昨夏四十有余枚書きだした『圓朝』はあまりにも伝記の
擒となってしまっていたため、こころに満ち足らわず、ハタと挫折したまま八月九月十月十一月と
徒らな月日が立っていってしまった。十一月末日、修善寺へ。そこの湯宿の一室にして、年少の日の圓朝が切磋琢磨の修業の上に自分自身を見出したことによって初めて私は、豁然と音立てて心の壁の崩れ落ちるものを感じた。間もなく今度は一気呵成に書き上げてしまうことができた。
でもその日のくるまで、どれほど輾転、反側したことだろう、私は。
こうしたいらいらしていた私の明け暮れを、古川
緑波、高篤三の二友がそれぞれの時と所で心から慰め励ましてくれたしみじみとした友情を忘れられない。古川君は警戒管制で厚く戸を閉め切った有楽座九月興行の楽屋で、そうして高君は銀座某百貨店の屋上ちかくジョッキを呷りながらのことだった。
さるにても圓朝三十歳、明治御一新に際会するところまでで、ひとまず私はこの小説を終らねばならなくなった。後半生のくさぐさについてはひと息吐く暇もなく引き続いて
筆硯を新に、書き上げたい心算である。
さるにても私が「圓朝花火」なる短篇を仕上げ、谷中全生庵なる圓朝の墓へ御礼詣りにいったとき、たまたまそれが八月十一日祥月命日で、本堂からは圓朝の名跡を預かっていられる大根河岸三周さん(藤浦富太郎氏)営まれる法事の読経の声、いと厳かに聞こえてきていたということはかつて短篇集『狐祭』の末尾へしたためたが、その前後から月詣りはじめてもう今年で七年の月日が経つ。その間に「慈母観音」「圓太郎馬車」「弟子」とさらに圓朝をめぐる三作を私は得た。
ことに「圓太郎馬車」は巧拙の問題を別に、今日のこうした境涯に私を置いてくれた作品として生涯おもいで深いものとなってのこるだろう。こののちとも私は圓朝門下のいろいろさまざまの人たちを描きつづけていきたいとおもっている。そうして昨春三周さんの藤浦氏にお話し頂いたさまざまの秘材も、後篇においては大半つかわせて頂けることになるだろう。ありがたいことである。
親しく圓朝の話術に接し、ことごとく傾倒されていた故を以て我が江戸文学の恩師川柳久良伎翁には、見事な
題簽を書いていただいた。好箇の記念たらしめたかったからである。また口絵の圓朝像は上野鈴本演芸場喫煙室内に掲げられているもの。『牡丹燈籠』異装本三種は明治大正昭和の絶版文学書を一手に渉猟販布している大森の古書肆植田黄鶴堂君の好意で特に貸与してもらったもの。行燈に圓朝の句を題した見返しある和装本が初版で、左側の序文は「研究」の中でも屡々いった春のやおぼろのそれである。桂文楽君所蔵の圓朝の賀状の宛名人は現下舞踊界の長老花柳壽兵衛翁である。これに拠ると圓朝は没前年、佐久間町に住していたものとおもわれる。これは私には初耳。壽兵衛門下太兵衛君から文楽君へ贈られたものを借りだしてきたのである。そうして撮影は一枚看板を除く総て都下舞踊界舞台撮影を以て第一人者とされている小山写真館主の極めて良心的な製作にかかる。毎時ながらの水島爾保布画伯の芳情とともに、それぞれ御礼を申し上げてやまない。
作者