進化學より見たる哲學

加藤弘之




 井上哲博士が先頃心理學會で「哲學より見たる進化論」と云ふ題にて講演されたとのことで、それが哲學雜誌の第二十五卷第二百八十一號に掲載してある、それを讀で見ると余の意見とは全く反對であるから余は今囘「進化學より見たる哲學」と云ふ題で聊か批評を試みたいと考へたのである、併し余は進化學も哲學も十分に知て居るのではないから井上博士の説を批評する抔いふことは頗る大膽すぎたことで到底物にはなるまいと思ふ、豫め此事を申述て置く。
 ところが博士の講演は隨分長いものであるから一席の演説に、それを委しく批評することは到底出來難い、仍て其要點と思ふ部分に就てのみ論ずる考であるが併しそれにしても又隨分長い演説になるであらうと思はれるのであるから務めて簡略にする考である。尤も博士の論説の大要を始めに擧げて、それから後に余の意見を述べるやうにするよりも先づ博士の論説の中を一節宛切て擧げて毎節に余の批評を加へることにしやうと考へる、そこで博士は先づ左の如く述て居る。
 井上博士曰、余は決して進化論を否定せぬのみならず、それを大に道理ある學説と考て居るのであるが併し惜いことには進化論は唯末の事のみを見て根本的の道理を忘れて居るやうに思はれる點が少なくない、然るに凡そ進化を説くには必ず先づ運動といふことを説かねばならぬ、而して其運動を説くには必ず又其起因となるものがなければならぬのであるけれども、進化學は夫等の事を全く不問に付して少しも研究せぬのであるから其道理から考へると進化論は決して哲理とはならぬのである、進化論では靜的實在から動的現象の始めて生ずることも全く解らぬ、此靜的實在なるものは哲學上種々の名目がある、佛教では眞如實相と云ひスピノーザ氏は本體(Substanz)と云ひカント氏は物如(Ding an sich)といふの類である、けれども進化學者には左樣なものは少しも解らぬから唯々末の研究のみをして居て其本源には一向構はぬのである云々。
 評者曰、宇宙には必ず一の靜的實在なるものがあつて是れは微塵も動かぬものである、實在は不動であるが現象は動である抔と考へるのが抑の大謬見ではなからう乎と余は考へるのである、動靜といふ反對の状態は古來學者に限らず一般に想像することであるけれども余の考ふる所では眞の靜なるものは絶無であつて靜と見えるのは全く動の少ないのではない乎、宇宙萬物皆恆に活動して居るのであらう、其外に唯一の靜なる實在があるとは何分にも考へられぬではない乎、物理學の開けぬ時代には熱の反對に寒なるものがあると考へたのであるが、それは大なる間違で寒と認めるのは全く熱の少ないのであるといふことが解つたのであるが動靜の反對的状態も矢張それと同じことではない乎、併し井上博士は實在は宇宙萬物の一ではない全く宇宙の本源である、それゆへ活動するものではないと言はれる乎も知らぬが其主張の謬つて居ることは後に解るであらう。
 評者又曰、右の理を説くには先づ所謂實在即ち宇宙本體なるものから説き始めねばならぬのであるが井上博士に限らず凡て形而上學者と歟又は唯心哲學者と歟いふ者は宇宙の本源として一種の大心靈を認める、尤も是れは必ずしも人格神の如き人間に類似した本體であるとしないにしても必ず畢竟一種の絶大なる意思を有して居るものとなるのであつて是れが即ち全く靜的實在である、カント氏の如きは人格神を信じたのであるけれどもショッペンハウエル氏の如きは左樣なるものは信ぜぬが併し宇宙の本體は意思であると認めたのであるから是亦矢張大心靈であつて畢竟する所は人格神と同樣矢張不可思議的神秘的超自然的超越的のものになる、一層罵詈的に云へば即ちおバケとなるのである。
 評者又曰井上博士の靜的實在なるものは決して人間らしき神と歟佛と歟でないことは能く解つて居る、或は支那で天と歟上帝と歟いふの類又は佛の眞如實相といふ類である乎も知れぬ、併し兎に角左樣なる實在には必ず大意思大心靈があつて、それが宇宙を支配するといふことになるのである、而して此大意思大心靈の力で以て始めて宇宙に現象が起るといふことになるのである、是れが即ち井上博士の哲理であると考へられる、けれども右の如き大意思大心靈たる實在なるものが始めて宇宙に現象を起すとするならば、其力は非常に大なる動ではあるまい乎、非常に大なる動力があるからこそ始めて宇宙の現象を起し得るのではあるまい乎、兎に角大意思と云ひ大心靈と云ふ言辭の上に明かに大動力の意味を顯して居るではない乎と余は疑ふのである、果して然らば靜的なる意義は如何に解してよき乎、余は甚だ惑ふことである。
 井上博士曰スペンサー氏は所謂「不可知」を説て宇宙の本體なるものは何である乎決して解らぬ、それは哲學の研究すべき領域でないといふやうに説て居るが是は甚だ謬つたことであるけれども併しヘッケル氏に至ては決してそれどころのことではない、靜的實在を全く輕蔑して居る、全く無いものとも言はぬけれども何の用をもなさぬものゝやうに論じて居る、それは左のヘッケル氏の文で解る、[#ここから横組み]Was als ”Ding an sich“ hinter der erkennbaren Erscheinungen steckt, das wissen wir auch heute noch nicht. Aber was geht uns dieses mystische ”Ding an sich“ ※(ダイエレシス付きU小文字)berhaupt an, wenn wir keine Mittel zu seiner Erforschung besitzen, wenn wir nicht einmal klar wissen, ob es existiert oder nicht?[#ここで横組み終わり]ヘッケル氏の個樣なる議論といふものは全く實在を無視して居る、同氏は又宗教をも全く迷信として顧みないのであるが同氏を尊崇する加藤の如きも矢張同樣である、然るに宗教の古來今日迄存在して居るのは宇宙間には到底自然科學で解釋の出來ぬものがあるから、そこで宗教が必要になるのであつてスペンサー氏の如きも「不可知」を立てゝ宗教と科學とを調和することに努めたから多少道理が立つけれどもヘッケル氏に至ては左樣なことさへせぬのである云々。
 評者曰、スペンサー氏は博士の論ぜられる如く宇宙の本體は何である乎、到底自然科學で解るものでないと認めて「不可知」を立てゝ宗教と科學との調和を圖つたのであるけれども此調和といふことに就ては余は甚だ服せぬのであるが併し、それは別問題であるから今は論ぜぬことゝして唯スペンサー氏が宇宙本體の如何は到底不可知であると斷言したことに就ては少しく論じたい、それに就て論ずると余が宇宙本體と認めるものを論ずるに大に便宜を得ることになるからである、スペンサー氏は形而上學者でも又唯心學者でもない、全く經驗學者であるから同氏の不可知論には固より大に取るべき所があるやうに感ぜられる、宇宙本體の性質にも又現象の性質にも今日迄人智で解釋の出來ぬことは夥多あるのであるが併し其中には到底不可解の事と今日未可解の事との別もあるであらう、けれども古代に於けるスピノーザ氏と今日に於けるヘッケル氏等とが宇宙本體と認定したるマテリーとエネルギーとの合一體(Einheit der Materie und Energie)が實に宇宙本體であるに相違ないとするだけのことは決して不都合のないことと余は考へるのである、余が何故左樣に言ふ乎と云へば右マテリーとエネルギーとは始終變化はあつても其物それ自身は全く恆久的(konstant)で絶て生滅のないものであるといふことは近世化學と物理學とで發見されたのである、即ち自然科學の經驗上確證を得たことで決して想像説でも假定説でもないのである、それが果して全く生滅のないものである以上は如何にしても、それを他造物であるとすることの出來ぬのは言ふ迄もないことと思ふ、それゆへ余は此マテリーとエネルギーとの合一體を以て宇宙の本體とすることに就て聊も疑はぬのである、但し此説を抱く學者中に二派があつて一はマテリーを主としてエネルギーを屬とし又一はエネルギーを主としてマテリーを屬とするのであつて甲は即ちホルバフ氏やビユフネル氏の唯物論であり乙はライブニツツ氏やオストワルド氏の Dynamismus 即ち Energetik(唯力論とでも譯すべき乎)であるが然るに此二派を共に非として一に偏せざる中央派とでも稱すべきは即ち所謂 Hylozoismus でスピノーザ氏の説も此意味になるのであらうと思ふがヘッケル氏は確かに此説を取るのである、而して余も亦此派を是認したいと考へる。
 評者又曰若しも此マテリーとエネルギーとの合一體を以て宇宙の本體とせぬときは本體と宇宙とは全く別物となつて宇宙は外物のために支配されることになる、宛かも神のために支配されるのと同じことである、ところがマテリーとエネルギーとの合一體を以て宇宙本體とするときには本體と宇宙とは全く一物となつて本體即ち宇宙、宇宙即ち本體と云ふことになる、其點が即ち自然的と超自然的との分れる所以であると思ふ、猶一寸茲に言はねばならぬことがある、博士はスピノーザ氏の本體を靜的實在の一例に引いたけれどもスピノーザ氏の本體は唯今も述べた如く他學者の實在とは違ひ超自然的でなく全くマテリーとエネルギーとの合一體であるから此點は大に注目せねばならぬことと思ふ、一寸此事を斷つて置く。
 井上博士曰進化論は右の如く宇宙の實在抔には一向頓着なく唯動的現象界の事のみを主旨として研究するのであるから純形式的の眞理に對しては何の解釋も出來ぬ、例へば二と二とが四となり三と三とが六となるといふが如きフォーミュラー抔は是れが如何に進化する乎、又論理の三原則の如きも決して進化するものでない、のみならず進化律それ自身が毫も進化せぬではない乎、凡て靜止的眞理に至ては進化抔いふことはない全く恆久不變である、又空間時間の如き是れが如何に進化する乎を聽きたい、加藤の如きは空間時間抔に就て何の考もないやうである云云。
 評者曰凡そマテリーとエネルギーとは必ず進化するものと余は信ずるのであるが唯進化せぬものは自然法それ自身である、進化律は自然法の一部であるから、それゆへ進化すべきものでないのである、數學的フォーミュラーの如きは是れは全く自然法それ自身である、又論理の三原則の如きも矢張同樣自然法それ自身である、それゆへ固より進化すべきものではないのである、ところが空間時間であるが是れは自然法それ自身とは言へぬけれども併し是れはマテリーでもエネルギーでもない、それゆへ是れは進化せぬのである、進化するのは唯マテリーとエネルギーとのみであるといふことを知らねばならぬ。
 井上博士曰スペンサー氏もヘッケル氏も其他の進化論者も凡て機械主義であるが是れは隨分面白い點もある頗る痛快でもある、此主義では神が宇宙を造つたと歟又は神が宇宙の先き先き迄を見透して人間の運命を定めると歟いふ所謂目的主義を全然破壞するのであつて、それに代へるに自然淘汰性欲淘汰なる主義を以てして生物の生存競爭に依り其勝敗が定まつて乃ち淘汰が出來るといふことを説くのであるから實に痛快である、けれども余は茲に一の疑問がある、凡て進化といふことが全然一の目的なしに絶對機械的に出來るものであらう乎如何といふに、其れは甚だ疑はしい、抑進化なるものが單純から複雜に移り無秩序から秩序に到るといふのであるとすれば此進化なるものが決して偶然の出來事でないことは明かであつて全く法則的に出來るのである、して見るとそこに自然と目的が立つて居るやうに考へられるではない乎、尤も決して神の立てたやうな目的ではないけれども必ず進化の方針が定まつて居るやうに思はれるではない乎、進化は決して亂脈ではない必ず其道筋が定まつて居るに相違ないのである云云。
 評者曰一定不易の法則即ち自然法で以て起る現象が決して盲目的でない偶然的でない、自然力は必ず斯くあるべき因があつて斯くあるべき果が生ずるのであるから、それゆへ宇宙の現象は宛かも初め目的を定めて其目的通りに出來るのと同じやうに見えるには相違ない、けれども初め目的を定めるといふ一の超自然力は絶てないのである、唯宛かも、それがあるのと同じやうな結果になるといふに過ぎぬのであるから、それを目的法であるといふことは決して出來ぬ、矢張因果法とせねばならぬのである、茲に一の比喩を設けて説明して見やうならば古代にあつては地球が太陽を囘ると思つて居る、然るに天文學の開けで、それは大なる謬で反對に地球が太陽を囘るのであるといふことが解つた、けれども此の如き謬つた考も實際には餘り不都合はない、矢張太陽が地球を囘ると見て居ても、それで暦も出來れば又日月蝕も測れるのであるのであるが、學理上因果法であるものを謬て目的法と見て居ても、それは實際上餘り不都合はないのである、けれども、それを學理上から考へれば太陽が地球を囘るといふのと全く同樣なる謬見になるのである。
 井上博士曰スペンサー氏は心理學原論中に超相的實在論(Transfigured Realism)なるものを擧げて其中に人間の身體を外界と内界即ち客觀と主觀との中間にあるものと看做して主觀的作用と客觀的作用とに就て巧みに説て居るが、それを見ると人間の行動に一定の目的がある如く宇宙の作用にも一定の目的のある工合が能く似て居るといふことが解る、尤も左樣なることは先づ兎も角もとしておいた所で尚言はねばならぬことがある、進化論は兎角現象界の表面のみを見るものであるから自然唯客觀的になつて内界の事を忘れる弊が多いのであるが、それではいかぬ、十分主觀的に研究するやうにすれば自然的現象が決して單に機械的でなく大に目的の存して居るものであるといふことが解らねばならぬと思ふ、そこに余は大なる疑があるのである云云。
 評者曰是れは前段の批評で最早盡して居ると思ふけれども併し猶少く論ずるであらう、スペンサー氏の内界外界主觀客觀論も固より多少の道理があらう、又博士が進化論は兎角外界的客觀的研究を主として内界的主觀的研究を怠ると非難する論も多少道理がないとは言へぬ、けれども從來の哲學は殆ど全く外界客觀を怠て唯唯内界主觀をのみ旨として居るのであるから遂に實驗實證といふことを輕視し其結果殆ど荒誕無稽に陷るやうになる、所ろが進化的哲學になると專ら實驗實證に依て研究するのを旨とするから自ら外界的客觀的研究が先きにならねばならぬ、若し左樣なる手續を蹈まねば決して内界的主觀的研究に移る方法手段がないからである、是れは當然已むを得ない手續である、例へば二階三階の模樣を窺はんとするには何としても必ず梯子を登つて行かねば其模樣が委しく解るものでない、是れは實に已むを得ぬ手續である、ところが從來の哲學は決して左樣なる手續を取らず唯下座敷から二階三階を覘て見て勝手な臆測をして居るのであるが余輩自然論者は決して左樣なる危險なことはせぬ、必ず二階三階と順次に登て其實况を目撃しやうと骨折て居るのである、けれども、それは隨分骨の折れることで容易に充分なる成効を見る譯にはゆかぬのである。
 評者又曰右の如く一心一向やつて居る結果として近來は漸次骨折の功が顯はれて來て大分樂になつた、けれども前途猶遼遠で容易なことでない、恐らく幾星霜を經たとても到底全く二階三階に登り切ることは出來ぬかも知れぬ、ところが從來の哲學者になると左樣な心配は少しもない、梯子を登らうと思ふやうなことには氣附かず唯平然下座敷に居て二階三階の事を全く見て來たやうに法螺吹て居るのであるから氣樂なものである、唯法螺で以つて靜的實在だと歟運動だと歟目的法だと歟言つたところで決して信用の出來べきものでない、余輩進化學者は決して左樣な形而上學的認識で以つて滿足することは出來ぬ、今日となつては最早必ず所謂生物學的認識でなければ到底用立つべきものでないと思ふ、ところが從來の哲學者は多くは左樣なことを知らずして唯一心一向内界主觀の臆測のみに骨を折て居るのであるが、それは實に夢を見て居るやうなものである、夢では實に仕樣のない話であると考へる。
 井上博士曰以上論ずるやうに進化論は專ら外界の方からのみ見て居るから其餘儀なき結果として全く機械論に陷るやうになる、凡そ生存競爭は全く力次第である、強いものが勝ち弱いものが負けるといふことであるから其勝敗を神が前以て定めるのではないとするので、それは實に其通りに相違ない、が併し其競爭なるものに就ては先づ以て意思といふものに就て十分考へることが甚だ必要なる條件であると思ふ、例へば二頭の虎が一片の肉を爭ふと假想すると先づ其肉を己れに取らんとする意思が双方に生ぜねばならぬ、決して唯機械的に肉を爭ふのではない、そこで其意思の爭となるのであるが其結果は強弱に依て定まるのである、但し虎の如き動物に就て意思抔といへば少しく高すぎるけれども人間に就て言へば其點は明かである、左樣なる理由であるから生存競爭の裏面には必ず意思がなければならぬ、若しも意思がなかつたならば生存競爭の起るべき道理は決してないのである、余は以前ショッペンハウエル氏の著 Ueber dem Willen in der Natur を讀んだことがあるが其意思論は蓋し佛教や波羅門から來た者であらうと思ふ、兎に角ショッペンハウエル氏以前には萬物發展の淵源を意思に置いた學者は西洋にはなかつたのであるのに同氏は此の如く意思を以て萬物發展の本源とする論を立てた、實に眞理である、ところがダーヰン氏の著 On the Origin of Species には意思論はない、是れは必ず意思論を以て補はねばならぬ、必ず先づ意思論がなくては到底進化論は立たぬのである。
 井上博士又曰く右樣な譯で意思なるものは根本的活力になるのであるのに進化論は其大切なるものを忘れて居るのである、一體吾々の眼耳抔の出來たといふのも全く意思が土臺となつたのではない乎、近頃の生物學者の考では仍ほ未だ眼耳抔の具はらぬ最下等動物は本來表皮(Oberhaut)で見もし聞きもしたのであるに、それが次第に進化發展して特別に眼耳抔の如き機關が出來るようになつたといふことであるがそれは必ず意思の働きに外ならぬことと思ふ、往昔印度の行者に始終手を差上げて居て、それを神に捧げたいと思つたところが其手が後には全く肉が落ち枯木のやうになつてしまつたといふ話があるが是れも全く強い意思の力である、其樣なる譯で意思といふものは必ず生存競爭の活力とならねばならぬものと信ぜざるを得ぬのである云云。
 評者曰博士は生存競爭を説くには必ず先づ意思の事を説かねばならぬ、意思がなければ決して競爭の起るものでないと述て二頭の虎の例を引かれ且つショッペンハウエル氏の如きは其著書に意思なるものが萬物發展の根本活力となる所以を論じたがダーヰン氏の著書には意思の事は少しもない、けれども是れは必ず意思論で補はねばならぬと論ぜられたのであるが意思なるものが生存競爭を惹起する活力であるといふことは無論のことである、全く尤なる論と思ふ、但し意思といへば蓋し高等動物以下には言へぬことで其以下には仍ほ動向(Trieb oder Neigung)と稱せねばならぬと考へるのであるが偖然らば意思と動向とは如何なる相違である乎といふに植物や下等動物にあつて仍ほ無意識的に發動する者と、又人間及び其他の高等動物にあつて多少意識的に發動する者との間には、即ち意識の有無といふ相違があるからである、尤も高等動物にも人間にも意識的發動の外に又無意識發動もあるから、それは無論唯動向と稱せねばならぬのである、右樣なる譯であるから意思なるものはそれは全く動向の進化したものであつて唯特に人間及び其他の高等動物に就てのみ言ふべきものであると思ふ、然るにショッペンハウエル氏の如きは啻に萬物に就て意思を説くのみならず更に宇宙の本源(Weltgrund)を以て直に意思と認めたのである、即ち宇宙それ自身が既に大意思であると認めて居るのである、尤も其大意思は理性を具せざる大意思であるとして居るのである。
 評者又曰此の如く宇宙の本源が假令理性を具せざる大意思であるにしても苟くも既に意思である以上は必ず先づ意識的目的を有して居らねばならぬことになる、前述の如く意思には必ず意識的發動がなければならぬからである、隨つて又宇宙本源が遂に超自然的神秘的大心靈的のものとなるのは當然のことである、博士がショッペンハウエル氏に就いて歎稱せられるのは最も其點にあるのであるけれども余のそれを首肯することの出來ぬのも亦其點にあるのである、又近來米國で頓に盛になつた彼のプラグマチスムスの如きは自然界と精神界とを全く同一視してエネルギーを以て直に意思と認め隨て自然界の現象をも凡て目的的に出來るものとするのであるが是れは甚だ謬つて居ると思ふ、尤も意思がエネルギーであることは無論なれども併しエネルギー即意思といふ樣に言ふことは出來ぬ、意思とはエネルギーの進化發展した部分に限るのは前述の通りである、プラグマチスムスが自然界と精神界とを別世界視せず全く同一世界であるとするのは余輩の最も是認する所であるけれども唯自然界と精神界との間に殆ど進化發展の程度を許さぬのは又余輩の取らざる所である、のみならず此學派は此點に於てショッペンハウエル氏と殆ど一致することになつて遂に宇宙の本源にも大意思なる大心靈を認めることになることになるのであるから此點は余輩の最も服する能はざる所である、但し後席に於ける井上博士の「ショッペンハウエルとジェームス」なる講演には必ず意思に就て右兩氏の一致する所以を説かれることであらうと思ふ、然るに余は宇宙を以て絶對自然的絶對因果的と認めて毫末も宇宙意思(Weltwille)なる超自然的神秘的なる意思を認許せぬからである、けれども余は余の自ら宇宙本體と認める所のマテリーとエネルギーとの合一點にも最先から既に必ず動向が存して居るものと認める、併し意思ではない、猶未だ意思に迄進化して居るものでないから是れは必ず無意識的でなければならぬ、未だ毫も意識的目的を有したものではないのである、然るに一般哲學者は兎角宇宙本體即ち實在を以て終始絶對的高遠完全にして實に言語に絶したるものとするのであるけれども余は宇宙本體を以て最も未進化未發展の状態より漸次に進化發展するもので殆ど其止まる所を知らざる程のものではなからう乎と考へるのである。
 評者又曰余輩がマテリーとエネルギーとの合一體とする所の宇宙本體は全宇宙即ち諸天體に通じて皆同一にして此合一體が諸天體の成立を營むのであるから決して諸天體の上にも又其外にも存在するものではないのであるが此宇宙本體は始め天體成立の際には仍ほ頗る未進化未發展の状態であるけれども、それより絶えず進化發展して遂に又其天體の滅絶に至り消散し更に新天體の成立を營むことになるのである、凡そ此空間には無類の天體が終始交※(二の字点、1-2-22)生滅長消して居るのであるから宇宙本體の變化は無始無終に行はれつつあるも本體それ自身は終始恆存して居るのであると思ふ、而して其變化が自然法即ち因果法に支配されて起る所の現象であると余は信ずるのである、果して然らば此宇宙本體が即ち實在(最も活動的の)にして此外に絶て靜的實在なるものの存すべき道理を發見することは出來ぬのであらうと考へる。
 評者又曰、ところが所謂靜的實在なるものに至つては抑それが如何なるものである乎、全く其の物柄が解らぬ、實に空空寂寂補捉すべからざるものである、果して然らば此靜的實在なるものも亦所謂神と一般遂に化物バケモノたらざるを得ぬことになるのである、形而上學者と余輩自然論者との宇宙觀は此の如く表裏反對であるから到底如何ともする能はぬことであると思ふ、又博士はショッペンハウエル氏は意思を以て萬物發展の淵源としたのに反してダーヰン氏の著書には意思の事を少しも論じて居らぬが意思を不問に付して生存競爭を説くことは甚だ間違つたことであると論じて居る、成程右の著書には意思の事に就て特に論じて居らぬやうである、けれども其論説を翫味して見れば有機體に動向又は意思の存して居て、それが生存競爭の誘因となるといふことは自然に解るのである、又最後の著 The descent of man にも矢張意思に就て特に章條を設けて説いてはないけれども此書の方では猶更意思の必要なことが自ら解るのである、決して動向や意思を忘れて居るとは思はれぬ、又博士が動物に眼耳抔の生じたこと及び印度の行者が手を神に捧げること等のことは全く意思の發動に原因したといふことを述べられたがそれは多少道理のあることと思はれる、それゆへ余は博士が意思を生存競爭上甚だ必要のものとするのを決して非難するのではない、けれども唯博士がショッペンハウエル氏と同樣に宇宙意思なるものを主張するのに就ては大に反對せねばならぬ、余は意思なるものを以て全く動向の進化したもので高等動物及び人間に至て始めて生じたものであるといふ理由を明かにするために右の如く論じて來たのである。
 井上博士曰ウント氏も意思に就て論じてスペンサー氏やヘッケル氏の缺陷を示して居る、ウント氏の説は箇樣である、凡そ生存競爭といふことに就ては二つに分けて見ねばならぬ點がある、其第一は境遇例へば自己の屬する國土、時世、周圍の状態等であるが是れは吾々の意思で以て何とも左右することの出來ぬものである、併し是等の境遇なるものを除けば其他は全く自己の意思で生存競爭が定まる、といふので是れが即ち第二になるのであるが、是れは實に尤なる議論である、日本が清露兩國に打勝つたのも日本人の意思が豫め打勝つべき準備をして居たからである、東郷大將が敵艦を全滅せしめたのも大將に壯大なる意思があつたからである、其樣な譯で意思がなければ競爭に打勝つことは決して出來ぬ、ウント氏は殊にショッペンハウエル氏の影響を受けて右樣な説を立てたのであると思ふ、其他パウルゼン氏も矢張同樣に論じて居る、進化論には必ず意思を加へて研究せねばならぬ、左樣にすれば進化論が大に變化して來る云々。
 評者曰ウント氏も井上博士も皆自由意思論者(蓋し有限的)であるところから自然右樣なる説が一致すると見える、けれども余輩自然論者は人間にも他動物同樣に身心共に自由といふことを微塵も認許することは出來ぬ、人間も他動物から進化したのである以上獨り人間のみに自由意思がある抔いふ道理のあらう筈がない、獨り人間のみには有限的意思がある抔考へるのは大なる謬見である、博士はウント氏を贊して自己の屬する國土、時世並に四圍の状况等の如き凡て自己が關係する境遇の事は吾々の自由意思で以て如何とも左右することは出來ぬけれども其他の事に至ては凡て自由に左右することが出來ると論じ吾邦の對清對露の大勝や東郷大將の露艦全滅抔の例を擧げて説て居るけれども余は甚だ其理由を解することに困む[#「困む」はママ]のである、余輩不自由意思論者は右の如く人間にも身心ともに微塵も自由はないとするのであるから意思の起るのも全く已むを得ざる動機が原因となるのに外ならぬとする、而して其已むを得ざる動機は如何に生ずる乎といふに是れは一には父祖の種々の遺傳と又一には自己が外界の状况(博士が國土、時世、周圍の状態等と言へる類なり)に應化することに依て生ずるのである、それゆへ意思が決して自由に起るものでなきのみならず其意思を産み出す動機も亦同く已むを得ざる理由から生ずるのである。
 評者又曰然るに自由意思論者が意思を自由なるものと考へるのは全く選擇の自由(Wahlfreiheit)といふものがあると信ずるからのことである、物事を考て、かうしやう乎、ああしやう乎、と思ふとき、又やるがよからう乎、やめるがよからう乎と惑ふとき抔に遂に何れに歟決定するやうになると、それを自分が自由に選擇決定したのであるやうに思ふのであるけれども、是れが大なる謬見である、決して自分が自由に選擇決定したのではない、實は自分の精神内に同一時に二個若くは數個の相反對する意思が存して居て、それが先づ互に勝を占めんと競爭するのである、而して其中で強い意思が弱い意思を打負かすので、そこで意思の決定がつくのである、自分が自由に選擇決定するのではなくて意思相互の勝敗で決定が出來るのである、然るに左樣なる理由が解らぬところからして全く自分で自由に選擇決定するもののやうに思ふのであるから實に甚だしき謬見になるのである、其樣なる譯であるから日清日露の兩大戰に吾邦が大勝を得たのも東郷大將が露艦を全滅せしめたのも、それは固より其意思の壯大なるに原因するのであるけれども併し其意思は決して自由に起したのではなく必ず日本人の優勝なる遺傳と境遇應化とから生じた所の動機から出たのであるといふことを知らぬばならぬ[#「知らぬばならぬ」はママ]、尤も此意思不自由論に就ては猶十分論じたいことがあるけれども先づ是れで差措くであらう、是れで大抵は解つたことと思ふ。
 井上博士曰余は猶意思に就て言はねばならぬことがある、是れは心理學に關係したことであるから心理學の方面から疑のある諸君には意見を吐露して貰いたいと思ふのである、意思論に就て一つ解り難いことがある、吾等の生命は先づ生存するといふことを第一として居る、そこで生存して行かねばならぬ、けれども生存して居るから生存の欲望があるのであるが、ところが何故に生存せねばならぬ乎といふと不明になる、何故といふことに對しては必ず不明なものが出て來る、茲に生命の問題なるものが出て來る、青年抔になると煩悶するといふやうなことも隨分ある、又食ふことも同樣である、何故食はねばならぬ乎、ウマいから食ふと云ふであらうけれども尚一つ先きにゆくと何故ウマいものを食はねばならぬ乎、箇樣に段段と押してゆくと仕舞に何等歟必ず殘る、左樣に先きに先きにと押詰めてゆくとしても決して其終點に達することは出來ぬ、ところで、それには必ず何か譯があると思ふ、尚今一つ、それに關聯して居ることがあるが意思に就ては自分の勝手にならぬことがある、即ち前述の自己の境遇のことやら又は人間として自然といふものの爲めに何としても餘儀なくされる、それに就てはハルトマン氏抔は無意識哲學(Philosophie des Unbewu※(ドイツ語エスツェット)ten)の中に叙述して居る、自分では左樣にせずとも、よいと思つても自然と衝動(Drang)が出てやらしてしまふ、又尚一つ自分一身で如何ともすることの出來ぬものがある、それは如何なる譯乎といふに一體意思といふものは動向から出て來る、是は心理學者も大抵左樣に言つて居るのであるが元來意思なるものは感情若くは知識とは違て大に肉體の働が加はつて居るからの譯からである、知でも情でも多少生理的變化を伴つては居るけれども決して意思が生理的關係を持て居る程ではない、意思は肉體が働かねば意思にはならぬ、唯しやうとした丈けでは未だ意思ではない、ところが動向も矢張肉體的活動を伴つて居る、決して單に心理的作用のみでない、それゆへヘルバルト氏の如きは動向は心理的作用といふよりも寧ろ生理的作用といふ方がよいと述て居る。
 井上博士又曰動向は必ず筋肉の活動を伴ふて居る、のみならず必ず目的がある、けれども、それが明確でない、それが明確になれば既に意思になるのである、ところで此動向なるものは抑何である乎といふと哲學的に言へば即ち活動である、宇宙の活動である、宇宙の活動が有機體にあつては欲動(Trieb)となる、而して、それが知情の發展と伴つて遂に意思となる、一寸圖にして見れば此の如くである、即ち  [#ここから横組み]活動――欲動(嚮動)――意思[#ここで横組み終わり]  箇樣になるのであるから宇宙全體の活動が動物にあつては欲動となるが植物にあつては仍ほ嚮動である、けれども高等動物から人間になつては既に意思となる、是れが順序である、盖し宇宙は一大活動力を以て變化を現して居る、其活動の法則が即ち進化律である云云。
 評者曰博士は何故に生存せねばならぬ乎何故に食はねばならぬ乎といふ問題を出し、それより段段と押し詰めてゆくと遂に解らぬものが必ず殘る決して終點迄達することは出來ぬと述べられたのであるが是れは盖し所謂靜的實在の不可解を説かれたのでもあらう乎、換言すれば宇宙の大目的大意思大心靈とも云ふべき終極點を指されたのであらう乎とも考へられるのであるけれども、併し余輩自然論者は決して左樣なる問題を必要とはせぬのである、余輩自然論者は凡そ宇宙の成立から萬物の生滅長消即ち凡百の現象を以て畢竟之を自然力因果力の然らしむる所に歸するものとして毫末も宇宙の大意思大心靈を認めぬのであるから博士の提出せる大問題の如きは全く不問に付して敢て意とせぬのである、自然から生命を受たる吾々人間が此生命を務めて保持せんとするのは其本性である、けれども食はねば餓死するそれゆへ食ふのである、ウマいものを食ふのが生命保全の上に於て愉快であるから食ふのである、併し何故ウマい乎何故愉快である乎といふ道理を究めんとするならば、それは盖し生理學若くは其他の自然科學の問題であつて決して哲學上の問題ではないのである、又博士の例に引かれたハルトマン氏の「無意識の哲理」論中吾々の意思に反する衝動なるものがあつて自ら爲さんとすることをさせず却て好まぬことをさせるやうになる場合があるとの論は尤なことである、是れが即ち余の前に述べた意思不自由の證據になるのである即ち博士の自由意思論とは反對になるのである、それから次に博士の述べられた活動、欲動、嚮動、意思の解釋並に其圖式の如きは大抵異論もないが併し宇宙の活動といふことに就ては博士の考とは大に異なつて居る、博士は先づ宇宙に大活動があつて、それから欲動、嚮動、意思抔が出て來るやうに見られるのであるけれども余の論では宇宙本體たるマテリーとエネルギーとの合一體の最初の活動は猶小なるもので、之れが漸次進化發展して、嚮動、欲動、意思となつて來るのである、更に約述して見れば博士の論では大活動から小活動が出るのであるけれども余の所見では小活動が次第に大活動に進化して來るといふことになるのである、併し茲に一つ笑かしいことがある、博士はショッペンハウエル氏の説を取て宇宙の意思なるものを説かれたのであるのに圖式で見ると意思なるものは高等動物や人間に至て始めて生ずるもので其以前には無いやうにも思はれる、是れは抑如何なる譯であらう乎、甚だ解し難いのである。
 井上博士曰そこで右嚮動、欲動、意思抔いふものは宇宙の活動から出て來るものであつて此活動には必ず一定の方針がある、而して萬物が、それで律せられる人間も同樣である、然るに唯それのみに依て律せられ居るときには未だ個人の自我といふものがない、人間も單に自然界の一部をなして居るのみである、ところが個人の自我といふものの出來るのは唯意思の發達に依るのである、凡そ意思なるものは進で努力するといふことも出來れば又退て制止することも出來る、そこに始めて自我なるものが現れて來る、唯宇宙の活動に依て律せられるのみでは未だ自我はない、唯自然界の一部である、本來自然界の一部であるものが漸次知情の發達に伴つて意思が茲に發展して來たときには自分で自分を制止したり又努力して何事歟を成し遂げたり抔する、それだけの範圍に自我が出來る、それゆゑ自我は實に小なるものであるのみならず其自我が出來て居ても決して自分の思ふ通りになる譯ではない、矢張宇宙の趨勢に制せられる、そこに不可解のものがある、何故左樣なものがある乎といふことは到底個人の地位からは※(「二点しんにょう+向」、第3水準1-92-55)に超絶した大問題である、但し意思と雖一層廣汎なる所から言へば宇宙の活動の制裁の範圍に入らぬことはない、矢張自然の制裁の範圍に入て來るけれども併し少し區別がある、又意思には動機が種々生じて、それが互に競爭するといふやうなこともある、尤是等の事を唯今詳述することは時間が許さぬ云々。
 評者曰博士は嚮動欲動意思は必ず宇宙の活動から出て來るもので、それには又必ず一定の方針があるのであつて萬物はそれに律せられるけれども唯人間のみには、それに律せられぬ力が生じて來た、それが即ち自我なるものである云々と論ぜられたのであるが此點が余輩自然論者の最も首肯の出來ぬことである、前にも述べた如く博士はウント氏等と同く所謂有限的自由意思論者であるから左樣なることを説かれるのであるけれども人間が如何に進化したとて矢張有機體である、此後猶千萬年を經て今より千萬倍の進化を遂げ得るとして見ても猶矢張有機體の域を脱することの出來るものでない、佛教では人間も佛になり得る抔いふけれども假令佛になつたとて矢張人間である、有機體であり人間である者が未來永劫人間以上の超絶意思力を獲得すべき筈がない、但し無機體から有機體が生じた如く千萬年の後に或は人間が有機體以上のものになることがある乎も知れぬと考て見たところで、それでも矢張自然的産物であるに相違ない、果して自然的産物であれば、之れが一に自然法に依て律せられるのは固より言ふ迄もなきことである、ギェーテ氏は萬古不易の眞理を吐露した、吾々は一に萬古不易の金剛大法に支配されて吾々の生存境界を成就することに餘儀なくされて居ると、如何なる哲理も敢て之に敵することは出來ぬと思ふ、して見れば自我抔言つたとても、之れは全く無意義のものに過ぎぬ。
 評者又曰然るに古來哲學者が右の如き大謬見に陷つたといふのには必ず多少の理由が存するのである、人間は他動物の全然自然力に制せられるのと異なつて却て大に自然力を制するが如き趣がある、今日の開化に際して其最も顯著なるものを一二擧示して見れば蒸氣事業電氣事業又は近來の飛行器の計畫の如きに至ては是れは實に人間が全く自然力を制し得るものと見て毫も不都合はないやうに思はれるけれども、それは唯左樣に思はれるのみであつて決して眞に左樣であるのではない、何故乎といふに之れは人間には他動物の未だ獲得せなんだ所の大知識を獲得したために遂に自然法の如何なるもの乎を知ることが出來るようになつて、それで其自然法を自ら利用することを得るに至つたからのことである、して見ると人間が今日の如き開化に迄進で蒸氣電氣又は飛行器の如き大發明をなすに至るのも是れは決して人間が自然を制するのではなくて矢張自然に制せられて居るのである、換言すれば自然法に遵從して以て自然法を利用することを得るやうになつた迄のことである、それゆへ毫末も自然法の束縛を脱して自由に所思を遂げる抔いふことではないのである、其他凡て精神上の事に至ても全く同一樣であつて到底微塵も自由意思のあるべきものではない、果して微塵も自由意思のない以上は又微塵も自我なるもののあるべき筈はない、唯知識に於て他動物に超越しただけのことである、それゆへ矢張唯絶對的自然力の奴隷であると認めねばならぬのである。
 評者又曰ところが博士も亦自我は至て小なるものであつて多くは矢張宇宙の趨勢に制せられて居ると述べて偖そこに不可解の點があるとせられるのであるが是れが博士も亦大に自然力の大なる所以を悟られてあるのである、而して其不可解の點は到底個人の地位からは※(「二点しんにょう+向」、第3水準1-92-55)に超絶して居る問題とせられるのであるが、それは蓋し彼の宇宙の靜的實在なる神變不可思議的大心靈に歸せられるのであらうけれども余輩は決して左樣なことで滿足することは出來ぬ、余輩は出來得る限りは矢張科學的に研究せねばならぬことと信ずる、併し又それ歟と思ふと博士は更に一層廣汎なる所から言へば宇宙の活動の制裁の範圍に入らぬことはないとも言ひ又それとも少し區別があるとも言ひ又意思の動機が互に競爭するとも言ひ種々に言ひ囘はされる所を見ると博士の主義は頗る曖昧となつて殆ど解らぬことになるのである。
 井上博士曰以上段々論じ來つたやうな譯であるから進化論に就ては必ず先づ意思といふものを必要條件として研究せねば十分でない、此意思といふものの側から行くと即ち目的的といふことになる人間も動物も植物も皆目的的に働くのである、人間の道徳の事でも凡て意思が目的的に働くので完全に達するのである、凡て目的なしの行爲といふものは狂者の外にはない、而して其目的は必ず宇宙の活動から出て來るのである、哲學では必ず左樣に論究せねばならぬ、そこが即ち哲學の必要なる所である云々。
 評者曰宇宙の現象が凡て因果的機械的であるは言ふ迄もなけれども、其結果から見ると宛かも既に目的があつて出來たやうに見えるのであるといふことに就ては段々論じ來つた通りであるから最早繰返すにも及ぶまいと考へるのであるが併し高等動物及び人間に至ては意識上明かに目的がある、是れは目的と稱して不都合はない、けれども是れとても實は自個の自由なる意思で自由に目的を立てるのでは決してない、意思が必ず因果的機械的に出て來るにも拘はらず、それが意識的であるから其目指す點が明瞭になつて居る、それで、それを目的的と稱してもよいのである、けれども矢張全く因果的機械的に出て來る目的で決して吾々が自由に立て得る目的でないことは言ふ迄もないのである。
 評者又曰偖是れにて批評は大略結了したと思ふのであるが之を要するに博士の意は進化論に於て最も必要條件として居るものは生存競爭といふことであるけれども生存競爭なるものは抑末の事であつて生存競爭を説くには先づ宇宙の靜的實在から宇宙の大活動又宇宙の意思の如き大本源に溯て研究せねばならぬことであるのに進化論者は左樣なることは凡て全く不問に付して居るのであるから進化論は到底哲理となるものではないといふのである、然るに余輩自然論者から見ると抑宇宙の靜的實在なるものは到底信憑すべき實證の存するものでない、又宇宙の大活動宇宙の大意思なるものも同樣全く臆測に外ならぬもので概して不可思議的神秘的超自然的バケ物的の力を想像するに過ぎぬ、然るに宇宙は決して左樣なものでない、却て絶對自然的に絶對因果的にマテリーとエネルギーとの合一體の進化發展であるから宇宙の現象は一に進化の理に依て研究するにあらざれば到底眞理に到達することは出來ぬと斷定するのである、約述すれば將來の哲學は必ず進化學的でなければならぬとするのである。
 評者又曰ところが先頃來所謂千里眼なるものが透覺をなしたことに就て諸學者間にも種々の説が出て其中でも井上博士の如きは右は到底哲學若くは宗教的問題であつて自然科學抔で研究の出來るものでないと言はれたやうに聞くのである、若し果して左樣であれば博士の主張される不可思議的なる神秘的なる超自然的なる大意思大心靈若くは靜的實在の領域に入り込んで研究せねばならぬ譯であるけれども余は何分にも、それに服することが出來ぬ、尤も余とても何の考もつかぬのであるけれども右等の頗る罕れなる珍現象は或は所謂(Atavismen)(余は譯字を知らねども再現又は復現と譯してよからん)の類で人間の祖先なる動物時代に於ける視覺の復現したのであるまい乎と臆測するのであるが是れは全く臆測に止まるのであるから決して主張するのではないけれども併し兎に角此の如きことは決して人間界に就てのみ研究すべきものでなくて必ず動物界に迄研究を及ぼさねば到底解らぬことではなからう乎と考へるのであるから序ながら一寸述て置く、偖非常に長談議となつたことであるに井上博士を始め諸君の清聽を辱くしたのは余の榮譽とする所である。
(明治四十三年十一月「哲學雜誌」第二八五號)





底本:「明治文學全集 80 明治哲學思想集」筑摩書房
   1974(昭和49)年6月15日初版第1刷發行
   1989(平成元)年2月20日初版第5刷發行
初出:「哲學雜誌 第二十五卷第二八五號」
   1910(明治43)年11月
入力:岩澤秀紀
校正:川山隆
2008年5月20日作成
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