旧東京と蝙蝠

正岡容




 私は、昨年の明日、東京巣鴨花街の居宅を兵火に焼かれた。それから一年目の今日、ここ下総市川の里に卜居して残花の午下りを、嘱されて旧東京夏宵の追懐など閑文字を弄する境涯になつてゐられようとは、どうしてあのときおもひ知る由があつたらう。すべては是れ平和来の余沢と申さなければならない。
 年少返らぬ日の東京街上の夏景色をおもふとき、忽ちにして眼底に蘇へり来るは群青で波しぶき描いたあの笹嶋の氷屋の暖簾と夜空飛ぶ蝙蝠こうもりの群れとである。氷屋の暖簾にはまだ緑、水色など涼しい色気の玻璃玉を選んで滝のやうに硝子籠をぶら下げてゐる見世もあつた。夜になると硝子の方の簾は店内の燈花が反映して金や白金や銀にかがやきキラキラと一そう涼しさうだつた。のちになつて木下杢太郎の硝子問屋の詩や小説を愛誦したとき、ゆくりなくも私はこの昔の氷屋の硝子暖簾を聯想せずにはゐられなかつた。
 蝙蝠もまた旧東京文化の灯かげに生育したものにとつては、何にも換へがたくなつかしい少年の日の象徴である、記念品である、同性愛であるとさへ云へよう。全く私たちもしくはそれ以前の年齢の人たちにとつては、常に宵々の蝙蝠の群と共に、青春の哀歓をことごとく経験して来たのだつた。されば、紅葉山人を訪問する明眸千歳米坡が二頭立の馬車の上にも、そのころ花やかな人気の巴渦すててこの円遊が掛持ちの人力車の上にも、敗残の身をうらやるせなく路次裏抜けて行く花井於梅の瘠せ細つた肩先にも、さては名作「少年」をいま書けた許りの仄紅く双頬を興奮させながら遮二無二永代橋附近辺りのし歩いて行くわかき日の谷崎潤一郎のむらさきのトルコ帽の真上にも、一様に愛す可きこの小妖精は身をひるがへして飛び交つてゐたにちがひない、「よく泣きに行きしところと聞きしゆゑ代地の河岸はなつかしきかな」さうしてわが師、吉井勇の短歌の中なる薄命の美妓が、はふり落ちる涙の目で見上げた折柄の夕焼空、向ふ河岸の国技館の円屋根ちかくにも、黒豆をばら蒔いたやうな蝙蝠の姿は、必らずや一杯みいだされたらう。……遠く聞える行徳がよひの川蒸汽の汽笛……川波の音。

「蝙蝠も夏の宵の景物の一つであつた。江戸時代の錦絵には、柳の下に蝙蝠の飛んでゐるさまを描いてあるのを屡々見る。粋な芸者などが柳橋あたりの河岸をあるいてゐる、その背景には柳と蝙蝠を描くのが殆ど紋切形のやうにもなつてゐる」

 岡本綺堂先生の「薬前薬後」と云ふ随筆の一節にもかうしたことがかかれてゐるが、まことに「花暦八笑人」三篇追加の渓斎英泉の口絵も亦往還しげき妓女の背後を切りに蝙蝠の飛びまはつてゐる構図である。しかもその絵、黒々と夜空を塗つぶしてしまはず、あくまで真白のままなる空間を蝙蝠の点々としてゐることによつて、かへつて大江戸黄昏の放埒に似た薄ら明りを哀しく美しくこちらに感じさせてくれる。三篇追加といへば落語に所謂「汲み立て」のすぐ次の章の両国風物詩であるから、云ふまでもなく夏景色。もう一つ、国芳の戯画にも月下浴衣がけの兎が影勝団子の屋台の前に立つところ、頭上一杯に飛びまくつてゐる蝙蝠の姿、大そう江戸前に涼しかつたことを忘れないが、この錦絵は青春貧困のころ夙に流寓に失つてしまつてゐて、乙酉の戦災以前すでに/\私の手許にはなかつた。嘗ての軒低く町並暗い明治東京の町々を、ながい/\棒と脚立とを手に小走りに駈よつて来てはいきなりボヤツと魔術のやうに青白い灯を点してまた小走りに去つていつてしまふ瓦斯燈の点燈夫の姿態は、異邦の漫画家ビゴーの筆に惜しみなく描きつくされてゐるが、その点燈夫に戯れかかる逢魔が時の花四天もまたきまつて此等蝙蝠の三々伍々だつた。でもこの巧緻なる日本通の画伯の点燈夫の図に蝙蝠の飛揚丈けは見られなかつたやういま仄かに記憶するが、果してさうであつたかどうか。
 昭和改元以降、俄に絢爛多彩を極めだしたネオンサインの氾濫は、わが郷土の夏空からこの幼馴染をつれなく追放してしまつたが、そののち幾何もなくして今度は打続く防空の調練、ネオンの御法度に忽ち全東京は青々園や埋木庵が探偵実話を発表してゐたころのやうな時ならぬ暗々世界を現出しだしたので、再びなつかしい蝙蝠の姿は都下上空を自在に雄飛するやうになつた。私はせめても戦乱の殺伐、軍官の文人断圧から目を反けてゐようと、只管この旧友の入来をば拍手し嬉しがつてゐるうちに、二どまでも住居を焼かれ、蔵書衣類什器の過半を焼亡してしまつた、然りとすれば私は年少の日の甘美なゆめに再会を得たそのために、凡そ高価な代償を支払つた者であるとは云へよう。
 私の記憶にのこる銀座夏の夜の景情といへば近年での西銀座そのころの南鍋町辺の裏通りにあつたドラゴンと云ふ酒亭のヴエランダの一夜に、先づおもひでの指を折らねばならない。しかしながら年少廿なりし当時の私にはその舗でひさぐ洋酒や料理の可否は殆ど分らなかつた。ただあれは何と云ふ街路樹だらうか今日警視庁前通りに焼残つてゐるがごとき煙草の葉のやうな巨大な葉を有つた樹木がヴエランダとすれすれのところに繁りつづいてゐて、それが夜風にはたはたと大きな音立てて鳴る。酔余、その葉摺れの音を聴いてゐると身はいつかシユニツツレルが愛恋愛慾の小説中の一人物となつたかのごとき心地がして、太だ異国情緒的な快感をばおぼえずにはゐられなかつたのだつた。折柄この望楼の柵に拠つて見た樹の間がくれの星空も忘れがたい。卅間堀にはホワイト、パロツトと名乗るしづやかな西洋料理舗があつて、薄暗い廻り梯子を踏んで上がつて行くと肥満ふとつた南欧人らしい女主人が招牌かんばんどほりの金輪に乗つてゐる白鸚鵡に餌をやつてゐたりした。のちのジヤーマン・ベーカリイのところにもユーロウプと呼ぶ茶館があつて、そこの二階は気の利いてゐるくせにおよそ狭くて天井が低く、宛らそのころ評判だつたアメリカ探偵映画に見る悪漢の巣窟とでもいひ度げの風景が、大きに私たちの猟奇心を満足させた。さりながらこれら酒亭や茶房のただずまひはみなその以後の日本の大都会に見られたやうな所謂モダーンではなかつた。モダーンと云ふ言葉は当時未だ海の彼方から将来されてゐなかつた。ハイカラ。いい意味でもわるい意味でもこのハイカラといふ言葉が専ら使用されてゐた。さうしてこれらの家々もみな古風な舶来銅版画の趣、例ふれば佐藤春夫氏初期の作品のやうな、高尚なハイカラな構へのところ許りだつた。わかい私たちは、短い夏の一と夜さを、かうしたところへ寄り集まつては、文学を談り、恋愛を説き、活動写真や寄席へでかけていつたりした。一座は大ていが十九から廿の少年許りだつたけれど、私はもう二、三のつたない小説を発表してゐたし、盲目のロシア詩人エロシエンコに愛されてエロシエンコ張りの童話を世に問ふてゐた長髪の若者、漱石龍之介に心酔してゐる退役軍人の息子などもあつて宵々のその文学談はなかなかに勢ひ込んだかぎりのものだつた。その中で私は已に情痴を解し、酒杯を手にしてゐたものの、元より是れ年少一片の客気、単に遊里へ足を踏み入れてゐると云ふ丈けのもので相手の妓に真剣に打込ます丈けの手練も何にもなかつたから、私はもちろんみんながみんなこのやうな美しい西洋風の料亭へどうか一ぺんは華やかに装はせた恋人と相連れだつて君臨し度いものと念じながら、遂に誰ひとりとして果さずにゐるうち程もなく襲来した癸亥の大地震は是ら私たちのゆめのふるさとを悠久にこの地球上から喪失させてしまつた。私の育成の地浅草花川戸界隈も同じくこのとき悉く旧観を失つて、そののちの復興区劃整理には、東武電車のガード下辺りに編入されてしまつた。従つて私は今日再び東京が焦土に化したが、ただその戦災地の眺めの余りにも殺風景なるを哀しむ以外にはさして烈しい哀惜の念を抱かうとしない。強ひて云はうならかの浅草の観世音本堂、仁王門、五重塔ぐらゐのもの。私の幼少追憶の景観は已に已にいまを去る廿有余年前壊滅しつくしてしまつてはゐるからである。尤も昭和復興以降の東京都と雖も多少の見る可き景情がないでもなかつたが、軍官の強制疎開企業整備閉店休業の悪政は、空襲炎上によるその以前にことごとく市街店舗の外装を不潔汚穢の極度のものとはしてしまつてゐた。従つて大正震災に突如焼失したる旧東京の終焉は宛かも佳人の急逝にも等しかつたが、先達てまでの東京の断末魔は「累ヶ淵」の富本豊志賀、一と日一と日と容貌衰頽、普ねくその醜顔を衆人に曝しつくしてのち無惨の終りを告げたにも似てゐるから惜別の念の必要以上に薄弱なる点は、いまや私にとつて勿怪の幸ひとしなければなるまい。さるにても、そのころ相会した詩友の、エロシエンコ親交なりし男も、漱石龍之介崇拝の軍人の息子も、やがて文学を断念放棄して今日では全くにその消息を詳にしないほどの路傍の人とはなつてしまつた。当時の友で今日も尚文運めでたく詩作にいそしみ、随筆を草してゐるものも二、三ではないが、爾来廿余年の人生行路、争つて交りを断つたり、さなくばいつとはなしに交誼絶え果ててしまつた人々許りであるから、またしても木下杢太郎が「むかしの仲間」と題する詩篇、

 むかしの仲間も遠く去れば、また日ごろ顔あはせねば知らぬ昔と変りなきはかなさよ。春になれば草の雨、三月桜、四月すかんぽの花のくれなゐ、また五月には杜若、花とりどり、人ちりぢりの眺め。窓の外の入日雲。

の情懐をおもはないわけには行かない。
 戦災銀座が完全に改装復興されたそのとき恐らくや私は永井先生の「つゆのあとさき」に於る松崎と云ふ老博士のごとく鬢髪ことごとく雪白となつて、わかき日のドラゴン楼上、ふりさけ見たる夏の夜空の星明りや耳にした名知らぬ街路樹の大いなるその葉の戦ぎをば、暗黒悲愁だつたわが青春と共に回想して熄まないことだらう。
 荊棘許りだつた半生を了つて漸くに私が女房と冒頭誌した巣鴨花街へ居を構へた年の冬、忌む可き大戦争は勃発した。天下のこと日に日に非となつて行く中に、夜毎、絃歌に包まれ妓女の嬌声を耳にして、焼失直前までの四星霜を閲し得たのは、兎まれ角まれ倖でなかつたとは云へまい。女房が娘分の花園春美を介添に、花園流としてのをどり舞台をしつらへ教坊の妓たちに新舞踊の伝習を業としてゐたから、四六時中訪れ来る妙齢洋装の芸妓たちは、自ら私にいろいろさまざまの愛慾体験の楽屋噺を談つて呉れたり、時には座敷がへりに今後の身の振り方の相談、恋文の代筆などを持込んで来るものも寡くなかつた。しかも彼女たちの殆どは性格破産、同じころ広津和郎氏がたしか「愛情の訓練」(?)とか題されて描破された新井薬師祠畔の妓女が無軌道の性行と全く同一のもの許りだつたから太だ私の文学修行には役立つところが多かつた。花街の柱暦が立夏を示すころになると毎年きまつて夜毎の流し芸人はめつきりとその数を増して来た。新内流しや浪花節の流しの他に、アコーディオンの流しもあつてその若者は必らずや旗亭へ呼上げられ、男純情の……等と時花唄はやりうたの一齣を自ら奏で且つ諷つてゐた。従つてこのアコーディオンの流しがやつて来ると私はそうら夏が来たまた暑くなるぞと云つては、俄に稽古場の窓へ朝顔の蔓を絡ませたり、二階の私の書斎へ鮑貝へ移し植えた雪の下を吊下げたりするのだつた。私の顔見知りの妓で近隣の鮨屋の出前持と心中仕損つたものはあつたがこの夏の夜の街頭音楽家と慇懃を通じたと云ふものは、寡聞にして此を聞かなかつた。さあれ、かうした艶話、かうした音楽、かうした環境のかずかずが、いか許りかかの大戦乱下の世間の不快さを忘れさせてゐて呉れたことだつたらう。今次私はこの市川に居宅を購ひ求め、文化性たゆたな舞踊学院をも新に同じ場処で創設することとなつたから、もはや生涯に於てあのやうな岡場所の明け暮を呼吸享楽するの日はあるまい。そのころ私を訪れたある老年の友だちは、折しも夏の入日に当時は未だ未だ醜怪に打壊されてはゐなかつた花街一方の丘陵をガラス窓をかがやかせて省線電車の疾駆して行く光景を見て、宛ら田山花袋の花柳小説を読むのおもひがすると云つて嬉しがつた。
 警察屯署のむくつけき俗吏によつて新内流しその他の流しが厳禁されたとき、軍事成金の跳梁は忽ちのうちに家人へ教へを乞ひに来てゐた数多の洋装芸妓たちをば美醜を間はず次々と落籍してしまつて、此を手活けの花とはした。夏来てももちろんアコーディオンの時花唄はやりうたはまたと聴かれなくなつてしまつた。それらきのふまでの街頭歌曲の寵児たちは九夏三伏の酷熱裡を或は南方の野に転戦したり、或はまた埒もなき軍用工場で一職工として酷使されてはしまつてゐたことだらう。爾来数ヶ月余りにして前掲のごとく多年を住馴れた私共夫婦の塒は焼かれた。即ち、それが去年の明日のことなのである……。
 ところで柳暗花明を材とした川柳に積年非凡の才能を示してゐる坊野寿山子の吟詠には私たちが城北花巷で見聞した人情、風物をそのままの佳吟がいと多いから、茲にその若干を紹介して見よう。

泊る妓の蚊帳の向ふで櫛を替へ
泊る妓の汗よけだけがつるさがり
泊る妓の肌着になるとちぢこまり
かんざしと櫛とを置いてスルリ寝る
小待合蚊帳のつり紐ふと見かけ
ニア人になると芸者のカレライス
のめばいいんでシヨと芸者トヲ十五
十二時が過ぎて待合おもしろし

 一誦よく岡場所の艶笑場面を賦して毫末も卑賤の感を与へないのはまことにまことに凡手ならざるものがあるではないか。殊に方今川柳詩人を自称する人々の多くが、月並発句もしくは近代詩のエピゴーネンに過ぎざるごとき作品を発表して得々たるにおいてをや。茲においてか寿山子の花柳詩こそは柳多留正調の伝統を忠実に継承普及するものとして脱帽礼拝するに価しよう。
 稿を了らうとしていま、程なく訪れて来ようとしてゐる巣鴨花街焼跡の今年の夏の夜の景色をば、私かにおもふ。復興遂に成らずとつたへらるる花巷焦土のそこかしこは大正震禍直前の見番草創当時の大武蔵野の景色にかへつて待合料亭のセメント造りの築山のあとそこかしこに、叢り乱れる昼顔、夕顔、黎、芒、赤飯草、毒だみ、紫苑、金鳳花、ほか何や彼や、早やヂヂと地虫さへ啼き出してゐて、嘗ての真夏を額に汗して女房や娘がルムバ教へたりし所作舞台のあたりには英泉国芳の蝙蝠群飛び、時しもあれや東の方、西瓜のいろに弦月がのぼらう。
(昭和丙戌卯月記)





底本:「東京恋慕帖」ちくま学芸文庫、筑摩書房
   2004(平成16)年10月10日第1刷発行
底本の親本:「東京恋慕帖」好江書房
   1948(昭和23)年12月20日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:酒井和郎
2016年3月4日作成
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