九月朔日

心猿




 市電は、三筋町で二三人おろすと、相變らず單調な音をきしらせ、東に向つてのろのろと進んだ。なまぬるい風、灼けつくやうな舗道のてりかえし。――その時である。まだ停留所までだいぶあるのに、車體が左右に大きく横搖れして、急に停つた。
 乘客は、いつせいに窓の外をみた、いちめんの土煙だ。兩側の家が、屋根瓦をとばし、壁をくづし、柱をねぢまげ、前につんのめつた。黒塗の土藏が、一ト搖れしたかと思ふとみるまに赭土色の殘骸となつた。ほんの一刹那の異變だつた。
 と、隣にかけてゐた老婆が、急に大きな聲でお題目を唱へだした。それが、三人、五人と車内の人々に感染して、つひに南無妙法蓮華經の大コーラスになつた。みんな眞劍な顏だ。――これも、まつたく一瞬の出來事だつた。
 その九月一日の午まへのひとゝきが、まためぐつて來る、三十三年囘目の。あのとき小倉の袴に朴齒の畫學生はいま、去年も今年も、三圍祠畔の句碑の苔を掃ふことのできない身を嘆いてゐる。病床で迎へる二度目の秋である。
 どこをどう歩いたのか覺えてゐない。とにかく、橋場のわが家にたどりついた時には、もう千束町と、泪橋との兩方から、火の手が迫つてゐた。福壽院の卵塔場、小松宮別邸、眞崎稻荷と逃げまはつて[#「逃げまはつて」は底本では「逃はげまつて」]、十時頃に白髯をわたつた。
 川下の言問の夜景のすさまじさ。その、水に映える紅蓮の焔を眺めながら、ひたすら案じられたのは、足のわるい師のことだつた。けれども近くには、新松葉の姉さん、そこから藝者にでてゐる妹の靜ちやん、幼友達や俳友もたくさんゐる。きつと誰かにおぶさつて玉ノ井の方へでも逃げただらう。さう思つてゐたのに、その頃すでに木歩は、むごたらしい屍となつてゐたのだ。
「大正十二年九月一日、向島枕橋八百松畔の堤上に死す。震外木歩居士。俗名富田一。享年二十七。三圍に碑あり」
 私の歳時記の震災忌のところには、木歩忌の三字と共に、かう書込んである。
(三一・九)

        □
 一年ぶりで三圍神社へ行つてみたら、木歩の冬木風の碑が位置をかへてゐた。
 以前は七福神の祠のそばにあつたのが、いつのまにか社務所の横、なにがしといふ一中節の師匠の、とてつもなく大きい古琴塚のうしろに移され、それがいかにも片隅の幸福を愉んでゐるやうな樣子なのに、私は思はず微笑した。句碑ばやりの昨今、誰の眼にもすぐとまるやうな目拔の所でなかつたのが、何よりも仕合せである。偶然とはいひながら、故人の人柄が偲ばれてゆかしい。
 去年は關東大震災から三十年といふので、いろいろの行事が企てられた。世が世なら木歩の年忌も盛大に行はれ、彼を敬愛する人々が集り、追善句會の一つもあつた筈である。けれど、富田一族は震災と戰災の二度の劫火で全滅した。木歩は俳人としてすぐれた作品を遺したが、顯彰すべき何らの結社をもたなかつた。友人も休俳、斷俳で俳壇を去つたものが多い。それが今日、法要の行はれない最大の理由である。
 考へてみると、木歩の不遇の生涯はその死後の一時期において、多小は報いられた感がないでもない。一周忌に建てられたこの句碑も、既知未知、流派主張を問はない全國俳人有志六十餘人の純粹な據金で出來あがつた。碑面の句は舊師臼田亞浪が揮毫した。生前もつとも親しかつた新井聲風、原田種芽兩子の努力で遺稿や句集が編まれ、渡邊水巴が進んで追悼の文を寄せた。石川啄木と同じく名ははじめ、享年二十七才、肺疾で短命を約束されてゐた彼は、俳壇の啄木といはれて惜しまれた。
 しかし、三十年後の今はわづか沓脱ほどの一片の石にその作をとゞめるのみである。この小さな句碑の前に、無限の感慨をこめて黙思する人は、果していくたりゐるだらう。
(二九・九)





底本:「繪入墨東今昔 心猿第二隨筆集」葛飾俳話會
   1957(昭和32)年2月4日
底本の親本:前半の(三一・九)「春燈 第十一巻第九号」春燈社
   1956(昭和31)年9月1日発行
初出:前半の(三一・九)「春燈 第十一巻第九号」春燈社
   1956(昭和31)年9月1日発行
※前半の(三一・九)の初出時の表題は「木歩忌」です。
※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。
入力:H.YAM
校正:きりんの手紙
2019年8月30日作成
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