情智關係論

西周




 前日嘗て心理を論じ、心の能力を分ちて、智情意の三大部となして説き、且智の能力は此前に之を略論したり。故に今は智と情との相關する所を概論せむとす。
 智の質は理性にて事物の道理を知ること、即ち結果を見、源因を知り、源因に因て結果を測ることなり。然も人心は必ず此理性のみを具へ、また理性のみに使役せらるゝ者に非らず。必ず佗に一の此心を動す者ありて、之が爲に使役せらるゝ者にて、之を名けて情といふ。
 譬へば今花を見て、其花たるを知りたりとも、唯其花たるを知りたるのみにては、何の事も無し。必ず其花は美麗なり、芳香あり、愛すべしと、其花の美麗芳香をして己が心を動かすに至らざれば、心の用を成さゞるなり。
 此の如くなるを以て、情は亦人間の萬事萬行に就て、多少の發動をなす者にて、凡て無情の者金石草木の如きも、彼には情無しと雖も、之を見る人には必ず多少の情を攪動する者にて、譬へば金銀の光澤を觀て其美艶を愛し、土石の山水を觀て其幽閑を愛し、草木花卉の如きも亦然るが如し。かの詩歌の如きに至りては、尤人情を主とし、情趣を詠唱する者なるを以て、往々無情なる物を有情と見做すことあり。譬へば唐人の詩に人情已厭南中苦、鴻雁何自北地來といふが如き、又古人の歌に小倉山、峰の紅葉、心あらば、今一度の幸、待たなむ、などいふが如き、皆有情の人心よりして、無情の草木禽獸に及ぼすなり。況や有情の人、此社會を相なすの間に於ては、萬事に就て情の發動せざることなきをや。
 故に人間社會の關係は、過半此情を以て之を維持し、君臣の間、父子の間、夫婦の間、兄弟、朋友、師弟、老幼、男女等凡て人間倫理の大綱より細事件に至るまで、皆情に依て其用を來さざることは莫きなり。
 然るに此情といふ者は、其大源は肉體欲即ち人欲に根ざす者なりと雖ども、夙に靈性欲即ち物欲と混合し易くして、飮食男女安逸より竟に權勢の欲、聲色の欲、勝克の欲、錢貨の欲と相混同し以て一種の情操偏癖となることあり。又情の體たる理性と相反して、物欲に至りては際限無き者たるを以て、常に理性の制克を受けざるべからず。此關係人心に於て極めて大いなる者にて、智即ち理性といふ者は、所謂先見の明なるを以て、道理にて成るべき事の外は成るべからず。又成すべからずと預め事を限局する性あり。情は是と相反して、欲する所、愛する所は成すべからざる事をも成さむと欲する性あり。故に此兩者は常に胸裏に相鬪ひて、日常息む時なし。是孔門に克己復禮の教へある所以なり。
 譬へば人と共に樂を同うするは、皆人の欲する所にて、十人よりは二十人、二十人よりは三十人と、衆多ほど好むこと人の自然の情なり。故に成る事ならば、天下中一堂上に會合して、歡樂を盡したき事なれども、此の如き事は理の許さざる所、また爲すべからざるの事たるを以て、宴會の如きも各自に身分に應じて其節度あるべし。
 凡て情は愛惡とも際限なくして、愛の情は廣きに過ぎ、惡の情も亦得て深きに過ぎ易き者なり。然れども理勢然ること能はざる者なるを以て、理性を以て之を制克し、惡を惡むの情を制して、其度を越えしむべからざるのみならず、愛の情と雖も理の成るべきを察して、之を施すに其術を得ざるべからず。
 是即ち漢土の道徳學にて、愛に差等無し、施すこと親より始む、或は墨子の偏愛は、父を無し、君を無するに歸すといふ所にて、其性理學にては、之を義の性に歸せり。然ども此義にて宜しきを制すといふは、先づ智にて其事物を知り、また其互交の關係を知りたる上ならでは發するものにあらず。故に之を智の能力中の理性に歸するなり。此智と情との關係は、今日人間に於て一身上動靜云爲の細行よりして、國家天下を治むるの大事に至るまで、其成敗利鈍は悉く此關係の相協ふ所に止らざること莫し。之を名けて情理相合すといふ。
(明治五六年頃稿)





底本:「西周哲學著作集」岩波書店
   1933(昭和8)年10月20日第1刷発行
※底本のテキストは、著者自筆稿によります。
入力:岩澤秀紀
校正:フクポー
2017年12月26日作成
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