佐渡が島から

江南文三




 八月の末に僅か二週間島を離れた爲に時の觀念が一時全然破壞されてしまつたやうでした。島のそとの二週間が一個月に相當したからか、島へ歸つてからの一個月が二個月に相當したからか、九月の終までもう來月は十一月だなと思つて居りました。それほど島は單調で退屈なのです。
 八月の中旬に佐渡を出た頃は、それまでは火のやうに赤かつた光線が、刄のやうに白く眼を射てゐました。それが下旬に歸つたときには既に快いコバルト色に變つて居りました。樹の葉の緑は立つとき其儘の緑ですが、立つ日までに無かつたつめたさが大氣の中に漂つて居ました。霜のない島では樹の葉の色づくのを待たずに秋氣が既に人の脊に立つて居るのです。二週間前までは豫想も出來なかつた秋が音も立てずに來て青い空氣のなかにエエテルのやうに立つて日中の幽靈のやうに私を怯やかしました。光線はそれから段段と弱つて來ました。山は段段と緑から黄。黄から紫、紫から赤と變化して來ました。海の色は段段と褪せて來ました。段段と浪が荒れて來ました。
 九月二十三日に山へ登つた時、既に幾分か黄ばんだ葉を片側に付けた樹が見えてゐました。變化に乏しかつた代赭色の土は美しい黄や紅や紫を含んで居りました。最早山は海よりも遙に親しいものになりました。八月の中旬までは毎日缺かさず泳ぎに行つた海が、月末には近づいてさへ寒くなりました。紅のあらゆる色を流してゐた誇らしげな海は、折折雲と光とに對してお役目のやうに偶に美しい紫と緑とを見せるだけで、淺ましい色を呈して沈默して居ります。愛人の容色が衰へたのではなくて、何か魔物が來て愛人の魂を啄んで、代りにそのなきがらの中に住んでなきがらの眼や手足を動かして居るのです。そのかはり單色の緑で怒鳴りつけてゐた山が色色の變化を見せて空にまで柔かい黄をしみ出させてゐるのです。そして登らうとする頭から火のやうな光を浴びせて人を拒むのを廢めて、暖い光と凉しい山氣で人を誘ふやうに愛撫してくれるのです。
 二十三日に行つた處は四月の中旬に一度行つたことのある場處です。四月に同じ場處に行つたことがありますが、その時分にはまだところどころに雪が殘つてゐました。相川の磯から一時間ほどで行ける處です。青野峠と言つて、相川から金北山に登る順路です。初て行つたときには磯際のほかには平地は勿論なだらかな場處さへ見當らない相川の附近に斯んな圓圓した柔かな感じのする廣い場處があつたのかと驚きました。北の方にごく僅な視角で金北山の手前の妙見山が見えます。西の方の谷あひから遙に相川のほんの一部が見えます。南の方は相川の南の二見半島から深く入り込んだ鏡のやうな眞野灣、灣の向うからずつと左まで低く連つてゐる南佐渡の山、それが東までまはつて盡きた處に佐渡の東岸の兩津港――夷と湊との二つの町の合併した町――が見えます。南佐渡の山と青野峠まで南に進んで來てゐる北佐渡の山との間は佐渡唯一の平原國なかの平野です。長さが東西三里半、幅は一里半、西の外れに長さ一里幅が廣い處では半道ほどある湖があります。濱名湖のやうに海に開いてゐるその口の兩方を裏表のふた町しかない細長い町で塞いでゐるのが夷と湊なのです。
 二十三日に味をしめた私は二十八日に重ねて登りました。天氣が一層好かつたので南佐渡の山の西に越後の彌彦山、更に西に更に幽かに能登半島が見えました。二十三日に登つたときから、もう栗を取りに人が行つて居りました。二十八日の後では十月二日に登りました。この最後の日でもまだこぼれてゐる栗はないやうでしたが、性急な土地の人は樹をゆするやうなことはせずに棒で枝ごと叩き落として、或はうちへ持つて歸り、或は町へ賣りに出るのです。
 一體佐渡と言ふ處は何でも小さく出來る處でして、青野峠附近から南にも北にも島全體に亙つて燒印を押して放牧してある牛も犢ほどしかなく、大根も東京邊の四分の一ほどしかなく、林檎の直徑がほぼ半分、桃も三分の一ほど、牛蒡、葱すべてその調子で、人間だけが折折づぬけて稀には六尺豊なのも居る處ですが、栗も此例に洩れず柴栗ばかりで、その中でやや大きいと言つても支那の甘栗よりも少し小さい位のをばんばん栗――恐らく丹波栗の訛でせう――と言つて居ります。
 二日のときは、峠から山の脊づたひにお晝頃までかかる場處へ行つて、谿間の浮島のある池へおりました。通草が口を開けて居ました。楓と鉤樟とは完全に紅と黄に染まつて居ました。山の脊は大部分丸剥げになつて居ます。池のある谿間へおりる東側の急勾配にも[#「急勾配にも」は底本では「急句配にも」]谿底にも二三尺の矮生の樹が茨のやうに枝をくねらして生ひ茂つてゐて、その中から骨のやうに白くなつて立枯れした樹が並んでゐるのです。山の脊の西側の斜面には、灰色の燒石と赤土とが交錯して、紫紺から藤色乃至紅乃至赤を柔かにぼかして、その間を黄色い芝草、緑乃至代赭乃至紫の灌木が同じやうな明るい色で點綴してゐます。あれ山の儘太古の日にむき出しに照らされてゐるのです。
 浮島のある池の附近には倒れ重なつた半腐りの幹や枝の間から脊の高い細い樹がよろめくやうに生えてゐます。倒れ重なつた死木や死にかけた樹の下は沼地で、腐つた落葉の中から、ほの白い幽靈草、草とも木の實ともつかないやうな形をした突羽根草、さまざまの色の名の知れない菌が一面に生えて、樹の間を漏れる青い光を魔法にかからせて居ります。浮島は水蘚類や石松科の動物を去ることの餘り遠くない植物で覆はれてゐて、そのなかから喬木の若樹がふとした出來心でどうせ大きくは根を張れないのに三尺近くの細い幹をところどころに延ばして居ます。
 島のほぼ中央に穴があります。昔相川の町から行つて青野峠を越した向うのにくう村の談議所と言ふお寺の女中のおとわと言ふのが、木こりに言つたものか、みみ――木の子――でも取りに行つたものか、此二里の谿間の死んだ樹の下をくぐつて一番奧まで來たことがある。此處だけには生き殘つてゐる大木の下の眞つ暗な中でふと月の障が出來て着物の裾をよごしたのださうです。五六丈の上から垂れ下つた藤蔓をたよりに浮島へ渡つて清めようとしたときに池の主が之を見込んでその儘ずるずると引き込んだと言ふ。その穴が今もある此穴で、それ以來此池をおとわ池と言ふと言ふ話です。
 斯う言ふやうな傳説は佐渡の到る處にあるやうです。
 此佐渡の北の外れから北佐渡を東西に二分する山の脊が、黒姫、金剛、金北、妙見と次第に南下して、今言つたおとわ池の西を通過して、青野峠から相川の東と南とを壓迫しながら北佐渡の最南端二見崎で西の海に沒してゐる。この山の脊を超えて國なかの平野に出るには、青野峠によるか、半間幅の里道によるか、三間幅の縣道によるかの三つです。今日利用されてゐるのは此三の中の一番南の縣道です。此縣道を土地の人は新道と呼んでゐます。此新道の北に舊道があり、舊道の北にまた更に古い道があります。此道を土地では二つ岩道と言つて居ります。此道は殆ど壁をよぢるやうな道でして相川から僅か十四五町も登ると既に峠の絶頂に達しられます。絶頂は薄の野になつてゐますが、相川から行つて白粘土の道を松と薄とで兩側の展望を障られた儘我知らず登りついてしまふと、其處には左手に無數の低い鳥居がお稻荷樣のやうに並んでゐます。鳥居をくぐつて奧まで行くと汚らしい繪馬堂があります。繪馬堂の先に眞つ黒な岩の間に挾まつた小さな祠があります。
 黒い岩や赤土は相川からぢかに東に登つた山では珍しくないのですが、白粘土ばかりの此邊でそれを見ると何だか飛んでもない氣がします。おまけにその黒い岩は千仭の谷の上に首を出してゐるのです。大局から見ると、佐渡と言ふ島は海の中から南と北との二個處にごぼごぼと吹き出して出來でもしたもののやうです。粘土の中から石英と石灰とで出來た山脈がところどころに赤玉だの瑪瑙だの青玉だのの肌を天日に晒し腹の中に鍾乳石だの水晶だの太古からの不思議な水だのを包んで輕石だの火山彈だのを浴びて二本並んで立つてゐるのです。相川が生憎石英粗面岩の大きなやつの上に立つてゐるので、冬の中ガラスの上に坐つてゐるやうな冷たさを住む人が經驗しなければならないのですが、町を一寸南にでも北にでも外れると、海岸には水色や薄紅梅や乳色の岩が見え、縣道から二つ岩までの間は房州の鋸山で見るやうな剃刀砥のやうな、ところどころに木の葉や貝や魚類の化石を含んだ石で出來てゐるのですが、この祠のある場處は恐らく佐渡の最北端から金北山を通つて來た山の脊の一部の石灰の多い箇處が海か雨かのために虧けでもしたものらしく、白土をかぶつた山の一部がごぼりとなくなつて恐ろしい見苦しさを表はしてゐるのです。
 祠を挾んでゐる二つの岩は女陰の形を造つて居ます。非常に大きくて黒く出來てゐるのが何となく不吉な豫想を暗示してゐます。祠の大きさは高さ三四尺もありませうか。もぐらなければ中へ這入れません。祠の小さいことが何となく恐ろしい感じを人に與へます。祠の奧は筒拔けになつてゐて、そこから更に深い大きな底の知れない洞穴に這入れます。けれども誰も土地の人で這入つて見たものはないやうです。もしあつても決して人に之を話しますまい。何故と言つて萬一そんなことを實行したものがあつたら佐渡全島の女を犯したものよりも非道い目に逢ふでせうから。
 祠のある割目のほかにも數個の割目があります。要するに數個の大岩が裂け目を縱にして並んでゐる上に更に他の大岩が土と樹と草とを戴いた儘載つてゐるのです。太古の不思議な智慧と力とを持つた人類がピラミツドを築き得たその力なり方法なりで斯う言ふものを作り上げたのではないかとも思はれましたが、相川町の北のはづれに辨慶挾み岩と言ふのがありまして、まさしく石灰岩の美しい肌から石英粗面岩へうつる境めの黒い汚い岩の不規則な腐蝕のために昔高い處にあつたのが墜落して下の岩の虧けめに挾まつたのだと推測されますので、これもやはりそのたぐひだらうと思ひました。
 この祠の右の割れめからも、兩方の岩の間を體を横にして足首を一方へ曲げて廣い穴の中へ飛び込めさうです。
 この祠を二つ岩大明神と言ひ、貉を祭つてあるのだと言ふ話です。
 この二つ岩の穴の中に昔團三郎と言ふ貉が住んで居たと言ふのです。今も貉が住んでゐるさうですが、それは團三郎貉であるか、或はその子孫であるか判然しません。
 享保の初、冬になりかけの時分のことだと、安永七年に出版された「怪談もしほ草」と言ふ本に出て居ります。この本によると、相川の北のはづれの柴町と言ふ處に住んでゐた窪田松慶と言ふ外科醫になつて居ります。私の此處へ來て聞いた話ではいづれも今も子孫の殘つてゐる瀧浪と言ふ家の先祖だと言つて居ります。瀧浪家は御維新まで代代醫を業として居つて代代玄伯と言ふ名であつたさうです。何代目の玄伯であるかは訊きただして見たら分かるかも知れませんが、私にその話を聽かせてくれた人達は知りませんでした。玄伯にしても松慶にしても話は同じ筋です。
 寒い晩の夜更けに急病の迎が來た。駕籠の用意をしての迎であつた。駕籠の通つて行く途が變だつた。駕籠で着いた先は立派な兩開の門のある邸だつた。門から式臺まで四五十間もあつた。式臺には袴羽織を着たものが四五人出迎へた。主人と言ふのは七十餘の僧形の人で白の小袖に十徳を着てゐた。訊いて見るとその末子が怪我をしたのだとの事。金銀の屏風を引※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)した病室には、年の頃まだ十三四の美少年が鉢卷をして脇息に凭れて居た。怪我は刀の切尖で突いた傷だつた。血止めの藥と調合した膏藥とを置いて戻つた。
 これだけは「もしほ草」も私が耳から聽いた傳説も同じだが、「もしほ草」の方では、歸つて駕籠のものを犒はうと思つて出て見たが既に姿が見えないので、召使ひにあとを追はして主人の名を訊かせようとしたが、早跡形もなくなつてゐた。その同じ夜寺田彌三郎と言ふ士が下戸――おりとと讀む、相川の南部、二つ岩から程遠くない處――の番處のそばで怪しいものを切つたと言ふのがあとで分かつて、思ひ合はして見ると療治に招ばれた先は二つ岩團三郎だつたかも知れないと書いてある。
 私の聞いた話では、歸るとき先方で、實は自分は二つ岩團三郎であると打ち明けて、お禮として錢差に差した一さしの金を寄越して、これは極めて輕少だが、いくら費つても最後の一文だけを殘しておけば再びもと通りになるのだから、人に隱して子孫へ傳へるやうにと言ふ事だつたさうです。處が、子孫のなかに言ひ付けを守らない男が出てみんなつかつてしまつたので、もう決して殖えなくなつたが、其錢差だけは今も尚瀧浪家の神棚に下げてあると言ふ話です。瀧浪の子孫の家は私の家から一二町南にあります。二つ岩道へ出る處にありますが、昔大した醫者の居た家とは思はれない家構です。
 團三郎の細君は相川から六七里ばかり北の佐渡の西岸の關と言ふ化石の澤山採れる村から一寸行つた處の寒戸〔さぶと〕と言ふ處に祭られてゐます。穴の中から暑中でも冷い風が吹き出してゐる處です。
 石灰岩と石英とは色色の佐渡の不思議を作り出してゐます。
試みに相川の濱に出て、紫石英や水晶や瑪瑙や赤玉や青玉や、自然金のついた小石や斷層を鮮に見せた小石や火山彈などを拾ふついでに、濱邊一帶を白く見せてゐる燧石をも手に取つて御覽なさい。大抵の燧石には穴があいてゐましてその穴の中には無數の水晶か動物の齒のやうに上下左右から出てゐます。なるべく純粹に近い石灰岩で出來てゐる大岩の穴に這入つて岩を毀いて御覽なさい。折折京丸牡丹のやうに中のうろ一向に花片を出してゐる水色や褐色の鐘乳石を見られます。
 小さな島でありながら蛇紋石の小島もあり、水石ばかりで出來た岬もあり、地表に石炭の露出して居る處もあり、瑪瑙の壁もあり、黒曜石もあり、砂岩もあり粘板岩もあり、猿の尻のやうな土の覗いてゐる處もあります。そして東京邊の新聞に出ないでしまふこともあり、出ても注意せられずに忘れ去られてしまふのでせうが、絶えず處處に土地の隆起や之に伴ふ陷沒が起つて居ります。
 一體佐渡と言ふところは昔から狐のゐない處ださうでして、その代りに貉が住んで居るのです。もつとも動物は放牧してある牛以外には、どんな山奧へ行つてもあまり見當らない處です。熊も居ず、猿も居ず、鹿も居ず、僅に兎と雉と蝮と蛙と馬追とこほろぎと岩蟲と女の兒の頭と襟とに住む虱と、道路の捨石の下にまで住む蚤と、何處の家の食膳にも止まる蠅と、虻と、笹でうまつてゐる海岸の切岸に住む雀と、山の岩で數町さきの異性と鳴き交はす鳶と、濱に來て犬をからかふ烏と、魚賣の手に寄生する水蟲と、人の數に匹敵する猫とその猫の取りきることの出來ない鼠と、まづその位の動物しか人間以外にはゐない處です。
 その中で貉は佐渡の名物ださうで、四國猿と同じやうに佐渡貉と言ふのは熟語になつてゐるのださうです。
 佐渡の貉は本來此島の産ではなくて、金山の鑛石を鎔かす鞴のにその毛皮が是非必要なので、餘處から取つて來て島の山に放したものだと言ふ話です。
 能登と岩石の分布が酷似してゐることや、昔謙信が能登で金を採つたことなどを考へ合はせて、能登半島が本州の一部であるにも拘らず狐が居ないで貉だけがゐるのも何か地質や植物との關係もあるのではないかなどとも考へさせられます。
 土佐には狐が居ないために、狐憑がなくて犬憑と言ふのがあるやうに、此處でも狐憑はなくて貉憑があります。
 貉の親玉團三郎は妖術に於いては日本一ださうです。昔日本一の妖術の大家が越後に住んでゐたさうです。名は聞き洩らしましたがとにかく狐だつたさうです。それと團三郎とある時術較べを爲ようと言ふことになつて、江戸へ出たさうです。どちらが先に術を使ふかと言ふ事を籤できめることにしましたら、團三郎の方が先へやることになつたさうです。團三郎は、それでは俺は明日の朝これこれの刻限に大名となつて素破しい行列を作つて登城するから見に來てくれと申しました。佐渡狐が翌朝町人に化けてお濠畔へ行つて待つてゐると梅鉢の定紋をつけた駕籠に乘つて大勢の家來を後先に付けた行列が通りました。つかつかとそばへ寄つて、駕籠の中を覗いて、おい、團三郎、さう威張り臭るなよと言ふが早いか、駕籠わきのものが驅け寄つて一刀の下に切つてしまつた[#「切つてしまつた」は底本では「切つてましつた」]さうです。切つて見ると古狐が死んでゐる。白晝のこととて大騷ぎをしたと言ふことです。これは團三郎が豫め加州の登城の時刻を知つて斯くあれかしと謀つてした事でして、其以來團三郎は妖術にかけては日本一と言ふことになつたのださうです。
 團三郎だかどうだか知りませんが、今年の春頃、丁度私の宿の近くで雨の夜ごとに僧形の見知らぬものが火の番とすれ違つたさうです。振りかへると姿が見えないと言ふので正しく貉に相違ないと申して居りました。
 その前にも二つ岩附近に坊主が出ると言ふ評判がありました。
 十月十四日の晩の七時半ごろ山越しに南の方から相川へ戻つて來ますと、丁度もう四五町で相川へ入らうとする、山のおり口で一人の中學生が藁を積んだ處へ何遍も衝突してゐるのに出喰はしました。聲をかけても夢中で藁と衝突をして居ります。やうやく手を引いて路へ出しますとまだよろよろして病人のやうでした。暫く歩かせてから眼も見え足元もたしかになりましたが、私の連は貉がついたのだと申して居りました。
 貉のせいかどうか知りませんが、此處には鳥眼がかなり澤山あります。眼の瞼の爛れたのも澤山あります。斜視もざらにあります。濱で採れる若芽を鹽いりにして佐渡芽と稱して賣つて居りますが、越後の人は佐渡の眼病を佐渡目と言つて居ります。此腐れ眼は冬から春までの間に殊に非道くなるらしいのです。縣ではこの眼の惡い原因を花柳病か蒸風呂のためだと考へてゐる樣で、蒸風呂はなるべく禁止して居ります。
 蒸風呂と言ふのは鹽の上に藁で出來た大きな袋をかぶせて上から熱湯を注いだ中に人が這入つて蒸されて柔くなつた皮膚を爪で掻いて垢を落とす裝置でして、田舍では今でもこれを行つてゐるので、今の郡長が巡視に行つたときわざわざ風呂場を庭の一隅にこしらへた家もあつたと言ふ位です。人が中に這入つてゐるとも知らずに上から湯を掛けて大火傷をさす事も屡あるさうです。
 眼を惡く爲さうな原因は外にも澤山あります。第一に冬になると日光に惠まれない、ただでさへ暗い建築の家は締切りになる、加賀邊の家のやうに天井から明を取るやうにも出來てゐない、さう言ふ處で炬燵に當つて日を暮らす。夜になると穴藏の底のやうな照明力の電燈が僅かに赤味を帶びた色に照るだけです。斯んな事も第一の原因でせう。それに冬になると全然野菜が缺乏します。稀に少し穩な日に三里ばかり南から野菜を賣りに來ることがあつても恐ろしく高い。魚ばかり食べて居るからではないかと思ふのですが、それに雪でいぢめられるからかも知れませんが、冬の終に近づくと毛の色がまるで赤く埃でも浴びたやうに澤の拔けた頭をした女ばかりになります。それが夏を越した今時分になると見られなくなるのです。
 藁の中に寢るのも原因の一つかも知れません。比較的町らしい處では藁を布團に填めて使ひます。これは非常に暖でもあり柔で氣持の好いものです。しかし大抵の農家では冬は藁を一部一杯に撒き散らした中に家内中裸で飛び込んで寢るのです。火事が起つて一家藁の中で死んだことがあるとかで、警察で禁止方針をとつてゐるのださうですがなかなかあらたまりません。
 裸で寢るのは藁にもぐつて寢ない町の人でも同じことださうです。しかしこれは越後地方でも同樣だとききました。
 概して不潔は土地の風でして、何處へ行つても臭くない町は見當りません。島の首府の相川でさへ、一年も住み慣れた私が臭いので寢附かれない晩が折折あります。土地の人は慣れてゐて感じないので餘處から來た人が正直にそれを言つてもありも爲ない事を言ふやうに思はれて大層憤られることがよくあります。下水の一部が水溜りになつてゐる處がありますが、土地が堅いために幾月もの間浸み込まずに腐るのです。相川には小さな流が全町を通じて八つありますが、川に添つて海まで出る路のついてゐるのが却つて災をして、川の口にその邊の臺處の芥を捨てに行くのが山に成つて居るのです。川の中も芥で一杯ですが、その芥の中で洗ひ物をして居ります。いつか署長が役場に川の芥の掃除について注意を與へたことがあるさうです。すると役場の返答は、「あんたまだ新任で土地のことをよく御存知ねえからそんなことを言ふのどす。もう暫く見て居るがええです。ぢきに雨が降つて流してくれるのどす。」と言ふのだつたさうです。しかし、私が來てから甞て一度もさう言ふ大雨は降つたことがありません。
 朝起きてはたきの音を聞いたことがありません。鍋釜をほとんど洗ひません。箸を洗ひません。火鉢の掃除は年に一度か二度するのでせう。下着は冬を通して着更へないものが多いやうです。下駄の眞つ黒なのは普通のことです。朝口を漱がないものは澤山居ります。
 眼の變な、足の裏の汚い、虱だらけの着物を着た、臭い頭をした美人が、まつ白に白粉をつけてゐるのは天下の奇觀です。
 更に内部に這入つて見ますと、わざわざ手の付いてゐるバケツの兩側に手をかけて水を運んだり、右左の手を逆さに使つて掃いたりしてゐるものもあります。立つて掃く帚もバケツも島では新輸入のハイカラ品だからです。アルミニウムの鑛釜は今だに損なものと思はれて居ります。洗はないので底が拔けてしまふのです。食事の時は更に奇觀です。右の手に箸を持ちながら、左の手で魚の骨をつまみ上げてしやぶつて、その手で平氣で何處でもいぢりまはして居ります。
 しかし一方にペパミント、キユラソオ、ベルモツト、ブランデイ、トマトソオスなどを飾り立てたバアもあります。七三に分けた女も居ります。鼻筋だけに白粉を付けた滑稽な女も居ります。南洋の新領土の人のやうに、また開國當時の日本のやうに、思ひ切つたハイカラが是認されます。
 東京の風だと言へば大抵の惡事までゆるされます。
 共産黨も居ります。共産黨がしかも酒を盛に飮んで※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)る共産黨です。





底本:「明星」「明星」發行所
   1925(大正14)年1月
初出:「明星」「明星」發行所
   1925(大正14)年1月
入力:江南長
校正:小林繁雄
2009年5月3日作成
2009年6月5日修正
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●表記について