初看板

正岡容




  上

 ……つらつら考えてみると、こんな商売のくせに私はムッツリしてていったい、平常ふだんはあなたもご存じの通りに口が重たいほうなのに、しかもいたってそそっかしい。これはまあどういう生まれつきなんだろうと、ときどき情なくなることがありますが、ほんとにムッツリとそそっかしいんです。いつかも銭湯で帽子シャッポをかぶり、股引をはいたまま、あわや湯槽ゆぶねへ入ろうとして評判になったし、裸で涼んでいてフイと用事を思い出し、その上へ羽織を引っかけてすまして電車へ乗って笑われたなんてこともありましたっけ。葉書を出しに行くみちさけの切身をひと切れ買って、まちがえてその鮭のほうを郵便函へほうり込んでしまったこともありました。こいつはあとで郵便屋さんが葉書を集めにきて、さぞや肝を潰したことでしょう。どこの世界にあなた、郵便函から鮭の切身が出るなんてべら棒があるもんですかね。つまり、そんな人一倍のそそっかし屋だから、人生の戦い、芸の修業にも、はじめにあわてて喜んでしまい、とんだ失敗しくじりをやらかしたようなことになってしまったのかもしれませんや。
 いったい、私の家はこれでも士族のなれの果てでしてね、ですから小さい時分には野本鴻斎という漢学の先生についてずいぶんいろいろの勉強をしたもんです。ところがその勉強の度が過ぎて、身体を壊した。お医者の言うには、なにかこのさい気の晴れるように音曲でもやってみて、気保養をするがいい、そこで常磐津ときわづの稽古をはじめだしたのですが、これがその自分でいうとですが、なまじ器用な声がでたりなにかするところから、ついすすめられて二十の年には今の林中りんちゅうの門人となって家寿太夫やすだゆうの名をもらうようなことになってしまった。そうして緞帳どんちょう芝居を三軒くらい掛け持ちをすると、ずいぶん、楽にお金がとれた。つまりこの、ちょいと常磐津をやったら、すぐ太夫になれた、またちょいと鍛帳芝居へ出たらすぐにお金がとれた。これがごくごくいけなかったので、そこへもってきていたってまた人間がそそっかしいときているから、ただもう安直に世のなかをうれしがってしまったんでしょう。同じ常磐津の太夫になったとしても、ひのき舞台へでもつかってもらって初めからウンウン苦しめば、なかなか世のなかを甘くなんか見なかったんですが――。
 そのうえ信州の旅へ出て、上田で岸沢小まつという女の師匠で荒物屋を営んでいる人のところへ厄介になっていると、その土地に昔の名人で土橋亭どきょうていりう馬という人の弟で今は料理屋の旦那の志ん、この志ん馬と小まつさんとが二枚看板で上田の芝居小屋を開けたのですが、あまりの大入りで二日目に志ん馬、咽喉を痛めてしゃべれなくなってしまった。そこで私が一段、スケることになったのだが、なにしろ小まつさんが常磐津でまた私が常磐津。そうそう常磐津ばかり語ってはいられない。そこで私が大胆千万にも聞き覚えの「やぶ医者」という落語を一席った。するとこいつがたいへんお客に受けて、楽屋で聴いていた志ん馬もあれだけに演れるならぜひ毎晩一席ずつ演ってくれと言う。そこでこっちもいい心持ちんなって「金明竹きんめいちく」「たらちめ」と、いろいろ御機嫌を伺ってると、これがみんなワッワッと受けるんです。これもごく私のためには、いけなかった。
 そのうえ、志ん馬の咽喉が治って今度は近くの八幡というところへ、二人ににん会で出かけていった。このときには毎晩二席ずつ演るので演題やりものに困って、浄瑠璃の「仮名手本忠臣蔵」。あの大序の※(歌記号、1-3-28)嘉肴かこうありといえども、食さじされば味わいをしらず――あすこから三段目、殿中の喧嘩場まで、本をそのまま素読みにして講釈のように演ってみたんですが、そうすると、また、これが受ける。あくる晩は四段目、五段目、六段目と演ってみましたが、しめてかかると判官ほうがん様や勘平の切腹では田舎の人たちがみんなポロポロ涙をこぼして聴いてくれるんです。とうとうしまいには真打の志ん馬のほうが私に食われ加減にさえなってきました。いよいよ、私のためにはいけませんでした。
 ちょいとここで余談にわたりますが、この八幡の興行でお客様が木戸銭の代わりに干したあんずの袋入りや、カチ栗を風呂敷へ包んだのや、なかにはお芋を持ってやって来るのもあったのにはおどろきましたね。つまりこれを興行が済んでから車へ積んで市場へ持って行き、お宝に代えてからはじめて私たちに支払ってくれるというわけなんですが。このときこうした田舎の珍しい場面をよく覚えておいたので、のちにそれが本職の落語家はなしかになってから「本膳」や「百川ももかわ」なんて田舎者の出る噺のときにたいへん役に立ちました。それにしても相変わらず私はそそっかしいんですね、このときあるお百姓がうちでこしらえた納豆だといって木戸へおいていったのをてっきり甘納豆だと思ってムシャムシャとやり、すっかり皆に笑われてしまいました。
 さてあまり志ん馬がほめ、事実、お客様方もまた志ん馬以上にほめたりするので、東京へ帰ると、とうとう本腰でやる気になり、すぐつてを求めて落語家になりました。そのころ柳派で大御所といわれた本所二葉町の大師匠談州楼燕枝だんしゅうろうえんしの弟子になって、燕賀えんが。私が二十五の年でございます。ところで、御成おなり街道の日本亭の楽屋で見習いになってマゴマゴしていると、三日目です。二人三人休席の者があって、前座が二度上がりをしましたが、いくらやってもあとが来ません。あまりかわいそうですから私が高座へぬいである羽織を引いてこの前座を下ろし、あとへ上がって「天災」という例の八さんと隠居さんの出てくる噺を永々と演りました。するとどうやらこれがお客に聴いてもらえ、喜んで下りてくると、そのころチウチウ燕路といわれていた大看板の燕路さんがいつの間にか来ていて、たいそう私のことをほめ、お前は初めて落語家になったのじゃあるまいとこう言います。このときじつは信州ですこしとほんとうのことを言ってしまえば、そうも燕路さん感心はしなかったでしょうが、それをこっちは田舎まわりと思われるのが嫌さにどこまでもズブの素人ですと言ったため、たいそう燕路さんに感心されてしまい、お前は前座になっている落語家ではないとすぐに師匠の燕枝にはもとより、頭取とうどりをしていた蔵前の柳枝りゅうし師匠(その時分は下谷の数寄屋町にいましたが)にも話してくれて、さっそく燕花という名に改められ、前座をしないですぐ二つ目に、私は昇進してしまいました。これがますます、私のためにはいけないいけないことだったんです。
 そのうえ、さらにいけないことには燕花となってすぐ阿部川町あべかわちょうの寄席と吉原の中鈴木なかすずきという寄席と二軒掛け持ちがついたのですが、この阿部川の楽屋には燕作という前座がいてお客さまのお集まりの前に一番太鼓を入れる。この打ち方がてんでなっていないし、第一、間がちがっているので気になってなってならないでいるうち、二番太鼓の大太鼓おおどのほうを二つ目の私が打つことになったのですが、このときに私の打った大太鼓がたいそう本筋だと席亭からほめられて、そのために今度は二つ目でなく、なんと三つ目へ上げてもらえるようなことになってしまいました。これも最前の田舎まわりの話同様、馬鹿でもチョンでも私は永年緞帳芝居へ入っていたから太鼓の打ち方も心得ていたのが当たり前なのですと話してしまったら席亭さんも買いかぶりはしなかったでしょうが、こんな具合で不思議にトントン拍子に運のいいことにばかりなってしまったから、結局はますますいけないのです。
 もうひとつ、おまけにいけないことには、ある晩のこと、この阿部川町から吉原の寄席へ掛け持ちに行こうとすると、自分の前を手品の蝶之助がイボうちという太鼓を叩く男を連れて高声で私の噂をしながら行く。これが悪口でもあることか、燕花は落語家の太閤さまだ、いまに天下をとるだろうとか、ひと晩でできてしまったあれは富士山のようなやつだとか、そりゃあもうあなた、ほめてほめてほめちぎっていくのです。こうなると私もさあうれしくって、根がそれそこがそそっかしやときているから、とたんにポーッとしちまって私は吉原の寄席へ行かなければならないのに、夢中で二人をソーッとつけていき、この二人の掛け持ち先の本所の中の郷の寄席までくっついていって、はじめてアッと気がつきました。あわてて吉原の寄席まで駆け出して引き返していって、どうやらやっと間に合わせましたが、なにからなにまでこんなことがすべていけないことだらけだったんです。
 だって考えてもごらんください。
 本来ならば修業最中のいまだ若い身空みそらで常磐津になっても落語家になってもこう万事万端がいいずくしじゃ、外見そとみはいかにもいいけれども、しょせん、永い正月はありませんやね。
 その証拠には私、一生懸命、自分じゃ勉強したつもりなんだが、どうも、その……おや……おやッ……なんだろうあなた、あの人声。
 ハテだんだんこっちへ近付いてくるようだが、あ、万歳、やっぱり万歳、万歳だ万歳だ。
 ごらんなさい、来ましたよ来ましたよ。最前の行列より、また、ぐんと多いのが、みんな提灯を大振りにして、ああ、やってきたやってきた、万歳万歳万歳万歳……ねえ、あなたこの行列の通り過ぎるまで、とてもお話なんかしたって聞こえないから、ひと休みしましょう。そしてあなた、まあ一杯、おめでたいんだからお干しなさいよ。いいえ、私も近来ちかごろは駄目なんだが、今夜はあまりうれしいから進んでひと口いただきますよ。だってこうなんだかウキウキしてきて、日本人としてお酒でも飲まずにゃいられないような心もちですもの。
 ホーラもうこの軒下まで行列、近付いてきた、万歳万歳万歳って……おめでたいなあ、まったく。


  中

 ああ、やっと万歳がだいぶ遠のいていきました。
 しかしまたあなた、またすぐやって来ますよ。無論、今夜は夜がら夜っぴて、やって来るにちがいないし、事実また日本中の人たちが今夜はそのくらいにうれしいんだものしかたがないが、だからこっちもお祝いに夜がら夜っぴて身の上話を申し上げるとして、ちょいとここらで鬼の来ないうち洗濯てぇことはあるが、あとの万歳の来ないうちにただいまの続きを申し上げてしまおうじゃござんせんか。
 しかし、この日本だってこの前の日清戦争にゃ勝ったけれど、三国干渉だのなんだのって、じつにいろいろの嫌なことがあった。あのときは実に情なかったが、しかし私は今になってみるとじつにあれがよかったんだとおもってるんです。私たちがたいへん生意気なことを申し上げるようだが、あれがただくだらなく他愛なく勝ってしまって清国の三分の二をもらってしまってさ、左団扇ひだりうちわで暮らしていたら、今日、この露西亜ロシアとの戦争には果たしてこのようにトントンと勝てていたかどうか。たしかにあのときの勝ってかぶとの緒をしめたあの苦しみが今日二倍三倍ものをいって日本人全体の血肉となって、こんなにめざましい働きをしたんでさあ。とするとねえあなた、人間万事、はじめに泣くだけ泣いとかなけりゃ、最後の大勝利は得られませんてことさね。
※(歌記号、1-3-28)韓信が股をくぐった末見やしゃんせ
   踏まれた草にも花が咲く
 って、まったく、あれ、あれですねえ。
 さてこの私という馬鹿野郎は申し上げたような仕儀で、あまり初手からいい目が出すぎてしまったもんだから、勝って兜の緒をしめなかった。いいえ、自分じゃすぐにも大看板おおかんばんになれる気で勉強をしていたんですが、この頃になって静かに振り返ってみると、やっぱりあの頃の私の勉強てのはてんで独りよがりで、なっちゃなかったんです。どういうふうになっちゃなかったか、それはワザともうしばらく申し上げないでおくとして、なにしろ私は仲間からほめられるほめられる、やたらこたらとほめられるのですが、さてほめられるばかりで一向にパッとしません。お客様にてんで受けず、その結果がどこの席亭でもちっともつかっちゃくれないという始末なんです。
 二年、三年、四年、五年――もう五年の月日がそこに経ちましたが、まったくの居据いずわりでどうにもこうにもしようがないんです。こうなるとはじめの一年ばかりの経つののめざましいくらい早かったに引き代えて、あとの五年の永かった永かった、居据りながら歩いているような心もちでしたよ。
 したがって、収入もない。
 親父の奉還金のなかから私の分としてとっておいてくれたお金も、もう一人前になれるだろうなれるだろうでとうとうみんなつかってしまい、それでもまだ一人前にはなれるどころか、一年三百六十五日、平均おしならして六銭ぐらいしかとれません。いくら物価ものなりの安い時分でもそれじゃお粥もすすれませんよ。
 そこへもってきて引き立ってくれていたチウチウ燕路は死んでしまい、悪いときには悪いもんですね、私の燕花という名前は蔵前の柳枝さんの前名で、その次がチウチウ燕路の前名、つづいてその頃売出しだった先代小さん、つまり禽語楼きんごろう小さんさんの前名と、柳派ではだいの出世名前だったわけなのですが、みすみすその縁起のいい名前を返して都川歌太郎を名のらなければならないようなことにまでなってしまいました。それは柳枝さんの元のおかみさんの小満之助こまのすけという音曲師が大阪から帰って来て、三代目都々逸坊扇歌どどいつぼうせんかとなった。元のお神さんだった関係から頭取の柳枝さんへ話し、柳枝さんからまた師匠へ話して、無理に私を歌太郎と改名させ、この扇歌の前へつかわれるようなことになってしまったからです。
 ところが、この扇歌が評判がよくない。
 したがっていよいよ私は売れない。今までだっていい加減、貧乏のところへもってきてそれがいっそうはげしくなり、とうとうお粥もすすれないようになってきました。
 でもなんとかしていい落語家になりたいと、その頃、京橋の金沢の昼席を、三年間、柳枝さんが真打をつとめていましたが、私はここへ勉強のため、無給金でつとめました。どうして無給金かというと、もともと、お客が十五人か二十人しか来ない。したがっててんで楽屋入りもないところから、ここは落語家の無料で出演する修業場所としてあったのです。夏なんか洋傘こうもりがさが買えなくって頬かむりをしては楽屋入りしたものですっかり色が黒くなって、お前、流行はやりの海水浴に行ったのかと冷やかされたこともよくありました。昼席がハネて寄席へまわるのにみんな楽屋で弁当をつかいますが、私はつかいたいにもその弁当がなく、「ちょいと、めしを食ってくる」と表へ出てワザと襟へ挟んでおいた古い楊枝を斜めにくわえて、ああ、どこそこのなにはちょいとやれるぜなどといい加減なことを言って、さもさも食べたような顔をして帰ってきたこともありました。ある日、逆さにふっても鼻血も出ない一文無しでこの金沢の楽屋を出て、京橋の上へかかってきたら忘れもしない爺さんの乞食おこもが、自分の前に七、八銭並べて、どうぞやどうぞやとお辞儀をしている。ああ、あるところにゃあるもんだなあとジーッと立ちどまって見つめていたら、急にその乞食が立ち上がってそのおあし懐中ふところへ、さも薄気味悪そうにスーッとどこかへ行ってしまったのは大笑いでした。もっともこの乞食の爺さんにはもうひとつ、後日物語があります。そののち私がすこうしはどうにかなってきてからやっぱり金沢へかかったとき、やっぱりこの爺さん京橋の上に座ってお辞儀をしているのでわが身に引き比べてなんともかわいそうになり、一銭取り出してやろうとしましたら、ヒョイと私の顔を見てその爺さんが、「アアお前さんのはいりませんよ」とニコニコ手を振って断わられたには、いよいよどうも大笑いです。摩利支天まりしてんにも見放され……とは「関取千両幟せきとりせんりょうのぼり」ですが、乞食に見放されたのは芸界広しといえどもまず私でございましょう。でもそのときばかりはおかしいような情ないような、われながらへんてこな心もちになりましたよ。
 そのうち、今度はその昼席へも出られなくなってしまった。というので夜分は襟垢のついたものでもわからないが、昼間はお客さまに失礼でそんな色の変わったものを着ては出られない。
 しかたがないので死んだ先代の柳條さんたち四、五人と苦しまぎれに足利へ興行に行ってみたのです。するとこれが初日に七人しかお客が来ない。どこにもこうにも、これじゃ二進にっち三進さっちもゆきやしません。
 東京へ帰るにしても五人の頭へ四人分の路金ろぎんしかない。しかたがないのでたまたま足利の芝居へ昔なじみの常磐津の鎌太夫が来ていたのを幸い、皆には先へ帰ってもらい、私だけその座に七日つかってもらって、やっとほんの雀の涙ほどのお宝をいただいて後からみんなを追い駆けました。
 ところがまぬけなときはこうもまぬけなことになるもんですかねえ。途中あれはなんといったでしょうか、渡船わたしがある。私にこの船賃がないんです。といってまさかに泳いでも渡れない。すっかり途方に暮れてしまっていると天の助けかすぐ脇の一膳めし屋へ、額へ即効紙を貼った汚い婆さんがジャカジャカ三味線を弾いて、塩辛声で瞽女唄ごぜうたのようなものを歌って門付かどづけをやっているんです。得たりとそこへ飛び込んでいって無理にその婆さんに都々逸どどいつを弾いてもらって二つ三つ歌っていたら、入口のちかくでめしを食っていた東京者らしいお職人衆がホラヨといくらかのおあしを投げてくれました。そのときの天にも昇るようなうれしさ。すぐ婆さんと半分ずつ分けて、おかげでやっとその渡しを渡って、東京まで帰ってくることができました。
 それからすこし経って師匠燕枝の一座しばいで横浜へ行きましたが、このとき私が「本膳」を演ったら、その晩、年枝という兄弟子が私を万鉄といううし屋へ連れていってくれ、お前はたしかに出世をする、うちの師匠は誰の芸を聴いてもすこしあすこがどうだとかこうだとか決してほめたことがないのだが、それが今夜、お前の「本膳」を聴いて、しばらく聴かないうちにすっかりものになってきた、このくらいの落語家が昔あると、ぶっつけ真打だがと言っていた、ほんとに珍しいこッたから、しっかり勉強をおしよと励ましてくれました(もっともこの年枝ともう一人、鶴枝というこれもなくなりました二人は、私が京橋で乞食の爺さんに逃げられた時分、ホトホト自分の境涯に愛想を尽かしてしまい、もう落語家はやめようかと相談にいったときも、二人して苦しかろうがもうすこし辛抱をおしなさい、必ずお前さんは末の見込みがあるからと思い止まらせてくれたくらいの私のひいきだったのです。それゆえ、こちらも恩返しにそののち私が看板を上げてからは死ぬまでこの二人に前へ出ていてもらいましたが)。
 やかましやの師匠燕枝がほめてくれたと聞き、それはまんざらうれしくないことはありませんでしたが、じつはほんとうのことを言うと、もうそのとき私はそんなことをすっかりアテにしなくなってしまっていました。十年一日――曇りの次は雨、雨の次は雪また嵐と年がら年中この繰り返しで、ほんとに日の目ひとつ見たことのない私は、なまじはじめの出が華やかだっただけに今ではすっかり心もちがひがんで腐りきってしまっていたのです。
 ほんとかなあ、そんな。信じられないなあ、なんだか。年枝さんは俺がひいきだからそんなことを言って俺をよろこばしてるんだ。
 ただそうとのみ考えて、形だけのお辞儀だけはしながらも格別うれしそうな顔も見せず、それよりもひさしぶりの牛肉のほうがうれしくってムシャムシャ片っ端からたいらげていた始末でした。ただ、こんなにも腐りきってしまっているときでも、性質のそそっかし屋だけはやっはり直らず、牛とまちがえて生葱を三度もガリガリとかじってしまい、そのたんび年枝さんをふき出させましたよ。
 でも。
 この師匠燕枝のほめてくれたのは、決して年枝さんのうれしがらせではないということが間もなくわかりました。帰ってから八丁堀の朝田が柳桜師匠とうちの師匠の二枚看板で、このときに師匠は「仏国三人男」という新作の西洋人情噺を、三遊の圓朝さんの向こうを張ってこしらえていましたが、そのなかに「本膳」と同じ呼吸のところがある。で、横浜で聴いたお前の「本膳」がよほどよかったから今夜はひとつ聴かせてくれとこう言われ、ではまんざら年枝さんのお世辞でもなかったのだなと初めてわかったことだったんです。言われるままに私はその晩「本膳」を演って下りてくると、今夜は俺が聴いているせいか、横浜のときよりよほどうまかったぜと笑いながら師匠に肩を叩かれましたが、さてそのあとで楽屋の奥の誰も人の来ないところへ連れていかれると、ピタリと師匠はそこへ座って、お前は私とはまことに縁が薄く、弟子になるとすぐお前は燕路や柳枝の手塩にかけられ、そのあと今度は扇歌の手人てびとに借りられてしまったりして、ほとんど高座を聴くこともなかったが、サ、今日こそはいろいろ噺のコツを教えてやろう、いいか生酔の急所はこうなんだ、また百姓はこういう目をしなければいけない、破落戸ごろつきはこういう手つき、職人はここへこう手を置くものだ、それから侍は肩をいからして手をこう置くし、大名のときはこうやるんだとすべていちいち手帖へ控えておきたいくらいに士農工商それぞれの言語動作を隅から隅まで、わずかの時間にすっかりと教えてくれました。みなウームウームと唸ってしまうくらい、肯綮こうけいにあたっていることばかりでした。なんだか自分の粗悪な「芸」の着物を、いっぺんに極上等の染粉をつかって見ちがえるように洗いあげられたようなすがすがしさを感じました。すっかり身が、心が、ぽってりと肥えて太ってきたかんじでした。
 だのに、だのに。
 やっぱり、売れない。売れないんです、からっきし。ばかりか三軒あった掛け持ちは二軒に、二軒のところはまた一軒にとだんだんあとびっしゃりをしていくのはひどすぎる。
 こうなるともう私は、怨とか、腐るとかいうことでなく、真剣に、肚の底から腹を立ててしまいましたね。
 冗、冗談じゃない、てんだ。
 つもってもみてくれ。
 うそにもよっぽどどこかに見どこがあると思えばこそ師匠燕枝も、親しく小対こむかいになって「芸」の急所や奥許しを、惜し気もなく私にさらけだしてみせてしまってくれたのだろう。
 だのに、それがやっぱり売れないときては、わかった、みんなして寄ってたかって俺をバカにしているんだ。
 いい加減なでたらめばかり言っておだてちゃ、陰で赤い舌を出してよろこんでいやがるんだ。
 人をも世をも怨みわびとでもいいましょうか、果てはほんとに世のなかが、まわりの人たちが、ただわけもなくうらめしくてうらめしくてならなくなった。みんなかたきだ、みんな敵なんだ、人を見たら泥棒と思えというふうに、すっかり私は誰をみても信じなくなってしまったんです。よく戦争ばかり引き合いに出すようですがなにしろ今夜のこの場面だからだとおぼしめしてください。つまりその戦争にもそっくりこういう場合があるそうですね、いくら戦っても戦っても敵の大軍は増えるばかり、もうしかたがないここで斬死だと覚悟を決めて大暴れに暴れてしまったら、いつの間にやらチャンと敵を皆殺しにしていたなんて、私のひがんでやけのやん八を起こしたときもちょうどそれと同じ……あれあれ、また万歳だ、さっきよりよっぽど多いや、それになんだろう大勢の歌がまじって、ああ、※(歌記号、1-3-28)道は六百八十里――ってあの歌だ、ご存じでしょう、ほら日清戦争のときもずいぶんこれを歌いましたねえ、この歌が聞こえてくると私は初めてああほんとうに戦争に勝ったんだなって心持ちがしてくるんですよ。おおおおおお、万歳万歳万歳万歳、またたいそうそろってきたね。あれ、それに楽隊もまじってますね、ドンガラドンガラって勇ましいや。ねえ、ねえ、あなた、この物干しから大屋根の火の見へ上がってちょいと見物しませんか。なあに空ッ風は吹いているけれど、その大きなやつでキューッと景気をつけていきゃ、風ぐらいへいちゃらですよ。お互いに日本人だ。せめてこっちも高いところから万歳万歳ってやつを、景気よくやってやろうじゃありませんか。


  下

 さすがにずいぶん、こたえますね。ウルッ、ひでえ寒さだ。でもああやって行列している連中はみんな人いきれでホクホクしてるにちがいありませんね。おかげでこっちはちっとばかりのお酒が醒めてしまった。ハッハッハ。
 この醒めたところで引き続き、もうちょっとばかり残っている身の上話のほうを申し上げてしまいましょう。
 さんざ世のなかを怨んで怨んで怨みぬいたあと、じゃなんだっていったい、私はこう売れないんだろう。そこンところを、よくよウく、胸へ手をあてて考えてみました。
 そうしたらこの理屈はすぐにわかってきた。つまりそのいくら仲間にほめられても、とどのつまりはお客さまがよろこんでくださらないからだ。そもそも席亭というものはお客さま次第、お客さまさえよろこんでくだされば南瓜かぼちゃ唐茄子とうなすが南京だろうとすぐにオイソレと門を開いて入れてくれるものだ。こう答案がでてきたのです。では、いったいどうしたらお客さまによろこんでもらえるだろう俺は。というよりもいったい全体どこがお客さまにすこしもよろこんでいただけない、いけないところだろう。
 ものは考えてみるものですね。考えて考えて考えぬいてみるものですね。天は自ら助くるものを助く。どうしたらよろこんでもらえるかと考える先に、どこがよろこんでもらえないのか、そう気がついたところに、蓮の花がひらくよう、パチンと音立てて私の心の花はひらいてきました。
 陰気だったんだ、私の芸は。もともと、口調がムズムズと重いそのうえに、暮らし向きのいけないこともそれへ輪をかけて私の高座を暗いジメジメしたものにし、ずいぶん理に積んでいて陰気至極だったんだ。
 それだけに脇の下をくすぐって無理にお客さまを笑わすようなケレンは露いささかかももちあわせていなかったから、師匠燕枝はじめ、死んだ燕路さん、年枝さん、鶴枝さんたちはみんながみんな、それケレンのない、一応、本筋だというところを、わずかにほめていてくれたんだろうが、じつにそれ以外のなにものでもまたなかったわけだったんだ。
 しかし、しかし、いくら本筋であるとしても、お客さまは、ことにこうしたこの頃の戦争の最中のお客さまは、一日の疲れを笑いで洗い落として明日は二倍お国のために働きたく、いわばその元気の元を仕入れに寄席へおいでなさるのだから、そのお客さまたちに私のような石橋を叩いて渡るようなただコチコチの、盲縞めくらじまみたような陰気な芸はおよそ御迷惑だったろう。
 とすると仲間のほめるのもうそでなければ、だのにお客さまのよろこんでくださらない、したがって人気の立たないということもまた、あまりにもほんとうの話だろう。ああ、かくては誰を怨むせきがあるだろうか。
 初めてこう悟ると、とたんにまたひとつ私は芋づる式に悟りましたね、そうだいままでの私はくさい芸はいけない、ケレンは慎もう、ひたすら、そればかり考えすぎたあげくが、本筋の芸はただ几帳面な味ももないパサパサのものでいいのだと思い込んでしまっていた。いけない。それではいけない。悪くすぐりでなく、品好く、本筋であるうえに、もうひとつふるいつきたいほどその味が美味おいしいのでなければ……。では、どうしたらその味が出るか、本筋なうえに面白おかしい味が出て、皆さんによろこんでいただくことができるか。
 その答えとして、私はさしあたり次のようないろいろのことを思いつくようになりました。
 それはまず人にはみなそれぞれのいい、悪い、いろいろさまざまの特長がある。私たち落語家にしても舌の長い人もあれば、短い人もあり、人それぞれで調子ひとつがみなちがう、そのそれぞれの長所短所をうまく活かして、ついには短所までも長所に変えてしまうべきだろう。いくらこれが本筋だと信じてやっていても、それが自分の柄や舌の調子にあわなければうまくはできず、したがってお客さまにはちっともよろこびを与えないわけになる。
 さてそうなるとつまるところ自分は自分の姿を土台にして、そこから花を咲かせたり、実を実らせたりするよりない。むやみに他人様の邸の桜の枝を折ったりすれば、叱られるのが当たり前。しょせんが「芸」とは自分で自分のなかから自分の宝を発見していくよりないのだ。このようなことを考えたのです。
 そうするとまたすぐ次の問題がたちまちここに生じてきました。では、この自分にはいったい、どんな特色があるのだろう――って。これは考えぬいてみたあげくが、まずまず次の三つだろうということになってきましたね。
 まずひとつは、咽喉のど。音曲です。なにしろなにがなんでも常磐津家寿太夫。常磐津は当然至極として、そのほかの小唄端唄はうた、まず自分で言ってはおかしいが、駆け出しの音曲師は敵ではないほど歌えるということです。
 あとの二つの特色はいずれもいいほうじゃなく、むしろいけないほうでしょうが、落語家には珍しくぶッきら棒で、口が重い。さらにもうひとつ、そのくせ、バカにそそっかしい。まあ、これだけです。さてこの三つをことごとく長所にしてしまおうとしくも覚悟を定めてしまったことなのです。
 ほんとうにいままで自分はおろかで、教わった原本にないからとて、どの噺のなかでもいっぺんも歌うことなしにきていました。これはとんでもない宝の持ち腐れ。さっそく、それからは「天災」でも「千早振る」でも「小言幸兵衛」でも「替り目」でも、なかの八さんに、熊さんに酔っ払いに、ときとして大家さんに、隠居さんに、急所急所で常磐津のひとくさり、端唄のひとくさりを唸らせることにしました。果たしてたいへん噺が明るくなってきて、唄のところでは喝采さえあり、前後が水際みずぎわ立って光ってきました。
 重たい口調を活かすためには、主人公の八さんや熊さんをそっくり自分の通りのモズモズしていてしかもまぬけな男にし、あくまでモズモズとしたおかしみで押し通しました。たいていほかの人たちの八さん熊さんは頭のてっぺんから声を出し、ベラベラベラベラとんちんかんなことをまくし立てるのばかりだったもので、このいき方はたいそう型変わりだとてお客さまにめずらしがられ、これもすっかり受けました。「猫久ねこきゅう」「水屋の富」「笠碁かさご」「碁泥ごどろ」「転失気てんしき」、みなこの呼吸の男を出して、よろこばれだしました。
 そそっかしい一面の自分のほうは、「堀の内」「粗忽そこつ長屋」「粗忽の釘」のなかでみんなそっくり地でいきました。自分にはわかりませんが、なにしろほんとうに私がそそっかしいため、ただ単に噺でおぼえたほかの人の粗忽噺とはどこかちがったほんとうらしいところがあるらしく、これもことごとくよろこばれました。
 なにより音曲とモソモソした八さん熊さんと地でいくそそっかし屋と、これだけでこの間のうちまでとは比べものにならないくらい私の噺は明るくおかしく華やかになってきました。もうこれで戦争最中の、寄席へ疲れを休めにおいでなさるお客さまたちにも、どうやら立派にお慰めができるようになってきたのでしょう、なによりの証拠に私が高座へ上がっていくとパチパチと迎い手が鳴り、どうかすると「待ってました」とうそにも声のかかるようにさえなってきました。こうなると皆のことを怨みに怨んでいた昨日までのことが、うそのようです。いま初めて私は私の心のなかに夜明けのとりが東天紅とときを告げているのがまざまざと感じられてきました。
 さて、毎度、口のっぱくなるほど申し上げておりますが、芸人はまず芸です。まず自分の芸ができて、それからおのずと人気が出てくるのです。あせってくだらなく名を売りたがったり、むやみに昔の大看板の名をいでみたとて、世間は案外に甘くなく、そんなことで売り出せるものじゃありません。実力――やっぱり実力です。そうしてそのほかにはなにもないといっていいでしょう。もっともあまり人間の悪いやつはただうまいだけでも売り出せませんが、ね。つまりこりゃ軍人さんだって花も実もあるおひとでなければ、まことの軍人とはいわれない、強いばかりが武士じゃないと下世話によくいうあれと同じでしょう。同時にこのまず自分の「芸」ができてから、ひとりでに人気が出てくるというやつは、これも戦争で申そうなら、私どもにはよくはわかりませんが、いくらいい大砲や鉄砲や軍艦があってもまずそれをつかうお方の心持ちが、ほんとのお侍らしい侍でなけりゃ、しょせんは勝たない、ちょうどそれと同じ理合でしょう。今度の戦争にしたってそうです。国の小さいこの日本がこんなに勝ってこんなに人気の出たというのも、それそこが日本にはまずいい魂をお持ちの軍人さんが先へすっかり揃ってでき上がってしまっていたからですよ。だから大国を相手にしていい軍艦や大砲を向こうにまわしても、こんなめざましい勝負ができたというわけなんですよ。ねえ、あなた、それにちがいないじゃござんせんか。
 またちょいとお話が余談にわたりましたね。
 ちょうど私がそのようにそろそろお客さまによろこばれだしたら、とたんに禽語楼小さん師匠からうちの師匠へお話があって、あんな歌太郎なんてつまらない名前をいつまでもつけておいちゃかわいそうだからなんでも俺の弟子にくれ、そうして小三治こさんじがせたいからとここで師匠燕枝承諾のうえで、あらためて禽語楼小さん師匠の門人となり、柳家小三治を名のりました。すると小三治になってまもなく、その頃の夜席はひと晩十人くらいしか出ませんで、したがってひとりが三十分くらいずつ演ったものなのですが、ある晩、人形町の末広で文楽に、前、申し上げた人の次の燕路、それに木やりの勝次郎がまだ梅枝で、この三人が続けて休席ぬきました。こうなるとこの三人分、それに自分の分を合わせて、どうざっと演っても二時間足らずは一人でしゃべらなければなりません。あなたの前だが、落とし噺で二時間なんてのはありませんよ。強いて延ばしてやるとすれば、アーアーと途中であくびをくって味噌をつけるくらいが関の山でさあ。で、その晩の私は充分にまくらをふってこれが三十分、それから「子別れ」の上、中と演ってこれが一時間、まだ下へ入れば二十分や三十分あるのはわかっていますがそうまで永く演って御退屈をかけてしまってはなんにもならない。で、なかでワザとやめてしまって、アトはガラリ陽気に音曲を二十分。どうやらここで下りろの声も聞かないうちに、いい塩梅に後の人がやってきたので楽屋へ下りてまいりました。するとどうでしょう、いまの末広のお婆さん、御承知のたいそうやかましいお婆さんなんですが、あのお婆さんが世にもニコニコしながら御苦労さま御苦労さまとなんべんも私に言って特別に骨折り賃だと大きな紙包みをくれました。銀貨のすくないその時分に私の大切にしていた銀貨だがと言って五十銭銀貨一枚、しかもその包み紙には「大三治さんへ」と書いてあるのです。なんですこの大三治さんへてのはとたずねますと、お前さんは小三治どころじゃない、いまに出世をして大三治だろうとこう言ってくれ、しかもそれからはこの東京で指折りの末広亭が年に十二本柳派をかけるのですが、そのたんびに必ず私をつかってくれ、したがってだんだん私は暮らし向きも楽になってまいりました。そうして明治二十八年一月、そうちょうど日清戦争の連戦連勝というときで、ですから今夜のような晩にはいっそう私は思い出されてならないのですが、これも名高い日本橋の木原店きはらだなの寄席で私に三月、真打とりをとらせてくれるという話がふって湧きました。そのうえ、昔の師匠燕枝と新石町の立花亭のあるじが仲へ入ってくれまして、思いもかけない小さんの名前を、いまの師匠からもらってきてくださいました。師匠小さんはあなたも御承知のベラベラまくし立てる流弁快弁の人だったので、松本順先生がまるで小鳥がさえずっているようだとて禽語楼の亭号を考えてくだすったのですが、私は反対のムッムッとしたしゃべり口ですから柳家小さんと相成りました。ついでに、あばたづらで音曲の巧く人情噺の達人だった初代小さんは、これは春風亭小さんだったのでございます。重ねて申し上げますが、なににしても芸人はまず芸のこと、そうすりゃ人気なんてあなた、百里の道を遠しとせず、後から汗だくで追い駆けてくっついてきますよ。
 三月、いよいよ日清講和談判というめでたいときに私もめでたく三代目小さんの看板を上げました。このときに魚河岸の今津、櫛田といったような頭立った方々が縮緬ちりめんの幕をこしらえてやるとおっしゃるから、それはいけません、私は貧乏ですからしじゅうほうぼうの寄席へその幕を掛けとおすことができず、ついその幕を米屋の払いやなにかにしてしまったりするといけませんからと、こう正直に申しましたら、芸人には珍しい正直者だとかえってそれが気に入られ、魚がしという木綿のうしろ幕、それにヒゴ骨の提灯を毎晩お客さまへ景物に出してくださいました。これでいよいよ人気が立って毎晩の大入、あとの寄席もどこもかしこも大入続きで、どうやら小さんの名前を汚すことなく、おかげで今日まで参りました。でも雀百まで踊り忘れずとはこのことでしょう。そそっかし屋だけは一生直りそうもありませんでね、その木原店へ初看板を上げたときもです、縁起を祝って諏訪町の新建ちの家へ引越したのですが、銭湯の帰りに御近所へ配る引越しそばをあつらえてきてくれと神さんにたのまれ、手拭片手にブラリ家を出たのはいいのですがお湯の帰りにうっかりお隣の家へ入って上がり込んでしまった。真っ赤になってあやまってほうほうの体でそこをとびだすと今度はまたその隣の家の格子戸を開けかけたりして三度めにやっと自分の家へ帰ってきたのですが、とたんに隣の神さんが私の忘れてきた煙草入れと履きちがえてきた下駄を取り替えにきた。そのうえ、かんじんの引越しそばをあつらえるのは忘れてきたというに至っては、われながら、愛想も小想こそも尽き果ててしまいましたよ。もうこの分じゃ一生涯この粗忽は直りそうもありませんから、せめてはこのうえはその分だけ高座で演る「粗忽長屋」や「粗忽の釘」、さては「堀の内」をせいぜい巧く演って埋め合わせるよりほかに手はないと思っていますね。
 小さんの真打の看板を上げるまでの一席、この辺でおあとと交替させてください。ハッハッハッハッ。





底本:「圓太郎馬車 正岡容寄席小説集」河出文庫、河出書房新社
   2007(平成19)年8月20日初版発行
底本の親本:「寄席恋慕帖」日本古書センター
   1971(昭和46)年12月刊
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年12月10日作成
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