女中訓

羽仁もと子




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大正元年十月初版


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福々しき身の上となるために



 第一には容易に腹を立てないこと、第二には他人ひとをうらやまないこと、第三には時とものとをむだにしないように働くこと。この三ヵ条を忘れなければ、誰でもかならず福々しい身の上になることができます。
 人は一生食べるだけのものを持って生まれているのだともいい、ものを粗末にする人は、年とってから乏しい目をするともいいます。そんなことはあるまいと思う人もあるようですが、よく考えてみると、ほんとにそうだということがわかります。考えてみてくださいませ。私たちは正直に働いていると、だれにでもよく思われて重宝がられるので、食うに困るというようなことはありません。しかしまた人ひとりの働きにはかぎりがあります。どんな人でもそうそう贅沢ぜいたくばかりして一生を過ごされるものではありません。人間というものは多くもなく少なくもなく、ちょうど一生食べるだけのものをさずかって生まれているのでしょう。その中から粗末にものを捨てたりすると先になって食べるものもなくなるわけです。道具を粗末に扱って早くこわすのも、やはりさずかりものを粗末にして捨てるのです。ひとのものを粗末にしたからといって自分のものが減るはずはないと思うのはまちがいです。習慣というものはおそろしいもので、ことに若い時にしみこんだ癖は、決して一生ぬけるものではないのですから、主家ひとのものをうっかり粗末にしていた人が、自分の世帯になったから、これから倹約しまつにしようと思っても、なかなかそうはいかなくなって、ついつい一生むだをすることになります。悪気はもちろんなくても、面倒くさいと思っては、ものをむだにするのは、自分のさずかって来た一生の宝の中から、日日にちにちむだをしただけのものを捨てるようなものです。一生あれも足らない、これも足らないと思って暮らすようになるのはもっともなことだと思います。十代の時よりは二十代、二十代の時よりは三十代、もっと年をとったらなおさらというように、だんだん福々しい身の上になろうと思うなら、少しのものでもむだにしないようにと、毎日せいぜい気をつけるようにするのが何よりも大切です。
 ものをしまつにするすべを知らないで、一生乏しい乏しいで終わったものの子供は、生まれながらに福分うすく、一代で身上しんしょうを起こしたというような人は、その親であった人も、またその親の親であった人も、代々心掛けよく暮らしたために、福分をたくさんにその子供にのこしたのだろうと思われます。
 時は金だということは、よくいうことで、時間をむだにするのは、金を捨てるのとおなじこと、ものをむだにするのとおなじことです。時をむだにすることはなまけることで、時をむだにしてなまけると、貧しくなるのは誰でも知っていることです。主家しゅかの時間だからと思わずに、若い時にせっせと働く習慣くせをつけなければ、一生まめに身体を動かすことのできない人になります。まだ親がかりで奉公している若い娘が、楽なところ楽なところとさがしまわって、なるべく働かずに日をおくる工夫をするのは、つまり時間をむだにする工夫をするのです。時間を捨てるのは、金を捨てることになるばかりでなく、知恵をも捨ててしまうのです。
 時は金だといいますが、さらによく考えてみると、時はまた知恵です。金などとはくらべものにならないほどにとうといものです。金をなにほど積んでも、人間を賢くすることはできないけれど、時を惜しんで働くと、誰でも金を得ることができるばかりでなく、心もまた賢くなり、身体も達者になります。時は金で、知恵で、またさらに健康です。
 精出せば一時間でできることを、一時間半もかかっているというような、だらしない仕事のしかたは、金を捨て知恵を捨て、その上に身体までも弱くするのです。若い時から、このとうとい時間というものを惜しんで働いたものは、どうして福々しい身の上にならずに終わることがありましょう。
 笑うかどには福来たるといいます。とかく腹を立てやすく、おこりながらに仕事をすると、仕事は少しも身になりません。あれがうらやましい、これがうらやましいと他人ひとのしあわせばかり目につく人は、われとわが魂が身に添わないものです。身にならない仕事をするのは、幸運の神の何よりもきらいなことで、また魂のぬけ出している身体には、魔がさすといわれています。人にだまされて身をあやまるようなのは、みなこういう娘です。つまらないことに腹を立てないばかりでなく、並大抵のものならば、きっとおこるほどのことでもがまんして、いつもにこにこと、日々の仕事のためにわれを忘れて働いている人の身のまわりには、幸運の神が知らずしらず寄って来るようです。福の神に取り巻かれていると、また知らずしらず常にたのしく、大概のことには腹が立たなくなります。少しのことにもつい腹の立つ人は、自分の身のまわりに、まだ福の神がついていない証拠だと思って、せいぜい不平なく勉強して暮らすように奮発しなければなりません。毎日うれしげに、熱心に働く人は、とかくこの世の中に少ないのですから、幸福の神様は確かにひまにちがいありません。ですから少し心がけたら、幸運をよびよせるのは、わりに雑作もないことのような気がします。


賢い人と賢くない人と



 いずれの国、いつの世にも、賢い人も愚かな人もあります。落ちついて心持ちの届いた人と届かない人とでは、大変なちがいです。
 しかし『姿形こそ生まれつきならめ、心はなどか賢きより賢きにもうつさばうつらざらん』と昔の人もいっているとおりです。これから精出して、栄えに栄えていかなければならない若い人たちは、鏡にうつる姿よりも、心のうつる鏡があったら、どうかして自分の心の姿が見たいと、いつも心掛けてほしいものだと思います。人間の栄えていくために、何よりも大切なのは賢い心です。ここに一つ二つの、若い人たちの心をうつす鏡になりそうなことをお話したいと思います。
 ある奥さんは、この間から苦にしていた張り物もすんだから、子供たちをみなつれて上野へでも行ってみようと思いました。留守番なしに出かけることはできないし、二人あるお手つだいのうち、どちらを連れていこうかと考えました。子供たちがいくのだから、どうしても行き届くもののほうが都合がよい。そこで奥さんは、竹さんには気の毒だが、春さんに来てもらうことにしようと思いました。
 出かけた後で、竹さんはひとりで考えました。奥さんはお春さんばかりをひいきになさるから、私はほんとうにつまらない……。それで自然に気がくさくさして、仕事にも身がいりませんでした。みなが帰ってきました。お帰りなさいましと、出迎える顔にも暗いかげがさしている。奥さんはどう思うでしょう。留守番をさせられたので、おのずと精の出ないのもむりではないが、それにしてもこの掃除の不行き届きには困ったものだ、何ごとにももう少し届いてくれたら、留守をさせても、連れて出ても、心丈夫なのだけれどと、またも竹さんに失望するでしょう。
 今度あるお家に、子供がみな招ばれました。せんだって春さんを上野につれて行ったから、竹さんをつけてやりたいけれど、留守番も思うように出来ないものを、子供につけてよそのお家に出すというのも心細い、やはりまた春さんにということになりました。手つだってもらうほうに、決してはじめからわけ隔てのありようはずはないのです。竹さんでも春さんでも、役に立つほうが重宝されるのですから、竹さんがひとりで留守をしながら考えてみたときに、きょう私のお留守番になったのは、お春さんのほうが、何ごとにも気がつくからであろうと心づいて、これから一生懸命気をつけて、奥さんに頼もしがられるようになろうと思ったらどうでしょう。仕事にも身が入って、掃除も立派にできる、そしていそいそと出迎えたら、もともと留守番をさせるのが気の毒だという心が、奥さんの胸にあふれているのですから、留守をさせても不平に思わず、いつもよりかえって立派に掃除もすませて待っているとは、ちかごろ竹さんもよほど何かがわかってきたと、次には繰り合わせても竹さんをつれていこうということになるでしょう。
 しかし竹さんは、ひょっとしたらいうかも知れません。上野へ行ったって、何が面白かろう。らくらくと横にでもなっているほうがましだと。これがまた賢い心でしょうか。ちょっとしたことにも相当によろこびの顔を見せるものには、誰でもその上のことをしてやりたいという気になるものですけれど、竹さんのようにふてたことをいった日には、誰でもかわいげのない娘だと思うものです。
 なに、ここの奥さんにかわいがってもらわなくても、どこにでも奉公するところがあると、また竹さんはいうかもしれません。それもまた賢い心でしょうか。一つの家で頼もしいものに思われることができないようでは、他の家でも大概は同じことです。一人のひとに愛想づかしをされるようでは、ほかへ行ってもそうではないでしょうか。
 けさはご飯がかたいといわれた。昼はまたおかずの煮方がよくないといわれる。何というやかましい奥さんだろうと、竹さんはまた考えました。それも賢い心でしょうか。せっかくこしらえたものがまずいというのは、言うほうでもつらいものです。誰がすき好んで小言をいいましょう。こう朝にも昼にも落度のあるのは、私の届かないためなのだから、あすからは一つ十分気をつけてご飯も立派に炊いてみよう。きょうは一体、どこの加減が悪かったのだろう。水を気をつけて計らなかったからだとか、おかずのおいしくなかったのは、火を強くしたからだろうとかいうふうに考えたらどうでしょうか。そうすると必ず、きょうよりもあす、あすよりもあさってと、仕事がずんずん上手になっていくように思います。
 賢い女はこうして誰にでもかわいがられ、ものもだんだんよくできて、ついに出世をすることになり、賢くない女は一生不平をいって、つまらなく暮らさなければなりません。


自由時間を無駄にしないように



 夜の自由時間には、いねむりをしていても、おしゃべりをしていても、またつまらない読み物などに読みふけっていてもよいと思わず、自由時間を楽しみにしてよいことをしたいものです。
 誰でも、一つの役目を持っているものには、その役目のすんだあとで、自分ひとりの時間というものがなくてはならないのです。あなた方も一日の役目のすんだあとでは、静かにすわって、わが身のことを考えてみなければなりません。考えてみるばかりでなく、わが身のまわりの当座の用事も果たさなくてはならず、行末のための勉強もしなければなりません。当座の用事とは、必要な手紙をかくとか、始終こざっぱりした服装みなりをしているために、まめに縫い物をするとかいうようなこと。行末のための勉強とは、字を習ったり、ためになる本を読んだりすることです。
 日記をつけることは、またこのごろの流行はやりのようになっていますが、それについても考えなくてはならないことがあります。日記をつけるということは、ほんとうによくすれば、いろいろな利益のあるものですけれど、せいぜい一時間半か二時間くらいのあいだに自修もしなければならず縫い物もしなければならないという、大切な自由時間を、毎晩毎晩二、三十分をついやして、きょうは暑くってほねが折れた、寒くって泣きたかった、小言をいわれていやだったというふうなことを、だらだら書くようなのは、役にも立たないことだと思います。
 毎日毎日その日にみえたお客の批評と、主家に起こったつまらない出来事を、まわらぬ筆で、その日記に書いていた女中もあり、きょうも残りもの、きょうも残りものとおかずの小言ばかりを書いていた女中もあったと、この間あるところでもみなさんのお話にうかがったことでした。そうしてその残りものというのは、そこのお家は、お年寄りもお子さんもない、しかもご主人がお留守がちなので、ご飯のたびにばたばたしないでもと、まめやかな奥さんだものだから、裁縫しごとをするそばの火鉢で、丹念たんねんに煮物をする。それが小人数なだけに、昼の煮物が晩にも残り、あすにも残ることはありがちだけれど、そのたびには気をつけて、めったに同じおかずの続かないように、続くときはちょっとあしらえには別のものをつけておくというような心くばりをしていることを知らないわけではないくせにと、ほんとうに女中の日記というものは、おそろしいと思ったということでした。
 家の中にばかり立ち働いているので、毎日毎日気のつくことは、その家の中のことよりほかにない。毎日毎日のことだから、おもしろおかしい日ばかりはないでしょう。それだから、書けば自然とそのようなことになるのかも知れません。日記というよりは、何となくあらさがし、不平ろくといったようなもののできるのは、第一に書くものの恥になります。
 書いておきたいなら、新しい料理を習ったときに、その仕方をかきつけたり、珍しいところに遊びにつれて行ってもらったときにそのことをしるしたり、のちのちのためにもなるようなことを聞いたときに書いておいたりすると、あとから出してみても、楽しみにもなりためにもなるわけです。
 手紙もまたあちらの友だち、こちらの友だちに、用もないのに書いては出すのは、大切な自由時間がむだにもなるし、双方のためにならないことです。両親のところにはいうまでもなく、お友だちにもよい手紙をきまりよく書き送るのはよいことです。
 自由時間にも、休めないというのは大変だと思うかもしれませんが、私たちにしてもごらんのとおり起きているかぎりは働いています。そうしてそれは人間の当り前です。食事時間に静かにくつろいでゆっくりすること、本気になって手早く仕事をかたづけて、一日の節々ふしぶしである大きな仕事をすましたあとで、ちょっとすわるとか腰でもかけて、ああきょうは美しい日だと空でもながめるか、新聞でも読むか、そうしたゆとりはつくらなくてはならない。ことにわれわれの大きな休みは寝ることです。睡眠時間は十分にあるように、主婦のほうでは気をつけなくてはならず、みなさんのほうでは、床にはいって本を読み、電気を消すことを忘れたりするようなことでなく、きまりよく床にはいり夢をもみずに眠ることのできるのは、ほんとうに仕合わせです。
 なお自由時間が終わったら別にさだめてある役割りによって、身のまわりと受け持ちの部屋部屋に出ているものをことごとく整理し、翌朝は一つもかたづけものをせず、すぐ仕事にかかれるようにしておくことを忘れてはなりません。そうしてそれは決して三十分もかかるまいと思うから、眠る時間の十時までにまだ時があったら、みなでくつろいで話したらよいでしょう。


味わいて食事せよ



 食事の行儀は、いまもむかしも西洋でも日本でも、ごく大切としてあることで、不行儀なたべ方をするものは、人柄のいやしい証拠とまでいわれています。急がずに気を落ちつけて、ゆっくりと食事をするようにし、ご飯もおつゆもそのほかのおかずもよく味わって、不加減だと思うときは、なぜであったろうと考えてみるようにして、次からはもっと加減よくしたいと思わなければなりません。
 お茶づけでかき込んだり、からい煮物のおつゆを、ご飯の上にかけて食べたりするような、行儀のわるいたべ方をしていると、ご飯がかたくってもやわらかでも、十分に洗ってあってもなくっても、不加減なおかずでも、とんと分からずにしまうのだから、豆腐一つ煮るのでも、あるときは醤油が勝ったり、あるときは砂糖がすぎたり、始終不同な煮方をしても、小言をいわれるまでは、一向平気でいるようなことになります。一家の人数はきまっているから、ふだんに用いる煮物の分量なども、おおかた一定しています。それだからすこし気をつけていると、この煮物にはたいがい醤油がどのくらい、砂糖がどのくらいで、加減よく出来るということが分かるものです。毎日のご飯やみそ汁の加減はなおさらのことで、まずこの二つが日々おなじ加減においしくできるようでなければならないと思います。
 つね日ごろこういうふうに考えていさえすれば、料理について、ああしてこうしてといいつけられることも、なるほどと十分に合点がいって、聞き損じは少なくなるでしょう。
 すべてものごとに注意するよい習慣を、まず食物を味わってたべることから、けいこするのはよかろうと思います。一様に煮魚焼き魚でありさえすれば、どんな煮ようでも焼きようでも、同じ味だと思ってたべているようでは、万事に心細いわけです。


二つの心得



 なんの仕事でも、仕事をするのには、二つの心得が大切だと思います。その一つは、仕事には順序があるということ、いま一つは、するところまでするという気象です。
 みなさんは裁縫をならったことがあるでしょう。裁ち方はもちろんのこと、縫い方にも一々順序があります。その順序をもしも無茶苦茶に考えなしにした日には、どこまでも手間どれて、そうして幾枚縫っても手のあがるものではありません。またつまでもそで口でもたもとまわしでも、ところどころのきまりは面倒をいとわず、きちんきちんと、するところまでするという気でなければ、きれいに縫いあがるはずはありません。
 裁縫ばかりでなく、掃除でも、あとかたづけでも、洗たくでも、細かにいうと、お味噌をするのでも、香の物を切るのでも、みなこの順序よくということと、するところまでするという気を持たなければできません。すった味噌をそこに置いて味噌こしをさがしたり、洗ったすり鉢に味噌かすが残っていたり、切って出した香の物にぬかがついていたり、ぬか味噌がぬきとったまま押しつけられずにあったりしては、おつけだてもできない、香の物も出せない女といわれても仕方がないのです。
 ご飯のあとをかたづけるにしても、残りものの上をこしてよごれた食器をはこんだり、あちらにお茶土びんが忘れてあったり、こちらにご飯粒が落ちていたりするようでは、かたづけたとはいえません。まずはじめに、残りもの醤油つぎなど戸棚に入れ、つぎに箸箱土びんお盆というような、まわりにあるものをかたづけ、つぎにお菜箸さいばしで食器の中に残っているものをのこらず一つの器にとり、わん茶碗ちゃわん、皿、小皿というように、それぞれに重ねて盆にのせ、流しのそばにはこび、おしまいに落ちているものがあるかどうかを吟味して、ご飯粒の一つまでことごとく拾ったところで、食卓をふきます。この仕事はそこで食事をした家族がすることですが、すべてのかたづけの参考にもとついでに書きました。
 流しでは、まず一つの器に入れてある残りのものを、あたりに落ち散らぬように捨て、つぎによごれの少ないものから下洗いして、清洗いをもすませ、水の切れるようにしてあるざるにとり、一度ふいて、またかわきふきんをかけ、清らかな盆の上に、やはり前のように、椀、茶碗とそれぞれに重ねて、一つでも置き場所のちがわないようにかたづけ、さて鍋類の洗いにうつり、終わりにふきんを洗って、流しもとおよび台所をきれいにし、雑巾ぞうきんを洗い、食事部屋を掃いて、さらに丁寧に食卓をふき、あとかたづけのすんだということを報告すること。
 朝、寝間を掃除するにしても、いろいろのものがまわりに置いてあるままで、夜具をたたみにかかったりすると、足場もわるく、置いてあるねまきなどもきたなくなります。まず枕もとに置いてあるものからかたづけ、次にぬいだねまきなどを衣紋えもん竿にかけて日光にあて、まわりに何もなくなったところで、丁寧に夜具をたたんで、きまりどおりに順序よくしまうこと。それから部屋の中にある、持ち出せる器にはたきをかけ、次の部屋にはこび出し、掃き終わったら、すべて元の位置になおすこと。掃除ができたという部屋に行ってみると、机がまげて置いてあったり、部屋の右のすみに重ねてあるざぶとんが左に行っていたり、置いてあったものを、ちょっともしまわずに、箪笥の上にのせてあったりするようでは、部屋の掃除がするところまでしてないということになります。
 どうも手順を考えず、行きあたりばったりに仕事をして、あちらを落としこちらを落とし、すべて仕事が中途はんぱになって、するところまでしてないのは、多くの若いお手つだいの人たちのくせだと思います。せっかく頼りにして働いてもらっても、それではずいぶん困ることですが、それよりも何の仕事でもするところまで出来ないというのは、皆さんめいめいのために何よりも困ることまた恥ずかしいことだろうと思います。
 きのうのみそ汁はお豆腐で、けさはねぎだというだけのちがいはあっても、大体は毎日おなじことをくり返すようなものだから、ここの掃除はこう、あの仕事はどうというように、こちらの指図の届かない一つ一つの仕事にも、自分でよく考えて手順をさだめ、日々それによって、洗たくでも掃除でも、手をかけたくらいなら、するところまでするという、しっかりした気をもって、短い時間に落ちなく立派にやりあげてくれるなら、ただにこちらが助かるばかりでなく、またみなさんの自修時間がふえるばかりでなく、めいめいがいつとなく、もっと賢い女、もっと頼み甲斐がいのある、しっかりした女になれると思います。
 いつもいつもいう通り、賢い人とぼんやりした人とのちがいは、ただものごとに注意して、仕事に十分身を入れてするのと、なにごともいきつき放題にしているのとのちがいだけなのです。どんなことでも気をつけていると、それからそれといろいろのことを覚え、いきつき放題にしているとただ手を動かすだけで、人形の運動とおなじこと、なにも心にとまらないものです。


目と頭を忘れてはいないか



 私たちのようにすわって仕事をしているものは、とかく手足が思うように動かなくなるものです。それで私は平生みなさんの活発に働くのをみて感心もし、またうらやましくも思っています。しかしみなの働きぶりをみて、いつも不思議でならないことが一つあります。それはあなた方は、めいめいに目と頭のあることを忘れているようにみえることです。
 けさ台所の下駄げたぬぎを掃いたはずだのに、きのうの夕方さした傘が、昼ごろまでそのままに立てかけてあったり、庭を掃くのをみていると、たとえば紙くずのような大きなものも拾わずに、掃きはじめから掃きしまうまで、ほうきの先で庭中をころがし歩いたり、お茶碗やお鍋を洗うのをみていると、手の先にかなり力を入れているのに、ときどき十分にきれいになっていなかったり、お盆を縞にふいたり、洗たく物を竿にかけるのに、薄いものを日当りの強い高いところに、厚いものを下にかけたり、たたみものを重ねて置くときには、ふっくりとしていなければならない子供たちの洋服の上に、なるべくしっとりと落着くほうがよい和服の単衣をのせてあったり、この二、三日のあいだに目に入っただけを数えてみても、だいぶ沢山あるようです。どうも手足を働かせるだけで、目と頭を忘れているのではないでしょうか。
 それでなければ、下駄ぬぎを掃くときに、ここに自分のきのうさした傘があると、気がつきそうなものです。傘があるなら、ひろげてかわかしてしまおうと思いそうなものです。もし目が働いているならば、ほうきの先のみすみす重くなる紙くずを庭中ころがしまわるのも不思議です。頭が働いているなら、こういうものはまず取ってちり取りにいれるほうが始末がよいと、必ず思わなければならないわけだと思うのですが、どうでしょうか。
 手を動かしさえすればお盆がふけると思っているのはまちがっています。縞になったのを平気で持ち出すのは、仕事をするのに目を使わないからで、水気の多いふきんでふいたら、次にかわいたふきんでよくふかなければならないというところに気のつかないのは、頭をつかっていない証拠だと思います。洗たくをするのでも、まずよごれ具合に目をつけて、よごれていないところはざっと、よごれているところは、幾度でも落ちるまではよく洗って、よくよく奇麗になったということを見さだめて、次にうつるように、ゆすぐときにも同様に、目をつかい頭をつかわなければ、決して一枚の洗たくものでもほんとうにできるものではありません。
 前にもいったように、私は慣れないことだから、どうしても皆さんほどに、手足の動かないことが多い。しかし台所を自分ですると、皆がするよりも順序よくかたづきます。それはのろい手足ではあるけれども、頭と目がおもになって始終働いているからです。手や足はどうでもよいとは思いません。しかし大きいことでも小さいことでも、人間の仕事にまとまりをつけるのは頭の役で、つねに手足のする仕事を見張って、これを監督するのは目です。しまりをつける頭もつかわず、見張り番の目もつかわずに、ただ手足ばかり動かすのは、ちょうど暗闇くらやみで仕事をしているようなものでしょう。
 ことに手足の力のあまりいらない仕事、おもに目と頭とでしなければならない仕事も、一日のうちには幾度もあります。近い話が子供がおかゆをやめて、このごろからご飯になったのだから、当分いつもよりご飯をやわらかに炊いてと頼んであります。毎日よくできていましたが、今朝のご飯はちょっとみてもかたいことが分かっていたのです。けれども皆は、気がつかないで、そのままつけてやろうとしていました。目と頭がいつも働いているならば、ご飯をちょっとみた時に、これはかたいと早速気がつくはずです。そうしてすぐに子供の分をおかゆにしなければならないと考えつくはずなのです。
 目と頭がぼんやりしていると、しなければならない仕事を知らずにぬかしてしまうことになります。手や足は仕事があるとなってから、呼び出して来ても間に合うのですが、目と頭だけは夜眠っているときのほかは、つねに働いていなければなりません。
 上に引きまわしてくれる人のある、奉公中はまだよいけれど、それでは家をもったときに、年中下手なことばかりして、家の中のこともよくいかず、子供もつまらなく育つということになりましょう。すわっているものの手足が十分活発に動かないように、若くて働く人の頭が、込み入ったことにまで気のつかないのは当り前ですが、日常一通りのことには、そのつもりで気をつけさえすれば、誰の目でも頭でも働かないわけはないのです。
 みなさんが頭と目とを自分でつかってくれないばかりに、用事をたのむほうのものが、始終みなさんの目や頭の代わりにならなければならず、一人使うよりは二人と、雇人の多くなるほど、気骨の折れることは大変なものです。大勢の女中をほんとうによく使っておいでになるお家では、奥さんはひまどころではなく、かえって出かける時間も少なくなるというようなふうです。それでは使われるほうも、手綱たづなでもつけて引きまわされるような具合で、必ず窮屈なことであろう。自分の目と頭を油断なしにつかって、はたからやいやいいわれずに仕事をするほうが、どんなにか楽しく、また励みのあることだろうと思います。
 これからはふいた縁側にきたないところがあっても、洗たくものがよく出来なくても、ここがまだこんなによごれているではないのといわず、これはあなたの目と頭をつかった仕事かと聞くつもりです。どうかそう聞かれないうちに目と頭をつかうようにしてくださいませ。


掃除のしかた



 掃除のもとになるのは、物の置き場所だということを、まず何よりも心に入れることが大切だと思います。物の置き場所がわからなければ、掃除はてんでできるものではありません。物の置き場所は、家々で必ずきまっています。気をつけてまちがいのないようにしなければなりません。
 台所のこまこましたもので、主婦のほうからどこという置きどころを指図されてないものがあるならば、自分でここという置きどころをさだめておくように、また物によっては、この置き場所をどこにしましょうと、主婦の指図を受けるようにして、どんなものでも置きどころの分からないままで、うっかりしているようなことがあってはなりません。一軒の家の中に、一つでも置きどころのきまらないものがあったり、またきまっていても、知らずにいるものがあったり、知っていてもうっかりして、その置き場所を十分にまもらない雇人があったりすると、家の中はみだれて気持ちわるく、年中さがし物をしなければならないのだから、みなの骨折りが一そう多くなります。掃除のもとは物の置き場所をただすことだということを、かならず覚えるようにしてくださいませ。
 すべて掃除のために室内をかたづけるときには、その部屋のものでないものから持ち出して、かならずそれぞれの置き場所におさめること(茶器など洗ってからでなければしまわれないものは、洗いものを置くところに持っていく)。その部屋に置くべきものでないものが、一つも残らず部屋の外にはこび出され、それぞれの場所におさめられたところで、ごみを掃き出すほうの障子を明けはらい、その部屋に備えつけてあるもの、たとえば火鉢とか、ざぶとんとか机とかいうものに、はたきをかけて次の間にはこび出し、次の間とのあいだをめ切って、障子にはたきをかけ、つぎに室内を丁寧に掃き出して、次の間にはこび出してあるものを、あらためて十分に整理して(机火鉢をよくふくことなど)運びいれ、それぞれの位置にただしくすえること。これが室内掃除の大体の順序です。はじめのかたづけ方について、いま少しくわしくいっておきましょう。
 最初その部屋のものでないものをはこびだすときに、もしもその中に食べ物など(菓子の盛ってある菓子器など)があったなら、一番さきにかたづけなければなりません。なぜというのに食べ物などをそこにおいたまま、かたづけものをするためにあちこちすると、その上にほこりがおくからです。食べ物でなくっても、きれ類とか塗り物とか、すべてほこりがおいては一そう困るようなものは先にかたづけること。
 また大概の女中たちのかたづけものをするのをみていると、とかく大きいものを気にして、さきにはこびたがるようですけれど、細かいものがあたりにたくさん散らばっている中から、大きいものをぽつんと引きぬいても、そのあとがちっともかたづいたようにないばかりか、かえって一そう乱雑にみえて、かたづけものが余計面倒な気にもなるし、また小さいもののそこここにある中を、大きなものをかかえてあちこちすることは、ものこわしのもとにもなります。小さいものから手ばしこくかたづけてかかると、大きいものはまだ残っていても、部屋の中がそのかたづけただけずつ整ってみえ、かたづける自分のはげみにもなり、はたからみてもたいそう器用に取りまわしているというように思われるものです。
 以上の筋道を応用して考えると、台所も十分にきれいにしておくことができます。
 終わりにあらためていっておくのは、一つの部屋を掃除するのには、その部屋の中に置くべきものでないものを、一つでもその部屋に残してはならない。またおなじ部屋の中でも、こちらのすみに置くべきものを、向こうのすみに置くというふうなことは、たとえどんなに小さいものでも、決していけないということです。
 箪笥たんすの上に、子供が雑誌をのせておく(のせておくほうの子供はもちろんわるいから、それはまたそれで教えるけれど)その部屋を掃除した女中が、そのままにしておく。次にまた出入りの商人が、手拭を持ってお中元にくる。誰かがそれをまた箪笥の上にのせる。すでに二つ三つのものがのっていると、ほかの女中も子供もちょうどそこを物あげ場かなんぞのようにして、あれものせこれものせる。いつの間にか山のようになって、何をさがすのにも、あすこにはいろいろなものが載っているからというので、ないものまでも必ず一応そこをさがすというようなことになります。最初の雑誌一冊がいつもこうした不整理のもとになるのですから、めいめいに気をつける上に、朝夕の掃除の任にあたるものは、また一そうに気をつけて、一物いちもつも残さずそれぞれの場所にかたづけるようにしなければなりません。留守中のとどけものなど、置き場所のわからないものは、主婦にたずねること。もしも留守であったら、かねてきめてある当座棚の上にのせておいて、のちに忘れずに指図をうけるようにすること。引き出しの中にものをしまうにしても、いつでも右の端にあるものを、左の端に置くようなことをすると、出すときにかならずちょっとまごつきます。物をそれぞれのおき場所に十分たしかにしまうことができないなら、それは掃除のできない女ということになります。
 つぎには掃除の仕方ですが、はたきをかけるのに、大概まっすぐに障子にむかって、大そうな勢いで紙ばかりたたくように見えますが、あれではいけません。ななめに立って障子の桟を目がけて、順々にさらさらと十分ほこりの落ちるまではたくうちに、紙も自然よきほどにはらわれるものです。ほんとうに丁寧にはたくのには、はじめに向こう向きにななめになって四枚なら四枚ある障子をすっかりはたいたら、こんどは別のほうに向きになおり、最後にはたいた障子から順々に向こうにはたいていくので、こうすると障子の桟の四方が一つ一つすべてきれいにはたかれるのです。しかしそのひまのない場合には、朝はこちらから夕の掃除には向こうからというようにしてもよいわけです。
 それからほうきをとって掃くときに、押入れの唐紙からかみ(ふすま)でも、次の間とのあいだの唐紙でも、また縁側の障子でも、すべて一枚一枚あけて掃くこと。敷居にごみのあるのは大そうみにくいものです。ことに押入れは唐紙をあけたら、敷居ばかりでなく、ちょっと置いてあるものくらいはのけるほどにして、できるだけ押入れの中までも掃くようにすること。ほうきの先でぱっぱとごみをたてる流の掃き方はいけません。敷居にごみの残っている掃き方を、あるお家ではめくらの掃除と名をつけているということです。よい目を持っていながらめくらの掃除をしないようにしてくださいませ。


雑巾ぞうきんがけのしかた



 雑巾ぞうきんがけを十分にして、つねに縁側や台をきれいにするためには、まず雑巾の数から考えてきめておくことが大切です。それは一つの雑巾で、板の間もふき、畳に水のこぼれたのもふき、朝もつかい晩もつかうというようにすると、どうしても雑巾が不潔になって、雑巾がけの効能がなくなるからです。
 考えてみると雑巾の数もなかなか多くいるもので、広い家は別として、普通の家でも、これからここに話すような仕方だと、まず座敷まわりの雑巾が三つ、台所のが二つ、あいだで座敷に水のこぼれたというようなときにつかうのが二つ、おなじく台所のが二つ、棚ふき三つ、食卓ふきが二つ、便所上下二つ、ちょっとそういうふうに考えてみても十五、六はぜひいります。そしてその雑巾や台ふきには、どこの分どこの分としるし縫いをしておかなくてはなりません。またそれだけのものを置くところも、必ずそれぞれに考えておかなくてはなりません。戸外そとに適当な雑巾のほし竿、台ふきのためにはまた別に、うちには台ふきの置き場、座敷に水のこぼれたときにふく雑巾の置き場、おなじく台所用の置き場、それぞれさだめておくのです。
 バケツの数もりどころも、もちろんきめておかなくてはなりません。
 雑巾が多すぎると思う人もあるでしょう。それはこういうふうにつかうからです。一体雑巾がけというものは、ちょっと長い廊下などを、一つの雑巾で、洗ってはふき、また洗ってはそのさきを拭くというようにすると、洗うたびに水をかえるのは面倒ですから、ついだんだんに水が濁ってきます。少しでも濁った水でふいていると板の間が黒くなります。
 それだから、まず朝の雑巾がけのときに、座敷からはじめるとすれば、きれいに洗って外の竿にほしてある、座敷用と縁側用の雑巾あわせて五つをとり、井戸端で五つとも水でゆすいでかたくしぼり、バケツに入れて持ってきて、その五つの雑巾をみな使ってしまったら、また一どきに清水せいすいで洗ってはふくというようにするのです。こうすれば決して一つもよごれた水をつかわないことになります。家がひろければ何度も何度も洗ってくるよりも、雑巾の数を多くすればよいのです。雑巾がけが終わったら、さらに幾度も水をかえて、どの雑巾もよくよく洗い、座敷用の雑巾一つをのこして、またもとのように外の竿にかけておくこと。
 四つの台所雑巾のつかい方も、また同じことです。
 朝晩にふく雑巾は、すむとこうして一つのほかはほし竿にかけてしまう。そしてその一つは、あいだで座敷に水がこぼれたの、ちょっと台所がきたないのというときに使います。これは前のように置き場所を定め、朝使ったのは、かわかないままにおいてあるのですから、いま一つのをかわかして取りかえるのです。こうして二つの座敷用の雑巾を、つかったら洗って交代に例のほし竿に持っていき、また交代に取り込んでくる。そうしていつもさだめの場所に、一つずつの座敷用雑巾を置くことです。
 それで朝夕のふき掃除用の雑巾が、座敷用三つ、台所用二ついるほかに、あいだの雑巾がまた二つずついるわけになります。
 勝手もとには、いつでも前の雑巾バケツ一つをおいておき、あいだの雑巾も、使ったたびに、洗ってひろげておくことにすること。(雑巾のよごれたままつくねてあるのは、家の中をきたなくするもとになります。)
 食卓ふきと、棚ふきはやはり使ったたびに、洗ってひろげておくことにして、日に一つずつ、きのう使ったものは、よくよくしゃぼんで洗って干し竿にかけることにして、きのうかわかして置いたものをあらためて備えておくのです。棚をふくときは、どこでも水が近まにあるから、幾度もちょいちょい雑巾を洗うこと。
 雑巾がけは、すうっといちどきに長く早くふいてしまわずに、じゅうぶん両手に力を入れて、こまかく手を動かし、一つのところに、二度三度ずつ雑巾の当るようにふくこと。
 なお雑巾の、厚ぼったくさしたのは、かわきもわるく、板にもぴったりつかず、すみずみをふく時にも都合がわるいからよくないと思います。普通の手拭ぐらいの大きさのきれがあれば、ちょうど一つの雑巾になります。ことに綿屋で売ってくれる綿袋という大袋は、切ってそのまま雑巾につかうと、水ぎれもよく実に具合のよいものです。
 ほうきの先と、台所用の上ぞうりのうらを、ときどきソーダ湯で洗うことを忘れないように。せっかくきれいな畳も、よごれたほうきで掃いていると黒くなり、ふきあげた板の間も、裏のきたないぞうりで歩いたら、じきにどろどろになります。
 掃除ぐらいは誰にでもできる、雑巾がけのできない女があるだろうかと、ちょっとは思われるようなものの、私のみたところでは、ほんとうに掃除のできる女中、雑巾がけのできる女中というものはあまり沢山ないように思います。この二つのことがまめにできると、きれい好きな女として、ひとにも重宝がられ、家を持っても一生涯さっぱりと暮らすことができます。
 前にははき掃除の心得をかきました。雑巾がけはまたこのとおりにしさえすれば、かならず誰にでもほめられるほどに出来ます。


炭火の扱い方



 すみとりの底に、粉炭をためてはならないこと。炭を出す時にはかならず用意の粉炭入れに、くずをうつして、さっぱりときれいなすみとりの中に、わらくず一つまじらないように気をつけて、新たな炭を出さなければなりません。
 すみとりの底に残っている細かな炭をはらわずに、その上にその上にと炭を出し、たまりたまった細かなくずを、七りんにつかうなどは禁物です。細かな炭を七輪につぐと、網の目をもるばかりでなく、おこりも悪く、煮物のすんだあとで、残りの火を消しつぼにとることもできません。粉炭は朝長火鉢に入れて、その上に火を入れると、たどんと同じようなわけで、なかなか長くもつものです。
 どんなによくおこっているにしても、七輪に残った堅炭をつめたい長火鉢に十能からどさりとあけて、ぞんざいにいけておくようなことでは、長火鉢の火は始終なくなって、一日のうちに幾度も幾度も火をふいたり、火だねをこしらえたりしなければならないことになります。長火鉢はいうまでもなく、毎朝きれいに掃除し、火つぼをよく掘って、次に切り炭をその大きさに従い二つなり三つなりよくいけて、その上に火だねをのせ、まずまわりにざっと灰をよせておき、半分ごろおこったところで更によくいけて、むやみにかきたてないようにすること。
 煮物のときに七輪に残った火は、こうして長火鉢の火を丁寧にいけてあるなら、やはりその上にのせるよりも、すぐに消しつぼにとった方がよい。お昼の支度のときがきて、火だねを長火鉢からとる時には、前にいけてある切り炭のうちの一つをとって、もしもそのあとの火があまり少ないと思うならば、その取ったところにまた一つ新しい切り炭を入れて、もとのとおりいけておくこと。長火鉢にかかっていた鉄びんが、せっかく熱くわいていても、火だねのいるときに、残らず長火鉢の火をとってしまうと、たった鉄びんは、またもともとにめてしまって、急いで七輪にかけて沸かさなければならないようなわけになります。手数とたきものの不経済、この上なしといわなければなりません。
 火だねのために長火鉢の火を残らず取ってしまうことの不経済は、一度わかした鉄びんを二度わかすことになるばかりではなく、炭というものは、あたたかい灰の中に、そっとしておいてこそ、長くもつものですが、つめたい火鉢に入れた火は、すぐにたってしまうものです。火だねをとるので、幾度も長火鉢の火つぼをからにつめたくしては、そのつめたい中に、火をいけると、そのいけた火は、また存外早くたってしまう。このようなことがつもりつもって、一軒の家の不経済となるのですから、遠からず家持ちにならなくてはならない若い人は、将来のちのちのためにかならず気をつけるべきことです。
 子供のある家などでは、おかゆだとかそのほか火鉢にかけるものが多くあります。火鉢で煮るものは、どうせ火を強くするにおよばないものですから、前にいけてあるだけの火で足りればよし、もしも足るまいと思うなら、炭と炭との間をくつろげてよきほどの炭(かた炭でよし)を入れ、おこりかけたところでざっと灰をかけ、そっとして煮ること。煮物をおろしてからは、灰をあつくかけることを忘れないように。
 ついでにいっておくことは、長火鉢の上には、かならず水さしを用意すること。いわずとものことではあるが、銅壷どうこはまたかならず毎日清潔によく洗い、火鉢におかゆなどがかけてあるために、鉄びんの冷えているときは、いつでも銅壷のお湯で、お茶などの間に合うように、銅壷のお湯をとったら、またかならず用意の水さしから水をさし、お湯を切らすことのないように、火がなかったりお湯が切れたりするのは、まごつくもとになるばかりでなく、台所をあずかるものの恥だと思うこと。
「おこすのに手間のいる炭火ばかりならだけれど、ガスがあるから電気があるから、いつでもすぐにお湯がわく」と思うでしょうが、火鉢の火に気をつけないで、始終消えがちにしておいて、お湯のいるたびにガスでわかして、またさまし、またいるときに沸かすというようなことをしては、人出入りの多い家などでは、ガスの不経済がたいへんになります。ガスの不経済ばかりでなく、湯わかしがいたむばかりでなく、手間もそれだけついえるわけになります。
 お茶の湯には炭手前といって、早くいうと炭火のおこし方のけいこがあるのは知っているでしょう。総体火というものは、その上にかける釜なり鍋なり、またへっついなり、七輪なりにしたがって多すぎてもまた少なすぎても、お湯のわき加減、煮物のでき加減もわるくなり、薪でも炭でもまたそのもやし具合、おこし具合で、少しの薪炭でもかえって火の力が強くもなり、またたくさんの薪炭をつかった割合に、一向火の力のきかないこともあります。
 炭のおこし方くらい誰れだって知っているなどと、無雑作にいってのけられるものではありません。むかしのことわざにも、火を上手におこす女は、家持ちがよい女だといっています。火鉢や七輪に横にぎしぎしと炭をいれたり、お鍋の中をみると火の強いしるしの焦げつきが、どれにもついているようなことはないでしょうか。
 湯をわかすくらいは、強火でわかしても、弱火とろびでわかしても、なんの変わりもあるまいと思うかもしれませんが、弱火で煮えている湯で、お葉でもゆでてごらんなさい。あくもぬけず、きすくって食べられないというのを知っているでしょう。それかといって、強すぎる火でにえくりかえっているお湯でゆでてごらんなさい。むら煮えでこれもまたこまったものです。その上あまりの強火は鍋をわるくすること非常なものですから、気をつけなければなりません。
 七輪に火をおこすのにも、へっついに火をたくのにでも、炭や薪をぎしぎし詰めこんでは、押しつけられている薪は、ただくすぶるばかり、炭は自然に流れるばかりで、ほんとうの火力は出ないものです。炭でも薪でも、間のあまりくっつきすぎないくらいに注意して、薪ならば一本一本自由自在に威勢のよいほのおをあげて燃えられるように、炭でも同じこと、一つ一つ十分におこることができるような具合にいれなければなりません。へっついの下も風呂の下も毎日灰をかき出し、大きい灰ふるいを用意して必ずそのかきだした灰をふるい、小さな消し炭を消しつぼに入れること。
 炭の経済の大体は、まずこのようなものでしょう。薪炭のことばかりでなく、すべて毎日の仕事にこれだけ気を入れていると、一日ましにそのひとは賢くなります。反対に毎日の仕事をぼんやりと、なんでもただ面倒のないようにないようにとしていては、ただすべてのものがむだになって、前に話したように、めいめいの福分をへらすばかりでなく、その心もまただんだんに愚かになるものです。日々の仕事に気を入れて、賢いものになることは、また実に仕合わせのもとだということを、よく考えてごらんなさい。


留守居の心得



子供を上手に扱うこと


 主婦が外に出て、何よりも心にかかるのは子供のことです。留守をあずかっている女中が、この心をくみとって、子供の世話をよくしてくれるのは、母親にとってどんなにうれしいことだか知れません。
 たとえば、おやつの時や食事の前には手を洗うとか、食卓テーブル前掛けをかけるとか、小さい子供は何時に昼寝をするとか、大きい子供は、学校から帰って来たならこうこうするとか、どこの家でも、子供にはみなそれぞれの規律きまりがあります。母親の留守のときには、よく気を配って親切に世話をやき、一つでもこれらの規律きまりをやぶらせないようにしてやることは、一番に大切なことです。
 母親がよんどころない用事で外出して、帰ってきたときに、子供たちが髪をみだしたり、土だらけになったり、おさない子供はまた、昼寝もしなかったというので、いつになくきげんがわるく、学校道具は縁側におきっぱなしになっているし、めったに出さない大事なおもちゃときめてある人形が、庭にすてられてあったりすると、子供たちの規律きまりも忘れほども忘れて、あばれまわった様子が見えるようで、けがもなかったからまずよいとは思うものの、留守中の乱脈らんみゃくが思いやられてつらいものです。
 これに引きかえて、子供たちが母親の帰ったときに、皆ちゃんとした風をして出むかえてくれ、学校から帰った子供は、道具もはかまもハンケチもみなそれぞれに整理して、置くべきところに置いてあり、おさない子供も、いつものように昼寝をすませたといい、薬をのんでいる子供でもあると、またやはりきまりどおりにお薬をもらったというようなふうであると、留守をあずかってくれたものの親切が、しみじみうれしく思われるものです。
 子供はなかなか気ままなものだから、容易に皆のいうことを用いないことも、それはもう必ずあることではあろうけれど、幼稚園の先生にでもなったつもりで、さまざまに工夫して、上手に規律きまりを守らせるようにしてくれるのは、子供のために仕合わせなばかりでなく、またのちのち自分が母親になったときのためにもなることです。

早目に仕事にかかること


 もういま時分は、部屋の掃除もすんでいるだろう、風呂もわいているだろう、帰ったらこうしてああしてと心づもりをして帰ってみると、風呂の火のおこり具合が悪かったとか、子供があまり一杯にちらかしたので、掃除に手間がいり、ついまだすんではおりません。ほし物を取り込むことも、そんなこんなで忘れました、などというようなことがあると、心して間に合うような手都合にはしてあるものの、留守であったからいたし方もないと、別に不足もいわずにすましはしても、何となく頼み甲斐がいのないような気持ちがします。おくれたために、あわてて風呂の火にかかったりすると、かえっておこりにくかったり、間で消えたりするようなことにもなりやすいものだから、主婦の留守には、部屋の掃除でもほし物の取り入れでも、風呂をたくのでも、すべて早目にとりかかり、おちついて仕事をすると、めったにし損じはないものです。掃除はすんでいるだろうが、風呂はまだかもしれないというつもりで帰ってきたときに、お風呂ももう沸いておりますといってくれると、みなの留守中の働きが、一そうに引き立ってみえます。

気働きのある処置をすること


 朝の天気はうららかであったので、夜具を干さして出かけたあとで、思いがけない風がでてほこりだつときなどは、心づいて取り込んでくれたかしらんと、気になるものです。帰って何よりさきに見てみると、ほこりのたつ中に、夜具がそのまま干してあったり、また雨がふりだしたので、ほし物はいれたけれども、はなれの縁側は降りこむままでガラス戸がしめてなかったり、お天気だからきょうはなるべく子供を外であそばせるようにといって出たからといって、思いのほかに寒くなっても、また風がでてきても、やはり外であそばせてあったり、雑巾がけは朝だけだからという気持ちで、午後の風に廊下中ざらざらしても、ついふいておこうというまでの心くばりがなかったりするようでは、十分に安心な留守居とはいわれません。雨が降る風が吹くというようなことばかりでなく、主婦のいいつけて出たときと事情のかわるような場合は、いろいろのことによくあるものだから、留守をあずかるということは、一つはめいめいの気働きの練習のためにもなって楽しみだという気で十分にしてほしいと思います。

金銭の出入と雑用をかきとめておくこと


 金をあずかったものは、買い物をしたたびに、あずけてある当座帳にしるし、取り次ぎをしたものはまた留守中の来客の名と、忘れてならない用事とをかいておくこと、受け取った郵便物を一定の場所におくことをおこたってはならないこと。

むつまじく静粛に


 主婦の留守中に、子供を大声でとがめたり、朋輩ほうばい同士いがみあったりすることは、もちろん決してしてはならないことですが、さりとてあまり調子づいて、子供と一緒にかけまわったり、笑ったりしゃべったり、大さわぎをしているので、いつもは真面目な顔をして、ご用を聞いている、八百屋やおや万屋よろずやまでも、仲間入りをして、一そうに笑いくずれているために、玄関に案内の声のあるのも耳にはいらず、ようようそれと気がついて出てきた女中の、ただいまは皆留守でございますなどというと、お客様はどんなに不満にお思いになることだろう。ことに主婦の留守中に、こう女中たちがさわぎまわっているようでは、平生の不取り締まりも思いやられるなど考える方もあるだろうと思います。留守居している皆の恥になることだから、決してそういうことのないように、家を取り締まるものの留守のあいだは、みな心をあわせてむつまじく、しかも静かに暮らすというのは、なにより大切な留守宅の規律だということを忘れないようにしたいのです。
 留守居の心得の中には、子供を上手に扱うということ、早めに仕事にかかるということ、それから臨時の出来事に気働きのある処置をすること、金銭の出し入れのあいまいにならないように、報告すべき用事を忘れないように気をつけることなど、ほとんど主婦の一家をおさめると同じだけの働きがみなことごとく含まれています。のちに家を持つときのために、何よりもよい練習だと思います。


使いにいくとき取り次ぎに出たとき



 使いにいくときは、気をつけて、こちらの口上をよくきいて、その言葉ばかりでなく、その口上の意味をも、とくと心に入れて、まちがいのないようにしなければなりません。それに対する先方の口上も、また同じように、よく落ちついて、聞きわけて帰らなければなりません。同じことをいっても、使いのものがぞんざいな言葉でいったために、先方に不愉快な思いをさせたり、また先方の口上が普通の口上であったのを、使いのものの少しの言葉づかいから、ばかに恐縮しているように、こちらに聞こえたりするようなことがあってはこまります。
 玄関に取り次ぎに出たときも、落ちついてつつしんで、よく来客のいうことをまちがいなくききとり、こちらに通ずるようにしなければなりません。苗字みょうじをまちがえたり、用向きをまちがえて取り次いだりしたために、約束してこられたお客様を断わったりするような粗忽そこつのおこることもあります。取り次ぎをまちがえるのは、じろじろと来客の服装などをみまわしたり、口上をききながら、ああいつかも来たことのある人だなどと思ったり、またあまりにお客の立派なのにおどろいたり、まあなんという横柄なお客だろうとしゃくにさわったり、おかしな人だと思ったりするからです。心の中につとめてなにも思わずに、どういう場合にも、つつしんで落ちついて、取り次ぎをするようにというのは、ここのことです。


こうすれば子供に好かれます



 子供というものは遠慮のないもので、私、竹さんは大好きだけれど、春さんは大きらいよなどといいます。一度や二度のことならばまだしも、始終このようにいわれた日には、子供のいうことだとは思いながらも、誰でもよい気持ちはしないはずです。おなじなら春さん春さんと好かれてもりをするほうが、どんなによいかしれません。子供に好かれるのには、どうしたらよいでしょうか。

返事をよくすること


 子供が春さん春さんと呼んでいても、返事をする声がさっそくにきこえないことがたびたびあります。大人おとななら仕事に一生懸命になっているので聞こえないのだろうとか、こちらの声が小さいのかもしれないとか思ってみるのだけれど、子供には一向そのような思いやりはありません。二度三度と呼んでも返事がなければ、すぐとじれてしまいます。そうして、かあさん、春さんは呼んでいてもお返事をしませんなどというようなことになります。こういうことがときどきあると、子供のほうでは遠慮なく、私は春さんが大きらいといい、春さんのほうでは、子供たちを、またあまりかわいいと思わないようになります。
 ちょっと考えると、主人や主婦の呼んだときに、すこしでも返事のおくれるのは、いかにも失礼のように思われるが、ちいさいものとなると、さほどでもないような気がするので、大人の呼ぶ声が自然に早く耳に入り、子供のよぶときは知らずしらず油断しているというふうになりやすいのだろうと思いますが、大人に呼ばれたときよりも、子供に呼ばれたときのほうが、もっともっと大事だと思って欲しいのです。なぜなら、前にもいったように、子供というものは、呼んだときにさっそく返事をしなければ、聞こえなかったろうかとは気がつかずに、じきに春さんがわるいというように思ってしまって、せっかく清らかな子供の心をにごらせ、いじけさせるもとになるからです。
 子供に呼ばれたときに、大人に呼ばれたときよりも、一そう気をつけて声に応じてさっそくに、はっきりと気持ちよい返事をしなければなりません。またくだらないことで呼ぶのだろうと、三度に一度はつい聞かないふりをしているとか、不承不承ふしょうぶしょうに返事をするようなことは、まず何よりも子供にきらわれるはじめです。

頼まれた用事をこころよくしてやること


 気持ちのよい返事をしたならば、つぎにはさっそくに呼んでいる子供のそばにいき、頼まれた用事をこころよくけ合って、ほかの用事は繰りあっても、すぐにしてやることが大切です。仕事をしているときに呼ばれると、たとえば縫い物でもあったなら、じきにもうやめになるのだからと、大急ぎでやめておいて立とうというように思ったりなんどして、つい時をすごすようなことは、ありがちのことだけれど、呼んでいる子供のほうでは、待ち遠く思うあまりに、春さんはほんとうにいけないと思ってしまう。子供にいけないと思われたが最後、決して子供は春さんのいうことをきかなくなる。いうことをきかないから守が面倒になってくるのです。
 呼ぶとさっそくに返事をして、いつでもにこにことすぐ出てきてくれる。ただこれだけのことでも、子供には非常にうれしい。私、春さんは大好きと、すぐに信用してくれます。子供の信用を得た上で、やさしくものをいいさえすれば、子供というものは、存外大人のいうことをきくものです。

荒い言葉でとがめてはならないこと


 子供に呼ばれたら、さっそくに返事をして、すぐと出てきてくれる。用事をたのむといつも気持よく弁じてくれる――日ごろ子供にこれだけのことをつとめておいて、そうして春さんは大好きという信用を得ていると、どうしてもこうしても、手をはなすことの出来ない場合に、呼ばれたようなときには、『坊ちゃんお嬢さん、私はただいまおかあ様のこれこれのご用をしておりますから、ちょっと待っていただくことが出来ましょうか』というと、子供はきっと、こころよく待つものです。もしも、『だって私も急ぐのだもの』といったところで、『まあいらしってごらんなさい。春はこういうことをしているのでございますよ』といえば、大概の子供は、『そうなあに』といって春さんのそばに来てみるにちがいないのです。そうしたところで、また丁寧に、『なんのご用ですか、すぐにして上げたいのですけれど、ごらんなさい、こういうご用をしているのでございましょう、もう少しですみますから』とか、またものによっては、『それはきっとお嬢さんおひとりにもお出来になりますよ』とかいってくれると、子供はその気になるものです。
 子供に信用されているものでも、こういうときに、『そんなにおっしゃっても春はいま手がはなせないのですもの』などと、荒い言葉で理屈ばったことをいった日には、子供はじきに、『いいことよ、もうなんにもしてもらわないから』と、おこって行ってしまうものです。そうしてまた例の、『春さんは大きらい』ということになります。

子供の味方になってやること


 自分のほうに何の差しつかえもなく、子供に呼ばれて、なにかの用事を頼まれたときに、もしもそのことが平生母親のこれこれのことは自分ひとりでしなければならないと、子供にいい聞かせてあることであったり、またはそうしてはならないことであったなら、それはしてやらないほうがよいのです。しかしそのしてやらないのにも、『おかあ様が、そういうことはひとりでなさいとおっしゃるのではありませんか』と、子供をやりこめるように、荒くいうことは禁物です。『おかあ様はそういうことはおひとりでなさるほうがよいとおっしゃったようでございましたねえ。春が見ておりますから、坊ちゃんご自分でなさってごらんなさい』とやさしく励ますようにいいさえすれば、きっと子供はきくものです。
 子供が一人でよくないことをしたときにも、『あら坊ちゃん、おかあ様にいいつけますよ』などと、とがめるものではありません。『それはいけませんから、およしなさい』と、親切にいってくれるほうが、子供の心にこたえるものです。ことに何かにつけて、『ほんとうにいやな坊ちゃん』とか、『しようのないことねえ』とかいうように、守をするものの無遠慮に子供をとがめる言葉は、はたで聞いても聞き苦しく、何よりも子供にいやがられるもとになるから気をつけなければなりません。
 子供が呼んだら、大人に呼ばれたときよりも大事だと心得て、すぐに返事をすること。子供にたのまれた用事は、できるだけほかの用事を繰り合わせてこころよくしてやること。荒い言葉で子供をとがめてはならないこと。いつでも子供の味方になって、親切に子供を助けてくれること。これだけのことを、十分に心に入れておいたら、かならず子供に好かれる守になります。ただ守になれるばかりでなく、このことは後にみなの母親になったときにも、ごくごく入用な心得になるのです。


こうして子供に食事をさせる



 お子さんに、ご飯をあげることくらい、できないものがあるだろうかと、思うかも知れませんが、幼児こどもに上手にご飯をたべさせるということは考えてみると容易なことではありません。
 母親の留守の時間や用事のあるときに、子供たちに上手にご飯をたべさせてくれるなら、それはたしかにみなさんの大きな一つの手柄です。
 まずみなさんは、幼児こどもにご飯をたべさせるのには、ほんとうに忍耐ぶかくなくてはならないと思ったことはないでしょうか。
 二口三口は熱心にたべるけれど、じきに脇をむく。ご飯がいらないのでないけれど、食事をしながらああしたりこうしたり遊びまわるのは子供のつねです。こういうときにただ『早くおあがりなさいおあがりなさい』といっているだけではらちがあかない。あまりうるさくせっついたりすると、『ご飯はもういや』といって立ってしまう。ほんとにいやかと思ってそれなりにしておくと、じきにおなかがすいてお菓子がほしいという。ご飯が不足だったから仕方がないと思ってお菓子をやる。しかしお菓子でおなかの足るわけはない。間もなくまたねだる。さっきもあげたからというので、少しばかりまたやるというようなわけで、ついにちびちびいをすることにもなり、次のご飯はほんとうに食べたくなくなって、食べながらいよいよ勝手ないたずらをするようになる。これが下手なご飯のやり方の第一です。
 つぎには、ただ『おあがりなさいおあがりなさい』ではだめだからというので、おつゆをかけたり、お茶をかけたり、むしったお魚をご飯にまぜたりして、さっさとかき込ませるような食べ方をさせることがよくあります。早くすんでよいようだが、一度こういうことをしてやると、子供はすぐおぼえてしまって、ご飯のたびに、お汁をかけて、お茶をかけてという。お茶づけにしてかまずにのみ込んだご飯は、不消化になるということは、みなさんもよく知っていることでしょう。これがまた下手なご飯のたべさせ方です。
 つぎに子供というものは、二種ふたいろあるおかずの中でも、一方が非常に気にいると、ほかの一つは見向きもしないで、よけいに気にいったほうのばかりを、ずんずん食べてしまうものです。こちらのほうもお食べなさいといえば、『私、それは大きらい』という。こういうときに、もう一つおかずがあるのだから、まあよいというような気持ちで、そのままにしてしまう。こういうふうなことがたび重なって、大きくなってまで、あれがきらいこれが好きと、むやみに食物のより好みをすることになります。
 めいめいの体質によって、濃厚なものを好く人も、淡白なものを好む人もあるわけですが、子供のときから気をつけて、肉を好く子供にも、その好きな肉と一緒に野菜をも添えて食べさせ、野菜を好む子供にも、肉をも添えて食べさせるようにすれば、どちらかといえば肉が好きだけれど、野菜も食べられる。一体が野菜好きだけれど、肉もきらいでないというように、なんでも食べられる人になれ、身体のためにもまた大そうそれがよいのです。ちょっとした不注意から、子供にあれが好き、これがきらいといわせはじめるのは、また一つの下手なご飯のやり方です。
 考えてみると、子供に食事をさせるということも、決して『そんなことのできない人があるだろうか』といったような無雑作なものではありません。のんきでいたずらな、ものにあきやすい子供を、ゆっくりとひきとめて、身体のためにもなるように、のちのちに悪い習慣も残さないように、そうして楽しく食事をさせるのには、よほど気転のいることです。
 まずおかゆからご飯になったばかりの子供などには、今度からご飯になりましたから、みなのようによくんであがるのですよ、『ゆっくりゆっくり』というようなことでもいって、まずよくませるようにし、つぎには、『今度は肉』そのつぎにまたご飯、『今度は野菜』というように、かわるがわるに食べるように、また子供の平生あまり好まないおかずのあるときは、きょうは大層お好きなおつゆがございますよ。お野菜は大根ですけれど、かわるがわるにいただきましょうねえというふうにでもすると、子供は無邪気なものだから、たいがいその気になってしまいます。
 こうしてだんだんによい習慣をつけた子供は、あとはもうよほど楽ではあるけれど、油断していると子供はまた少しばかり食べてはやめる癖や、おかけや割りに好きなおかずばかり食べるようなことをはじめるものだから、ご飯の時は、かならずそばでよく気をつけて、ゆっくりむこと、おかずをむらなく食べること、食事を落ちついて十分にすること、これだけの注文にはずれないように、上手に扱わなければなりません。
 食事を上手にさせるということは、子供を丈夫に育てるために、ほんとうに大切なことですから、母親が食事時に家をあけたときなどは、子供が家でみなのおかげで、よく食事をしたろうかどうだろうかということが、一番に案じられるものです。油断して悪い癖をつけるようなことのないように骨折ってくださいませ。
――おわり――





底本:「羽仁もと子著作集第九巻 家事家計篇」婦人之友社
   1927(昭和2)年10月20日初版発行
   1966(昭和41)年7月1日新刷発行
   1996(平成8)年10月20日34刷
入力:蒋龍
校正:Juki
2017年3月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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