緑雨と一葉

伊庭心猿




かの日都を落ちて船橋にやどり申候 きのふより市川町に戻りて百姓家を借りうけ、ともかくすごし居り候
今宵は松葉の土手と申すを下りて渡船にのりて月を觀候 なみ/\の旅ならねば落人の身の上いとゞ悲しく候
これは殘少き眞間のもみぢに候 處の名とは申ながら※[#「義」の「我」に代えて「咨−口」、U+7FA1、6-1-14]ましく候
鬼共の都にて立騷ぎ候姿 目に見えておもひ候やうに眠られず候
この先いかゞ成行くべきかみづからも知らず候
人のもとへ今日申遣はし候ことあり 其模樣次第にて委しくは可申候
十日夜

 この手紙は齋藤緑雨から樋口一葉に宛てたものである。封筒もなく署名もないが、あの一癖ある肩さがりの筆蹟と、この書簡が一葉の妹邦子さんの筐底にあつたことで、さう斷定されるのである。一葉の※(「歹+殳」、第4水準2-15-94)後、邦子さんは亡き姉の遺稿を整理する傍ら、一葉がまだ中島歌子の萩の舍塾で歌の手ほどきを受けてゐた時分の、詠草や手紙の下書き、日記や小遣帳、大音寺前時代の仕入帳などを丹念に整理して、桐の箱に收めて藏つておいた。その中には、見ず知らずの愛讀者から貰つた手紙もあり、自分の手紙の下書きなどは本物のやうに、美しい例の千蔭流で走り書きされてあつた。些細なものまで大切にする一葉の心がけは勿論、どんな斷簡でもそれを形身として尊んだ邦子さんの姉おもひに、涙を誘はれずにはゐられない。先年、邦子さんの愛息悦氏の依囑で、これらの文反古と呼ばれるにはあまりに美しい斷簡を編纂した時、特に私の住んでゐる眞間にゆかりの深いこの一通を所望した。
 緑雨の手紙は全部で五通あるが、そのうち二通は自筆ではなく一葉の寫したものである。これは手紙をもつてきた車夫の口上が、人の口がうるさいから讀んだらすぐ返してくれといふので、妹にそれを讀ませ大急ぎで書きとつてしまつたのである。
 彼がはじめて丸山福山町に一葉を訪れたのは、それから半年近くもたつた明治二十九年五月で、一葉のその日の日記をみると「この男、敵にとりても面白く、味方につきなば猶更をかしかるべく」とあるし、二度目には「逢へるはたゞの二度なれど、親しみは千年の馴染にも似たり」などと出てゐる。とにかく、彼女は緑雨に對して一種の興味を抱いてゐたらしい。緑雨も毒舌家とか皮肉屋といはれる半面に情に脆いところがあつて、一葉の病氣が重くなると鴎外にたのんで青山博士に往診して貰つたり、死後も何かと樋口家のために盡した。
 さて前掲の手紙であるが、月はわからないが季節から考へて、一葉の死んだ十一月二十三日からさう遠くはあるまい。文中「松葉の土手」とあるのはまだよく調べてないが、おそらく栗市の渡しに近い舊陸軍病院下あたりだらう。「眞間のもみぢ」は地名の眞間と飯の俗語である「まゝ」をかけ、弘法寺の楓を一枚封じ込んだものと思ふ。「鬼共」は債鬼のこと。緑雨が八方に不義理をつくり、幾度か都落ちを企てたことはあまりにも有名である。





底本:「眞間 第一册」不二菱
   1947(昭和22)年6月25日発行
※初出時の署名は「猪場毅」です。
入力:H.YAM
校正:Juki
2017年10月25日作成
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●表記について

「義」の「我」に代えて「咨−口」、U+7FA1    6-1-14


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