浅草燈籠

正岡容




 大正文化の一断片たる浅草オペラの楽屋並びにその俳優たちの生活を最も具さに美しく描破してゐるものは、谷崎潤一郎氏の「鮫人」だらう。何ゆゑに作者はあの秀作の筆を半途にして擲つてしまつたか、大正浅草風俗文化史の上からも一大痛恨事と云はざるを得ない。宇野千代、十一谷義三郎、浜本浩と同じ世界を材とした小説はそのゝちも寡くないが、「鮫人」のたゆたな力量感を上越す作品はまだ出現を見ないやうである。

「評判の、日本館の歌劇をみに入る。――舞踊劇「暗黒」といふものをみる。髪を長くしたり、異様な帽子をかぶつたりした芸術家の群をこゝかしこに見いだす。さかんに声のかゝることもうはさのとほり、われ/\の知らないうちに、われ/\の知らない時代の来たことを考へる」

とは久保田万太郎氏の「三筋町」よりであるが、帝劇のローシー歌劇からはじめて浅草俗衆の巴渦の真只中へと飛下りて来たその日本館での第一回公演をたしかに中学生の日の私も見ておぼえてゐる。佐々紅華作ではなかつたらうか、富士山印東京レコードでお馴染のお伽歌劇「目無し達磨」では花房静子、天野喜久代、沢モリノらわかい美しい女優の群れが大ぜい諷つたりをどつたりした。目無達磨の出で俄に本物の大薩摩がでて来て黒幕外で弾きまくつたら、私のすぐ前にゐたいかにも江戸つ子/\した印絆纏の男が大そううれしがつて手を叩いた。未だ/\当時の東京文化はそのやうに江戸末年の国貞国芳の市井味感と、海の彼方のクリスマス前夜のやうな金や紅の星ちりばめた西洋菓子味感とがおもしろくとんちんかんに相交錯してゐた。そのころ十四五歳の少年だつた私は薔薇いろに頬かゞやかした小作りの明眸皓歯、沢モリノに烈しい恋情をおぼえてゐた。私より年上としても二つか三つの姉であらうと考へてゐたからだつたが、間もなく仲見世の絵草紙見世で買ひ求めたオペラ役者の番付にはゆくりなくも沢モリノ、一見、青春をとめに装ひながら、じつは卅余歳の老嬢であることが分つて、私は全く茫然とした。かくては一夜にして十年以上の齢を重ねることなくんば、現世において到底彼女との愛恋をさゝやき得ることは叶ふまいと、容易に私はその恋ごころをおもひあきらめてはしまつたのだつた。が、のち数年ならずしていよいよ浅草オペラ隆昌に赴くのころ、たま/\私の小学校の旧友で当時厳格峻厳を以て知られてゐた付属中学の一年生なりしと云ふ良家の息は、当時チヤボの愛称もて普ねく喧伝されてゐた人気女優一条久子と仙台の地へ逃亡して、いたく学校当局を狼狽せしめた。直ちに放校処分を受けたOは巡業中に一条久子の急死するまで生活を等しくしてゐたらしいが、のち佃政一家の客分となり、晩年は肺を病んで事変以前さびしく死んでいつてしまつた。いまOの墓は小石川水道端の滝亭鯉丈が菩提寺に程ちかいところにある。さるにても一条久子をはじめ私の一と目惚れした沢モリノも、天華を襲つた小天勝も、トーダンスの高木徳子も、いづれも、未だ冴えずして青春の名声と栄華をよそに、多くは陋巷に窮死、もしくは巡業途上で狂死さへしてしまつてゐる。偶々今日いのち永らへてゐるものも木村時子、河合澄子など、殆んど往年の全盛には比す可くもない、寥々の有様であるとはいへよう。
 一とたび文林の末席へ打つていでながら傷春自棄、私が落語家の群れへと身を投じたは昭和改元のころだつた。早や廿有余年の昔となる。日本館以後のオペラの常打小屋金龍館へ私の出演したときもはや歌劇の人気は凋落しつくし、当時の金龍館には五蝶、九郎らの曾我廼家一座並びに木下八百子、市川荒次郎合同の歌舞伎劇が出演してをり、オーケストラ伴奏入りの私の新落語はその幕間余興として起用されてゐたのだつた。しかしながらアトラクションの語は当時未だこの日本の興行用語として渡来流布されてはゐなかつた。木下八百子は私が幼少のころすでに大蛇使用の連鎖劇にそこばくの称讃を博し得てゐたから前述の沢モリノ同様可成の年齢となつてゐたのだらうが、その扮する弁天小僧など訛の著しき以外には、水も滴るゝばかりの美しさだつた。荒次郎は珍型の演技に名ありし老優三河屋。私は当時、世を怨み佗び、楽屋に在つても四六時中徒らに酒ばかり呼んでゐたので、この艶女の成れの果てや数奇な半生を経て来た老役者の身の上ばなしや芸談に接する折角の機会を殊更に掴まうとしなかつた。いまや頗る遺憾としてゐる。古川緑波、徳川夢声の二友が「笑の王国」なる新喜劇を結成して、榎本健一と覇を競ひ、五九郎五一郎の衰退に拍車を掛けたはさらにそれから数年のゝちだつた。
 浅草オペラ以後空白だつた青春的娯楽の頁をやがて大小幾多のレビユウが埋めだして繁栄、今日に及んでゐるプロセスは、今更事新しく談るまでもあるまいが、そのレビユウ役者の景情を活写してよく世上の喝采を博した述作には、川端康成、高見順、サトウハチロー諸家の小説と共に永井先生の「おもかげ」並びに終戦後発表の「踊子」「勲章」の諸作がある。「踊子」中の季節推移の美しさはよく全篇の卑猥の物語を救つて余りあるもの、先生のこの手法はすでに「※(「さんずい+(壥−土へん−厂)」、第3水準1-87-25)東綺譚」にも用ゐられてをり、よろしくロテイ、レニエらが作中の妙味を移し植ゑられたものと私は観じてゐるが、果していかゞなものだらうか。
 永井先生の「葛飾情話」なる歌劇が、オペラ館に上演されたは事変直後のころだつたとおもふが、その一二年後の暮春の一夜、私は、旧玉木座ちかくの、コーヒー舗に於て、ワンサガールに等しい少女俳優から爾汝の間柄もて呼ばれ、莞然談笑されてゐる先生のお姿を打ち見たことがある。「おもかげ」の主人公たる豊と呼ばれた運転手が蟇口を失つてうろたへさわぐコーヒー舗は恐らくこの舗をそのまゝに描写されたのではなからうか。
 ところで私自身は同じころ浅草六区へ赴くたび多く中西の人気ボックスを選んでは、コーヒーを飲み、軽い食事をとつてあすこの冷めたい大理石の卓の上、当時未だ結婚以前だつたいまの女房への一日一信をかきおくるのが習ひだつたが、ここの年少の女給仕たちはみな品が好くて好感が持てたし、中には顔馴染となつて私に目礼するものもあつた。小鳩のやうな彼女たちの多くは乙酉三月九日の夜の戦火に焼かれ、いのちを落したものもあるだらう。私もまた、再罹災した往事を顧みて太だ悵然たらざるを得ない。
 もう一つ「葛飾情話」上演のころの浅草公園を材として好箇の風俗詩たり得たは、高見順氏が「如何なる星の下に」だらう。戦局漸く苛烈となつてからの浅草風俗は、同じ作者に「東橋新誌」の一作があるが、作品の出来栄えは到底前者に及ばない、けだし俗吏の干渉掣肘激しく作者の身辺へ伸びて、奔放の描法を許さなくなつてゐたためだらう。
 ところでこの、「東橋新誌」中の一草に江戸家猫八木下華声が年少拙劣の高座を、客席より大欠伸して戒むる長髪の人士を故人芥川龍之介となしてゐる件りがあるが、恐らくは是は他人の空似ではなかつたらうか、わが知れるかぎりの澄江堂先生には残念ながら、満座の中で大欠伸するほどの大胆蕪雑の振舞はなし得ず、さうした点芥川さんはごく/\気の弱い一個の旧東京下町人だつた。なればこそ間もなく服毒自殺をもあへてした。

ふらふらと酒に酔ふてさ、
人形屋の路地を通れば、
小さな足くびが百あまり
薄桃いろにふくれてね
可哀想にあしのうらに日があたる。
馬みちの昼の明るさよ
浅草の馬道

 北原白秋が「おもひで」の「足くび」に諷はれてゐる馬道の人形屋のすぐちかくの花川戸で私は三歳から十四歳の秋までを成長した。弁天山の鐘撞堂へと曲る角、鳥屋の金田の筋向ふ辺りにその人形屋はあつて白秋詩中と同じ可憐の風景をいつもそこに見せてゐた。円遊の落語「のざらし」で著名の酒屋だいみつも同じこの通りの中にあつて、古びた紺ののれんのかげにはつばくろの巣、こゝの息子は長じて長唄の師匠となり、滑稿諧謔の老手坂田仙八の門を叩いてゐたが昨春の兵火にあえなく落命してしまつた。
 私が幼時をおくつたころのこの浅草には、佐多稲子女史も起臥されてゐたらしく、近業「版画」には、そのころの向島や六区を背景とした人生の明暗が老練の筆致をもて綴られてゐるが、「枕橋を渡ると右手に徳川さんの邸、左手には川へ突き出るやうにして八百善があつた」は明らかに女史の誤り。そのゝち築地へ移つた八百善は太田南畝が狂歌以来名題の山谷で、枕橋と水神のはいづれも八百松、殊に水神の八百松は「水神の森の夜がらす夜泣きして我ら眠らずものをこそおもへ」とわが師吉井勇が去りにし日の情痴にも如実である。「三友館の角を曲がると、ジヤランジヤランと鐘が鳴る。メリー・ゴーラウンドの一回の終り」と同じく女史が描かれてゐるは、帝国館の後にあつたルナ・パークのことだらう。大瀑布、汽車活動館太神楽の小屋もあつてこゝの景情は水島爾保布画伯の「愚談」に詳しいが、この本焼失していま私の手許にはない。ルナ・パークの華やかな色彩感も愛しく白秋は諷つてゐるから、左に抄して見よう。

ふうらりふらりと出て来るは
ルナァパークの道化もの(中略)
かなしやメエリイゴラウンド、
さみしや手品の皿まわし、
春の入日の沈丁花がどこやらに(中略)
薄むらさきの円弧燈アークとう
瓦斯と雪洞ぼんぼり、鶴のむれ、
石油エンヂンことことと水は山からさかおとし、
台湾館の支那の児
足の小さな支那の児、
しよんぼり立つたうしろから馬鹿囃子ばかばやし(下略)

 一誦、赤や緑のイルミネーシヨン絢い文覚上人の活人形や、その背後を飛沫しぶいて落ちる電気仕掛の大滝の音が、きのふのごとく宛らに私の耳へ蘇つて来ないわけには行かない。
 話にのこる明治末年の大洪水のときには私は祖母に抱かれ、人力車で神田の近親のところへ逃れた、水は大雨が止んでカラリと晴れ上がってから[#「晴れ上がってから」はママ]却つて氾濫の度を増して来るもので、雨後の虹大きく明るい暮れ方を、いまにも権現堂の堤が絶れると東京全市が水浸しになるとて戦々恟々としてゐたその神田の家の、さゝやかな中庭に咲盛つてゐた柘榴の花の深紅のいろを、忘れない、漸く危険が去つたとて再び浅草の家へ戻つて来てからも、すみだ川の濁流は大渦捲いて物凄く、私は一銭蒸汽の桟橋で白魚に似た銀鱗一尾、手づかまへにした。まだ/\当時、すみだ川では江戸名物の白魚が捕獲されてゐたこと、岡本綺堂先生の「五色筆」にも明らかである。
深川の秋はもしやの床をつり
 年々夏より秋へかけての大洪水は荒川放水路の治水工事完了と共に絶滅したが、その時代から続出せる工業会社の毒煙毒水は、広重北斎以来の世界的文化と詩情の町隅田川両岸の風光をことごとく冒涜して、花も白魚も紫鯉も忘却の彼方へ、「佃育ちの白魚さへも花に浮かれて隅田川」なる近世都々逸の夢も奪へば、「花に啼く蛙や雨のすみだ川」なる抱一上人が哀婉の情趣をも亦氓ぼしつくしてしまつた。
 今日私が工業日本の再建を兎角喜ばず、観光日本の出現を切に歓迎するの所以のものは、前者の前大戦後のナチス擡頭をおもはしめて不快無気味なるに引代へて、後者の永世中立の太平逸楽にちかきものゝそゞろ予感されてならないからではある。あへて云ふ、永世中立確保のためにはこの私はつひに太平痴夢の一市隠たるの蔑称を甘受しても、毫末も悔としないことだらうと。「楽しみは春の桜に秋の月、夫婦仲好く三ど食ふ飯」人生の快楽まことこの以外にはみいだされないからである。
 さて、十二階や宮戸座の懐旧は、別項に詳述したから、こゝでは云はない。その十二階赤煉瓦の窓の灯と共にわが幼年の日のゆめのふるさとなりし太神楽の港家小亀を、自ら営んでゐた千束町の駄菓子屋に親しく訪れたのは戦災前年のとある春雨の午下りだつた。薄暗く汚れた店先には狗ころ一匹、往年の小亀は私の秘かに想像してゐたよりはわかくて天井にすすけてゐた渡米記念桐箱入りのフラフが昔を語り顔だつた。私は十二階出演時代の諸芸人が上を次々彼と談り合つて別れた。往年の小亀は太神楽のピエロとして茶番をよくし、関東節を吟み新内の一くさりに長じ、多芸多才、今日の川田義雄を想はしむるものがあつた。木村荘八画伯、広津和郎氏ら、されば当時私と会する毎に、この港家小亀が高座を語つて倦まなかつた。小亀並びにその先輩たりしはげ亀、先代岩てこバンカラ辰三郎らが至芸については、他日「太神楽茶番の記」を草して、後日のため記録しておかう。中村歌右衛門、市村羽左衛門が芸術の奥秘は今日の劇壇人中これを記述して後代の資料たらしめるもの、いろ/\少くなからう。然るにこれら巷間の諸芸人が脱俗軽妙の芸境においては、我ら工業日本の再建を頓に忌嫌するごとき市井閑人の閑文字を俟つことなくんば、永遠にわが芸能史上からは抹殺されつくしてしまふからである。今日幾多の明治大正昭和の文学史を編むものはあつても、青々園埋木庵が探偵小説、浪六、奴之助、曙山、美禅、竹の島人らが草創期大衆小説、さては久良伎剣花坊が新川柳に言及してゐる著書は未だ一冊といへどもないではないか。閑話休題――港家小亀は昨春の兵火にほとんど生死不明を伝へられてゐたが、このほど常州の一村落に仮住かねがね愛好してゐたところの釣三昧に余生を愉しんでゐると聞いて、心から私はこの浅草の老芸人のため乾杯せざるを得なかつた。
 去歳、浅草大空襲後約一ヶ月春昼の一日を、私は七軒町新堀端辺の焦土に北斎、春章、清親らの掃墓をしてのち、御厩河岸なる梅若能楽堂跡に佇んだ。潮のやうに濃く明るい春の大空の下、大川の川波はあくまでも青く、色ハンカチ、ハイヒールの片つぽ、紙幣入りの蟇口など悲惨に河岸つぷちにちらばつてゐるその側らの切石には白墨で「検死ズミ七十九名」とかいてあつたし、大通りの天水桶には位牌二つと男の写真とが立てかけて祀られてあつた。川面のそこかしこには雪白の鴎群れ、仰げば群青の空一杯にとろろと鳶が輪を描いてゐる。その森としたやうな物凄い景色。初代木村重松慶安太平記に於ける怪僧善達吉田焼打の悲愁嗚咽の節調をまざ/\と私に想起せしめずにはおかなかつた。初代重松はすぐ先の浅草阿部川町に多年居住してゐて阿部川の大師匠と呼ばれた関東節の巨匠で町名が「菊屋橋何丁目」と改称されてからのちも、強引にその葉書の住所には「阿倍川町」と明記してゐた。
 今春二月十二日、私は戦後はじめてささやかに新築された朱塗の浅草観音堂に女房と詣で次いで三社さま披官稲荷に参詣、旧宮戸座跡を散策した。三社さまと披官さまとは無事だつたが、披官さまの「新門辰五郎」の名を刻した石の鳥居は砕けてなく、旧花街も僅に普請一半の見番を見るのみで大武蔵野の芒原中にあるのおもひがした。私たちは爆死した高篤三の旧居跡に礼拝黙祷して、しづかに去つた。高篤三は純粋殉情の浅草詩人で、その代表句には、
浅草は風の中なる十三夜
の絶誦がある。
(昭和丙戌晩春病中稿)





底本:「東京恋慕帖」ちくま学芸文庫、筑摩書房
   2004(平成16)年10月10日第1刷発行
底本の親本:「東京恋慕帖」好江書房
   1948(昭和23)年12月20日
入力:門田裕志
校正:酒井和郎
2015年11月21日作成
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