私のこと

木村荘八




 ………生ひ立ちについて記せといふことですが、生ひ立ち万端すべていつか記しつくしたやうに思ひます。先づ昔の土地についてのことから書くことにしようと思ひます。これも今では移り代りの早さに、文献ものになりました。
 ――ぼくは十九の歳、すつかり火事にあひましたので、それまでの記念品のやうなものは写真から、絵から、衣類大小、それこそ根こそぎみんな焼いて了つて、大正二年に北山清太郎の撮影した写真からがその後のはじまりです。北山清太郎といへば、画壇に御存知の方も少くないことでせう。その大正二年の秋、ぼくは二十一歳。ぼくはその冬には麻布一連隊へ入営してゐました。岸田劉生が二十三歳。岸田はその頃に結婚してゐたと思ひます。岸田はその頃、仕事としては、岸田の画集の冒頭に出てゐる繃帯した少女の像であるとか、東京郊外の写生品、バーナード・リーチ像等を作つてゐました。
 大正二年はその春(三月十一日より三十日まで)フューザン会の第二回展があり、秋にはそれが解散して、十月十六日から二十二日まで、我々は新規に生活社油絵展覧会をその頃神田三崎町にあつたヴィナス倶楽部で開催したのです。生活社の同人は、故岡本帰一、故岸田劉生、及び、高村光太郎氏とぼくの四人です。
 これが後に草土社となる母体に相違ありませんが、未だ草土社ではありません。草土社は大正四年の秋から成立したもので、まだ間があります。
 神田のヴィナス倶楽部といふのは、そこで生活社のわれわれの会があると、その次ぎに引続いて梅原氏の帰朝展覧会が開かれたところで、当時の東京にはもつけのギャレリーでした。
 梅原氏はまだ龍三郎と云はず、良三郎だつた頃。かういふ時分のことを書くとまた話はいくらもありますが……生活社展のころに、われわれは一方「生活」といふ雑誌もやつてゐたが、それと詩を主とする千家元麿・福士幸次郎・佐藤惣之助達の「テラコッタ」といふ雑誌が合併した。家兄木村荘太と高村氏と、岸田とぼくとが、生活同人の方です。

 僕は日本橋区吉川町一番地といふところで生れましたが、その後はこの吉川町一番地は両国界隈の何処にあつたものか、今の両国へ行つては、かいもく見当が附きにくゝなりました。僕の家は「第八いろは」といつた牛肉店で、吉川町一番地の一角を占めてゐたのです。二階の窓ガラスに五色の色ガラスをはめて、その家の有様が、明治十何年(欠字)御届とある井上安治の板画「両国橋及浅草橋真図」といふのを見ると、ほとんどぼくの記憶通りの状態に写されてゐますから、相当古くからこの一角にあつた家でせう。オヤヂがいつ時分この家を買つていろはにしたかは知りません。ぼくの兄貴は四つ年上ですが神田で生れたので、その神田橋にあつた家といふのから焼出されて、一家中、両国第八の店へ移つたのです。この家へ移るとすぐにぼくが生れたさうです。
 それで極めて幼少の頃、明治三十年見当の両国界隈の様子は、知る由もありませんが、ぼくのものごゝろが付いてからは、吉川町の一角、ぼくの家の軒隣りに、そこから家並みが東へ両国橋の方へ折れ込んで両国広小路の列びとなり――といつても、これも現在の両国広小路(電車通り)とは違ひます。一体両国橋そのものが昔の木橋から見ると、現在の橋はその位置が少し北寄りにずれてゐます。――それで旧両国広小路の軒並みは、角店かどみせのぼくの家から鍵なりに、通りを煙草屋、玩具屋、そば屋の長寿庵、足袋商の海老屋……と順になつてゐます。そこまでが吉川町一番地になつてゐたわけです。
 ぼくの家の正面と煙草屋の側面との間には互ひの建築上の関係で空間が出来るわけでしたが、そこを体裁よく埋める為めに大きな一枚板の広告掲示板がとり付けられて、――これは井上安治の真景にはありませんから、後になつて取り付けたものでせう――これに、団十郎の弁慶が巻物一巻をひろげてすつくと立つてゐる図の、煙草のオールドのペンキ絵が一杯にかいてありました。
 このオールドのかんばんを日夕親しく記憶してゐます。――そしてこの大かんばんの下に木の駒よせがあつて、柳が植わり、この柳蔭に、いつも供待ちの人力が十台近く並んでゐたものです。車夫が赤に黒筋の二本はひつた毛布をからだに巻いて、冬の空つ風の吹く日など、自分々々の車の蹴込みにうずくまつてゐる光景を、これもまざまざと記憶します。
 ぼくの家とその車夫のたまりとのしやあひには何か凹字形のくぼみがあつて、――ぼくは少年のころによくそのくぼみへはひつては、そこだけに珍らしく生えてゐる雑草を楽しんだものでしたが――これに高い一竿の旗ざをが立ち、朝夕、白地に「牛鳥いろは」と朱で書いた小旗をこれへ上げ下げしました。これを家ではフラフといひました。主のしんせつフラフの、どうとかして、その日その日の風次第、といふ歌の実感があるわけです。フラフはフラッグの訛なりや否。
 明治十六年版の「袖珍東京みやげ」に
「両国回向院角力。角力は両国晴天十日晴れて逢ふとはうらやまし」
「柳橋。柳橋から小舟ぢやおそいそれより手ばやに人力車」
「百本杭。百本杭まで手に手をつくしこれも恋ゆゑ苦労する」
「両国の花火。日よふを待つてあげたる両国花火猫は鯰がそう仕舞」
 吉川町の両国広小路寄り表通りは軒並みの商家になつてゐますが、その裏通り、ぼくの家から後ろの一列一帯は、芸妓じんみちになるので、その鯰が総仕舞する猫の住家です。当時の柳橋芸妓についてはこれもいつぞや述べたことがあるから略します。吉川町の裏通りは略します。表通りは――足袋屋の次ぎが吉川町二番地に移つて、大平になります。大平、細かくいへば松木平吉で、末期ものゝ浮世絵版画の名代の版元です。しかし僕なんかはこれを大ざつぱに絵草紙屋で通してゐましたが、僕の家の裏手からは小路が細く曲りくねつてこの大平のわきへ抜けられるやうになつてゐて夏などはこのドブ板を敷いた高い家と家との間の小路がいとゞ涼しく、大平は真黒な巌丈な土蔵造りですし、ぼくの家は煉瓦作りです。ぼくは広小路へ出るのによくこのしやあひを抜けては、大平の横手の窓口から、暗い家の中で、木版の刷り合せをやつてゐるのを覗いたものです。大平の店先きには絶えず眼先きを変へて、今思へば小林清親であるとか大蘇芳年などの錦絵新版ものが奇麗にかゝつてゐました。中でも未だにありありおぼえてゐるのは、たて版二枚つゞきの、一つ家の鬼婆が片肌脱いで出刃を磨ぎながら、赤のゆもじ一つで上からさかさにつるされてゐる身持ち女を見据ゑてゐる凄い図でした。女は髪を黒々と長く垂らして、真白のからだでした。
 大平の隣りが勧工場。これは後に寄席になりましたが、それから、天ぷら屋、金もの屋、松の寿司、砂糖屋、と並んで、吉川町八番地、この界隈が十七世の吉村金兵衛さんといふ家です。これが町内の共睦会の幹事をしてゐました。その他「月番」であるとか昔の「家主」といつたやうの感じ。旧芝居の二番目ものでさういつた役々を見ると、今でもすぐ脳裡に浮ぶのはこの吉村さんの面影です。渡世は印版屋だつたと思ふ。鰹は半分貰つて行く、その「悪」は無かつたけれども。
 この印版屋をぼくはインバイヤといつて、家のものにひどく怒られたことがあります。
 吉村さんの隣りが絵草紙屋の加賀吉。それから玉屋眼鏡店。蝋燭屋。玉ころがし。金箔屋の岩田。べつこう屋の伊勢七。両国餅の佐久間。松本。ランプ屋。葉茶屋の池田。天ぷら屋の柳橋亭。せんべ屋の紀文。これで吉川町が両国寄りの角にぶつかります。

 勿論以上は片々たる記事文に過ぎませんが、危ない記憶や当推量は少しも交へず、大正十三年に元同じ両国辺りに住んだ上原長柏と西野治平、高見沢遠治及びぼく。これだけ寄つて、吉川町、元柳町、横山町、馬喰町……此の界隈一帯にわたる、相当精密な地図を作り、これが僕の家に保管されてゐるのです。
 ――それに依つて、ほんの一部分の、吉川町区分だけをこゝに記した文献であります。

 ぼくは明治二十六年八月二十一日に生れました。中川一政、山口蓬春諸君と同年です。政治家や実業方面ではどういふところか知りませんが、俳優でいへば林長三郎、村田嘉久子等と同年の巳歳で、花柳章太郎が一つ歳下、中村時蔵が二つ歳下です。ぼく達の巳歳からもう一廻り上の巳歳が小杉さんで(放庵子)、小杉さんの更にもう一廻り上の巳歳がアンリ・マチスの歳になります。
 話がもどります。フューザン会といひ生活社といつても、今では画壇の昔語りで、若い人々には誰がどうしたことかわからないでせう。それ等の内訳は此の書きものゝ範囲外となるからこゝには記しませんが、フューザン会はその頃銀座にあつた読売新聞社の楼上で開かれました。それからして場所といひ名といひ、今の人達にはヘンに思はれることでせう。生活社――この同人は、前にものべたやうに、故岡本帰一、高村光太郎、岸田劉生、小生の四人。――は神田三崎町のヴィナス倶楽部といふところで開かれたと云つた。この家なんか正に文字通り方丈記の「世の中にある人と住家とまたかくの如し。玉しきの都の中に棟を並べ甍を争へる云々……これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり」。今行つて見ても全然何処にその家が在つたかわかりません。その帰朝展覧会が同じ会場で開かれたものです。梅原良三郎氏は、スマートな蝶結びのネクタイがぴつたり板についた洋服姿で、そこで同氏に初めて逢つた頃のことを思ひ出します。
 岸田は此の時分に、意識して――それは、色彩よりは素描の分子を強く生かすといふたてまへから――パレットを制限した七色位を以つて、バーナード・リーチの肖像だとか、郊外風景の写生だとか、繃帯せる少女……と云つたやうな初期の傑作を描いてゐました。
 此の頃、硲伊之助が、非常な達筆を以つて水彩がかつた大柄の仕事をしてゐましたが、硲君は十七八歳でしたらう。仲間のうちで一番若い、と云つてもぼくがてんで廿か二十一なんだから――この二十一の少年がまた、その頃丁度美校を卒業しようとしてゐた先輩の万鉄五郎のところへ行くと、万はその頃ほひの僕を後に記して、早熟児木村某、といふわけです。一頃の戦国時代でせう。
 ぼくは此の頃、恐らくいつも同じ黒のボヘミヤン・ネクタイの恰好で、平井為成、山下鉄之輔、瓜生養次郎等々、その頃の同志と共に、山下新太郎氏の画室へ、がやがやマチスの話を聞きに行つたことがあります。
 それから少しあとだつたと思ふが、初めて土田麦僊と逢つた時に、麦僊氏が「……東京へ来る度びに汽車から見てゐると土が黒くて、段々とあなた方の描いてゐる景色になる。」さういつて、真顔に感服してゐたことがあります。これは岸田の発見したリアリズムを指すものです。
 ぼくはその頃にはまだ中川一政と相識らず、椿貞雄とも識りません。生活社といふものがやがて段々と後の草土社になつた母体で、草土社といふものは、大正四年の秋から岸田中心に成立したものです。草土社以前には、当時矢張り銀座に在つた三笠美術店であるとか田中喜作氏の田中屋で個展をするとか、一時は、巽画会の洋画部に関係したことがあります。それものつけに鑑査員といふつけ出しで、岸田が一足先きに、次にはぼくも一緒に、そこで、鍋井克之君あたりの出品ものまで採択したんだから、相当なものです。
 ぼくは画壇往来の幾年を通じて、不幸にして、たうとう「他人に審鑑査される味」といふものを身にしみては知らずに過すやうです。
 草土社が成立してからは、ぼくはその後ずつと岸田を補佐して草土社諸般の面倒を見ました。芸術的には草土社の殆んど何でもなかつたと思ひますが、万鉄五郎の所謂「木村は草土社にゐなかつたならばもつと早く「木村」になれたらう」といふのは、一つの妙な本当だつたか……兎に角そんな一つの見当だつたかも知れない。万はフューザン会の同僚です。フューザン会の同僚では今小林徳三郎が春陽会で同じ釜の飯を食つてゐる唯一となりました。
 ――それにつけても「ぼく」木村といふものはわれながらヘンなもので、ぼくのオヤヂといふのが、一体西の宇治から出て来た――それだから、ぼくは人にいはれるやうにはエドツコでも何でもない、マガヒモノなんです――一介の素漢貧で、何でも上林といふものから出て、これが向うの長年打続いた茶道風流の家柄だといふことですが、僕はよく知りません。(少くも後年このことを知るのは、オヤヂのコドモ共に、間接遺伝?で、その「風流」の血が誰にも彼にも蘇つた現実です。)
 ぼくのエドツコなるいはれはそんなわけで、父方関西については少しも知らないけれども、ぼくの母方が、これはまた、江戸・東京以外は全然何のゆかりも知識も無いベランメーでした。半分そこから受継いでゐるものでせう。母方は鈴木といつて、昔山形に小の字を書いた※[#「仝」の「工」に代えて「小」、屋号を示す記号、260-16]商標の、御蔵前の金座に関係のあつたあきんどらしい様子です。今でもぼくの家には、その母方から譲り受けた土蔵の錠前だとか、小判の金質をためす為めの道具だとか、はかり、巾着類、財布、小袖、櫛。そんなものが保存されてゐます。
 しかるにオヤヂの方は、何処からいつどう東へ出て来たのか、ぼくなんかは少しも知りません。何でも国元に妻女があつたのを分れて出て来た、然し後にこれを再び東京へ呼んだとかいふ話で、その妻女――つまりぼくの矢張りおつかさんです――これにあつた最初の子供が、栄子といつて、後に紅葉山人の頃に小説を書いた木村曙でした。父方の「風流」の血がこゝからはじまる。曙女史の「母」方の系統については、殆んどよく知りません。(そして申すまでもないが、僕は木村曙とは、母違ひの姉弟であります。)
 何しろオヤヂは裸一貫で東京へ出て来ると、その頃が、所謂文明開化の大都会であります。早速いろんなことをやつたやうです。あるひは芝浦に競馬場を作るとか、牛馬屠殺場を設けるとか、従つて牛肉店を作るとか、町屋に火葬場を創るとか、羽田に穴守稲荷を作るとか、品川に鉱泉を掘り当てるとか、……暫らく市会議員をやつて、それから衆議院へ出るとかの用意最中に、ぼくの満十三歳の時(明治三十九年)突然病の悪化で倒れたのです。
 ぼくはこのオヤヂさんに、殆んど一度も抱かれたことも無ければ、一緒に何処かへ連れて行かれたおぼえもなし、ろくにものを買つて貰つた記憶も有りません。たゞ何となく常にフロック・コートを着た重々しいオヤヂでしたが、別段それ以上の存在とも思はれず、オヤヂは当時東京市内各区に牛肉店いろはの支店を設置するに当つて、その主立つた店々に、管理人の名実を以つて、婦人を置きました。これを「御新ごしんさん」といつた。その一人がぼくの生母です。ぼくはこの木村家(いろは)の第八番目に出生した男子といふわけで荘八の名をつけられ、父は荘平といひました。が、ぼくの生れた店はまた丁度第八番目のいろはで、両国吉川町の角にあつたものです。当時東京市内各区のいろは牛肉店は二十軒以上盛業してゐたと思ひます。いろは四十八軒まで作らうとした気だつたかも知れません。上野のがん鍋も買はうとしてこれは実現しなかつたことなどおぼえてゐます。オヤジはそのいろはの主立つたところ、例へば芝三田の第十九いろはであるとか、深川の第七であるとか、万世橋の第六であるとか、ぼくの第八……それぞれを管理させてある「御新さん」達に、子供が生れると、男女共、これに番号の名をつけたものです。おろく、おくめ、おとめ、士女子、とじ子、おとむ、おとな、荘五、荘六、荘七、荘八、荘九、荘十、荘十一、荘十二、荘十三、といふわけだ。
 ぼくのきやうだいは、そんなわけで、皆合はせると、三十人以上ありました。
 ぼくはしかし平素、その三十人大家族と常に顔を合はせたといふわけではなく、子供達はそれぞれの母と一緒に、それぞれの店に居るわけで、従つてぼくはぼくの一つ腹の兄妹達三人と共に、両国の家に育つたものです。「父」こそ日頃親しまないが、それにしても無いわけでなし、母や祖母とは朝夕親しく、身近く健在で、それに金は有り、商売は陽気なり、雇人は大勢居ます。春は正月から花にかけていつも浮きますし、夏は歌の文句ではないが大川の花火だ。秋は新松しんまつだ、冬は酉のまちだ、歳の市だ……で、いつも家中ごつた返してゐます。それで僕の少年時代の記憶といへば、店は始終忙しいから、大仲好しの祖母と、中の間といふ奥の仏壇の有る居間にすつこんで、この祖母がチビのぼくをつかまへて胴を膝の横に落した爪弾きで「本町二丁目の糸屋の娘」なんといふ端歌を教へたものです。母も祖母も眉毛の無い、お歯ぐろを付けた細面ての、「イキ」といふ身なり形ちの女達でした。――そんな空気の中で育ちました。
 だからこれはエドツコが出来上るわけでした。あるひはまた、これも家が始終忙しい為めにコドモは邪魔であるから、毎晩のやうに、義太夫席の新柳亭であるとかまたは色ものの立花家へ付人をつけて寄席にやられてゐました。それが段々とこつちが長ずると、チビのころからの下地ですから、今度は自分で芝居見物に出かけます。中学校の頃には、これも三年迄はマジメにやりましたが四年の色気附くころからはぐれて、学校へはほとんど行かずに、東京各座の立見々々に憂身をやつしたものです。ぼくが年のわりにわれながら芸壇の消息を随分古いことまで知つてゐるのは、これ等のガクモンから来ます。――いふまでもなく、それで童貞でゐるわけはありません。十七だつた年の暮からぼくは男でしたからその頃、中学の同窓がニキビを吹出してあらぬ話をし合ふのがくすぐつたいものでした。
 中学校では清水良雄君がぼくの一級上、それが市川猿之助のゐた組で、小学校ではまた僕は田中咄哉州と同級でした。その他、今の望月多左衛門が同窓の先輩で、樫田喜惣次が同級です。亡くなつた林家正蔵なんぞも同窓だつたやうです。中学は駿河台の京華中学、小学校は浅草橋の千代田小学校です。
 十七歳から二十一迄は、殊に十八の歳からは家が変つて浅草広小路(第十支店いろは。昔曙女史のゐた家)に移つたので、折柄、中学は卒業するし(明治四十三年)、「年頃」ではあり、家兄の見やう見真似もあつて文学美術に心傾けながら、又その頃の文壇影響も小形なりに受けて、「享楽派」が一匹こゝに出来上りました。よく病気にならずにすんだと、その頃を回想すると、危険な気がします。
 中学校は家から離れた土地まで通つたのでしたが、これは下町には学校が少なかつたからで、学校が変つた為めに自然幼な友達とも別れ、それまでの小学校は家から指呼の間の公立ながら、云はば「町内学校」に通つたわけです。当時は私塾、寺子屋の組織も珍らしからず、私立の大堀学校などは両国近くに、聞こえたものでした。とんと一葉の「たけくらべ」の具合は、まだ我々年輩の少年世界に変らない状態でした。
 小学校を田中咄哉州と同窓だつたのは、年経て、つゝ井づゝの同窓が末長く同業でゐるといふことは珍らしい例なることを段々と再認識します。咄哉州はあにさんの金チヤンと共に小さいころから器用で、よく浅草公園の花屋敷にあつたダークのあやつりの水族館をボール箱の中に作つて遊びました。ぼくも幼少の頃から絵ずきで、友達との遊びといへば何彼につけ絵に関係のあることばかりでした。極く小さい時分に、毎日のやうに茄子や胡瓜、かぼちやなどが、黒門のところで鎧兜で戦ふ絵を描いたのをおぼえてゐますが、これは恐らく芳藤のおもちや絵、絵草紙から学んだものだつたらうと後に回想されます。
 その絵を僕にいつも手をとつて教へたのが、鈴木金太郎といふ叔父でしたが、これがすでにその頃都下に稀の「江戸児」といふべく、膝栗毛の喜多八又は落語に出る与太郎出だちの、イキな人で、又、ケムのやうな人でした。近年この叔父は七十の天寿を完うして私方で亡くなりましたが、晩年はボケて、どう聞いても、彼之れ五十年前に僕に教へた八百屋もの戦争の絵は、忘れてゐて、かいてくれませんでした。幼少の頃からぼくは文弱に流れてゐたやうです。両国ですから、回向院の角力場に程近く、これで弱つたのは、ぼくの名が木村荘某とあるところへ橋向うの行司衆が多く木村庄某なので、場所時分には郵便のとりちがへが盛んだつたことです。――名のことではもう一つ、ぼくの生家にかけて、ぼくは牛屋の荘ちやんといふわけで、牛荘、ニウチヤンと呼ばれて、いゝ心持のしなかつた記憶があります。畢竟日清戦争の名残りがまだぼくの少年時代には消えなかつた一つの兆候でせう。
 子供の頃から角力に近いくせに前後に一度もぼくは立ち会つて人と角力をとつたことがありません。たつた一度、フューザン会の時に、会場の読売新聞社の三階で、イヤだといふのに角狂の岸田劉生に挑まれて、かゝへ込まれ、忽ちヤツといふ程投げられた経験があるだけです。
 少年時代もそんなわけで、殆んどいつも中の間といふ「いろは」第八支店の奥のうす暗い室に引つ込んだなり、近所の芸妓屋のコを呼んで来て「おんどらどらどら、どらねこさん」といつたやうな遊びをするか、または、田中咄哉州――当時「咄哉州」なんとはいひません。兼次郎のカンチヤン――この連中同士の、いまの樫田喜惣治、即ち鼓の望月の二番息子の久チヤンこと阿部久であるとか、あるひは横山町の根津源、元柳町の樋屋の長ツペエなどゝいふ、かういふ仲間内で、ゴシゴシ鉛筆画をかいてその上にゼラチンを塗つて油絵だといつて喜ぶ遊戯などをしました。店に客が無いと、ぞろぞろ小高い三階へおし上つて、これは当時市内各区の「いろは」牛肉店独得に、五色の窓ガラスで家の見附きが全部飾つてあります。その五色のまゝ、赤や紫の四角な透明の形が畳へおちる真明るい中で喜遊します。一度は高い三階のてつぺんから下の地びたへ、宿無し猫を力一杯放つて、それが地びたでどうなつたのか、真下に客待ちしてゐた人力の車夫に、家へ手ひどく苦情をつけられたことがある。
 芸妓屋のコドモたちは、尤も家にぼくは妹がゐましたから、これへやつて来るわけですが、おはつちやんであるとかおせんちやんであるとか、その使ひ走りの下地つ子達が、ぽつくりを履いてぞろぞろやつて来るといふと、ぼくはこのみんなを集めて、人形芝居をやつて見せたものです。出鱈目に番町皿屋敷であるとか本所のおいてけ堀といつたやうな、いゝかげんの狂言をやります。その人形は皆から集めるので、これをいつも苦心して、尻から棒を通して首が動くやうにしたり、衣裳を作つたり用意しておきます。
 よくないのはこの仲間で時々お医者ごつこをしたことですが、ぼくが先生で、一人々々をきやつきやといひながら、シンサツするのです。これは明らかに鴎外先生のヰタ・セクスアリスにでて来る世界と同じことでした。
 おせんちやんなどは――おないどしでしたが――ぼくが十八になつて吉川町の家から浅草東仲町の店へ移動した頃には、シンサツどころではない、土地の立派なものになつて、よく遠眼にお湯の帰りなどの襟足をくつきりと抜いた、左右につげのびん出しをぴんと張つた颯爽とした姐さん振りを、見かけたものでした。
 ぼくは二十一で生家を出た当座、小遣取りに、そんなことを小説にかいて万朝報の懸賞に当つたことがありましたが、小山内さんが見て、あれは荘八君ぢやないかと思つたよといひました。小山内さんなどといふ人は、あゝいつた懸賞小説なども目を通して居られたものと見えます。
 ぼくの家の横手がずつと元柳町「芸妓じんみち」です。ぼくの中の間の窓は赤い煉瓦作りで、この通りに向つて開いてゐる。吉田白嶺さんの奥さんが、若い頃に、よくお稽古の帰りなどにその「木村さんの窓を覗きましたヨ」といふ話でした。
 窓の下は相当幅の広いドブ板になつてゐて、大ドブが元柳町を走つて両国橋の袂の義太夫の新柳亭のところまでずつと抜けてゐます。ある時ぼくがしよざいなさに中の間の窓からぼんやりこのドブ板を見てゐますと、雨がパラパラと来て丁度通りかゝつた、臼を車にのせたカンカチ団子屋が、暫時軒下に雨やどりをしてゐたけれども、なかなかやまないのを見て、荷物を置いたなり、すたすた尻つぱしよりで何処かへ駈けて行きました。得たりと、ぼくはすぐ外へ出て、その置きざりにしたカンカチ団子の臼の中へ、見るとすぐそこに犬の糞があつたからこれを入れて、杵でクタクタとついて、そのまゝ元の窓へ逃げ帰り、どうなることか、そつと覗いてゐました。
 残念ながらその時いつまで経つても雨がやまず、団子屋も帰つて来ないので、そのうち日もくれるし、――いつ団子屋が臼の車を曳いて帰つたかは見届けませんでしたが、明くる日になると、それがいつもの通り、カンカラカンカラ杵を鳴らしてやつて来ました、ぼくはすまして窓から団子屋が車を曳いて横町を通るのを見るといふと、杵の先きと、臼の中とが、白々しく削つてあるのです。わるい事をしたなアと後悔した心持を――その白々しく削られた木の色と共に未だに忘れません。
 画文を好んだのはぼくが子供の頃ですが、「絵かき」になつたのは、十九歳の、中学校を卒業した明くる年からです。
 両国には生れてから満十七年、中学校の五年にならうとする頃までゐましたが、それから住居が変つて、浅草にかれこれ二年程、芝三田に一二年、京橋采女町に一二年……といふ具合に転居しました。「いろは」の第八支店から第十支店、芝の本店、采女町の第三支店……といふ具合に移動したわけです。ぼくはその頃まだよく知りませんでしたが、かういふ移動は、「いろは」そのものの経済状態が年々傾きつゝあつた兆候に相違ありません。「いろは」はぼくが両国の店にゐた頃が全盛で、後にぼくが三田の店から京橋に移つた頃は、日に増し衰微を極めました。――ぼくは結局これを見るに忍びず、(経済は母の肩にかゝりますから)家を出て、独立したといふわけです。
 ぼくの父はぼくの十三の時に死んで、その後「いろは」の家業は長兄が引継いでやつてゐました。この長兄は青龍社にゐて夭折した木村鹿之助の父親です。
 ぼくは中学を卒業してからは浅草の店で、暫く店で帳場などをやつてゐました。しかし日夜いひ知れない憂悶を抱いてゐました。それは何か自分もやつて見たいからで、家兄の木村荘太がその頃ほひ雑誌新思潮を通して小山内さんや谷崎さん達と文学運動をやつてゐたことは、勿論身近い刺激なりお手本になつたわけです。
 ぼくはそこで、見やう見真似に、帳場格子の中で辞書を引き引き兄キの書架から持出した英語のモウパッサンの短篇集であるとか、ゴルキーの小説などを読んだものです。一日に一度はそれをやらないと何か胸元から空気でも洩るやうなとりとめのない気がして、「勉強」のつもりでやりました。しかし一方にはまた、ぼくは帳場ですから、頭を丸角に苅つて、木綿結城の竪縞に黒の前かけなんかしめてゐます。そのなりで、一日に二三円は使つていゝことになつてゐるその帳場の金を掴んでは、夜になると、浅草公園を六区の十二階下から吉原あたりまでぞめきに歩きます。無論何でも知つてゐます。
 それで昼間は後悔の為めにそはそはしながら、せめて帳場格子の中で「勉強」するといふわけです。英語の力はこれでどうやら進歩したやうです。しかし憂悶やり難く、一度は家を飛び出して、町を流して歩く新内語りにならう! と半分以上決心したこともあります。
 これを危ないところで救助したのが兄キの木村荘太です。一体家では他の兄弟(荘九、荘十、荘十一、荘十二等々)の手前もあるから、商業に従事する以外は、中学教育以上の学資は誰にも出さぬ、といふのを、荘太――これは当時総いろはの若旦那です――は、ぼくの為めに一方、小山内さんを通じて、家との交渉決裂する場合は岡田三郎助先生のところへぼくを書生に出す(?)作戦を立てた上で、家事総監督の長兄に向い、荘八を絵かきにしてやつてくれと談判したものです。
 申す迄もないが、ぼくは文学をやるか、あるひは絵かきになるか、どつちみち芸術に従事したいと考へてゐたのです。
 ところがこちらが二段がまへの強腰に当ると、家では、存外素直にぼくの絵かき志願を許しました。長兄はぼくを愛してゐたと思ひます。――これに反して同じ父方の「風流」の血に憑かれた、末弟の、荘十、荘十二等は、苦労多かつたと思ふのです。――長兄はぼくに対して、商業に従ふべく高等商業を受けさせようと思つてゐた素志に準じて、絵かきになるならば、美術学校へ入らなければならぬといふことになりました。ぼくは勇躍してたしか十九の春から、早速昼間は赤坂溜池の旧白馬会研究所へ通ふことにしました。歌や芝居や道楽はふつつり止めました。研究所ではその頃、岡本帰一と三井両氏が幹事で、桜井知足君が牛耳つてゐました。石膏には石橋武助君や、寺内万治郎、耳野卯三郎君などもゐたと思ひます。メートル(黒田清輝先生)には在学中に前後只一回だけ、石膏を見てもらつたことがあります。
 ぼくは研究所へ美校入学の為めの受験準備に通つた筈です。しかしぼくは幸か不幸か――後に万鉄五郎のいへる「早熟児木村某」甚だしく先走りでしたから、ぼくの帳場格子の中の「勉強」はその頃、小説類から変つて、カミユ・モークレールの「仏国印象派論」やギュスタフ・力ーンの「ロダン評伝」になつてゐます。これが却つて、相持ちで、さしては見たが時雨がさ、気はあせれども足はふらふら、と歌の文句にある通り、眼中の梁木うつばりとなり、ろくに何も出来ないくせに何だかあたりの空気が気に入りません。それで一人で隅つこで「調子の研究」の真似事などをやつてゐました。
 あとで岸田劉生がいふに、あの時分の君は、なんておとなしい奴が研究所にゐるもんだ、と思つて、それで好意を持つたものだヨ、といふことでした。(岸田は人体室のチヤキチヤキでした。)
 またたつた一度受けた黒田さんのぼくの石膏デッサンの批評は、「君は調子はいゝが、形ちが悪いね。色盲でなしに形盲だね」といふのでした。
 ぼくは研究所で、右の通り足はふらふらの頭大漢でしたから、一番気に入らなかつたのは図書室の荒廃です。印象派についての参考書が一つもなく、壁にいつも横つちよになつてカラッチの天使などのかゝつてゐるのが何となくイヤでした。そんなわけでモークレールの受売りに早くもアカデミー嫌ひでしたが、そのくせ美校は、家の手前、二度受験しました。そして二度共首尾よく落第しました。
 一度の時は鋳金から洋画へ変つた小糸源太郎君と同期、二度目には、清水良雄君と同期だつたと思ひます。石橋武助などは美校へ受かつたのでその後葵橋では逢ひません。そして二度目の落第の時には、既にぼくはその頃研究所先輩側の岸田劉生と相識り、意気相投じてゐましたから、岸田はぼくがまた美校を落ちたと聞くと、家の方はそれでいけなくなるかも知れないが将来の為めにはあすこへ行かない方が本当だ、と手紙に書いてくれました。何でも二人でそんな話をし合つたのは、岸田が初めて小川町の琅※(「王+干」、第3水準1-87-83)洞に個展を開いた、その会場だつたことをおぼえてゐます。その時そこの壁に、日本で初めて見る梅原良三郎の小さな首の油絵と、高村光太郎作の、男の外套をひつかけた女の半身像とがかゝつてゐたことを、これもはつきり記憶してゐます。
 岸田はその琅※(「王+干」、第3水準1-87-83)洞の個展へ正宗得三郎氏が来て、しきりに、油絵の売れる売れないについて話して行つたとか。「ぼくはそれでそれまで一度も考へたことの無かつた売れる売れないを考へて、神経がいぢけて、仕事に障つて弱つた」とぼくに話しました。岸田はその頃毎日一枚は必ず仕事してゐました。ぼくも毎日何かしらやつてゐましたが、間もなくフューザン会の成る前で、ぼくは「いろは」として最後の采女町に住み、こゝへはその頃洋画をやつてゐた美校の広島新太郎君なども二三度遊びに来ました。ぼくは京橋へ移つてから極く近くなつた銀座の岸田と毎日欠かさず行つたり来たりすると同時に、美校の方の、――その年卒業期だつた――万鉄五郎、平井為成、山下鉄之輔あたりと交友してゐました。このグループは葵橋でぼくと同窓だつた瓜生養次郎が中間に立つて結んだものです。しかし岸田達(川田・清宮彬・岡本帰一・鈴木金平)と美校の連中とはつひに気が合ひませんでした。
 一方に又、松村巽・川村信雄・三並花弟・川上凉花等の、当時芝のユニテリアン教会で旗上展をやつた雑草会の連中がゐます。
 大正元年秋結成のフューザン会は、かういふ各方面のグループが自然と大同団結したものです。
 そしてぼくは、このフューザン会第一回展に岸田組からと、同時に万達の美校組からと、交叉した友交関係で、加盟することになり、それで作品を初めてデビューしたのです。
 もしぼくがあの時美校へ受かつてゐたら? 更にもしも、ぼくが当時先立つて岡田先生のところに厄介になつてゐたとすれば? ぼくはアカデミーと角の多い関係となつてゐた筈です。
 岡田さんはその後未だになんとなく「先生」といつた感じのするぼくの記憶の人となつてゐます。
 ぼくはフューザン会の間は家で学資を出して貰ふまゝ、「いろは」にゐましたが、その頃日増しに家運の傾くのを見て、お袋に負担をかけることが耐え難くなり、丁度そこへ芸術雑誌の「現代の洋画」が創刊されたのを見て、主管の北山清太郎に手紙を出して、社員に使つてくれと申入れました。
 北山君は手紙を見ると直ぐにぼくを「いろは」へ訪ねてくれましたが、ぼくが大屋だいおくの中に画架なんぞを立てゝゐるのを見て、「君達のやうな金のある人でないとこれからの洋画は却々難しい。斎藤与里君も……」と、ぼくの考への逆の話を初対面早々に切り出しましたから、弱つて、「さうではない、その反対なのです」と事情を語り、君の社の社員に使つてくれないかといふことを頼みました。
 北山君は快諾してくれました。月給五円で別に家を借りて当てがつてくれて、飯を食はせるといふ好条件です。それで、ぼくは別に家を出て、小石川江戸川町の、北山君の世話をしてくれる家の二階に住むこととなつたのです。――北山清太郎には終生の恩があります。
 北山君の世話になつてからは、毎号「現代の洋画」に原稿書きをしました。木村荘八を始めとして木村章、黄紫生、秋羅、歌川真研、SK生等々、いろいろのペン・ネームによるものを。――一体ぼくは相当古くから文章かきのやうなことをしてゐますが、雑誌や新聞への投書にはじめ青木哲、黒戸盛夫、木村潮騒など、劇評のやうなものに五郎丸など、却つて本名の木村荘八を持ち出したのは、フューザン会後に、絵かきになつてからでした。(以上昭和二十三年、十年前の未定稿を補修す。)





底本:「東京の風俗」冨山房百科文庫、冨山房
   1978(昭和53)年3月29日第1刷発行
   1989(平成元)年8月12日第2刷発行
底本の親本:「東京の風俗」毎日新聞社
   1949(昭和24)年2月20日発行
入力:門田裕志
校正:伊藤時也
2009年1月6日作成
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