食堂ぢやないの。これならウンと食べられるでせう。(シガレツトを取出してセカセカと吹かす。此の女は肺病の伝染を極度に恐れるために、此処に滅多に見舞ひに来ないし、稀れにやつてきても家の中へはあがらうとせず、姉からズツと離れて庭先に掛けて欲しくも無い煙草を引つきりなしにスパスパとふかしてゐる。今もそれである。美緒も五郎もそれに気付いてゐるので強ひてあがれとすゝめもしない。美緒は肉身の者達からこんな風に扱はれる事には馴れてしまつて、一々反感を感ずる事は無くなり、たゞ遠い所に住んでゐる人を見るやうな冷静な無関心な微笑を浮べて黙つてゐるばかりである。五郎の方は、それに気付いて不快に思ひつゝ、しかしその不快さを表に出すとそれが美緒に反射して苦しませる事を恐れて、複雑に気を使つてゐる)
五郎 先日は利ちやんにあんなに沢山バタをことづけて下さつて、すみませんでした。ズーツとあれで間に合つてゐますよ。此処ぢや、あんな良い奴は手に入りません。(美緒に養つてやりながら)
恵子 どういたしまして。雪印と言ふのが近頃みんな外国へ行つてしまふとかで、捜してもなかなか無いのよ。亀屋に二つ三つあつた中から、ヤツと分けて貰つたんですの。無くなつたら又送つてあげるから、姉さんウンと食べるといゝわ。
美緒 ありがたう。……でもそんなに送つてくれなくともいゝのよ。ちつとも不自由はしてゐないから。
五郎 津村さん御元気ですか?
恵子 えゝ、なんですか会社の方が、又役が一つふえたもんだから、とても忙しがつて。一度あがらなくちやと言ひ暮してゐるんだけど、つい失礼しちやつてて。よろしくと言つてゐました。
美緒 又着物こさへたのね。……変つてて綺麗だこと。
恵子 さう? 姉さんに及第すりや大したもんね。お友達と一緒に下絵を選んでわざわざ染めさせたの。物が何だか判らない所がミソなの。チヨツト大した物みたいでしよ。実は安物よ。津村はケチで駄目。
小母 (盆に茶椀を載せて持つて来て恵子に)ようおこしやす。どうぞ――。
恵子 小母さん、いつも大変ですわね。
小母 へえ、今日も良いお天気で。天気がえゝと奥さん此処で御飯あがれますので、気分良うて、助かります。お茶を一つ。
恵子 どうぞお構ひなく。私、ちつともノドは渇いてゐませんから。
小母 (聞えず、盆を突き付けながら、恵子の姿を眺めまはして)へえ! いつもキレイにしてゐやはりますなあ。
恵子 (盆を避けながら)ありがたう。いゝえ、いゝんですの。たくさん。
美緒 ……(ニコニコしながら)恵ちやん、その茶椀は煮立てゝ消毒してあるから大丈夫よ。おあがんなさい。
五郎 (少しギヨツとして)美緒、お前……何を言ふんだ。
恵子 (バツが悪くて)いえ、そんな積もりぢや無いのよ。タバコ吸つてゐるから。……ぢやいたゞくわ。(と茶椀を取つて暫く持つてゐるが、結局飲まないで話の間に縁に置いてしまふ)……久我さん、画は描いてゐらつしやるの? ソロソロ、展覧会のシーズンですわね?
五郎 え? あゝ、いや、あまり描きませんね。
恵子 さうね、これぢや描けないでせうね。惜しいわ、あなた程の人を。
母親 (室から出て来て、庭におりる。五郎立つて黙つてお辞儀をする)……オヤ、オヤ、まあ、利男は姉さん具合が悪いやうだなんて言つてゐたけど、何を言ふんだらうねえ、まあ。血色も良いし、なんだか此の前よりも太つたやうぢやないか。さうでせう、五郎さん? (恵子と同様に、美緒の傍へは寄りつかうとしない)
五郎 えゝ、いや、利ちやんは、気が早くつてどうも……(返事に困つてゐる)
母親 なに事も気のもんですからねえ。ね、恵子、この前よりも姉さん太つたぢやないか? この分なら、なあに、直ぐによくなりますよ。
美緒 (相変らずの母親の粗雑さにウンザリしながら、仕方なしに)さう、太つたでせう? 今にお母さんより太つて見せるから……(笑はうとするがベソをかいた様になつてしまふ)
母親 熱はどうなのかね? まだ有るの?
五郎 有るにや有りますけど、大した事は無いんです。……(膳を椅子のスソに置き、椀を二つばかり持つて立つて行きながら)僕、おかはりをついで来るぜ。(台所へ去る。そこで小母さんと二人でゴトゴト何かしてゐる)
恵子 (見送つて)五郎さんも大変だわねえ。
母親 さうさ。良くなさるよ。ふだんが偏屈なだけに、なんでもやるとなるとわき目もふらずやる事になるんだねえ。美緒さんも仕合せだよ、ね!
美緒 ……(母や妹にアツサリ夫を褒められるのが気に入らない。あなた方に五郎の事が何がわかるものかと言ふ気がある。冷笑を浮べて)さうかしら?……さうでも無いわ。随分乱暴な時もあつてよ。私が大きな声で喋つたりしてゐると、いきなりガーンと頭をやつつける事があるのよ。フフ。
恵子 だつてそりや、姉さんを大事にしてゐるからぢや無いの?
美緒 ……だつて、真青になつて怒鳴るわよ。
恵子 私なんか、そんなの、うらやましいな。津村なんか何か気に入らない事が有つても、私の事と言ふとニヤニヤニヤニヤしてゐるの、きらひ。五郎さんは画の方の仕事だつて犠牲にしちやつて、かうして姉さんの看病に没頭してゐるんだもの。偉いと思ふわ。さうぢやなくつて? 姉さんは仕合せだわ。こんな――。
美緒 ……(安つぽくベラベラと自分と五郎の事が喋られるのに次第に腹が立つて来て、イライラして来る。イライラしはじめると、彼女はその白い美しい両手の指をチラチラ動かしてハンカチや毛布や着物の襟など、手の届く物を取つたり離したりするのである。……妹の言葉を遮つて、いきなり別の事を言ひはじめる)そいで、今日はお揃ひで、どんな用事で来たの?
恵子 え、用事?……まあ。勿論お見舞ひだわ。母さんが来ると言ふから、私も暫くごぶさたしてゐたし、そいで――。
美緒 さう。……(母に)母さん、国の方の不動産の事でせう?
母親 えゝまあ、それも有つたけど。……利男が何か言つたのかい?
美緒 利ちやんは何も言ひません。……でも母さん此の前にもチヨツトそんな事言つてたし、……此の間から五郎に何度も手紙をよこしたのは、その事なんでせう?
母親 私の手紙をお前も読んだのかえ?
美緒 読みはしないけど。……五郎は手紙が来た事だつて言はないんです。……たゞ私がそんな気がしただけ。
恵子 (若いだけ母よりも敏感で、姉が底の方でかなり昂奮してゐる事を見て取つて)いゝぢやないの、母さん、来るさうさう、姉さんまだ御飯を食べてゐるのに、そんな話は後にしたつて。
母親 えゝ、そりや何も急ぎはしないけどね、キマリを付ける所だけは早くキマリを付けとかないと、利男だつてもう直ぐお嫁を貰はなくちやならない身体だから……。
 言つてゐる所へ、五郎がお代りの椀と、それに更に新しいお茶の皿を持つて台所から出て来て庭に下り、美緒の傍に来る。
美緒 そりやさうだわ。だから私――。
五郎 なんだ?……なんの話?
母親 いえね、こないだ中から言つてよこしましたね、名古屋の方の例の――。
五郎 (ハツとして、相手をさへ切つて)いや、それは、後で僕が詳しく伺ひますから、なんですよ、とにかく、美緒が飯を食つちまつて、それから、(美緒に)今度は豚とタマネギだ、うまいぜ。これが先刻のべつぴんの一件さ。アハハ。どうしたい?
美緒 ……(毒々しいやうな眼付きで、母親の方を睨んでゐる)
恵子 ……私達、海岸を歩いて来ようかな。(此の場の空気を取りつくらはうとして立上る)
母親 (鈍感のために他の三人の気持がわからず、却つて皆の調子が変になつたのにキヨトンとして見廻して)どうしたんですよ? 私はたゞ――。
美緒 (眼は母をまだ見詰めながら言葉は妹に)えゝ、さうなさいよ。海岸の方なら、病気が伝染る事は絶対になくつてよ。(神経的に二つ三つクツクツと笑ふ)
恵子 直ぐそんな風に取るのね、姉さん。ひどいわ!
五郎 美緒! (と妻のブルブル動いてゐる左手をグツとママへつけて)さ、食へ、うまいぞ。(箸に食物をはさんでやる)
美緒 ……(まだクスクス笑ひながら)ビツコのタマネギね? フ、フ、私もビツコになつたら、どうしよう? (食べる)
母親 ビツコのタマネギとは何の事ですかね?
美緒 (ついにこらへ切れず、低いが鋭い声で)母さん、母さんはいつとき、あつちへ行つてて頂戴!
五郎 ば……(と箸を持つた手でゲンコを作つて、美緒の顔を今にも殴らんばかりに構へる)黙れ! 黙つて食へ、馬鹿! (尚も母を睨まうとする美緒の顔を、手ではさむやうにして自分の方へ向かせる)
母親 なんですよ? ……やつぱり、なんですねえ、病気になると神経が強くなるからねえ。よつぽど気を付けないとねえ……。お医者は近頃なんて言ふの? やつぱりなんぢやないかね、いくら大学病院は有ると言つたつて、やつぱり田舎の大学ですからねえ。東京のお医者に代へた方がよくは無いかしらねえ。……とにかく、こんど良くなつたら、生活が苦しいのに散々無理をして託児所をやつたりするなんてえ物好きはフツツリよすんだね。お前が病気になつたのも、もともとそのセヰなんだから――。
五郎 (美緒にそれを聞かせまいとして)もつと噛むんだよ! 今のは足りなかつた。今度は卵だ。さあ、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二、……(続ける)
母親 アツハハハ、卵を噛むのを勘定してやるんですか、まあねえ、ハハ。
美緒 ……(既に自分でも母親に気をとられまいと、歯を食ひしばるやうにして五郎の眼ばかり見て噛みつゞける)
小母 (縁側へ出て来て)……あのう、五郎はん、お客さんどす。(玄関の方を指す。なるほど人影が一つ立つてゐる)
五郎 え? 誰です?
小母 あのう、東京の尾崎さんどすけど。……あがつて貰ひまつか。
五郎 尾崎君。さうか。えゝと……(少し混乱して、考へてゐる)いや、僕がそちらへ行きますから。……さうだな、(玄関へ向つて大きな声で)尾崎さん、やうこそ……此処ぢや汚なくつてなんだから、失敬だけど、海岸の茶店へ行かうか。チヨツト待つてて呉れ。
美緒 金の事でせう? 此処で話して下すつていゝわよ。私、平気。
五郎 なに、いゝんだ。いづれ奴さんの事だ、ビールでも飲むんだらうから、どつちせ、海岸の方がいゝ。……ぢや、沢山食べろ、いゝか。口を利いたらいかん。(心得て庭に下りて来て食膳を受取つた小母の耳元に)小母さん、直ぐに戻つて来ますから頼みます。美緒に口を利かせちや駄目ですよ、いゝですね。
小母 ハツハハ、あても、喋くりはしませんさけ、大丈夫どす。
母親 私が食べさせてやらうかね。(言ふだけで、離れた所に立つたまゝ、手出しはおろか、近寄らうともしない)
美緒 いゝの。小母さんが食べさせてくれるから。
五郎 (母親に)あのう、話の方は後で僕が、その事は僕がよく伺ひますから、ごゆつくりして下さつて、後で僕が、なんですから――。
恵子 (小さい声で)大丈夫よ、五郎さん、私が居るから、此処で母さんにその話はさせないから……。
五郎 ぢや頼みますよ。(庭を廻つて立去る)
小母 (美緒に養つてやりつゝ)赤かあい顔をなさつて、どうぞしやはつたか?
美緒 ……(顔を横に振つて打消してニツコリする)
小母 ターンとお食べやす。……ハツハ、五郎はんは、なんぼさう言ふてもあきまへん、ハダカのまゝでトツトと表に行きはる。……なんぼ海岸と言ふたかて、今に、おまはりさんに掴まりはつたら目玉を喰うた上に罰金や。
美緒 ……(手真似で、小母さんは食事は済んだかと訊く)
小母 へえ、済んました。……(離れてマヂマヂ見詰めてゐる母親に)奥様、そこに立つておいやすと、まだ暑うおす。おはりなつて、チヨツトお休みやしたら。
母親 (実の娘と小母さんが仲良くしてゐるのを妬みながらも、自分が小母さんほど美緒に近づいて看病してやる勇気は無い。その矛盾した気持を自分で処理しかねてイライラして、小母さんを必要以上に見下げてゐるやうな態度を執る)……小母さんはいつも丈夫でようござんすね?
小母 へえ、奥さんも、この間中暑い頃にはチヨツトお悪うおましたが、近頃メツキリ元気におなりやした。
母親 (美緒に)小母さんの月給はチヤンチヤンと払つて呉れてゐるだらうね。
美緒 ……(返事をしない。もう母や妹に返事はしない決心をしてゐると見えて、しまひまで貝の様に黙つて、噛んでゐる)
恵子 聞えるわよ、母さん。
母親 大丈夫だよ。……でもこの年になつて、耳は遠いし、身寄りもあんまり無くつて、こんな事をしてゐるのは可哀さうな人だねえ。
小母 へ? そうどす。(母親の言葉の一部分が聞えたと見え、ニコニコして)こんなに耳が遠うなつて、もうあきまへん。……(美緒に養つてやる)もつとも、日に依つて、ズツと良く聞える時もあるのどす。変どすえ、なあ奥さん。
美緒 ……(うれしさうにコツクリ)
母親 (美緒に)なんて言つたつけ、気胸療法とかも駄目だつたつて? ……さうかねえ、そりや、その医者がまづかつたんぢや無いかしらねえ? 一回二十円取られて二回やつたさうぢやないか。四十円無駄をしたわけだねえ、ホントに。……さうすると、今やつてゐるのは注射だけなのかい? ……すると、なにかね、お医者の方は、まあ一言で言ふと、差当り手当なんぞしないで、いえさ、見離したとか何とか言ふ事は無いだらうけど、でも此の間来てゐた先生は、たしか四人目の人だろ?……どう言ふのかねえ? 五郎さんが、あんまり気むづかしい事を言ふんで先生達が手を引いてしまふんぢや無いのかねえ?……(美緒が石の様に返事をしないのでしかたなく小母さんに、少し声を大きくして)ねえ、小母さん!
小母 (耳の遠い人の常で、相手の唇の動きをマヂマヂ見てゐたが)へえ、さうですとも。お医者様のお薬なんぞ、あきまへん。ホンマの一時押へだけで、あんなもんで病気は治りまへんえ! 気をシツカリ持つて、おいしい物をターンと食べる事どす。どうしてもお薬飲みたければ、縞蛇を黒焼きにして食べたらよろし。
恵子 蛇を? まさかあ! (ゲラゲラ笑ひ出す)
小母 (自分も笑ひ出しながら)お笑ひやす! でもな、わてが十七の時に肋膜炎患うて、蛇食べて治つたんですよつて、それが何よりの証拠どす。ハツハハ、でもな、ロクマクエンは治つたが、治つた時にほ、髪の毛えが、みんな抜けてしまうてな、キレーに丸坊主になりましてな。尼さんが一人でけました。
恵子 (笑ひながら)そんな非科学的な物、駄目よ小母さん。
母親 蛇なんて、迷信だよ、あゝ。
美緒 ……(小母さんに向つてニコニコしながら、その顔を撫でゝやる)
小母 そうどすえ! えらい精の強いもんどす。五郎はんは、わてがさう言ひますと、目に角を立てゝ怒らはりますけど、わてが生き証拠どすよつて。……もつとも、五郎はんが反対しやはるのは、奥さんを丸坊主にしてしまうのがお嫌やなんどす。わてにはチヤーンとわかつてゐますがな! なあ奥さん。
会話はトンチンカンなまゝで進行する。母親も恵子もそれから美緒までが、それぞれの気持で笑ふ。当の小母さんも美緒が笑ひ出したのが嬉しくつてゲラゲラ笑ひながら、食物を美緒に養つてやりつゞける。
小母 さうどすえ! 奥さんが尼さんになつてしまはるのを、五郎はん、いやがつておいやすのや!
母親 ハツハハ!

2 浜で


 もともと第三流どころの海水浴場で、殆んど設備らしい設備も無い海岸なのが、今は既に真夏も過ぎて、さびれ切つてゐる。
 上手は街道、下手は海、中央は雑草の生えた砂丘が起伏して下手奥の波打際に開いてゐる。街道に添つて、既に店の人の引上げてしまつたヨシズ張りの茶店の一部が見える。時々ザーザブンと低く響いて来る波の音。
 五郎が先刻のまゝの姿で、腕組みをして砂丘の下にあぐらをかいて坐つてゐる。少し離れて長髪に上衣を脱いでシヤツにズボンだけの尾崎が、右手にビールのコツプを持つたまゝ立つて、砂丘の中腹に置かれたスケツチ箱の上の、描きかけのスケツチ板をためつすがめつ眺めてゐる。スケツチ箱の傍には飲み倒されたビール瓶が五六本と、食ひかけのイナリずしの包みなど。それまで五郎と共にビールを飲み、話しながらスケツチをしてゐたらしい。此の男は、金貸しが本業だが、画商みたいな事もやり、暇があれはムキになつて画を描かうと言ふ男で、金貸しと言ふ商売柄から来るズルイ所は時々覗くけれど、全体の人柄に稍々とぼけた様な愛嬌があり、もともと好人物なのであらう。とにかく、坊主頭にしてギリギリに疲れ切つて、特に今イライラときびしい顔付になつてゐる五郎と並べて見ると、尾崎の方がよほど本物の洋画家らしい。

尾崎 ……こいつは、どうも、しくじつたかな? (コツプのビールをカプツと飲む)
五郎 ……(考へ込んでゐる)
尾崎 若干、最初にこの、構図を取りそくなつたらしいや。
五郎 ……(気が付いて、スケツチ板の方を見る)なに、さうでも無いだらう。
尾崎 君がビールなんか仕入れて来て呉れたりするのが良くない。飲んでたら、変な絵になつちまつた。ハツハハ。(ビールの所に戻つて来て坐る)……少しやつたらどう。
五郎 いや、俺あ、いゝんだ。
尾崎 だつていくらも飲んでないぢやないか。たまにや君も少しやつて、ポーツとしないと身体が続かない。
五郎 いや、今あまり飲みたくないんだ。こつちの方がありがたい。(言ひながらイナリずしをつまんでムシヤムシヤ食ふ)考へて見たら昼飯が未だだ。
尾崎 大変だなあ君も。……そいで奥さん近頃どんな具合なんだよ?
五郎 う?……うん。……
尾崎 そんなにいけないのかね?……いや、毛利さんがこないだ言つてゐた。久我んとこの病人の具合が良いか悪いかを知るにや奥さんに逢つて見る必要は無い。久我の眼付きを見りや一遍にわかるつてね。……痩せたよ君は。(ビールを飲む)
五郎 ……あのね尾崎君、……何度も同じ事ばかり言ふやうで済まないけど、もう半月、この月末まで待つてくんないかなあ。頼まあ。月末になれば何とかして、と言つても勿論百五十円そつくりとは行かないが、溜つてゐる利息の分と、元金の中からせめて五十円でもなすやうにするから――。
尾崎 なんだい、君あ先刻から、その事にばかりこだはつてゐるが、僕は今日は催促に来たわけぢや無いとこれ程言つてるぢやないか。そりや勿論、多少でも何とかして貰へれば、僕の方も目下融通が付かなくつて弱つてゐるんで大助かりだが、今日の主眼点はそれぢや無いんだ。
五郎 ……でも水谷先生の方の話は、とにかく、駄目だ。
尾崎 それが僕にはどうしても解らないんだよ。なるほど、久我五郎とも言はれた者が、今更水谷先生の門をくゞつてペコペコするのは不愉快なやうに思ふかも知れないが、水谷先生と言ふ人は、別にそんな人ぢや無いんだよ。それに何といつてもあれだけの大先輩だもんなあ。そりや君としては、今こんな風に言はゞ落目になつてゐる所を、一時君が仕事の上ではまるで弟子の様にしてゐてやつてゐた毛利さんなどの口利きで、水谷先生の所に出入するのは、いやかもわからない。それはわかるよ。毛利さんはズツと以前から水谷先生の所へ行つてゐたんだから、今度君が行けば、どうせ一応は毛利さんの下風に立たなきやならんだらうからね。しかし、そんな事を言つてゐた日にや人間どうにも運命の打開のしようは無いと思ふんだ。毛利さんだつて君んとこに通つてゐた頃に較べると偉くなつてゐるよ。良い画を描くやうになつたぜ。
五郎 ……毛利は、以前から良い画を描いてゐたよ。
尾崎 そら、君は直ぐにそれだ。……大体毛利さんがこの事では君宛に何度手紙を出しても君はロクに返事も出さないさうぢやないか。そいで、手紙ではラチがかないと言ふんで、こうして説き付けに僕をよこしたりすると言ふのも、以前から受けた好意を徳としてゐるからだよ。そんな風にこじれて受取るのは、どうかと思ふんだ。
五郎 ……そいだけの好意が有れば、自分でやつて来たらどうだい? 俺達が東京から此処へ引越して以来、毛利は見舞ひに一度も来やあしないぜ。いや、うらんでゐるんぢや無い。画描きも羽織りが[#「羽織りが」はママ]良くなれば忙しくなるのは俺だつて知つてる。その点はむしろ、俺あ毛利のために喜んでゐる位だ。
尾崎 嘘だ。君はひがんでゐるんだ。そいぢやあんまりケツの穴が小さくは無いかなあ。毛利さんの方ぢや、いつも此方の事をシンから心配してゐるんだよ。
五郎 ……(すなほに、毛利に対して反感を抱いた事を自ら恥ぢて)うん、俺あケツの穴が小さい。近頃益々偏狭になつて来たやうだ。俺あなさけ無いと思ふ事があるよ。……でも仕方が無いんだ。……毛利にはよろしく言つてくれ。好文堂の絵本の仕事だつて毛利が見付けて呉れたんだから、俺が毛利の事を少しでも悪く思ふのは間違つてゐる……俺あ、ホントにありがたいと思つてゐるんだ。それだけで沢山だから、どうかソツとしといてくれと言つてくれ。
尾崎 ……さうかなあ。しかし……結局君がそんな風になるのは画が本当に描けないからだよ。だから、水谷先生の所へ行つて何か仕事を貰つて、金が出来りや道具も買へるし、暇も出来るし、自然――。
五郎 いや、金の問題ぢや無いんだよ。……画が詰らなくなつちやつたんだ。
尾崎 ば、ばかな! 君が、そんな――。
五郎 信じられないだらう。以前には画の虫と言はれた俺だもんなあ。でも事実、さうなんだ。……美緒がね、……実は美緒の事ホンの此間まで、俺は彼奴の病気は治るもんだ、どんな事があつても治して見せると思つてゐたんだ。どう言ふわけだか俺はさう思ひ切つてゐた。……いや、今でも俺はさう思つてゐるけど、でも近頃、ホンの時々、フツと、美緒はもう駄目になるかも知れない、どんなにしてやつても此奴は死んでしまふかもわからないと思ふ事があるんだ。……以前には唯何となく、俺がこれだけ大切にしてゐる奴が死ぬなんて筈は絶対に無いと思ひ切つてゐた。そいつが、つまり俺の本能的な信念が、少しグラついて来た。
尾崎 ……だつて、その事と、画が描けないと言ふ事に、どんな関係が有るんだい?
五郎 ……俺も始めは、関係なんか無いと思つてゐた。……ところが有るんだね。有る段ぢや無い、美緒の事も画の事も同じ所から来てゐるんだ。……つまり何と言つて良いか、生命の力と言ふのかねえ……医学だとか人間の意志の力だとか言つたものも含めてのだよ、この生命と言つたものに対して俺が無意識の裡に抱いてゐた信頼と言ふか信用と言ふか、勿論今から考へると妄信だね、……実は俺は子供の時から、人間がホントに一生懸命になれば、ホントに火の様になつてやれば、どんな事だつてやれない事は無いと言ふ気がしてゐた。それこそ地球を背負ふ事だつて出来ると思つてゐた。嘘ぢや無い、さう信じ込んでゐた。どう言ふわけでさう思つてゐたか、わからん。少し気狂ひじみてゐるかも知れないが、とにかくそんな人間だつた。……そいつが、美緒を見てゐて少しづゝくづれて来た。……いやまだくづれたわけぢや無いが、もしかすると此奴はと言ふ疑ひがチラツと射すやうになつて来たんだ。そのトタンに画を描くのが詰まらなくなつちやつた。……つまり俺の画の一番根本的な要素は、今言つた人生に対するいはゞ盲目的な信頼だつたんだね。美緒の事でその信頼の根本がゆるんだ、……俺の画の根本まで一緒にゆるんぢやつたんだ。……わかるかね?……いや、女房がもしかすると死ぬかもわからない、死んぢまへば画を描いたつて始まらないと言つた風の悲観論では絶対に無いんだぜ。そんな悲観論なんか俺あ持つとらん。まして、女房が生きるか死ぬかの病気なのに画でもあるまいと言つた風のヘナヘナした量見なんかぢや無いんだ。そんな事を感じてる暇なんか俺にや無い! そんな悲観論やヘナヘナ量見とは、まるつきり別物なんだよ。もつと本質的な絶望と言つたやうなものだ。その証拠に、此の春あたり、美緒が毎日喀血して殆んど息もつけないでゐる枕元で俺あ平気で画が描けたんだ。その頃は、此奴は今苦しがつてゐるが今に絶対に助かる、助けて見せると俺が確信してゐたからだよ。……いや今だつて、絶望はしてゐない。してゐないが、でもチラツとそんな気がすると、もういけない。……俺の性格の一番かんじんな所がグラグラしてしまふ。俺が生きてゐると言ふ事の中心が不確かになつて来る。一番大事なものが信用出来ないやうになつて来る。すると画を描いたつて何だと言ふ気がするんだよ。……どうにも仕方が無え。
尾崎 さうか。……でも、そいつは、君が君の芸術を唯無意識に本能的にばかり押し進めて来てゐて、シツカリと自分の芸術の立つべき地盤に就て意識的に……つまり、もつと理知的に考えてゐなかつた点に理由が有るんぢやないかな。
五郎 ……さうかも知れないな。自分ではこれまでも意識的に考へてやつて来たつもりだけど……。
尾崎 君が一頃左翼的な団体に近寄つて行つた事だつて、今から考へると、理智的に思索した結果と言ふよりも、感情的になんとなく弱い者の味方をしたいと言つた風な、言はゞまあ一種のセンチメンタリズムだつた。
五郎 うむ。センチメンタリズムも確かに有つたな。自分に果してあんな所でいつまでも戦つて行けるだけの力が有るか無いかを考へきれなかつた。又は、有ると思ひちがへてゐたからな。徹頭徹尾、自惚れだつた。身の程を知らな過ぎた。その証拠に、あの連中の言つてゐた唯物論なぞと言ふものだつてドンづまり迄突きつめて行くと、僕にや信じられなかつた。……それでまあ、直ぐにおん出てしまつたけど、……考へて見りやどつちにしても、恥さらしな話さ。……しかしね、自分だけの気持は真面目だつた。人間として下劣な動機で以て動いた結果では無かつた。
尾崎 そんな事はなんでも無いさ。具体的な問題としてだよ、現に君は熱がさめちやつたら、いつの間にかあんな団体から手を引いちまつたぢやないか。もつとも団体の方でも解散したり転向したりしちまつて形は無くなつちまつたんだから、手を引くまいと思つても引かざるを得ぬわけで、言はゞ問題は君だけの事ぢや無いんだがね。ヘツヘヘヘ、ヘヘヘ。(突然に笑ふ)
五郎 ……? (それまで自分自身の考へに没頭して、相手の表情などに気付かずに率直に話してゐたが、笑ひ声でヒヨイと尾崎を見て、眼がさめたやうになつて見詰める。――すると、商売がら色々の画家達と交際してゐる間に、いつの間にか自分まで芸術家らしい気持に伝染し、その外貌や用語などは芸術家以上に芸術家らしくなつて来てゐるが、しかし実は唯一個のデイレツタント――と言ふよりも、本質的には唯一人の商人を相手にして今迄自分はまじめに喋つてゐたのだと言ふ事を不意に知つたのである)……何を笑ふんだ!
尾崎 笑ひはしないよ。たゞ、昔、さも確信ありげにプロレタリアがどうしたとかかうしたとかと言つた連中が、自分の言つた事に責任も執らないで、いつの間にか消えて無くなつたと言ふ事を言つてゐるまでさ。
五郎 なんのために君がそんな事を言ふんだい?……今頃になつて君がその事を笑ふのかね? ぢや、君は一体何だ?
尾崎 ……僕は金貸しさ。ハハハ、それがどうしたい? 金貸しは、他人の言葉の責任に就て言つちやならんのかね? まあ、怒りたまうな、ハハ。君も知つてゐるやうに金貸しなんてものは世の中で一番怪しげな商売かもわからんさ。しかし、それでも自分がハツキリ言つた事に就ては責任を執るよ。人が自分に対してした約束も信用する。信用すればするほど、その約束の履行を期待するわけだ。つまり貸した金は必ず返して貰う。
五郎 だから俺は、返さないなんかと言つてやしないぢやないか!
尾崎 結構だ。今僕の言つてるのは、君にしても、左翼の連中にしても以前のイデオロギーで世間に約束した借金をちつとも返さないと言ふ事さ。踏み倒し過ぎるんだ。
五郎 ……一言も無い。……しかし、そんな連中は、その後、世間的には黙つてゐても、自分だけで自分の身体で以て昔の借金をなしくづしに返してゐるかも知れないよ。
尾崎 すると、さしづめ君もその一人かね?
五郎 或る意味ではさうかも知れんな。……あの時代の生活の無理がたゝつて女房は病気になつてるし、俺あ画は描けなくなるし……そんな事よりも人間が生きてゐる事自体に対してこんな風に確信がグラつきかけて来て、死ぬ苦しみをしてゐる。……見やうに依つては昔の自分……昔の自分の生活や物の考へ方から散々に復讐をされてゐる状態だとも言へるからね。……ざまを見ろと言つたテイタラクさ。しかし、そいつは、とうに自分が自分に言つてゐる事だ。君なんかから何か言はれたつてチツともこたへやあしないさ。
尾崎 しかし、そんな有様をみてゐれば、おかしくなるのは、これ、仕方が無いからね、ハツハハ。さうぢやないか? 僕に言わせりや、そんな風に、後になつて自分の事をざまあ見ろと言わなきやならん様な事を自分にさせるものは要するにセンチメンタリズムなんだ。回収の利かない金を、一時感情的にホロリと来て貸してしまふのは、よした方が、いゝと言ふ事さ。
五郎 君の言ふ事を聞いてゐると、俺に君の丁稚になれとすゝめてゐるやうに取れるな。
尾崎 さあね、さう取つて呉れてもいゝや。金貸しと言ふ商売も君が思つてゐるやうに軽蔑すべき商売でも無いよ。第一これが無いと君達が早速困るぢやないか。アツハハハ、いや、これは冗談だがね。要するに、君の才能を惜しいと思ふから、こんな事も言ふのさ。君が昔、左翼の方に近寄りはじめた頃だつて、水谷先生や毛利さんなど君の事を惜しい惜しいと言つてゐたものな。
五郎 (腹の底から怒りを辛うじて押へながら)その事を言ふのは、もう止さう。
尾崎 ……(ハツとして相手の表情を猫の様にうかゞつてゐたが)よせと言へば止すよ。……たゞ現在の君の気持だつて、やつぱり似たやうな一種のセンチメンタリズムぢや無いかしらんと言つてゐるまでだ。君から画の仕事をさつ引けば、一切が無くなるんだよ。一切だよ――。
五郎 君にや、わからん!
尾崎 だつて君……(と尚も言ひ続けようとするが相手が殆んど爆発直前の顔付きをしてゐるのに気付いて、黙つてしまつて、マヂマヂと見守つている。しかし五郎の怒りは直ぐに尾崎からもつと別のものに移つて行つたらしく、尾崎の存在など忘れてしまつて、ギラギラと光る眼で沖の方を見詰めたまゝ、黙つて考へてゐる)
(間)
 街道の方から母親と恵子が砂を踏んでブラブラ歩いて来る。
恵子 ……ああ、こんな所に居たのね?
母親 お客が来るといつでも此処にお連れして話してゐなさるんだよ。美緒の安静をこはさないやうにね。此処が応接室だつてさ。ホツホホホ、ねえ五郎さん。
五郎考へ込んでゐて返事をしない。
尾崎 やあ、こりや、暫くでした。今日はお見舞ひですか。
母親 いゝごきげんですわね。こんな広々した所でお飲みになると、さぞ気持のおよろしい事でせうね。
尾崎 つい久我君がすゝめて呉れるもんですからね、ハツハハ、飲み助は意地がきたなくて。(と恵子に目礼をして、ひどく愛想が良い)えゝと、たしか、津村さんの――?
恵子 はあ。(これまでホンの一度か二度チラツと見たきりの相手があまり馴々しいので、妙な顔をしながら)……いつも義兄達が御厄介になつてゐまして。
尾崎 そ、そんな事をおつしやられると穴にでも入らなきやなりませんよ。なあに旧い友達なもんですから、まあ自分に出来るだけの事をしてゐる迄で――。(母親に)なんですかねえ、御病人がハツキリしないさうで、御心配ですねえ。
母親 はい、いゝえもう、なんですか……ホホホ。(久我が美緒の療養のために、金を借りてゐるらしい此の男にかかり合つてゐると、その借金の責任が自分にもかぶつて来さうなので、相手にしたく無いのである。)……何か御用談でせう? 恵さん、私達は少しその辺を歩いて来ようぢやないか。(歩き出す)
恵子 (描きかけのスケツチ板を変な顔をして見てゐたが)えゝ。
五郎 ……あのう、美緒は飯を食べちまつたんでせうか?
母親 もう済んだやうですよ。でも、あの小母さん、あんなに美緒を笑はしてばかり居て、病気に障りはしないんですかねえ?
五郎 いや、そりや構はないんです。機嫌が良いと食慾がつきますから。
母親 小母さんの月給はチヤンと渡して呉れてゐるんでせうね?
五郎 渡してゐます。……どうしてそんな事おつしやるんですか?
母親 いや、それならいゝんですけどね、なんだかあんまり内輪の人間みたいに、馴々しいと言ふか……。
五郎 さうでせうか? でもあれは美緒をしんから大事にして呉れてゐるんです。
母親 そりやさうの様だけど。……でも美緒も、なんであんなに近頃神経を尖らしてイライラするんですかね。あれぢやまるで話もなにも出来やしないんですものね。(五郎答へない)
恵子 五郎さん、先刻誰か来てゐたやうよ。なんか商人みたいな恐ろしく鼻のペチヤンコの中年の人だつたわ。小母さんが相手になつてチンプンカン言つてたわよ。
母親 いつか来てゐた乾物屋らしかつたぢやないか。
五郎 ぢや裏天でせう。僕が間も無く戻りますから。
母親 でも、あなたとは先刻の話をしたいから、こちらが済んだらチヨツト此処にゐてくれないと――。
五郎 さうですか……。
恵子 (沖を指して)母さん、汽船が通るわ。
母親 へえ、綺麗だねえ、まあ! (と言ひながら二人は浜伝ひに向うへ消える)
尾崎 ……妹さんは相変らず綺麗だな。……なんだい、先刻の話と言ふのは?
五郎 う? ……うん、なあに。
尾崎 めんどうな話らしいぢやないか。そんなら僕あもう帰つてもいゝよ。
五郎 さうか、済まなかつた。とにかく月末まで待つてくれ。必ずなんとかするから――。
尾崎 しかし、なんだらう、何とかすると言つても結局好文堂の仕事を余分にさせて貰ふんだらう?
五郎 うんまあ、それ以外に差当り方法は無いから――。
尾崎 まあ月末にや、とにかく当てにして来て見るにや来て見るつもりだけど、でも僕の方の事だけなら、あんまり無理をしてくれなくともいゝよ。僕の言つているのは、君が毛利さんのすゝめを無にして水谷先生の方をうつちやる事になれば、毛利さんだつてあんまり良い気持はしないだらうし、もともと毛利さんは好文堂では仲々顔が利くらしいから、君のそつちの方の仕事もまづくなるんぢやないかなあ?
五郎 ぢや、仕事をことわるとでも言ふのかい?
尾崎 さあそんな事も無いだらうが、事変以来絵が売れないで困つて内職を捜してゐる画描きがいくらでも居るからなあ。
五郎 ……まさか、あの毛利がそんな酷い事はしないよ。そんな点では彼奴は絶対に信頼の出来る男だよ。
尾崎 さうかね。……でも結局どう言ふんだね、絵本の方は描いて水谷先生一派には入りたく無いと言ふのは、わからんがなあ? まさか、水谷先生が君にインチキ画を描けと命令するわけぢやあるまいし、君の描く画の批評だつてしやすまいと思ふんだが? 又批評されたつて、水谷先生は水谷先生、君は君で、お互ひに一家をなした画家なんだから、自由に仕事をすればいゝぢやないか? 大体、画の仕事の上で、水谷先生位を怖がる君でも無いだらうし、怖がる必要もないと思ふがなあ。君なんぞ、あらゆる意味で水谷清次郎なんか、当の昔に卒業しちやつてるもんな。もつとも先生が今君を欲しがつている理由も実は、そんな君の実力に在るんだが。……とにかく、どんな点から言つても、なんで君が彼処あそこに行くのをそんなに嫌がるのか、僕にやわからん。
五郎 ……俺にや当分画が描けんからだ。
尾崎 だからさ。彼処に行つて金になる仕事を分けて貰へば描けるやうになるぢやないか。先刻言つた本質的な行詰りと言つたやうなものも、周囲の空気で打開出来るんぢやないかしら。君は少し大袈裟に考へ過ぎてゐると思ふんだ。
五郎 ……それに、俺あ、水谷さん嫌ひなんだ。
尾崎 子供みたいな事を言ひたまふな。君が先生を嫌ひな事は初めから知つてゐるよ。しかし、好き嫌ひが何だい? そんな変な事ばかり言つてないで本当の事を聞かしてくれよ。
五郎 ……ぢやね、尾崎君、君も本当の事を聞かして呉れ。俺あ不思議でならないんだ。水谷先生、なんでそんなに俺を欲しがるんだ? 先生は以前に俺の画をクソミソに頭からくさした人だよ。そりや、いゝんだ。世の中にはどんな批評だつて有るから、どんな筋違ひの事を言はれたつて、俺あ構はん。含んでゐるわけぢや無いんだ。たゞそんなに言つてゐた俺の事を、なんでそんなに欲しがるんだか、俺にや腑に落ちないんだよ。
尾崎 そいつは先刻言つた。あの人が君の実力を認めてゐるからだよ。昔いくら悪口を言つたつて、いや、つまり認めてゐたから悪口を言つたわけだが。……いや、君がそこまで言ふなら、モツト本当の事を言つちまはう。もつとも、これは半分以上僕の解釈だから、そのつもりで聞いてくれ。いゝかね。それは、一言に言つちまうと新水会で現在水谷さんの占めてゐる位置のためさ。……君あ多分知るまいが、今新水会の内部は審査員や会員の間の勢力争ひの暗闘で大変なんだ。以前からそりや有つたが、最近文部省展覧会が大々的に組織変へになる筈になつてゐるんだ。それに民間の美術団体も大部分合流する事になつてる。新水会も多分そこへ解消する筈なんだ。ところで、解消する場合、今迄の新水会の頭株の連中が文部省展覧会の中でどんな風な位置を与へられるか。みんなやつぱり、こいつは大事だからね。今迄新水会で威張つてゐたのが、官展になつて急に追ひ落されたくはないやね。第一下手をすると飯の食ひ上げだもんな。それで目下の所、会の中で出来るだけ有利な地盤を固めて置く必要が有るんだ。内部の暗闘が急に盛んになつたわけだよ。ところが、明石、室井、水谷の三頭目なんだが、こん中から官展の審査員に推されるのは多分一人だ。すると、明石、室井に較べると水谷さんは経歴こそ稍々古いけど実際の勢力から言つてチヨツト分が悪いんだよ。人望の点では室井に押されてるし、弟子や支持者を沢山持つてゐると言ふ点では明石さんに劣るしね。第一、門下生に持駒が少い事が一番の弱味なんだ。毛利さんを筆頭に十人以上も息のかゝつた会員が居るにや居るが、毛利さんぢや腕は有つても、少し画が古くなつたしね、何と言つても新しい魅力の有るスタア級の水谷派が一人も居ない。フオーヴやシユールがゝつた連中が二三人ゐるけど、まだチヤチだしね、やつぱり官展になつてから特選級になれるやうな大物で、しかも新しい物の描ける奴が欲しいんだよ。……そいで、君に、そのなんだ、来て欲しいんだと僕は見てゐる。
五郎 ……なる程、持駒か。
尾崎 わかつただらう、どうだい?
五郎 わかつた。
尾崎 僕は洗ひざらひ言つちまつた。今度は君の番だ。なんで君が嫌がるか、本当の所を聞かしてくれよ。
五郎 君が言つちまつたよ。
尾崎 なんだつて?
五郎 ハツハハ、俺が水谷さんの所に行きたく無い本当の理由は、今君がスツカリ話したんだ。水谷さんが俺を欲しがる理由が、そつくりそのまゝ俺が水谷さんの所に行きたくない理由だ。嘘は言はない。俺あ、人の持駒なんかになるのはごめんだ。自分がホントに尊敬してゐる奴なら、そいつの足を俺あ舐めてもいゝ。俺あ未だ未だ画にかけては青二才だ。自分よりも偉い画を描く奴の前にや、いくらでも頭を下げる。しかし水谷さんなんかの画に頭を下げるわけにや行かん。第一、俺あもともとヱコールつて奴がしんから嫌ひなんだ。小さく固まつた一つ一つのヱコールなんて、そんな、そんな事のために男が一生かゝつてムキになつて修業をする価値があつて、たまるかい! 俺あ一個の画描きだ。それで沢山だ! 徒党を組んで押し歩かうと言ふ慾望なんか無い! 野つぱらをたつた一匹で歩いて行く狼でたくさんだ。ましていはんや、そんなくだらない芸術政治や策謀なんか、骨がシヤリになつてもいやだ。ことわるよ!
尾崎 ……ふーん。……そいで、そんな偉らさうな事を言つてゐて、生活はどうするんだい? 金はどうするんだ? 君の言つてゐる事は、現在では自分の生活を拒否すると言ふ結果になるぜ?
五郎 そんな事あ無い! ……万一さうだつたら、俺あ食はなくつたつていゝ。
尾崎 さうかねえ。……しかし、ぢやあ、奥さんはどうするんだ?
五郎 なに?
尾崎 そんなおつかない顔をするなよ。金が無くつて、あの奥さんをどうするんだと言つてるんだ?
五郎 ……。殺す。
尾崎 なんだつて?
五郎 俺が殺す。殺してやる。
尾崎 冗談言ふなよ。第一、僕がたつた今、金を返してくれと言つたら、どうするんだ?
五郎 ……だから、だから、月末まで待つてくれとこれ程頼んでいるぢやないか?
尾崎 勿論、それでいゝと僕も言つている。唯、君が、ひどく古めかしい潔癖さのために不必要な苦しみをなめてゐるから同情してこんなことを言つてゐるんだ。ハツハハ、昂奮するなよ。
五郎 ……いよいよ困れば俺は荷車引きにでも何でもなるから放つといてくれ。
尾崎 同じ事ぢやないかね? 芸術の世界に入り込んで来てゐるいろんな現実も醜いと言へば言へるけど、そんな物をも消化したり吸収したりして芸術それ自体も肥えて行くんだと僕は思ふがなあ。
五郎 知つてるよ。現に俺もそれをやつてる。しかし水谷さんの話は駄目だ。
尾崎 これだけ言つてもわからんのかねえ! ……全体君は人間を見るのにキレイな人間とキタナイ人間との二色にハツキリ区別しすぎるよ。さうぢやないか! 現に君があれ程讃美してゐるツンボの小母さんにしたつて、結局人間だ。つまり、水谷さんや此の僕とチツトも違はない性質を持つた人間だよ。腹ん中にやドブも有らうし、慾も持つてる――。
五郎 (遂に火の様に怒つてしまつた)黙れ! 小母さんはな、俺達からなんの報酬も期待しないで、あゝして身を粉にしてやつてくれるんだ。それをそれを――君なんかが、小母さんの事をどのツラ下げて言へるんだ! 君は唯の金貸しだ! 人に金を貸して高利を取つてゐりやいゝ人間だ! 画描きの真似事をして芸術家ぶつた事を言つてゐるが、それがどうしたんだ! いつでも、君も僕も共通な問題を持つてゐるよ、君の考へてゐる事は僕も考へてゐるよと言はんばかりのツラをしてザコがトトに混つた気でゐるが、ヘドが出らあ! ザコどころか、き、き、君なんかな、人間でも芸術家でもあるもんか! たゞの猿だ、画描きの真似をしてゐる猿だ! なんだ、こんな画が! これで画を描いてゐるつもりなのか! (と下駄でスケツチ板をベリツと踏み破る)画と言ふものはな、借金の催促をする片手間に描けるやうなヤワな物ぢや無いんだぞ! 人間一匹、血みどろになつて、火の様に焔の様に、命を投げ出してかかつて描いても描いても、描ききれないもんだぞ! ツラでも洗つて出直せ!
尾崎 (相手の狂態にびつくりしてゐる)な、な、なんだよ。そんな……そんな僕の画を、そんな事しなくてもいゝぢやないか! 君あ神経衰弱だよ!
五郎 神経衰弱だらうと、気違ひだらうと大きなお世話だ。帰れ! 帰つてくれ! 金は月末に返す。心配しないで、帰れ……(自らの昂奮に疲れ、ハアハア言つてゐる)
尾崎 帰るよ。せつかく好意を持つてやつて来たのに、猿だなんて言はれてさ、あげく、せつかくの画を踏み破られりや世話あ無いや。わあ、真二ツになつちまつた。ひでえよ! (ブツブツ言ひ続ける。でも此の男の性根は、こんな目に会つても、ホントに怒つてゐるのかどうか見当がつかない。顔を悲しさうに歪めて破れたスケツチ板をついで見たりしてゐる)
間。……少し風が出たと見えて波の音が稍々高くなる。
五郎は黙つて家の方へ向つて行きかける。
五郎 ……(砂丘の向うを見て)あ……来やあがつた。
尾崎 なんだい。
 そこへ商人らしい半白の中年過ぎの男がボンヤリした様子で出て来る。これは五郎の借りてゐる家の家主の荒物屋の主人。少しぼけた様な感じがあつて、ノロノと[#「ノロノと」はママ]物を言ふのである。五郎を見てニヤニヤと笑ふ。
五郎 やあ、裏天さんか。
裏天 なあんだ。いくらなんでもシトの目の前で、そんな事を言ふのは、ひでえよ、久我さん。
五郎 なんだよ?
裏天 近所近辺から、内のかゝあまで、さう言つてゐるのは知つてるけど、鼻の先で言はれたなあ、あんたが初めてぢや。ヘヘヘ、いくらわしらの鼻が低いたつて、まだこれでツラの地面よりや、いくらか高えと思うちよるんぢやからなあ。気い悪くするよ。ヘヘヘ。
尾崎 (クスクス笑ふ)ヘヘヘ、ツラの地面より高いは良かつた……(五郎に)近所の人なのかい?
五郎 (裏天に)……いつも済まんけど、もう少し待つてくれんかなあ。
裏天 今、家の方へ行つたが、又あのツンボのおつかあが出て来て、ベラベラやるんだけど、どうにも話が通じねえで困つたぞ。あんなに喋りまくられたんぢや、此方で何か口を出す暇なんか無え。
五郎 済まなかつた。……実は、今、金がまるつきり無いんで、……もう半歳以上たまつてゐるんで実に申訳無いと思つてゐるんだけど……それに荒物の借りも相当溜つてゐるしね。
裏天 なあに、金の無え時あ、誰の身も同じ事だ。クヨクヨしたつて仕方が無え。わしらの所でヒツパクさへしてゐなければ、どうせあんなボロ家だもん、家賃なんか半歳一年溜めて呉れたつて、こんな事言やあしねえよ。……どうも悪い時あ悪い事が重なるもんで、仕様が無えのう。かゝあがヤイヤイ言ふもんだから、かうして来るにや来たけど、まあ久我さん、クヨクヨしたつて始まらねえ、万事なるやうにしかならねえからな。……奥さん大事にしてあげなよ。そいぢや、又……(もう帰る気だ)
五郎 ま、待つてくれ、裏天さん、まあ、待つてくれよ、そいぢや、あんたの方だつて――(気の毒で気の毒で、此方がアワを喰つてゐる)
裏天 又、そねえな事を言ふ。目の前で裏天なんて言ふなて! ヘツヘヘヘ(尾崎に)やあ、……ごめんなして……(ノタノタ行きかける)
五郎 待つてくれ、それぢや、あんたの方も困りやしないかね? そんなムヤミと親切な事ばかり言つてくれたつて、そいで、あんたの方は――。
裏天 やあ、ま、いゝさ。どうにもならなかつたら、首でもくゝつておつ死んぢまうか。ハハハ、なんしろ、町に白木屋の支店のデパートが出来て以来と言ふもん、荒物の店なんかサツパリあかんやうになつてしまうてね、ハツハハ、そこへ持つて来て主な品物の値段が統制されてから此方、店を開けてゐればゐる程損になる月が有つてのう。国策ぢやと言ふから諦めとるが、さて、どんな勘定になるもんか、どうもこんな有様では今にえらい事になりさうなんで、も一月ばかり様子を見た上で、あかなんだら、店じまひをしてしまうて、田舎で百姓しようと思ふとる。さうなりや、あんたに貸してゐる家なども売つて行かなならんが、さてしかし、五段や六段の田でこれから百姓をすると言ふても、うまく行くかどうか心細い話よ。でもまあ、クヨクヨ取りこし苦労をしても始まるめえ。まあ、いゝよ。
五郎 だつて、あれだけにした店を、惜しいぢやないかね? なんとかならんかなあ?
裏天 そりやさうさ。まあ、なんとか此の一月の間に少し整理をして立直したいと思ふとるよ。ところ――が、その一月がもう危くなつて来てのう。なんしろ、銭が五円もなくなつてしまうて、かゝあなんぞもう眼が釣り上つてゐら。こんな事言ふてもあんたらにや本当になるまい。ところ――が、それが本当ぢやから仕様が無え。わしらだけで無く、此処いらん小商人の内幕なんぞ、そんなもんさ。ヘツヘヘ。そんな心配しなさんな、あんとかなるべえ。そいぢや……。
五郎 ま、待つてくれ。そんな君! ……弱つたなあ。そいで、その、現在どれ位金が有つたら半月でも一月でも、その、なんとかして行けるの?
裏天 あゝに、心配しねえでいゝよ、あんたにも無えんだらうが。あんたはこれまで金が有りさへすればチヤンと呉れただからなあ。わしらあ信用してるよ。しかし、無えものは無え。お互ひだあ。
五郎 だから、今、いくら有つたら――?
裏天 いくらかくらと言つたつて、二十円でも三十円でも有りや大したもんさ。んだが、まあ久我さんそんな心配するなよ。アハハハ。
尾崎 (笑ひながら押問答を傍観してゐたが)おい、久我君、僕が出してやらうか?
五郎 え? ……君がか? ……貸してくれるのか?
尾崎 全体、家賃はいくらなんだい?
五郎 一月十五円だから、百円足らず溜つてゐる。
尾崎 十五円とは安いなあ。さうさなあ、(と大きなガマ口を出して)百円なんて今日は持つて来てないけど、五十円ならある。(アツサリ紙幣を取り出して)これを君に貸してやらうぢやないか。なに、此の次に来た時に書類を書き換へて呉れりやいゝさ。
五郎 ……(変な顔をしてためらつてゐる)さうか、でも……。
尾崎 遠慮はいらん。僕としてもこんな話を聞いて知らん顔はして居れないよ。いゝから君――。
五郎 ……さうして呉れりやありがたいが……(決心して)ぢや拝借しよう。これだけ僕の元金の方へ繰込んでくれよ。ありがたう。……(裏天へ)さあ、裏天さん、これを。
裏天 (けゞんさうな顔で尾崎と五郎を見較べてゐる)……いゝのかね? わしら、どつちにしたつて同じやうなもんだから、無理をなすつては、いかんぜ。後であんたがみすみす困るやうな金は貰へんぜ。いゝかね?
五郎 いゝんだ、いゝんだ。大丈夫だから。
裏天 さうかね? ……ぢやいたゞくか。これで助からあ。かゝあ大明神がよろこぶよ。ヘヘヘ、ありがたう……(紙幣を二つに分けて)これは、久我さん、あんた持つてゐな。わしらん所は三十円有りや沢山だで。
五郎 いゝんだよ、俺んとこは今要らんから、いゝんだ。
裏天 困つてゐるのはお互ひだ。さ、これを。
五郎 いゝんだつて言つたら。早く帰つて、おかみさんに渡してやれよ。
裏天 さうかい? 済まんなあ。そいぢや、……どうもありがたう(と当然の家賃を貰つて頭を下げる男である。尾崎に向つても、なんとなく頭を下げて)ありがたうがした。そいぢや又――。(鈍重ながらイソイソして砂丘を越して立去る)
尾崎 ……おつそろしく人の好いオヤジぢやないか。
五郎 (裏天を見送りながら)うむ。……おかみさんが、又、少し足りないかと思はれる位の良い人間でねえ。……俺あ、あの一家族を見てゐると時々泣きたくなる事があるよ。無智は無智なりに、あんな美しい連中が時々居るんだ。ホツとするよ。こんな所でゴタゴタしながら生きてゐるのも、捨てたもんぢや無えと言ふ気がするんだ。……(振返つて)だが……君にや済まなかつた。助かつたよ。ありがたう。
尾崎 なあに、お役に立つて何よりだ。ハツハハ。
五郎 先刻は、暴言を吐いたり怒つたりして済まなかつた。どうも、ひどく疲れてゐるもんだから。たしかに神経衰弱だね。
尾崎 なあに、礼を言はれちや却つて恐縮だよ。言はゞまあ、まあ、これが僕の商売だからな。
五郎 (純粋に感謝してゐたが、相手の言葉でフツと又妙な気がして尾崎の顔を見る)……そんな君――。済まなかつた、せつかくの画を破つちやつたりして……。
尾崎 なあに、いゝよ、いゝよ。ヘツヘヘヘ、どうせ君、こんな画だもの。ヘツヘヘヘ、どうだい、助かつたと君は言つたね? ハツハハ、僕の金だつて君を助ける事が出来るんだね? 僕は君の言ふやうに猿だからな、猿の金だ。今のは猿の金だよ。そいつで君も、今の裏天も助かるんだ。ヘツヘ、俺は猿だ、猿の金だよ。ヘヘヘヘ! (とぼけた様な調子で笑ひつゞける。それが却つて殆んど呪ひ倒すやうに毒々しい感じである)
五郎 ……(相手の気持がわかつて、突然真青になる。しかし今度は何とも怒りようが無いのである。みじめなみじめな姿。両手がピクピク痙攣してゐる)
尾崎 (スケツチ箱をしまひながら)僕あ、猿だよ。ハツハハ。キツ! キツ! キツ! キツとね。ヘツヘヘヘ、ヘヘ。
間。……沖を通るポンポン蒸汽船の響。
 次第に坐つてしまつた五郎。歯を喰ひしばり石の様になつたまゝ、猿の鳴き真似をジツと聞いてゐる。尾崎は又あばれられては困ると思つて横目で、五郎の方をチラリチラリと見て、少しづゝ後しざりをしながら、ヘラヘラ笑ふ。そこへ、母親と恵子が戻つて来る。
母親 やれやれ、砂の上を歩くと、くたびれるもんだねえ……(五郎に)お話は済んだの?
五郎 ……。
尾崎 やあ……済みましたよ。ハハ、済みました。
恵子 (五郎の様子が変なので)五郎さん、どうかなすつたの?
五郎 ……え? いや、あゝ、なに。
母親 そいで、あの、名古屋の地所と家屋の書換への事なんですけどねえ。ねえ、五郎さん(といきなり勢ひ込んで語り出す)……もともと、あれが美緒の名儀になつてゐると言ふのが、死んだあれの父親が散々道楽をして、次から次と家の不動産を金にしちや使ひ込んでしまふもんですからね、このままにして置くと子供達の養育費なんか無くなつてしまふと言ふのでお祖父さんが心配なさつて、父親を言はゞまあ禁冶産と言つた風にして分家させてしまつて、その後へ長女の美緒を戸主に直して、現在残つてゐるだけの地所家屋の名儀人に立てたんですよ。その辺の所は、あんたも知つてゐますね。
五郎 ……えゝ、知つてゐます。
母親 そんなわけだから、初めつから、どうせ利男が大きくなれば、何と言つてもあれが長男だから、地所も家屋もあれに来るのが当然なんだから、早く戸主に直して利男のものにしてやらなきやならない物なんです。それが延び延びになつてゐたのは、書換へには、なんでも六百円以上も相続税やらなんやらかゝるさうで、それが内でも、美緒の病気やなんか次々と物入りで、それだけの現金がどうしても浮いて来なかつたものですからね、それでさ――。
五郎 えゝ、よくわかつてゐます。……そりや利ちやんが受取られるのが当然ですから、どうぞそんな風に――。
母親 それがですよ、利男もあゝして学校も無事に卒業して就職すれば間もなく嫁も取らなきやなりませんしね、そして結局、行く行くは私も利男にかゝらなきやならないし、僅かな物でも、早く片附くところへ片附けとかないと安心出来ませんからねえ。
五郎 ですから、御自由に書換へをして下すつてもいゝだらうと思ふんです。美緒には、少し良くなつたら、僕からさう言ひますから。
母親 このままズルズルして居て、もしかして美緒に万一の事でもあると、当人が居なくなるわけなんだから、又々面倒な事になります。この間弁護士に聞いたんですよ。いえさ、私だつて、どんな事があつても美緒を死なしたくはありません。自分の腹を痛めたかしら娘なんですからねえ。このまゝポツクリ行かしてたまるもんですか。(泣き出してゐる。彼女が娘を愛してゐることは真実なのである)でも人間、老少不定といふ事はありますからねえ。それに美緒が今の様な有様では、あんまり安心しても居れないんですから。(泣く)
五郎 ……(心にズキリと斬り込んで来るものがあるが、黙つてこらへてゐる)
恵子 母さん泣いたりして、エンギが悪いぢやないの、姉さんまだ死ぬものと決つたわけぢや無くてよ、馬鹿ねえ。(と人柄とはおよそ不似合ひな事を言ふ)
母親 だつてさ、近頃の美緒を見てごらんな。あんなに綺麗な顔になつてしまつて。死ぬ病人は綺麗になるもんだからねえ、私あ、あの子の顔を見るたんびに、ドキツとするんですよ。私あ、あれに今死なれたら、今死なれたら、どうして生きて行けるんだか。……ホンにならうものなら私が身代わりになつて死んでやりたいよ! ホントに! (泣く。これは全く正直にさう思つて悲しがつてゐるのであつて、嘘でも偽りでも無いのである)……たつた卅過ぎやそこらで、貧乏ばかりして何一つ楽しい目も見ない……良い着物の一つ着るんじや無し、気だての良い子は早く死ぬと言ふが、……こんな事なら、もつと良い目を見せて置くんだつたよ。
五郎 ……(相手の言葉がピシリピシリと自分を打ち叩くのである。その打撃に首を垂れて動かない)
恵子 母さん、……五郎さんにそんな事を言ふもんぢやなくつてよ。
母親 え? いえさ、私あ五郎さんに当てこすつてこんな事を言つてゐるのぢやありません。だつて可哀さうぢやありませんか。
五郎 ……済みません。……しかし、……しかし、美緒は死にやしません。……死にやしませんよ。
母親 だつて。あんたがそんな事言つたつて、あの分ぢや、どうなるかわかりません。そいで今の内に、書換へを済ましとかないと、ポクリと行かれると、不動産が宙に迷ふからですよ。(泣きながら。これも彼女としては真実なのである)
五郎 ……で、この事は利ちやんは知つてゐるんですか?
母親 知つてゐます。でも利男は、今姉さんが、こんな状態になつてゐるのに、そんな話をするのは悪いから、後にしろと言うんですよ。でもねえ、今日明日にも万一の事が有ると取返しが附かないから。
五郎 僕も利ちやんと同じやうに考へるんですが。……今美緒にそんな話をすると、又病気を悪くするばかりだと思ふんです。言はゞまあ、あれだけ重い病人の枕元で、病人の死んだ後の遺産相続のことを相談するわけなんですから。……そんな残酷な事はとても出来ません。もう少し、もう少し良くなつてから……。
母親 ですからさ、もう少し待つて良くなればいゝが、死なれてしまふと、それつきりになつて、又余分な物入りだから……。
五郎 ……大丈夫です。かりに万々が一、いけなくなる事があつても結局不動産は利ちやんに行くんですから、別に問題は無いと思ふんです。
母親 さうですとも。そりや、あんたと言ふ人がゐるけれど、美緒が戸主になつてゐるんで、籍もまだ入れてありませんしね、あんたにはお気の毒だけど、そこん所は――。
五郎 え?……(ギクリとする。自分が今迄思つても見なかつた事を言はれて不意に、相手の考へが掴めたやうだ。青くなつてゐる)……それ、なんの事でせう?
母親 いえね、あんたにも散々苦労をしていたゞいたんですけど、美緒の病気で私の方でもこれで随分の物入りを続けて来てゐるんですから。
五郎 えゝ、それは、ありがたいと思つてゐます。僕に金が無いもんですから色々御心配をかけて――。
母親 ですからさ、財産を利男に書換へる際には、どうせたんとの事は出来ないんですけど、あなたの方へもいくらか廻さなければならないと私は思つて――。
五郎 いや、僕あ、そんな物要りません。
母親 いえ、それはね、とにかく今迄名儀だけでも美緒の物だつたんですから、あなたが要らないと言つても、どうせ美緒にやらなくちやなりませんから。
五郎 いえ、美緒も僕も、要らないんです!
恵子 だつて五郎さん、それは当然の事ですよ。家の財産ですもの、長男だけがソツクリ相続してしまふと言ふ手は無いわ。娘だつて、それぞれの分け前を貰ふのが当然ぢやなくつて? 姉さんだつて、そいから私も実はいくらか貰はうと思つてゐるのよ。貰つて邪魔になるもんぢや無いわよ。
五郎 ……そいで恵子さんは、今日見えたんですね?
恵子 まあ、ひどいわ! それだけの事でわざわざこんな所に来るもんですか。姉さんの見舞ひが主よ。
間。――母親はまだ涙を流してゐる。話からスツカリ除外された尾崎が砂丘の蔭から時々覗いてゐる。
五郎 ……もしかすると、お母さんは、美緒に万一の事があると僕がその遺産をみんな自分の物にしてしまうとでも思つてゐられるんぢやありませんか?
母親 (いろいろの意味でひどく周章狼狽して)いえ、そんな! そんな、あんた! そんな事を考へたんだつたら、初めつからこんな事を、あんたに相談したりするもんですか。そりや、そんな事をあんた言ふのは、あんまり……。
五郎 ……(ニヤリとして)籍こそ入れてなくつても、美緒と僕が結婚してから七年になりますしね、美緒の物はチリツパ一つだつて合法的に僕の思ふ通りになりますからね。……ハツハハハ、(不意に笑ひ出す)でも安心して下さい。僕にやそんな気は全然有りません。不動産は利ちやんの物です。美緒は、分け前も要りません。たゞ、今、彼奴にこんな事を聞かせるわけには行きませんから、自由にして下さるにしても、あれに聞かせないでやつて下さい。
母親 (涙を拭きもしないで、怒り出す)……でも弁護士の言ふには、美緒の承諾が無くては登記するわけには行かないと言ふんですから、そんな事言つたつて――。
五郎 とにかく、あれに聞かせる事は僕がおことわりします。
母親が眼を怒らせて喰つてかゝらうとしてゐる所へ、家の方向から小母さんが息せき切つて駆けつけて来る。
小母 五郎はん! 五郎はん! 五郎はん! (眼の色が変つてゐる)五郎はん!
五郎 (ハツとして)あ、小母さんどうしたんです?
小母 早う戻つて! 早う戻つておくなれ! 奥さんが、又、奥さんが――。
五郎 どうしたんです?
小母 (口から何か吐く真似をチヨツとして)……早う! 早う戻つておくなれ!
五郎 (ギクリとするが、今迄に馴れてゐるので割に自分を制しながら駆け出しさうにするが)……(チヨツト何か考へてゐてから、母親と恵子に)書換への話を美緒になすつたんぢやないでせうね?
母親 ……いえ、そんな、そんな事言ふもんですか。
五郎 本当ですね?
恵子 (五郎の眼に射すくめられて)……言ひはしませんよ。
五郎 さう。……(急に、小母さんと一緒に脱兎の様な早さで家の方向へ走り去つて行く)
母親 ……(さすがに実の母親で、思はずその後を追つて小走りに行きかけ)どうしたんだらうね? え、恵子? 美緒に何か――?
恵子 行かない方がいゝわよ、母さん。母さんが行つたつて、又病人が気を立てるばかりで、邪魔になるばかりよ。大丈夫よ。(肉身の姉に対する心配を感ずれば感ずるほど、美緒の病気に対する嫌悪の情も強くなる。その自分の矛盾を、母親を殆んど乱暴と言つていゝ程の動作で押しとゞめる事に依つて打切りながら)ソツとしといて、鎮まつてから行つてあげる方がいゝと言つたら!
母親 さうかねえ……。(やつぱり怖くて行きたくは無い。しかし心配で心配でたまらず、その辺をウロウロしたり、流れつぱなしになつてゐた涙を拭いたり、ウロウロした末にスケツチ板のカケラを無意識に拾ひ上げて、それを見たり、家の方向を見やつたりしてゐる)
恵子 きたないわよ、母さん! (これは割に落着いてゐるが、何と思つたか、不意に帯の間からコンパクトを出して、鏡で顔を覗いて白粉をはたきはじめる)……。
尾崎 (砂丘の横から出て来て、ニヤニヤと恵子の傍へ寄つて行きながら)やあ、御心配ですねえ。どうなすつたんですかねえ? どうも……。

3 家で


 数日後の日曜日の正午過ぎ。
 ドンヨリと曇つて蒸し暑く風の無い天気である。
 美緒が病室の寝台の上に仰臥し、静かな眼で庭の方を見てゐる。寝台の頭の寄つかゝりの上に酸素吸入の器具が取りつけられてゐて、そのガラスの口が彼女の顔の上に開いてゐる。低くシユーシユーと酸素の出る音。大きな発作から数日を経て一応小康を得たと言つた感じで、あたりの道具の配置その他、この前とはなんとなく違つてゐる。
 たつた今、医者が戻つて行つたばかりらしく、病室に椅子が一つ出しつぱなしになつて居り、小母さんが、医者が手を洗つた洗面器とシヤボンと手拭の後始末をしてゐる。数日間の心配と睡眠不足のために小母さんも疲れてゐる。珍らしくきまじめな顔をして、話す声も努めて低い。

小母 (洗面器をかゝへて立上り)……奥さん、どうどす? 障子締めまつか?
美緒 ……(静かにかぶりを振る)
小母 相変らず黙あつたお医者さまどすえなあ。
美緒 ……(ニツコリして手真似で、横になつて眠つて頂戴と言ふ)
小母 へい、へい。奥さんが良うなつて呉れはつたで、今頃になつて睡気が出て来ました。でも、五郎はんに較べたら、あてなどが睡いなど言ふたら罰が当りま。……でも、なんどすな、いゝ具合に比企先生が東京からお見えになつてゐやして、ホンマにようおしたなあ。これと言ふのも奥さんの運気が強い証拠どすえ。
美緒 ……(何度もコツクリをして見せる)
小母 此処のお医者さまだけでは心細うてなあ。あの方はホンマに黙あつてばかり居やはつて、たより無うて。……さあさ、少しお休みやす。
美緒 (ニコニコ笑つてゐる)
 小母さんは洗面器を持つて庭に降り、樹の下に水を撒く。……間。
 そこへ医者を送り出して外へ行つてゐた五郎が玄関から黙つてあがつて来る。注射液のアンプルを一本手に持つてゐる。唯さへ憔悴した顔付きが、この数日間の不眠不休の看護のため怖い位にゲツソリと青ざめてゐる。美緒よりも顔色が悪いのである。しかしこんな事には馴れてゐるのと、気が張つてゐるので、前場の浜に於ける彼よりも自分で自分を支配してゐる平静さを保つてゐる。……スタスタと居間の方へ行き棚の上から注射器を取つて、明るい縁側に来てアルコールで消毒しはじめる。
小母 五郎はん……お疲れどすやろ?
五郎 小母さんこそ疲れたでせう。少し昼寝をして下さい。
小母 そいで……どんな風?……(眼に物を言はせて、手真似で立去つた医者の事を示す)
五郎 ……(病室の方をチヨツト振返つて)なに、これをやつといてくれ、もう大した事は無いと言つてました。……
小母 ……(手真似と眼顔で色々と訊く。それに五郎も答へる。話の内容を病人の耳に入れたくないのである。会話の細かい事はハツキリわからないが、とにかく、既に差し当りの危険は通り過ぎたと五郎が言つてゐるらしい事が、小母さんのホツとした様子から察しられる)……。
美緒 ……(低い低い静かな声で)あなた……。
五郎 ……おい。(唖問答をやめて、病室を見る。小母さんはそれに気付いて、ソソクサと洗面器を持つて庭を廻つて台所の方へ去る)どうした?……今注射器の支度だ。……この患者の注射にかけてはあなたの方が私よりうまいらしいから、あなたに委せます。先生さう言ふんだよ。笑はしやがらあ。……さ、出来た。(言ひながら、病室の方へ行く)もう大丈夫ださうだ、でも用心のため、もう一本打つとこうと言ふんだ。こんなもん大して効きやしないがね。どうせゼラチンをどうにかした薬だらうからな。……直ぐ、やるかい?
美緒 ……痛いから、いやだ。
五郎 ハツハ、ちつとは痛いよ。
美緒 その代りに、この吸入を、よしてくれたら、やる。
五郎 又馬鹿を言ふ。吸入よしたら又息が苦しくなつてヒーヒー言ふぜ。
美緒 うゝん、もういゝの。……とても、らくになつた。……それに、今日は赤井さん達来るんでしよ? こんなものしてゐて心配させちや悪いわ。ね、取つてよ。……ホントにもう何とも無いから……だいち、変に臭くつて、いやだ。
五郎 赤井が来たつて平気だ……でもホントならチヨツトの間、よしてやつてもいゝ。(吸入器を片附けながら)どうだい、平気かい?
美緒 えゝ。……却つてセイセイしてよ。
五郎 ……だが、比企さんが丁度来てくれて、実に助かつたなあ。やつぱり、ありや良い医者だね。処置の仕方が徹底的だよ。一番ひどい時に、お前の手足の根元をギユーギユ―しばり上げたにやチヨツトびつくりしたがね。だが、考へて見ると、止血の方法としては原始的だが一番効果があるわけだ。
美緒 でもしびれて痛かつたわ。まだ跡になつてゐてよ。……比企さんも京子さんも、臨海亭でよくして呉れてるかしら?
五郎 大丈夫だ、昨日も俺が行つて頼んで来た。(酸素筒の始末をしてゐる)
美緒 ……京子さん以前よりも綺麗になつたわね?
五郎 そうかね。……
短い間。
美緒 あなた、少し眠つたら?
五郎 なに、いゝよ。大して眠くないよ。
美緒 でも、もう四日四晩よ。……私がいつ眼をさまして見ても、あなた、おつかぶさるやうにして私を睨んでゐるんだもの……。眼をグリグリさせてさ……私、しまひに滑稽になつたわ。
五郎 へつへ、おつしやいます。ボロボロ、ボロボロ涙ばかりこぼしてゐたくせに。
美緒 だつて苦しいんだもん。……あなたつたら、咳をするな、……こらへろ、……気を鎮めて、……戦争だぞ……咳をするな……呼吸いきをするな……。あなた、憶えてゐて?
五郎 馬鹿言え。呼吸をしなかつたら、出血も止るだらうが、命もとまつちまわあ。
美緒 だつてさう言つてよ。……ぎやうだ、行だ、行をしてゐるんだ。俺もしないから、お前もするな、呼吸をするな!……覚えてゐるわ、私。……あんなに落着いてゐるやうでも、あなたやつぱりアガツてしまふんだわ。……フフフ……でも、大丈夫かなあ?
五郎 なにが?
美緒 ……だつて、私が咳をすると、あなたの顔や胸の辺まで……トバツチリで真赤になつたわよ。伝染らんかなあ?
五郎 伝染るもんか。伝染るもんなら、もうトウに伝染つてら。そんな心配は手遅れだ。
美緒 あなたが又私みたいになつたら……私、どうしよう?……、私、時々……あなたも私と同じやうに……病気にしてやりたい事があるの。
五郎 どうしてだ?
美緒 どうしてだか。……意地が悪いでしよ?……もしかすると私には……なんか悪魔みたいな、恐ろしい性質が有るかも知れないわよ。……よくつて? (眼だけ鋭く五郎を見詰めたまゝ、顔はニコニコしてゐる。それが何かゾツとするやうな印象である)
五郎 (少しドキリとして)……。(押し殺した声で)いいよ、お前が悪魔なら俺も悪魔だ、伝染したきや伝染せ。そして二人で一緒に死ぬか。フツフフフ。
美緒 ……私、とても滑稽になる事があるの。
五郎 なにが?
美緒 ……だつて私は死ぬまいと思つて、こんだけ気ばつてゐるでしよ? あなただつて、そのために苦しんでゐるわね。……だのに私がもう生きてゐまいと思へば実に簡単なの。かうして、グツと舌を噛めば、それでおしまひ。とめようと思つてもあなたにもどうする事も出来ない。さうぢやなくつて?
五郎 ……(相手を睨んでゐる)
美緒 ……ねえ。あのね――。
五郎 うん?
美緒 神様は在るの?
五郎 なんだよ? 神様?……(びつくりして相手を見詰めてゐる。美緒の頭の中にどんな思考が往来してゐるかを見透さうとしてゐる。不意にわざとニヤニヤして)ハツハ。お前、病気がつらいんで、神様が欲しくなつたのか? 俺が何と答へればお前の気に入るんだ? 欲しきや、いくらでも作り出したらいゝぢやないか。
美緒 (眼をカツと開いて、五郎の調子に乗つて行かうとしない)うゝん、はぐらかさうとしたつて駄目。……[#「……」は底本では「・…」]私、まじめよ……聞かして。……私、あなたの言ふ通りに信じるから。……[#「……」は底本では「…‥」]だから、あなたもまじめに言つてよ。うゝん証明して貰はなくともいゝの。理窟は要らない。本当の事を一言で言つて! ……神様は在る?
間。
 五郎何とも答へられないで、美緒の顔を見守つてゐる。美緒も、五郎から眼を離さない。殆んど憎しみを込めたとも言へる位の睨み合ひである。
五郎 ……(咽喉がカスカスになつた様な声で)在る。
美緒 ……ほんと?
五郎 お前は俺の神様だ。……お前が育てゝ大きくしてやつた託児所の子供達は、お前の神様だ。
美緒 そんな事ぢや無いの。……私の言つてるのはね、……死んでから……死んだ後に……そんな世界が在る? 居るの?
五郎 さうか。そんな事をお前……(二三度喘いだ末に)居るよ。在る!
美緒 だつてあなた唯物論者ぢやなくつて?
五郎 ……。なんか知らんが、在ると思ふから仕方が無い。
美緒 ……ああ。(疲れてガツカリして)……あなたオデコから汗を流してゐるわ。
五郎 (やつとホツとして)お前だつて汗を出してるぞ。……ああ、注射だ注射だ。忘れるとこだつた。ハツハハ、はぐらかしちまはうと思つて、宗教問題に引つかけたな?
美緒 (涙ぐんでゐる)フフフフ。さうかも知れないわ。だつて痛いんだもの。
五郎 駄目だと言つたら駄目だ。
美緒 かんにんして! その薬だけはホントに痛いの。ほかのと違つて、いつまでも吸収しないんだもの。……もう止まつたんだから大丈夫だわ。かんにんして。
五郎 我慢しろ。頼むから。
美緒 ……そいぢや、私の頼みも聞いてくれる?
五郎 うん、どんな事でも聞く。
美緒 約束したのよ。……(言つて腕を出す)
五郎 よしよし……(アルコールでチヨツト拭いてから注射針を刺す。馴れてゐる)動かないで……。
美緒 ア、ツ! (痛みをこらへながら)……、そいぢや、あのね……油で風景を一枚描いて。
五郎 なんだ、さうか。又引つかけたな? お前はズルイよ。
美緒 お願ひ。見たいの。三十号でいゝ。よくつて?
五郎 ……仕方が無い、描くよ。……(注射液を慎重に押し出しながら)だけど、三十号は無理だ、絵具が無い。俺のは又むやみと盛り上げるんだから十円や二十円では足りん。(注射をすまして跡にバンソウコウを張る)……そら済んだ。
美緒 金はあるの。ほら……(と言つて枕の下から紙幣を五六枚取出す)
五郎 ……え? どうしたんだ?
美緒 天から私にさづかつたのよ。
五郎 本当に、どうしたんだよ?
美緒 ……母さんが呉れたの。こないだ来た時――。
五郎 へえ、だつて変ぢやないか。お母さんからの二十円今月の分はもう貰つてある。
美緒 国の私の不動産を利男に書換へたら、私にも恵子にも三百円づゝ分けて呉れるんですつて。……その一部をあげとくんだつて。
五郎 え! そいぢや――(と急に何かに思ひ当つて椅子から立上る)……そいぢや、なにか、お母さん此の間、書換への事をお前に言つたのか?
美緒 ……(おびえてオロオロしながら)うん。……あん時……あなたが尾崎さんと浜へ出て行つた直ぐ後で……。
五郎 さうか。……そいで、お前、昂奮して、その後、あんな事になつたんだな。さうだな?……変だ変だと思つてゐたんだ。あんな風になる筈の無い症状なのに、どうしたんだらうと、今まで俺あ腑に落ちなかつたんだ。さうか……(今にも爆発しさうに腹が立つて来る。そのまゝでゐると美緒に喰つてかゝりさうな自分を怖れて、プイと廊下に飛び出して)……畜生! (廊下をドシドシ歩きながら)あんなに俺が頼んだのに……。
美緒 ……(小さくなつて、五郎を眼で追つてゐる)
五郎 無智だから無智だからとお前はよく言ふが、単に無智なだけで、こんな、見す見す、実の娘に対して、毒々しい事がやれるもんか。……あれは、此の俺がその不動産を自分の自由にでもするかと思つてゐるんだ。
美緒 ……(おびえて、手を合せんばかりにして)却つていゝぢやないの、こんな事でサツパリと縁が切れてくれゝば、もううるさくなくつて。……怒らないで。……私、こはいわ。
五郎 (それを見て、辛うじて自分を制する)……心配するな、乱暴はしない。……フフ、それでゐて、あの人がお前の病気をしんから心配してゐるのも本当なんだ。母親としての愛情に嘘は無い。だのに、あんな話をヅケヅケと、お前の病気にさはる事も考へてる余裕が無い。たとへ死んでも仕方がないと思つてる。……俺にや、どう言ふんだかサツパリわからないよ。……それが人間か?……さうだな、それが人間かもわからんな……(廊下に立停つて何か考へ込んでゐる)
美緒 (すがり付くやうに)そんな事どうでもいゝから、画を描いてね、此の金で。
五郎 ……(全く別の事を考へてゐる)いや、そんな事どうでもいゝや。……ハツハハハ、アツハハハ(不意に笑ひ出して)よし、それでいゝんだ、人間それでいゝんだよ。なにがなんでも生きりやそれでいゝんだ。生きる事が一切だ。そいつだけがすばらしい事だ。善いも悪いもあるもんか。
美緒 なんの事言つてるのよ?
五郎 う? うん、……あのなあ美緒、今日は赤井達が来るし、利ちやんも来るかも知れんが、喋つちや駄目だよ。いゝな、無言の行だぜ。
美緒 いゝわ、約束してよ。……でも此処でみんなお話してね、私寂しいから。……私、黙つて聞いてゐるだけだから。此処で話してね、……よくつて?
五郎 よしよし。
美緒 あゝ、うれしい! あなたつたら、誰でも直ぐに浜に連れて行つてしまふんですもの。……あすこで一体、どんな良い話をしてゐるの?……妬けてよ、私……。
女の声 (玄関から)こんにちわあ……。
美緒 あゝ、京子さんよ。
五郎 そら、黙つて! (玄関の方へ行く)や、いらつしやい。
京子の声 これから泳ぎに行くんですの。
 言つてゐる間に、京子の兄の比企正文が黙つて微笑しながら病室に入つて来る。つゞいて京子も玄関の間にあがつて、そこに坐る。比企は口数が少いが、しかしいつも平均して機嫌の良い調和の取れた真面目一方の男である。頭の中が常に論理的に整理された人間のみに在る落着きと、同時にそんな人間にのみ特有の、病的でない偏執性を現はしてゐる。開業医らしい所は無く、研究室にこもつてゐる科学者と言つた風だ。これから海に行くつもりか、浴衣姿に皮のバンドをしめ、聴心器だけを懐中にねぢ込んでゐる。
 京子は身体の立派な美しい女で、潮風に荒れないやうに乱暴に厚く塗つた白粉の、頤や首の所がまだらになつたのが、変に魅惑的である。此の女にはひどく子供の様に――と言ふよりも白痴の様に無邪気になる時がある。そんな瞬間には、眼がスガメになつてしまつて、彼女自身も自分がいま何処にゐるのかわからなくなりでもするやうだ。これも浴衣姿。ニツコリして美緒に目礼する。美緒も目礼。
 二人の来た事を知つて小母さんが、イソイソしながら茶を運んで来る。
比企 (美緒に)やあ、今日は、どうです?
美緒 毎日、ホントにすみません。
比企 なに、浜へ行くついでにチヨツト診てあげようと思つて……。(聴心器を出す)久我君、フイブルは?
五郎 (比企と京子の中間、つまり玄関の間と病室の間の敷居の上に坐つて)ありません、昨日の午後から。
比企 一昨日の僕の処方は?
五郎 やつてます。おかげで食慾が少し出た。
比企 ナツハシユヴアイス?
五郎 かなり有ります。
比企 今朝起きぬけのプルス?
五郎 六十六。稍々微弱。
比企 フム……で、主治医は、やつぱり例の――?
五郎 ええ、今日も先程、一筒打つた。
比企 うむ……(あとは無言で、美緒の胸に聴心器を当てて、永い間、非常に慎重に診察してゐる。小母さんは美緒の着物を直してやつたりして診察の手助けをする)
京子 久我さんも泳ぎにいらつしやらない?
五郎 (診察の方に気を取られながら)え? いや僕あ。第一、もう冷いでせう。
京子 でも私、真夏よりは今の方が泳ぐの好きよ。ヒヤリツとして良い気持。……こないだ、三越であつた梅川隆三郎の個展御覧になつて?
五郎 いや、なにしろ暇が無いもんですから。
京子 見たわ私。相変らずケンランたるもんね。でも、なんですか、同じ事の繰返しね? よく飽きないと思ふわ。第一、あんな豊富な色を、あんなに繰返されると、美しいと思つて見てゐる間はいゝけど、ヒヨツと鼻についてトタンにヘドが出さうになるわ。さうぢやなくつて?
五郎 さあ、でも、あれはあれでいゝんでせうね。
京子 ……久我さん、音楽はお好き?
五郎 好きです。美緒も好きなんで、レコードでもと思つて心がけてゐるんだけど、そこまでは未だ未だ手が廻らなくつて……。
京子 レコードやラジオぢや駄目だわ。生で聞かなくつちや。此の秋、私達の仲間でオペラを上演するから聞きにいらつしやらない。切符送つて差上げるわ。
五郎 ありがたう。でも僕にやオペラつてやつは解らないんですよ。声を張り上げて歌ひながら啜り泣くなんて言ふのは苦手だ。あれは――。
比企 (はたで話されてゐる事にはお関ひなく、診察を続けながら)メンスは規則的に有るのかね、久我さん?
五郎 え?
比企 ……あんまり無いのぢやないのかね?
京子 まあ! 兄さんたら! (真赤になつてゐる。美緒も赤くなつて、まぶしさうに片手で額をかくす)
比企 なんだ? (キヨトンとしてゐる)
京子 失礼だわ! 婦人の面前で、ねえ奥さん!
比企 いやあ、不規則なクランケで時々原因無しにブルーツングを見る事があるんだ。そいで――。
京子 もう、いやつ! 私、ぢや、先きに泳ぎに行くわ。失礼ねホントに兄さんは! (言ひざまパツと立上つて玄関からドンドン出て行つてしまふ。動物じみた敏捷さである。遠ざかりながら、カルメンの独唱を歌つて行く)
比企 ……なんだい、スツトンキヨウな奴だなあ。……いやねえ、その五日前の発作の原因が、どうもハツキリしないんでねえ。
五郎 いや、それなら有るんだ。原因は有るんだ。チヨツト精神的にシヨツクを受けた事が有るんですよ。
比企 さう、それなら、それでいゝが。でも、そんな事今後避けてくれないといかんなあ。……とにかく別に変りは無い。処方は一昨日と同じでいゝ。安静を守つて貰ふ。流動物を、さう、量は好きなだけ。……ぢや、又来るから、これで僕は。
美緒 ……ありがたうございました。
比企 これから泳ぐんですよ。かなり冷いけど、仕方がありません。でも、もう若い奴にはかなはんね。京子の方が僕よりズツと泳げるんですよ。ハツハハ、(五郎に)君も行かない?
五郎 僕は後で……。
比企 さう、ぢや……(気軽るにヅカヅカ立つて、小母さんがペコペコして下駄を揃へたりしてゐるのも殆んど無視して出て行つてしまふ)
小母 ……(美緒に)ホンマに、いゝ先生どすなあ!
美緒 (それにコツクリをして見せてから五郎に)ホントに純粋な科学者なのね? 診て貰つてもいゝ気持だわ。
五郎 うん。ハツキリしてるよ。自信も持つてゐるが、出来るのも出来る。福岡の医科大学はじまつて以来だと言ふからね。もう、とうに博士になつていゝんだが、論文なんか愚劣で書く気がしないと言ふんださうだ。
美緒 ……京子さん、なんだか、あなたに興味を持ちはじめてるんぢやないかしら?
五郎 馬鹿な事言ふな。……ハハ、さうだ。興味と言へば、変つた生き物がゐるから見てやれと言つた眼付きだね。
美緒 いえさ……。
五郎 そら、無言の行、無言の行。……赤井達はおそいなあ。……俺あチヨツトひと仕事やらうか。……よし。(立つて、手で美緒の額の熱を計つて、うなづいてから、ヅカヅカと廊下を通つて湯殿に消える)
小母 (それを見送つてから)……奥さん、お気分どうどす?
美緒 ……(コツクリ)
小母 (ニコニコしながら)こうんな所までペトペトに白粉塗らはつて、(と京子の真似)さうですわよ! はあ、さうですわ! こうどす。可愛らしいモダンガエルはんどすけど、えらい鼻が天井向いてはりまんなあ! アツハハ。(美緒がニコニコするのに満足して茶の道具や座蒲団を片付けに居間の方へ。そこでゴトゴト片づけ物をしてゐる)
間。
 美緒はジツと動かない。……やがて、ソロソロ自分の頬を撫でゝ見る。それから枕元に差し込んであるコンパクトを抜き出し、ソツと開いて、怖いものを覗くやうにして鏡を見る。チラツと見たつきりで、ハツとして鏡をどけるが、又暫くして覗く。今度は眼を釘付けにされたやうにジーツと鏡の中を見詰めてゐる。……衰へてしまつた容色。……急に四辺をキヨトキヨト見廻して、五郎も小母さんも現はれさうに無いのを見すましてから、手早くパフで白粉を顔にはたく。自分では無意識らしいが、白粉の塗り方が頤や襟に濃く、いつの間にか京子の白粉の塗り方にソツクリになつてゐるのである。……塗り終つて、又鏡を覗く。……少し斜めにしたりしてジツと覗いてゐる間に顔が引歪がんで来る。手が顫えて来る。……声を出さないで自嘲の笑ひ、笑つてゐる間にベソをかいて、タラタラと涙があふれて来る。でも涙を拭くのを忘れて、寝てゐて自然に見える鴨居の辺をジツト睨んで動かない。……出しぬけに手のコンパクトを投げる。それは病室と玄関との間に一枚だけはづさないで立つてゐる襖に当つて、ピシツ! と音を立てゝ落ちる)
小母 (その音を呼ばれたものと感違ひして)はい、はい、(道具を片付けながら)直ぐ行きまつせ。
 美緒は、その声を聞くと、いきなり白粉を落さうと顔中を掌でゴシゴシと撫でまはす。[#「。」は底本では「。)」]
小母 (玄関の間へ出て来て)なんぞ、御用どすか、奥さん?
美緒 ……(首を横に振る)
小母 まあまあ、綺麗にならはつた!
美緒 ……(顔を歪めて笑ふ)
小母 少うし、わてがお話ししまほか?
 丁度そこへ玄関の外(奥)に元気の良い靴の音が響いて歩兵伍長の新しい軍服を着た赤井源一郎が勢ひ込んで玄関に飛込んで来る。
 端麗な顔に眼鏡をかけ、理智的にとぎすまされた人柄だ。骨組がガツシリしてゐるのと、軍服の強い線と、それから永い勤務で鍛へられたために現在はそんな感じは無いが、平常の生活でこの男を見れば、むしろ弱々しい位に敏感な人間を発見しはしないかと思はれる。喜びに顔を紅潮させてゐる。
赤井 久我つ! 久我! やつて来たよ! (靴をぬぐ)
小母 (びつくりして振向いて、赤井を見るなり喜んで)まあ兵隊さん、来やはつた! 奥さん、兵隊さん来やはりました。赤井はん、ようおこしやす。さあさ、おあがり。
赤井 は。(と挙手の礼をして)小母さん、暫くでした。(あがる)
小母 (湯殿の方へ向つて)五郎はん、兵隊さん見えはりましたえ!
美緒 ……(今迄の変な顔付きを一遍に笑ひにほころばして、寝台の上から目礼する)ようこそ、赤井さん……。
赤井 いかゞです?……
五郎 (湯殿の戸をガタピシ開けて、走るやうにドタバタ飛び出して来る)来たか! (廊下に出て来た赤井とぶつつかりさうになる。現在の彼にとつては殆んど唯一の気の許せる親友が久しぶりに来たので、うれしさの余り少しあがつてゐる)……よう!
赤井 ……(出合ひがしらに、両足をピシツと揃へて習慣になつてしまつてゐる挙手の礼が出る)来たよ。
五郎 ……(自分も思はず釣り込まれて、絵筆を握つたままの右手を額の所へ持つて行くが、それに気付いて)なあんだ! (二人声を揃へて笑ひ出す)
小母 さあさ、服をお脱ぎやす。暑うおしたろ。(これも笑ひながら、飲物の支度に台所へ)
五郎 アツハハハ。(筆具を湯殿の方へポイと投げ出す)よく来てくれた。三ヶ月ぶりだ。
赤井 そんなになつたかな。なんしろ忙しくつて。
五郎 さうだらうな。飯はまだだろ?
赤井 いや食つて来た。実はもつと早く来る予定でゐたが、今朝になつて不意に非常呼集がありやがつてね。
美緒 とにかく、お脱ぎになつたら――?
五郎 さうだ、脱げよ。……(赤井が帯剣をはづしにかゝる。その赤井の服装にフイと注意して)今日は馬鹿に立派な服だね、真新しいぢやないか?
赤井 立派だらう? 第一装用さ。これで持つ物を持ちや、いつでも出発出来るさ。
五郎 え? ……そいぢや、いよいよ、近い内に――?
 男二人がいろいろな意味を込めて眼を見合はせてゐる短い間。
赤井 ……(微笑して見せ、剣をスラツと抜いて)もうチヤンと刃が附いてゐる。
五郎 (その刃に指先で触つて見ながら、眼は赤井を見てゐる)……さうか……で、何日頃になりさうだい?
赤井 わからんよ俺達にや。わかつても言つちやいかん事になつてゐる。
五郎 すると、なにかね、明日にでも出発と言ふ事だつて有り得るわけか?
赤井 (服を脱ぎながら)うん、まあ、さうだな。よくわからん。たゞ準備はいつでも出来てゐるんだ。ハツハハ、此処にかうしてやつて来るのも今日でおしまひになるらしいよ。君はどうせ、佐倉の方へ来て呉れる暇は無いだらうしなあ。
五郎 いや、そんな時はどんな事が有つても会ひに行くよ。
赤井 いや来てくれても、多分ロクに話も出来ないだらうと思ふんだ。最後にもう一度外出できるらしいけど、さてどうなるかわからんしね、仮りに出来てもその際も伊佐子の事やなんかで東京の家の者に会ひに行かなくちやならん。……まあ今日が左様ならだね。
五郎 ……さうか。
赤井 ……美緒さん、どうですか、その後?
五郎 うん、まあ、割に良い方だ。
赤井 そりや、いゝ。さう言へば、なんだか元気さうになりましたよ。
美緒 ……伊佐子さんは、どうして遅いんでせう?
赤井 又家でグズグズ言つてゐるんでせう。なんしろ僕が行つても、伊佐子とはユツクリ話しも出来ないんですからね。そいでまあ、美緒さん病気の所へ御迷惑をかけて済まないけど、かうして此処で落ち合はさうと勝手に決めちやつて。
美緒 いえ、そんな。私なら少しも構ひません、どうか御遠慮なく。
五郎 お前チツト黙つて居れ。
美緒 フフ、あなたの事と言ふと久我は直ぐに焼餅を焼くんですの。
赤井 ハツハハ、いや、どうも済みません。
 そこへ小母さんがビール三四本と、つまみ物を載せた盆を運んで来る。
小母 さあさ、お二人とも此処へ来てお坐りやす。そこは暑い。(キチンと坐つて赤井に対して辞儀をして)ようおこしやす。
赤井 やあ。小母さん相変らずお元気ですね?
小母 へえ。五郎はん、あんたはんのおいでやすのを、えらい待ちこがれてゐやはつたのどすえ。なあ奥さん! (美緒うなづく)まるで、コイービト待つてる若いしとそつくりや言ふて奥さんと話してゐたとこどす。
赤井 なあんだ、ハツハハ、ハハハハ。
五郎 (これも笑ひながら、ビールのせんを抜きコツプに注いで)さ、赤井、あげてくれ。
赤井 なんだい俺あ飲めないよ。知つてゐるぢやないか。
五郎 いや、今日は飲め。
赤井 だつて、一杯やると俺あフラフラになつちまうぜ。
五郎 いゝから飲め。ホントは美緒にも飲ませたいけど、此奴は病人だからな。……フラフラになつたつていゝよ。小母さんも――(小母さんにもコツプを握らせる)
小母 いえ、わては――
五郎 (小母さんの耳に口を寄せて)赤井がね、小母さん、間もなく戦地へ行くんです。それを送るんですから。
小母 さうだつか! それは――。
五郎 美緒の枕元で、俺あ乾杯したいんだよ。なあ美緒。
赤井 ありがたう。(コツプを握る)美緒さんも、早くよくなつて下さい。石にかじり付いても!
五郎 俺達の前には、ノツピキのならないギリギリ決着の絶壁が有るだけだ。もう、それに死にもの狂ひで乗りかけて行くきりだ……。赤井、戦つて来てくれ。
 三人ビールを乾す。
 美緒が涙ぐんで見てゐる。小母さんは涙を流してゐる。しかしそれをビールにむせたやうにごまかしながら指先で拭くが、中々とまらないので、コソコソと立つて居間の方へ去つてしまふ。
 あとに、三人がしばらく沈黙に落ちてゐる。
間。
赤井 ……(シンミリした空気を破らうとしてニコニコして)たちまち少し廻つて来たらしいや。
五郎 いゝよ酔つたつて。六時迄に戻りやいゝんだらう?
赤井 ……でも電車の時間を二時間見とかなきやならんからな。
五郎 すると此処を四時に出りやいゝから、まだタツプリ二時間は有らあ。それまでにや醒めるよ。もつと飲め。(赤井のコツプに注ぎ、自分も飲む)
赤井 ……近頃、どうだい、仕事の方は?
五郎 ……あんまり描かん。そんな気になれない。
赤井 さうだらうなあ。
五郎 いや、病人を控えてゐるせゐやなんかぢや無いよ。もつとなんか、現在の事をよほど考へ直して見なきやならん事が有る様な気がするんだ。今迄通りいくら[#「いくら」は底本では「い ら」]セツセと画を描いても、なんにも解決されない[#「されない」は底本では「されな 」]やうな気がするんだ。いや、今の世の中を否定する気持ぢや無い。うまく言へんけど、……もしかすると俺達は今、なんかすばらしい時代に生きてゐるかもわからんと言ふ様な気がするんだな。
赤井 そりやさうだ。俺もそんな気がする事がある。しかし、それにしても君が画を描かない理由にはならんだらう。
五郎 だからさ、俺にや、画なんか描いてゐると、このすばらしい時代の意義……いや、意義なんてそんな理窟張つたもんぢや無い。姿と言ふか光りと言ふかね、そんなすばらしい物が俺の指の間からこぼれ落ちてしまふやうな気がするんだよ。……もつとも、こんな気がするのは、もしかすると、もともと俺の画がホントに生きた物で無かつたからかも知れん。
赤井 そんな事あ無いよ。君あホンモノの画描きだ。
五郎 お世辞を言ふな、君らしく無いよ。
赤井 お世辞を言つたつて始まらん。近頃僕あ恐ろしく単純になつちやつてるんだ。いよいよ行くと決つた時から、お世辞だとか論理学だとか、そんなものが洗ひざらひ無くなつちやつた。頭の中が子供みたいになつちまつた。
五郎 ぢや、ホントにさう思つてくれるんだな。俺あホンモノの画描きなんだな? きつとさう思ふんだな君は?
赤井 あゝ、思つてる。君あ俺達の仲間の中で一番ホンモノだ。
五郎 ……さうか。……そりやどうでもいゝ。とにかく俺あ、戦争の大砲の音を間近かに聞きながら小説を書いてゐたとか言ふゲーテなんて奴の事はわからんね。わかりたくも無い。ゲーテなんてインチキな男だ。それにズルイよ。ありや政治家で、幸福で、結局自分が直接戦争に参加しなければならぬ危険が無かつたからなんだらう。第一、それは醜態だよ。自分も参加して、たとへば戦闘の行はれてゐる塹壕の中で小説が書いて居れたら、偉いと思ふがね。……とにかく、俺あ、今の瞬間を自分だけ安全だと言ふ気はしないものな。実感だよ。それに俺あまだ人間としても画描きとしても青二才だ。自分の動揺をかくしたくない。動揺する時はした方がいゝんだ。それが生きて行く事ぢや無いか! みつとも無い姿で、あつちへフラフラこつちへフラフラしたつて構ふもんか。それが自分だ。一枚二枚の画を描く事よりや、その方が大事ぢやないか。その内に偉くなりや、動揺なんかしない時が来るかも知れん。そんな事あどうでもいゝ。芸術よりや生きる事の方がズツとすばらしい事だよ。(いくら喋つても何か肝心の事がうまく言へないやうな気がするのである。そのために、明るく幸福な気持のまゝに、少しイライラしてゐる)
赤井 そりやさうだ、動揺をかくしたつて始まらん。実際僕なんかも、もう今では割に平気でゐるけど、白状すると赤紙が来た時は顫へが出て止まらなかつた。怖いのとも違ふ。が、どうしても顫へて顫へて、その一晩どうしても眠れないんだよ。伊佐子に、まあどうして顫へるのと言はれて、どうしたんだか顫へだけは一遍にとまつた。……そんなもんさ。……僕達の若さぢや動揺するのが本当かも知れないね。第一、五六年前までの僕達だつて、今から思ふと一つの動揺であつたと言へば言へる。……あの当時の思想の体系は簡単に僕等の裡ではくづれてしまつた。……しかし、あの当時に掴んだ物の考へ方の中の一番本質的な要素……つまり人間に対する信頼と言つたやうなものだな。そいつは、やつぱり無くなつてゐないんだものな。僕あ、兵隊に行つて、そいつを痛感するんだよ。僕がもし兵隊として幾分でも秀れた兵隊だとしたら、そりやみんなそのせゐだよ。事実、僕あ中隊長その他の上官から非常に信頼されてゐる。同じ兵隊仲間や、そいから僕の部下だつて――これでも部下を持つてるさ、伍長殿だからね――どう言ふんだか僕の事を一番信頼してゐるんだよ。自分達が困つてゐる問題は必ず僕の所へ持つて来るし、そいから仲間同志で喧嘩をしてもその決着をつけには必ず僕の所へ来るんだ。自分達の気持を一番よくわかつて呉れる仲間として全然信頼してゐる。不思議な位だよ。はじめは、どうしてだか僕にもわからなかつた。唯単に僕の生れつきの性質の良さと言つたやうなものぢや決して無いんだよ。その内に、ヒヨツと、そいつは若しかすると、今言つた、あの時代に鍛へ上げて来た本質的なもののためぢやないかと思つたんだ。
五郎 さうだ! さうかも知れん。いや、さうだよ。それと言ふのがあの時代を俺達がホントに生きて来たためだ。良かれ悪しかれ生きて来た、そこから一切が生れて来てゐるんだ。あの時代の俺達を批判することなんか、偉い奴等が勝手にやつてくれりやいゝ。そんな事なんか、どうだつてかまはん。大事な事は、嘘も偽りも無く生きて来たと言ふ事なんだ。
赤井 しかしね、久我、君が画を描かない事にや僕あ反対だよ。そりやあ君の気持は判る。判るけれど反対だ。……僕はもう自分の仕事の事なんぞ考へてる余裕は無いし、考へる必要も無い。僕の今迄書いてゐた小説なんか、もうどうでもいゝんだ。しかしそいつは、今こんな風にして立つてゐる僕の事だよ。そして、そいつは僕等にまかして置いてくれりやいゝんだよ。いやいや、どうもうまく言へんけど、僕なんぞ、こんな風になつて何か書かうにも書けなくなつてゐるからこそ、それだから尚、君には画を描いて欲しいんだ。そんな気がする。理窟にしては言へんけど、僕が向うへ行つてゐる間に、君が画を描いてゐる事を想像して居れると、なんか心丈夫な様な気がするんだ。もつとも、いよいよ向うへ行つてガンガンやりはじめたら、君に対して今度は嫉妬を感じるかも知れんけどね。でも今の所、是非描いて欲しいと思ふ。……第一、君は少し自分の考へを頭の中だけで追い詰め過ぎてると僕は思うよ。そいつは、いつも君の悪い癖だ。君は此の瞬間に落着いてゐる事なんか出来ない、自分だけ安全だとは感じないと言つてゐるが、そいつは正直さうだらうけど、だから画は描かんと言ふのは行き過ぎだよ。フラフラしながら描いたらいゝぢやないか。
五郎 そんな事あ無い。今の俺に何が描けるもんか。
赤井 すると全体君は何がしたいんだい? 君は生れつきの画描きだ。それが画を描かないで、何をするんだ?
五郎 俺も戦争に行きたい。
赤井 そら、そんな馬鹿な事を言ふんだ。……行くべき時が来れば否応なしに行かなきやならんのだ。第一君の考へてゐるものと、実際の事との間には殆んど紙一重の違ひだけど、全体を根本的に変へてしまふ違ひが有るんだよ。そいつあ僕が実際に於て経験した事だからハツキリ言へるんだ。十中八九自分が行くものと決めて色々考へてゐた時は、それで全部が整理されて覚悟は出来たと言ふ気がしてゐた。それが、いよいよ行くと決定された瞬間に、全部がもう一度ガラリと変つてしまふんだよ。ホンの紙一重だ。しかしそれが全部を変へてしまふんだよ。そしてそいつは、前以て予想して置くことなんぞ絶対に出来ないんだ。その時をキツカケにして、自分の頭の中も外界の事も以前のまゝでゐながら、どこかガラリと変つてしまふ。うまく言へんけど――。
五郎 わかる! そりや、わかる。絶対だ。そいつが絶対だ。
赤井 もつとも、僕もまだまだ変つて来るだらう。……僕と同じ小隊に前に一度出征した伍長が一人ゐるが、そいつの話で召集された時、出発の時、運送船に乗る時、船中でと、何段にも自分の気持が変つて行くんださうだ。そして向うに上陸した瞬間にはチヤンと国のために生命を投げ出して戦はうと言ふ気になつてゐるんださうだ。さう言つてた。……だから僕もまだ大きな事は言へん。第一僕には戦争と言ふものが全体何だかよく解つてゐないものな。少しは解るやうな気もするが、正直言ふと、そん中に何が有るか、自分でぶつかつて見ないとわからん。だけど今の所では、なんか、非常にサツパリした気持で行ける。ひどく明るい気持だよ。一人の日本人として裸になつてぶつつかつて見ようと言ふ気持だ。嘘ぢやない。今の所嘘ぢやない。だから君も余計な考へ過ぎなんかしないで画を描かなきや、いかん。今言つた紙一重を自分の頭ん中だけで作りあげて、それを跳ね越えようといくらしたつて何になるんだい? 君の言葉で言へば、目下の所、画が君の絶対さ。
五郎 ……(不意にバラバラと涙が[#「涙が」はママ]こぼして泣き出す。泣きながら、二度も三度も頭を下げるやうな事をする)
赤井 ……(その相手を自分も涙ぐんで見詰めてゐたが、やがてわざと少し滑稽に)どうだ描くか、久我先生?
五郎 ……済まん。(又頭を下げて)描く、描く。
 この二人の親友の会話を、寝台の上から、静かに、しかし昂揚した愛情で以て見守つてゐる美緒。
 短い間。
赤井 ……そいからねえ久我、僕の未発表の小説が三つばかり有るんだが、今になると別に発表したくも無いが、でも発表してもいゝ。どつちでも僕あかまはん。どつちにしたつて大して気にならなくなつた。とにかく伊佐子が持つてゐるから、後で、そいつをどうするか、君に一任するから、君が良いと思つた通りにしてくんないか。
五郎 そんな事言ふな。(怒つてゐる)そんな事は俺は聞きたく無い。君が帰つて来てから決めりやいゝんだ。手か足かが無くなつてもいゝから、とにかく帰つて来てから決めろ。
赤井 アツハハハ、いゝよ、いゝよ、怒るなよ。とにかく聞くだけ聞いといてくれ。ハツハハ。そいからね、伊佐子の事もよろしく頼む。実はやつぱり、彼奴の事では家との間がうまく行つてないんだ。やつぱり以前家の女中をしてゐたと言ふ事が、両親はじめ兄弟達の頭から離れないんだ。僕が行つた後は、どうなるかわからん。まさか追ひ出しもすまいが、相当彼奴がひどい目に遭ふ事は覚悟してゐなきやならん。で、どんな事があつても、君が相談に乗つてくれて、君が一番良いと思ふ方法で処置してくれ。伊佐子にもその事は言つてある。こんな状態にゐる君にこんな事頼むのは済まんけれど、ほかに頼む奴はゐないからな。
五郎 ……よし、その事は引受けた。俺あベストを尽すよ。だが多分そんな必要は無いな。伊佐子さんは、なかなか偉い女かも知れんよ。なまじつかな、インテリ風の教養に毒されてゐないだけに単純で、頭の中はハツキリしてゐるからな。
赤井 うん、彼奴はたしかに僕よりは偉いよ。僕が三四年前の蟻地獄みたいな解剖癖から抜け出て、チツトは生きた人間になれたのは彼奴のおかげだからな。動物の様な単純さを持つてゐる……。僕が居なくなつても彼奴は彼奴流にドシドシ生きて行くだらうと言ふ気がする。その点は心配してゐない。しかし又それだから家との事では正面衝突を起して苦しむだらうと思ふんだよ。……うゝん、籍は半年前に入れたから、その点はいゝんだ。だが親父が病身だからね、もし死にでもすると、その後始末、つまり遺産……と言つても大して無いらしいが、そんなこんなでゴタゴタするだらうと思ふんだ。兄弟は多いし、母は気むづかしいし、とても複雑なんだからな。
五郎 よろしい、俺が責任を以て引受けた。大丈夫だ。
赤井 ありがたう。……これでもう心配な事は一つも無いよ。もう一つ飲むかな。今日はどう言ふんだかビールが馬鹿にうまい。
五郎 よし……(と注ぐ)そいで、なにかい、伊佐子さんの生活費やなんかは?
赤井 うん、それは社の方から僕の留守中、月給全額支給して呉れることになつてゐるんだ。
五郎 そいつは、ありがたい。そんな点、君の雑誌は気持がいゝな。もつともそれが当然なんだけど。
美緒 ……伊佐子さん、おそうござんすねえ。もうあと一時間半位しか無いのに。
赤井 もしかすると今日も家を出られないかも知れませんよ。なんしろむづかしい家で……
美緒 でも、いくらなんでも、こんな際に……。
赤井 いゝですよ。話すだけの事はスツカリ話しちまつてあります。それよりも僕あ久我ともつと話したいんですよ。でも、どう言ふのかなあ、あんまり話す事なんか無いなあ。
五郎 俺あ、なんかまだ大事な事を話してないやうな気がするんだが、それがどんな事だか思ひ出せないんだ。かんじんの事が出て来ない。頭がしびれた様になつちやつた。睡眠不足のせゐかな、チエツ!
赤井 ビールのせゐだよ、僕あもうフラフラだ。
赤井 美緒さん、あなたの託児所の方は、その後どうなつてゐるんです?
美緒 えゝ、畑さんやなんかが続けてくれてゐるんですの。その後あそこも――。
五郎 お前黙つてろ、俺が話す。その後あすこも経営難で一時は閉鎖しちやつたりした事があるがね、あれつきりになつたら、美緒なんか、こんな病気にまでなる位に骨を折つて創立した所だしね、あきらめがつかないんで、とてもヤキモキしてゐたんだ。第一、あの近所の貧乏なお神さん達がトタンに困るんで、色々気をもんでゐたら、やつと、あの地域の家庭購買組合の方で引受けてくれたんだ。そいでやつと命がつながつてズーツと続いてゐるが、面白いもんぢやないか、美緒たちの育てた子供達がいつの間にか大きくなつて、こないだも四五人でお見舞ひに来てくれた。それぞれ女工さんになつたり職工になつたりしてゐる子もあるし、驚いたよ。なあ美緒。自分が年を取るのは知らずにゐるもんだねえ。しかもそれが、まだ大人にもなりきらないのに、それぞれシツカリやつてゐるんだ。もつとも、これは託児所で一緒にやつてゐた職業補習学校に来てゐた連中なんだが。一人の男の子は、もつと勉強したいけど家が貧乏で困つてゐるんで家のために働いて行かうか、それとも家を出て勉強しようかと苦しんでゐるし、もう一人の男の子は来年になつたら満洲へ働きに行くんだと言つて仕事の隙に満洲語を習つてゐるし、女の子の中には、自分の出身した補習学校の助手になつて、もう恋愛みたいな事をしてゐる奴もゐる。面白いのは、或る鉄工場に入つてゐる少年でね、そこの自治会に加入して――勿論あまくだりの会だがね――その内部をモツト自分達のものにしなきやいかんと言ふんでグングン活溌に働いてゐる奴なんかがゐるんだよ。そいつの父親もやつぱり職工で、以前城北の方でかなり優秀な男だつた奴だ。その子がそんな風になつたのには、父親の影響も有るにや有らうが、表面なんのつながりも無いんだね。勿論書物を読んでそんな考へになつたのでもない。第一、父親の昔の運動とは、考へ方の基礎が全然違ふんだな。言はゞ一種の全体主義的とでも言へる協同主義みたいなものを目ざしてゐる。まだハツキリしたもんぢや無いが、当人は大真面目なんだ。とにかくそんな小さな子が自分の頭だけで考へた事なんだよ。生活といふか、時代といふか、そんなものが教へてくれたんだな。面白いぢやないか、え? いろんな奴が居るねえ美緒!
美緒 ……(非常に幸福さうにニツコリして見せる)
赤井 さうか、そいつはすばらしいね。良い仕事といふもんは、いつの時代になつたつて、なんか後を残すもんだな。消えてなくなりやしない。美緒さんもうれしいでせうね。
美緒 えゝ。でも、私、かうして寝てゐても、あの子達のことを思ひ出すたんびに、心配になつてしやうが無いんですの。いつまでも小さい子供のやうな気がしてゐるんですのね。
赤井 それでいゝんですよ。それでいゝんですよ。次から次と、頼もしい奴等は生きて行つてくれる。僕あね、久我、近頃急にそんな気がする事があるんだよ。僕が死ぬ。その死んだ後で、この自然やそれから大勢の人々が僕の居なくなつた事なんか知らずに以前通りにヘイチヤラな顔をしてズーツと続いて行くといふ事を考へると、以前はイライラしてたまらなかつたけど、近頃そいつが反対に、なんかとても頼もしい気持がするやうになつて来た。
五郎 ……(なんにも言へない)
美緒 ……私も、もう一度、生れ変るかなんかして、どんな事をやるかと言ふと、又過労のためにこんな病気になる事がハツキリわかつてゐても、又託児所をやります。……そんな気がするんですの。
五郎 ば、ば、馬鹿な! そんな――こら! お前達! たまるか! いや、さうして見ろ、そんな元気があつたら、それもいゝだらう! ただ、死んだらいかん! 死なれてたまるかい! (睡眠不足とビールの酔ひと昂奮のために、美緒を見たり赤井を見たりして言ふ)な、赤井! そんな、そんな、野狐禅の坊主の言ふやうな事は俺は嫌ひだよ! 美緒、阿呆だ、そんなおめえ――
赤井 アツハハハ、ハハハ(これも酔つて真赤になつてゐる)怒るな! 怒るな! 話をしてゐるんだ。ハツハハハ。
 この時玄関に、美緒の弟の利男と、赤井の妻の伊佐子が連れ立つて入つて来る。利男は背広姿で、少し軽佻で落着きに欠けてゐるが、善良さうな男である。言語動作に学生風が抜け切らない。伊佐子は、簡単な洋服姿に、フロシキ包みを下げてゐる。ガツシリした直線的な身体に、思ひ切つて明瞭な感じの美しい顔。素朴な人柄の中に永らく他家の女中をしてゐた者の習慣的な卑下の態度がまだ抜けてゐないし、それに今日は出征する夫に会ひに来たせゐか、稍々おびえた様な顔つきが時々覗く。
利男 今日は。
五郎 ……あゝ利ちやんか。伊佐子さんも来ましたね。ようこそ、赤井はもうトツクに来てゐますよ。(伊佐子、無言で辞儀をする)さあさ。……
利男 (あがつて来ながら)電車が丁度同じでしてね。どつかで逢つたやうなと思つてゐたら此処でいつかお目にかかつてゐたんだ。……姉さん、どう、具合は? (美緒うなづいて見せる)もつと早く来ようと思つてゐたけど、又お母さんに話しかけられちやつて。なあに、例のお嫁の話さ。いやんなつちまわあ。ハツハハハ、これ、おみやげ。(と菓子の包みを姉の枕元に置く)
美緒 ありがたう。
伊佐子 (あがつて片隅に坐つてモヂモヂしてゐたが、キチンとお辞儀をして)暫くでございました。奥さん、その後いかゞでゐらつしやいますの?
五郎 いゝんです、いゝんです。挨拶なんか抜きにして下さい。赤井は随分待つてゐたんですよ。
利男 (赤井に辞儀をして)……今度いよいよ、なんですつてね。電車の中で伺ひました。
赤井 やあ。後の事はどうかよろしくお頼みしますよ。
利男 そいで、御出発はいつなんですか? どの方面ですか? やつぱり北支でせうね?
赤井 ハツキリわかりません。いづれ、そこいらだらうとは思つてゐるけど。(小母さんが一同に茶を運んで来る。小母さんと伊佐子は辞儀を交す)
利男 どうかしつかりやつて来て下さい。僕なども今に来るだらうと思つてゐますけど、なんでせうか、補充兵といふのは、入隊してからどの位の間教育してから現地へ行くんでせうか? 大学で軍事訓練の方はやつて来てゐるんですけど、ウワの空でやつたもんですから、どうも身体に自信が無くつて。こんな事ならもつとマジメにやつとくんでしたよ。ビシビシやるんださうですね?
赤井 (苦笑しながら)補充兵の教育期間もいろいろで、一定してゐないやうですね。一時随分気合ひをかけられて辛らかつたさうだけど、現在はそれ程でもないでせう。
利男 なんですか、痔が悪いと、はねられるさうですけど、僕も少し痔の気があるんで……。もつとも大した事はありませんけどね。
美緒 利ちやん、あんたばかりそんなにベラベラ喋るもんぢや無くつてよ。
利男 なんだよ?
美緒 いえ、伊佐子さんも見えてゐるんだから――。
赤井 なに、いゝんですよ。ハハハ、(伊佐子に)又、家でグズグズ言つたんだらう?
伊佐子 えゝ、……いゝえ。……あのう、これ、こちらの奥さんにハムを少し、それからあなたの冬のシヤツを二枚。……そいから、欲しがつてゐたライタアと、固型ガソリン。ガソリンは随分捜したの……(フロシキ包みを差し出したまゝ、おびえた様な顔をして、しかし目を大きく開いて、赤井の顔をジーツと見詰めてゐる)
赤井 さうか、ありがたう。……どうしたんだ?
伊佐子 ……(石の様に夫を見詰める)
利男 ……なあんだい姉さん、元気さうぢやないか。お母さんや恵子姉さんが、なんだか大分悪さうだと言ふもんだから、心配しちやつたよ。この間お母さんや恵子姉さんやつて来た時に、なんか有つたんだつて? だもんだから僕あ――。
赤井 (聞きとがめて)え? なんか有つたんですか?
美緒 いえ、なんでもありませんの。(利男に)相変らずね、お母さんは、ホンのチヨツトやつて来ただけで、私をよく見もしないで、直ぐにそんな風に言ふのよ。
赤井 (美緒のために心配して、五郎を見て)具合が悪かつたんぢやないか? かうしてゐるの良くないんぢやないか?
五郎 うゝん、いゝんだ、いゝんだ。なんでも無いんだ。利ちやん、お母さんは直ぐに大袈裟に言ふんだよ。
利男 でも、とにかく、あれで姉さんの事を心配してゐる事は本気で心配してゐるんだからなあ。
五郎 そりや、さうだ。そりや、さうだ。たゞね――。
美緒 (イライラしてゐる)利ちやん、あんた、少し浜の方を散歩でもして来たらどう?
利男 うん、さうしようかな。勤めてゐて久しぶりに外に出て来ると、なんかしらん、気が立つてね。ハツハハ、海でも見て来るかな。赤井さんも行きませんか?
美緒 いえ、赤井さん達には色々お話が有るだらうから――。
利男 あのね、姉さん、僕の事で此の前お母さん何か話してゐなかつた? いや、目下、その、候補者が二人有るんだよ。僕あまだ月給四十五円しか取つてゐないし、そんな話は未だ早いと言ふんだけど、お母さんは、そんな事あ無いと言つて肯かないんだ。そいで――。
美緒 (苦笑して)後で聞かせて貰ふわ、後でね。比企さんの京子さんも見えてゐるわ。
利男 え、京子さんが? さう、一人で?
五郎 いや、兄さんと一緒だよ。今、浜で泳いでゐる筈だ。
美緒 利ちやんも泳いで来たら、どう?
赤井 いや、僕等の事なら、どうぞ、御遠慮なく。かまひませんよ美緒さん。
利男 (やつと少し姉の気持が分つて)[#「分つて)」は底本では「分つて」]……ぢや僕、チヨツト行つて来るかな。泳ぐのも久しぶりだなあ。水着は此の前のが有つたね。……ぢや又あとで。(台所の方へドンドン去る)
赤井 相変らず元気だな。
五郎 (苦笑)なんしろ勤めはきまつたし、面白くつて仕様がない時代なんだね。でも性質は無類に良いんだ。これの肉身の中で、あの男だけは飛び抜けて善良なんだよ。……伊佐子さん。わざわざおみやげを済みません。いよいよ赤井が行くとなると、あなたも大変だ。
伊佐子 はあ。……(眼はやつぱり赤井を見てゐる)
赤井 なあに平気だね? あとの事は久我君にみんな頼んどいたから。家の者が少し位変な態度を見せたつて、知らん顔してりやいゝんだ。
伊佐子 (今迄固くなつてゐたのが、フツと自由な気持になつてニツコリして)あなた、顔が真赤だわ。
赤井 ひどく飲まされた。ハツハハハ。
伊佐子 あのね……(と何か言ひ澱んでゐたかと思ふと不意にシクシクと泣き出す)
赤井 (びつくりして)なんだ、どうしたんだ? ……どうした?
伊佐子 (二つ三つ声を出して泣く)……私、どうしたら、いゝんだらう? あなたの居ない時に生れちやつたら、どうしよう?
赤井 なんだつて?……生れる?
伊佐子 さうぢや無いかと思ふの。……私、ホンの此の間まで、気が附かなかつたの。でも、もしかすると、さうぢや無いかと思ふの。……家の姉さんに聞いたら、多分さうだつておつしやるの……。
赤井 さうか。でも、なにか、医者に診て貰ふとか、なんとか……?
伊佐子 姉さんは、医者に見せるまでも無いんだつて。……そいで私、どうしようかと思つて――。
五郎 さうですか。いや、なあんだ! それでいゝ、それでいゝんだ。どうしようかなんて思ふ必要はありませんよ。なあんだ伊佐子さんも少し馬鹿だ。いゝじやありませんか、それでいゝんだ。俺がゐるからいゝんだ。
赤井 ……僕の子が生れる。……さうか。
五郎 いゝんだ、いゝんだ! それでいゝんだ!
赤井 ……久我、ひとつ、よろしく頼む!
五郎 大丈夫だ。俺が引受けた。
美緒 伊佐子さん、お目出度う。
伊佐子 まあ……(両手で顔をかくしてゐる)
赤井 (うれしさを隠しきれず、でもテレて顔を掻きながら)……こんな、今頃になつて出しぬけに、どうも――。
五郎 いゝぢやないか。赤井、もう一つ飲め。伊佐子さんも一つ飲みなさい。(ビールを注ぐ)
美緒 伊佐子さんは飲んぢやいけないわ。
五郎 え?……あ、さうか。ぢや赤井、お前飲め。
赤井 でも俺あもう先刻からグラグラして、ひどく睡くなつて来ちやつた。(飲む)
五郎 いゝぢやないか。眠くなつたら寝たらいゝ。時間が来ればチヤンと起してやる。
美緒 (しばらく前から何かひどくイライラしてゐる)さう、ホントにお眠りになつたらいゝわ。あなたは、少し散歩して来なさいよ。
五郎 俺か? いや、俺あもつと赤井と話が有るんだ。
美緒 だつて……そんな事になれば、伊佐子さんも、もつと何かお話があるでせうし、あなたホントに浜へチヨツト行つて来るといゝわ。
五郎 浜へなんか行きたく無い。伊佐子さん話があればすればいゝぢやないか。どんな話だつて俺達の前でしてくれていゝよ、なあ赤井。
赤井 うん。なんかもつと話して置きたい事が有つたんだが、――いや君にだよ、――どうも、うまく言へなくつて。そこへ持つて来て、今の話で、スツカリどうも毒気を抜かれちまつた。ハツハハハハ。
伊佐子 (明るい自然な嬉しさうな顔になつてゐる)だつて、あなた。……(笑つて)でも、ホントにあなた真赤よ。うでだこみたい。それで聯隊へ帰つたら叱られやしない?
美緒 ですからホントにあつちの居間の方でいつとき横におなんなさいよ。なんなら小母さんにチヨツト毛布でも出して貰ひますから。(五郎に)ねえ、お願ひだから、あなた散歩して来て頂戴よ! (語気が強い。先程から顔を紅潮させて、イライラしてゐるのである)ね! もうあと一時間しか無いのよ!
五郎 だから俺あもつと赤井と話がしたいんだと言つたら! お前、なんでそんな風に言ふんだ? (少し怒つてゐる)
美緒 ですからさ! だから――(伊佐子に)伊佐子さん、ホントに御遠慮はいりませんから、あちらへ、どうぞ! それぢや赤井さん佐倉へは帰れませんわ! 居間の押入れに毛布がありますから。小母さんは、たしか買出しに行つたやうですから、どうか御遠慮なく。ホントに! 横になつてユツクリなすつて!
伊佐子 はあ、でも(モヂモヂしてゐる)
赤井 (びつくりして不安な眼で見ながら)……いゝですよ、そんな。寝たきや、勝手に寝ますから、そんな……。
美緒 どうぞ、ホントに……(涙声になつてゐる)
五郎 (美緒の昂奮のしかたが、あまり異様なのでドキンとして)美緒、お前、どうしたんだ? 真赤ぢやないか。(と額に掌を当てゝ熱を計る) なんでそんなに……?
美緒 (その五郎の掌を振り払つて)いゝのよ! ホントに浜へでも散歩に行つて! ね!
五郎 行けと言やあ行くけど、……なにをそんなに気を立てるんだ。どうしたんだ?
美緒 どうもしない! 気分が悪いんぢや無いの。だからさ!……(泣き出してしまふ)
五郎 ……? (不安さうに、どうしていゝかわからず美緒を見詰めてゐる。赤井夫妻も心配さうに美緒を見守つて困つてゐる)


4 浜で


2と同じ場所。
砂丘の上にも、波打際にも人影は見えない。
砂丘の中腹の草の上に、比企の脱ぎ捨てた浴衣が置いてある。
その上の草の中から聞えて来るアルトの Torna A Surriento(G. B. de. Curtis)「ソレントへ帰れ」
唄声はその辺一体に流れ漂うてゐる。
京子が砂丘に寝て歌つてゐるのである。草にかくれて姿は見えない。
歌は二度繰返へされる。
その二度目の真中あたりで、利男が水着姿で、街道の方からスタスタやつて来る。
唄声に近づくに従つて足音を忍ばせるやうにして、砂丘の下で立停り、ジツと唄を聞いてゐる。
唄が終る。


利男 ……京子さん! 京子さん!
京子 ……(草の上に上半身をムツクリ起して)あゝ、利男さんでしたの? 誰かと思つた。……(海水帽に水着一枚。肩から浴衣を羽織つてゐる)
利男 (チヨツトまぶしさうにしながら)しばらくでした。兄さんと御一緒ですつてね?
京子 いついらつしたの? 御見舞ひ?
利男 えゝ。たつた今来たばかりですよ。あなた方が泳いでゐらつしやると聞いたもんですから……。比企さんは沖ですか?
京子 もう海は冷たくつてよ。私は後でボートに乗るの。
利男 ……相変らず良い声だなあ。
京子 あら、聞いてゐたの? お人の悪い。
利男 少しボーツとしましたよ。毎日ガチヤガチヤと仕事に追はれてゐるもんだから、たまにこんな所に来ると、何だか変な具合になつちまひましてね。(京子に並んで腰をおろす)
京子 御就職きまつたんですつてねえ? おめでたう。
利男 さうさう、この前お目にかゝつたのは、学校卒業したばかりの時分でしたつけ。いやあ、どうも月給の高を考へると、おめでたうなんかと言はれると泣きたくなる位のもんですよ。(でもニコニコしてひどく幸福さうである)
京子 そんな事無いわ。はじめは誰だつてさうなんでせう? でも男の方はいゝわね、学校出ると直ぐさうして世間に出られるんですもの。女なんか、何かといふと、お嫁の話よ。いやんなつちやう。(口先では相手の話に乗つて行つてゐるが、実は利男とこんな話をするのに大して気乗りはしてゐない)
利男 でも京子さんなんか、兄さんは良い方だし、自分でもさうして勉強なすつてゐるし、そんな事はないでせう。
京子 さうでもないわ。いくら唄の勉強をして、自分だけは本気になつて一生やる気でゐても、それだけの才能が有るか無いか……無ければそれつきりでしよ。そん時になつて急にあわて出してお嫁に行く気になつても、もうオバーちやんになつちやつて、貰つてくれ手なんか居ないと。フフ。
利男 そんな事は無いでせう。
京子 (高飛車に)利男さんもそろそろお嫁さんの話ぢやなくつて? さうでしよ? いゝわね、どんな美人でも選り取り見取りつてわけね。
利男 (頭を掻きながら)なんだ、ひでえなあ!……でもなんですね。見合ひの写真なんてものも、次から次と見せられると、なんだか変な気がしますね。
京子 どうして? そんな事無いでせう? だつて男に取つて得意の絶頂ぢやなくつて? さうぢやありませんか、この中からどれでも自分の気に入つた美人を選び出しさへすれば、それが一ヶ月後には自分の物になるんですもの。まるで英雄になるんですもの。これがエゝノウと言ひさへすれば、自分の前にチヤンと御馳走が並ぶんですものね。
利男 それが不愉快なんですよ。だつて、大概まあ一人一人、必ずしも美人では無いとしても、とにかく何処へ出しても耻かしくない娘さんでせう? それを次から次と、まあ、たかが写真だといへば、それまでなんですけれど、とにかく舐めまはすやうにして見て行くんです。……正直言つて、男が見合ひ写真を見ながら、腹の中で想像することなんか、どんなに醜悪なものか、とても人前で言へたもんぢやありませんからね。
京子 どうしてそれが醜悪なんでせう? 第一、その娘さんの方で、そんな風に見て貰ふ事を望んでゐるんぢやなくつて? 写真に限りやしないわ、現にその人を見ながらなら尚更ひどい所まで考へられる訳ぢやなくつて? それでいゝんぢやないかしら。
利男 そりや……なんですよ……その、愛情と言ふか恋愛と言ふか、そんな感情がともなつてゐる場合なら、それでいゝんですよ。しかし、いきなりそんな失敬な――。
京子 同じ事ぢやなくつて? それに、いきなり初めて見てその瞬間に恋愛なんて、そんな手の込んだ気持なんか起りつこ無いわけでしようし、無理だわ。
利男 それぢや、なんですか、……それぢや、えゝと――京子さん、現にですね、あなたがさうしてゐらつしやる所をですね、僕がですよ……僕が見てですね、どんな失敬な事を考へてもいゝんですか?
京子 (自分の半裸の身体を見廻して)……さうね、……どうぞ御自由に。……だつて、あなたの頭の中まで私が支配するわけには行かないんですから。……でも、私の方だつて、あなたがさうしてゐらつしやる所を見て、どんな事考へることだつて自由ですからね、相みたがひだわ。
利男 ……(立ち上つてモヂモヂしてゐる)そんな! そんな事言へば――。
京子 アツハハハ。ハハハ。
利男 ……そいぢや、京子さんは、結婚の前提としての恋愛と言つたやうなものは否定なさるんですかねえ?
京子 否定なんかしないわ。でも、私がもしも結婚するとすればお見合ひをタツタ一遍だけして、決めちもうわ。もしかするとお見合ひもよしちやつて、いきなりまるきり知らない男の人の所へ行くかも知れないわね。同じ事ぢや無い? 恋愛から入つて行つてもさうで無くつても、そこから先きに何が在るか、どつちにしたつて前以つて判りやしないんですもの。
利男 さうかなあ……。
京子 さうよ。第一恋愛なんかメンド臭いわ。私のお友達なんかでも恋愛してゐる人も沢山ゐるし、恋愛から結婚した人も何人かゐるけど、見てるだけでもモタモタして来るわ。……こんな風に考へてゐるの、私だけぢやないの。同じやうなのが、随分ゐてよ。私たちみたいな変に半端な教養を持つた女なんか、顔でこそ何か理智的みたいな風をしてゐるけど、実は近頃殆んどこんな風に思つてゐるんぢやないかしらんと思ふわ。
利男 ……いやあ、なんぢやないですか、もしかすると京子さんは自分でその恋愛をしてゐるもんだから、わざとそんな事を言つてはぐらかすんぢやありませんか?
京子 私?……さうね、さうだとありがたいけどな。
利男 ……あなたは、久我さんの事など、どんな風に思つてゐるんです?
京子 久我さん?……五郎さんのこと?
利男 さうです。
京子 才能のある画家だと思つてゐるわ。それに奥さんが御病気でお気の毒ね。
利男 僕の言つてゐるのは、そんな事ぢやありませんよ。あの人の性格のことですよ。
京子 ……暗いわね。あの方を見てゐると私時々、ゾツとすることがあるわ。近頃益々さうぢやない? それに、ひどい独断家ね。良い意味でも悪い意味でもいつもドグマしきやあ持つてゐない人だわ。現に奥さんの病気だつて、もしかすると、あんな事をしてゐるよりも、奥さんだけサナトリウムにでも入れた方がいゝかも知れないでせう。だのに久我さんはそんな風には絶対に考へられない人なのよ。もつとも奥さんだつて、現在のやうにしてゐる以外の事は考へられないでせうけどさ。だから、それの良し悪しを言つてゐるわけぢや無いの。なんか、運命と言つたやうな物を感じるわ。結局、自分と言ふものをローソクみたいにして、そのローソクに火を附けて燃してゐる人よ。その火の光で人を見るんだわ。……あのまゝでだんだん行つてゐると、下手をすると気が変になるんぢやないかしら。……でも久我さんの持つてゐる魅力もそのせゐかもわからないわね。なんか恐ろしく執念深い動物電気みたいなもの。あの方の画だつてさうだわ。どす黒いみたいな情熱ね。
利男 ……いや、そんな事ぢやありませんよ。僕の言ふのは、なんと言つたらいゝか、……久我さんの事を、もしかするとあなたは、かなり興味と言ふか、なんか関心を持つて見てゐられるんぢや無いかと言ふ気がフツとした事を憶えてゐるもんですからね……。
京子 ……私が? へえ、さう。さうかしら?
利男 あの人は、僕の姉の亭主ですがね、今僕が言つてゐるのは、自分の姉の味方をして、なんか心配になつたりして言つてゐるんぢや無いんですよ。……僕、自分の気持から言つてゐるんです。自分でそいつを知りたいからなんですよ。
京子 ……さうね、さう、嫌ひぢや無いわね。でもなんか、あぶない様な気もするわね。それに何だかあの方は古いわ。もつとも、私は古いと言ふ事自体は好きだけど……。
利男 ……実はさつきも其処まで来てあなたの歌を聞いてゐながら、もしかすると、あなたは歌を唄ひながら久我さんの出て来るのを待つてゐるんぢやないかと言ふ気がチラツとしたんですよ。いや、こりや僕のチヨツトした空想だから当らないかも知れません。多分当つてゐないでせう。
京子 当つてゐるかも知れなくつてよ。フフフ。とにかく、今此処に五郎さんがヒヨツコリやつて来ると、なんだか面白いわね。……利男さん、私がね、あなたのお嫁さんになりたいと言つたら、あなた、どうなさる?
利男 えゝ? そ、そ、そんな――。
京子 私、本気で言つてゐるのかも知れなくつてよ。ホント! どうなさる? 貰つて下さる?
利男 そ、そ、それホントですか? ホントなら、僕あ――。
京子 ホホホホ。フフ……だからさ。どうなさるのよ?
 この時、出しぬけに砂丘の向うから五郎が出て来る。酔つた顔に何か戸惑ひした様な表情を浮べて、家の方角を振り返り振り返りしながら、ボンヤリしてゐて、此処の二人が居る事など全く知らずにゐる。
 足音で京子が振り返り、次に利男が五郎を見る。
京子 ……まあ、五郎さん。
利男 どうしたんですか?
五郎 うん……(まだ家の方角を見る)
京子 ホホホホ。ハツハハハ。
五郎 なんです? どうしたんです?
京子 ……いえね、あなたが此処へ来たら面白いと話してゐた所だつたの。そいで――。
五郎 さうですか。……(此の場の会話には関心が持てないらしい)
利男 どうしたんですか? ひどくボンヤリしてゐますね。
五郎 (やつと表情らしいものを動かして)うん?……うん。なあに、ハハ、美緒の奴に家を追ひ出されちやつてね。わけもなしにママレヂレと怒り出すんだ。病人の頭の考へ出すことなんか判らんよ。ハハハ。
利男 熱でも出たんぢやないかな?
五郎 それさ。……心配させやがる。
利男 赤井さん達はもう帰つたんですか?
五郎 いや、まだ居る。
利男 だいぶ飲みましたね?
五郎 うん、頭がガンガンしやがる。三日ばかりロクに寝てゐないしね。
利男 ぢや、やつぱり姉さん悪るかつたんですね?
五郎 ……一時はもう駄目かと思つた。まるでもう死に物狂ひだ。比企さんが来てくれたんで、ありがたかつた。でも、もう大丈夫だ。いつでも一定の周期があつて、つまり峠だな……そいつの昇り坂の所では、どんなに抵抗しても人間の力では到底駄目だ。自然に頂上に来るのを待つより手は無い。やり過すんだね。下り坂にかゝると、うつちやつて置いても、多少無理をしても、平気だ。ケロリと落着いてしまふ。やれやれと言ふ所だ。あゝあ!
利男 実際、すみませんねえ。五郎さんにばつかり苦労させて。
五郎 なんだよ?……利ちやんが、そんな風に言はなくつてもいゝよ。僕は辛いとも何とも思つてやしない。……美緒が変なことにでもなると、多分、もう俺も駄目になるかも知れんからなあ、つまるところ自分が可愛いゝから、かうしてゐる様なもんさ。
利男 ……母さんが、もう少しシツカリしてゐて、代り合つて看病でもしてくれるといゝんだけど……。
五郎 いやあ……いやね、看病はいゝから、ただ美緒に変なこと言つてくれないと、ありがたいけどね。
利男 ……この前も、なんか名古屋の家の話をしたんぢやないんですかね?
五郎 うん、チヨツト。
利男 やつぱりそれで姉さん悪くなつたんだな?
五郎 いやいや、さう言ふ訳もないが……。
利男 僕があれ程反対しても母さんは言つちまふんだからな。大体、名古屋の財産なんか、いくらの物でもありやしないし、初めから美緒姉さんの物なんだから、今更僕等がヤイヤイ言へた訳のもんぢやないんですよ。事実僕なんぞ、そんな物無くたつていゝんだ。そりや金は欲しいけど、それは姉さんの病気が治つてからユツクリ分配すりやいゝんですよ。
五郎 いや、美緒が現在の様な有様だから、もし万一の事があつたらと、お母さんとしては心配になるのは無理は無いかも知れないんだ。……でも、兎に角彼奴は恐しく神経質になつてゐるからね。たとへば僕が彼奴の病状を心配してゐるといふ事をチラツとでも感附かせただけで、もういけない。ピリピリツと反射して行くんだな。恐しい位だ。それを押へつけて、彼奴の気持を安静にしとく為には、絶えず病人の神経の届く範囲に先廻りをしたり、裏の裏をかいたり、とにかく彼奴よりも強い神経でピシリピシリとのしかゝつて押へつけて行く以外に手は無いんだ。西洋の医者で「結核は呼吸器病と言ふよりも精神病である」と言つてゐる奴があるが、全くだよ。……それ位なんだからな。
利男 とにかく母には今後その話は絶対にさせない事にしますよ。
五郎 いや、僕あね、なるべく早く、その書換への書類に美緒に印を捺させてしまはうと思つてゐるんだ。……どうせ利ちやんがとめてくれた位で話を控へてくれるお母さんぢや無い。いや悪く言つてゐるんぢや無いぜ。どうせさうなるもんなら一日も早くさうしちやつた方がいゝからさ。

利男 ……さうですか。
五郎 ……今日は、だいぶウネリがある。……沖は荒れてるな。……京子さん、もう泳いだんですか?
京子 ……いゝえ、兄だけ泳いでゐるわ。
五郎 へえ。……(沖を見て)此処からは見えないなあ。
京子 そんなに遠くまで行けるもんですか、あのブイの処よ。
五郎 見えんなあ……。
京子 ほら、赤いのが見えるでしよ? 鴎の飛んでいるチヨツト右の辺、赤いブイの近くよ。
利男何か考へながら下手の方へ歩み出してゐる。
五郎 ……波が高い。……(ボンヤリ沖の浮標を見てゐる)
京子 あら、利男さん泳ぐの?
利男 いや。……さうだな、ボートでも少し漕いで来るかな。貸しボート屋やつてゐるかな? (眺めて)あゝ、まだやつてる。京子さんもどうです?
京子 あなた漕げて? ウネリが高いから、マゴマゴしてゝ、ひつくり返りの、ドブンなんて、ありがたく無いからな。
利男 (苦笑)冗談言つちやいけません。中学時代、これでボートのチヤンだつたんですよ。
京子 さう? そいぢやあ後で乗せて貰ふわ。その辺まで持つて来て、浜につけてね。
利男 かなはんなあ。……(言ひながら上手へ歩み去る)
 短い間。
 五郎はまだ沖を見てゐる。
京子 ……善良な方ね、利男さんて?
五郎 え?……さう。ありや良い男です。
京子 恋愛結婚なんて認めないつて言つたら、憤慨なすつてゐたつけ。
五郎 なんの事ですか?
京子 五郎さん、お顔が真青だわ。眼の中は真赤。酔つてゐらつしやるのね。
五郎 或る程度以上飲むと、近頃、青くなるんです。でも酔つちやゐません。ハハ。……赤ん坊が生れるんです。
京子 え、赤んぼ? 赤んぼが生れるつて、奥さんに?
五郎 いやあ、なに。いや、それは、いゝんですよ。美緒の話ぢやありません。アツハハハ……(言ひながら笑つてゐたが、京子を見てゐるうちに、フツと眼がさめたやうになつて、笑ひをパタリと止めてしまふ)……。
京子 なんですの?
五郎 いや……(ヂロリヂロリと京子の姿を眼で舐めまわしてゐる)
京子 どうなすつたのよ。
五郎 あなた、……目方はどの位あるんです?
京子 いやだわ。そんな事聞いてなんになさるんですの?
五郎 どれ位あるんですか?
京子 ……十四貫五百。
五郎 十四貫五百。思つたより無いな。十四貫五百か。……(まだ京子の身体から眼を離さない。ギラギラとして殆んど残忍な眼光である。画家として久し振りに美しいヌードを見たシヨツクと、永い間抑圧されてゐた男としての刺戟の[#「刺戟の」は底本では「剌戟の」]こんぐらかつたものである)
京子 (少しモヂモヂしながら)……そんなに御覧になつちや困るわ。
五郎 あゝ、いや。……ハハ(と、痙攣する様に短かく笑つて、平手で顔をゴシゴシこする)……失敬。
京子 何を考へてゐらつしやるの?
五郎 え?……あゝ。……僕が今なにを考へてゐるか、わかりますか?
京子 そんな事わかりやしないわ。
五郎 ……美緒の身体の事を考へてゐるんです。あいつの目方の事ですよ。十四貫五百。……あなたは十四貫五百あるが、彼奴はいくらあるかなあ。十貫……いや、そんなには無い……八貫……いや、もつと軽い、七貫位かな。とにかく恐しく、軽いんだ。僕の片手で、持ちあがるんですよ。元来、肥えてゐた方なんで、丈夫な頃は十三四貫はありましたよ。今は七貫位……あなたの半分――。
京子 七貫なんて、そんな……。だつて、どうしてそれがおわかりになるの? かゝへておやりになるの?
五郎 かゝへてやるんです。寝台から静臥椅子にうつす時に。……軽い。……まるで真綿でもかゝへてゐるやうに軽い。……肉がまるで無くなつちやつてゐるんだ。そのたんびに、僕はズキーンとするんですよ。ズキーンとする。……これが以前ヅツシリと重かつた女です。……をんな。……さうだ、彼奴はもう女では無いんです。それでゐて、彼奴はやつぱり女ですよ。妙な気がする。彼奴の身体の事は一切合切、全部、僕は知つてゐる。それでゐて、なんか、とても妙な気がするんです。
京子 お気の毒ねえ。(ホントに同情してゐるのである)
五郎 いや、そんな意味で言つてゐるんぢや無いんです。そんな殊勝らしい気持で言つてるんぢやない!……どうか、かんべんして下さい。
京子 なにをおつしやつてゐるのか、わからないわ。御気分が悪いんぢやなくつて?(心から心配さうだ。此の女は、五郎と二人きりになると、急に女らしく受動的に素直になる。従つて又、利男その他を相手にしてゐた時の高飛車な輝きも失つてしまつて、極めて平凡な女になつてしまふのである)
五郎 なあに、なんでもありませんよ。少しグラグラするだけです。
京子 でも、なんですか、もつと休養なさる様にしないといけないわ。あなたまで身体を悪くなさりでもしたら、美緒子さんだつて結局――。
五郎 そんな事は言はないで下さい。美緒の事なんぞ言はないで下さい。あれは良い奴です。あんな良い奴はありません。しかし、貪欲です。恐しく貪欲です。なにもかも、それこそ何もかも取り上げないと承知しないのです。あいつは死にかゝつてゐます。死にかゝつてゐるくせに、なにもかも容赦しない。全部、それこそ、自分の周囲の人間の呼吸してゐる空気まで、自分のものにしないと承知しないんだ。こつちが息苦しくなつて、息がつけなくつても、彼奴は、まだ取らうとする。僕は、自分が彼奴を大事に思つてゐるか憎んでゐるか、わからない時がある。……いや、美緒ぢやない、美緒を憎むと言ふよりも、彼奴の持つてゐる生命です。生命と言ふものの貪欲さです。生命の本能です。執念深い……そいつは恐しく執念深い。愛情だとか、愛だとか、そんなものでは、もう間に合はないんだ。そんな甘つちよろい物なんか吹き飛んでしまふ。なんか、もつと別な、もつと物凄いもんです。……僕あ、時によると美緒を一思ひに殺してやらうかと思ふことがあるんですよ。
京子 まあ、キビの悪い。何をおつしやるの? そんな――。
五郎 (不意にニヤニヤして)キビが悪いですか? ハハ、さうなんですよ。でも、人間は一刻一刻に死んでゐるんですよ。少しづゝ、一刻一刻に死につゝあるんです。自分でも知らない間に、少しづつ死につゝあるんです。この地面は曾て死んだ人間の死骸で充満してゐるんです。いや、地面それ自体がソツクリ曾て生きてゐたものの死骸なんだ。さうでせう? さうなんですよ。人間の身体だつて、毎日々々死んで行く細胞の墓場です。新しい細胞は、墓場の上にしか生れて来ないんです。……戦争が有つてゐます。戦争が有つてゐます。戦争……それがどんなものだか、あなた解りますか? 解りますか?……赤井に子供が生れようとしてゐますよ。子供?……それが何だか解りますか? 同じ事なんですよ。同じ事なんだ。赤井は向うで倒れるかも知れません。多分、どうもそんな気がします。そんな気がしていけない。えゝい畜生! 彼奴も死ぬ!……その後で子供が生れる。彼奴の子供が生れる。いくら考へても、どんな訳があるのか解らん。しかし、生れる。……あなたの、身体だつて同じだ。美しいですよ。僕は画描きだから美しいものは見える。美しい。あなたの中で始終何か死んでゐるものがあるからです。同じだ。美緒もさうです。美緒も同じだ。えゝい、畜生! ち、畜生!(言ひ放つて片手を振つた拍子にフラフラツとして二三歩ヒヨロける。少し目まひがするらしい)……ウム。
京子 (相手の喋つてゐるのを、びつくりして口を少し開けて見詰め続けてゐたが、五郎が倒れさうなので、思はず寄つて行つて、その腕を掴む)あぶないわ、ホントにどうなすつたんですの?
五郎 なんです?(と却つて変な顔をして京子の顔を見る)
京子 もつと五郎さんもお身体を大切になさらなきや駄目だわ。
五郎 身体?……(不意にまるで小さい子供の様に無邪気にニコニコして相手の肩や胸を見てゐる)……でも、なんでそんな事を言ふんです?
京子 だつて――。
五郎 なんで、そんな事を言ふんです?
京子 だつて――五郎さん、かなり身体をこはしてゐらつしやるわ。
五郎 さうですか。……身体……肉体……。京子さん、あなた、僕を好きですか?
京子 ……(ドキンとして相手を見る)
五郎 え、僕を好きですか? 嫌ひですか?
京子 そんな、そんな事……なんでそんな事おつしやるの?
五郎 好きですかと聞いてゐるんだ!(出しぬけに今迄の子供らしい表情を失つて、右手で京子の肩を掴む)
京子 ……(おびえ切つた顔をして、ブルブル顫へている。急に此の女が無力に小さなものに、同時に何か柔かい女になつた様に見える)……痛い! 痛いわ、そんなに掴んぢや……。
五郎 ……。
京子 (シクシク泣き出す。痛いためでも悲しいためでも無いらしい)……。
五郎 ……ふつ!(相手の肩を掴んでゐた手を離す)
京子 (立つて居れなくなつてヘタヘタと坐つて涙を拭く)
 五郎はさうして暫く京子の姿を見てゐたが、やがて京子から眼を離して、次第に怒つたやうな顔になり、ジツと立つてゐる。
 京子の涙は、何か訳のわからない甘いものである。静かに泣きやんで、砂の上を見てゐる。
間。
比企 やあ、久我君も来てゐたね……(と言ひながら上手からやつて来る。海から上つて間がないと見えて、水着が濡れてゐる)……おゝ寒いや。もう駄目だね、海水浴も。……京子、何をしてゐるんだ。そんな所に坐つて?
京子 (ボンヤリしてゐる)……えゝ。
比企 どうしたんだい? 泳いで来いよ。あがつて来ると寒いけど、水の中に居りや丁度良いあんばいだぜ。久我君もどうだい?
五郎 僕は大して泳げないから。
比企 なんだか、青いなあ顔が、少し寝るんだなあ。
五郎 ありがたう。……(まだ少し目まひがするらしい)
利男の声 (遠くから)京子さあーん! 京子さあーん! ボートに乗りませんかあ! 京子さん、ボートに乗りませんかあ!
京子 あ、利男さんよ!(と今迄鎖で縛られてゐたのを、急に解き離されて生き返つたやうになつて跳ね起きて、いきなり声の方へ向つて、ターツと駆け出して行つてしまふ)
比企 ……誰だい?
五郎 美緒の弟が来てゐるんですよ。
比企 ああ、利男君とか言つた? さう……おゝ寒いや。……しかし本当に君はどうしたの?
五郎 うゝん、チヨツト疲れてゐるだけなんだ。大した事は無いんですよ。(頭を振つてゐる)
比企 大変だなあ、君も。
五郎 なあに。……で、どうなんでせう、美緒の具合は?
比企 先刻言つた通りですよ。昨日と大して変りは無い。
五郎 正直に言つて下さい。僕あ本当のことが聞きたいんだ。なんだか彼奴の調子が――病気のぢやないんだ。感情の調子が、近頃益々変な風になつて来たんで、気にかゝつていけないんですよ。気持が段々澄み通つて来てしまつて、なんと言ふか、現実離れがしたみたいになつてゐる。出しぬけに神様は有るかなんて訊くんですよ。そいから自分の周囲の人間に対して、なにかムヤミと温い事を言つたりしたりする様になつた。それが自分はもう別の世界にゐるものと決めて、そこからまだ生きてゐる僕等を見て親切にしてゐるやうな感じなんだ……。
比企 さうかね。でもそれはあの人の本来の性質ぢや無いのかねえ。いづれにしても、そいつあ僕の領分ぢや無い。僕にや身体の事しか判らんな。……さう、身体の方はまあ脱落症状と言ふかな。つまり一種の虚脱した様な状態だね。
五郎 すると、どう言ふんですか? 良いんですか悪いんですか?
比企 さうだな、……一つの大きな発作だけを単位にして考へると、それが一応おさまつた状態なんだから、まあ良いとも言へるけれど……病気全体の経過としては、あまり良いとも言へんね。発熱が殆んど無い……無いのは結構だが、見方に依つてはそれが却つて良くないとも言へるんだ。そこん所は、もつと専門的に説明しないとホントは解らないんだが、早く言ふと、あれだけの患者に発熱が伴ふのは実は当然なことなんで……つまり、それが身体が病菌と戦つてゐる証拠なんだな、……それが無い、……つまり一種の脱落症状なんだ。
五郎 わかりました。……
比企 熱を出してくれりや、まだいゝんだけどね。……(話の間も手拭ひで水着の上から身体を拭いてゐたが、この時拭き終へて砂の上に置いてあつた浴衣を羽織る)……君も医学の本は随分読んだらしいし、それに、二年以来あれだけの病人に附きつきりで看病してゐるんだから、この病気に関しては何でもよく知つてゐるらしいから、隠したつてはじまらん。……やつぱり、かなり注意してゐる必要があるだらうなあ。
五郎 ……ありがたう。どうでせう、今の状態を切り抜けるために、病院に入れるとかサナトリウムに入れるといふのは?
比企 さあ、よした方がいゝでせう。
五郎 どうしてなんです?
比企 いや、金がかゝつて大変だ。設備のとゝのつたところでは、かなり取るからね。考へて見ると、結核なんて病気は立派な社会病で、社会全体に責任が有るんだし、しかもそれに依つて本当に苦しめられてゐるのは、勤労者に多いんだから、国家なり社会なりが、もつと安価に入院できるサナトリウムを、もつとウンと建てるべきなんだ。しかし差し当りの、現実問題としては、仕方が無いんだな。……君んとこ、金は無いんだらう? 失敬だが……。
五郎 無い。しかし拵へますよ。どんな事をしたつて――。
比企 いや、そんな無理はしない方が良い。病院かサナトリウムに入れて必ず良くなるに決つてゐればそれも良いかも知れないが、残念ながら今の医学ではそこまでは断言出来ないしね。仮りに治るとしてもだ、それが治つた頃には又別の形でやられるよ。君が倒れるとか、奥さんが又別の病気にやられないものでもない。君に言ふ必要もあるまいが、結核と言ふのは大概の人が実は持つてゐる。それが病気として現れるか否かの違ひだ。病気として現はれるといふのは、狭くはその当人のそれまでの生活の無理、広い意味ではその家族全体の生活の無理なんだからな。……それを治すために、もう一度無理をするのはよした方がいゝ。もつとも世の中に全く無理のない人間生活なんて無いわけだけど、それも程度問題だなあ。君ん所では、現在でも困つてゐるんだらう?
五郎 ……困つてゐます。僕あ実あズツと二度しか飯を食つてゐない。……でも僕あ美緒を、なんとかして――そりやあなたの言ふ理窟は判るし、それが本当だと思ふけど、僕は、とにかく美緒を、どんな事があつても、これつきりにしたく無い! たまらん!
比企 わかるよ。君としては、さうだらう。……しかし、今のまゝで行つても、駄目と決つたわけぢやないし、第一僕の言ふのは、金の問題も金の問題だけど、それよりも、現在、僕の見る所では、君がかうして附いて実行してゐる奥さんの療養生活は、全体としてどんな病院にもサナトリウムにも劣つてはゐないからなんだ。
五郎 しかし、それがなんにもならないぢやありませんか。……僕あ、彼奴を取られたら困るんだ! 僕あどうしていゝか解らなくなる! 死なしたく無いんだ! なんとか方法はないんですか? なんとか、なんとか、なんとかして――。
比企 ……君がそんなにイライラしちやいかんなあ。……君は家で奥さんの前にゐる時にはあんなに落着いてゐるくせに、此処へ出て来ると、どうしてそんなに調子が違つちまふのかね? 此の前来た時にも気がついたんだが。
五郎 そんな事あどうでもいゝんだ。ホントに頼むから、なんとか、なんとかして――。
比企 困るなあ。……君も、奥さんが病気になつて以来、基礎医学から勉強しはじめた位で、これまで医学的に有効な方法は全部採り尽して来てゐるんだらう。つまり科学的にはベストを尽して来てゐるんだ。それは僕が保証してあげてよろしい。治るものなら、これで治るんだよ。……駄目なものなら、もうこれ仕方がないんだな。
五郎 (ビクツと、小さく飛上るやうな動作)……。あなたには、そんな事が言へるんだ!
比企 なんだよ?……そりや、僕は医者だから、科学の命ずる事を言つてゐるまでなんだ。……そんな風に言ふのは君らしくないよ。
五郎 科学が命ずると言つたつて、では科学が本当はどんな事を命じてゐるんです? 全体、では、あなたは科学を信じてゐるのか。
比企 ハハ、そんな事聞いてどうするの? そりや、信じてゐるとも言へるし、信じてゐないとも言へるよ。でも科学のプロバビリテイだけは――と言ふよりも科学と言ふものが実はプロバビリテイを綜括したものだが、――そいつだけは信じてゐるよ。でなきや医者なんかやつて行けるもんぢや無いからね。だから、変な話だけど、医者と言ふものは病気を治したり出来るもんぢやないと思つてゐる。要するにそのプロバビリテイに基いて患者に対して忠告をしてあげる役目だけだな。
五郎 ぢや、そのプロバビリテイを信じられなくなつた者はどうすればいゝんです? 又はそのプロバビリテイから除外されたり、はみ出しちまつた人間はどうするんです?
比企 もういゝぢやないか、……どうすればいゝと言つたつて、そんな、そりや何もプロバビリテイのせゐぢや無いだらう。
五郎 さうでせうか? 僕は時々、そんなプロバビリテイが段々積み重ねられて行けば行くほど、そのプロパビリテイのために取り殺されて行く病人が益々多くなつて行つてるんぢやないかと言つた様な気がするんだ。外科だけは少し違ふ。僕の言つてるのは内科の事です。
比企 それも程度問題さ。内科だつて或る程度まで実証的なもんだからね。医学が発達するにつれて病人が多くなるとか言ふのは偏見だ。仮りに一部分にそんな現象があつても、現在は科学の発達の点ではまだ過渡期だから、そりや仕方が無いだらう。
五郎 いつになつたら、過渡期でなくなるんです?
比企 いつまで経つても或る意味では過渡期さ。
五郎 過渡期だからですまして居れる者は、それでいゝんだ。それでは、どうしても、どうしても諦めきれない者――つまり自分です――そいつは、いつたいどうすればいゝんです? 何に頼ればいゝんです?
比企 そりや僕も知らん。わからん。
五郎 わからん?
比企 君は、もしかすると医学と言ふものが、人間の生命の全部に就て責任が有るやうに誤解してゐるんぢやないかな。
五郎 さうかも知れない。しかし、そんな誤解を植ゑ附けて来たのも医学です。いや僕あ僕一個の事を言つてるんぢやない。一般社会の事を言つてゐるんだ。社会にさう信じ込ませたのは医学だ。
比企 違ふね。社会――つまり人間の性質にそんな妄信性が本来有るんだ。科学に責任はない。
五郎 あなたは抽象された科学を考へてゐる。ところが、そんな抽象された科学なんか世の中に存在しない。僕が医学と言つてゐるのは医者と言ひ換へてもいゝんだ。
比企 医者は、そりや、自分が必ず病気は治せる様な顔をしてゐるよ。営業だからな。信用を作りあげて置く必要がある。……しかし、もうこんな話は止さう。なんだか馬鹿に寒くなつて来た。君の言つてゐるのは、哲学か宗教の範囲だよ。僕あ科学者だからな。よく解らんのだ。……(怒つたやうに自分を睨みつゞけている相手の眼を避けて)全体君は、人間と言ふものは結局一人残らず必ず死ぬ事に決つてるのを忘れてゐるんぢやあるまいね?
五郎 ……?(と、はじめ何と言はれたか理解出来なかつたらしく相手を見詰めてゐたが、突然にその意味を掴むと喉の奥でグツ! と変な音をさせ、真青になつてキヨトキヨト四辺を見廻した末に、眼を据ゑて空を見詰めて低く唸る)……うゝ!
比企 もう止さう、……どうしたんだい?
五郎 (片手で両眼を掻きむしるやうに撫でる)……いや。うむ……比企さん、……僕あ、美緒を助けたいんだ。美緒ですよ! 美緒ですよ! 美緒だけは今死なしたく無いんだ!
比企 ……。
五郎 僕の言ふ事が気に障つたら、かんべんして下さい。あやまる。あいつに死なれたら、僕あ全体どうすればいゝんだ。僕あ、僕あ此の際、少しでも効果の有る方法なら、どんなものでも、たとへどんなものでもやつて見せる。なんでもいゝ、彼奴を此の世につなぎとめて置くためになら、僕あどんな事でもする! たとへ、どんな事でも! どんなインチキでも恥知らずな事でも。……漢法をすゝめられてゐるんだけど、どうなんでせう?
比企 さう、漢法も場合に依つて良いけど、結局システムこそ違へ基礎的には同じものなんだからな。それに漢法には民間の素人療法や迷信と言つた風のものが大部入りこんでゐるからねえ。
五郎 ……素人療法だつて迷信だつて体験的に効果があれば、それでいゝんぢや無いでせうか?
比企 その体験と言ふのが実は非常に危険なんだ。賛成出来ないな。
五郎 牛の生血やスツポンの生血が良いと言つてくれる者が有るんだけど――。
比企 消化器を害して食慾を失はせるだけだらう。迷つちやいかんな。第一君は奥さんをよくしたい一心で、そんな事を言つてゐるけど、実は君はまつたく科学的なんだ。病気に就て科学以外の非合理的な考へ方は結局出来る人間ぢや無いよ君は。その点僕は安心しきつてゐる。迷つちや、いかん。
五郎 ……輸血をもう一度大量にやつて見たら?
比企 今は良くあるまい。悪くするとひどい転機を採る場合がある。
五郎 葡萄糖を打つたら?
比企 よした方がいゝ。腎臓を疲らせるのは全体として不利だ。
五郎 ……(不意に叫ぶ)ぢや、どうしたらいゝんだ! それぢや、全体どうしたらいゝんだ!
比企 ……なんだい、どうしたんだい急に?……だから現状のまゝベストを尽して――。
五郎 ベストを尽すといふ事は、なんにもしてやらないと言ふ事だ。さうでせう? さうなんだ! そんな風に言ふよりも、もう医学は全く無力だと言つたらどうなんです?(憎悪の籠つた顔でニヤリと笑つて)全体、あんたは昔からさうなんだ。口でこそ社会科学がどうのこうのと言つてゐたが、実はそれも例のプロバビリテイだつたんだ。確信も信念もなんにも有りやしない。たゞなんとなく流行に乗つて新興医学者らしい顔をしたかつただけだ!
比企 君は何を言ふ積りだ?(次第に怒り出してゐる)
五郎 (自分が何を言つてゐるか、筋道がシドロモドロになつてしまつて)さうなんだ。だから、今でも、変な金主を見つけて診療所なんかやつて儲けてゐる現在になつても、ソツクリ以前通りに社会医学だとかなんとか、要するに自分の利益に関係の無い範囲のゴタクを並べてゐるんだ! それが全体、なんだ!
比企 ……久我君、君あそれを本気で言つてゐるの?(此の男として一番こたへる所に触られたと見えて、言葉はおだやかだけれど真に怒つてゐる)
五郎 本気?……いや(フツと我れに返つて)いや今のは僕の言ひ過ぎだから、かんべんして下さい。言ひ過ぎだ。(みじめな姿である)
比企 (青い顔でニヤリとして)君が僕の事をそんな風に思つてゐるとは知らなかつたよ。
五郎 いや、僕が悪かつた。いろんな事で頭がこんぐらかつて、悪くしてゐるんだ。かんべんして下さい。失言だ。あやまる。あんたに今見離されたら美緒は――。どうか許して下さい。(砂の上に坐つて、手を突いて詫びる)
比企 (その姿をジツと見おろして、怒りのためにブルブル顫へながら、しかし口調は静かに)……いやイデオローグとしては、僕は君の言ふ通りの人間かもわからないんだ。いゝよ。しかし科学者として良心だけは持つてゐるつもりだ。君は、先刻本当の事を知らせて呉れと言つたから僕も正直に言つちまふ。もつとも、これは科学者としての僕だけの観察だから、それを信じようと信じまいと君の自由だ。つまりプロバブルな事だと言ふに過ぎないからね。それから、これは僕が君に対して悪意を持つてゐる為でもない。君の奥さんに就て僕が診断を下すのも多分これが最後だらうと思ふから、医者としての責任からも、後で君にうらまれないためにも、此の際ハツキリ言つとく必要があるからだ。……君の奥さんはね、僕の所に一番最初に連れて来られた時に既にかなり悪化してゐたんだ。僕は黙つてゐたが、実は半歳もてば良い方だと思つてゐた。……僕は正直な事を言つてゐるんだよ。……それを、かうして既に二年ちかく、とにかく、なにして来たのは、やつぱり君の手当の仕方がよかつたからだらうと思ふ。それは大した事だ。医者として僕はそれを認めるよ。……でも、もう多分、駄目だ。医学的には、もう殆んど……と言ふよりも九十九パーセント、いや百パーセント見込みは無い。患者は平静なやうだが、もう多分半月、永くて廿日間……、もし腸に出血があればこの四五日中にも或ひは――。何か聞いて置きたい事があれば今の中に聞いとくんだな。会はせなければならん人にも出来るだけ早く――。……僕の言ふ事は、これだけだ。
五郎 ……(坐つたまゝ石にでもなつた様に動かない)
比企 今後も僕に出来る事があつたら、医者として、いくらでも助力するから、そう言つてくれたまへ。……ぢや僕は寒いからチヨツト宿に帰るよ。なんなら君も後でやつて来ないか。……(スタスタと歩み去つて行く)
 後では五郎が石の様に坐つたまゝ。
 永い間。……
 白い街道を上手からフラリフラリと歩いて来る変な男がある。汚れた和服を着たボンヤリした四十過ぎの男で、酒に酔つてゐるらしいが、陽気な所は全然なくて、寝呆けたやうな白い顔をしてゐる。片手に二合びんを下げてゐる。それが何処へ向つて行くと言ふ訳でもなくブラリブラリとユツクリ歩く。
五郎 ……比企さん、俺が悪かつた。比企さん!――(立上つて無意識に比企の後を追ひかけて行きさうにしたトタンに丁度男の姿が眼に入る。フツと眼を釘付けにされたやうにその男を見詰めはじめる。……男は街道の途中まで来て、そこでボンヤリ立停つてゐたが、再び何と思つたのか、元来た方へ又フラリフラリと歩み出し、上手へ消える。その間五郎はジツとそればかり見守つてゐたが、不意に喘ぐやうな声で、グワーともゲツとも聞える叫声をあげる)……
 間。……静かである。
 やがて沖の方から、京子がボートの上で唄ふのであらう Torna A Surriento の歌声が流れて来る。それをじつと聞いてゐる五郎の殆んど混乱の極に達した顔。
間。……五郎の身体がフラリフラリと揺れる。
五郎 ……美緒。……美緒。……助けてくれ。……(うつぶせに砂丘に倒れてしまふ)
間。
 赤井が家の方向から歩いて来る。シヤツに軍袴に下駄を突つかけた姿。酔ひをさましかたがた五郎を捜しに来たらしい。何か考へながら浜を歩き、砂丘の五郎を見出す。
赤井 ……こんな所にゐるのか。久我……久我……おい久我! なんだ寝込んでゐるのか。(ジツと見おろしてゐたが、失神して倒れてゐる五郎の事を、疲れ切つて眠つてゐるものと思ひ、起すのはよして自分もその側に腰をおろす)……。
沖からの唄声。
 赤井はその唄声の方をチヨツト伸び上つて眺めるが、直ぐよして何か考へながら、ジツと海の方を見てゐる。出征を前にして、いろいろの感慨が胸中を往来してゐるらしい。
永い間。……


5 家で


 五六日後の明るい美しい午後。
 寝台の上で絶対安静を守つてゐる美緒。
 その枕元に附き添つて酸素吸入の具合などを見てやりながら、ポツリポツリと話をしてゐる小母さん。
 美緒の病状は更に重態になつたらしく、衰弱のためもう殆んど声が出ず、此場で彼女が口にする言葉も数語に過ぎない程であるが、その表情は以前より更に明るく落着いてゐる。小母さんもそれに調子を合せてゐるが、しかし永らく看病して来た病人が目下絶望状態であることは知つてゐるので、ノンキな事を喋りながらも、しんは気を使つてゐる。
 吸入器のシユーシユーと言ふ響。


小母 ……(ニコニコして)わてには、子供はあらしまへんやろ。そらあ自分の子供が育つたらえゝなあと思ふ事もおます。……でもな、そんなに寂しいと思たりはしまへんのどす。なんでかと言ふとな、よそさんのお内で赤さんが生れますやろ? あれは、みーんな、亡くならはつたお人の生れ代りやからどす。……こん事わてが言ふと、旧弊や言うて、みんな笑はるけどな。……
美緒 ……(クスクス笑つてゐる)
小母 ハハハハ、たんとお笑いやす! 笑はれてもかめしめへん!……生れて来る赤さんは、前に生きてゐた人の生れ代りどす!……それはな、わてのお母はんがチヤーンと教へはつたから間違ひおまへん。……そら、わてにだつて、お母はんは居やはりましたのどすわ。変でつか?……そらもう、なんしろ古い話やけどなハハハハ。……とにかく、お母はんは、わての為にならん事を、教へはる筈ありまへん! 言やはりました。赤さんはわてらの生れ代りどす!……そんで、わては、自分の子供が無うてもチツトも寂しい事あらへんのどす。よそさんのお内でドンドンドンドン赤さんが生れはると、わてらの命も、ドンドンドンドン伸びるのどす。……わてらは、いつなんどき成仏してもえゝのどす。……赤井の兵隊さんに赤さんが生れはる! わては、うれしうてなりまへん!
美緒 ……(いたづらさうな顔で、手真似で、小母さんとそれから自分を指して、それは小母さんの生れ代りか自分の生れ代りかと訊く)
小母 そら、誰の生れ代りか、わてらには解りまへん。生きてゐる内に、えゝ事したもんは、ミーンな生れ代ります。……今、戦地へ行かはつて、討ち死になさつてゐる兵隊さんがギヨーサン居やはりますがな、それもみーんな生れ代らはります。お国の為に御苦労なさつて戦死なさるのどす、キツト、どこぞで一等かわゆらしい赤さんが生れはりますがな! (言ひ方は少し滑稽味を帯びてゐるが、彼女は自分の言つてゐる事を文字通り確信してゐるのである)
美緒 ……(何度もうなづく)
小母 さうどす! わてはがくがないよつて、理窟はわかりまへん。でも、いくら笑はゝつても、さうどす! わては、仏様や神様がほんまに、居やはるか、居やはらんもんか、わかりまへん。信心なんど、した事おまへん。……んでも、昔、わてのお母はんが居やはつた事は、チヤーンとわてが知つてますがな! そのわてのお母はんが、わてを大事に大事にしてくれはつた事や、わてに教へてくれはつた事は、そないな不確かな事ではおまへん! チヤーンと確かな、たとへ世の中がデングリ返つても、間違ひのない事どす。大丈夫、金のワキザシや!……そらそら、又笑ひはる! たーんと馬鹿におしなれ、構ひ〔ま〕へん! んでも今に百年もたつたらな、わても奥さんも生れ代つて来ますさかいな。そん時には、今わてはチヤーンとかうして奥さんを可愛がつて看病してあげたのどすよつて、こんどめ生れ代つて来たら、わての方が奥さんにターンと可愛がつて貰ひまつせ! ようおすか? 忘れたらあきまへんえ! お前みたよなツンボーの赤ん坊なんど知らん言ふたらあきまへんえ!……ハツハハハハ、ハハ。
美緒 ……(声を出さずに笑ひながら、片手を出して小母さんの頭を撫でてやる)
小母 泣いたらあきまへん! えゝな? ハハハ、さ、お薬どす。……(非常に注意深く、馴れた手附きで水薬を飲ませる。おとなしくそれを飲む美緒)……あゝ、えゝお子や、よく飲みはつた。近頃ホンマにおとなしう飲みはるで、うれしうてならん。あと、口直しにリンゴの汁でもあがりまつか?……(美緒かぶりを振る)さうだつか。……(美緒の額に手を当てゝ熱を計る)熱もだいぶ下りましたえ。……ホンマになあ、久しぶりに熱をお出しにならはつたので、四五日前にはビツクリしました。ハハハ、珍らしいさけなあ。……あれは赤井の兵隊さん達が来やはつた直ぐ次の日やつたから、あれからヒイ、フウ、ミイ、ヨ、イツ(と指を折つて)今日で六日目どすな。……もう大丈夫どす!
美緒……(うなづいて見せる)
小母 ……赤井はんの兵隊さんはもう出征しやはつたかいな! どうぞ、御無事で行つて来やはるやうに。……ホンマにえゝ方どすえなあ。奥さんもサツクリとしたえゝ方どす。この間も、わてが御飯の支度でマゴマゴして居りましたらな、あの奥さん黙あつて台所に下りて来やはつて、ドンドン加勢してくれはります。恵子はんなどとは、えらい違ひどす! 実のお妹はんでゐても、あんな――(言ひ過ぎた事に気附いて)いや、それはな恵子はんは恵子はんで、やつぱりそれぞれ流儀がお有りどすよつて――。
美緒 ……(微笑して、言つてもかまはないと言ふ意味の手真似)
小母 ……さうどすか?……いえな……いえ、わては、あんな情のきついお方、実は、きらひどす。たまにお見えはつても、キツと庭の方で、スパスパスパスパ(と煙草をふかす真似)こうどす! ハハハ。いくら病気が嫌ひと言やはつても、たつた一人つきりの実の姉はんでおまへんか! きらひどす。わては旧弊人どすよつて、あんな方は虫が好きまへん。あれよりも、比企先生のお妹さんの方がまだましや。テキパキしてなはる! はあ、さうですわ! はあ、わては海岸に行つてよ、ピーン、バタバタツ! (と跳ね上る真似)こうどす! な! ハツハハハ、……比企先生も、東京に帰らはつて、もう四日になりますなあ。比企先生は、奥さんの具合が良うおなりはつたので安心してお帰りたのどすわ。
美緒 ……。
小母 ……五郎はん、お戻り、おそおすな。今日は描いてしまはるつもりでつしやろ。写生と言ふもんは、お骨の折れるもんだすなあ、今日で三日や。……でも、よろしおしたなあ。五郎はんが油絵描きはるやうになつて。
美緒 ……(何度もうなづく)
小母 五郎はんも、奥さんの病気が良うなつたので安心して写生しに行かはるやうになつたのどす!
美緒 ……(微笑。指で自分を指して見せる)……いえ、私がね……もう間もなく……いけないからなの。
小母 (美緒の声が低いので聞えず、その仕草だけを受取つて)さうどす、奥さんに見せようと思うて描きに行かはつてゐるのどすえ、チヤーンと知つてゐますがな。えゝなあ。お嫁はんの言はゝる事なら、どないな事でも五郎はん、やつてくれはる。見てゐてもケナルウなりまつせ。ホンマに! 首つたけや。ハハハハ。さうどすえ!
美緒 ……(弱々しい笑ひ)……私が……居なくなつたら……五郎は……どうするんでせう。……それだけが……私……心配なの。どうぞ、頼むわ、小母さん……。
小母 (相手の唇の動きをマジマジと見詰めながら)さうどす! 奥さんの言はゝる事なら、五郎はん、どないな事でも、たとへ火の中でも行かはりまつせ! おゝおゝ、シンドイ話や! (とまだ自分流に聞き誤つてゐる。そんな風に彼女に誤つて聞かれる程、美緒の表情は明るく、その言葉の持つてゐる意味とは全く反対のものである)
美緒 ……頼むわ、……小母さん……私が……居なくなつたら……五郎のこと……(小母さんに向つて両手を合せる)
小母 (まだまちがつて受取つてゐる)ハツハハハ、さうどす! 拝みなはれ、拝みなはれ、あんな良いお婿はんは三千世界捜しても居やはらへん!
美緒 いえ、あのね……(とまだ何か言はうとするが、数語を言つたためにガツクリしたのと、自分の声ではどんなに小母さんの耳の傍で言つても、到底きこえさうにないために、話すのをよしてしまひ、涙ぐんで、うなづいて見せる)……(しかし又、フト思い附いて、小母さんの片手を取つて、その手の平に指で仮名を書きはじめる)……。
小母 (掌を見ながら)わ……た……し。わたしどすか?……わ……し……や……わ……せ……よ。わしやわせよ、とはなんどす?……あゝ、わたしは、しやわせよ、どすかいな? さうどすとも! さうどす!
美緒 ……だから、もう……いつ死んでも……いゝの。……だけど、その後……五郎は……どうなるの。
小母 (やつぱり通じない)さうどす! さうどす! 奥さんは仕合せや! 又、奥さんみたいなお嫁さん持つて五郎はんも仕合せや! しやあからな、しやあから、早う病気良うならはつて、今にピンシヤンして、今に、わての事、たつた一度でいゝさけ、東京歌舞伎のえゝとこ、見せに連れて行つてくなはれや! な!
美緒 ……(ガツカリして、微笑して小母さんを見守つてゐるだけ)
小母 なあに、いんまに、もう間も無く、秋になりまつせ。そしたら涼しうなつて、奥さん、直ぐに良くならはります。直ぐにもう秋どす!
美緒 ……(何か言ふのはもう諦らめて、片手を出して小母さんの頭を撫でゝやる)……。
小母 (自分も美緒の左手を撫でさすりながら)……そしたら、ムクムク太らはる! うまい物、五郎はんにタント買つて貰はつて、うーんと食べて、キレーにならはつて、な!
間。…………
 五郎が下手から庭を廻つて戻つて来る。相変らず憔悴し切つた姿だが、顔の表情には、今までとは更に違つた思ひ決した様な所がある。看病の隙に僅かな時間を割いて、近くに絵を描きに行つたと見え、左手にスケツチ箱とイーゼルを下げ、右手に七分通り描き上つてゐる三十号のカンバスを下げてゐる。ひどく疲れてゐるらしい。スケツチ箱とイーゼルを湯殿の前の廊下に置いてから、美緒に自分の疲れてゐる様子を見せまい為であらう、暫らくそこに立つたまゝ片手で両眼を蔽うてゐる。
 音を聞きつけて、病室の美緒が眼をそちらへ向ける。
小母 (美緒の視線を追つて)……あゝ、五郎はん、戻らはつた! そらそら奥さん……(立つて五郎の方へ行く)お帰りやす。
五郎 ……(黙つて小母さんを見て手真似で、美緒は変りないかと訊ねる)
小母 ……(これも手真似で変り無いと答へてから)……まあま、今日はえらう描けはつた。絵具がコテコテや!
五郎 (小母さんの耳元へ)小母さん、少しやすんで下さい。いつとき僕が見ますから……。(カンバスだけを下げて病室の方へ)
小母 へいへい。それぢや、チーツと洗濯物を済ませてから、やすまして貰ひま。(廊下から庭へ下りて、裏口の方へ消える)
五郎 (カンバスを裏返しに柱にたてかけてから)……どうだい?……(美緒の額に掌を当てゝ見る)うむ。……又、小母さんと喋つてゐたんぢや無いだらうな?
美緒 ……(かぶりを振る。それからカンバスを指す)
五郎 まだ描き上つとらん。
美緒 ……見せて……。
五郎 今日又、スツカリ塗り直しちやつたよ。メチエが弱い。……もう油絵具なんかをどんなに盛上げて見ても俺達の描きたいものにピタツとしないや。美し過ぎる。弱いんだ。コンクリートの粉を塗つたり、牛の生皮を叩きつけたりしたくなるんだ。絵具は弱い。
美緒 ……見たいの……。
五郎 ……(美緒をさぐる様にジツと見守つてゐたが、やがてカンバスを表に向けて襖に立てかける)……ぢや見ろ。
美緒 ……(その画の方へ首をグツと上げるやうにする)
五郎 そんな事しちやいかん。……(美緒の首の所に片手を当てがつて支へてやる)
美緒 ……(荒い調子で描かれた風景にピタリと眼を吸ひ附けられ黙つて見詰める)
間。……五郎も自分の画を見てゐる。
美緒 ……あゝ、綺麗だ。(自分を忘れたやうな声を出す)
五郎 ……もういゝだらう。疲れる。
美緒 ……いや、もつと。……あゝ! (まだ見詰めてゐる)
五郎 もういゝよ。疲れるから。(美緒の頭をそつと枕の上に置いてやつて)……なんだ、泣くやつがあるか。
美緒 ……久し振りよ。……あんたの画を見るの……。
五郎 ハハ、そらそら――(と涙を拭いてやりながら)……なんでもいゝから、もう口を利くのは、よしなよ。
美緒 ……ありがたう……。
五郎 よせと言つたらよせ。……(吸入器の口を直してやる)これから、いくらでも描いてやる。……薬は飲んだのか? (美緒うなづく)……少し顔が赤いね?……気分は悪く無いのか?……さうか。比企さんの処方はやつぱり一番効くやうだな。……比企さんと言へば、いや、どうも、俺あ醜態を演じちやつて……。頭を悪くしてるよ。……とうとう怒らしちやつた。あの立派な人に喰つてかゝるといふ法はないんだ。醜態だ。……いや、直ぐにあやまり状は出しといたがね。怒つちやゐないから、今後ももし必要があつたら、いくらでもさう言つてよこしてくれと言つて来た。……俺あ、耻かしくつてなあ。……まあいゝさ。俺と言ふ男は、何処へ行つても結局赤つ耻を掻くやうに出来てゐるんだなあ。……どうも仕方がないよ。ハハハ、……まだチツトも人間が出来てゐない。よくよく駄目だ。……三十面をさげて青過ぎらあ。……(美緒が頭を横に振つて、そんな事は無いと言ふ。と言ふよりも、そんな風に自分を否定してはいけないと言ふ意味を籠めて)なんだつて? いや、さうなんだ。こんな事ぢや、赤井にだつて済まねえ。……第一、こんな事で赤井の留守を、伊佐子さんや生れて来る赤んぼなんぞの事をチヤンと守つてやつて行けるもんか。久我五郎はオツチヨコチヨイの青二才だよ。……一言に言ふと、やつぱり安価なるセンチメンタリストなんだな。尾崎の奴あ、さすがに人を見る眼が肥えてゐやがる。ハハハ(言ひ方はわざと滑稽化してゐるが、自分では本当に自分をその様に反省してゐるのである)……どうだ、少し又、万葉を読んでやらうか? いらんか? あとで? さうか。ハハハハ。俺の万葉の講義は、まるつきり自己流だからな。ハハ、でもあれでいゝんだよ。馬鹿にしちやいかん! 自己流でもなんでも、万葉集は俺みたいにして読むのが一番本当なんだよ。……日本人でさへあれば、どんな無学な者が、どんな読み方をしても結局わかる。……ホントの古典といふものは、みんなさうだよ。
美緒 ……あなた……怒らない?
五郎 なんだい? 怒る? なにを?
美緒 ……怒らないと……約束して。
五郎 なんの事だか、わかりやしないぢやないか。……よし、ぢや約束する。怒りやしない。なんだよ?
美緒 ……(枕の下から一通の手紙を出して渡す。封が切つてある)
五郎 なんだ?……毛利から来た手紙ぢやないか。お前読んぢまつたな?……さうか。いや怒りやしないよ。……(手紙の内容を出して、黙読。読んで行く内に、顔が変に歪んで来る。悪い手紙らしい。読み終つて黙つてゐるが、腹の底からこみ上げて来るものを自ら押へてゐる)……ふん……さうか。……それでいゝぢやないか。(美緒の眼を見て)それが、どうしたい?
美緒 ……毛利さんも……あんまり……ひどいわ。
五郎 俺、怒つちや、ゐないだろ? いゝよ、それもよしと。如何にも毛利らしい書き方ぢやないか。まはりくどい。……結局、簡単に言へば、こちらの好意を無にするやうなら、好文堂の仕事もことわるからと言ふんぢやないか。……こないだの尾崎がやつて来てすゝめた事をことわつたんで、そんな事ならと言ふ訳だらう、いゝさ。仕事は、又他で捜すよ。……妙な顔をするのはよせ。
美緒 ……ひどいわ、毛利さん。……だつて……あの人、やつと……画らしい物が……描けるやうに……なつたの……あなたの……おかげよ。……どれだけ……あなたには……世話になつて……。
五郎 いゝよ、いゝよ。毛利が画が描けるやうになれば、結構ぢやないか。それがどうしたい?……これが世間なんだ。表裏反覆、いづくんぞ常あらんやだ。……面白いと思つて見てゐりやいゝ。なあに、子供の絵本はほかにもあるし、それも駄目なら似顔画描きにでも、紙芝居にでも、豆腐屋にでもなんにでもなる。……クヨクヨするな。初めつから世間の前で赤つ耻を掻く気でゐりや、なんでもやれらあ。どうせ、出来そくないの人間だ。恥も外聞も構はず、どうぞなんかやらして下さいと土下座して頼めば、なんか有るよ。……ハハ、お前知つてるか? 南北と言ふ人の「かさね」と言ふ芝居の中にね、伊右衛門と言ふ悪党が出て来るんだよ。いゝかい? そいつがなあ、かう言ふんだ。「首が飛んでも死ぬものか!」
美緒 ……いえ、好文堂の事は……仕方が無いとしても……そんな事で……毛利さん達と……仲が悪くなつてゐては……あなたが……今後……画の仕事の上で……途がふさがる。……それが……私……心配……。
五郎 ハツハハハ、何を言ふか! 俺あ画を描いてゐるんだぜ。カンバスでタイコを叩いてゐるんぢや無えんだ。糞でも喰へ。……な、これが俺の画だ。これは、画だらう? さうだらう?……なら、それでいゝんだ。
美緒 ……でも。
五郎 もう言ふな。お前もその気になりやいゝんだよ。……(わざと芝居のセリフじみて言ふが毒々しい位の真実をこめて)首が飛んでも、死ぬものけえ!……ハハ。第一、俺の友達にや、赤井だとか須崎だとか藤戸などと言ふ素晴らしい奴等がチヤンと居てくれるよ。大したもんよ。……(と努めて美緒の考へを他へ転じやうとして)ところで赤井は、もう行つたかな?……さうだ、こないだ赤井が来た日の夜からお前熱を出したな?……あれ、どう言ふんだい? 病気はチツトも変つて来ないのに、なんで、あんな出しぬけに熱を出す? え?……第一、なんであんなにイライラしたの? あれで熱が出たんだよ。どうして、あんなにイライラしたい?
美緒 ……だつて……散歩に行けと言ふのに……あなた……行かないから……。
五郎 だつてお前、それだけの為に、あんなにジレる事あ無いぢやないか。そりや、伊佐子さんと赤井が二人きりでユツクリ出来るのは、あれが最後だつたかもわからないけど、俺だつて赤井と話すのは最後かも知れない。一分間でも一緒に居たいやね。それをお前は無理に追ひ出さうとするんだ。
美緒 ……だつて、……夫婦よ。……それで……。
五郎 そりや解つてるよ。だからさ――。
美緒 あなたには……わからない……私は……赤井さん達……ホントの二人つきりにして……ゆつくり……させたかつた……のよ。
五郎 だからさ、だから俺あ――(と言ひながら美緒の顔を見詰めてゐたが、急に何かを悟つてポカンと口を開ける)……。すると……すると、なにか? お前は――?
美緒 ……(パツと赤くなつて、両掌で顔を蔽ふ)
五郎 ……ふむ。……さうか、そんな事をお前……さうか。(美緒の言つてゐるのがセキママヂユアルな事であつた事を理解するや、急に、はじめドギマギするが、次第に、赤井達のためにそこ迄考へてゐた此の病人が可哀さうな様な、いぢらしい様な、不思議な様な気がして来、いつまでもいつまでも見守つてゐる)……さうか。
美緒 ……はづかしい……わ。(まだ顔を蔽うてゐる)
五郎 ……いや、いゝんだ。はづかしい事なんか無いよ。その調子だよ、その調子だ。それでいゝんだ。な! (美緒の頭を静かに抱いて、その顔を蔽うてゐる掌の甲の上から接吻する)……な! 美緒、お前は良い女だ。……なるほど、赤井達は、あれつきりで、会へないかもわからんのだ。……美緒、お前は本当に良い女だ。
美緒 ……いや……だわ。……あつちい……行つて。
五郎 アツハハハ、ハハハ、はづかしがらなくつていゝよ。ハハ、そいで、赤井達はお前がそんな事まで考へてゐたと言ふ事は未だに気が附かずにゐるだらう。すばらしいぢやないか。いゝんだよ。セツクスの事を考へるのが、変な事があるもんか! 今のお前がそこまで考へられるのは大した事だよ。その調子だ! いや、行くよ行くよ、なあんだ、行くよ。(心から嬉しさうである。口笛を吹かんばかりにして、カンバスを取り上げ、障子を閉めてから湯殿の方へ行く。笑ひながら、湯殿の戸をガタピシ開ける)
小母さんの声 (裏口の辺から)ワツ! アレ、アレツ!
五郎 ……(その声でハツと何事かに気附き、カンバスを縁側に置いたまゝ庭に下りて、裏口の方へ走つて行く。……間。裏口の辺で五郎と小母さんが何かガタガタしてゐる物音。小母さんのアツ! アツ! と言う声が切れ切れに洩れて来る。……やがて五郎が汗を流しながら大型のビスケツトの空鑵を抱へ、便所の角の所に現れる)……開けて見たりするからいけないんですよ!
小母 (真青なおびえた顔でついて来て、眼を据ゑて空鑵ばかり見てゐる)……なにや知らん思うて、ヒヨツと開けたら、ホンマにわては! なんと、まあ!……そいぢや写生しいに出かけはる時に、その鑵持つて行かはるの、なんでかいなと思てゐたら……。
五郎 (空鑵のフタをグイグイとしめながらうなづく)……。
小母 ほんで、それ、どうしやはるのどす?……キビの悪い! チラツと見たばかりでわてはゾーツとして、ゾーツとして、ホンマに! それ、どうしやはる? 画に描きはるのどすか!
五郎 (美緒に聞えるから黙つてと手真似)……(低い声で、手真似をして)食ふんです。黒焼にして。
小母 (これも低い声で)へつ? あんたはんが? それを――?
五郎 ……(黙つて黙つてと手真似。それから、いや自分ではない、美緒に食べさせるんだと、病室の方を指して手真似)
小母 (声をひそめて)……そりや、わては、前からすゝめてきましたけど、五郎はん、そないな事いけん言うて反対してゐなはつたのに、急に又――?
五郎 ……(フタをねぢ込みながら、黙つて黙つてと手真似。その拍子に、もともと持ち勝手の悪い空鑵が手からすべり落ちて、構に倒れてフタが開き、その中から一匹の蛇が飛出して縁の下へサツとひ逃げようとする)……畜生……! (と口の中で言つて、いきなり掴みかゝつて、蛇を地面に叩きつける。あがつてゐるので、なかなかうまく行かず、一二度手元が狂つて縁側の上のカンバスの生がわきの画面に叩き附けられた蛇がピシリバタリと鈍い音を立てゝ、油絵具だらけになる。それを又引掴んで、散々骨を折つて、ねぢ込むやうにして空鑵に入れる)
小母 ……(飛び退いて、息を呑んで五郎の悪戦苦闘を見守つてゐたが、うまく鑵にとぢ込められたので稍々ホツとして、額の油汗を拭いてゐる)へえ!
五郎 ……(鑵のフタを押へ、歯を喰ひしばつて肩で息をしてゐる)
小母 ……(その五郎を見てゐる内に急に泣き出す。声が出ると病人に聞えさうなので、手で口を押へながら、慟哭)
五郎 ……(便所の手洗場の下に転がつてゐるかなり大きな石を、フタの上に載せて、鑵を縁の下に押入れる。やつとホツとし、小母さんを顧みて、しばらくボンヤリ立つてゐる。小母さんは、まだ泣いてゐる)
美緒 (病室の障子の中から、低い低い声)……どうしたの?……あなた……どうしたの?
五郎 (その声で我れに返つて)おい。……(メチヤメチヤになつたカンバスをポイと湯殿の中に投げ込んで置いて、病室の前へ歩いて行き、そこの藤棚の柱に両手のよごれをこすり附け、手の匂ひをかいだりしながら、縁にあがる。障子を開けて)……なんだ?
美緒 ……どうしたの? ……今の音?
五郎 ……なんでも無い。猫が台所に飛び込んだ。ハハ。
短い間。
美緒 ……。なんか……読んで……。
五郎 そうか、よし。万葉をやろう。俺の解釈を馬鹿にするときかんぞ。あれでいゝんだからな。……(奥の床の間に置いてある万葉集を持つて来て、椅子にかける)えゝと……(と言つて書物の頁を繰りながら、その手の匂ひを時々かいでゐる。なまぐさい蛇の匂ひがこびりついてゐるのである)よしか? (そんな匂ひも、それから一切の感情をも吹き飛ばす様に、開いた所をいきなり朗読し始める。自己流のブツキラ棒な節を附け、声だけは朗々と高い)隠口こもりく泊瀬はつせの国に、さよばひにが来ればたなぐもり雪は降り来ぬ、さぐもり雨は降り来ぬ、つ鳥、きぎすはとよむ、家つ鳥、かひも鳴く。さ夜は明けこの夜は明けぬ、入りてが寝む、この戸ひらかせ、……いゝなあ! 入りて吾が寝むこの戸開かせと言ふんだ。……泊瀬と言ふ所に住んでゐる恋人の家へ、夜通し歩いて自分はやつて来た。……今の夜這ひと言ふのとは少し違ふだらうな。つまり恋人の所へ泊りに来る事だ。すると、やつぱり似たやうなもんか。
美緒 ……(クスクス笑つてゐる)
五郎 ところが丁度恋人の家の前までやつて来たら、雪だか雨だかパラパラ降つて来はじめた。きゞすと言うのはきじだ。かひといふのはにわとり。パラパラ降つて来て、野山では雉が鳴き、家ではにはとりが鳴きだした。もうはやウツスラと夜が白んで来た。早く戸を開けてくれ、入つて寝るからと言ふんだ。女は勿論家の中にゐて、眠りもやらず待つていたんだね。……(朗読)隠口こもりく泊瀬はつせの国に、さよばひにが来れば、たなぐもり雪は降り来ぬ、さぐもり雨は降り来ぬ、つ鳥きぎすはとよむ、家つ鳥かひも鳴く、さ夜は明けこの夜は明けぬ、入りてが寝むこの戸開かせ。反歌。隠口こもりく泊瀬はつせ小国をぐにに妻しあれば、石は履めども、なほぞ来にける。隠口の泊瀬小国に妻しあれば、石は履めども、なほぞ来にける。……わかるかい? ね、実に単純に歌ひ放してあるぢやないか。現世主義だ! 現実主義とか何とか理窟ばつた、ヒナヒナしたもんぢやない。俺達の祖先の単純で強い肉体と精神が自然に要求するまゝのものだ。うまく言ひ廻して美しい歌を作らうなんぞといふ量見は微塵もない。唯、此の男は女に逢ひたいんだ。夜通し歩いて歩いて、その家にやつと着いた。早く開けろといふんだ。それだけだ。それだけだから、美しいんだよ。……画で言へばルネツサンス、いやルネツサンスのデリカシーなんぞ、あんな弱いものは無い。ボチセリのヴイーナスは美しい。けど、あんなもの、しやうがあるもんか。ギリシヤだよ。ギリシヤだ。……まだ神々が肉体を持つてゐるんだ。人間が神々の単純さを持つてゐるんだ。……生きるといふ事が最高の悦びなんだ。悲しみさへも、生きる事の豊かさの中では、よろこびであつた時代だ……生きてゐる此の現在こそ唯一の貴といものだ。死んぢまえば、真暗になつて一切は無くなる。来世なんぞ有りはしない。つまらん屁理窟を言つたり神学を発明したりしてゐる暇はない。そんな物は要らん。それほど此の現在生きてゐる世界は生き甲斐のある、生きても生きても生き足りない程豊かな、もつたい無い程のすばらしい所だ。そうぢやないか! どうだ、すげえぢや無いか。こんな連中の血が俺達の身体の中にも流れてゐるんだよ。いゝかい? 俺達はこんな奴等の子孫だよ。チツと考へろ。……美緒、お前はいつか、神様は有るかなんて言つてゐたな? フン! そんなもの有るもんかい! 慾張るな。人間死んぢまへば、それつきりだ。それでいゝんだ。全部真暗になるんだ。そこには誰も居やしない。真暗な淵だ。誰かを愛さうと思つても、そんな者は居ない。ベタ一面に暗いだけだ。たゞ一面に霊魂……かな? とにかく霧の様な、なんかボヤーツとした雰囲気が立ちこめてゐるだけで、そん中から誰か好きな人間を捜さうと思つても見付かりやしないよ。入りて吾が寝む、此の戸開かせなんて事は無くなる。人間、死んだらおしまひだ。生きてゐる事が一切だ。生きてゐる事を大事にしなきやいかん。生きてゐる事がアルフアでオメガだ。神なんか居ないよ! 居るもんか! 神様なんてものはな、生きてゐる此の世を粗末にした人間の考へる事だ。この現世を無駄に半チクに生きてもいゝ口実にしようと思つて誰かが考へ出したもんだ。現在生きて生きて生き抜いた者には神なんか要らない。第一、神様なんて居やしないよ。その証拠には……その証拠には、神様が居て、そいで神様が人間を創つたもんなら、そんなら、その人間を倒す結核菌は誰が創つたんだ? 結核菌の方には結核菌だけの神様が居るわけか? 馬鹿にするな! (はじめはそれ程でも無かつたが、喋つてゐる中に本気になつて手をブルブル顫はせてゐる)
美緒 ……そんな……私に……怒つたつて……。
五郎 (我れに返つて)……要するにな、俺の言ひたいのは、万葉人達の生活がこんなにすばらしかつたのは、生きる事を積極的に直接的に愛してゐたからだよ。自分の肉体が、うれしくつてうれしくつて仕方が無かつたのだ。逆に言ふと、来世だとか死んだ後の神様だとか、そんなものを信じてゐなかつたからこそ、奴さん達は今現に生きてゐる此の世を大事に大事に、それこそ自分達に与へられた唯一無二の絶対なものとして生き抜いた。死んだらそれつきりだと思ふからこそ此の世は楽しく、悲しく、せつない位のもつたい無い場所なんだよ。死ねば又来世が有つたり、変てこな顔をした神様がゐてくれたりすると思つたら、此の世はなんの事あ無い手習い草紙みたいなもんだ。いゝくら加減に書きつぶして置けばいゝと言ふ気にもなるんだ。神だとか来世だとかを考へ出したのは、小さく弱くなつた近代の人間の謂はゞ病気だよ。そんな事を考へて置かないと此の世に生きる事の強烈さに耐え切れなくなつちやつたんだ。病気だ。俺達はみんな病気になつてゐる。誰も彼もみんな病人だ。…わかるかい? ……そして、この病気を治してくれるのは、昔の、俺達の先祖が生きてゐた通りに生きて見る以外に無いよ。自分の肉体でもつて動物のやうに生きる以外に無い。動物と言つて悪けりや、一人々々が神になるんだ。……今、戦争に行つてゐる兵隊達が、それだよ。動物でもあれば神々でもある。日本の神々が戦つてゐるんだ。戦争をすると言ふ事は、最も強烈に生きるといふ事だよ。さうぢやないか。理窟もヘチマも、宗教もイデオロギーも、すべてを絶した所で、火の様になつて生きてゐる! それが戦争だ。いゝか? ……俺達は万葉人達の子孫だ。入りて吾が寝む此の戸開かせだ。早く開けろ。それでいゝんだ。お前が、赤井と伊佐子さんを一緒に寝させたがつた。それでいゝんだ。それでイライラして熱を出した。それもいゝ。俺あうれしいよ、その調子なんだ。……俺達あ、美しい、楽しい、かけがへのない肉体を持つてゐるんだ。ゆづるな、石にかじり付いても、赤つ耻を掻いても、どんなに苦しくつても、かまふ事あ無い。真暗な、なんにも無い世界に自分の身体をゆづつてたまるか。[#「たまるか。」は底本では「たまるか?」]
美緒 読んで……また……
五郎 よしよし、……どうも講義の方が長くなつちまはあ。ハハ。疲れはしないか? ……ぢや読むよ(と書物をめくつて)チエツ、まだ臭い……(と指の蛇の匂ひをかいでゐる)
美緒 ……どうしたの?
五郎 なんでも無い。(朗読)大伴旅人。あなみにく、さかしらをすと酒のまぬ、人をよく見ば猿にかも似む。……これは前にも一度読んだね。あゝ見苦しい事ぢや、悧巧ぶつた事をする人と酒を飲まない人を、よくよく見たら猿にでも似てるらしい。猿にかも似む。全くだ、猿め! (朗読)同じく。いも敏馬みぬめの崎をかへるさに、ひとりし見れば涙ぐましも。妻と一緒に来た事のある敏馬の崎を帰り途に一人で通つて見ると、涙ぐましい……(朗読)同じく。この世にし、楽しくあらば、来んには、虫にも、鳥にもれはなりなむ。そら、これだこれだ! 此の世さへ楽しかつたら来世には、たとへどんな動物になつたつてそんな事あ構はん。これだよ! この世にし楽しくあらば来ん生には、虫にも鳥にも吾れはなりなむ!
そこへ小母さんが台所の方から出て来る。
小母 ……あの、五郎はん。(居間から手まねく)
五郎 ……なんです?
小母 ちよいと――。
五郎 え? (立つて居間の方へ行く)なんです?
小母 (台所の外に誰か来てゐることを手真似でして見せて)奥さんの生徒はん達、見えはつて――。
五郎 え、生徒? 託児所の子達ですか? へえ、何人位?
小母 三人どす。先に御見舞ひに来やはつたのと違ひます。直ぐに通して奥さんコーフンなすつたら、いけん思うたもんどすさかい――。
五郎 さうですか。……(と万葉集を片手に持つたまゝ台所口へ消える)
小母 ……(病室に美緒を見に行く)奥さん、いかゞどす?
美緒 ……(うなづいて見せる)
小母 ……(美緒の額に手を当てたり、吸入器の加減を直したりしながら)また五郎はん、書物読んで呉れはつてゐるのどすか。……なんぞお飲みになりまつか?
美緒 ……(かぶりを横に振る)
小母 どすかいな。んでも、なるべく、なんぞ飲むか食べるやうになさらんといけまへんぜ。
そこへ五郎が戻つて来る。
五郎 ……美緒。あのなあ、……託児所の子達が見舞ひに来てくれた。お前の手がけた子で補習科を出たのが二人と、現在あすこにゐる子が一人だ。みんなの代表みたいな意味で来たと言ふんだがね。……どうする? 別に会はなくつてもいゝだろ?
美緒 ……(かぶりを振る)
五郎 だつて、又お前、気が立つていかんぞ? 俺がよくさう言つとくから、な? スツカリ良くなれば、いくらでも会へるんだ。
美緒 ……うゝん……会ふの……。
五郎 仕様がねえなあ。……そいぢや、ほんのチヨツトだぜ。いゝかい? いゝな? (美緒コツククリを[#「コツククリを」はママ]する)……ぢや庭にまはすからね。絶対に口を利いちや駄目だよ。いゝな? (美緒コツクリ)約束したよ。ホンの一分間だよ。ぢや……(と庭に下りて裏口の方へ消える)
小母 ……生徒さん達、来やはつた。奥さん、えゝなあ!
美緒 ……(何度もうなづく)
小母 みいんな、元気の良さそうな、可愛いゝお子どすえ。
 五郎が三人の子供を連れて裏口の方から庭へ出て来る。上手に立停つて、低い声で、三人に向つて何かしきりと注意してゐる。病人が重態だから、会ふのはホンのチヨツトにして呉れ、話もなるべくしてくれるなと頼んでゐるのである。三人は、子供らしい緊張した顔で、うなづきながら聞いてゐる。一人は質素な和服を着た十六七の少女、一人はカーキー色の国民服を着た十五六の少年。この二人ともまだ小さいのに関らず、既にどこかの職場に働きに出てゐるらしく、その年頃の中学生や女学生には無い所の強い着実さと言つたものが身に附いてゐる。もう一人は十一二位の洋服の少女。
 五郎、注意し終つて、三人を導いて病室の前の縁側の所へ連れて来る。それを焼け附く様な視線で見迎へてゐる美緒。……三人の子供も、五郎の傍に横に一列に並んで、きまり悪さうにお辞儀をしたまゝ寝台の上の美緒をなつかしそうにジーツと見ている。
 そのまゝで永い間。
男の子 ……(口を利いたものか、どうしたものかと五郎の顔と美緒とを見較べてゐた末に)美緒先生、……御病気どうですか?……あのう、僕達、……みんなを代表して……。
美緒 ……(三人から目を離さず、しきりとコツクリをして見せる。うれしさうに涙ぐんでゐる)
少女一 ……もつと、しよつちう、皆来たがつてゐるんですけど、……大概もうみんな働きに行つてゐるもんですから、それで暇が無いもんですから……。みんな、先生の事心配してゐます。……こないだも、同窓会があつて、五十人位集つて来て、そいで、美緒先生の事、みんなで話して、そいで、そん時に正木さん(と少年を指して)と、私と、そいから君枝ちやん(と少女二を指して)と……この子は先生知らないでせうけど、今のしよで女の組の組長してゐる藤堂君枝ちやんです……こんだけが代表でお見舞ひに来ることに決つたんですの。……ほかの人もみんな来たがつたんですけど、みんな忙がしいもんだから……。
美緒 ……(コツクリをしてゐる)
少女二 私は先生には教はらなかつたけど、でも先生のことよく知つてゐます。
少女一 あらあ、だつて、どうして知つてるの?
少女二 だつて、遊戯室のオルガンの上に、先生の写真が懸けてあるぢやないの。あれで知つてゐるんだわ。ほかの先生や卒業した人がさう言ふのよ。これは、この託児所こさへた美緒先生だつて。だからあたし達もみんな、美緒先生々々々々と言ふんです。
少女一 さうなんです。久我先生といふ者は一人も居ないんですよ。みんな私達の真似して美緒先生と言つてます。
少年 みんな元気で、大概働いてゐますよ。僕は寺島の方の明石鉄工所に行つてます。まだ見習なんですけど、夜学の工芸学校に通つてゐるから、再来年の四月になれば技手の資格が取れるんです。この仙ちやん(と少女一を指して)は、松尾の食料品部につとめながら、洋裁習つてゐます。そいから、唱歌がチツトも歌へなかつた時ちやんね、あの子は、こないだ新京の何とか言ふデパートに行きました。そいから、食堂でよくオシツコを垂れちやつて先生に拭いて貰つてゐた哲ちやんて子ね、あれは、こないだ病気だつたんだけど、もう良くなつて、お父つあんの後をついで左官屋さんになつて、腕がよくなつたら支那へ渡るんだと言つてました。
少女一 そいからね、先生、あの、よく人の物を黙つて盗んでゐた竹内ミチさんね、卒業してから学校の方も五年でよしちやつて、暫く見えないと思つてゐたら、こないだ、斉藤のツネちやんが道で逢つたら、ズツと大阪の方に奉公に行つてて、とても立派なナリをして、はあさうだすなんて言ふんですつて。先生の事を話してやつたら、とても心配してゐたんですつて。
五郎 ハハ、みんな元気でやつてゐるんだね。いゝな、みんなこれからだ。(三人に目顔で、もうそれ位にしてくれと知らせる)
少年 (モヂモヂしながら)美緒先生、早くよくなつて、又戻つて来て下さい。みんな待つてゐます。
美緒 ……(コツクリ。涙を流してゐる)
少女一 先生お大事にね。私達の事心配しないでね。ぢやこれで失礼します。
五郎 どうもありがたう。遠い所をわざわざやつて来てくれたのに、なんにも無くてホントに済まなかつた。みんなによろしく言つてね。ありがたう。
少女二 あのう、これ(と懐中から紙包みを出して縁側に置く)みんなで出し合つたんです。なんか食べる物買つて行つた方がいゝと言ふ人もあつたけど、美緒先生何がいゝかわからんからこのまゝの方がいゝつて……。みんなで八円五十銭しか無かつたけど――。
少年 (あわてゝ)馬鹿だな君枝ちやん! そんな――。
少女二 だつてさ。……そいでね、そいぢや半パだから変だと言つてたら、先生達が三人で五十銭づゝ出して呉れたんで……。十円になつたので十円きや入つてないんです。どうか――。
五郎 困るなあ、君達にそんな事させちや。どうする美緒? いたゞくか? (美緒コツクリ)……ぢや、なにも言はないで頂戴します。ありがたう。みんなにもありがたうと言つてね。
少年 では、これで……。早くよくなつて下さい美緒先生、いゝですか。
五郎 ありがたう。キツトよくなるよ。キツトよくなる。……ホントに済まなかつた。
 三人、キチンとお辞儀をしてから、立去りかける。それを見て美緒が片手をあげる。
五郎 どうしたい? (三人の子も立停つて振向く)
美緒 ……(低い低い、かすれた声で一生懸命の力を集めて)あのね……みんなに……言つて……頂戴。……私……あなた方……の事……ホントに……好きだつた。……みんな、……みんな……自分のこと……よりもみんなを……愛して……ゐたつて、……さう……言つてね。……みんな……元気で……私の……分まで……元気で……やつて……頂戴つて……さう言つて……ね。
五郎 もういゝ、馬鹿! 疲れる!
 三人の子の中で少女二がいきなりワーツと泣き出す。少年があわてゝ、泣くなと言ふ意味で、少女二をこづきまはす。少女一もポロポロ泣き出した。五郎があわてゝ三人を押すやうにして庭を歩き、裏口の方へ連れ出して行く。
 少年はまだ少女二をこづいてゐるが、庭のはづれで自分まで泣き出した。……三人と五郎消え去る。
 後では、これも涙ぐんだ小母さんが、何も言へず、ハンカチで美緒の頬を拭いてやつてゐる。昂奮をしづめてやらうとして美緒の手を撫でゝやる。……間。五郎が玄関から戻つて来る。
五郎 ……(容態にさはりはしなかつたかと、ジーツと美緒を見詰めながら、努めて落着いた調子で)馬鹿だよ。……だから、言はない事ぢや無いんだ。……それに愛してゐたなんて、キザだ。わかり切つてゐる、そんな事。……第一、ゐたと言ふのは全体、なんだよ? ゐたとは過去のことだぞ。阿呆!
小母 少し水で冷しなはるか?
美緒 ……いゝの……なんとも……無い。
五郎 いや……小母さん、水汲んで来て下さい。(小母心得て台所へ去る)……苦しくは無いか? (脈を取る)……。
美緒 ……平気よ……あゝ……嬉しかつた。……
五郎 平脈だ。……でも喋るなと言つてあるのに、馬鹿だ。……でも良い子ばかりだな。……シヤクリ上げながら駅の方へ行つた。悲しいよりも、久し振りにお前を見て、うれしいんだよ。……あんな子達を何十人となく、お前は育てたんだ。あゝしてグングン大きくなる。……すばらしいぢやないか。やがて大人になり、みんな働いて、その内に子供を生む。……明るいよ。クヨクヨする事あ要らん。
美緒 ……万葉……また……読んで……。
五郎 疲れてゐるから、後にしよう。……少し眠つたらいい。
美緒 ……いゝの……読んで……。
五郎 さうか、……ぢや、眠くなつたら、聞きながら寝ちまへ。(本を取り上げて開ける)……えゝと、(朗読)人麻呂ひとまろ。ぬばたまの黒髪山の山菅やますげに、小雨降りしき、しくしく思ほゆ。……ぬばたまのは枕言葉。菅の草に小雨がシトシト降つてゐるのを見てゐると、恋人の事がしみじみ想はれると言ふんだ。ぬばたまの黒髪山の山菅に、小雨降りしき、しくしく思ほゆ。……同じく。大野おほぬらに小雨降りしくのもとに、時々よりが思ふ人、いゝな! 野原に小雨がシヨボシヨボ降つてゐる、その木の下に自分は今立つてお前の事を考へてゐるが、時々はお前も此処にやつて来ないか。大野おほぬらに小雨降りしくのもとに、時々よりが思ふ人。……どうした? どうかしたのか? おい! おい! 美緒! (声が次第に高くなる)
美緒 ……(昏睡状態に陥ちてゐる)
五郎 おい、美緒! こら! (いつぺんに真青になつて患者の脈を計る。ハツとして、美緒の頬に手をやつて、ゆすぶる)……おい! 美緒! 美緒!
小母 (洗面器に水を汲んで台所から持つて来たが、五郎の様子にビツクリして)どうしやはりました?
五郎 (小母さんの肩を掴んで、その耳元に口を寄せて)小母さん! 走つて医者を呼んで来て下さい! カンフルの用意! ……カンフル! カンフルです! とにかく、その用意をしてきてくれ! さう言つて! 早く! 早く!
小母 へ? ……へえつ!(と、いきなり洗面器を下へ置いて玄関から走り出して去る)
五郎 美緒! 美緒!
美緒 ……(ボンヤリと眼を開けてニツコリして)もつと、……読んで……。
五郎 しつかりしろ! 馬鹿! なんだ、これ位の事が、なんだ。馬鹿野郎! 俺を見ろ! 俺の顔を見ろ!
美緒 ……なあに? ……もつと……読んで……。
五郎 いゝよ、いゝよ、もういゝよ! 馬鹿! 俺を見て居ろ! こら!
美緒 ……眠い。……読んで……くれないと……眠い……。
五郎 よし、ぢや読んでやる! だからチヤンと聞いて、目を開いてろ! いゝか! 眠つちまふと承知しないぞ! 俺を見てろ! (右手では美緒の脈を取りながら、左手で本をデタラメに開いて、ブルブル顫へるような声で朗読)いつしかと待つ吾が宿に、百枝もゝえ刺し生ふる橘、玉に五月さつきを近み、あへぬがに花さきにけり、毎朝あさにけに出で見る毎に、気緒いきのをに吾がふ妹に、まそかゞみ清き月夜に、たゞ一目見せむまでには、……美緒! おい! いゝか! 聞いてるか? わかるか?
美緒 ……(朦朧とした状態のまゝ、かすかにうなづく)
五郎 (殆んど叫ぶやうな声になつてゐる)眠るな! 眠つちやいかん! 馬鹿! 聞くんだ! 大伴家持やかもちだ。畜生つ! たゞ一目見せむまでには、散りこすなゆめと言ひつゝ、幾許こゝだくるものを、うたてきやしこほとゝぎす、あかつき心悲うらかなしきに、追へど追へど尚ほし鳴きて、いたづらに地に散らせれば、すべをなみぢて手折たをりて、見ませ吾姉子あぎもこ。反歌。……美緒! 畜生! 美緒!
美緒 ……(昏睡と覚醒の間を往つたり来たりしてゐるらしい)
五郎 (脈を見てゐた手で美緒の頬を叩くやうな事をしながら、緊張しきつた顔で、わめく様な声を出す)美緒つ! 馬鹿野郎! 眠つちやいかん! 眠るなと言つたら! 反歌! いゝかつ! 十五もちくだち清き月夜つくよに吾妹子に、見せむとひし宿のたちばな。同じく。いもが見て後も鳴かなむほとゝぎす、花橘はなたちばなつちに散らしつ。……俺を見ろ! 俺を見ろ、 畜生! おい! おい! おい俺を見ろ! 妹が見て後も鳴かなむ……。
朗読の声は狂つたやうな大声になつてゐる。
戸外は少し傾いた初秋の午後の陽射しが、カツと明るい。





底本:「三好十郎の仕事 第二巻」學藝書林
   1968(昭和43)年8月10日第1刷発行
初出:「文学界」
   1940(昭和15)年6、7月号
※表題は底本では、「浮標ブイ」となっています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※アキの有無、字下げ、三点リーダーの長さ、仮名・漢字表記のばらつきは、底本どおりにしました。
※「〔〕」内は、底本編集部による注記です。
入力:伊藤時也
校正:及川 雅・伊藤時也
2009年10月6日作成
2013年10月8日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード