根津遊草

正岡容




 私に団子坂周辺を描いた小説が二つある。一は旧作「置土産」であり、一は「団子坂薄暮」である。前者は冒頭の背景に団子坂菊人形の殷賑を描き、後者は明治の浮世絵師国政が落魄の後、団子坂菊人形の木戸番に身を落したと嘗て伊藤晴雨画伯より聞かされたエピソードに材を得て書上げた近作であつて、未だ筐底に蔵めてゐる。しかしながら私の団子坂菊細工の記憶は殆んど曖昧模糊たるもので、吉原張見世の記憶の確たるに比す可くもない。おもふに私が小学校へ入学したとき已に菊人形は両国国技館以外の地では此を浅草花屋敷に求めるよりなくなつてゐたからであらう。女房は流石にこの土地で幼時を過した丈けあつて私より余程若年ながら、子供のじぶんの秋養母がそこらを探し廻つてゐないと菊人形の小屋の前へ行つてその名を呼ぶと必らず中からヨチ/\現れて来たと云ふ。私に兎角団子坂取材の小説が多いのも、女房が年少の朝暮あけくれを過した土地であると云ふことへの、仄かな郷愁に似た感情の発芽であると云へるかも知れない。「菊細工すたりて根津の夜長かな」の句ある岡本綺堂先生には「菊人形の昔」と題する『半七捕物帳』の中の一作があつて、その冒頭には、

「一体江戸の菊細工は(中略)文化九年の秋、巣鴨の染井の植木屋で菊人形を作り出したのが始まりで、それが大当りを取つたので、それを真似て方々で菊細工が出来ました。明治以後は殆ど団子坂の一手専売のやうになつて、菊細工といへば団子坂に決められて仕舞ひましたが、団子坂の植木屋で菊細工を始めたのは、染井よりも四十余年後の安政三年だと覚えてゐます。あの坂の名は汐見坂といふのださうですが、坂の中途に団子茶屋があるので、いつか団子坂と云ひ慣はして、江戸末期の絵図にもダンゴ坂と書いてあります」

 増田龍雨翁が「下町の話」(『龍雨俳話』所載)にはまた、

「団子坂の菊人形は、今の坂の(昔はもつとせまい)両側に、菊人形の小屋が、がつしりした葭簀張で建てられ、立幟に、景気をつけて木戸番が、木戸札を叩上げて争つて客を呼んでゐたものだ。勿論、電燈のない時分だから、あかりの支度はあつたが、所詮は日一ぱいの興行であつた。そのころの団子坂と云へば、かなり場末である。菊人形は全くこの場末の興行物で、都会の匂ひは、どこにもなく、そこらのすべてが甚だ鄙びてゐたことであつた。(中略)団子坂の菊人形も入谷の朝顔と同様、植木屋の興行である。そのもつとも大きな構への家を、「種半」と云つたやうにおぼえてゐる」

と追懐されてゐる。両者を併せて読めば、読者は自ら団子坂菊人形の縁起と繁栄の状況とを識るに足るであらう。
 隣接は根津の陋巷。広津柳浪には根津に材した小説があると聞くが、私は未だ一読してゐない。鏡花小史が「通夜物語」は人も知る新派劇往年の当り狂言で、遊女丁山をして朱つ面の軍人を痛罵せしめた作者一流の任侠哀艶の情話である。

「根津の八重垣町の裏で、藍染川の溝縁から狭苦しい路地内へと鍵の手に建つた、コールター葺の染工場がある」

と云ふ書出しを持つた小栗風葉の「転々」は硯友社風の絢爛小説から自然主義に転化した当初の作品でこの陋巷居住者の暗鬱な生活を記録してゐる。

「場末の殊更地面の低い根津の貧しい町を通ると、長屋中の女房が長雨に着古したつぎはぎの汚れた襦袢や腰巻や、又は赤児の襁褓おしめや下駄傘、台所の流しなぞを、気のちがつたやうな凄じい勢ひで、洗つたり干したりして、大声に話して居る罵つてゐる。其の周囲まはりには子供が大勢泣いたり、騒いだり、喧嘩したりしてゐる。さう云ふ狭い横町をば包みを持ち尻を端折つた中年の男が幾人も、突当る人の中を急しさうに通つて行く。溝と云ふ溝からはいづれも濁つた雨水の流れもせずに溢れてゐるのみか、道の上にも跨ぎ兼ねるやうな溜り水の、幾個所と知れぬ其の面に、今や白い雲の烈しく動き出す青い澄んだ空の色が美しく反映してゐる。其の高い空から、細い鳶の鳴声が遥かに落ちて来る」

 この一文も亦、根津八重垣町近辺の素描。即ち、永井荷風先生の「歓楽」である。風葉が「転々」を世に問ふた明治末葉、「歓楽」も亦発表されたのであるから、期せずしてこの二つの小説が描いてゐる根津の町々は殆んど同時代を呼吸してゐるものと云つてよからう。汚い軒端に干されてゐる「襁褓」の一つは或は女房のそれであつたかも知れない。とは云へ「歓楽」の作者が綴つたこの陋巷は風葉のそれのやう全篇の背景ではなくてほんのその作中の一小部分に過ぎず、歓楽哀傷の詩人である主人公は「根津権現に近い、薄暗い森陰の小家を借りて」人の妾たりし情人と同棲、その女にも漸くに倦怠しつゝあると云ふ幸福なる悲劇の体験者なのである。永井先生はさらに昭和年代に入つても「上野」と云ふ随筆を草され、文中、苔城松子雁の「饒歌余譚」を引用して根津遊廓の興亡を談られ、また花巷の洲崎移転以後八幡屋を名乗る妓楼の後身紫明館なる温泉旅館へ、押川春浪井上唖々氏らと講武所の妓女を擁して遊ばれたと記してをられる。「娼家の跡は商舗または下宿屋の如きものとなつたが」と先生がかゝれたやうな娼家を改造した権現祠畔崖上の下宿屋に大正震火のころにはのちに悲惨の最後を遂げた小説家藤沢清造氏が住んでをられて、「根津権現裏」と云ふ小説を世に問はれた。私は作者とほんの一面識があり。唯一どこの下宿を訪れたこともあつたが、その小説を読む機会はなかつた。当時の私は幻想たゆたな又は情緒甘美な文学以外には一切触れることを好まなかつたからである。「きのふより根津の祭の残暑かな」と久保田万太郎氏に詠まれた権現祭は昨秋、土地の復興を兼ねた祭が催され、こゝを育ちの土地とする女房とはる/″\見物に及んだが、その趣向万端遠く正徳の昔山車や練り物に「美麗を尽せし」とある『東都歳事記』の壮観を見る可くもないことは当然としても、神田日本橋浅草又は人形町各地の復興祭の豪華さにも亦及ばなかつた。電車通りを練つて行くブラスバンドの演奏も寒々としたものであり、纔にサトウハチロー君作詞にかゝる根津音頭とやらがその夜公開されるとの掲示が見られた位のことであつたが、蓋し「転々」や「歓楽」に描破されてゐる根津街巷の祭礼としては豪華ならぬ構成のものゝ方が、この町らしい哀感を伴ひ、却つて相応しいかもしれない。殊に谷中方面より権現堂に至る両側焼残つた構造など前代庶民住宅の哀れにもつゝましい風情を遺す記念物として、頗る私は珍重してゐる。
 甲府公へ諌言したゝめ無礼討に遭ひ、幽鬼となつて尚諌めたとつたへられる根津右衛門の名は、幼時、お化加留多の白裃着した侍の亡霊の絵に拠つて私は記憶してゐた。根津権現の祭神は素戔嗚尊であると謂はれてゐるが、「当社境内、始めは甲府公御館の地なりしが」と『江戸名所図会』にあるところを見れば権現社内のいづこかに或は右衛門を祀つた祠もあるのかもしれない。
 三遊亭円朝の作物には根津界隈を舞台としたものが寡くない。先づ「真景累ヶ淵」の宗快豊志賀父子が根津惣門前に居住してをり、「牡丹燈籠」中にも谷中近隣の景情は仔細に尽されている。その他「松と藤芸者替紋」の車夫ころしが谷中蛍沢(初音町)、「トスカ」の翻案たる「名人くらべ(錦の舞衣)」が根津清水である。ところで鏑木清方画伯は「名人くらべ」を翻案としらず、谷中南泉寺に主人公鞠信及びその情人お須賀の墓を探策して歩いて円朝から大そう笑はれたと「円朝全集」中に誌されてゐるが、「名人くらべ」の末尾を見ると「戒名の処は南泉寺に居つた時分能う調べて書いて置」いた、「大きな墓ではないが二つ並んで」、「只今は何処から附届をいたしますか、丁度山を上つて左の方に駒寄のある大きな墓の後の所にございます」など、じつに誠しやかに記されてゐるから、かくては清方画伯ならずとも「山を上つて左の方に駒寄のある大きな墓」を、南泉寺に掃ひ度くなるのが人情であらう。
 かく根津や谷中を好んで材とした円朝が、今日同じ谷中全生庵に「三遊亭円朝無舌居士」として眠つてゐることは、鉄舟居士菩提所の由縁があつたからとは云へ、たしかに一奇であると云へよう。この墓、暮春は傍らの亭々たる梨の大木が青白い花を悩ましく咲かせ、盛夏は夏萩が濃やかに門人ぽん太の墓碑を覆ひかくすのが常である。
 私は円朝無舌居士の月詣りをしだして、今年で丁ど十一年目になる。
(昭和丁亥七月稿)





底本:「東京恋慕帖」ちくま学芸文庫、筑摩書房
   2004(平成16)年10月10日第1刷発行
底本の親本:「東京恋慕帖」好江書房
   1948(昭和23)年12月20日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:酒井和郎
2016年3月4日作成
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