「東京の風俗」といふ題名のもとに初めから一冊の本を書いたとすれば、又現在の本とは違つたものになつてゐたかと思はれますが、今全編の校正を終つて「東京の風俗」一本としてこの本を見ますと、題名に不釣合ひのものにはなつてゐなかつたことを感じます。
この本の中の特に「東京の風俗」と大見出しにした節から成る書きものは、元「東京遠近」と題して週刊ものにつづけた文章です。
東京遠近といふ言葉は生硬で意味の通りにくいことを恐れて、東京の風俗とし、それをそのままこの本全体の命題としました。
「東京遠近」とは、東京を広く一般にバーズ・アイ・ビューで見るとは反対に、狭からうとも竪になるべく深くパースペクティーヴに依つて見るといふ程の意味で、この生硬な題名は取りやめましたけれど、この一本を貫く――これが材料の「東京」に対する――著者の態度なり見方は、ひつきやう「東京遠近」式に変化ないでせう。
この本には最近はつい今しがた書きたてのものから、最も古くは――例へば「浴衣」(大正十三年)のものまでが採録されてゐますが、著者としての立場なり、考へには別段大変化はありません。終始一貫して私は東京を愛します。「愛します」とその相手のモノを自分から離していはうよりも、終始一貫、このさなかにゐますので、東京を描いて、私には
如何に破壊されようとも、よしんば悪化されようとも、そこに
「東京」といつたところで真の東京が果してどんなものか、それが何処まであるかないか……わかつたものでありませんし、東京はわるい汚ないところであつて、時と共に益々わるく汚なくならうとも善化される手はない。その理由はこれこれだと聞きますと、私は、その一々に対して同感出来ます。寧ろ東京の「善口」よりは「悪口」に対して常によく同感出来るでせう。
それは土地に対してのみならず「人」についても同様です。
反対に東京以外の地域に対しては――よく知らないせゐもありませうが――逆に「悪口」はただ「さうかなア」と思ふ程度で聞いてゐながら、「善口」は「全くさうだなア」程度に事新しく感じます。京都の如き区域の地は雅びて感じますし、奈良はさびて町の一筋でも心涼しく感じます。東京のやうに紙屑籠を、又は玩具箱を引つくり返したやうな殺風景な土地は、何処へ行つてもあらうと思へない。これを貶すについては、人後におちないでせう。
只私――私のやうなもの――にとつては、
東京には山も海もありません。品川の海の如き、あれは埋め立てではあつても「海」でも何んでもないものですが、「山」は遙かに雲際に時々モヤモヤしたものが望めるといつても、その名も、その存在も平素全然感知しないものです。
時々省線のフォームで夕焼けの空にそのスカイラインを珍らしく眺めるのみ。富士は遠く三角に時々点景のやうに見るに過ぎません。
それが良いのです。
それが良いので、四方八方開けつぴろげのいはゆる「空ッ風」の吹く、雨の横なぐりに降る中で却つて初めて我居得たりと落附いてゐられるものですから――それで「東京」をはなれられないのだと思ひます。
一つの「因果」でせう。
「故郷」といふものは、互ひに誰にとつても。
私以外の人々にとつては、又その人々のそれぞれの土地に対して私が今申したやうに思はれること、御同感を得られるところと思つてゐます。――私は前に、都会生れのものには「故郷」は無いのではないか、などと思つた事があります。近ごろの心持では、決してそんなことは無い、「故郷はある」と思ふやうになりました。その「旧山河」といふことをいひますが、「旧人家」で良いと思ひます。
東京は刻々に変じてメチヤメチヤになり、土地の名も無くなり、最近では京橋三十間堀の如き又も掘つくり返されて、私の本籍のありますその辺りの所番地は、三度び転籍させられるかもしれません。
風情もけしきも、この塵埃の都会はあつたものでありませんが、ただ、如何なる変動があらうとも、東京が樹々山々に囲まれることはありません。
町を歩いてゐて「山」の見えるわびしさに出あふ地異転変は無いと思ふ。
恐らく東京以外の方達は、この土地にゐて、何が「寂しい」といつて、東西南北全然山地の無い日常日々の寂しさが、一番いけないものではないでせうか。――私にとつては、その反対が一番いけないのです。
私は「海」を初めて見たのは、たしか十二歳の時でしたが、学校の遠足で銚子の犬吠崎へ行つた時でしたが、道が砂丘のやうなつま先上りに窮まつたところ、突如としてつまり太平洋の「波」が見えると、その波がしらの白さに、初めそれが何であるか、了解がつきませんでした。段々とこれが本当の「海」であり「波」であることを知つて、文字通り固唾をのむ心持ちでした。(その時の印象は今だに「波」だけです。燈台も何もおぼえありません。その代り「波」は今だにありありとはつきり眼底にあります。)
また山を見たのは――これも学校の遠足が日光、筑波山などと、順に山に馴れさせたとは思ふが抑々「山」らしい山を見たのは、二十歳に近づいて京都へ行つた時が初めで、東山に絹糸のやうな霧雨が降りこめてゐました。そして間もなく東三本木の宿へ着いてから雨が霽れると、それまで何も無かつた空からみるみる紺青色の比叡山がぬつと現はれて来ました。これにドギモを抜かれました。その時の比叡山の一角をかすめた空の澄んだ青さは、死んでも忘れぬ印象でせう。
文字通り「他国」の空です。東京には想像をも空想をも絶して夢にも、無いことです。
私の書きものは一言半句正に何にもならない徒事徒言に過ぎないと思ひますが、これに「滑稽」ともいふべきものありとすれば、日常、夢にも右にいつた「山」とか「海」とかいふモノを感じたことのない塵埃の中の人間が誌した雑記として、あるひは多少その塵のカンジは出てゐるかも知れないといふことです。
本書を手はじめとして私は私の絵画以外の許す時間の範囲で、その塵中記ともいふべきものを多少つづつておかうと思つてゐます。一つにはさういふものを文章でつづつておいていい年齢にもなつて来たかと思つてをります。
人物論は手許の稿の、近年に書いたものの中から小杉、鏑木両先生の分を挙げ、岸田劉生の特に日本画について誌したものを添へることとしました。
これだけに特に止めた上に別意あるわけでなく、また、風俗に関する本の中にこれを入れたについても特別の意味はあるわけではありません。
両先生と岸田についてはいはば「材料」をぼくは内から隔意なく書く事が出来ると信じてゐます。
風俗についても大体いはゆる「隔靴掻痒」でなくかいたものを集めたと思ふので、「人」についてもさうして書いたものを交へておきたかつた、ぼくの「本をこしらへる神経」が為せる業だつたらう。
突然人物論の交つたのは、小杉さんと鏑木さん――ぼくはこの両老を人に語つて「オヤヂ」と戯称することがある――にはひよんな書物の中に御名前を交へたことを、おわび申上げる。
本文校了の日たまたま一ノ酉に際会し友人M、N、N三君も来り合せしものありし故天候も良し夕刻より長駆大鷲神社に赴きしが戦乱慌忙の後初の酉の市詣で也。
果して池の周りに多年この日は恒例なりし見せもの小屋一軒も客を呼ぶものなく、神社より吉原廓内へかけての人の出足も少かりしがこれは時刻の早かりし為もありとみて、廓内の模様が家並低く一体に不ぞろひにして提燈など高く掲ぐといへども京町も揚屋町も裏通りは全く暗くうそ寒きはこの土地に初めてみる景色なり。
「復興」せし娼家の家々は皆洋館まがひの小さく四角きバラック風が主にて屋内螢光燈などを点じ、門々に「女給サン募集」と記しあり、「女給サン」が遊女なるべし。
家のうちに隠見する彼女達はいはゆるアップの飾髪に紅の造花などかざしたる形、ヰナカびて見ゆ。模様ものの和服多し。(現在の玉ノ井・鳩の町とさも似たり。)
酉の市の売りものは相変らず前年と同じにて盛んなり。とうの芋一たば六十円、三十円、二十円と区別して正札にて示し、熊手は小形張子細工のもの二百五十円と称す。以前は二三円の品なりしとおぼゆ。神社の「はきこめ」は三十円也。かたへに神官の御くじを振るけしきは従前と変らざれども、賽銭の降るものなく肩摩轂撃の雑沓なければ警官も手持ぶさたなるごとし。
京町筋より「非常門」を出て昔はねばしかかりし方へと検分するに地形はこれと判別すれども家々皆低き平家なれば「茶屋が裏ゆく土手下の細道に落かかるやうな三味の音」を仰ぐと誌されし昔日の面影は何処にもなし。
人々も酉の市をとりのいち、歳のいち(市)と混じて怪しむものなく、遂に「とりのまち」引いては「二のまち」などのこの土地の言葉は衰亡せしものと考へる。
ただこの夜のあたりのたたずまひ、「空気」には、どことなく「景気」といへるやうのもの漂ひてあり。昔は大鷲神社入口に夜空に高き長旗二旒白々と立ちしものなりき。もとより純綿もの白地大幅数反の大のぼりなり。かやうのものは「復興」するに至らず。吉原病院裏の池のあたりは森閑として人一人なく黒々と死せる如し。
昭和二十三年十二月誌
木村生