山の手歳事記

正岡容




猿飴


猿飴の猿に湯島の時雨かな
綺堂
 古風な彩色を施し市井芸術としての匂ひいと高い昔ながらの木づくりの猿の看板をかかげて本郷湯島の猿飴は、昭和十八年の末ちかくまで本郷三丁目から湯島天神祠へ至る南側の電車通りに、辛くも伝来の営業をつゞけてゐたが已にその舗のたゞずまひは安価低調なバラック同様の和洋折衷館となつてゐて、伝統猿飴の美しき陰影をつたへる何物とても最早なかつた。お成道の元祖と銘打つ黒焼舗は亥の年の地震にもまた今次の兵火にも焼かれたに、生変り/\建造するところの見世構へはいつも必らず『江戸名所図会』の挿絵をおもはせる風雅のもの許りである。それに比べて猿飴のこの安普請はいつそ情なく浅間しい。大正中世亡伊藤痴遊編輯当時の雑誌「講談落語界」の雑録は、黙阿弥が士族の商法のモデルとしたかの筆屋幸兵衛の一家がこの横丁に貧居を構へ、屡々猿飴へも飴を貰ひに来たと記録してゐたが、恐らくや当代の猿飴主人は、かうした明治市井文化の一断片としてのわが家の尊い存在をさら/\知るところなく、空しくあの猿の古看板を死蔵してゐたものにちがひない。

五分珠のお藤


 その猿飴の筋向ふの俚俗からたち寺――麟祥院を、世の貴紳の多くは烈女春日局の菩提所として記憶してゐよう。然るに極めて懶惰無頼なる市井の一文人たる私は明治初世の持凶器強盗清水定吉がのちにその情人たりし五分珠のお藤との最初の出会の舞台面としてのみ、専らここの卵塔場をば興趣深いものにおぼえてゐる。お藤は巷間の悪婆であつて、連夜、太棹の流しを試みては歩行してゐるをんな。偶々此も按摩姿に浮世を忍んで流してゐる定吉に呼留められて肝胆相照らすのであつた。
 この件り、関東節では亡小金井太郎が十八番とし、当代の玉川勝太郎も亦わかき日は好んで語つた。共に故人戸川盛水を宗としてゐる。しかしながら同じく、清水定吉伝を得意としてゐた先代木村重正からは、この一席はつひに聴く機会を持たなかつた。重正語るところの一節にも湯島界隈の牛肉店へ定吉の忍入らうとする物語があつたことをおもへば、或はその凶行の手引にはお藤が関与してゐたものかもしれない。
 講談ではけむジウと仇名された畸人の老前座松林円盛が伯円種として此を読み、当代の神田五山七世貞山それ/″\この怪盗伝をば手がけると聞くが、此又、五分珠お藤の登場はあるや否や、そのうち両君に質して見よう。あはれ姥桜、残んのいろ香艶に婉なる三十女お藤がかぐはしき体臭よ。癇癪持らしい色白面長のその※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみには頭痛膏の江戸桜が小さく切つて貼られてゐよう。

豊国の庭


 昭和十六年晩秋の一夕私は北条秀司君に招かれて、この開化味感溢るゝ楼上に酔語した。北条君は珍しく酔つて、同君がそのころ悶々してゐた悲恋に付いて談るところがあつた。深々と繁茂した植込及び奥山を隔てて遠く池の端根津方面を眺望するこの庭園の景観はすべて昭和現代の東京に鏡花が「通夜物語」、鴎外が「雁」の時代文化を遺存してゐる唯一の尊い生形見であつた。
 その夜、私共は辞するに際して、珍しくもその折入口ちかく掲げられてゐる開業当時の暖簾を一見させて貰つた。保存よろしきを得たその大暖簾は濃い柿染の殆んどいろ褪するところもなく、しかも太文字白抜きに「官許牛肉」の四文字が余りにも如実にありし日のさんぎり文明のあり方を語つてゐた。
 あの庭は、もちろん今日ない。暖簾もあるまい。

若竹亭


 本郷一丁目にあつた名題の寄席若竹亭の庭に付いては、私は後掲「寄席の庭」と云ふ随筆中に談つた。その往年の若竹亭の老主人が寄席開業幾春秋の秘話綺談を特に私に手記しておいて貰ひ度いと愛息たる彫像家某氏をして長文懇切の書状を寄せられたが、間もなく世は日々に非に私は戦火にさへ追はれてその機会なく過してゐるうち、たしか終戦時の歳晩この老席亭は甲州の疎開地に於て、長逝されたと云ふことを新聞紙上の死亡広告で発見して私は頗る暗然悵然とした。明治大正二代にわたる寄席文化史の幾百頁かを、空しく私は悠久の絶版たらしめてしまつたからである、しかも唯一回の上木を見ることとてなしに。
 此も昭和初頭夭折し、同じくいまは身辺にない洛陽感傷の市井詩人宮島貞丈が「若竹亭」と題する一詩を左に掲げて、主人が霊にさゝげることとしよう。この詩、題の傍ら六号活字で「食後の軽い胸さはぎ、夏の夜空、今夜も若竹の濡れた敷石を踏んで来れば……」と心憎いほど気の利いた文字が杢太郎もどきに添えられてゐる。

黒骨の葭戸の高座に
明るくおでこの照る「三遊亭円右」の
静かな人情話はなしが流れる。

白い瓦斯の灯の下に
ひつそりと夏の客は集る。

きれる宵を庭向ふの家で
忍びやかに糸の音が聴える。

縁に近い座席には
昼間掘返された垣根の土が
仄かに匂ひ漂つてくる。

太々餅


 芝神明の太々餅だいだいもちのラヂウム温泉が設けられて、はる/″\下町から私は亡祖父と大叔母とに連れられて半日の湯治に来たことがある。大正改元のころであつたらう。「今戸心中」や永井先生の「冬の蠅」にでて来るやうな明治中世東京各地に散在したかの連込み専門の温泉旅館と同じ仕組みのものではなかつたらしいが、今日にして一種東京人のさゝやかな遊楽場であつたことは確かである。
 交通不便の故もあつたらうが、何より往昔の東京民族はほんの身近の起臥の中にもこのやうに普ねく生活を愉しむすべをよく弁へてはゐたのである。例ふれば窓辺に稗蒔ひえまき、軒端へは釣忍、また鮑ツ貝に虎耳草ゆきのしたの花白きをかゝげては愛づるがごとくに。

品川の海


 長谷川時雨女史は嘗て品川の所謂ステンショが波打ち際に建てられてゐて夏の明方など旅客は列車からヒラリ飛下り必らず白浪にその足を快く洗はれたものと誌してゐられた。蓋し今日の人々にこの光景の聯想は困難であらう。
 私は幼少の砌り芝庚申堂前に知合の家があつてそこへ伴つて行かれるたび、庭のすぐ向ふに寄せては返す汀を見た。やがておびたゞしい黒煙を吐きつゝ、そこを汽車が疾駆して行くのを見た。たしか小林清親にはこの景情と殆んど同一の版画があり、のちに木下杢太郎氏をしてあの清親ゑがく列車中には「佳人の奇遇」の女主人公が乗込んでゐたらうと云はしめた。
 この光景も亦現代人は実感しまい。

お台場


 戦後、すみだ川往来の蒸汽船が復活されると聞く。盛夏に限つて永代橋、お台場を快走してゐたモーター船もやがて再開す可きであらう。
 七砲台辺高く低く群れ飛ぶ鴎、落花の風にひるがへるに似たりと明治の新体詩人大和田建樹が讃嘆したお台場ちかくにはうろ/\舟が幾艘となく泛んでゐて、氷、西瓜、ラムネの類ひをひさいでゐたし、お台場へ上がれば厩のやうな武器庫跡に快く冷えた麦酒の一杯が私を待受けてゐて呉れた。その辺り一帯はまたねむの大樹がいと多く涼風裡に美しく葉裏をひるがへしては常に遊客の目を喜ばせた。しかも島に遊ぶこと一時間余り余りにも颯々とまともに安房上総から吹付けて来る涼風のため私は肌に粟をさへ生じて来て慌てゝかへりの舟へ乗込むことが屡々であつた。
 ※(歌記号、1-3-28)死んでしまほかお台場へ行こか、死ぬにやましだよ土かつぎ――幕末騒乱の日、江戸陋巷の窮民をして泣の涙で築造せしめたこの離れ小島は、かくしてその百年後には東京平和の遊民が灼熱時の楽園と変化した。戦後生残りの私たちがこの天国の〔出〕現にめぐり遭ふのは、そもいつの日のことであらう。(稿後一年、お台場に夢の島生れ、大伝馬の遊覧船がいまや涼しく大川を往来しだしてゐることを追記しよう)

八つ山下


 嘗ての高輪の町の美しさは、広重ゑがく牛町のあの巨大な車の縦絵に尽きるであらう。画面一ぱいに大きな車輪を描いたその手際も広重には珍しく大胆でありその車輪の彼方に展開される品川の海と雨後の虹と砂地に喰べ棄てた西瓜の紅と草鞋の黄と犬ころの白茶いろとの極めて巧緻な色調と構図とは広重画中に於ても屈指の絶品なのではあるまいか、その高輪八つ山下〔を〕背景にした世話だんまりが黙阿弥では「龍三舛高根雲霧りょうとみますたかねのくもきり」、その門人其水では「神明恵和合取組かみのめぐみわごうのとりくみ」と二種類ある。

「本舞台向ふ黒幕、通しの波手摺なみてすり、下手に葭簀張りの出茶屋、畳みたる道具、床几二脚程重ねあり、前側葭簀立廻しあり、此の側に永代両国乗合船の立札、側に船板の崩れ、櫂の折れなど積みあり、上の方松の立木、同じく釣枝、総て八つ山下、夜の模様」

が黙阿弥の「因果小僧」八つ山下の道具立てで文久元年の作。

「本舞台うしろ高輪の海を見たる夜更の遠見、裾通り雁木の柵の頭を見せ、よき所に永代両国出船と記したる立札あり、上の方たゝんである茶店、下の方に石置場、柳の立木などよろしく、すべて八つ山下、海岸夜明前の体、爰に夜明しの茶飯屋荷をおろし、休み居る」

 此が其水の「め組の喧嘩」の同じく八つ山下の道具立てで、明治廿三年の作である。
 殆んど両者は同様の景色なのであるが、宛ち此は門人の其水が師匠の作品を盗用したともおもはれない。弘化四年生れの彼は、恐らく黙阿弥と殆んど同時代の八つ山下を見てゐてそのとほりに描いたものであらう。め組の喧嘩の実説は文化二年の出来事なのであるが、であるからとて殊更に其水文化年間の品川風景を描く可く苦心したとも考へられない。やはり彼は現実に己の目で見て来た八つ山下の景色で間に合はせておいたにちがひない。同時に権現さま御入国のころと天保年間と云ふのでもないかぎり、伝統正しき当時に於ては八つ山辺りの景色などは文化文政も幕末もさまでの激しい改変は見られなかつたとも云へるかもしれない。いづれにもせよ、両者の作品に見られる「永代両国乗合船」の立札は正しく八つ山下の海辺には累年風雪に曝されて立てられてゐたものなのであらう。現に故神田山陽が演じた「鬼神の於松」(故陵潮種と聞く)では久々に遠国から江戸へでて来た於松が故郷深川へと舞戻る可く品川から、この永代行乗合舟へ乗込むの件りがある。然り而うして此又両者に於て交々見られるところの「畳まれた」茶店には、仇な化粧のをんなたちがゐて、
※(歌記号、1-3-28)八つ山下の茶屋をんな
  寒さを凌ぐ茶碗酒
とかの投げ節の作者の材ともなつたのであらう。さるにても講談「め組の喧嘩」の終席を聴けばかくまで大事を惹起した下手人を突如鳴渡つた半鐘ゆゑであるとして、その半鐘を八丈だか三宅だかへと流罪にしてゐる。現代日本の司法官諸君にしてかうした裁断を大真面目にやつてのける才人が現れ、天下万民また此に万雷の拍手をおくる時代の訪れたとき、私ははじめて日本も亦文化国家として完成し得たと乾杯しよう。市役所の小役人が戸籍謄本の括弧一つの脱落に目鯨立て、有料演芸会開催に物価庁へ提出の同一届書が幾通も/\必要とされる繁文縟礼の現下日本で、民主国家文化国家もとんだ片腹痛い。されば現代の川柳子には、「お隣りは税官の家鏡餅」。

偏奇館拝見


 年来鳴りひゞいた訪客嫌ひの、所詮現世拝眉のほどは叶ふまいと決意した昭和十九年七月廿七日、炎天下を私はせめても永井荷風先生邸を外見丈けでもしておき度く、私かに麻布市兵衛町へと伺候した。当時の日記には左のごとく記述されてゐる。

「(前略)六本木にて下車、市兵衛町一ノ六に始めて永井先生偏奇館を垣間見る。谷間のやうなる坂下の一角にて、白木板戸の門。「冬の蠅」にかゝれし枇杷の木のほか、紅き花持ちし夾竹桃塀外より見ゆ。秘かに顔押当てゝ門内を覗けば百合の花朱し。正面、霙いろの洋館はカーテンところ/″\烈しく裂けるすさまじき許り。尤も帰宅後家人に此を質せばカーテンの烈しく裂けしは偏に日当り好きための由。遮莫、このカーテンの大破のため館の景情頓に荒涼、そゞろポーがアッシャ館の一齣をさへ想起せりけり、こゝに御一人にての御生活はさぞやお寥しきことならむとおもひつゝ暮刻戻る(下略)」

 でも、世の中のことは明日が分らない。昭和廿一年晩夏八月十一日葛飾の新屋に突如永井先生の御来訪を迎へ、全くに私は荊妻と共に驚喜随喜した。
 爾来一年。
 が、しかし、あへて、あへて私は云はう。
 幸ひにして現世一とたびなりと先生の辱知は得たが、麻布偏奇館は私が垣間見てより僅々八ヶ月の後、即ち翌廿年三月九日夜の戦火に焼亡してしまつた。
 やはり私はその外景に接しておいて、いいことをした。
(昭和丁亥七月稿)





底本:「東京恋慕帖」ちくま学芸文庫、筑摩書房
   2004(平成16)年10月10日第1刷発行
底本の親本:「東京恋慕帖」好江書房
   1948(昭和23)年12月20日
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:酒井和郎
2016年3月4日作成
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