私は下谷練塀小路河内山宗俊屋敷に誕生した故であらう、かの市井無頼の遊侠徒たる河内山に対して平常並々ならぬ好意と親愛の情をおぼえないわけには行かない。されば戦前戦中、また戦後の今日も屡々私は青山高徳寺にその墓を掃つてゐる。高徳寺はかの梅窓院の向ふ横即ち青山電話交換局の建物に副つて右折、さらに西へと一、二丁入つた右側の寺である。この寺のやゝ手前左側にはかの鈴木主水(
求道浄欣信士
俗名河内山宗春
文政六年七月廿二日
俗名河内山宗春
文政六年七月廿二日
宗俊の本名は近世実録全書所載の稗史小説と同じく「宗春」であると見える。文政年間、伝馬町御牢内に毒害されてゐるとすれば、此を天保年代まで延命活躍せしめたのは、正しくかの泥棒伯円が張扇の所産に俟つものでなければならない。私が戦前この墓を掃つたときには花売りの婆さんは、大井町辺にその子孫の老女がをり折々香華を手向けに来ると私に談つたが、聞説く幕末御一新騒乱のころ両国水茶屋の茶汲女としてその嬌名を唱はれてゐた河内山落胤のさらにその娘にでも当るものであらうか、戦後の今日も尚詣でるものがあるかどうか元より私は未だ問ひ質してゐないが、去年の暮春赴いた折も今年の早夏杖曳いた砌りも、高徳寺は講釈師建立の大石碑を廃棄するらしい景色もなくむしろ寺内に江戸巷間のこの快男児の墳墓のあることを歓迎してゐるらしく見受けられたは、わがお数寄屋坊主河内山のために太だ幸甚としなければならない。或は三葉葵の定紋大屋根に戴いてゐた高徳寺の当主は、私共と志を同じくする大江戸平民文化讃仰者であるのかもしれない。昨春、斜陽を浴びて私が参詣の際は寺内荒涼、香華を
ところで私が生誕したころの練塀小路の河内山旧邸は已にその当時二分して、戦前まで営業をつゞけてゐた寿と云ふ鳥料理とそれ/″\が半分づつ住んでゐたものか、それとも、家を挙げて私共が浅草花川戸へ移住後、その鳥料理は始めて開業したものなのか、しかしながら私の家に河内山遺愛の石燈籠があり、縁側下には大抜け穴があり、また広大なその庭園一帯は此又河内山の好みとして宛かも果樹園のやう果実の実る花木許りを雑然と植ゑちらしてゐたものであつたなどと云ふこと丈けは幼時亡祖母から繰返し/\聞かされてゐた。今日私の手許にも現像至極不鮮明なこの庭園の写真が一枚のこつてゐるが、明治末年の新派劇の園遊会場面に見られるやうな芝生を敷きつめた庭内の一部のみが平凡に映つてゐる許りで、特色ある果樹園風の庭の景色は少しも紹介されてゐない。
ところで白浪物を多く創作口演したところから通称を泥棒伯円と唱はれた二世松林伯円も嘗て河内山の邸宅に居住してゐたので、その一代記の創作をおもひ付いたと云はれてゐる。とすれば私共の一家が居住してゐた一、二代前、夙くも彼はこの廃邸に起臥してゐたものらしい。河竹黙阿弥が伯円の講釈の高評に動かされて「雲上野三衣策前」を劇化上演したのは明治七年十月であるから当然伯円が製作発表したのはその以前。或は明治改元当時であつたかもしれない。伯円の河内山速記にはかの玄関先の快文字はなく、また直侍よりも金子市の方を二枚目として優遇してゐる。従つて玄関先の快、入谷の婉、此らはいづれも黙阿弥その人の創作である。暗闇の丑松の五斗兵衛市ころし、此又伯円の創作ではなく後世上方種の産物である由。五斗兵衛市の殺し場とさらにその前席、すみだ川舟遊中の河内山の宴席に己が妻女の芸妓となつて侍るのを丑松が見て、忽ち憤怒して暴れ込んで来る丑松宗俊初対面の一席とは今日神田伯龍が斯道唯一の好演技を示してゐる。伯龍は故一立斎文慶からお数寄屋坊主の風習言語容姿などの演出に付いて誨へられるところ寡くなかつたと嘗て私に語つたことがある。彼の河内山を聴いてゐると常に坊主頭の快漢が目前に髣髴として来るのは、常にこの肚があつて読んでゐるからであらう。亡悟道軒円玉はまたその先君が両国の水茶屋で前出の河内山遺愛の娘とく女と馴染み、親しくその実父の境涯行状を聞知するに及んで、わが子の師である伯円に逐一此を伝へたことが「天保六花撰」
明治十四年陽春の「諸芸新聞」は、後年、蔵前の大師匠と呼ばれた三代目春風亭柳枝が人情噺「河内山」の続読みをして好評中であると報道してゐる。柳枝はそのころ初代燕枝門下の新進気鋭として只管勉励の途にあつたから、その三月、新富座に改訂再演された「天衣紛上野初花」の大評判から、直ちに此を自家薬籠中のものとなし遂げたにちがひない。かくしてはじめ伯円に拠つて話術化された河内山一代の行状録は、黙阿弥の劇化を経て三代目柳枝に至り、再び話術の世界に還元したわけである。私は柳枝口演の「河内山」の速記録、未だ一読の機会を得てゐないが。
万々一、今日やまと新聞の附録あたりに保存されてゐるならば、講談と人情噺と浪花節と歌舞伎との「天保六花撰」の差違を詳しく研究、後人にのこしておき度いと考へてゐる。
さて私は、余りに河内山に付いてのみ語り過ぎたかもしれない。また綺堂先生が『半七捕物帳』中の「唐人飴」や「青山の仇討」に見られるがごとき青山高徳寺境内の光景にのみ筆を費し過ぎたかもしれない、でも、下谷には当歳から三年しか住まず、間もなく浅草へと移り住んでいつてしまつた私には、下谷練塀小路への回想は全くのところ瞼に蘇る何一つとてない。今日強ひて下谷へのおもひでを挙げようならば、御成道の大時計、同じく御成街道東側にあつた風船あられ屋の舶来風絵看板、動物園裏門下の通りで見た先代市川団蔵の世にも花やかな葬儀の大行列、あぶらでりした七月の朝小舟で船頭が漕いでいつては採つて来て呉れた不忍の池の蓮の花と実。そして鴎外の小説「雁」、荷風の小説「曇天」。
清水堂ちかくの秋色桜は、大正中世、川柳久良伎翁が中心となつて植樹されたものが枯れ、のちさらに何代目かの桜が戦乱中、たしか鶯団子の主人に拠つて新しく植ゑられた。講談の「秋色桜」は先代一龍斎貞山の十八番であつたが、近時偶々私は一立斎文車の「秋色桜」速記(大正三年四月号「娯楽世界」)を一読に及んで、貞山と文車の演技には可成の差違のあることを知つて、大いに/\勉強となつた。先づ貞山は秋色を菓子職人六右衛門の息女としてゐるが、文車は八丁堀水谷町駕籠屋甚兵衛の娘として演じてゐる。駕籠屋なればこそ、のちに秋色出世後、自ら娘の乗物も担いで、自然に宮家へ赴くのだと云ふ此が文車の解釈であらう。さうして秋色成人後、茅場町の菓子舗伊勢屋の悴で其角同門其友の許へと嫁してゐる。また貞山は秋色の句の「青柳や車の下のこぼれ米」、此を「こぼれよね」と読んでゐたが文車は「こぼれごめ」、此はどうしても後者でないと、情景が泛んで来ない。そのくせ貞山は角田竹冷邸で秋色の真筆短冊を一見したら「井の端の桜あぶなし」ではなくて「井戸端の」であつたなどと云つてゐたが、あの美文詠嘆調のユニイクな話術であつたからつい/\「こぼれよね」などと下手に
「只今は入り口は開ツ放しでございますが、昔はなか/\儼しかつたもので、今も袴腰と云つて、石垣が残つて居りますが、彼所に黒門が二つ在て、池の端の方は町人でも誰でも往来が出来るが、山下の方は将軍家が上野へ御成りの時とか、諸大名が御代参にでも行く時でなければ開けません、其れに下寺 と云つて……今は通行路 に成つて居るが、彼所は三十六坊の寺の在つた所、又山王台と云ふ只今西郷さんの銅像の在る所は、山王の社があつて、其れには金箔を置た猿 と龍の彫刻 がございまして、実に立派な物であつたが、慶応四年の戦に一燼の灰となつてしまつた、黒門を入りまして、左の方が東照宮の御宮入口に門が有つて、其れで其所 には撞楼堂が在る、是れも亦焼けてしまつたが、今小松宮様の銅像がございますが、彼所が撞楼堂であつた、欄干に左り甚五郎の彫た龍があつて、其れが夜な/\池の端へ、水を飲みに行つたと噂をされた位、美事な彫物であつたが、之も歩兵が射出 した鉄砲の為に、焼かれてしまつた、其れから中堂、此の中堂は金が費 つて居た、欄干は総朱塗で、橋があつて之を天馬橋 、一名虹の橋と云つて、寔 に結構なもので、其れを正月の十六日と、盆の十六日には小僧の宿下りの日といふので、此の橋を渡らせる、実に立派な御堂であつたが、之も慶応の戦に焼けてしまつた、其れに今は屏風坂を登つて右の方に大師堂があるが、彼の大師様は三十六坊をグル/\廻つたもので、月の晦日と三日が縁日、今は御堂が出来て其堂 へ落着いたが、以前 は然 ではない……宮様の御在 あそばす所は只今の博物館の所で、今日も門は残つて居ります、十月の二日には三十六坊を宮様が御廻りあそばす、其時は山同心が先に立つて、下に/\の制止声で、実に大層な御威光の有つたもの、此日は町人拝見勝手次第と云ふのですから、御山は人に埋るやう、然し宮様は、上輿 で御出になり、御簾 が下つて居るから何うして御顔を拝す事なぞは出来なかつたもの、モウ斯う云ふことは、今に誰も話す者がありますまいから、鳥渡茲に申述べて置きます……」
云々。傍らのヽは特に私が附したのであるが、文車の口吻裡には兵火に亡びた江戸文化中の至宝をあくまで惜別してゐる江戸市井人の感懐さへ滲んでゐて頗るおもしろい。
「起きよけさ上野の四つぞ花の雨」の抱一、「銭湯で上野の花の噂かな」の子規の句情さへ、身近にうかゞはれて来るではないか。後者は先日歿した四代目小さんも十八番の「長屋の花見」のまくらで常に引用してゐた。ところでこの文車は俗にガチャ文。即ち読口やゝ五月蠅く徒らに達者なるのみの存在と云ふ定評があつた由だが、しかも今日その速記本を仔細に耽読すれば、このやうな詩味慈味がある。蓋し当時は未だ/\名人上手余りにも多く、この文車程度では纔に芸達者と云ふ程度にしか認められなかつたのであらう。
また茲で不忍の話に戻つて、戦ひ敗れて食餌に乏しい東京都では、明治新政以来、已に埋没の一途を辿つてゐた不忍池の、さらにその半を充てゝ稲田とした。
去歳秋日、偶々私は月例の円朝、狂馬楽ら墓参の途次、池畔に佇つて今更ながら田海桑滄以上の感慨、催さないわけには行かなかつた。即ち次の川柳一句を吐露して、やがて足早に過ぎ去つたのである。
不忍や権九郎より定九郎
(昭和丁亥歳晩改稿)