巣鴨菊

正岡容




 昭和廿年花季の戦火に巣鴨花街の僑居を焼かれてから早や二年有余の歳月がながれ去つた。大正大震以後、俄に隆昌しだしたこの新興色町は漸く町並に一種の情趣を生じて来たところで惜しくも焼亡してしまつたのである。何より町中のおもひもかけないところ/″\に桜欅その他の大樹の聳え立ち武蔵野の日の名残りを示してゐることが頗る私を喜ばせたが、戦後のその町はところ/″\に急造の旗亭が間を隔てゝ建てられてゐる許りで、他は一面の雑艸の原、破れトタンを立てめぐらしたバラック小屋が長唄の稽古所で「供奴」の三味線が流れて来るなど哀れが深い。私の旧居のあとにしてもむしろ未だに荒涼の空地となつてゐるのであつたならば、却つて一種の快い悲哀感をさそはれて前掲「旧東京と蝙蝠」中に於て嗟嘆したやうな詩文の感興にも駆られたであらうが、女房と春美とが舞踊教授を常としてゐたところにはいつの間にやら殺風景な古道具交換所などが建造されてしまつてゐて、到底ありし日のおもかげなど見る可くもない。せめても料亭か妓家のごときが建てられてゐたならば、幾分なりとも昔日の俤を回想するにも容易であつたらうが、生憎私どもの居住してゐた南側一帯は許可地でない故であらう、極めて生野暮な店舗許りがむさくるしく軒を並べてゐるので、私の結婚当初の生活への回想のよすがはいまやことごとく喪はれてしまつた。おもへば年少、祖父母の温情に培はれて生育つた浅草花川戸の旧居も、震火ののちは東武電車ガード下に編入されて全くに旧観を失ひつくし、いまゝたはじめて清福の作家生活結婚生活に入るを得た巣鴨の狭斜街の旧宅趾も亦過去一切を偲ぶ可くもなくなつてしまつた。この点、限りなく私は不倖であると云へよう。
 花街見番の後方、省線巣鴨駅へ通じる陋巷にはまた、何々園を名乗つた植木職が寡くなく、往昔の巣鴨染井の菊や躑躅のたぐひを育てゝゐた名残りらしく、秋の真昼の午下りなどこの辺の路次を抜けるとおもはぬ辺りから菊の花の香りなど漂つて来ることがあり、云ひがたない雅趣にさそはれたものであつたけれど、いまはあの辺も亦ことごとく花巷同様、見るかげもなくなつてしまつたことであらう。江戸年間の巣鴨の菊は、『東都歳事記』に拠ると「文化の末」に絶えたとあるが、弘化元年再興され、嘉永年間またやゝ衰へ、つひに流行は団子坂へと移動していつたものらしい。
 私は、この土地がかうした前代の景情を百余年後の昭和現代にも何となくのこし、つたへてゐるところに一と方ならない愛着をおぼえたので、居住当時機会ある毎に『江戸名所図会』『巣鴨総覧大正十四年版』のごとき地誌、岩野泡鳴、野上臼川らのこの地に取材した小説書の類ひを殊更に収集耽読することに務めたが、文政時代の刊行物たる『江戸名所図会』を披見すると、一見していかにも寥々たる武州大塚村の形相がうかゞはれ、『八犬伝』に名立たる名主蟇六など忽ちに登場して来さうな僻村の景色が次々と展開されてゐる。
 先づ『江戸名所図会』巣鴨庚申塚の図はひろ/″\とした雑木の並木で何やら喬木が街道を挟んで遠くつづいてゐる。建場茶屋が二軒あつて駕のもの、馬のもの、おひろいのもの、みなこの茶見世で憩んでゐる。割つた西瓜が四つ五つ店先に並べられ、土間には真黒な縞の入つた西瓜も丸のまま三つ許り転がされてゐる。肌ぬぎで何かたべてゐる村人のところへは黒犬がやつて来てゐて、ねだつてゐる。黒塗り紋附きの挟み箱が往来においてある。とんぼ釣りの子供が二人ちやん/\子一枚で歩いてゐる。素ツ裸の馬子らしいものが往来で喚いてゐるのを切りと三人ほどでなだめてゐる。茶屋と茶屋の間の立木の脇には立て石があり、右わうじ、また王子稲荷大明神などとかいてゐる。うしろは一めん田がつづいてゐて、どうやら晩夏、曇り日の午後と云ひたげな景色である。また次の頁には猫貍橋ねこまたばしとて無気味な名の、さゝ流れにわたされた一本橋を、向ふから鍬を担いで咬へ煙管の百姓がわたつて来るところで、流れのふちには村の男女が抜いて来た許りの芋茎ずいきの根をば洗つてゐる。此は明らかに秋のはじめで川へり一帯薄が茂り、鳴子が連り、そのうしろ、はるかに寒々と二日月がかゝつてゐる。猫貍橋は後掲氷川の杜の「西の方、小石川の流れにわた」したもので、「昔、大木の根木のまた[#「月+矣」の「矢」に代えて「天」、179-3]を以て、橋にかへ」たゆゑ、また[#「月+矣」の「矢」に代えて「天」、179-3]橋なのであると本文にはかく説明されてゐる。さらにその次の頁には「巣鴨真性寺(江戸六地蔵の一員なり)」として、濡れ仏を前に、ひろ/″\とした境内の絵が載録されてゐる。此が災後も恐らく全いであらうとげぬき地蔵へ行く道の一角に安置されてゐたあの濡れ仏である。この境内は徒らに空地のみが多く殺風景至極であつて、たゞ一つ寛政癸丑歳仲夏、「採茶庵梅人社中」に建てられた杉風の萩の句の碑(裏面が杉風、表面は芭蕉のやはり萩の句)であつたと記憶してゐるのがある許りであつたが、その中に於てかの濡れ仏丈けは正しく辺りを払つてゐると云ふ感じであつた。
 大正十四年に上梓された『巣鴨総攬』に拠ると、西巣鴨の慈眼院には浦里時次郎の比翼塚が、同じく妙行寺にはお岩の墓、同じく盛雲寺には新門辰五郎の墓があると記述されてゐる。この中の慈眼院は深川から移つて来たもの、他の二つの寺院も都市の繁栄に連れて都心から転住して来たものではなからうか。
 その『巣鴨総攬』の口絵写真を一見すると嘗て私の住んでゐた辺りなどつひ近年まで草茫々としてゐたらしい。尤も岩野泡鳴の「猫八」(大正中世)及び野上臼川の「巣鴨の女」の諸篇(明治四十五年)に描かれてゐる巣鴨大塚の町々は至るところ雑木林があり、小川があり、水辺に乳牛の三々伍々が戯れてゐる。臼川などその序文に、
「私は此森の中に七年来住んでゐる」
と巣鴨のことを記してゐる位であるし、考へて見ると私も中学校一年生位のころ、大塚窪町にあつた縁辺のものを訪れると、氷川の杜ちかくは一円の水田であつて、杜かげに集ふ五位鷺の群れがいとも美しく散見された。泡鳴の「猫八」が玄文社から上木されたのは、たしかその一、二年のちであつて、寄席好き文学好きの少年だつた私が早速に一本を購読して泡鳴の篇中の作品には好感を抱いたが、ひとり「猫八」のみは頭から弱い芸人を揶揄してかゝつてゐる作者の態度に頗る義憤した記憶があるから、当時の巣鴨界隈が森林原野に富んでゐたことは、宛ち不思議とするも足りまい。
 同じく今日と比べて太しく景観を異にしてゐるものにかの江戸川堤の桜がある。明治中世の「文芸倶楽部」口絵写真には堤防混凝土コンクリートの出来以前の桜花爛漫たる秀景が掲載されてゐるが、さうした時代のこの辺りの風景を美しく紹介してゐるものは、小栗風葉が「鬘下地」であらうか。「鬘下地」は後年、新派劇団の当り狂言になつた佐藤紅緑の「侠艶録」の原本をなすものであつて、江戸川河畔に住む女金貸が三崎座の女役者たちを自邸に招いて観桜宴を催すの一齣に今日とは余りにも相違する大曲近辺の好風景が展開されてゐる。「鬘下地」は一個の文学として此を見るときは同じ作者の前作「恋慕流し」に劣り、紅葉張りの瞭乱たる雅文もやゝ必要以上の技巧に過ぎるかと考へられるが、明治江戸川風俗絵巻の一片として此を一読するときは、必らずしもその価値は皆無であるとは云へまい。
 即ち、

「江戸川の畔、紙漉橋の袂に鉄砲垣を折りめぐら[#ルビの「めぐら」は底本では「めぐ」]して、生節なまぶしの冠木を見越しの雑裁うえごみ※(「木+越」、第3水準1-86-11)こずえを深く(中略)春は塀外の桜、庭もに散り込みて、打延る両岸の枝頭の色は大曲のはてまで一目に残余なごり無く、冬は流を隔てて筑土の時雨、赤城の雪も寝ながら眺め坪の内に異らず、折節は目白台辺時鳥の渡るを聞けど」
「前に七坪余りの小庭を控へて、杉柾の萱門を浅く、椽に近き小細水ささらみずは江戸川の流を偃入せきいれて胡麻竹の袖垣をめぐり土塀を潜りて、内庭の池に注ぐなりけり」
「泉水の岩橋を渉り、築山の谷を越えて、忽ち彩雲一帯の眺め、枝頭万朶の春真盛りなる桜林の裏にこそ出でたれ。地は隈無く箒目の波を描きて、まだらはなびらの白く散れる上に※(「木+越」、第3水準1-86-11)こずえを洩るゝ日影濃く淡くあやをなしたる、ほとんど友禅模様の巧みを尽して」
「池はぎょくもて張りたらんやうに白く湿める水のに、静に魚のぬる聞こえて、※(「さんずい+艶」、第4水準2-79-53)ちらちらと石燈籠の火の解くるも清々すがすがし。塀を隔てて江戸川べりの花の※(「木+越」、第3水準1-86-11)こずえ一刷ひとはけに淡く、向河岸行く辻占売の声ほのかなり」

のごときである。今日、江戸川に架せられてゐる小橋の一つに小桜橋の名の存するのは、正しく花の名所であつた往時の遺香と云つていい。次にこの辺りの掃ふ可き墓石としては先づ、小日向水道町称名寺に「花暦八笑人」「滑稽和合人」の作者滝亭鯉丈の墳墓がある。台石に池田の二字が緑青いろに刻まれてゐて、十年以前、掃墓したときにはいま尚遺族の参詣は絶えないと云ふことであつた。また関口町の蓮光寺。音羽の電車通りを西折したところには、喇叭の円太郎と做ばれた四代目橘家円太郎の墓がある。此は台石に三遊連と朱書されてゐるところを見ると、往昔全盛を誇つた三遊派の同僚花形たちはこの明治開化一代の人気者のために金円を投じ合つて墓表を建立したものかも知れない。私は故野村無名庵君によつてこの墓の存在を教へられ、拙作「円太郎馬車」上演に際しては春曇の午前、古川緑波、高尾光子、斎藤豊吉の諸君と共に香華を手向けたことを忘れない。四世円太郎、本名石井菊松、明治卅一年十一月四日卒、戒名は円立院花橘日松信士である。さらに江戸川公園裏手なる目白坂永泉寺は五代目桂文治(先々代)及び二世蝶花楼馬楽(もりさだの馬楽)の菩提所であり、同じく関口駒井町大泉寺にはよかちよろの遊三の墓があると聞くがいづれも未だ私は掃つてゐない。
 小石川伝通院の北方宅蔵司稲荷祠畔も亦今次の火に襲はれて亡びたであらう。私は、あの境内の風致や本郷台と相対する眺望もさることながら、伝通院前電車通りに戦争開始前後まで業を営んでゐた狐そばの由来、即ち宅蔵司の眷属たる一匹の狐が屡々この店の蕎麦を求めに行き、後世狐そばの名をのこしたと云ふ市井の伝説にむしろロマンティックな感興をおぼえてゐる。盲目の小せんが落語「白銅」の中で云々した蒟蒻閻魔は、この坂下を春日町の通りへと急ぐ右横にあつて、朱のいろ褪せた荒廃の堂宇、無限の詩趣を醸してゐたが、この閻魔堂も亦烏有に帰したであらうこと云ふまでもない。しかしながら後方の丘上、明治開化当時宛らの瓦斯燈一基を門前に、頗る明治風の構へを持つた下宿屋が存してゐたが、此は幸ひにも今次の災禍を免れたと云ふ。としたら、この現存の下宿屋並びに瓦斯燈こそ明治文明の生形見として、永世、東京都は保護保存す可きであらうと私は声を大にして叫び度いのである。安藤坂牛天神の境内には貧乏神を祀つた淫祠があつたと嘗て私はこの辺に住した安藤鶴夫君から聞かされたことがある。故桃川若燕、現下の門葉東燕が演ずる「蝮の於政」には、牛天神の社内で謎の密書と指輪とを拾ふ泰西の探偵小説めいた譚があつたと記憶してゐる。狂馬楽また「春雨や牛天神の女坂」なる詠をのこしてゐるし、最近に至つては永井先生の「問はずがたり」がこの境内をよく描いてゐる。
 さう云へば先生はこの牛天神から程遠からぬ小石川金富町に生誕されたためであらうじつに屡々この辺りを材としてかいてゐられる。嘗ての「伝通院」及び近業「来訪者」中の「冬の夜がたり」みな/\先生幼少の日の御自邸やその近隣の追憶ならぬはない。「浮沈」の女主人公さだ子が一とたび嫁ぐ小石川の辰野邸は恐らくや先生生家の光景をそのまゝ借用されたものであらうし、婚家の母堂の基督教信者たることまた自づと先生御母堂のありし日のお姿が紙上再現されて来たものと見てよからう。「浮沈」と「冬の夜がたり」とを比べ見た者ならば、何人と雖も私のこの妄説に賛意を表して呉れるであらう。「荷風日暦」には兵火直前の秋日生家附近を散策されて、
ふるさとは巣鴨に近し菊の花
の一句を吟じられたことなども記載されてゐる。この金富町から電車通りを竹早町の方へと対つて北へ下りた左側に、此又果而空爆の厄を免れたかどうか路傍西側にいかにも古風に彫りの深い「極楽水」なる石標があつた。極楽水は「ごくらくみづ」と訓まれ三村竹清氏の『江戸地名字集覧』には、この極楽水、「小石川久堅町」の謂とある。極楽水には、新舞踊の道にいそしむ松賀流家元松賀緑さんが住してゐられたが、戦後、私たちの住むこの東葛飾のお医者某氏へ嫁がれてどうやら舞踊はそのまゝ廃されてしまつたものらしい。
 荊妻の家元となつた花園流は極めて昨今の創始であるが、洋舞と日本舞踊の微妙な近代化、誰にも分つて低俗に堕さぬ大衆舞踊の創作、童幼に恋愛ものを教へぬことをモットーに、流派の繁栄に春美、桜と一門を挙げて挺身してゐるが、松賀流は私たちの浅い歴史とは全く段ちがひの江戸聯綿の流派であつて、先年水谷八重子拙作「久米八桜」劇化の砌りも東劇休憩室に飾られた九女八参考資料の中には、明治初年、松賀流繁栄を示したびら風のものなど見かけられた。聞説く、松賀緑さんは嘗て嘱されて他流から松賀流家元を継がれたお仁である由。とすれば同女は至急適当の後継を求めて此に松賀流を永遠に保存さす可きであらう。一個人としての松賀女史が家庭人になつて舞扇を裂き、厨房に魚介を煮るのは自由であるが、卑しくも流祖としての責任をそのまゝに放棄してしまつて、松賀流幾春秋の歴史を闇から闇へと葬り去つてしまふことは些か穏やかでない。切に松賀旧家元再考をば促し度いところである。
(昭和廿二年七月記)





底本:「東京恋慕帖」ちくま学芸文庫、筑摩書房
   2004(平成16)年10月10日第1刷発行
底本の親本:「東京恋慕帖」好江書房
   1948(昭和23)年12月20日
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:酒井和郎
2016年3月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「月+矣」の「矢」に代えて「天」    179-3、179-3


●図書カード