荷風翁の發句

心猿




とほみちも夜寒よさむになりぬ川向かはむか

「川向う」は隅田川東岸である。即ち、寺島町玉の井の遊里を指す。さうすると、この作は對岸淺草側からの吟でなければならぬ。但し「遠みち」が直ちにその淺草からの道のりを意味するものと解せば、句の趣は甚だ削減される。第一、つい川一跨ぎの墨東の散歩を遠路とするのは、少しばかり表現の的確を缺く。そこで、この句を理解するためには、どうしても初五に關する若干の註が必要となつてくる。さもないと、後世とんだ駄句の一つに數へられる虞があるからである。
 翁の玉の井見物は、昭和十一年の春にはじまる。同年五月十六日の日記に曰く。
 初て玉の井の路地を歩みたりしは昭和七年の正月堀切四ツ木の放水路提防を歩みし歸り道なり。其時には道不案内にてどの邊が一部やら二部やら方角更にわからざりしが先月來屡散歩し忘備のため略圖をつくり置きたり。路地内の小家は内に入りて見れば……。
 同じく日記によれば、この年四月に翁は寺じまの記を作り、十月に※(「さんずい+(壥−土へん−厂)」、第3水準1-87-25)東綺譚を脱稿し、十一月に萬茶亭の夕(作後贅言)を書いてゐる。この間、五十九歳の翁としては實に足まめに、墨東の實地踏査を行つてゐる。
 五月二十日。燈刻尾張町に※[#「飲のへん+卜」、U+29685、24-15]し、電車にて淺草を過ぎ玉の井に往く。
 六月十八日。夜向島散歩。歸途キユペルを過ぐ。
 七月二十日。電車にて淺草に至り、それより圓タクを倩ひ玉の井を見歩き銀座に出づ。
 九月三十日。電車にて雷門に至り水邊を歩む中に雲去りて良夜となる。白髯橋をわたり玉の井に少憇し十二時歸宅。
 十一月初二。午後※(「さんずい+(壥−土へん−厂)」、第3水準1-87-25)東綺譚執筆。晩餐の後京橋明治屋にて牛酪を購ひ玉の井に至り第一部の或家を訪ふ。
 十二月初七。境川停留場より五ノ橋通にて電車を降り三ノ輪行バスに乘りかへ寺島町二丁目に至り、それより曳舟通の岸を歩む。……迂曲したる小徑を歩み行く中玉の井四部の裏に出でたり。
 十二月卅一日。仲店広小路到處雜沓せり。東武電車にて玉の井に往きいつもの家に一茶す。
 このやうに「遠みち」の三字の中には、麻布から銀座、さらに江東、葛西、淺草、寺島と、作者のたゆみない行迹見聞のあとが、無限の感懷となつてひそんでゐるのである。
 この一句、調べ姿ともに申分がない。それだけにまた、詩だか油繪だか祭文だかわからぬ現代俳句の横行する世に、あまり喝采は起らぬであらう。翁の作を敢て發句と稱する所以もこゝにある。
 夜寒の季は、綺譚完結直後の作を裏書きする。この句に限らず、以下の諸作すべてこれ名作を刻んだ鑿のすさび、或ひはそのエスキース斷片と見なしてよいであらう。

れぬ小草をぐさはなやつゆのたま

 京成電車玉の井驛跡の寫眞に添へられたもの。前の夜寒の句に、俳諧一卷の首位を占むべき氣品と重みを見出すなら、これはまさしく脇の附合である。
 昭和十年の頃、その小高いプラットホームあとの空地が、雜草の中にぽつんとまだ殘つてゐた。綺譚では、小説の趣向を求めに主人公がはじめてこの里に杖を曳くあたりである。その一節は木村莊八ゑがく※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)畫と共にすぐれた敍景の筆力によつて記憶される。
 わたくしは夏草をわけて土手に登つて見た。眼の下には遮るものもなく、今歩いて來た道と空地と新開の町とが低く見渡されるが、土手の向側は、トタン葺の陋屋が秩序もなく、端しもなく、ごた/\に建て込んだ間から湯屋の烟突が屹立して、その頂きに七八日頃の夕月が懸つてゐる。空の一方には夕榮の色が薄く殘つてゐながら、月の色には早くも夜らしい輝きができ、トタン葺の屋根の間々からはネオンサインの光と共にラヂオの響が聞え初める。
 あの邊は、それより十四五年昔は寺島村字長浦といつた全くの僻村であつた。田圃のあちこちに葭の生ひ茂つた水溜りがあり、釣師が絲を垂れてゐた。さうした田園風景の中にぽつかり、銘酒屋の灯がともり出したのである。勿論、ネオンなどのない、御神燈のかげに鼠鳴きの聞えた時代である。その頃の富田木歩の句に

冬田越しに巷つくれる灯かな

といふのがある。あれこれ思ひ合せて隔世の感が深い。
 百年の後、或ひは説をなす者があつて、この「名も知れぬ小草の花」が綺譚のヒロインお雪であるといふかも知れない。とにかく、艶にやさしい味はひを含んだ佳句である。

りたらぬ殘暑ざんしよあめ屋根やねちり

 二階の窓から改正道路を斜に見おろした寫眞に題す。
 窓のすぐ下は日覆の葭簾に遮られてゐるが、溝の向側に並んだ家の二階と、窓口に坐つてゐる女の顔、往つたり來たりする人影、路地一帶の光景は案外遠くの方まで見通すことができる。屋根の上の空は鉛色に重く垂下つて、星も見えず、表通のネオンサインに半ば空までも薄赤く染められているのが、蒸暑い夜を一層蒸暑くしてゐる。
 わざわざ綺譚の一節を引くまでもなく、溝蚊の唸るお雪の住む家からの實寫であらう。

秋晴あきばれやおしろいやけかほしわ

これは窓の中の顏ではない。からりと晴れた或日の晝さがり、街上でふと見かけた女のスナップである。
 それともモデルは、「旦那、そこまで入れてつてよ」といひながら、傘の下に眞白な首を突込んだお雪さんかも知れない。
 年は二十四五になつてゐるであらう。なか/\いゝ容貌である。鼻筋の通つた圓顔は白粉焼がしてゐるが、結立の島田の生際もまだ拔上つてはゐない。黒目勝の眼の中も曇つてゐず脣や歯ぐきの血色を見ても、其健康はまださして破壞されて居ないやうに思はれた。
 夕立を秋晴としたところに、技巧がひときはあざやかである。爽やかな秋の日ざしの中に、顏の皺ばかりか、おしろいに汚れた人絹の半衿までが、眼に見えるやうに描かれてゐる。

ばしらのくづるゝかたや路地ろじの口

 路地は「ぬけられます」の、あの迷宮のことである。育ちのいゝ讀者のために、寺じまの記を拔萃しておく。
 足の向く方へ、また十歩ばかり歩いて、路地の分れる角へ来ると、また「ぬけられます」と云ふ灯が見えるが、さて其處まで行つて、今歩いて來た後方を顧ると、何處も彼處も一樣の家造りと、一樣の路地なので、自分の歩いた道は、どの路地であつたのかもう見分けがつかなくなる、おやおやと思つて、後へ戻つて見ると同じやうな溝があつて、同じやうな植木鉢が並べてある。然しよく見ると、それは決して同じ路地ではない。
 綺譚の讀者なら、蚊、蚊遣香、蚊帳、殘る蚊といつた一聯の夏の景物が、いかに美しく小説の舞臺を彩つてゐるかを承知してゐるであらう。それらは適所に配置された氣のきいた小道具であり、同時に全篇に流れる交響管絃樂でもある。
 季語の把握はさすがに的確である。「ちよいと/\兄さん」「おぶだけ上つてよ」「知つてますよ、さつきの旦那」の嬌聲から、「何言ふんでえ、溝ツ蚊女郎」「ヘツ、芥溜野郎」のやりとりまで、すべてこの蚊柱の下で演ぜられる。
 蚊の多いことは今も昔に變りはあるまい。しかし、戰後娼家の構造が一新すると共に漂客と女の風俗も甚しく變つた。あの溝の惡臭と蚊のわめく路地内の雰圍氣には、再び接することはできないであらう。

木枯こがらしにぶつかつてくるまかな

「車」は自動車。詳しくいへば流しの圓タクである。翁の短篇に、夜の車といふのがある。
 翁の墨東通ひは、おもに東武電車によつた。蒸暑い盛夏の候など凉をもとめて白髯や言問を渡ることはあつても、自動車に乘ることは殆んどなかつた。寒月の皎々と冴えわたつた夜、血氣熾んな若者たちを引具して、筑波颪のまともに吹きつける玉の井驛に降り立つたことも、今は翁の懷かしい思ひ出の一つであらう。
 若者は多くオペラ館大部屋の俳優たちであつた。即ち川公一、岸田一夫、堺駿二、大村千吉、石田清などである。寺島町二丁目に九州亭といふ洋食屋があつて、よく立寄つた。一日三囘興行で疲れきつた連中は、そこでめいめい支那蕎麥やカツ丼を注文して、空腹を滿すのを常とした。大晦日の夜など、辨天山で打出す除夜の鐘を聞いてから、あわてゝ六區を出發することもあつた。そして若者を順々に馴染の女のもとに送り届け、最後に翁一人が殘るのである。
 東武の終電が發車する頃から、改正道路をこの里めがけて圓タクが密集する。そんな時刻でないと、めつたに翁は自動車を呼ばなかつた。「ぶつかつて行く」は、さうした嚴冬の盛り場風景の一瞬を捉へた表現である。

あかしのさと霜夜しもよかな

「目あかし」は江戸町奉行の手先、土地の顏役などで捕吏に便宜を與へる者である。刑事またはデカなどと云はないところに、談林風のをかしみがある。さらに前句を朦朧運轉手、この句を捕物の前奏と考へれば、なほさら興があらう。どうやら、この歌仙も名殘の裏あたりに入つたやうだ。
……晩餐の後淺草より玉の井に往く。路地の内なる或家に立寄るに、昨夜お尋者この土地に入り込みし樣子なりとて私服の刑事客にまじり張り込み居る故用心せらるべしと云ふ。
 右の昭和十一年五月の日記と、次の綺譚の一節を對照してみるのも面白い。
「何商売も中へ這入つて見なくつちや樣子がわからない。」
 遠廻しに土地の事情を聞出さうと思つた時、「安藤さん」と男の聲で、何やら紙片を窓に差入れて行つた者がある。同時にお雪が戻つて來て、その紙を取上げ、猫板の上に置いたのを偸見すると、謄寫摺にした強盗犯人捜査の回状である。
 犯人捜査にあたつて、先づ遊里を一通り洗ふきめ手は、今でも全く江戸の昔と變らない。

ひものまどのけむりやあきかぜ

 場面は一轉して世話場となる。たしか戰後の作春情鳩の町の幕開きに、この烟は使はれてゐたやうに思ふ。小説と發句の交流は實に無數にさぐられる。
 まだ早い宵の口、煉炭火鉢を勝手口に持出して、かますの干物か何かを燒いてゐる女の姿をあの里で見かけることは、ひとしほ哀れである。この句にはその哀感が秋風としつくり結びついてゐて、一種悲愴なメロディを奏でてゐる。翁の文學に一貫して流れるものは、この俳諧的哀調である。發句を輕んじて翁の作品を語るほど愚の骨頂はない。

ゆくはるあきにもたる一夜ひとよかな

 玉の井稻荷の入口、曹洞宗東清寺と彫つた石碑の寫眞に配す。「ゆく春」とあるが、やはり秋の情感である。
 何も云ひつくしてゐないが、それでゐて何も彼も云ひきつてゐる。おだやかでしかも餘情に富んだ句の姿である。一卷の揚句として格調も自らそなはり、偶然とはいひながら夜寒の句をふまへてよく首尾をとゝのへてゐるのも妙である。
 これを秋の句に仕立直すなら、いつそうこの連作の押へとしてふさはしいとも思はれる。筆者はこの一句を口にするとき、坐右の綺譚一册をとつて左の一齣を誦さずにはゐられない。秋風颯々として来るの思ひに堪へないからである。[#「ある。」は底本では「ある」]
 物に追はれるやうな此心持は、折から急に吹出した風が表通から路地へ流れ込み、あち等こち等へ突當つた末、小さな窓から家の内まで入つて來て鈴のついた納簾の紐をゆする。其音につれて一しほ秋も深くなつたやうに思はれた。其音は風鈴賣が櫺子窓の外を通る時ともちがつて、此別天地より外には決して聞かれないものであらう。夏の末から秋になつても、打續く毎夜のあつさに今まで全く氣のつかなかつただけ、その響は秋の夜もいよいよまつたくの夜長らしく深けそめて來た事を、しみ/″\と思ひ知らせるのである。氣のせゐか通る人の跫音も靜に冴えそこ等の窓でくしやみをする女の聲も聞える。
 以上で※(「さんずい+(壥−土へん−厂)」、第3水準1-87-25)東綺譚私家版の句の私解を終る。





底本:「繪入墨東今昔 心猿第二隨筆集」葛飾俳話會
   1957(昭和32)年2月4日
底本の親本:「俳句 第二卷第七號」角川書店
   1953(昭和28)年7月1日発行
初出:「俳句 第二卷第七號」角川書店
   1953(昭和28)年7月1日発行
※「売」と「賣」、「顔」と「顏」、「来」と「來」、「焼」と「燒」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。
※初出時の表題は「墨東古調―續荷風翁の發句―」です。
入力:H.YAM
校正:きりんの手紙
2020年3月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「飲のへん+卜」、U+29685    24-15


●図書カード