賢所御神樂の儀

羽田亨




 春興殿の南門外、左(東)に鏡と玉を、右(西)に劍を、それ/″\頂きに懸けた一對の大眞榊の間を進み門を入つて左右の幄舍につくことすべて昨日賢所大前の儀の通りである。見上ぐれば殿上南面の中央に垂れさせられた御簾を挾んで、南廂に坐する黒衣の掌典二人、その左に續いて茜袍が九人、末なる一人が南、東兩廂の角、いづれにも見透しの利く場所に位置したのはすべて相圖に任ずるためであることは、昨日の御儀から知り得られた。いふまでもなくこれらのすべてが優美な垂纓の微かにゆらめく背を參列者に向けて、神殿に面して笏を正すのである。きのふと變り、庭上に嚴めしい威儀の士の列立や、華麗な鉦鼓の設けこそなけれ、その中央神樂を奏する舍の三方を、白と淺黄に染分けた斑幔で圍ひ廻らして人目を遮り、神こそは見そなはせと、賢所に面した北の一方だけを開いたのは、更に神祕を深めた感がする。御儀に參列を許されたものすべてが着席し終つたのは、午後四時頃であつた。

 沈默の一分が過ぎるか過ぎぬに廂上からの相圖が僅に動く。忽ちにして天より來るか、地より湧くか、微妙幽玄を極めた旋律が、縷のやうに流れ動く。漂渺たる神韻漸くにして高まつて、現實に奏で出す笙の音と聞きなされる頃には、參列者――少くとも自分の顏筋は少しく緊張の度を弛めた。更に相圖に應じて篳篥の音が加はると見る間に、殿上深く垂れさせられた御簾は、内より二人の茜袍の手に、靜かに捲き上げられる。諸員起立の間に凡そ七分の所で捲き止められると、長閑に掻き鳴らす和琴の音も加はり、やがてのび/\と落ちついた歌聲も聞える。勿論今の世の聲ではない。合間合間のパタ・パタと音のするのは、笏で採る拍子でもあらうか。この間に神饌が供せられ、祝詞が奏せられる。但し左の幄舍の前方三分の一ぐらゐの所に在つた自分の位置からは、御内陣の模樣は窺ひ知ることが出來ず、祝詞の間、相圖により起立して敬禮を表するのみである。

 祝詞が終り、樂の音がやみ、參列諸員が片唾を呑んで、一圖に廂上に注目する間もなく。起立の相圖が行はれる。東廂の北端に人影ゆらぐと見る間に、黒袍の前行に續く御劍御璽の捧持者の間を、黄櫨染の御袍、立纓の冠を召された聖上陛下が、御裾を待從に[#「待從に」はママ]捧げさせ給ひ、げにも威風堂々として出御せさせらる。畏けれど自からなる帝王の御風格とや申し上げるべきであらう。御弟の宮殿下を初め奉り、供奉遊ばさるゝ各宮殿下もすべてまた昨日の通りである。

 やがて聖上陛下御自から御拜を行はせらるゝとおぼしく、殿内西側の座に着かせらるゝ各宮殿下の笏を正して御頭を俯せらるゝ御有樣が伺はれるとともに、御内陣の奧深きあたりとおぼしく、さびたる御鈴の音の、正しき間を置きて響き渡るが聞える。これこそ大神の御聲と覺えて、森嚴の極みである。御大禮の儀ををへさせられ、けふしも事の次第を神靈に告げさせられ、且は御神樂に神靈を慰め給ふ御儀のことゝて、御代萬歳と聲も高く壽ぎ奉りし民草の誠の末も、大神知ろし召せなどゝも奏させ給ふのであらうか、きのふ賜はりし大詔の上からも畏けれどかゝることまで思い浮べて僣上の沙汰ながらひそかに主上の御感懷をしのび奉つた。御拜十餘分で御簾の外に立ち出でさせられ更に正面して拜一拜、再び前行後從の供奉に、南廂を東廂にと玉歩を運ばせられ、北の御殿にと入御あらせられた。

 入御の後、春興殿上※(「門<貝」、第4水準2-91-57)として人無きこと數分時、四時半過ぎまた與へられる相圖に起立すると、聖上陛下出御の時と同じ東廂を黒袍の宮官の前行につゞいて、皇后陛下が御裳を女官に捧げさせられしづ/\と出御し給ふ。おすべらかしの御髮、五衣の御裝ひなど、一々書きつくるには悲しくも有職に通ぜず、或は誤らんことを恐れ、また世間委しく記せるものあるのに讓つて、たゞ氣高くも※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)たけきことの女神の如くましませるを拜したとのみ傳へたい。供奉に從ひ給へる各妃殿下と、夕日微かにさし添ふ高殿の上を、それ/″\に漆の御髮長く後ろに垂れさせ、檜扇を御手に、とり/″\の色打ちかさねし御衣の裾長く引かせられ、御裾さばき鮮かに、二間置き位の隔たりにて練らせ給ふ御有樣、繪ならでは寫し難い。こたびは供奉の各妃殿下も、殿内の東側に坐し給うたとおぼしく、自分の位置からは御姿を拜する由もなかつた。かくて御拜了つて出御せられ、もとの廂を北にと入御せられたのは四時四十五分の頃と記憶する。

 兩陛下を初め奉り、各宮殿下の御拜を了らせられた後、諸員一齊に拜禮し、續いて神饌は撤せられて、こゝに御儀は一先づ了り、參列の諸員は順次に退散した。後に御神樂が奉仕され、夜半過ぐる頃にも及ぶのは、あらためていふまでもない。

 きのふの御儀すべてが、我が特有の傳説の上に基を置いた神祕と崇高と典雅との結晶であり、國體の象徴であり、民族的の美術でもある。廣く知識を世界に求め、宇内の大勢に立ち後れず、進んでこれに導かうとする以上、世態文明の變遷發展はもとより當然のことである。たゞその底を流るゝ民族的精神の基調には、どこまでも我特有の傳説歴史を離れざるものが存在しなければならぬ。御代知ろし召す初めに當たつて、この儀を擧げさせられる思召しの程も計られて、畏くも有難く覺える。文武百官を初め、國政に參與するを許されて、我等の推した選良の士も、洩れなくこのゆかしき盛儀に陪し、親く大詔を蒙つたのである。それ/″\の職分に應じ、全力を盡くして叡慮に添ひ奉るべきを、今更に自から誓つたのであらう。幸ひにしてこの儀に列ることを得た光榮を欣ぶと共に、盛儀を行はせられた聖旨を慮れば、感泣を禁じ得ない。
(大阪毎日新聞附録、昭和三年十一月十三日)





底本:「羽田博士史學論文集 下卷 言語・宗教篇」東洋史研究會
   1958(昭和33)年11月3日第1刷発行
初出:「大阪毎日新聞附録」
   1928(昭和3)年11月13日
入力:菅野朋子
校正:きゅうり
2020年4月28日作成
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