おさなごは、子宝のなかのさらに
まず第一に、いま生まれたみどりごが、お産婆の手よりも何よりも、自分で生きる力をあたえられているのだということを、たしかに自覚している母親は幾人あるでしょう。都会の新式の家にすむ知識階級の母親から、農村の
おさなごを新たに発見するとはどういうことであるか。いいかえれば、おさなごはみずから生きる力をあたえられているもので、しかもその力は親々の助けやあらゆる周囲の力にまさる強力なものだということを、たしかに知ることです。のみならず、そうしてその強い力が、われわれに何を要求しているかを知ることです。人は赤ん坊のときから、その生きる力はそれ自身のなかにあります。母親が自分のもっている知識や感情を先にたてて、知らずしらず赤ん坊のみずから生きる力を無視していると、赤ん坊というものは容易にその方によりかかって、そうして自分のなかに強く存在しているところのみずから生きる力を弱めてゆくものです。
赤ん坊のみずから生きる力が弱くなると、そこにどういうことが現われてくるか。自分の生命のほんとうの要求が自分にわからなくなってくるのです。そうしてただ眼前の苦痛や満足や喜びや悲しみのみにとらわれて、そればかりを訴えたり表現したりするようになります。したがって母親をはじめ周囲のものが、その赤ん坊の真の生命の要求ではないところの、その場その場の浅はかな訴えに動かされて、さまざまの処置をするようになる。その結果は赤ん坊の真の生命ははぐくまれずに、当座の感覚的要求ばかりが日に日に強くされてゆきます。こうして丈夫に生まれても弱くなる赤ん坊や、
赤ん坊自身に自分の生命のほんとうの要求がわからなくなる、赤ん坊自身のみずから生きる力が弱くなるとはどういうことか。実例をもっていえば、寝かすと泣く赤ん坊がたくさんあって、夜も昼も抱かれていることを望んでいる。そうしてそれは赤ん坊の生命の真の要求ではありません。すべてのことに感じやすい
それではなにが赤ん坊の生命の真の要求であるか。それは人類の長いあいだの経験が科学的に整理されて、だんだんにわかってきました。くわしくいえば、そのはじめにはおそらく赤ん坊を産んだ母の
そうしてそれをいまわれわれのもっている育児の知識といい得ます。
しかしそれではいまのわれわれのもつ育児の知識にぴったりと当てはまることをもって、ただちに赤ん坊の生命の真の要求とみるのであるか、決してそうではありません。そうしてそこにまた一つの大きな問題をおかなくてはなりません。
われわれの現在もっている(現在のみならず将来にしても)育児の知識をさきにたてて赤ん坊を取り扱うということは、また一つのまちがいのもとです。すなわちはじめにいった通り、子供を育てるにはまず何よりも子供自身の生きる力を尊重しなくてはならないからです。子供自身からその力その生命の真の要求が強くあらわれるようでなければ、親々の詰め込み養育詰め込み教育になってしまって、その程度その種類こそちがえ、子供をいろいろの邪道に連れこんでゆくことになります。詰め込み養育や教育がもっともよくできた場合にも、盆栽や箱庭式の健康と人物をつくりあげるだけのことになってしまいます。
私どもはいつでも子供の
生まれたての赤ん坊に、母乳は最良の食物であることはわれわれの育児知識です。まず第一に赤ん坊がお
時間正しく乳をあたえることは、育児の知識のわれわれに教えているところです。時間にならないうちに赤ん坊が泣き出して困るときに、二つの方法があります。泣くから乳をやるという方法と、泣いても時間まではやらないという方法とです。そのどちらが赤ん坊の生命の真の要求に忠実なのでしょう。そういうときは、やるときめる、やらないときめる、その双方ともにいけないと思います。きめかねてうろうろするのはなおいけないことです。
そこに重大なわれわれの育児の知識以上の、親と子の接触があります。そうしてそれはおそらくただに個々の親子ばかりでなく、もっと広い意味での人間と人間の人格的ふれあいをつくってゆくところの基礎になる重要なことなのだと思われます。
赤ん坊のあたえられている力強い生命そのものに第一の関心をふかく持ち、その思いをもって日夜赤ん坊に接している母親であれば、その泣き声にも笑い声にも、いろいろのもののあることがわかります。まず落ちついてそれを聞きわける余裕が、母親の人格に必要です。母親ばかりでなくその周囲の人びとにも必要です。赤ん坊の感覚は非常に敏感なものです。それ泣いたそれ笑ったと家中が一喜一憂のうちにさわぎをすれば、赤ん坊もそれにつりこまれて、はじめ泣きだしたほんとうの必要がなんであっても、おとなのただならないさわぎのために驚きあわてていつまでも泣くことにもなるものです。
おとなはたまりかねて抱きあげてやる。赤ん坊はその方に気をとられて黙ってしまう。つぎつぎにこういう種類の接触を赤ん坊とすることは、赤ん坊が泣いても母親が内職の手をやめることができない、草をとっている田からあがってくることができない種類の育児とともに、もっとも有害な育児法です。
赤ん坊にも幼児にも、まずなによりも大切だと思われるわれわれの接触の仕方は、赤ん坊自身にあたえられているその生きる力の強さを信じて、落ちついた賢さをもってその要求その状態をはっきりと知り得ることです。
赤ん坊は何かちょっとした衝動をうけても、泣く運動をはじめます。おしめその他に落度がなければ、はたが落ちついていれば、やがて泣きやむ多くの場合があるはずです。それほど簡単に泣きやまないので、なんのためかよくわからない場合も多くありましょう。あるいは乳がほしいという要求のためかもしれないのですが、それを乳の時間まで待たしても決してそのために病気にも何にもなるわけはないのですから、たいした故障のあるような泣き方でないことさえわかっていたら、そうした不明のむずかりは、そのままにしておくべきだと思います。乳の時間になって乳をやってみると、その様子でやはり空腹のためであったかどうかがまたよほど察しられるでしょう。そのつぎもまたそのつぎも同じようであれば、いよいよ全体的に乳不足のせいであることがわかります。そのときにまたわれわれのもっている育児の知識と照らしあわせて、いろいろの判断と処置とを講ずべきです。
そうしてこれは、もちろん泣くから乳をやるという育児法とは全然反対ですが、同時にただ簡単に赤ん坊が泣いても時間までは決して乳をやらないときめてしまうというのとも同じでないことはよくおわかりになるでしょう。第一に生きた自分の子供の日々の生活状態をよく知って、その日その日のことばかりでなく、いまの育児の知識がわれわれに示していてくれる一般
以上は赤ん坊の身体を主としてみた、いわゆる育児法の急所であるばかりでなく、その精神生活においてもまったく同じことであります。
その両親や周囲の人びとが、赤ん坊自身にさずかっているみずから生きる力に対して、
この神秘ともいい得るところの、
どうすれば子供たちが
それはただ、子供自身がその生命のなかに、自分の生命をまもり育てるために、なくてならない強い賢い力をさずかっているものであることを確信して、赤ん坊の泣き方にも幼児のまわらぬ口にそのおさない思いを語るときにも、それらによって、ほんとうに彼を知ることが第一です。あらゆる教育の工夫はみなそこから出てきます。われわれの幼児の教育も養育も、この趣意によって一貫されていることを忘れないようにしましょう。
教育三十年 一九三八年(昭和一三)