我邦現代における西洋文明模倣の状況を
窺ひ見るに、都市の改築を始めとして家屋
什器庭園衣服に
到るまで時代の趣味一般の
趨勢に徴して、
転た余をして日本文華の末路を悲しましむるものあり。
余かつて
仏国より
帰来りし頃、たまたま
芝霊廟の門前に立てる明治政庁初期の官吏某の銅像の制作を見るや、その制作者は何が
故に新旧両様の美術に対してその効果上相互の不利益たるべきかかる地点を選択せしや、全くその意を了解するに苦しみたる事あり。余はまたこの数年来市区改正と称する土木工事が何ら
愛惜の念もなく
見附と
呼馴れし旧都の
古城門を取払ひなほ
勢に乗じてその周囲に繁茂せる古松を
濫伐するを見、日本人の歴史に対する精神の
有無を疑はざるを得ざりき。泰西の都市にありては一樹の古木
一宇の堂舎といへども、なほ民族過去の光栄を表現すべき貴重なる
宝物として尊敬せらるるは、既に幾多漫遊者の
見知する
処ならずや。
然るにわが国において歴史の尊重は
唯だ保守
頑冥の徒が功利的口実の便宜となるのみにして、一般の国民に対してはかへつて学芸の進歩と知識の開発に多大の妨害をなすに過ぎず。これらは実に
僅少なる一、二の例証のみ。余は
甚しく憤りきまた悲しみき。然れども幸ひにしてこの悲憤と絶望とはやがて余をして日本人古来の遺伝性たる
諦めの無差別観に
入らしむる
階梯となりぬ。見ずや、上野の
老杉は黙々として語らず訴へず、
独りおのれの命数を知り
従容として
枯死し行けり。無情の草木
遥に
有情の人に
優るところなからずや。
余は初めて現代の我が社会は現代人のものにして余らの決して
嘴を
容るべきものにあらざる事を知りぬ。ここにおいて、古蹟の破棄も時代の醜化もまた再び何らの憤慨を催さしめず。そはかへつてこの上もなき
諷刺的滑稽の材料を提供するが故に、一変して最も
詭弁的なる興味の中心となりぬ。然れども茶番は要するに茶番たるに過ぎず。いかに
洒脱なる
幇間といへども徹頭徹尾
扇子に
頭を
叩いてのみ日を送り得べきものに
非ず。余は
日々時代の茶番に
打興ずる事を
勉むると共に、また時としては心ひそかに
整頓せる過去の生活を空想せざるを得ざりき。過去を夢見んには残されたる過去の文学美術の力によらざるべからず。これ余が
広重と
北斎との江戸名所絵によりて都会とその近郊の風景を見ん事を
冀ひ、
鳥居奥村派の制作によりて衣服の模様器具の意匠を尋ね、
天明以後の美人画によりては、専制時代の疲弊堕落せる平民の生活を
窺ひ、身につまさるる悲哀の美感を求めし
所以とす。
浮世絵は余をして実に
渾然たる夢想の世界に遊ばしむ。浮世絵は外人の賞するが如く
啻に美術としての価値のみに
留まらず、余に対しては実に宗教の如き精神的
慰藉を感ぜしむるなり。特殊なるこの美術は圧迫せられたる江戸平民の手によりて発生し絶えず政府の迫害を
蒙りつつしかも
能くその発達を
遂げたりき。当時政府の保護を得たる
狩野家即ち日本十八世紀のアカデミイ画派の作品は決してこの時代の美術的光栄を後世に伝ふるものとはならざりき。しかしてそは全く遠島に流され
手錠の刑を受けたる卑しむべき町絵師の功績たらずや。浮世絵は隠然として政府の迫害に屈服せざりし平民の意気を示しその
凱歌を奏するものならずや。官営芸術の
虚妄なるに対抗し、真正自由なる芸術の勝利を立証したるものならずや。
宮武外骨氏の『
筆禍史』は
委さにその事跡を考証叙述して余すなし。余また
茲に多くいふの要あるを見ず。
浮世絵はその
木板摺の紙質と
顔料との結果によりて得たる特殊の色調と、その極めて狭少なる規模とによりて、
寔に顕著なる特徴を有する美術たり。浮世絵は概して
奉書または
西之内に印刷せられ、その色彩は皆
褪めたる如く
淡くして光沢なし、試みにこれを活気ある
油画の色と比較せば、一ツは
赫々たる
烈日の光を望むが如く、一ツは
暗澹たる
行燈の
火影を見るの思ひあり。油画の色には強き意味あり主張ありて
能く制作者の精神を示せり。これに反して、もし木板摺の
眠気なる色彩中に制作者の精神ありとせば、そは全く専制時代の
萎微したる
人心の反映のみ。余はかかる暗黒時代の恐怖と悲哀と疲労とを暗示せらるる点において、あたかも
娼婦が
啜り泣きする忍び
音を聞く如き、この
裏悲しく
頼りなき色調を忘るる事
能はざるなり。余は現代の社会に接触して、常に強者の
横暴を極むる事を見て義憤する時、
飜つてこの頼りなき色彩の美を思ひその
中に潜める哀訴の
旋律によりて、暗黒なる過去を再現せしむれば、
忽ち東洋固有の専制的精神の何たるかを知ると共に、深く正義を
云々するの愚なることを
悟らずんばあらず。
希臘の美術はアポロンを神となしたる国土に発生し、浮世絵は虫けら同然なる
町人の手によりて、日当り
悪しき
横町の
借家に制作せられぬ。今や時代は全く変革せられたりと称すれども、要するにそは外観のみ。
一度合理の
眼を
以てその
外皮を
看破せば武断政治の精神は
毫も百年以前と
異ることなし。江戸木板画の悲しき色彩が、全く時間の懸隔なく深くわが
胸底に
浸み入りて常に親密なる
囁きを伝ふる
所以けだし偶然にあらざるべし。余は何が故か近来主張を有する強き西洋の芸術に対しては、
宛ら
山嶽を望むが如く唯
茫然としてこれを仰ぎ見るの傾きあるに反し、
一度その
眼を転じて、個性に乏しく単調にして疲労せる江戸の文学美術に対すれば、忽ち精神的
並に肉体的に
麻痺の慰安を感ぜざるを得ず。されば余の浮世絵に関する鑑賞といひ研究といふが如き、
元より厳密なる審美の学理に
因るものならず。もし問ふものあらば余は唯特別なる事情の
下に、特別なる一種の芸術を喜ぶと答へんのみ。いはんや泰西人の浮世絵に関する審美的工芸的研究は既に遠く十年以前全く細微に
渉りて完了せられたるにおいてをや。
余は既に
幾度か木にて造り紙にて張りたる日本伝来の家屋に
住し
春風秋雨四季の気候に対する郷土的感覚の
如何を叙述したり。
此の如く
脆弱にして
清楚なる家屋と此の如く湿気に満ち変化に富める気候の
中に
棲息すれば、かつて広大堅固なる西洋の居室に直立
闊歩したりし時とは、百般の事
自ら
嗜好を異にするはけだし当然の事たるべし。余にしてもしマロック皮の
大椅子に
横りて図書室に食後の
葉巻を吹かすの富を有せしめば、
自らピアノと油絵と大理石の彫刻を欲すべし。然れども幸か不幸か、余は今なほ畳の上に
両脚を折曲げ乏しき
火鉢の
炭火によりて
寒を
凌ぎ、
簾を動かす
朝の風、
廂を打つ
夜半の雨を
聴く人たり。清貧と安逸と
無聊の生涯を喜び、
酔生夢死に満足せんと
力むるものたり。曇りし空の光は軒先に
遮られ、
障子の紙を
透してここに特殊の陰影をなす。かかる居室に適応すべき美術は、
先づその
形小ならざるべからず、その質は軽からざるべからず。然るに現代の新しき制作品中、余は不幸にしていまだ西洋の
miniature または
銅板画に類すべきものあるを見ず。浮世絵
木板摺はよくこの欠陥を補ふものにあらずや。
都門の劇場に拙劣なる翻訳劇
出づるや、
朋党相結んで直ちにこれを以て新しき芸術の出現と叫び、官営の美術展覧場に
賤しき画工ら虚名の
鎬を削れば、
猜疑嫉妬の俗論
轟々として沸くが如き時、秋の雨しとしとと降りそそぎて、虫の
音次第に消え行く郊外の
侘住居に、
倦みつかれたる
昼下り、尋ね
来る友もなきまま、
独り
窃に浮世絵
取出して
眺むれば、ああ、
春章写楽豊国は江戸盛時の演劇を眼前に
髣髴たらしめ、
歌麿栄之は
不夜城の歓楽に人を
誘ひ、北斎広重は閑雅なる
市中の風景に遊ばしむ。余はこれに
依つて
自ら慰むる処なしとせざるなり。
近世的の大詩人ヴェルハアレンの詩篇に、そが
郷国フランドルの古画に現はれたる生活慾の
横溢を称美したる一章あり。
Art flamand, tu les connus, toi
Et tu les aimes bien, les gouges,
Au torse

pais, aux t

tons rouges;
Tes plus fi

rs chefs-d'

uvres en font foi.
Que tu peignes reines, d

esses,
Ou nymphes,

mergeant des flots,
Par troupes, en roses

lots,
Ou sir

nes enchanteresses,
Ou Pomons aux coutours pleins,
Symbolisant les saisons belles,
Grand art des maitres ce sont elles,
Ce sont les gouges que tu peins.
フランドルの美術よ、
汝こそはよく
彼の
淫婦を知りたれ。よくかの
乳房赤く肉
逞しき淫婦を愛したれ。フランドルの美術の傑作はいづれかその
証ならざる。
その
妃を描き
女神を描き、
或は
紅の島に群れなして
波間に浮ぶナンフ或は
妖艶の人魚の姫。
或はまた四季の眺めを
形取る
肉付のよきポモンの女神。およそフランドル名家の描きし大作は、皆これかの
淫蕩なる婦女にあらざるなきを。
この詩章を読みて
卑猥なりとなすものあらば、そはこの詩章の深意を解すること能はざるものなり。ヴェルハアレンはフランドルの美術に現れし裸体の婦女によりて偉大なる人間の活力を想像し
賞讃措く能はざりしなり。彼は清浄と禁慾を主としたる従来の道徳及び宗教の
柵外に
出で、生活の充実と意志の向上を以て人生の真意義となせり。
永劫の理想に向つて人生意気の赴く所、ここに偉大の感情あり。悲壮の美あり、崇高の観念あり。
汚辱も淫慾も皆これ人類活力の一現象ならずして何ぞ。彼の尊ぶ所は
深甚なる意気の
旺盛のみ。
Dans la splendeur des paysages,
Et des palais, lambriss

s d'or,
Dans la pourpre et dans le d

cor
Somptueux des anciens

ges,
Vos femmes suaient la sant

,
Rouges de sang, blanches de graisse;
Elles menaient les ruts en laisse,
Avec des airs de royaut

.
絶佳明媚の
山水、
粉壁朱欄燦然たる
宮闕の
中、壮麗なる古代の装飾に
囲繞せられて、フランドル画中の婦女は皆
脂肪ぎりて
肌白く血液に満ちて色赤く、おのが身の強健に堪へざる如く汗かけり。これらの婦女は
恣にその淫情を解放して意気揚々いささかの
羞る色だもなし。
これ欧洲新思想の
急先鋒たるヴェルハアレンが郷土の美術を詠じたる最後の一章たり。フランドルはもと自由の国たり。フラマン人は
西班牙政庁の
羈絆を脱するや最近十九世紀の文明に乗じて一大飛躍を試みたる国民たり。ヴェルハアレンが Rubens, Van Dyck, Teniers ら十七世紀の名画を見その強烈なる色彩に感激したるは
毫も怪しむに足らざるなり。しかして余は今自己の何たるかを反省すれば、余はヴェルハアレンの如く
白耳義人にあらずして日本人なりき。生れながらにしてその運命と境遇とを異にする東洋人なり。恋愛の至情はいふも更なり、異性に対する
凡ての性慾的感覚を以て社会的最大の罪悪となされたる法制を
戴くものたり。
泣く
児と
地頭には勝つべからざる事を教へられたる人間たり。物いへば
唇寒きを知る国民たり。ヴェルハアレンを感奮せしめたる
生血滴る羊の
美肉と
芳醇の
葡萄酒と
逞しき婦女の
画も何かはせん。ああ余は浮世絵を愛す。
苦界十年親のために身を売りたる遊女が
絵姿はわれを泣かしむ。
竹格子の窓によりて唯だ
茫然と流るる水を
眺むる芸者の姿はわれを喜ばしむ。
夜蕎麦売の
行燈淋し
気に残る川端の夜景はわれを
酔はしむ。
雨夜の月に
啼く
時鳥、
時雨に散る秋の
木の葉、落花の風にかすれ行く鐘の
音、行き暮るる
山路の雪、およそ
果敢なく頼りなく望みなく、この世は唯だ夢とのみ
訳もなく
嗟嘆せしむるもの
悉くわれには
親し、われには
懐し。
浮世絵は元より木板画にのみ限られたるにあらず。
師宣、
政信、
懐月堂等の諸家は
板画と共に多く肉筆画の制作をなせしが、
鳥居清信専ら役者絵の
板下を描き、
宮川長春これに対して肉筆美人画を専らとせしより、
中古の浮世絵はやや確然として肉筆派と板下派との二流に分るるの観ありき。しかして
明和二年に至り、
鈴木春信初めて精巧なる木板
彩色摺の法を発見せしより浮世絵の傑作品は多く板画に
止まり、肉筆の制作は
湖龍斎、
春章、
清長、北斎らの或る作品を除くの
外、多く賞讃するに足るものなきに至りぬ。浮世絵肉筆画の木板摺に及ばざる理由は、専らその色彩の調和に存す。木板摺においてはそが工芸的制作の必然的結果として、ここに特殊の色調を生じ、各色の音楽的調和によりて企てずして
自から画面に空気の感情を起さしむるといへども、肉筆画にありては、
朱、
胡粉、
墨等の
顔料は皆そのままに独立して生硬なる色彩の乱雑を生ずるのみ。これ画家の罪にあらずして日本画の物質的材料の欠点たり。今諸家の制作を見るに、木板色摺のいまだ進歩せざりし
紅絵の時代においては、板下画家はその色彩の規範を常に肉筆画に仰ぎたれども、
後には全く反対となり、肉筆画の色彩をばかへつて木板画に
倣はんとするに至りぬ。ゴンクウルは歌麿が
蚊帳美人の
掛物につきて、その蚊帳の
緑色と
女帯の
黒色との用法の如き全く板画に
則りしものとなせり。肉筆画の木板画に及ばざる
他の理由は
布局の点なり。木板画は春信以後その描かれたる人物は必ず背景を有しここに
渾然たる一面の絵画をなす、然らざれば
地色の淡彩によりてよく温柔なる美妙の感情を
誘へり。然るに
此の如きは全く肉筆画の企て得ざる処とす。試みに今
土佐狩野
円山等各派の制作と浮世絵とを比較するに、浮世絵肉筆画は東洋固有の審美的趣味よりしてその筆力及び
墨色の気品に関しては決して最高の地位を占むるものにはあらざるべし。
唯木板彩色摺において始めて動かしがたき独特の価値を生ず。浮世絵の特色は板画にあり。板画の特色は優しき色調にあり。これがために浮世絵は
能く泰西の美術に対抗し得るなり。
新しき国民音楽いまだ起らず、新しき国民美術なほ
出でず、
唯だ一時的なる模倣と試作の
濫出を見るの時代においては、
元よりわが民族的芸術の前途を予想する事
能はざるや論なし。余は
徒に
唯多くの疑問を有するのみ。ピアノは果して日本的固有の感情を奏するに適すべきや。油画と大理石とは果して日本特有なる造形美を紹介すべき
唯一の道たりや。余は
余りに数理的なる西洋音楽の根本的性質と、落花落葉虫語鳥声等の単純
可憐なる日本的自然の音楽とに対して、
先づその懸隔の
甚だしきに驚かずんばあらず。余は日本人の描ける油画にして、日本の婦女と日本の風景及び室内を描けるものに対しては常に熱心なる注意を
怠らず。然れども余は不幸にしていまだかつて油画の描きたる日本婦女の
髷及び
頭髪に対し、あるひは
友禅、
絣、
縞、
絞等の衣服の
紋様に対して、何ら美妙の感覚に触れたる事なく、また
縁側、
袖垣、障子、
箪笥等の日本的
家居及び
什器に対して、
毫も親密なる特殊の情趣を催したる事なし。余はしばしば同一の画家の制作につきて、その描ける西洋の風景は日本の風景よりも
遥に優秀なるが如き感をなせり。一歩を進めて
妄断する事を
憚らざれば油画は金髪の婦女と西洋の風景とを描くに適するものといふべし。余は決して邦人の制作する現代の油画を
嫌ふものにあらず、然れども
奈何にせん、歌麿と北斎とは
今日の油画よりも遥によく余の感覚に向つて日本の婦女と日本風景の含有する秘密を語るが故に、余はその以上の新しき天才の制作に接するまで、容易に江戸の美術家を忘るること能はずといふのみ。日本都市の外観と社会の風俗人情は遠からずして全く変ずべし。痛ましくも米国化すべし。
浅間しくも
独逸化すべし。然れども日本の気候と
天象と
草木とは
黒潮の流れにひたされたる火山質の
島嶼の存するかぎり、永遠に初夏晩秋の
夕陽は
猩々緋の如く赤かるべし。永遠に
中秋月夜の
山水は
藍の如く青かるべし。
椿と
紅梅の花に降る春の雪はまた永遠に友禅模様の
染色の如く
絢爛たるべし。婦女の頭髪は
焼鏝をもて
殊更に
縮さざる限り、永遠に
水櫛の
鬢の美しさを誇るに適すべし。然らば浮世絵は永遠に日本なる太平洋上の島嶼に生るるものの感情に対して必ず親密なる
私語を伝ふる処あるべきなり。浮世絵の生命は実に日本の風土と共に
永劫なるべし。しかしてその傑出せる制作品は今や
挙げて
尽く海外に輸出せられたり。悲しからずや。
大正二年正月稿
[#改丁]
浮世絵
板画は
元禄享保の
丹絵漆絵より
寛保宝暦の
紅絵となり、
明和年間に及び
鈴木春信によりてここに始めて精巧なる
彩色板刻の技術を完成し、その
佳麗なるが故を
以て
吾妻錦絵の名を得るに至れり。春信
出でて後、錦絵は
天明寛政に至り
絢爛の極に達し、
文化以後に及びて
忽ち
衰頽を
醸すに至れり。今これら浮世絵各時代の制作品を
把つてこれを通覧するに、余は鈴木春信の板画によりて最も深き印象を与へられたり。
春信の板画には
菱川一派の板画に現はれたる元禄時代の放胆なる筆勢は全く消滅してまた尋ぬべくもあらず。
然れども
奥村一派の作に
窺ふべき柔和なる元禄時代の他の一面はここに一種古雅の風致となりて存せるものあり。しかして天明寛政時代の精密なる写生の画風いまだ起るに至らず。されば春信の板画は過去の粗大と将来の繊細との中間に立ちて
独り温雅優美の情を
恣にするものといふべきなり。
春信板画の特徴は一見まづその題材によつて明かなり。春信は
自ら役者似顔絵を描かずと称し、
専ら美人を描きまたこれに配するに
美貌の
若衆を以てせり。余の最も
愛玩措く
能はざるものは
即ちこれら年少相思の男女を描けるものとす。
試に余の記憶を去らざるこの種の
画様を記述せしめんか。その
一は
桜花爛漫たる
土塀の外に一人の若衆
頬冠りにあたりの人目を兼ねて
彳めば、土塀にかけたる
梯子の頂より一人の美女結び
文を手に持ち半身を現はしたり。その二は
一樹の
垂楊図の上部を限る
霞の
間より糸の如きその枝を吹きなびかす処、
大なる
菱形の
井筒を中央にして前髪姿の若衆
縞の
着流し羽織
塗下駄の
拵へにて
居住ひ、井筒の上に
頬杖して見えざる井の底を
指す。これと
相対して帯長き
振袖の少女立ちながら
袂重げに井筒の上に片手をつき前身を屈して同じく井の底を
窺ひたり。その三は太く黒き
枠を施したる大なる書院の窓ありてその
障子は広く明け放され桜花は模様の如く
薄墨の
地色の上に白く浮立ちたり。この模様風の背景をひかへし人物もまた
極めて人形らしく、その男は
小姓の
吉三その女は娘お
七ならんか。女は
立膝して何事をか訴へ
引留むるが如く
寄添へば、男は決然と立つて
袴の
紐を結び直しつつも心引かるる
風情にて打仰ぐ女の顔をば上より
斜に見下ろしたり。これらの
外、
階子段に腰かけて懐中より
文読む女の
後に美しき少年の
佇立みたるあり。あるひは鳥居の見ゆる茶屋の
床几に美しき
団扇売の少年茶屋の娘らしき女と相対したるあり。あるひはまた
細流に添ふ風流なる
柴垣のほとりに侍女を伴ひたる美人
佇立めば、
彼方なる
柴折戸より美しき少年の姿
立出で来れるが如き、いづれも
情緒纏綿として尽きざるものなり。
余は井筒に
倚れる男女の図に対して
何の理由なく
直にマアテルリンクの戯曲 Pell

as et M

lisande の
一齣を
聯想せり。古今の浮世絵にして男女相愛の
様を描きしもの
枚挙に
遑あらず。然れども春信の板画の如く美妙に
看者の空想を
動すものは
稀なり。春信の板画は
布局設色相共に単純を極む。その人物は製作の年代に従ひ
結髪に多少の差を見るといへどもいづれの
画においても常に同一の容貌をなし、年齢身分等の差別のみか時には男女の判別さへ
僅にその衣服と
髷とによりてこれを知るに過ぎず。さればかの
黒色と
白色との強き対照によりて有名なる
雪中相合傘の図の如きは
両個の人物共に
頭巾を
冠れるがため男女の区別全く判明しがたきものとはなれり。春信の描く処の男子は
尽く前髪ある美少年にして、女子は必ず長大なる一枚の
櫛をさしたる
島田あるひは
笄髷に結び、
差髱長く
後に
突出したる妙齢のものたり。しかしてこれら人物の姿勢も容貌に等しく常に一定の典型に陥れるのみならず写生に遠ざかる事むしろ
甚しきものあり。
凡芸術の制作に関するや、
殊に東洋の美術において、科学の知識の必要なるや否やにつきては容易に断言する事
能はざるものあり。春信の板画の
幽婉高雅にして詩味に富めるはむしろ科学の閑却に
基けるものの如し。春信の男女は単にその当時の衣服を着するのみにしてその感情においては永遠の女性と男性とに過ぎざるなり。さるが故に
今日の
吾人に対してもなほ永久なる恋愛の詩美を表現する
好個の象徴として映ずる事を妨げざるなり。不自然なる姿勢は幽婉の
境を越えてしばしば神秘となり、これに配置せられたる単純なる
後景はあたかもパストラル曲中の美なる風景に等しく両々相伴うて看者の空想を音楽の
中に投ぜしむ。かの
爛漫たる桜花と無情なる土塀と人目を忍ぶ少年と
艶書を手にする少女と、ああこの単純なる
物象の配合は
如何に際限なき空想を誘起せしむるか。柳しだるる井のほとりに相対して
黙然として見るべからざる
水底を
窺ふ年少の男女、そも彼らは
互の心と心に何をか語り何をか夢見んとするや。今もしこれらの図にして精密なる写生の画風を以てしたらんには特殊の時代と特殊の
事相及び感情は
忽看客の空想を束縛し制限すべし。春信は
寔に最少の手段によりて最大の効果を得べき芸術の
秘訣を知りたる画家たりしといふべし。
鈴木春信の好んで描けるこれら小説的恋愛の画題は
奥村政信また
石川豊信らのしばしば用ひたるものにして、
敢て春信
一人の手によりて浮世絵
中に現されたるものにあらず。春信の得意とする艶麗なるその意匠はその筆法と色彩とを合せて共に奥村派の諸先輩に負ふ処あり(鈴木春信は
北尾重政と同じく
西村重長の門人なりと称せらる。西村重長は奥村派より出でたる画工なり)。凡そ文芸の歴史は必ず各時代の傑出せる一家を中心としてあたかも波浪の起伏するが如き
状をなし、漸次に時代の推移を示すものなり。今これを春信について見るに春信は宝暦年代にありては
鳥居清満と
拮抗し、明和に入りて
嶄然として頭角を現はすや、当時の浮世絵は
悉く春信風となれり。明和七年春信
歿するやその
門葉中より
磯田湖龍斎出で
安永年代の画風を代表せり。湖龍斎が明和年代の板画には春信に酷似するもの多かりしが、安永二、三年以後に至りその筆勢は次第に強硬となり、布局は
整頓し、一体の画風春信に比すれば著しく綿密となれり。これ安永年代一般の画風にして、やがて
春章清長政演ら天明の諸家を経て
後、浮世絵は
遂に寛政時代の繊巧
緻密の極点に到達せるなり。
今寛政の画風を代表せる
栄之歌麿豊国らと明和年代を代表せる春信の板画とを
把りてこれを比較すれば、江戸文明の傾向につきてその時代精神の変転せる跡を窺ふに
難からざるなり。元禄において江戸演劇を創生し享保
元文年代に至つて
河東節を
出したる都会特殊の芸術的感情は、宝暦明和の円熟期を限界となし安永天明を過ぎて寛政に及ぶや、ここに全く
異れる新傾向を生じたるなり。浮世絵と並びて之を演劇、
音曲、文学に徴するもその
痕また歴然たるものあり。
鈴木春信の可憐幽婉なる恋愛的画題は単純にして余情ある『松の葉』の章句あるひは「
薗八」の曲節を連想せしむるものならずや。湖龍斎が全盛期の豊艶なる美人と
下つて清長の肉付よき実感的なる美人の浴後裸体図等に至つては
漫に
富本の曲調を忍ばしむる処あり。更に下つて歌麿豊国に至るやその正確にして切迫せる写生の気味は
最早や何らの音楽的幻想をも許さず、ひたすら写像の
明媚に対する造形的快感を覚えしむるのみ。歌麿が晩年(文化の頃)における「
道行」の諸板画と春信の作とを比較する時、吾人はまづ
異れるこの二種の芸術を鑑賞せんには全然
別様の態度を取らざるべからざる事に心付くべし。歌麿全盛の寛政年代はこれを文学について見る時は、
諷刺滑稽の
黄表紙はその本領たる
機智の妙を捨てて
漸く
敵討小説に移らんとし、
蒟蒻本の軽妙なる写実的小品は漸く順序立ちたる人情本に変ぜんとするの時なり。正確なる写生によつて浮世絵より音楽的情調を奪ひ去りしものは歌麿なり。しかしてまた浮世絵をして整然たる完全の絵画たらしめ、古今の日本画中最も現実の生活に接近せる生きたる美術たらしめしものもこれまた歌麿なり。歌麿の「道行」は彼が生涯の諸作を通じて決して
上乗の者にあらざれども、詩歌的男女の恋愛に配するに醜き
馬子あるひは
老爺の如き人物を以てし、従来の浮世絵が取扱ひ来りし美麗なる画題中に極めて
突飛なる醜悪の異分子を
挿入したる
一事は
甚注意すべき事とす。歌麿と相並んで豊国もまた『絵本
時世粧』において見る如く、
皺だらけの老婆が髪を島田に結ひ顔には
処々に
膏薬張り
蓆を
抱へて
三々伍々相携へて
橋辺を歩む
夜鷹を写生したる画家なり。
此の如く文化年代の浮世絵に至つて
頗る顕著となりし極端なる写実の傾向は、爛熟し尽せる江戸文明の漸く
廃頽期に向はんとする前兆を示すものならずや。北斎、
国貞、
国芳らの画家に至つてはそれらの画題は
忽ち平凡となり最初春章の門人
春英の作中に見たる幽霊の図の如きも
文政天保度の画家にあつては実に残虐を極むる
血塗れの半死人にあらざれば満足せられざるに至れり。国貞と春信とを一堂の
下に集むれば
誰か時勢の推移に驚かざらんや。
鈴木春信は可憐なる年少の男女相思の図と合せて、また単に婦人が
坐臥平常の姿態を描き
巧に室内の光景と
花卉とを配合せり。彼が描く処の室内の光景及び庭上階下窓外の
草木は人物と同じく極めて単純にしてまた極めて写生に遠ざかりたるものなり。浮世絵における
和蘭画幾何学的遠近法の応用は既に
正徳享保頃に流行せし劇場内部の光景または
娼楼大広間見通しの図等においてこれを見たりしといへども、
後年鳥居清長らの描きし天明寛政頃の背景に比較すれば
甚粗放なるものなりき。明和年代の春信においてこれを見るも寛政画家の試みたるが如き正確なる遠近法はいまだ完成せられざりしなり。春信ら明和時代の画家の描ける縁側、障子、
欄間、天井等の角度は、著しく
平坦にして、窓、垣、池などに咲く花は人物家屋に比してその
権衡を失したれば、桜花は常に
牡丹の如く大きく、
河骨の葉はさながら熱帯産の
芭蕉の如し。されどこれらの稚気と未完成とは
直に以て春信独特の
技倆となさざるべからず。これらの欠陥よりして春信のあらゆる特徴は発揮せられつつあるなり。
余の貧しき
詞藻は幽婉典雅等、既に使ひ
馴れたる
文字の
外、春信が美女を形容する事能はず。されどもし同好の士にして各自おもむろに、『絵本
春の
錦』、『絵本
青楼美人合』等について眺むるところあらば、春信が女はいづれも
名残惜しき昼の夢より
覚めしが如き
目容して
或ものは
脛あらはに
裾敷き乱しつつ
悄然として障子に
依りて雨
斜に降る池の
水草を眺めたる、あるひは
炬燵にうづくまりて絵本読みふけりたる、あるひは帯しどけなき
襦袢の
襟を開きて
円き
乳房を見せたる
肌に
伽羅焚きしめたる、いづれも
唯美し
艶しといはんよりはあたかも
入相の鐘に
賤心なく散る花を見る如き
一味の淡き哀愁を感ずべし。余は春信の女において『古今集』の
恋歌に
味ふ如き単純なる美に対する煙の如き哀愁を感じて
止まざるなり。人形の如き生気なきその
形骸と、
纏へる衣服のつかれたる線と、造花の如く堅く動かざる植物との装飾画的配合は、
今日の審美論を以てしては果していくばくの価値あるや否や。これ余の多く知る処にあらざる
也。余は唯
此の如き配合、此の如き布局よりして、実に他国の美術の有せざる日本的音楽を
聴き得ることを喜ぶなり。この音楽は決して何らの神秘をも哲理をも暗示するものにあらず。唯
吾人が日常
秋雨の夜に聞く虫の
音、
木枯の
夕に聞く
落葉の声、または女の裾の
絹摺れする
響等によりて、時に触れ物に応じて唯何がなしに物の哀れを覚えしむる単調なるメロデーに過ぎず。浮世絵はその描ける美女の姿態とその
褪めたる色彩とによりて、いづれも
能くこの
果敢なきメロデーを奏するが
中に、余は
殊に鈴木春信の板画によりて最もよくこれを聴き得べしと信ずるなり。
以上は春信の作品に対する散漫なる余の感想を
記したるに過ぎず。もし浮世絵の画工として十分に春信の価値を知らんとせば少しく浮世絵板画発達の跡を尋ねざるべからず。
浮世絵の板画が肉筆の画幅に見ると同じき
数多の色彩を自由に
摺出し得るまでには幾多の
階梯を経たりしなり。浮世絵木板摺の技術は
大津絵の板刻に始まり、
菱川師宣の板画
及書籍
挿画に因りて漸次に熟練し、鳥居派初期の役者絵
出るに及びて
益
民間の需要に応じ江戸演劇と
相並て進歩発達せるなり。然れども当時の板画は
悉く単色の
墨摺にして
黒色と
白色との対照を主とし、これに
丹及び
黄色褐色等を添付したれども、こは墨摺の
後に筆を以て補色したるものなるが故に、いまだ純然たる
色摺板物の名称を
下し得べきものにては
非ざりき。
此の如き
手摺の法は進んで享保に至り
漆絵と呼びて黒色の上に強き
礬水を引きて光沢を出し更に
金泥を塗りて華美を添ふるに至りしが、やがて寛保二、三年(西暦一七四二年あるひは三年)奥村政信の門人
西村重長、一枚の
板木にて
緑色及び
紅色二度摺の法を案出するや、浮世絵はここに始めて真正なる彩色板刻の技術に到達するを得たりしなり。この二色摺は即ち
紅絵と称するものにしてその発明当初においては極めて小形の板画のみに応用せられたり。されば
大判のものには従来の
丹絵及び
漆絵依然として行はれたりしが漸次一般の浮世絵師の採用する処となり、その発明者西村重長と相並んで当時の名手と称せられし石川豊信鳥居清満らの制作専らこの二色摺となるに及び、正徳享保の原始的なる
手彩色の板画は漸次廃滅するに至りき。(紅絵の起原は享保の始め頃和泉屋権四郎なるものこれを作り始めたりとなせども、西人最近の研究はこれを否定し、当時の紅絵と称するものは純然たる彩色板刻ならずしてやはり手彩色の板物ならんと推断せり、しかして純然たる二色摺の出たるは、米人フェノロサが多年の研究によりて寛保二、三年なるに疑ひなきことを得たるが如し。また従来日本の書物には多く紅絵と漆絵とを同一視すれども、これまた西人の研究により、紅絵中には漆を施すものと施さざるものあるが故にこれを区別し、紅絵を二色または三色摺板画と呼び、漆絵は丹絵と共に手彩色墨摺板画の部に入れたり。)
此の如く二色摺板画は寛保三、四年に始まりしが数年ならずして、宝暦元年頃(一七五一、二年)に至るやいつともなく緑紅の
中より緑色の分解によりて黄色を作り、また
紅色の上に
藍色(青)を摺りて紫を得、以て三色摺となしぬ。こは最初
何人の企てたる処なるや判然せざれども、宝暦元年頃における鳥居清満の制作板画において、殊にその用法の顕著にして巧妙なるを以て、最近欧米の研究者は一般に清満を以て二色摺を三色に進歩せしめたる功労者となせり。紅緑二色の間に藍色(青)を点じて、色彩の調和を破る事なく、
巧にその画面を複雑ならしむるは清満が板画の特徴なり。清満は最初灰色がかりし濁りたる藍色を用ゐて調和を保たしめ、また全体に褐色の助けを借りて
紅と緑を暗くし、その藍色を暗然たる
橄欖色となすなど、常に藍色の応用に苦心したりしかど、かへつて純粋なる藍色をそのままに施す事は、後進者たる春信出でてこれを敢てせしより、清満もまたその例に
傚はざるを得ざりき。
寛保末年より宝暦末年に至るまで
凡そ二十年間、浮世絵師の色彩に対する観念の時々刻々発達するに従ひ、彩色板刻に対する経験も円熟し来れり。今や正に一大進歩を促さずんばあらず。二色摺紅絵の発明者と称せらるる西村重長の門人鈴木春信は石川豊信鳥居清満と
相伍して多年三色摺の経験を積みしが、明和二年に至り、
板木師金六なる者をして遂に
見当摺と称して、
各色に従ひ板木を別々にするの法を取らしめたり。従来二色摺(紅絵)三色摺と称せしは皆一枚の板木のみにより(清満の三色摺中には紅絵の板木の外になほ他の色板を用ゐたるものあり)色の上に色を重ねて、他の色を
摺出せしものなるが、この
度各色ごとに板木を異にするに及びて、自由にいかなる多数の色をも摺出す事を得るに至りぬ。浮世絵は
最早吹きぼかしと
雲母摺の二術を後世の画工に
托せしのみにして、その佳美なる制作品は世人をして
汎く吾妻錦絵と呼ばしむるに至れるなり。
春信はわが工芸史上、彩色板刻術の完成者たる名誉を
担ふと共に、また浮世絵画面の大きさを決定したる功績を有す。菱川奥村及び鳥居派の墨摺絵また丹絵には
頗る
大形の紙を用ゐたる大判のものありしが、二色摺(紅絵)に至りて浮世絵板画は
漸く二種の定まりたる形式を取りぬ。一ツは小形の
竪絵にして、一ツは極めて細長き
柱絵(柱かくし絵また長絵)なり。春信は紅絵より転じて錦絵を制作するに当り、紅絵の取り来りし小形の竪絵を改めて方形となしぬ。これ人物と背景との布局を整頓せしめ、以て純然たる一幅の
画をなさしむるに便なるがためなり。彼は紅絵に見るが如く空間を
白紙のままに残す事を許さず、壁、天、地等にそれぞれ淡く
軟かき色を施し以て画面に一種の情調を帯ばしめたり。これ浮世絵の人物板画がその背景の色調に注意し初めし最初の現象にして、彼は明和二年錦絵発明の
後、板刻の技術の漸く進歩するに従ひ次第に背景を綿密ならしめ、河流、庭園、海浜等の風景を描き
出しぬ。これらの山水画的
後景は清長歌麿に及びて益

進歩し、遂に北斎広重に至つて純然たる山水画をなせり。
次に記述すべきは柱絵のこととす。柱絵と称する極めて狭長なる板画の様式はフェノロサの研究によれば既に
延享二年頃鳥居清重の作にその実例を見るといへども実際柱にかけ用ゐしは後年の事なりといふ。この様式は方形なる平たき板画と異りたれば画工は
自ら別種の意匠をなさざるべからず。今柱絵の人物を描かんとするに当り、もしその全身を現はさんには、人物を小さくせざるべからず。
然れば
甚しく上下の空虚を生ずべし。ここにおいて、この特別なる様式の中に適応すべき特殊の布局を案出せんとする画工が苦心の跡を尋ぬるは最も興味ある事なり。鈴木春信は明和年代において柱絵を流行せしめたる画家なり。彼は立ちたる遊女の姿の半面を描き細長き紙面をして、すらりとしたる女の風姿を現はすに最も適当なる形式たらしめぬ。あるひは
反り返るほど
後に振向きたる若衆の顔を描き、半分しか見えざる
仇な
身体付によりて
巧に余情を紙外に
溢れしめたり。
梯子段を描きて
上りまた
下りんとする婦女の裾より美しき
脛を
窺はしむるは、最も柱絵に適当すべき艶麗なる画題なるべし。細長き画面の上部を二階となし階段によりて男女の
相逢ふさまも
悪しからず。柱絵は春信の後継者たる湖龍斎に至りますます複雑多様となり、またますます妖艶
淫卑の画題を選みき。
春信が板画の彩色はその幽婉なる画題と同じく、あたかも薄暮の花を眺むるが如し。彼は自在に多数の反対色を用ふれども巧みにこれを中和すべき
間色の媒介を忘れざるが故に、その画面は一見甚だ
清楚にして乱雑ならず、常に軽く軟かき感情を与ふ。ジイドリッツ
曰く、春信の用ゆる色は皆曇りたる色なり。彼は色彩の効果をばその対照に求めずして、むしろ影の調和と間色の用法とによりてこれを得ん事を
勉めぬ。ペルヂンスキイもまた春信の色彩を以て曇りたる色となし、時としてあるひは平坦に過ぐるの
嫌あれども、鮮明にして清楚なる感覚を与ふる力あり。かかる色彩は
畢竟幽雅なる趣味性より発するものにして、吾人は
一度排列的なる色彩の
絢爛に
倦むや、
此の如き可憐にして高雅にまた親密なる芸術に立返らん事を欲して
止まずと論じぬ。
余はフェノロサが試みたる最も専門的なる研究を略述してこの画家の評論を終るべし。春信が明和二年始めて多数の板木を用ゐて錦絵を案出したりし当時の制作は最も
上乗のものにして、
仏国の浮世絵
蒐集家中には特に明和二年板の春信のみを集むるものありといふ。翌明和三年の制作を見るに背景は漸く複雑となり、四年には重厚なる褐色(
代赭)を用ゆる事その板画の特徴となりぬ。しかしてこの年の人物(婦女)はその
鬢漸く高く
膨みたる事を認む。五年に至りその画風はますます繊細となり再び純粋の
紅色を用ゆると共にまた軟き
緑色を施すを常とせり。婦女の髪は頂において幅広く眼は一直線をなして直径の如くに中央を横切りたり。六年の制作において人物は益

細長く、顔もまた長くなりて、その鼻は権衡を失するまで大きくせられたり。七、八年には鼻のみならず、人物の頭部をも長大ならしめしが、こは
独り春信のみならず、この年頃における春信風の画家一般の傾向にして、
正しく時代風俗の変遷に基くものなるべし。しかしてこの年頃の春信が板画にはかの雪中相合傘の図の如くしばしば黒色と白色とを対照せしめて
重なる色彩となせるを見る。
此の如くフェノロサの研究は各時代の画家の制作全部を蒐集してその色彩及び筆勢を比較し、人物の風俗及び形状の微細なる差違等によりて、元より制作の年号を記する事
甚だ稀なる浮世絵に向つて、
悉くその年次を
穿鑿し出しぬ。彼はこの方法によりて、春信が最終の制作を以て
確乎として安永元年また二年なりと断言せり。これは元より相応の論拠あるべしといへども、春信の歿年は明和七年七月十七日なること、その同時代の人
蜀山人の記録中(『半日閑話』)にも見ゆれば、やや穿鑿に過ぎてかへつて
誤謬を生じたるの感なくんばあらず。
暫らく
記して
後考を
俟つ。
春信の絵本にして世に伝ふるもの凡そ左の如し。
絵本古錦襴 三冊 宝暦十二年江戸山崎金兵衛板
絵本諸芸錦 三冊 宝暦十三年江戸山崎金兵衛板
絵本花かづら 三冊 明和元年江戸山崎金兵衛板
絵本さざれ石 三冊 明和三年江戸山崎金兵衛板
絵本千代の松 三冊 明和四年江戸山崎金兵衛板
絵本童のまと 三冊 明和四年江戸美濃屋平七板
絵本八千代草 三冊 明和五年江戸山崎金兵衛板
絵本操草 一冊 明和八年板(春信歿後の板也)
絵本続江戸土産 二冊 安永九年京都菊屋安兵衛板
絵本春の錦 二冊 明和八年江戸山崎金兵衛板(色摺及墨摺の二種あり)
絵本青楼美人合 三冊 明和七年板(色摺及墨摺両種あり)
[#改丁]
浮世絵はその名の示すが如く
児女の風俗俳優の容姿を描くを
以て本領とす。
然れども時代の
好尚と画工が技能の円熟とによりてやがて好個の山水風景画を制作するに至れり。
由来浮世絵と西洋画とは共に写生を主とする点において相似たる所あり。西洋画の山水は人物画の背景より漸次分離独立せしものにしてその
始は
和蘭陀十七世紀の絵画に起り十八世紀を
経十九世紀
仏蘭西ロマンチズムの時代に及びて完成せり。山水画は
即ち人物画発達の
後に起りしものなり。今これをわが浮世絵について見るもまたその
揆を一にす。浮世絵風俗画は
鈴木春信勝川春章鳥居清長より
歌麿春潮栄之豊国の如き
寛政の諸名家に及び円熟の極度に達せし時、ここに
葛飾北斎一立斎広重の二大家現はれ独立せる山水画を完成し江戸平民絵画史に
掉尾の偉観を添へたり。
余はここに北斎広重二家の山水を論ずるに当り、
先浮世絵山水画発達の経路を尋ねてその一を
奥村政信以来広く行はれたる
浮絵遠景図に帰し、その二を以て
天明年間江戸に
勃興せし狂歌の影響なりとなさんと欲す。浮世絵は鈴木春信以後勝川春章
磯田湖龍斎らの画工によりて年々その布局と色彩とを複雑ならしめしが、天明に
入るや風俗画の背景既に純然たる一幅の
好山水をなせるものあるに至れり。鳥居清長が
三枚続児女江之島詣の図の背景の如きまた
喜多川歌麿が
隅田川渡船の如き即ちこれなり。時代の気運は
漸く風俗画の
外に独立せる山水を要求するに至れるなり。ここに
元文享保の頃より浮絵と
称へ来りし一種の遠景図あり。
娼楼劇場の
内外または忠臣蔵
曾我十番切並に諸国の名所神社仏閣の図等を描きたるものにして、
寛保延享の頃の
漆絵紅絵には早くも西洋風の遠近法を用ひて
巧に
遠見の景色と人物群集の
状とを描き
出せり。奥村政信鳥居
清満ら皆人物画の制作以外に、かかる浮絵の
板下を描きたりしが、
安永年代に至りて
歌川豊春専ら遠景名所の図を描き出せしより
大に流行を極め、寛政に及ぶや早くも粗製濫出の傾きを生ぜり。今安永時代の最も精巧なる浮絵を見るにその色彩はかつて湖龍斎の好んで用ひたる
褐色を主とし、これに
黄みたる紅色と緑色とを配合したる処
甚調和を得たり。しかしてその布局は和蘭陀
銅板画を模倣したる
稚き技巧のためにかへつて一種愛すべき風趣を帯びたり。安永年代の浮絵は元より和蘭陀銅板画の模倣なるが故に江戸名所の風景と共にまた西洋風の寺院市街
溝渠の景をも描きたり。歌川豊春
北尾重政二家につぎて天明年代には葛飾北斎もまた
勝春朗の名にて
浅草金龍山、
芝愛宕山、
亀井戸天神、
吉原大門口等の浮絵を描きたる事
尠からず。浮絵は
後年北斎広重によりて完成せられたる浮世絵風景画の前提と見るべきものなり。天明の初め
四方赤良、
唐衣橘洲、
朱楽菅江らの才人江戸に狂歌を復興せしむ。狂歌の流行はここに
摺物と称する佳麗なる
板物並に狂歌集絵本類の
板刻を盛んならしむるに及びて、浮世絵の山水画はために長足の進歩をなし得たり。江戸名所を描ける絵本を尋ぬるに、遠くは
菱川師宣の『狂歌
旅枕』、近くは
宝暦初年
西村重長の『
江戸土産』及び
明和に入りて鈴木春信が『続江戸土産』の
梓行あるに過ぎざりしが、天明年代に至るや
北尾政美が『
江戸名所鑑』(三巻)鳥居清長の『
物見ヶ
岡』(二巻)喜多川歌麿の『
江戸爵』(三巻)北尾重政の『
吾妻袂』(三巻)の
類続々として出板せられたり。しかしてこれらの絵本はいづれも当時著名の狂歌師の
吟咏を画賛となせり。狂歌集『
狂月望』及『
銀世界』に
挿みたる歌麿の山水は
今日欧洲人の称賛して
措かざる逸品なり。
此の如く江戸名所を課題とせる狂歌の流行は江戸名所の風景に対する
都人士の愛好心を増進せしむると共に、
自らまた画工の風景に対する観察を鋭敏ならしめその布局を純化せしむるに多大の効果ありしや明かなり。狂歌は絵本と摺物においてよく浮世絵の山水画を完成せしめたるのみならず、また浮世絵の花鳥画においても見るべきものを
出さしめたり。歌麿の絵本『
百千鳥』並に『
虫撰』の如き即ち然り。
吾人は
元禄時代の美術を鑑賞するに当り
一蝶及び
宗
らの制作に関して俳諧の感化を拒みがたしとなさば、天明寛政の平民美術についてはその勢力隠然狂歌にありしといふことを得べし。
葛飾北斎は狂歌全盛の時代に出で、浮絵の名所絵に写生の技を熟練せしめたる
後、寛政八年頃より
司馬江漢につきて西洋
油画の画風を研究し、これに自家特有の技術を加へて北斎一流の山水をつくり
出せり。その一枚摺
錦絵は
富嶽三十六景、
諸国滝巡り、
諸国名橋奇覧、
琉球八景等にして絵本には『
江都勝景一覧』(寛政十一年板)『
東都遊』(享和二年板)『
山復山』(文化元年板)『
隅田川両岸一覧』(文化三年板)等あり。錦絵の山水については
余別に葛飾北斎論の
中に言ふ処多ければここには専ら絵本につきて語らんとす。北斎の名所絵本はいづれも狂歌の賛をなしたるものにして後年の傑作たる富嶽三十六景及び諸国滝巡り等に比すればいまだ全く独特の
技倆を発揮したるものとはいひがたし。
例へば『勝景一覧』の如きを見るに、夕焼の雲と
霞とを用ひて遠景を
遮断せしめし所は古代の
大和絵巻を見るが如く、また人物の甚しく長身なるは歌麿の感化を脱せざるの
憾みあり。されどこれらの絵本の
中その最も
優れたる『隅田川両岸一覧』を見れば、北斎が
夙に写生の
技に長じたりし事
並にその
戯作者的観察の
甚鋭敏なりし事とを
窺ひ得べし。それと共にこの時代の北斎にはかへつて後年大成の
期に及んでしばしば吾人に不満足を与ふる
支那画の感化いまだ甚しく顕著とならざる事を喜ばずんばあらず。富嶽三十六景と諸国滝巡りとはその設色の布局と
相俟つて北斎をして不朽ならしむる傑作品なれども、その船舶その人物樹木家屋
瓦等に何となく支那らしき
趣を覚えしむ。例へば
東都駿河台の図、
佃島の図、あるひは
武州多摩川の図の如き、一見
先づ日本らしからぬ思ひあり。これに反して『隅田川両岸一覧』はその筆力いまだ全く自在ならざる処あれども、文化初年の江戸に対する忠実なる写生は
能く吾人をしてその希望するが如き都会的情調に触れしむ。
『隅田川両岸一覧』は三巻より成る。その画面は絵巻物を繰りひろぐるが如く上巻より下巻まで連続して春夏秋冬の
四時に
渉る隅田川両岸の風光を一覧せしむ。開巻第一に現れ
来る光景は
高輪の
夜明なり。
淋し
気に馬上の身を
旅合羽にくるませたる
旅人の
後よりは、同じやうなる
笠冠りし数人の旅人相前後しつつ
茶汲女の
彳みたる
水茶屋の前を歩み行けり。水茶屋の
葭簀は幾軒となく見渡すかぎり半円形をなしたる海岸に
連り、その
沖合遥なる波の上には正月の松飾りしたる親船、
巍然として晴れたる空の富士と共にその
檣を
聳かしたり。第二図は
頭巾冠りし
裃の
侍、町人、
棟梁、子供つれし女房、
振袖の娘、
物担ふ下男など
渡舟に
乗合たるを、船頭
二人大きなる
煙草入をぶらさげ
舳と
艫に立ち
棹さしゐる佃の渡しなり。第三図は童児二人
紙鳶を上げつつ走り行く狭き橋の上より、船の
檣茅葺屋根の間に見ゆる佃島の眺望にして、
彼方に
横はる
永代橋には
人通賑かに、
三股の岸近くには(第四図)
白魚船四ツ
手網をひろげたり。桜の花さく
河岸の眺め(第五図)は直ちに新緑
滴る
元柳橋の夏景色(第六図)と変じ、ここに
包を背負ひし男一人橋の欄干に腰かけ扇を使ふ時、
青地の
日傘携へし女芸者二人話しながら歩み行けり。その
傍に
尻端折の男一人片手を上げて網船賑ふ
河面の
方を指さしたるは、静に曇りし初夏の空に
時鳥の一声
鳴過ぎたるにはあらざるか。時節はいよいよ夏の
盛となれり。中巻第一図と第二図とは
本所御船蔵を望む
両国広小路の
雑沓なり。日傘
菅笠相重りて
葭簀を張りし
見世物小屋の間に動きどよめきたり。さて両国橋納涼の群集と
屋形船屋根船の
往来(中巻第三図)を見て
過れば、第四図は新柳橋に夕立降りそそぎて、
艶しき女三人袖吹き払ふ雨風に傘をつぼめ
跣足の
裾を乱して
小走りに急げば、それと行違ひに薄べりと
浴衣を冠りし
真裸体の男二人雨をついて走る。首尾の松の
釣船涼しく
椎木屋敷の
夕蝉(中巻第五図)に秋は早くも
立初め、
榧寺の
高燈籠を望む
御馬屋河岸の
渡船(中巻第六図)には
托鉢の僧二人を
真中にして桃太郎のやうなる着物着たる
猿廻し、
御幣を肩にしたる老婆、
風呂敷包背負ひたる女房、物売りの男なぞ乗合ひたり。
駒形堂の白壁に
日脚は傾き、
多田薬師の
行雁(中巻第七図)に夕暮迫れば、第八図は大川橋の
橋袂にて、
竹藪茂る小梅の里を望む
橋上には
行人絡繹たり。岸の上なる水茶屋には赤き
塗盆手にして
佇立む
茶汲の娘もろとも、
床几に
憩ふ人々面白げに
大道芸人が子供集めて長き
竹竿の先に
盥廻しゐるさまを打眺めたり。
中の巻ここに尽く。
下巻は浅草観音堂の屋根に
群鴉落葉の如く飛ぶ様を描き、何となく晩秋暮鐘の
寂しきを思はせたるは画工が用意の周到なる処ならずや。第二図
三囲の堤を見れば
時雨を催す
空合に行く人の影
稀に、
待乳山(下巻第三図)には寺男一人
落葉を掃く処、
鳥居際なる一樹の
紅葉に風雅の客
二人、小紋の羽織にふところ
手して
逍遥するを見るのみ。冬枯の河原はますます淋しく、白鷺一羽水上に舞ふ
処流れを隔てて白髯の
老松を眺むるは
今戸の岸にやあらん(下巻第四図)。ここに船頭
二人瓦を船に運べるあり。やがて橋場の
渡に至るに、
渡小屋の前(下巻第五図)には
寮にでも行くらしき
町風の女づれ、農具を肩に
煙管銜へたる農夫と茅葺屋根の軒下に行きちがひたり。遥なる
木母寺の
鉦鼓に日は暮れ、
真崎稲荷の赤き
祠に降る雪の美し(下巻第六図)と見る
間もなく、
神明の
社に
来れば(下巻第七図)
烏帽子の神主三人早くも紅梅の
咲匂へる鳥居に
梯子をかけ
注連飾にいそがはし。かくて年は暮れたり。画工は正月の
松飾整ひたる吉原の
廓に
看客を導き、一夜明くれば初春迎ふる色里の
賑を見せて、ここにこの絵本を完了す。
北斎の精密なる写生は
挿入せしその狂歌と相俟つて、見るものをしておのづからその時代の
雰囲気中にあるの
思をなさしむ。当時の芸術はその時代とその風景のみならず
総ての事物に対して称賛と感謝の情とを以て感興の最大源泉となし、江戸と称する都会のいかに繁華にその生活のいかに面白くいかに楽しきかを描き示さんと
勉めたり。一立斎広重の山水画もまたこの意義において多く江戸の市街と郊外の風光を描き
出しぬ。
広重の山水中江戸の風景を描きしものを
挙ぐるに、名所江戸百景、江戸近郊八景、東都名所、
江都勝景、
江戸高名会亭尽、
名所江戸坂尽なぞ題されたる一枚摺錦絵あり。また『
江戸土産』(十巻)『
狂歌江戸名所図絵』(十六巻)等の絵本あり。
一立斎広重は北斎と相並んで西欧の鑑賞家より日本画家中恐らくは空前絶後の二大山水画家なるべしと称せらる。この両大家はいづれも西洋画遠近法と浮世絵在来の写生を
基として
幾度か同様の地点を描きたり。然れどもその画風の相同じからざるは一見して
瞭然たるものあり。北斎は従来の浮世絵に
南画の画風と西洋画とを加味したる処多かりしが、広重は
専狩野の支派たる一蝶の筆致に
倣ひたるが如し。北斎の画風は強く
硬く広重は
軟かく
静なり。写生の点において広重の技巧はしばしば北斎より更に綿密なるにかかはらず一見して常に北斎の
草画よりも更に
清楚軽快の
思あらしむ。これを文学に
譬へんか北斎は美麗なる漢字の形容詞を多く用ひたる紀行文の如く、広重はこまごまとまたなだらかに
書流したる
戯作者の文章の如し。されば吾人は既に述べしが如く北斎がその円熟期における傑作品の
往々にして日本らしからぬ思をなさしむるに反し、広重の作品に接すれば
直に日本らしき純粋なる地方的感覚を与へらる。日本の風土を離れて広重の美術は存在せざるなり。余は広重の山水と
光琳の
花卉とを以て日本風土の特色を知解せしむるに足るべき最も貴重なる美術なりとなす。
北斎は山水を
把りてこれを描くに当り山水それのみには飽き足らず常に奇抜なる意匠を設けて人を驚かせり。これに反して広重の態度は終始依然として冷静なるが故にやや単調に傾き変化に乏しき観なきに
非ず。暴風電光急流を以て山水を活動せしむるは北斎の喜んでなす処。雨と雪と月光とまた爛々たる
星斗の光によりて
唯さへ淋しき夜景に一層の
閑寂を添へしむるは広重の最も得意とする処なり。北斎の山水中に見出さるる人物は皆
孜々として労役す。然らざれば
殊更に風景を
指して嘆賞し
若しくは甚しく
驚愕するが如きさまをなせり。然るに広重が
画図中には
猪牙を
漕ぐ船頭も行先を急がぬらしく、馬上に笠を
戴く旅人は疲れて眠れるが如し。江戸繁華の
街衢を行くものもまた路傍の犬と共に長き日を暮らしかぬるが如き態度を示せり。両家の作品が示す両様の傾向によりて吾人はまたこの二大山水画家の性情の全く相反せる事を知るに
難からず。
北斎は描くに先立ちて深く意識し、多く期待し、常に苦心して、何らか新意匠
新工夫をなさずんば
止まざる画家なるべし。然るに広重は更に意を用ふるなく唯見るがまま興の動くがままに筆を執るに似たり。これを同じ
早筆の略画に見るも北斎のものは決して偶発的ならず、苦心熟練の
余僅にここに至れるが如き観あれども、広重の略画に至つては
看る者をしていかにもその場限りの即興に発したるものらしき思ひあらしむ。されば今浮世絵板下絵師として両者の
彩色を比較すれば広重は北斎の如く苦心する所更になかりしが如し。殊にその晩年安政時代の
板行にかかる名所江戸百景の如き、その意匠の奇抜にして筆勢の軽快なるにかかはらずその着色中の赤と緑の如きは吾人をして
大に失望せしむるものあり。広重は従来の日本画の如く
輪廓の線を描くには
悉く
墨色を用ひ、彩色は唯画面の単調を補ふ便宜となしたるに過ぎず。されど単純なる二色
若しくは三色の配置によりてかへつて
巧に複雑美妙なる効果を収むる所
何人もよく企て及ぶ所にあらず。例へば雲の白きに流るる水の青きと
夕照の空の薄赤きとを対照せしめたる、あるひは夜の
河水の青きが上に空の一面に
薄黒く、この
間に
苫船の苫の
黄きを配したる等、極めて簡単
明瞭なるその配色はこれがためにかへつて看るものをして自由に時間と空気と光線の感覚を催さしむるの余地を与へたり。米国人フェノロサは明治三十一年小林氏の主催したりし浮世絵展覧会の目録において広重が愛宕山の図につき論じて
曰く「遠く海を描きて白帆を
点綴したるは巧に軟風を
表しまた
自ら遠景において光線の反射を示せり。小さき人物は広重と同時の英国大画家タアナアの如くしばしば
杭の並べる如き観あれどこれまた風景中の諸点を強むる力あり。」また永代橋の図につきては「船の意匠は根本的また文法的と称すべし。鮮明なる二種の色調と
黒白とを
併せ用ゐて各部を異らしめたる所、共に強烈なる油絵の
顔料といへどもよくこれに及ぶ事
能はざるべし。余はホイッスラアの
最有名なる銅板画よりもむしろ本図を好む。」と。この訳文
甚佶倔にして作品の説明簡略なるがため当時の会場を記憶せざるものにはこれらの賛辞のいかなる板画についてなされたるや明かに知る由なし。然れども広重板画の特徴を
窺ふに足れり。
広重の江戸名所を描けるものその一は東都名所あるひは江都勝景と題せし横絵なり、その二は名所江戸百景と題せし
竪絵なり。この二種は同じ江戸の市街
及その近郊の風景を描きたるものなれど、
板刻の年代
並に横と竪との様式の相違よりして
自ら別種の画風を示したり。横絵の東都名所は
東海道五十三次と同じくその布局は細密なる写生に
基き、その色彩また甚しく濃厚ならざるが故に吾人が常に一般の浮世絵に対して要求するが如き色調の妙味を覚えしむ。これに反して名所江戸百景は惜しい
哉その布局の写生を離れ筆勢奔放意匠甚だ奇抜なるにかかはらず
板行絵としての色彩甚だ美妙ならず、殊にその赤と緑の濃く
生々しきは
大に吾人を失望させしむ。これによつて見るも
天保以降浮世絵板刻の技術の
年一年
如何に低落し行きしかを知るに足るべし。ゴンクウルはその著『歌麿伝』の
終において広重がしばしばその板行絵の色摺をして歌麿盛時の如くならしめんと企てたれど
遂に不可能なりし事を
記したり。
広重が描ける東都名所(横絵)の全部を
蒐集してあたかもゴンクウルが北斎歌麿に対せしが如く細大
漏さずこれを説明せんことは今余の微力のよくする所ならず。故に
唯だ広重が好んで同じ場所をば幾種となくさまざまに描きなしたる
重なる図を採りて更にその
中の二、三を選ぶこととせり。
先江戸
大城に近く、
外桜田の
弁慶堀より大名屋敷の白壁打続く
霞ヶ
関の傾斜は広重の好んで描きし地点なり。一つは夕立晴れたる夏の午後と
覚しく、辻番所立てる坂の上より
下町の人家と
芝浦の
帆影までを見晴す大空には
忽然大きなる虹
斜に勇ましく現はれ
出たる処なり。されど道行くものは子供をつれ傘打ちつぼめし女の
外には
誰一人この美しき虹には気も付かぬ様子にて、大小に羽織袴の侍も小紋の夏羽織の町人も本家
枇杷葉湯の荷箱また
団扇の荷を
担ぐ物売の商人も、皆
大なる菅笠に顔をかくし
吹風に
烈しくもその裾を打払はれ
聊か行悩める如き有様を見せたり。これ坂の上の
甚高きことを想像せしめんとする画家の用意の周到なる所なるべし。
他の一図は次第に高くなり行く両側の
御長屋をばその屋根を
薄墨色に、その壁を白く、土台の石垣をば薄き紺色にして、これに配するに
山王祭の
花車と花笠の行列をば坂と家屋の遠望に伴はせて眼のとどかんかぎり次第に遠く小さく描き
出せしものなり。上より
見下す花笠日傘の行列と左右なる家屋との対照及びその遠近法はいふまでもなく
爽快極りなき感を与ふ。
永代橋より佃島
鉄砲洲にかけての風景。また高輪より品川に及ぶ半円形の海岸とは水と空とこれに配合する橋と船とによりて広重をして最も容易に最も簡単なる
好画図を
作さしむ。
先画面の下部に長き
橋梁を
斜に
横はらしめよ、しかして淋しき
夜駕籠と
頬冠の人の
往来を見せ、見晴らす
水面の右の
方には夜の佃島を雲の如く浮ばせ、左の方には
新地の娼楼に時として
燈火を点じて水上に散在する
白魚船の
漁火に対せしめよ。あるひは
大なる
夜泊の船の林なす
檣の
間に満月を浮ばしめ、その
広漠たる空に一点あるかなきかの
時鳥、または一列の
雁影を以てせよ。これ広重の常に試みる所の最も簡単にしてまた最も情趣深き都会山水画の特徴たり。
江戸の市街が雪によりて随処にその美観を増すは人の知る処なり。今これを広重の作品に徴するにそが雪景の作中にて最も傑出せる好画図をなさしめたる処は
御茶の
水、
湯島天神石段、
洲崎汐入堤、
芝藪小路等にして
向島、日本橋、吉原土手等においてはかへつてさしたる逸品をなさしめざりき。浅草観音堂
年の
市を描くに雪を以てし、
六花紛々たる空に
白皚々たる堂宇の屋根を
屹立せしめ、無数の傘の隊をなして堂の階段を昇り行く有様を描きしは常に
寂寞閑雅を喜ぶ広重の作品としてはむしろ意外の感あり。
三囲、
橋場、
今戸、
真崎、
山谷堀、
待乳山等の如き名所の風景に対しては、いかなる平凡の画家といへども容易に絶好の山水画を作ることを得べし。いはんや広重においてをや。されど
爰に注意すべきことあり。広重は歌川
豊広の門人にして人物画をもよくしたるにかかはらず、隅田川の風景を描くにさへ
強ひて花見の
喧騒を避け、
蘆荻白帆の閑寂をのみ求めたる事なり。東都名所の
中その画題を隅田川
花盛となしたる図の如きを見よ。
先丘陵の如くに
凸起したる堤を描き、
広々したる水上より
花間を
仰見て、
僅に群集の
来往せるさまを想像せしむるに過ぎず。さればこの水上にも
妓を載せ酒を
酌むの屋形船なく、花を
外なる釣舟と
筏と
鴎とを浮ばしむるのみ。この傾向は吉原を描きし図において殊に顕著なるを覚ゆ。広重の好んで描ける吉原は華麗を極めし不夜城の壮観にあらずして、
頬冠の人
肌寒げに
懐手して三々五々
河岸通の
格子外を
徘徊する
引四時過の寂しさか(『絵本江戸土産』巻六)然らずば
仲之町の
木戸口はあたかも山間の
関所の如く見ゆる早朝の光景(江戸百景の
中廓中
東雲)なり。仲之町夜桜の
盛とても彼は貧しげなる
鱗葺の屋根をば
高所より見下したる
間に桜花の
梢を示すに
止まり、
日本堤は雪に
埋れし低き人家と行き悩む駕籠の
往来に、
後朝の思よりもむしろ駅路の哀感を
誘はしむ。この点において広重は徹頭徹尾
覊旅の詩人たり。見ずや彼の描ける吉原には
何となく宿場らしき野趣を蔵する所なからずや。
軒挑灯を連ねし仲之町の茶屋もその
洒脱なる筆致の
下には
自ら品川
板橋等の光景と選ぶ所なし。天保十三年
浅草山の
宿に移転を命ぜられし江戸三座劇場の
賑も、また吉原と同じく、広重の名所絵においては
最早春朗豊国らの描きし
葺屋町堺町の如き雑沓を見ること能はず。広重は
顔見世乗込の雑沓、茶屋
飾付の壮観を
外にして、待乳山の老樹
鬱々たる間より唯
幾旒となき
幟の貧しき
鱗葺の屋根の上に
飜るさまを以て足れりとなし、また
芝居木戸前の光景を示すには、月光の
下に劇場
已に閉ぢ
行人漸く
稀ならんとして、軒下なる用水
桶のかげには犬眠り夜駕籠客を待つさまを描いて
自ら広重独特の情趣を
造出せり。浅草観音堂の
境内を描くに当つても彼の特徴は水茶屋
土弓場また奥山
見世物場等の群集に非ずして、例へば
雷門の
大挑灯を以て
勢好く画面の全部を
蔽はしめ、その下に無数の雨傘を描きたるが如きものとはなれり。
広重の山水につきては江戸名所よりも日本全国の風景と対照して、特に論ずべきこと多きは言ふを
俟たざるなり。然れどもそは他日に譲りて、ここには北斎及び広重の両大家につぎて同じく江戸の風景を描きたる
昇亭北寿と、
一勇斎国芳の
板物を一覧して筆を
擱かんとす。
昇亭北寿は葛飾北斎の門人にして文化頃の浮絵名所絵の中にその名の署したるものあり。それよりやや後年の作と覚しき一枚摺山水画は
尽く和蘭陀画を模倣したる一種特別の画風を示したれど、いかなる故にやその伝記は和洋いづれの書物にも
詳ならず。『浮世絵類考』には姓氏を示さずして
唯両国
薬研堀辺に住し文政頃の人となすのみ。
北寿の板物は
今日伝ふる処のもの僅に三、四十種を越えざるべし。当時浮世絵を専業となせる画工の制作いづれも
甚多数なるより考ふれば、北寿はあるひは専門の浮世絵師にてはなかりしにや。あるひはその画風のあまりに奇異なるがため北斎
北渓らの間に立ちては遂に世の迎ふる所とならざりしにや。伝記の考究は
暫く
措き、今その板画を見るに北寿は直接に和蘭陀画の影響を受け西洋風の遠近法と設色法と時には光線をも
木板摺の上に転化応用せんと企てたる画工なり。これ
敢て北寿
一人に始りしには非ず。当初浮絵の大家にして歌川派の祖たる歌川豊春の如きは和蘭陀
銅板画よりヴェニス、アムステルダム等の風景をそのまま模写してこれを木板色摺となせし事ありき。されど文化以降それらの綿密なる浮絵は全く衰微し北斎の新山水起るや、北寿もまた従来の浮絵を
棄ておのが好む方向に進まんとせり。今その特徴を説明せんがため
道灌山の一図を引きて例とせんか。歌川豊春北尾重政の浮絵に比すれば布局は著しく簡明となりしに反してその設色はやや複雑にしかも
大に調和する所あり。即ち北斎が富嶽三十六景においてなせしが如く北寿もまた全画面の
彩色中その
根調となるべき
一色を選びて常にこれによつて諧音的の効果を奏せんとする苦心を示したり。(道灌山の図を見るものは
直に
黄色を帯びたる淡く軟かき
緑色とこれに対する濃き
緑と
藍との調和に感じまた他の一作洲崎弁天海上眺望の図においては黄色と
橙色との調和を見るべし。)なほ道灌山の図についていふべきは、
左方に立つ
崖の側面を
画くに北寿は三角形の連続を以てし、またその
麓に
横る広き畠をば
黄と緑と褐色の三色を以て染分けたる格子となし、これを遠近法によりて配列せしめたる事なり。もし北寿をして今一歩を進ましめんか日本における最初の立方体画家となりしや知るべからず。
北寿の板物を見るものはまた彼が好んで雲を描くがために
必その画面には空と水との
大なる空間を設けたる事を知るべし。洲崎弁天海上の眺望と題したるもの、また御茶の水より富士を見たるもの、あるひは
銚子の海浜、隅田川
真崎等を描きし風景の如き、その空中に漂ふ
大なる
白雲は家屋樹木と共にこれらの図の布局をなすに当つて欠くべからざる要件の一となれり。
此の如く山水画の制作につきて空と雲とに意を用ゐたるは日本画家中この北寿の
外にはいまだ
何人もなさざる所なりき。彼の師たる北斎は和蘭陀画の感化を喜ぶ事決して北寿に劣るものならざれども後年に至るもなほしばしば日本在来の
棚曳く霞を
横はらしめて或時は不必要と認むる遠景を
遮断するの方便となし、或時は高処を示すの手段となしたり(ペルヂンスキイは北斎が描く霞の形状をば西洋手袋の指先を並べたるが如しといへり)。広重は
四条派の山水に見るが如き濃淡を以て巧みに樹木風景を曇らす霞を描きたれど、晴天の青空に浮動する雲につきては
一度も北寿の如くに留意する所なかりき(北斎の絵本『富嶽百景』三巻中には雲を描きしもの
尠からず殊に初巻快晴の不二の図は
鱗雲に似たるものを描きて
甚よし然れどもこの絵本は晩年の作にして年代よりいへば北寿の後なるべし)。
北寿の新開拓は更にその山水画に光線を表示せんと企てたる事なり。洲崎弁天の図は
黄色と
橙色との濃淡を以てしたる家屋堂宇のためによく日光の感覚を現し得たれども、山谷堀入口の図においては地上に
横はる家屋人物の陰影を描かんとしてこれがために遠近法にまで甚だしき錯誤を生ぜしめぬ。されど北寿の山水画に対しては西洋画模倣に
基く幼稚なる技巧と、制作上の無邪気なる
誤謬とは、最初よりこれを認容せざるべからず。
如何となればこれらの大欠点はかへつて
素人画の妙味なる一種特別の風韻をなす
所以なればなり。余が北寿を以て浮世絵専業の人にはあらざるべしとの疑ひを
抱きしはその板物中かつて一の美人風俗画を見ず、その山水は日本画としても西洋画としても共にその技巧の甚しく未熟なるにかかはらず何となく風韻に富み感情の洒脱なる所あるが故なり。
浮世絵の山水画を論じて歌川豊春、北尾政美より葛飾北斎、一立斎広重を挙げ、加ふるに昇亭北寿を以てすれば今や余す所のもの一勇斎国芳あるのみ。国芳は三世豊国(国貞)と共に光栄ある江戸浮世絵の歴史を結了せしむる最後の
一人たり。
明治五年向島
三囲稲荷の境内にその門人らの
建立せし国芳の碑あり。これを見るに国貞巧
二於閨房美人仕女婉淑之像
一先生長
二於軍陣名将勇士奮武之図
一と刻したれども国芳は決して武者奮戦の図をのみよくせしにはあらず、その描ける範囲は美人花鳥山水
諷刺滑稽画に及べり。西洋画写生の法を浮世絵の人物に施してよく成功せる点はむしろ北斎の上に出づといふも過賞にあらず(浅草観音堂内奉納の絵額に一ツ家の
姥の図あり)。
一度その秘戯画に現はれたる裸体画を検するものはその骨格の形状正確にして繊巧を極めし線の感情の
能く
敗頽的気風に富める
漫に歌麿を思はしむる所あるを知るべし。仏人 Tei-san が美術史に曰く、「国芳の作画は常に活動の気に満ちその描線の甚だ鮮明正確なるしばしば称賛に価すべきものあり。しかしてその色彩には好んで赤と藍とを混和せしめたる極めて明快なる
林檎色の緑を用ひ文化以前の木板絵に見るが如き色調の美妙を示す所あり。されど或時は全くその反対に、人物奮闘の
状を描ける図に至つては色彩をしてこれと一致せしめんがため
殊更多数の色を設けて衝突混乱せしむ。」
国芳の山水画には東海道及東都名所の二種あれどもいづれもその
数多からず。東海道の作は
重に
鳥瞰図的なる山水村落の眺望を主とし、東都名所は人物を配置して風景中に
自ら江戸
生粋の感情を
溌剌たらしめたり。東都名所新吉原と題したる日本堤夜景の図を見よ。
中空には大なる
暈戴きし
黄き月を仰ぎ、低く地平線に接しては煙の如き横雲を漂はしたる
田圃を越え、
彼方遥かに
廓の屋根を望む処。一
梃の夜駕籠
頻と道をいそぎ行く
傍に二匹の犬その足音にも驚かず疲れて眠れる姿は、土手下の閉ざせる人家の様子と共に夜もいたく
深け渡りしのみか、雨持つ空に月の光もまた
朧なる
風情を想像せしめて余りあり。羽織に着流しの裾をかかげ、ぱつちに
雪駄をはきし町人の
二人連あり。その
一人は頬冠りの
結目を締め直しつつ他の一人は懐中に
弥蔵をきめつつ廓をさしておのづと歩みも
急し
気なる、その
向より
駒下駄に
褞袍の裾も長々と
地に
曳くばかり着流して、
三尺を腰低く前にて結びたる
遊び
人らしき男一人、両手は
打斬られし如く両袖を落して、少し
仰向加減に大きく口を明きたるは、春の
朧夜を
我物顔に
咽喉一杯の声張上げて
投節歌ひ行くなるべし。
浮世絵師の伝記を調べたる人は国芳が
極て
伝法肌の
江戸児たる事を知れり。この図の如きは
寔によくその性情を示したる山水画にあらずや。吾人は
寂寞閑雅なる広重の江戸名所において
自ら質素の生活に
甘じたる太平の
一士人が
悠々として狂歌俳諧の天地に遊びし
風懐に接し、また北斎の支那趣味によりては江戸時代の老人の温和なる道徳的傾向を窺ひ得べしとすれば、国芳の風景よりしては女芸者を載せたる永代橋
下の
猪牙舟、鉄砲洲石垣の
鯊釣、また隅田川
鰻かきの図等いづれも
前二
家の有せざる江戸
気質の他の一面を想像し得べし。しかしてもしこれら国芳の板画を以て更に寛政及びその以前の画家の作に比較すれば全くその外形を異にしたる背景風俗と共に幕末の人心のいかに変化せしかを想像するに
余あり。国芳画中の女芸者は濃く荒く
紺絞の
浴衣の腕もあらはに猪牙の
船舷に
肱をつき、憎きまで
仇ツぽきその
頤を
支へさせ、
油気薄き
鬢の毛をば河風の吹くがままに
吹乱さしめたる様子には、いかにも
捨身の
自暴になりたる鋭き感情現れたり。湖龍斎が画中の美人の物思はしく秋の夜の空に
行雁の影を見送り、歌麿が女の
打連立ちて柔かき
提灯の光に春の夜道を歩み行くが如き、安永天明における物哀れにまで優しき風情は
嘉永文久における江戸の女には既に全く見ることを得ざるに至りぬ。
浮世絵の人物画も山水画と共に一勇斎国芳を
殿としてここにその終決を告げたり(国貞〈三世豊国〉の死は国芳に
後るる事三年乃ち元治元年なり)。国芳の門人中(
芳幾芳年芳虎等)明治に
入りてなほ浮世絵の制作をつづけしもの
尠なからざれども、こは明治における江戸美術の余命とやがてはその全滅の状況を尋ねんとするものに対して悲惨なる材料となるのみ。
大正二年六月稿
[#改丁]
日本の芸術家中泰西の鑑賞家によりてその研究批判の精細を
極めたるもの、画狂人
葛飾北斎に
如くものはあらざるべし。邦人今更この画工について言はんと欲するも既にその余地なきが如き観あり。泰西人の北斎に関する著述にして余の知れるものに仏国の文豪ゴンクウルの『北斎伝』。ルヴォンの『北斎研究』あり。
独逸人ペルヂンスキイの『北斎』。
英吉利人ホルムスが『北斎』の著あり。
仏蘭西にて
夙に日本美術の大著を出版したるルイ・ゴンスはけだし泰西における北斎称賛者中の第一人者なり。ゴンスは北斎を
以て日本画家中の最大なるものとするのみに
非ず、恐らく欧洲美術史上の最大名家の列に加ふべきものとなし、
譬へば
和蘭のレンブラント仏蘭西のコロオ
西班牙のゴヤとまた仏国の
諷刺画家ドオミエーとを一時に混同したるが如き大家なりとなせり。
葛飾北斎はそもそも何が故に
斯くの如く尊崇せられたるや。邦人に取りては北斎そのものの研究よりもこの問題むしろ一層の興味ありといはずんばあるべからず。余はこれに答へてその理由の一を以て、北斎の
捉へたる画題の範囲の
浩瀚無辺なることいまだ
能く東洋諸般の美術を通覧せざりし西欧人をして
驚愕措く
能はざらしめたるに
依るものとなす。次は北斎の画風の堅実なる写生を基本となしたる点
自ら泰西美術の傾向と相似たる所あるに依るものとなす。北斎の真価値は実にこの写生に存するなり。
西人の永く北斎を崇拝して
止まざるは全くこれがためにして我邦人の
中動もすれば北斎を卑俗なりとなすものあるもまたこれがためなり。
文化以降北斎の円熟せる写生の筆力は
往々期せずして日本画古来の伝統法式より超越せんとする所あり。されば
宋元以後の禅味を以て
独邦画の真髄と断定せる一部の日本鑑賞家の北斎を好まざるはけだしやむをえざるなり。これに反して泰西の鑑賞家は北斎によりて始めて日本画家中最も
己に近きものあるを発見し驚愕歓喜のあまり推賞して世界第一の名家となせしに
外ならざるなり。次に北斎の描きたる題材の範囲の
浩洋複雑なるは
独り泰西人のみならず、厳格なる日本の鑑賞家といへどもまた
聊一驚せざるを得ざるべし。日本の画家にして北斎の如くその筆勢の
赴く処、縦横無尽に花鳥、山水、人物、神仙、婦女、あらゆる画題を描き尽せしもの古来その例なし。北斎は初め
勝川春章につきて浮世絵の描法を修むるの
傍堤等琳の門に入りて
狩野の古法を
窺ひ、
後自ら
歌麿の画風を迎へてよくこれを
咀嚼し、更に一転して支那画の筆法を
味ひまた西洋画の法式を研究せり。しかもそが
天稟の傾向たる写生の精神に至つては終始変ずる事なく、老年に及びてその観察はいよいよ鋭敏にその意気はいよいよ
旺盛となり、
凡そ眼に映ずる宇宙の
万象一つとして写生せずんば
止まざらんとするの気概を示したり。これ北斎をして
自ら一派一流の法式を
墨守するの
遑なからしめたる
所以ならずや。この点において北斎は
寔に泰西人の激賞するが如く
不覊自由なる独立の画家たりしといふべし。
北斎の制作は肉筆の絵画、
板刻の
錦絵、
摺物、小説類の
挿画、絵本、
扇面、
短冊及びその他の図案等、各種に
渉りてその数の
夥しきこと、ルイ・ゴンスの『日本美術』によれば少くとも三万種を越えたるべしといふ。今その
重なる制作中
殊に泰西人の称美するものを掲ぐれば第一は『北斎漫画』十五巻及びこの類の絵本なり。第二は富嶽三十六景、諸国滝
巡り、諸国名橋奇覧等の錦絵なり。第三は肉筆掛物中の
鯉魚幽霊または山水。第四は摺物なり。美人風俗画は比較的その数少くまた北斎作中の
上乗なるものにあらず。
『北斎漫画』十五巻は北斎を論ずるものの
必一覧せざるべからざるもの
也。ゴンクウルの
言を借りていへば、あたかも
種紙の
面に
蛾の卵を産み落し行くが如く、筆にまかせて
千差万様の
画を描きしものにして、北斎のあらゆる方面の代表的作品とまた古来日本画の取扱ひ来りし題材
並にその筆法とを
一瞥の
下に通覧せしむる
辞彙の如きものなり。さればゴンクウルを始めとして泰西鑑賞家の『北斎漫画』に対する説明
及批判の
中には独り北斎の芸術のみならず日本一般の風俗伝説文芸に関して
云々する所
甚多し。彼らが北斎に払ひし驚愕的称賛の辞は単に北斎
一人のみに
留まらず日本画全体に及ぼして
然るべきもの
尠からず。然れども余は一々これを論別して、北斎の価値を限定せんと欲するものにあらず。これ無用の
徒事たるのみに非ず、複雑なる北斎の作品に関する複雑なる評論をして更に一層の繁雑を
来さしむるの
嫌あればなり。例へば北斎が描ける幽霊の図を批評するに当り、日本人の
妄想が幽霊を
作出せし心理作用にまで
溯りて論究せんとするが如きは画論の以外に
馳せたるものといふべし。いはんや浮世絵の幽霊は画工が迷信の
如何を証するものたらんよりは、これ当時の演劇及小説との関係を示すものなるをや。泰西人が浮世絵の鑑賞にはこの種の論法尠からず用意周到に過ぎてかへつて当を得ざるものといふべし。
『北斎漫画』を一覧して内外人の
斉しく共に感ずる所のものは画工の写生に対する狂熱と事物に対する観察の鋭敏なる事なり。北斎は士農工商の生活、男女老弱の挙動及姿勢を
仔細に観察し進んで各人の特徴たる癖を描き得たり。『北斎漫画』のよく
滑稽諷刺に成功して
西人をして仏国漫画の大家ドーミエーを連想せしめたる
所以は
此にあり。余は北斎の筆力を以て同時代の文学者中
三馬一九の社会観察の
甚辛辣なるに比較せんと欲す。
浮世絵中の漫画はもと
北尾政美の得意とする所なりき。政美の
初て『
斎人物略画式』を
出せしは
寛政七年にして『北斎漫画』初篇
梓行に
先ずること正に二十年なり(寛政七年北斎は
菱川宗理と称し多く摺物を描けり)。されば『北斎漫画』の
由つて来れる処は

斎の『略画式』にありしや知るべからず。

斎の漫画は北斎に比すれば筆致
甚穏健にして芸術的感情の更に洗練せられたるものあれども滑稽諷刺の一事に至つては到底北斎の深刻に及ぶべくもあらず。一は浮世絵師中の最も清淡なるもの、一は最も複雑なるものなり。一は貴族的にして一は平民的の最も甚だしきものなり。この両漫画は画工の性格
並に画風の相違を示すと共にまた時代の好尚の著しく変化せるを語るものなり。江戸末期の芸術における写実の傾向は演劇絵画文学諸般に
渉りて文化以降深刻の余り
遂に極端に走れり。『北斎漫画』中これらの
証となすもの多し。武士の大小をたばさみて
雪隠に
入れる図の如きは、一九が『
膝栗毛』の滑稽とその
揆を一にするものならずや。
仏蘭西人テイザン著す所の日本美術論は北斎の生涯及画風を総論して
甚正鵠を得たるものなり。左に抄訳して泰西人の北斎観を代表せしめんと欲す。
テイザン
曰く北斎の特徴と欠点とは要するに日本人通有の特徴と欠点なり。
即事物に対して常にその善良なる方面のみを見んとする事なり。余りに了解しやすき
諧謔及び
辛辣に過ぐる諷刺とを喜ぶ事なり。運命論者の如く
殆んど未来に対して何らの考慮憂苦をも有せざる事なり。祭礼と芝居とを狂愛する事なり。貧なればよく質素に
甘ずといへども
僅少の利を得れば
直に浪費する
癖ある事なり。常に中庸を
尚び極端に
馳する事を恐るる道徳観を
持する事なり。事物の根本的性質を
究めんとするに
先じその外形より判断を下して
自ら皮相的心理状態に満足せんとする事なり。かるが故に万事全く理想的傾向を有せざる事なり。
日々平常の生活難に追はれて絶えず現実の感情より脱離する事なきも、しかもまたその
中自から日本人生来の風流心を発露せしむる事なり。これを以て
観れば北斎の思想は根本よりして平民的また写実的たりといふべきなり。浮世絵派の画人は北斎の以前においても皆写実を
基となしたるは
勿論の事なり。然れども
自ら一種の法式典型を組織せずんば
止まざる所ありしが北斎の写実に至つては更に一歩を進めたり。北斎が観察力は真に驚くべきものあり。彼は多年感触の世界の研究とその描写とに従事したるの結果、宇宙百般の事物は彼の眼には何らの苦悩悔恨をも蔵せざるが如くに反映したり。
看ずや北斎は獄門にかけたる罪囚の
梟首に対して、その乱れたる長き頭髪は苦悩の汗に
濡れ、
喰縛りたる
唇より真白き歯の露出せるさまを見ても、なほかつ平然としてこれを写生せるが如き、あるひはまた彼が一派一流の狭き画法に
拘泥するの
遑なかりしが如き、これ皆その観察力の鋭敏なると写生の狂熱
熾なるによるものに非らずして何ぞや。されば北斎は
自ら正確なる写生をなし得たりと信ずる時は意気揚々として、その著『
略画早指南』の序にも言へるが如く、わが描く所の人物
禽獣は皆紙上より飛躍せんとすと。かくて北斎は写実家の常として
宛ら仏国印象派の傾向と同じく美の表現よりも性格の表現に重きを置かんとするに似たり。彼は題材の高尚なると卑俗なるとを弁ぜざりき。これ日本の上流社会が北斎の
技倆を了解する事
能はざりし最大の原因たらざるべからず。
さて北斎はその写実主義を実行するに当り
如何なる方法に依りたるや。今これを人物画について見れば人物の動作を現はすに四肢の綿密なる解剖によらずしてひたすら疎大なる描線の力を以てせんとしたり。また山水画においては
樹木台
の部分的検索、並にその完成を
俟たず、
専ら風景全体の眺望を描かんとしたり。これ
綜合的なる法式の
下に
甚尋常一様の手段を取りたるに過ぎずといふべし。裸体の研究
如何と見るに、北斎は人物の体格及活動の姿勢とを簡略に節約すべき線の筆力によりて能く筋肉の緊張を描き得たりといへども、解剖の知識に至つてはいまだ十分なりといひがたし。これ泰西画家のなすが如く陰影によつてモデルを
看る事の便宜を知らざりしがためなり。
此の如き欠点あるにかかはらず人物の挙動、顔面の表情、または人体のあるひは突進しあるひは後退する
状を描くに当りて、北斎の手腕のいかに非凡なるかは、『漫画』第二巻の仮面の図、第八巻の盲人の顔等において
甚顕著なり。なほ一層の好例は第三巻中の
相撲、第八巻中の
無礼講、及狂画
葛飾振なるべし。狂画葛飾振の図中には
痩細りし
脚、肉落ちたる腕、
聳立ちたる肩を有せる
枯痩の人物と、
形崩るるばかり肥満し過ぎたる多血質の人物との解剖を見るべく、またかの
筍掘りが力一杯に筍を引抜くと共に両足を
空様にして
仰向に転倒せる図の如きは
寔に
溌剌たる活力発展の状を
窺ふに足る。北斎は人の笑ふ時
怒る時また
力役する時、いかにその筋肉の動くかを知り能くこれを描き得たる画家なり。
北斎が
咄嗟の動揺を描くに妙を得たるはなほ『漫画』十二巻中
風の図についてこれを見るべし。図中の旅僧は風に吹上げられし
経文を取押へんとして
狼狽すれば、
膝のあたりまで
裾吹巻られたる女の懐中よりは鼻紙
片々として
木葉に
交り日傘
諸共空中に
舞飛べり。一人の男は背後より風に襲はれて
体の中心を失はんとし、腕を上げ手をひろげて驚けば、その
傍には
丁稚らしき小男
重箱に掛けたる
風呂敷を顔一面に
吹冠せられて立すくみたり
云々。
英国人ホルムスは『漫画』第七巻中
奔波の図につきて論じて曰く、レンブラント、ルウベンスまたタアナアの描ける暴風の図は人をして恐怖の情を催さしむといへども暴風の
齎し来る
湿気の感を起さしむる事
稀なり。コンスタアブルは湿気の状を描き得たれども暴風の狂猛を捉ふる事
能ず、然るに北斎にあつては
風勢のいかに水を
泡立たせ樹木を傾倒しまた人馬を驚かすかを知れり。
『北斎漫画』及この種類の絵本はいづれも薄き
代赭藍または薄墨を補助としたる単彩の板画なり。されば北斎が
彩色板画の手腕を見んと欲すれば富嶽三十六景、諸国滝巡り、名橋奇覧、
詩歌写真鏡の如き錦絵を採らざるべからず。これらの諸作はいづれも
文政六年以後に
板行せられしものにして、北斎が山水画家としてまた色彩家としてその技倆の最頂点を示したる傑作品たるのみに非らず、その一は
司馬江漢が西洋遠近法の応用、その二には仏国印象派
勃興との関係につきて最も注意すべき興味ある制作なりとす。
ここに
暫く葛飾北斎が画家としての閲歴を見るに、彼は
宝暦年間に生れその
齢歌麿より
少き事
僅に七年なり。然れどもその画風筆力の著しき進境を示したるは歌麿の
歿後、文化
中葉の事にして、年既に四十歳を越えてより
後の事なり。彼が司馬江漢の油絵並に
銅板画によりて
和蘭画の法式を窺ひ知りしは寛政八年頃、年三十余歳の時にして、当時の
浮絵及絵本に多く名所の風景を描きたり。その
後文化の初め数年に
渉りては
専馬琴その他の著作家の
稗史小説類の挿絵を描き、これによつて錦絵摺物等の
板下絵においてはかつて試みざりし人物山水等を描くの便宜を得、
大にその技を
練磨したり。加ふるに文化末年名古屋に
赴くの途次親しく諸国の風景を
目睹し、ここに多年の修養
自ら完備し来りて、文政六年
年六十余に至り初めて富嶽三十六景図の新機軸を
出せり。これを以て見るも北斎は全く大器晩成の人にして、年七十に及んで初めて描く事を知りたりと称せしその述懐は甚だ意味深長なりといふべし。
富嶽三十六景中
今試みに江戸日本橋の一図を採りてこの種類の板画全般を想像せしめんとす。日本橋の図は中央に
擬宝珠を
聳したる橋の欄干と、通行する群集の頭部のみを描きて図の下部を限り、荷船の浮べる運河を
挟んで左右に立並ぶ倉庫の列を西洋画の遠近法に
基きて次第に遠く小さく、その相迫りて危く
両岸の一点に相触れんとする
辺に
八見橋と
外濠の石垣を見せ、茂りし樹木の
間より江戸城の天主台を望ませたり。富士山は天主の背後に
棚曳く
霞の上(図の左端)に高く小さく浮び
出さしむ。この図を一見して感受する所のものは遠近法に基く倉庫及び運河の幾何学的布局より来る快感なり。しかしてこの快感は北斎新案の色彩によりて更に一層の
刺戟を添ふ。
北斎新案の色彩とは何ぞ。彼は日本橋
橋上の人物倉庫船舶等の輪廓を描くに日本画の特色たる
墨色の線を廃し、全画面の色調を乱さざらんがため緑と藍との
二色の線を以てしたり。しかしてその描線もまた彼が常用する支那画の
皴法に依らず、能ふ限り柔かく細き線を用ひたれば、
或部分は色彩の濃淡中に混和して
分別しがたきものあり。これ西洋画または
南画没骨の法に
倣ひて、日本画より線を除却せんと企てたるものには非ざるか。北斎はここにおいて支那画の典型に遠ざかると同時に浮世絵在来の形式を超越し、しかしてまた自己の芸術の基礎を
覆へさざる範囲において甚だ適度に西洋画の新感化を応用したるものといふべし。さればこれらの山水板画は北斎の制作品中その最も傑出したるものとなすべきなり。
北斎の山水板画はその素描と布局の
甚写生的なるに反し、その彩色は絵画的快感を専らとしたり。再び日本橋の図について見るに、全色彩の根調となるべき緑と黄とに対照して倉庫の下部に
淡紅色を施し
屋根瓦に濃き藍を点じたるが如き、あるひはまた浅草本願寺の
屹立せる屋根を描きたる図中その瓦の色と同様なる藍と緑を以て屋根瓦を修繕する小さき人物を描きたるが如き、あるひはまた
深川万年橋の図において橋上の人物は
橋下の船及び両岸の樹木と同様の
緑色を以て描き
出されたるが如き、これ皆天然の色彩を離れて専ら絵画的快感を主としたるものならずや。これら新案の設色法は思ふに肉筆の制作と異なりてなるべく
手数を簡略ならしめんとする彩色板刻の技術上偶然の結果に出でたるや知るべからず。然れども今これを絵画的効果の上より論ずれば決して
軽々に
看過すべきものに非ざるなり。仏蘭西印象派の画人ら初めて北斎がこれらの板画を一見するや、その簡略明快なる色調の諧和を賞するのみならず、あたかも当時彼らが研究しつつありし外光主義の理論と対照して
大に得る処ありとなせしものなり。色彩を以て絵画の趣旨となす仏蘭西印象派の理論は宇宙の物象は
吾人日常の眼を以て見るが如く物象その物には何ら特殊の定まりたる色彩を有するものに非ず、空気及光線の作用により時々刻々全く異りたる色を呈するものなりとなす。この理論に
照して彼ら印象派の画家は北斎の山水板画を以てその最も成功せる例証となしたり。富士三十六景中快晴の富士と電光の富士とがその一は
藍色の光線に染められ、その一は全く異りたる赤色となれるが如き、彼らはこれを以て
凡そ物の陰影は黒く暗く見ゆるものにあらずかへつて
照されし物体と同様の色彩のやや柔げられたるものならざるべからずとなしたるその新理論に適合するものとなしたり。これと共に北斎板画の単純明快なる色調は専ら根本的なる太陽の七色にのみ重きを置かんとする彼らの主張と全く一致するものとなしたり。
此の如く浮世絵画工中北斎の
最泰西人に尊重せられし
所以は後期印象派の勃興に
裨益する所多かりしがためなり。クロード・モネエが四季の時節及
朝夕昼夜の時間を異にする光線の下に始終同一の風景及物体を描きて
倦まざりしはこれ北斎の富士百景及富士三十六景より暗示を得たるものなりといはる。ドガ及ツールーヅ・ロートレックが当時自然主義の文学の感化を受けその画題を
史乗の人物神仙に求めず、女工
軽業師洗濯女等専ら
下賤なる
巴里市井の生活に求めんと
力めつつあるの時、北斎漫画は彼らに対して更に一段の気勢を添へしめたり。殊にドガの踊子軽業師、ホイスラアが港湾
溝渠の風景の如き
凡て活躍動揺の姿勢を描かんとする近世洋画の新傾向は、北斎によりてその画題を暗示せられたる事
僅少ならず。
北斎は
寔に近世東西美術の連鎖なり。当初
和蘭陀山水画の感化によりて成立し得たる北斎の芸術は偶然西欧の天地に輸送せられ、ここに新興の印象派を刺戟したり。しかしてこの新しき仏蘭西の美術の
漸く転じて日本現代の画界を襲ふの時、北斎の本国においては
最早や
一人の北斎を
顧るものなし。北斎の制作品は今大半故国の地を去りて欧米鑑賞家の手に移されたり。江戸時代において最も廉価なりし平民美術は
殆ど外人占有の宝物となり終れり。わが官僚武断主義の政府しばしば庶民に愛国
尚武の急務を説けり。尚武は可なり。彼らのいはゆる愛国なるものの意義に至つては余輩
甚これを知るに苦しむ。
[#改丁]
ゴンクウル
兄弟両家の合作せる小説戯曲の
仏蘭西十九世紀後半の文壇に重きをなせるは
汎く人の知る所なり。兄エドモン・ド・ゴンクウルは弟ジュウルの
歿後その
齢漸く六十に達せんとするの時、
新に日本美術の研究に従事し
先歌麿北斎二家の詳伝を
編纂せり。そもそもゴンクウルがこの新研究に着手したりしはその著『歌麿伝』の叙にも言へるが如く、浮世絵は
即十八世紀の美術たるが故なり。彼は既にその弟ジュウルと共に仏国十八世紀の貴族
名媛及女優の史伝を編み、また同時代の仏国絵画の評論三巻を
合著せり。当時十八世紀における
此の如き特殊の風俗流行
並に美術の研究は専門の史家といへども、いまだ着目せざりし所なるを
以て、この事
既に
漸新なるに加へてまたその考証研究の態度も従来の史家とは全く
趣を異にしたり。ゴンクウルはその探索
蒐集せる資料を鑑賞し
玩味しこれによりてひたすら芸術的感覚の美に触れん事を求めたり。
然ればその十八世紀に対する考証研究の態度は
毫も詩歌小説創作の心境と異る所なく熱烈にしてまた繊細なる感情に満ちたり。佳麗なる仏国の十八世紀はゴンクウルの芸術的感覚を衝動して
止まざりしなり。偶然江戸時代の応用美術品を手にするやこの仏国十八世紀の追慕者は
忽ち日本十八世紀の称賛者となれり。
十八世紀日本美術の研究に関するゴンクウルの計画は
頗浩瀚なるものなり。彼は
先づ画家五人を
挙げ、次に
蒔絵、
鋳金、彫刻、
象牙細工、銅器、
刺繍、陶器各種の制作者中
各一人を選び、その代表的制作品を研究し、応用美術が完全に自由美術の品位と境域にまで到達せる処は世界に
唯日本あるのみなりとの論断を下さんと欲したり。然れども不幸にしてその志を果さず
僅に歌麿北斎二家の詳伝を著したるのみにして千八百九十六年病みて
巴里の
寓居に歿したりき。
歌麿伝は千八百九十一年(明治二十四年)に
出づ。当時英仏の
好事家中浮世絵を愛玩するもの
漸く多く、これに関する著述の出版また
尠からざりき。然れども特に一画家を選み来つて全巻これが研究に費せしものなし。ゴンクウルの歌麿伝は正にその
鼻祖なり(欧米における浮世絵研究の一章を参照せよ)。該書は十八世紀日本美術なる総称の下に『
青楼の画家歌麿』と題せられ全巻を二篇に
分てり。第一篇は
専ら『
浮世絵類考』に
基きて歌麿が生涯を記述し、漸次制作の
錦絵につきて解説に批評を
交へまたこれに必要なる日本一般の風俗伝説につきて懇切に記述する所あり。第二篇は歌麿の制作を分類して肉筆及
黄表紙絵本類の
板下並に錦絵
摺物秘戯画等となし、
各品につき精細にその画様と色彩とを説明せり。
今これを通読するに画家の伝記は従来の『浮世絵類考』に
拠りたるがためその
誤謬をも合せ伝へたる点
尠からず。また評論中にはひたすら重きを歌麿に置かんと欲せしが故か
動もすればその以前の画工
鳥居清長鈴木春信らを
軽ぜんとする
傾あり。
今日浮世絵の研究は米国人フェノロサその他新進の鑑賞家出でて細大
漏す処なく完了せられたるの
後溯つてゴンクウルの所論を
窺へば
往々全豹を見ずして
一斑に
拘泥したるの
譏を免れざるべし。然れどもゴンクウルは衆に
先じて浮世絵に着目したる最初の
一人たり。その著歌麿伝の価値は
此の如き
白璧の
微瑕によりて
上下するものに
非ず。歌麿一家の制作に対するその詩人的感情の繊細と文辞の絶妙なるに至つては永く浮世絵研究書中の
白眉たるべし。
殊に歌麿板画のいひ
現しがたき色調をいひ現すに
此くの如き
幽婉の文辞を以てしたるもの実に文豪ゴンクウルを
措いて他に求むべくもあらず。
今二、三の例を挙げんか。
吉原仁和賀朝鮮行列
七枚続の錦絵につきて
唐人の
衣裳つけたる芸者の衣裳の調和せる色彩に対してゴンクウルの言ふ所次の如し。
「藍緑紫及び黄色を以てなされたるこの図の色調は全体に緑がかりたる支那陶器の模様を見るの思ひあらしむ。かかる色彩は歌麿のみならずその以前より日本画家の肉筆においてもまた重大なる要素たりき。」
青楼十二時の図につきては宛ら人の心を毟るが如き色調の軟かさを述べていふ、
「この淡紅色の薄さはあたかも綾羅を透して見たる色の如く全く言葉もていひ現し能はざるほどあるかなきかの薄さを示したり。紫は鳩の胸毛の如くに美しくも色褪めたるもの、また緑は流るる水の緑なるが如く、藍は藍染めの布の裏地を見る心地にも譬へんか。その朦朧としたる薄墨の色に至りてはむしろ或鮮明なる色の遠き遠き反映を以て染めしが如く定めがたき色なり。」
また曰く、「これら衣裳の色彩によつて見るに日本の婦人は欧洲人が鮮明単一なる色を欲するとは全く異りて遥に芸術的なる天然物そのままの色彩を好むものといふべし。日本の児女がその身に纏はんとする絹布の白さは魚類の腹の白さ(即ち銀白色)なり。また淡紅色は紅味を帯びたる雪の色(即ち蒼白き淡紅色)なり。藍は藍がかりし雪の色(即ち明快なる藍)及空の黒さ(即ち濁りし藍)及び桃花を照す月色(即ち紅味を帯びたる藍)なり。黄色は蜂蜜の色(即ち明き黄色)の如し。赤色は棗の実の赤色にして烟れる焔の色(黒き赤)と銀色の灰色(灰の赤)とに分たれ、緑には飲料茶の緑、蟹甲の緑、また玉葱の心の緑(黄味ある緑色)、蓮の芽の緑(明き黄味ある緑)等あり。これらの眼に見て美しき混和されたる色彩、愛すべき濃淡を有する色彩は欧洲人の見て以ていはゆる不調和 Fausse なる色彩と称するものなり。」
此の如く歌麿の錦絵に現れたる光沢なき弱き色調はゴンクウルの賞讃
措く能はざる所にして彼は篇中
到る
処語を変へ辞を重ねてその説明に
倦まざりき。その
中左の一節の如きは最も簡単にまた最も
巧に歌麿
板物の色彩を形容し得たるものといふべし。
「いまだかつてわれはいかなる国にも斯くまで心地よく消行く如き調和せる彩色摺を見たる事なし。この色彩は画面を洗ひし水桶の底に沈澱したる絵具を以て塗りたる色の如くむしろ色と呼ばんよりは色なる感念を誘起せしむる色づきし雲の影とやいはん。」
色彩の
妙と
相俟つてゴンクウルは歌麿が
立花音曲裁縫化粧
行水等日本の婦女が
家居日常の姿態を描きてこれに一種いふべからざる優美の情とまた躍然たる
気魄を添へ得たる事を絶賞したり。こは決して過賞に非ず。
天明寛政の浮世絵師にして婦女の写生を得意となしたる清長
栄之歌麿三家の
中歌麿はその
最繊巧
緻密なるものたり。ゴンクウルがこの種の一枚絵につきて総評する所左の如し。
「歌麿は三枚続五枚続また七枚続の如き大なる板画を制作したる後、一枚絵にてその数六枚七枚十枚十二枚、時には二十余種にて一組の画帖となるべきものを夥しく描きたり。その板刻の年代は前述せし大なる続物と同時のものなきにあらざれど多くはその以後なりとす。今この種の一枚絵を見るに続物の大作におけるよりもかへつて能く日本の婦女がその日その日をいかにしてその家その庭の中に送れるかを窺ひ得るなり。或者は紅を唇に塗り或者は剃刀にて顔を剃りつつあり。遊女は頤の下に読みさしの書物を挟みつつその帯を前にて結び町家の女は反対に両手を後に廻して帯を引締めんとせり。反物の片端を口に啣へて畳み居るものもあれば花瓶に菖蒲をいけ小鳥に水を浴びするあり。彫刻したる銀煙管にて煙草呑むものあり。あるひは琴を弾じ画を描きまたは桜の枝に結び付くべき短冊に歌書けるものあり。あるひは矢を指にして楊弓を弄びあるひはお亀の面かぶりて戯るるものあり。斯の如き日本の婦女日常の動作を描かんとするや筆力を主とする簡勁なる手法にのみ拠るべきものならず、極力実地の写生に基き各種の動作に伴ふ見馴れたる手付姿勢態度を研究せざるべからず。これによりて初めて日本なる人種の特色とまたその時代の各階級の特色となるべき固有の手振態度を描き得るなり。これを例するに日本の女の物思ふ時片手の上に首を支へ物聴かんとする時跪づきたる腿の上に両手を置きやや斜に首を傾けて物いふさまその消行くが如き面影のいかに風情深きや。あるひはまた平たく畳の上につくばひて余念もなく咲く花を仰ぎ見たる、あるひは膝を崩して身を後ざまに覆さんばかりその背を軽く欄干に寄掛けたる、あるひは両肱を膝の上につき書物の上にその顔を近寄せ物読み耽りたる、あるひは片手に小さき鏡をかかげ他の手を後に廻して髱の毛を掻き上げたる、あるひはこの国特有の美しき手道具漆器の類を細く美しき指先に持添へたる、あるひは形可笑しき手付に盃を取上げたる、凡て懶気なる姿の美しさ、また畳の上に身をつくばはせたる艶しさ。吾人はこれら歌麿の一枚摺によりて始て日本の婦女の最も窺がたき日常の姿を窺得るなり。
さまざまなるこれらの姿と形とまたそれぞれに愛すべき一幅の画面をなしたり。看よ。日本の女が障子のかげにうつうつと物思ひに暮れたる姿のいかに美しきや。あるひは若き娘の戸口に坐りて両手を後に身を支へ片足を物の上に載せ下駄の脱落ちたる片足をぶら下げたる、あるひは美しき芸者の供するものに箱を持たせて雪もよひのいとど暗き夜を恐るるが如くに歩み行く姿のいかに艶なるや。あるひは若き女二人互に身を畳の上に投げ出し両肱をつき手先を組合せて指相撲をなせる、あるひはまた二人の小娘連れ立ちてその一人は他の肩に片手をかけ、掌を合せて参詣の祈願を凝らしたるなぞ一々には説尽しがたし。
今これら歌麿が美女の長く身にまとひたる衣服の着様を見るに腰と腿のあたりにて宛ら延板を当たる如くに狭く堅く引締められ下の方に行くに従ひて次第に寛く足元に至りて水の如くに流れ渦巻きたり。ゼッフロア氏はこれを譬へて刀剣の反返りたる趣きありとなしたるは寔に言ひ得て妙なりといふべし。」
ゴンクウルはなほ章を
新にして「
子宝合」の如き錦絵によりて日本の婦女の
小児を背負ひあるひは抱きあるひは乳を呑ませあるひは小便さするさまに至るまで精細にまた物珍し気にこれを記述したり。
日本画の線と色とは
如何なる程度まで婦女の
裸形を描き得るや。歌麿の錦絵
鮑取の図三枚続はこの問題を考究するに必要欠くべからざる参考品なるべし。歌麿以前既に
石川豊信鳥居清満鈴木春信
磯田湖龍斎の諸家いづれも入浴
若しくは
海女の図によりて婦女の裸体を描きたり。然れども皆写生に遠し。鳥居清長に及びて浮世絵の画風は一変して近代的写生的となるを得たり。歌麿は清長の画風を承継して更に一層の繊巧を加へたるもの。ゴンクウルの言を借り来れば線と形式とを更に
整頓せしめたるものなり。清長歌麿二家において浮世絵は発達の頂上に達したり。
然れば歌麿の裸体画は日本画中最も写生に近き標本となすに足るべし。これをゴンクウルの所論について見るに、
「この鮑取三枚続は婦人の裸体をば最も明晰なる手法によりて描出したるもの也。吾人はこれに因つて独り歌麿のみならず一般の日本画家が裸形に対する了解の如何とまた描写の方法の如何を窺ひ得べし。歌麿の裸体画には解剖の根柢完全に具備せられたれどその一抹一団の中に節略せられたる裸形は書体風の線によりて凡て局部の細写を除きたるがため、そののつぺりとしたる細長き体躯何となく吾人が西洋画に用ゆる写生用の人体模形を見るの思あらしめたり。この丈高く細長き女の真白き裸体は身にまとへる赤き布片と黒く濃き毛髪とまた蒼然たる緑色の背景と相俟つて真に驚愕すべき魔力を有する整然たる完成品たり。」
歌麿の描ける女の常に
甚しく長身なるは浮世絵を通覧するものの
直に心付く処なるべし。歌麿以前にありては春信湖龍斎
春章らいづれも
扁平にして丸顔の女を描きたり。然るに歌麿はまづ
橢円形の顔を作り
出してその形式的なる
面貌の
中にも往々
生々したる精神を
挿入し得たるは従来の浮世絵画中かつて見ざる所なり。無論歌麿の女の面貌といへども日本画家の通有なる一定の形式を脱せず。その唇は二枚の小さき
花弁の如く、その鼻は美しき
貴公子の鼻と異なる所なく必ず細き曲線に限られ、またその眼は二つの穴の真中に黒点を添へたるに過ぎず。されど
此の如く死したる典型の
中歌麿はその技術の最も円熟したる時代にありては全く不可思議なる技能を以て
能く個人の面貌の異なる特徴を
描出し見るものをしてしばしばかの
動すべからざる典型の
如何を忘却せしむる事あり。ゴンクウルは
此の如き賛辞に附記して歌麿の女の
丈高きはこの画家が日本の女を事実よりも立派に美麗になさんと欲したるがためなり。専ら遊女を描くに努めたる彼は
弁才天女の如く婦女を理想化せんと欲したるなり。されどその姿勢態度動作に関してはあくまで自然たらん事を努めたりといへり。
米国人フェノロサの所論は聊かゴンクウルと異なる所あればここにその大略を記述す。歌麿美人の身体及び面貌の甚だしく細長となりしは寛政の中頃より後の事なり。こは甚だしく髷の大形なるを好みしこの時代一般の風俗に基因したるものにして決して画家一個人の企てに因りたるものとはいひがたし。されば寛政末年より享和の始めに至る時代風俗の変遷と共に歌麿美人の身長もまた極端に馳せ遂にその特徴たる廃頽的情味を形造るに至りしが享和の末よりはややその身長の度を減ずるに従ひ、文化時代の繊巧は往々にして以前の優美温雅の趣きを失はしむるに至りぬ云々。
歌麿は婦女の姿態を描くの
外また花鳥をよくす。絵本『
百千鳥』『
虫撰』また『
汐干の
土産』等における動植物の写生はその筆致の綿密なること写真機もなほ及ばざるほどなり。また山水画は『銀世界』及び『
狂月望』等の絵本において
石燕風の
雄勁なる筆法を示したり。
摺物扇地紙団扇絵等に描ける花鳥
什器の図はその意匠
殊に称美すべきものあり。ゴンクウルはこれらをも細大漏らす事なく精細に記述し批評したる
後巻末に歌麿が秘戯画の説明を加へたり。ゴンクウルは歌麿の死を以て単に文化二年の事件に坐して三日間
入牢したるが故のみとなさずむしろ多年婦人美の追究にその健康を破壊したるがためならんと
思惟しその秘戯画については殊に著者独特の筆を
振つて叙述の労を取りたり。鑑賞の眼識に富みたる仏国の文豪が江戸美術固有の秘戯画に対して如何なる観察をなしたるかはいふまでもなく甚だ興味ある事なり。然れども遺憾ながらここにこれを訳述する事
能はざるを以て、唯ゴンクウルが何らの道徳的判断を下さず純然たる芸術的興味に
基き自由に完全にこれを観察しなほかかる場合には往々浮世絵師の喜んでなす
突飛なる
滑稽頓智の
妙を能く了解したる事、
並に絵本『
歌枕』と題せし秘戯画中には歌麿が自身の肖像と覚しきものを描きたる事を記すに
留む。
ゴンクウルはそが愛好する歌麿の伝を著したる
後四年を経て(千八百九十五年十二月即明治二十八年)更に葛飾北斎の詳伝を
公にしたり。これ著者の死に
先つこと
僅に一年なり。十八世紀日本美術に関する第二の著述は画家の生涯及びその制作に対する考証の精密なること前著『歌麿』に
優る所あり。北斎
逝きてよりその時まで僅に半世紀を経たるに過ぎざりしが、その正確なる伝記の
漸く不明ならんとするに当つてゴンクウルが研究考証は泰西の美術界に貢献する所
僅少ならざりしといふ。彼はその序にいへる如く北斎の本国においてはあたかもその頃(明治二十五年)
飯島半十郎著『葛飾北斎伝』二巻の出版せられたるを知りこれをも参照したりしがなほ足れりとせず、当時
巴里にありし日本の
骨董商林忠正なる者の助けを借りその蒐集せし資料に基きて彼
自らの
Hokousai を著したり。
(林忠正の蒐集せし北斎伝の資料は巴里の好事家にして浮世絵蒐集家たるビングの依頼によりて為されたるものなりしを、林はいかなる故にやこれをビングに渡さずしてゴンクウルに売却したりとて、一時巴里の好事家中に物議を生じたる事ありしといふ。)
ゴンクウルはその北斎伝中
頻に林忠正の名を掲げかつその蒐集せる資料の甚だ貴重にして従来刊行されたる日本の書籍にも見るべからざるもの多き事を説けり。
然ればゴンクウルの北斎伝は林忠正との
合著と見るも可ならんか。今ゴンクウルの著書中に散見せる林氏の所説を見るに浮世絵
並に江戸文学一般に関する解説考証いづれも正確にして
自ら一家の趣味鑑識を備へたり。これに
由つて見れば林氏は尋常一様の輸出商人にあらざることを知るべし。千九百二年巴里において林忠正はそが所蔵の浮世絵並に古美術品を競売に附するに際し
浩瀚なる写真版目録を出版せり。この
書今に
到るもなほ
斯道研究者
必須の参考書たり。林氏は維新後日本国内に遺棄せられし江戸の美術を拾ひ取りてこれを欧洲人に紹介し以て欧洲近世美術の上に多大の影響を及ぼさしめたる主動者たりといふべきなり。
林忠正の経歴は『大日本人名辞書』に掲げられたり。その略に
曰く、
林忠正は越中高岡の人にて父を長崎言定といふ。旧富山藩の士林太仲に養はれ幼き時より義父に就きて仏蘭西語を学びぬ。維新の際福井藩の貢進生となり大学南校に入りそのいまだ業を卒へざるに先立ちて偶起立工商会社の巴里博覧会に陳列所を設るの挙あるを聞き、陳列所の通弁を兼て売子となり仏国に渡航したり。博覧会閉会の後巴里に留り修学せんと欲したれど学資に乏しかりしかば志を変じ商估となり、その宿泊せる下宿屋の一室に小美術舗を開きぬ。時に明治十七年の正月元旦なり。忠正は日々巴里市内を行商せしが業務忽繁栄し幾もなくして一商店を経営するに至りぬ。明治三十三年万国博覧会の巴里に開設せられし時、駐仏公使曾根荒助に推挙せられ博覧会事務長官に任ぜられ日本出品事務所所長となり斡旋の功によりて正五位勲四等に叙せられたり。明治三十六年巴里の林商店を引払ひて東京に帰り、明治三十九年四月十日病んで歿せり。
ゴンクウルは林忠正の蒐集したる資料に基き北斎伝を著したる翌年、死するに臨み遺書を
認めてその所蔵の浮世絵その他の美術品を
尽く競売に附せしめたり。彼はその生涯の慰安たりし絵画人形絵本その他の美術品が博物館と呼ばれし
冷なる墳墓に輸送せられ、
無頓着なる観覧人の無神経なる閲覧に供せられんよりは、むしろ競売者の
打叩く
合図の
槌の響と共に四散せん事を望みしなり。これ骨董蒐集の
楽事を同趣味の後継者に譲与するものなればなり。
此の如く骨董鑑賞家がその秘蔵品を競売に附するの方法は一時巴里好事家の間に流行し、ヂヨオ、バルブットオ諸家の蒐集品もまた同じく散逸したりき。ここに
一言すべきはゴンクウルが遺品競売の全金額はその遺書に基き親族の反対ありしにもかかはらずやがてゴンクウルアカデミイ(私立文芸院)設立の基本財産となりぬ。ゴンクウル文芸院は千九百三年仏国政府より公然学芸の団体たる認可を得たり。当初の会員十人の中七人はゴンクウルが生前中に定めたるものにして、いづれも自然派
若しくは印象派の小説家を以て組織せられたり。会員は年俸六千
法貨を支給せられ年々新進作家の著作を審査し傑作と認めたるものに対して賞金五千
法を贈るといふ。
[#改丁]
千九百十年再版 W. von Seidlitz の著 A History of Japanese Colour-Prints(『日本彩色板画史』)総論中、欧米人の浮世絵に関する研究の沿革を記して頗る精細なるものあり。因つてその大要を訳述する事左の如し。
そもそも日本の浮世絵が
始て欧洲の社会一般の注意する処となりしは千八百六十二年(
文久二年)万国博覧会の英京
倫敦に開かれたる時なり。浮世絵はその年英国より
Havre港を経て
仏蘭西に転送せらるるや当時
巴里にありし画家
Stevens,
Whistler,
Diaz,
Fortuny,
Legros ら直ちにこれに着目しぬ。
Manet,
Tissot,
Fantin Latour,
Degas,
Carolus Duran,
Monet の諸画家また続いて浮世絵を集めき。
就中巴里の
銅板画家 Bracquemond,
Jacquemart 及びセエヴル陶器組合の工芸家はこの新しき美術界の発見に対して最も熱中せり。あたかも
好しこの時
Cernuschi,
Duret,
Guimet,
R
gamey の如き旅行家の日本より帰来して
盛に日本の風土と美術を称美するあり。文学者には
Goncourt,
Champ fleury,
Burty,
Zola あり。出版商には
Charpentier 工芸家には
Barbedienne,
Christofle,
Falize なぞいへる人々皆日本美術の賛美者となりぬ。ルウヴル美術館の絵画保管役たりし
Villot の如きは衆に先んじて浮世絵
蒐集の計画をなしぬ。
此の如く浮世絵研究の気運
漸く熟せし時千八百六十七年(
慶応三年)万国博覧会の巴里に開始せらるるに及び日本美術の勝利は確定せられり。巴里における日本美術愛好家の一団は
Soci
t
du Jinglar の会名の
下に
毎月一回郊外のセエヴルに
晩餐の集会をなすに至りぬ。
翌千八百六十八年幕府
瓦解して江戸は東京となり日本美術は日本の国土と並びて欧洲人の眼前に展開せられき。しかして
墺国維納に開かれし千八百七十三年(明治六年)の万国博覧会
及七十八年(明治十一年)の巴里万国博覧会は共に欧洲人に対して日本美術に関する知識を得さしめぬ。(巴里博覧会において若井某は日本美術の紹介について最も
勉むる処ありき。)
千八百七十年代の
半頃に至り日本政府もまた一個の博物館を東京に設立し自国の古美術品を蒐集し始めぬ。
山高氏始めてその館長となりしが千八百八十年代の半頃奈良に第二の博物館設立せらるるに当り、山高氏はこれが管理となり、
九鬼子爵代つて東京博物館長となりぬ。京都の博物館は千八百九十五年(明治二十八年)に設けられしものにして山高氏またその長たり。
今日欧洲諸国において日本美術の重要なる陳列蒐集をなせるものを
挙ぐれば次の如し。
和蘭 Leyden の美術館に納めらるる日本美術品は
独逸人
Siebold の蒐集したるものなり。ジイボルトは蘭領
印度軍隊の医官にして千八百二十三年(
文政六年)より三十年(
天保元年)まで日本に滞在し絵画
掛物凡そ八百種を携へ帰りしといふ。
千八百六十二年(文久二年)倫敦大博覧会に際し Sir Rutherford Alcock その蒐集せる木板画の陳列をなしぬ。John Leighton 翌年五月一日 Royal Institution においてアルコック蒐集品の説明を試む。
然れどもこは
専ら十九世紀(
文化以降)の木板画に関するものなりしが如し。
千八百八十二年(明治十五年)独逸ブレスロオの
Gierke 教授
伯林の Kunstgewerbemuseum(工芸美術館)においてその所蔵せる日本画二百点を陳列しき。伯林 Print-Room にはその以前より既に多少の日本板画を蒐集するものありしがジルケ教授の所蔵品陳列せらるるに当り、
普国政府はこれを
購ひて Print-Room に移しぬ。ジルケ教授は日本絵画史の
編纂に従事せしかどその業成らざるに先立ちて千八百八十年代に
歿しき。
英国の美術館 British Museum は千八百八十二年(明治十五年)英貨三千
磅(凡そ我が三万円)を投じてその当時東京帝国医科大学の
雇教師たりし Dr. William Anderson をして日本及支那の絵画凡そ二千余種を購はしめたり。
巴里においては一個人にして日本画の蒐集をなすもの
甚だ多く
Gonse,
Bing,
Vever,
Gillot,
Manzy,
Rouart,
Galimart の諸氏に次いで
Koechlin, 伯爵
Camondo らはその最も著名なるものとす。これら日本美術の愛好家は、各自の蒐集品を一括して千八百八十三年(明治十六年)既に一大展覧会を催しつづいて九十年(明治二十三年)には浮世絵
板物のみの特別展覧会を開きぬ。Salle Durand Ruel において九十三年(明治二十六年)
広重の山水画のみを限りてこれを陳列したる事ありき。
巴里ルーヴル美術館の東洋部には蒐集品多からずといへどもなほ浮世絵板物を閑却せず、
Guimet 博物館及び Biblioth

que Nationale(巴里図書館)にもまた日本の絵本類あり。(巴里図書館の日本絵本類は
Duret の担当して蒐集せしものなり。)Soci

t

des Japonisants(日本狂愛会)は会員五十人より成りて今なほ毎月一回開会せられつつあり。また Mus

e des Arts D

coratifs(装飾美術陳列館)に催さるる個人所蔵の浮世絵展覧会は千九百〇九年(明治四十二年)より始まりぬ。
英国にありては千八百八十八年(明治二十一年)Burlington Fine Arts Club(バアリングトン美術倶楽部)において浮世絵板物展覧会の挙ありしより同好者の団体組織せられぬ。英国の蒐集家中にては
Edgar Wilson の所蔵品最も
優れたりといふ。然れどもその
数において世界に冠たるは米国
Boston 市の Museum of Fine Arts(美術館)にして
屏風衝立類四百種、肉筆画四千種、板画類一万種に達すといふ。こは同美術館のために専ら教授
Ernest Francisco Fenollosa の蒐集せし処にして教授は日本帝国博物館に
招聘せられて十二年間日本に滞在したる事あり。その生涯を日本美術の研究及びその分類の事業に費したる人にしてその個人としての所蔵品中には
頗る貴重なるもの多かりしといふ。
米国人にて日本美術蒐集家として有名なるは
市俄古の Charles J. Morse, Fred. W. Gookin 及び
紐育の George W. Vanderbilt らにして Francis Lathrop(紐育人)の如きは
鳥居清長の
画のみにても百七十種を集めしといへり。Dr. Bigelow はボストンにおいて北斎の展覧会を催し
夥しくその制作品を陳列したる事ありき。
独逸にては伯林に Koepping, Liebermann あり Munich に Stadler あり。Frankfurt に Frau Straus-Negbaur あり、その他 Greifswald の Jaekel, Leipzig の Mosl

, D

sseldorf の Oeder, Freiburg (Breisgau) の Grosse らの諸氏
皆浮世絵所蔵家としてその名を知られたる者なり。伯林 Print-Room 所蔵品のことは既にいひたり。同市の Kunstgewerbemuseum(工芸美術館)は日本浮世絵の宝庫たらんことを期し絶えずその蒐集に
勉めつつあり。
Hamburg の Museum f

r Kunst und Gewerbe(美術及工芸美術館)にも多数の板画あり、
Dresden の Print-Room また
新に浮世絵蒐集の事業に着手しぬ。
此の如く浮世絵木板画に対する一般の趣味と知識の増進するに従ひこれに関する著述の世に
出るもの
漸く多し。千八百七十九年出版アンダアソンの著『日本美術史』A History of Japanese Art (Transaction of the Asiatic Society. Vol. VII.) は、浮世絵板画をも含み日本絵画一般の歴史に関する正確なる著述にしてこの種の出版物中最初のものたり。アンダアソンは次いで千八百六十六年 The Pictorial Arts of Japan(『日本画論』)と題する美装の書(Edition du Luxe)二巻を著しまた同年英国美術館の購求せし支那及び日本画の目録を
編纂して精細に説明する処あり、しかして千八百九十五年 Portfolio 五月号に
出せし Japanese Wood-Engraving(日本の木板画)においては浮世絵史の大要を簡易に記述しぬ。アンダアソンに次いで、ブレスロオの教授ジルケは千八百八十二年伯林工芸美術館においてその所蔵品を陳列するに当りこれが目録を編纂しぬ。ジルケ教授のこの著述は
簡短なれども日本美術に対する著者独創の意見の
頗る見るべきものあり。翌八十三年には仏蘭西人
Gonse の
尨大なる著書 L'Art Japonais(『日本美術』二巻)出でぬ。第一巻は日本画及浮世絵に関するものにして、専ら西洋美術家の見地よりして日本の絵画を批評了解せんとしたる著者の計画は最も斬新にしてまた不成功にてはあらざりき。ゴンスのこの著述出づるや米人フェノロサは Review of the Chapter on Painting in Gonse's L'Art Japonais(最初横浜において出版せられし後千八百八十五年ボストンにて再刊せらる)と題してゴンスが日本美術上における北斎の地位を余りに重視したる事を非難しこれが正当なる判断を下したれども、また彼はゴンスが
西人に対して了解しやすからざる
光琳の芸術を
明瞭に説明して誤りなからしめし事を賞賛して
止まざりき。フェノロサはゴンスに対するこの論文において遠く日本画発達の
淵源に
溯りてよくこれを批判したり。これに因つて
世人は
汎くフェノロサが日本美術について最も広大深刻なる見解を有する人なるを知りぬ。千八百八十五年
丁抹国の美術家 Madsen なる人 Japansk Malerkunst(『日本絵画論』)と題する小冊子を著しぬ。文辞佳麗
論鋒鋭利にしてしかも芸術的感情に富みたる完全なる好著なりしが、惜しむべし丁抹語にて書かれたるがため広く世の迎ふる所とならざりき。されどもしその翻訳を試みるものあらんか
今日といへどもなほ日本画の精神を
探ぬるに絶好の便宜となるや疑ひなし。
欧米における日本美術の研究はかくして千八百八十九年更に新進の著述家を出すに至りて
大に研究検索の範囲を拡張せしめたり。ハンブルグの人 Brinckmann が日本の諸美術及工芸に関する著述の第一編
即ちこれなり。著者は肉筆画と板画とを合せてここに
渾然たる大美術史を編纂したれどもその所論は
殊更北斎を過賞したればフェノロサの研究によるよりもかへつてゴンスに拠りたるものと言はざるべからず。巴里の
Bing は美麗なる月刊雑誌 Japon Artistique(『日本の美術』)を
編輯しよく原画の趣を伝へたる精巧なる挿画とまた英仏独三国語の解説とによりて極力日本趣味の普及に
勉めたり。千八百九十年以来東京においては『
国華』の発行あり。その掲ぐる古画の複製はビングより更に一層美なるものあれども
僅に一部の人の眼に触るるのみ。千八百九十年

cole des Beaux-Arts(巴里美術学校)に開かれたる諸家蒐集品陳列会絵入目録の出版(ビングの解説あり)並に翌九十一年 Burty 所蔵品絵入目録の(Leroux 解説あり)の出版とは共に巴里の
好事家のために浮世絵板画研究の道を示して
余蘊なからしめたり。この時までは巴里の好事家中よく浮世絵を知るものは
甚少数に過ぎざりしなり。この年(明治二十四年)
Goncourt の歌麿伝出でぬ。欧洲において日本の画家一人を主題としたる出版物はけだしこれを以て
嚆矢となす。次いで千八百九十六年北斎伝出でしがその編纂の資料はもとビングの
需によりて一日本人の蒐集せしものなりしを、この日本人はビングを欺きその資料をゴンクウルに二重転売したりしといふの故を以て一時
大に物議を
醸したり。ビングが北斎伝出版の計画は
此の如くゴンクウルの
先鞭を
着る所となりしがため中止するのやむなきに至れりといふ。広く独逸の社会に購読せらるる
Muther の著書 Geschichte der Malerei im XIX. Jahrhundert(『十九世紀画人史』)はまた日本浮世絵の紹介を試みたれどもその挿絵の狭小にして解説の余りに簡略なる僅に浮世絵の何たるかを
窺はしむるに過ぎず。これに比すれば英人
Anderson が Portfolio (1895) に掲載したる Japanese Wood-Engraving(日本の木板画)は同じく通俗平易の紹介なれども参考の資料とするに足るべき挿絵あるが故に
遥に
優れるものといふべし。
かくて浮世絵に関する著述は千八百九十六年の
始に及び
遂にその研究の最も斬新にしてまた恐らくはその終極たるべき完全無欠の良著を得たり。これ即ちフェノロサが同年
紐育に開かれたる浮世絵名家展覧会のために編輯したる目録(Catalogue of the Masters of Ukiyoye)なりとす。著者の博識はよく豊富なる材料を精選し各方面に渡れる専門的研究をして細微を極めしめたり。しかしてその文章を見るにまた頗る
遒勁なるをや。フェノロサは浮世絵
板物中最も
上乗なるもの
凡そ四百種を採れるの
傍板物の研究に必要なる板画家の肉筆制作凡そ五十種を合せてその制作の年代に
基き順次にこれを配列し個々につきて精細なる説明を施すと共に浮世絵一般の歴史についてもまた合せ論ずる処ありき。
斯の如き研究の法はいまだかつて
何人も企て得ざりし処にしてこれによりて吾人は始めて一目瞭然として各画家の制作年限とまたその画風の変化を知ると共にこれを一括して
明和二年(一七六五年)より
嘉永三年(一八五〇年)に至る浮世絵全盛の各時代を通覧し得たり。この書出でてより
斯界の研究は
最早その第二次とすべき一局面の細密なる蒐集以外主要の点に
付ては全く
為すべき余地なきに至りしといふも過賞にあらず。フェノロサの研究は浮世絵の各流派を挙げて漏らす処なく堅実にして綿密を極めたり。さればもし
此の如き研究の方法を移して欧洲美術史の上に施すものありとせんか、
敢てその全史に
渉らざるもよし限られし一時代につきてもよく堅実なる研究の基礎となるべきや疑ひなし。彼は十九世紀後半(嘉永以後)に輩出したる多数の浮世絵師の如きは全くこれを顧みざりしといへども決して一派一流の画家にのみ偏する事なく広く各派の一般を見しかして
後常に見識ある美術史家のなすが如く各流派の
中よりその代表者と見るべき比較的少数の画家を選び
出せり。なほフェノロサがその編纂目録において浮世絵板物の一枚ごとにその
出板年代を記載したるは頗る
驚愕すべき事とす。こはその発見者自身の語るが如く、かかる古美術品の制作年次の如き、元より絶対的に数字の誤りなしとは断言し得べからず。
凡て記載されたる年数に近きものたるは
勿論なるべしといへども、
斯界の研究者は必ずや見て以てフェノロサが推断の
誤謬なきに驚かざるを得ざるべし。浮世絵一枚々々の出板年数は一見容易なるが如しといへどもしかも
唯漫然として各板画の画風筆法等を比較するが如き事にては決して発見し得べきものにあらず。浮世絵板物には
幸にも大抵画工の署名あればフェノロサはこれによりて画工の生死年次を参考としたるは勿論たるべしといへども、その板画出板の年次に至つては
例へば
宝暦より
寛政に至る浮世絵全盛期中、
西村重長の
寛保三年(一七四三年)における、
鈴木春信の明和二年(一七六五年)における、あるひは
鳥居清長の
天明三年(一七八三年)における、また
喜多川歌麿の寛政七年(一七九五年)における制作といふが如く明確に年数を決定し得べきものは甚だ
少し。然らばフェノロサがこの
穿鑿に関して最も主要なる
手掛りとなせしものは何ぞや。そは唯画中の人物を見てその
結髪の形状によりしのみ。されどこれとて明瞭に毎年流行の変化を示して誤りなからしむるものならず。殊に日本の流行に関しては欧洲におけるが如く毎年の変化を記録したるものなし。然れどもフェノロサが専ら画中婦女の衣服及び結髪の変化に重きを置きしはこれを以て大抵出板の年号を記載したる板刻絵本類の挿画に比較せんと欲したるがためなり。この絵本類は実にフェノロサをして驚くべき発見をなさしめたる基礎たりしなり。彼は
紐育展覧会陳列品及びその編纂目録にはこれら板刻絵本類を編入せざりしかど、あたかも彼が浮世絵板物に対照せしむるに肉筆画を以てしたるが如く、もしこれら板刻の絵本をも参照せしめたらんには、彼が研究上相互の関係も更に一目瞭然として、吾人は各画家の板物一枚々々につきてこれを絵本に描かれたる人物の流行及び風俗の変化に徴し得べきが故に、一層得る所多くまた彼が研究に対しても更に深く信服することを得たりしなるべし。
フェノロサは千九百〇八年九月二十一日心臓を病みて
倫敦に歿せり。
惜哉その計画せし日本の絵画及浮世絵板物に関する完全なる一大美術史は脱稿せられずして止みしといへども前述したる紐育展覧会目録の
外に千八百九十八年(明治三十一年)東京に開かれたる展覧会の目録あり。小冊子なれども斯界の研究書として欠くべからざるものにして、また別に美装したる Masters of Ukiyoye(『浮世絵の名家』)の著あり。
千八百九十七年(明治三十年)英国 South Kensington Museum(南ケンシングトン美術館)の役員 Edward F. Strange の簡易なる History of Japanese Wood-Engraving(『日本板画史』)出版せらる。この書
元より美術の評論を除外したるには
非ざれども、多くは浮世絵師の伝記雅号及び住居等、
凡て直接絵画に関係少きことのみを記述し、必要なる制作品の事につきては僅に数行の
文字を費すのみ。この書の欠点はそれのみならず、浮世絵の沿革につきて全然誤りたる見解をなせることなり。著者は思ふに十九世紀(
享和文化以降)の浮世絵のみを知るものと覚しく、専ら十九世紀を主としてかへつて十八世紀(
元禄末期より寛政の終に至る)を
疎にする所あり。然るに浮世絵の歴史上十八世紀は最も必要なる時代にして、十九世紀に至りては北斎広重二家の外
殆ど他に見るべきものなきにあらずや。編中一つとして著者の研究の
如何を思はしむるに足るものなくかつ往々にして利のために筆を取りたるが如き形跡歴然たり。日本美術を研究せんと欲するものにとりてむしろ有害無益の悪書といはざるべからず。ストレンヂはこの書を著すに当り浮世絵研究の一大基礎たるべきフェノロサが千八百九十六年編纂の目録をも決して参照する所なかりしが如し。しかして彼は千九百〇四年更にまた Japanese Colour-Prints(『日本の彩色木板画』)なる一書を売り出せり。
千八百九十七年
Seidlitz の A History of Japanese Colour-Prints(『日本彩色板画史』即ちこの翻訳の原書なり)の第一版出づ。千九百年巴里人 Duret 仏蘭西国立図書館の購求せし絵本類の目次を編纂しこれを出版せり。千九百二年以後浮世絵の競売目録多く出版せらる。皆研究の好材料たり。千九百四年以来順次に出版せらるる独逸人 Perzinski の著書は短きものなれど各編ごとに一画家を
捉へてこれを論評せり。同国人 Kurth は千九百七年歌麿につきて該博なる研究の結果を公表したり。
訳者曰。クルトは歌麿に次で写楽の研究を出せり。千九百五年仏人 Marquis de Tressan 亭山なる雅号を以て Notes sur l'art japonais(『日本美術史』)二巻を著す。千九百十二年米人 Dora Amsden の The Heritage of Hiroshige 出づ。斯の如く欧米各国において浮世絵及び日本美術に関する出版物の夥多なる余は本論文の原著者がその巻末に挙げたる書目につき諸雑誌掲載の論文を除き単行本として公にせられしもののみを数へてなほ七十余種の多きに及べるを見たり。仏人テイザンの『日本美術史』序論中左の一節は興味あるが故に併せ訳して左に録す。
欧洲人は維新以前にあつては僅に
和蘭及
葡萄牙人が
長崎出島にてその土地の職人に製造せしめたる輸出向の陶器漆器を見るの
外日本の美術については全く知る所なかりしなり。その時代の輸出陶器は大抵支那製の模造にして意匠模様の如きも多年慣用せられたる最も形式的のものなりしが故に深く珍重する所とならざりき。されど漆器のみはこれに反して
夙に欧洲人を驚かせし事は千六百年代のマザラン宮殿
宝什目録に徴するもまた明かなり。やや
降つて
路易十五世及十六世の治世に至るや日本漆器の流行
甚盛となりぬ。
今日巴里ルウヴル美術館に陳列せらるる王妃マリイ・アントワネットの所蔵品を
看れば当時日本漆器の尊ばれたる事
遥に陶器に
優りし事を知るに足るべし。然れども欧洲人はなほいまだ光琳の
蒔絵、春信の
錦絵、
整
の銅器、
後藤の
目貫等については全く知る所なかりしが、維新の戦禍に際してこれらの古美術品一時に流出するやゴンクウル、ブュルチー、ゴンス、ギメエ、バルブットオの如き仏国の
好事家狂奔してこれが蒐集と鑑賞とに従事したり
云々。
大正三年稿
[#改丁]
徳川氏の
覇業江戸に成るや、
爰に発芽せし文華をして
殊に芸術の方面において、一大特色を帯ばしめたる者は
娼婦と俳優なり。太平の武士町人が
声色の快楽を追究して
止まざりし一時代の
大なる慾情は
忽ち
遊廓と劇場とを完備せしめ、更に進んでこれを材料となせる文学
音曲絵画等の特殊なる諸美術を
作出しぬ。
暫く事を歴史に徴するに、わが劇場の
濫觴たる
女歌舞伎の舞踊は風俗を乱すの
故を
以て
寛永六年に禁止せられ、次に起りし美少年の
若衆歌舞伎もまた
男色の故を以て
承応元年に禁止せられて
野郎歌舞伎となりぬ。日本演劇発生の由来は全く一時代の公衆が俳優の風姿を愛慕する色情に
基きしといふも不可ならず。女優
並に遊女の女歌舞伎、また
玩童の若衆歌舞伎、いづれにせよそが存在の理由は
専ら演技者の肉体的勢力にありて、歌舞音曲はその補助たりしや明かなり。
寛文延宝以降時勢と共に俳優の演技
漸く進歩し、戯曲またやや複雑となるに従ひ、演劇は次第に純然たる芸術的品位を帯び
昔日の如く娼婦娼童の舞踊に等しき不名誉なる性質の幾分を脱するに至れり。これと共に公衆の俳優に対する愛情もまたその性質を変じて、
例へば武道
荒事の役者に対しては
宛ら
真個の英雄を崇拝
憧憬するが如きものとなれり。古今東西の歴史を見るも実に江戸時代におけるが如く公衆の俳優を愛したる例証はこれあらざるべし。江戸の
市人は俳優に対して不可思議なる熱情を有したり。彼らは
啻に演劇を見て喜ぶのみならず更にこれを絵画に描きて
眺め賞したり。浮世絵の役者似顔絵はこれら必然の要求に応じたるものにして、その濫觴は浮世絵板画の祖ともいふべき
菱川師宣なるべし。
山東京伝はその著『
骨董集』において延宝
天和の
頃既に俳優
坊主小兵衛を描ける一枚絵ありし事を言へり。寛文十年板『
垣下徒然草』、延宝六年板『
古今役者物語』等の評判記には皆当時俳優の肖像を
挿入せり。以て
元禄以前既に俳優肖像画の行はれたるを知るべし。
然れどもその流行
最盛なるに至りしは元禄年代
鳥居清信出でてより
後なりき。本年演劇珍書刊行会において翻刻せし鳥居清信が『
四場居百人一首』(全一冊)は元禄六年の板にして、この珍書は日本演劇
並に浮世絵研究者に取りて
二様の興味を感ぜしむ。一は清信がいまだ豪健
放恣なる一家の画風を
立るに
到らず、
専ら師宣の門人
古山師重を
中間にして菱川派の筆法を学びたる時代の制作を
窺ふ一例とするに足ればなり。第二は卑俗なる俳優の
画帖を作るに画工は『
小倉百人一首』の如き古典の体裁を取りたる事なり。こは浮世絵のみならず江戸平民の
諸有る美術文学を通じて現はれたる特徴にして、厳粛なる支那日本の古典よりその意匠を
借来りてこれを
極めて卑俗なるものに応用する時は
爰に
自ら
滑稽機智の妙を感ぜしむべし。俳優の
紋処並にその系図を『
武鑑』に比したる『
明和伎鑑』の如き、あるひは
天明八年京伝が描ける『狂歌五十人一首』の画像の如き皆江戸平民の考案せる芸術的遊戯の特色を示すものならずや。余は鳥居清信が『四場居百人一首』において輪廓を描ける線の筆力と、模様風なる人物の姿勢と、また狂歌を
散し書きにしたる文字と絵画との配合につきて殊に美妙なる快感を禁ずる
能はず。
元禄年間は元祖
団十郎が創意せる荒事の新技芸都会の
人目を驚かしたる時なり。鳥居清信がいはゆる鳥居風なる
放肆の画風を
立しは思ふに団十郎の荒事を描かんとする自然の結果に
出たるものならん
歟。清信が役者一枚絵は元禄以降
正徳年中において次第に流行しその後継者たる鳥居派二世の絵師
清倍に至りて
益
流行を極め、これがために元禄時代菱川師宣の盛時に流行したりし
墨摺絵本類の板刻は
享保に至りて
大に
廃れたりといふ。(
元文に入り
西川祐信出づるに及び絵本は再び流行せり。)鳥居清倍と同時代に二世
清信あり。その
画は元祖清信が
歿年(享保十四年)の頃より
寛延三年の頃まで続いて
出しが故に、時として元祖清信の作と混同して
大に
今日の研究者を苦しましむ。役者絵は以上鳥居派の三画工並にその門人の
外に、
奥村政信及びその門人のこれを描けるもの
尠からず。以上諸画工の役者絵は皆墨摺の
板行絵に
彩色を施したる
丹絵臙脂絵漆絵の類なり。
寛保三、四年に至り始めて
色摺の
紅絵現はれ一枚絵の外また役者似顔の
団扇絵漸く流行せり。浮世絵色摺の発達につきては余既に
鈴木春信論の
中に述べしが如く、元禄より元文を過ぎ寛保に及ぶまで
凡五十年間は仮に西洋美術史上の用語を以てすればいはゆる「
復興期以前」の時代に相当すべし。今それら
宝暦以前の浮世絵に現はれたる役者絵を以てこれを演劇の歴史に対照せしめんか、『
役者名物袖日記』(明和八年板)に載せたる
時代分を見るに
作弥九兵衛玉川千之丞多門庄左衛門らの俳優出でたる寛永承応の頃を劇道の大昔となし、延宝元禄の頃
続狂言道具口上など始まり俳優には中村伝九郎、中村
七三、
永島茂右衛門、宮島伝吉、藤田小三郎、山中平九郎、市川団十郎ら声名ありし時代を
中昔となしぬ。正徳より享保の
末は
末昔と呼び看板道具等美を尽し狂言むづかしくなりたる時代にて、市川団十郎松本小四郎
富沢半三郎小川善五郎
早川伝五郎沢村宗十郎大谷広治らの俳優をばその代表として掲げたり。当時の丹絵漆絵紅絵を
蒐集しこれら古代俳優の舞台姿をば
衣裳の
紋所によりて考証
穿鑿するは
吾ら
好事家に取りて今なほ無上の娯楽たり。
寛保の末年浮世絵は西村重長(奥村政信門人)の工夫によりて初めて純然たる
彩色板刻(二色板紅絵)の法を発明し宝暦に入りてその
技益

進歩せり。この時演劇は既に
今日吾人の
目睹するが如く、セリ
出、
廻道具、がんどう
返等あらゆる舞台装置の法を
操座より応用し、劇場の構造
看客の観覧席をもまた完備せしめき。
宝暦年代は鳥居派三世の絵師
清満(清倍子)の全盛期なり。清満は浮世絵史上において二色摺紅絵を三色摺に進歩せしめし功労を有す。
石川豊信らと並んで
頗る
妖艶なる婦女の
痴態を描きまた役者絵も
尠しとせず。然れどもこの時代には役者絵の流行既に享保元文時代の如く盛んならず、その板刻
時に
甚粗雑となるの傾きありき。しかしてこの衰勢を
挽回せしめたるものは実に役者絵中興の祖と称せらるる
勝川春章なりとす。
勝川春章は肉筆専門の浮世絵師
宮川長春につきて
夙に色彩の妙技を学び得たり。あたかも
好し宝暦過ぎて明和改元の翌年浮世絵板刻の技術は鈴木春信並に
板木師金六の手によりて肉筆画に異ならざる完全なる
彩色摺の法を
工夫し得たり。春章が役者絵は
独逸人ザイトリッツの『日本板画史』によれば明和元年を以て始まるといふ。春章がこの時代の板画は役者絵風俗画共にその曇りて
軟かき色調、専ら春信に
倣ふ処多かりしが、明和末年より安永に
入るやその筆力は
忽ち活気を帯びその色彩は甚だ
絢爛となり、ここにいはゆる勝川派の特徴を明かにせり。
仏蘭西人ゴンスは彼を以て鳥居派の豪健に春信の柔和繊細を
交へたるものとなせり。
今鳥居派奥村派の描ける丹絵漆絵の役者絵と、春章が勝川派の特徴を歴然たらしめし安永時代の役者絵を取りてこれを比較すれば一見して
如何にその画風の写生に
近きしかを知るべし。宝暦時代の鳥居清満が紅絵の役者を見るも、吾人はなほ画中人物の衣裳に
紋処なかりせば容易にその俳優の誰なるかを弁ずること能はざるべし。然るに春章の
錦絵に至りては、例へば四世団十郎(五粒)三世団蔵(市紅)元祖
歌右衛門(歌七)元祖中村
仲蔵(秀鶴)等の如き、その
容貌の特徴往々にして
身体付の癖をも交へたれば、
朧気ながら各優の芸風をさへ想像せしめんとす。役者似顔絵は勝川春章
出でて全くその趣きを一新したりしなり。古来鳥居奥村両派の
画に見たる太くして
円味ある古風の線は今や細く鋭く鮮明となり、衣裳の模様は極めて綿密に描き
出されその色彩はいはゆる
吾妻錦絵の佳美を誇ると共に、舞台の道具
立はそのまま役者絵の背景に移され布局上最も重大なる一要素となりぬ。また図中人物が筋肉の緊張を示さんとしてその四肢の線に
紅隈を施したるも春章の創意する所なりといふ。
春章が役者絵には宝暦時代より承継せる細長き
細絵(一枚また三枚続もあり)と
大判の錦絵とあり。その
数いづれも
夥しきが
中に余の一見して長く忘るる能はざるものは、内地にて目撃したる原板画よりも、むしろ外国蒐集家の所蔵品の写真版にせられたるものなり。独逸人クルトの著『
東洲斎写楽論』の巻末に添へたる挿絵の
中、春章が
暫の図は
橘の
紋染抜きたる花道の
揚幕を
後にして
大なる
素袍の両袖
宛ら
蝙蝠の
翼ひろげたるが如き『
暫』を真正面より
描しものにて、余はその意匠の奇抜なるに一驚せり。また
巴里人ジヨオ蒐集板画目録中
岩井半四郎が
座頭に
扮せる
所作事の図あり。
扇地紙の
襖を
後にして
大黒頭巾を
冠り荒き
縞の
袴はきたる座頭が手に
杖を持ち、片足をば
足袋の裏を見するまで差上げて踊れるその姿の軟かにしてまた
勢あるさま、余は眺むる
中に図中
自ら
出語の三味線と
足拍子の
響をさへ聞くが如き
心地せり。
春章はそれら一枚絵の
外に俳優似顔の絵本をも
出せり。『
役者国の
華』(出板年次不詳)『
絵本舞台扇』(明和七年板色摺三冊)その続編(安永七年板色摺二冊)
並に『
役者夏の
富士』(安永九年板墨摺一冊)等なり。『役者夏の富士』は舞台に出でたる役者を描かずして、そが平素日常の
素顔を取りその住宅庭園の後景を配合せしめたる処、役者絵始まりてよりいまだかつてその例なき新意匠なり。
後年に至り歌川
豊国専らこの意匠を取りて名声を博しぬ。また『役者国の華』はジヨオ蒐集板画目録に出でたるその
中の一図(
傾城に扮せる中村七三郎と五郎に扮せるものと覚しき市川純蔵両人を大なる盃に載せ
後に菊花と紅葉を描けり)によりて画風より推察すれば明和初年の出板なるべしと思はるれどわれいまだその原本を見るの機会なきを遺憾なりとす。
『絵本舞台扇』及びその続編は春章
並に同時代の画工
一筆斎文調の合作せるものにして明和安永における江戸大坂両都の俳優を一覧するの便あり。この絵本はまた鈴木春信の『
青楼美人合』(五冊)『
春の
錦』(二冊)と共に色摺絵本中の最も古くまた最も精巧なるものとして板画研究者の珍重する処たり(明和以前の絵本は皆墨摺にして色摺はなし)。
『絵本舞台扇』を
繙くものは春章は専ら
立役また
実悪の俳優を描き、文調は
重に
瀬川菊之丞(王子路考)
中村松江(里公)岩井半四郎(杜若)の如き
女形若しくは
市川春蔵佐野川市松の如き
若衆形を描けるを見るべし。これ文調が役者絵の特徴にして彼は一枚絵においても決して春章の如く活動せる役者絵を描かず常に女形の物静かに優しく
佇める姿を
択べり。さればその色彩もまた春章の如く
褐色(柿色)と
黒色の対照によれる画面の活躍を欲せず、常に春信の色彩軟かき調和を慕ひて不透明なる
間色を用ひまた時として
湖龍斎に見るが如き淡き透明なる
丹を点ず。一筆斎文調が板画の色彩は浮世絵中最も
上乗のものに比して劣ることなし。
明和安永時代は
斯の如く春章文調が役者絵の全盛時代なりしが天明に入りて両者の板画は
漸く
稀になりぬ。春章は天明以後その晩年をば壮時の如くに再び肉筆画の制作のみに送りき(春章は寛政四年に歿し文調は寛政八年に
逝けり)。天明年代の役者絵は春章の門人
春好春英の手に成り、またこの時代より近世浮世絵史上の最大画家と称せらるる鳥居清長の
嶄然として頭角を
顕すあり。時代はかくして寛政に移り清長の退くを待ちて歌川豊国出でぬ。
天明時代の役者絵を論ずるに先立ちてここに
一言すべきは劇場内外の光景を描ける風俗的
景色画のこととす。元文より寛保延享寛延に至る頃奥村政信
及その一派の画工は室内の遠景を描ける
大板の
紅絵漆絵を
出せり。即ち大名屋敷あるひは青楼の大広間に
男女打集ひて遊宴せるさままたは人形芝居を見る処なぞを描きたるものにて、
和蘭陀風の遠近法はこの時既に浮世絵に応用せられ天井と
襖の遠くなるに従ひて狭く小さく一点に集り行くさま、
今日吾人が劇場にて
弁慶上使の
場または
妹脊山館の
場の
書割を見るに似たり。この種類の遠景図は当時
浮絵と呼びしものなり。余は奥村政信が
堺町の
町木戸より
片側には中村座片側には人形芝居
辰松座の
櫓を見せ、両側の茶屋
香具店の前には男女の往来せるさまを描きしものを見たり。政信はまた観客の
雑沓せる
切落と
両側桟敷のはづれに小さく舞台の演技を見せたる劇場内部の図をも多く描きぬ。これらは演劇並に劇場内部の構造を知らしむるが故に演劇史の研究上最も必要の参考品たり。かかる大板の浮絵は宝暦に入りて鳥居清満が紅絵を最後とし
色摺錦絵
出ると共に
暫く
杜絶せしが安永に及び歌川豊春の浮絵となりて更にその流行を増しぬ。豊春の浮絵は政信清満の
板物ほど大判ならざれどその着色は家屋の木材を描くに濃き
代赭を用ひこれに
橙黄色と緑色とを配したる処また別種の趣あり。然れども浮絵は天明以後に及び一般に甚しく粗製のもの多くなりぬ。
吾人は豊春の浮絵において安永時代の
芝居町並に各座劇場内の光景を
窺ふに当りてここにまた
北尾重政の描ける絵本をも一見せざるべからず。重政は鈴木春信の門人にして勝川春章一筆斎文調及び歌川豊春らと並びて明和安永間の名手なり。重政の劇場を描ける絵本は
墨摺三冊にて『
戯場風俗栄家種』と題しその画風は全く鈴木春信に似たり。この書は明和四年の板にして勝川春章が『役者夏の富士』に先立つ事十余年なれば思ふに劇場の風俗を描ける絵本中の最も古きものなるべし。
巻を開けば図は
先づ武家屋敷長屋の壁打続きたる処にして
一人の女窓のほとりに
彳み
頬冠せし
番付売を呼止めて
顔見世の番付
購ふさまを描きたり。繁華の
橋上に
乗込の役者を迎ふる雑沓の光景(第二図)より、やがて「
吹屋町を
過れば
薫風袂を引くに似た」る
佐野川市松が
油店。石畳の模様に同の字の紋所染めたる
暖簾のかげには
梳櫛すき油など並びたり。二月十五日は中村座の
祝日とかや。
進上の
飾物山をなし(上巻第四図)やがて顔見世中村座
木戸前の全景(上巻第五図)より市村座劇場内(第六図)を見て
過れば、再び芝居町の名物
高麗せんべいの
店先(第七図)に
花菱の看板人目を引き、
名代福山の
蕎麦(中巻第一図)さては「
菊蝶の紋所花の露にふけり
結綿のやはらかみ
鬢付にたよる」
瀬川の
白粉店(中巻第八図)また「
大港の
渦巻さざれ石の
巌に遊ぶ
亀蔵せんべい」は
御伽羅の
油「
花橘の
香につれ」て
繁昌する
永斎堂が店先(中巻第四図)大小立派なる武士の
艶かしき
香具購ふさまさすが太平の世の風俗目に見る如し。重政がこの絵本にはその他なほ楽屋裏の
新道に
編笠深き
若衆形の楽屋入りを見せ、舞台のうしろに
囃子方腰かけて三味線
弾きゐる
傍に扮装せる役者の
打語れるあり。あるひは楽屋
稲荷町の混雑、
中二階女形部屋の
体、また
子窓に
縄暖簾下げたる怪しき入口に
五井屋と
記して
大振袖に
駒下駄の
色子過ぎ行くさまを描きしは
蔭間茶屋なるべきか。
明和安永は勝川春章
並にその一派が鳥居派に代りて役者絵を流行せしめたる時代なりしが、天明に及びて浮世絵なる平民画壇の中心点は再び鳥居派四世の画工
清長に移り来りぬ。清長は浮世絵発達の歴史上その創始者なる
菱川師宣また錦絵の発明者なる中興の祖
鈴木春信と並びてこれらの三大時期を区別せしむべき最も重要なる地位を占む。
歌麿、
春潮、
栄之、
豊国ら近世浮世絵の諸流派は
悉く清長が画風の感化を
蒙りたるものにして、浮世絵は清長及びそが直接の承継者歌麿の
二人に及びてその最頂点に達したり。それと同時にやがて一定の形式に陥るべき
淀滞衰微の源泉もまた実にこの二人より生ぜしなり。
清長の描ける風俗画の美人は古今の浮世絵を通じてその容貌姿勢最も健全
豊艶にして四肢の比例最も美しく自然なり。役者似顔の
板行絵を見るも安永年代においては専ら勝川春章に
倣ふ所ありしが、天明に入りてその技
漸く円熟するや、清長は美人画の人物に異ならざる自由自然なる固有の筆法を以て役者の舞台姿を描きたり。清長の好んで描く所は
浄瑠璃所作事の図にして役者の
後に
出語の
連中を合せ描きたり。この時代の出語を見るに
富本常磐津の
太夫には
裃を着けず荒き
縞の羽織を着たるものあり。天明五年鳥居清満歿するや清長は鳥居派四世をつぎその年の顔見世より寛政十年に至るまで、毎年
三座劇場の番付看板を描きぬ。こは似顔の錦絵と異りて鳥居派古来の筆法を用ひたり。元祖清信以来この一派固有の画風は清長に至りて今や僅かに劇場の看板と番付絵にのみその
名残を
留めぬ。
喜多川歌麿も安永天明の
間豊章の名を以てしばしば役者似顔絵またはせりふ役者
誉詞の表紙絵を描きぬ。
然れどもさしたる特徴なければ論ぜず。吾人は
唯歌麿がかつて役者似顔絵を描かずとなせし『
浮世絵類考』の選者が
誤謬を明かにせんとするのみ。鈴木春信も役者絵を描かずとなされたれどこもまた誤れり。
さて寛政年代に入り鳥居清長に代りて役者似顔絵の名人となりしものは浮世絵師中
今日の日本人にもなほ広くその名を知らるる初代歌川豊国なり。豊国は歌川
豊春の門人なれどもその初期の板画は筆法及び色彩共に鳥居清長に
倣へり。清長時代の浮世絵師はその門人たると否とに論なく一般に甚しく清長の感化を
蒙りし事あたかも明和年代の浮世絵が鈴木春信を中心とし安永年代が勝川春章を中心となしたるに異ならず。豊国が板画の最良なるものは大抵寛政年代のものにして享和に及ぶや美人画の人物
及その容貌等は固定せる歌麿の形式に倣ひ
次で晩年に至りては画風全く
頽廃して遂に門人
国貞らの
後に
随はんとするの傾きありき。
豊国の役者一枚絵はその種類甚だ多し。その
中役者舞台絵姿と題する
全身一人立の図と東洲斎写楽が
雲母摺に同じき
大首絵最もよし。豊国は
此の如く年々各座の
当狂言を描きて
倦まざりしのみならずまた別に俳優の
衣裳鬘をつけざる日常の姿を描きこれに四季折々の
花鳥あるひは
景色を配合したり。この新意匠は
大に世の好評を博し豊国以後もその門人国貞国政また
菊川英山ら皆これに倣ひて同じ図案を反復する事その
限を知らず。
菖蒲の花咲乱れたる
八橋に
三津五郎半四郎歌右衛門など
三幅対らしき形して
彳みたる、あるひは両国花火の
屋形船に
紺絞りの
浴衣も涼し
気に
江戸三座の
大達者打揃ひて
盃を
交せるさまなぞあまりに見飽きたる心地す。
似顔絵本は勝川春章が『舞台扇』『役者夏の富士』以来久しく
杜絶したりしが豊国に至りて再び流行せり即ち左の如し。
(似貌絵本)俳優楽室通 一冊 豊国国政画三馬撰 寛政十一年板
戯子名所図会 三冊 馬琴撰 寛政十二年板
(容貌写真)俳優三階興 二冊 三馬撰 享和元年板
(三戯場)俳優三十二相 一冊 馬琴撰 享和二年板
役者此手嘉志波 二冊 焉馬撰 享和三年板
俳優相貌鏡 二冊 享和三年板
この
中彩色板刻の最も精巧なるは『俳優三階興』と『役者此手嘉志波』なり。『俳優三階興』は
式亭三馬がその序文に言へるが如く春章が絵本『夏の富士』を焼直したるものに相違なし。然れども図中の風俗並に役者の時代を異にせるとその色摺の調子甚だ美妙なるとによりて豊国が板画を検せんとするものの
必一覧せざるべからざるものたり。この絵本の色彩は歌麿が『
吉原年中行事』と同じく
各色の間に配合せられし
緑黄の
二色は常によく全画面の色調を温和ならしめたり。
巻中殊に余の好む所の図二、三を選ばしめんか。上冊には
桟敷後の廊下より御殿女中大勢居並びたる桟敷を見せ
市川八百蔵桐の
谷門蔵御挨拶に
罷出でお盃を
頂戴する処今の世にはなき
習慣なれば興いと深し。
林泉のさま見事なる料理屋の座敷に
尾上松助胡弓の調子を調べつつ
三絃手にせる芸者と居並び
女形の中村七三、松本小次郎の
二人が
箱引の戯れなすさまを打眺めたり。下巻には楽屋
総浚ひのさま面白く尾上
雷助の腰掛けて髪を
結はする
床屋の
店先、
大谷徳治が湯帰りの
浴衣に
手拭を
額にのせ着物を
小脇に
抱へて来かかるさまも一興なり。暗き夜の空より雨
斜に降りしきる
橋袂、縞の
合羽に
単衣の裾を
端折りし
坂東又太郎を
中にしてその門弟
三木蔵七蔵らぶら
提灯に
路を照しつついづれも大きなる
煙草入下げたる
尻端折、
雨傘打並べて歩み行くさま
何にとなく江戸らしい
好い心持なり。巻末に市川
白猿牛島の隠宅にて成田屋と自筆の提灯を
嵐雛助に
遣はす処、これ人のよく知る逸話なるべし。
豊国よりやや先立ちて寛政の初年に東洲斎写楽なる画工あり。写楽は役者似顔絵専門の
板下絵師なりしが極端なる写実の画風当時の人気に投ぜず暫時にしてその制作を中止せり。維新以後外国人の浮世絵研究
盛なるに及びても写楽はなほ重んぜられず日本美術研究の開拓者と称せられし米人フェノロサの如きも写楽の俳優肖像画を以て
醜陋なりとなしき。然るに
巴里においてはカモンド伯を初め写楽を愛するもの
漸く多く遂に写楽は浮世絵師中最大の画工と見なさるるに至れり。昨年独逸人クルトの出版せる書籍中には今日まで
我邦人すらかつて見ざりしほどの珍品をも
網羅し尽せり。これによつて窺へば写楽の似顔絵は
細絵の全身画も多けれど無比の傑作とすべきはやはり世人知る所の
雲母摺なるべし。当時歌麿の美人画にも肖像画の地色に銀色の
雲母を敷きたるもの多し。思ふにこれ当時の画工が鏡の
面に人の顔の映りしさまを見せんとしたる新意匠なるべし。そはともあれ今日写楽の似顔絵を見るに
雲母は人物背後の装飾として最も面白く感ぜらる。余は独仏の
好事家が写楽を珍重するは単に好奇の念のみにはあらず、その布局その色彩及び顔面輪廓の描線等、油絵肖像画の新発展につきて多大の参考となるがためなるべしと
思為せざるを得ず。写楽の似顔絵を熟視せよ。
松本幸四郎が
高麗格子の
褞袍に
鉢巻して片手の指先にぼんやりと
煙管を
支へさせたるが如き、錦絵の線と色とが
如何によく日本人固有の容貌
並に感情を
描出せるか。余は日本人の皮膚の色とその
朦朧たる顔面並にやや遅鈍なる輪廓は写楽の手法を以てするの
外決して他にこれを現はすの方法なかるべしと信ずるものなり。写楽が
女形の肖像は
奇中の
奇傑作中の傑作ならんか。岩井半四郎、松本
米三郎の如き肖像を見れば余は
直に劇場の楽屋において
目のあたり男子の女子に扮したる容貌を連想す。濃く塗りたる
白粉のために男にもあらず女にもあらぬ一種怪異なる感情は遺憾なく実写せられたり。この極端なる画風は俳優を理想的の美貌と定めたる伝来の感情に
牴触する事
甚しきがためこの
稀有なる美術家をして遂に不評のために筆を捨つるのやむなきに至らしめき。写楽は
元安房の産にして能役者たりしといふの
外その伝記甚だ
詳ならず。
豊国が晩年文化の頃よりその門人国貞の時代は来れり。国貞の役者似顔画を蒐集せば文化より明治に至らんとする六十年間の幕末演劇史を一覧するに同じかるべし。国貞は豊国の名をつぎてその晩年「
古今役者似顔大全」百余枚を描きぬ。これ鳥居清信以来春章文調清長らの似顔絵を模写したるものなれどその色彩とその画風とは甚だ近世的にして古風の
趣少く懐古の
料となすに足らず。国貞が最上の錦絵は文化文政の頃のものたる事
余別に「衰頽期の浮世絵」において論ぜんと欲するが故ここには言はず(鳥居派五世清満の事も同じ論文に記したれば略す)。
役者絵は
此の如く菱川師宣より国貞国芳及びその
門葉の小画工に至るまで江戸二百余年を通じて連続したり。今延宝元禄より
元治慶応に及ぶ俳優画を蒐集してこれを一覧せんには、浮世絵各派画風の推移は
自らまた各時代の俳優が芸風の変化に
思到らしむべし。そもそも一技芸の起らんとするや、そが創始時代の制作には必ず原始的なる粗野の精力とこれを発表する
簡朴なる様式との
間に
後人の見て以て
窺知るべからざる
秘訣を蔵するものあり。元禄宝永の演芸は鳥居派初期の
丹絵の如く豪放の
中稚気を帯びたる精神はその簡易にしてしかも
突飛なる形式と
相俟つてここに不可思議なる雅趣を示せしものなるべし。享保に入りては
河東節その他の
音曲劇場に使用せられ、俳優には二世団十郎、元祖宗十郎ら
出で、後世の模範となるべき芸道の
故実漸く定まりたる時代なり。これを浮世絵に見れば鳥居派の
外新に奥村一派の
幽婉なる画風と漆絵の華美なる
彩色現はれぬ。劇場がしばしば風紀の
紊乱と衣裳の華美なるにつきて禁制を
蒙りしもこの時代にして、江戸平民の文化は刻々円熟の期に達せんとせり。四世団十郎、初代菊之丞ら出でたる宝暦より明和安永年代は
啻に絵画演劇のみにあらず、江戸平民固有の文学美術が
尽く関西伝来の感化を脱してその特質を明かにしたる時代なり。江戸演劇も思ふに文調春章の時代においてその内容形式共に完備円熟し尽してやや複雑に流れ天明寛政に至りてはまた浮世絵と同じく漸次繊巧に傾くの弊に陥りしなるべし。
原武太夫が宝暦末年の劇壇を
罵り、享保の芸風を追慕して
止まざりし『
隣の
疝気』または
手柄岡持が壮時の
見聞を手記したる『
後は
昔物語』等を
繙きて年々の評判記と合せ読み、これを浮世絵の役者似顔絵に対照せしむれば、また往時の演劇を想像するの一助とならん
歟。役者似顔絵は絵画として独立の価値並に興味あるは勿論なりといへども、われらに取りてはその以上になほ幾多の利益と趣味ある事を附記せざるべからず。今や時勢の変遷と共に江戸演劇も何らか特別なる保護の方法を講ずるにあらずんば、漸次破壊滅亡せんとするの時、吾人は二百年来の役者似顔絵並に劇場の風俗画に対して殊に
愛惜の情を深くせずんばあらざるなり。
この
蕪雑なる研究の一章は
審に役者絵の沿革を説明せんと欲するよりも、むしろこれに対する愛惜の詩情を吐露せんとする
抒情詩の代用としてこれを草したるのみ。考証の事に関しては識者
幸に
教を
垂るるに
吝なることなかれ。
大正三年稿
[#改丁]
浮世絵は
寛政文化の盛時を過ぎ、
文政に
入りて改元の翌年
先づ
春章の後継者たる
勝川春英を失ひ、続いて漫画略筆の名手
鍬形
斎(文政七年歿)を
逝かしめ、また
歌麿の好敵手たりし
歌川豊国(文政八年歿)を失ひぬ。浮世絵はその
錦絵なると絵本なるとを論ぜず共に著しき
衰頽を示せり。時勢は
最早文政
天保以後の浮世絵師をして
安永天明時代の如く
悠然として制作に従事する事を許さざるに至れり。錦絵は歌麿以後江戸随一の名産と呼ばれ、美術の
境を出でて全く工芸品に属し、絵本は簡単なる印刷
出板物となりぬ。浮世絵は社会の需用あまりに多くして
遂に粗雑なる商品たるのやむなきに至りしなり。
五渡亭国貞一勇斎国芳以下の豊国門人、また
菊川英山、
渓斎英泉、
鳥居清峰らは不幸なるこの時代を代表すべき画工なり。(
広重北斎の事は余
既に「浮世絵の山水画と江戸名所」と題せし論文に言ひたればここに論ぜず。)
今これら諸家の制作を見るに、美術としての価値
元より
春信清長栄之らに比する事
能はざれど、画中男女が衣服の流行、家屋庭園の
体裁吾人今日の生活に近きものあるを
以て、時として余は
直に自己現在の周囲と比較し、かへつて別段の興あるを覚ゆ。国貞国芳らの描ける婦女は春信の女の如く
眠気ならず、歌麿の女の如く
大形の
髷に大形の
櫛をささず。その
深川と
吉原なるとを問わず、あるひは
町風と屋敷風とを論ぜず、天保以後の浮世絵美人は
島田崩しに
小紋の
二枚重を着たるあり、じれつた結びに
半纏を
引かけたるあり、
絞の
浴衣を着たるあり、これらの風俗今なほ伝はりて
東京妓女の姿に残りたるもの
尠しとせず。その家屋も
格子戸
子窓忍返し竹の
濡縁船板の
塀なぞ、
数寄を
極めしその
小庭と共にまた
然り。これ美術の価値以外江戸末期の浮世絵も余に取りては容易に捨つること能はざる
所以なり。
文政八年初代豊国歿するや、その門人歌川
国重自ら二代豊国の名を犯しぬ。
本郷に住みしを以て本郷豊国といふ。今日
坊間において往々初代豊国の
筆と称して国重の
画を売るものあり。国重は師の名を犯せしが名声
揚らざりしかば
幾何もなくして業を廃せしといふ。その作
元より初代豊国に比する事
能はざれど今日に至りてこれを見れば同門の国貞
国政らと並びて更に
軒輊なし。役者似顔一枚絵
並に
二枚続はその
彩色濃艶ならざる処かへつて国貞が晩年(三代豊国)の作に
優れり。美人風俗画においても
六郷川渡船三枚続の如き
聊か寛政名手の
俤なきに
非ず。(飯島半十郎著『浮世絵師便覧』には国重を豊重となしたり。『関根氏名人忌辰録』に国重〈二代豊国〉天保六年歿年五十九とあり。)
国重の名
漸く忘れらるるを待ちて(
弘化二年)歌川国貞また
自ら先師の名を継ぎ同じく二代豊国と称しぬ。国貞は天明六年に生れ
元治元年七十九歳を以て歿したればその長寿とその制作の
夥しきは正に
葛飾北斎と
頡頏し得べし。
然れどもその制作中の最も佳良なるものは
悉く豊国の名を継がざりし以前にして、
殊に文化時代の初期の作には時として先師豊国に匹敵すべきものなきにあらず。今西洋人の所論を参照するに
仏蘭西人
Teisan は
曰く、
「国貞が初期の作は往々にしてその師豊国に比すべきものあり。役者似顔絵を見るにその面貌と衣裳の線を描ける筆力は遒勁なり。その挙動と表情とは欧洲人の眼には聊か誇張に過ぐるの嫌ひあれどこは日本演劇の正確なる描写ならざるべからず。国貞の役者絵には彩色を施さざる白き地紙に人物を濃く浮立たせたるもの多し。この種類の中にて吾人は藍色の濃淡殊に美しき衣裳をつけたるものを称美す。然れども彼はまた全く反対の方法を取り、黒ずみたる背景の山水に鮮明なる衣裳の色彩を対照せしむる事あり。吾人の蒐集品中にてその一例を求むれば、空に連なる薄暗き夜の山は濃き紫に、前方なる河水は黒き藍色に彩どられたり。この河辺に佇める婦女の衣裳を見るに、薄桃色にぼかされし木立の裾模様は月光を浴びたるさまを見せんとて薄青く透き通るやうに描かれたり。これ正しく仏国印象派の画論が物体は決して定まりたる色彩を有するものに非ず、照す所の光線により変化するものたりとの理論に適合するものと見るも可なり。国貞はまた常に薄紅薄藍の如き薄色地の衣裳と、殊更に濃くしたる黒色を用ゆる事を好む。国貞の風景画には名所の山水を背景となし半身の人物を描ける東海道名所絵の続物あり。然れども山水としてその最も上乗なるものは伊勢二見ヶ浦日出の景、または Gillot 蒐集板画目録中に載せられたる三枚続にして、樹木茂りし丘陵の彼方遥に雪の富士巍然として聳え、水流るる街道の杉並木に旅人を配置したるものなどなるべし。この外に広重の描ける山水に人物を合作せしものあり。」(Notes sur l'art japonais)
種彦の小説『
田舎源氏』の
挿絵並にその
錦絵は共に国貞の描く所にして
今日なほ世人に喜ばる。『田舎源氏』は国貞が晩年の画風を
窺ふべき好標本たり。その人物は皆演劇の型より成れる一定の形式によりて誇張せられ、その彩色は殊更に
絢爛たらん事を務め全体の調子に注意する処なし。これ
即ち国貞風の
極彩色にして当時の
人目を驚かしたるものなり。余はこの濃厚なる国貞の『田舎源氏』に対して国芳の得意とせる武者合戦の錦絵を以て流行の両極端を窺ふに足るものとなす。国貞は美貌の
侍女貴公子が遊宴の
状によりて
台
庭園の美と衣裳
什器の繊巧とを
描出して人心を
恍惚たらしめ、国芳は武者奮闘の戦場を描き美麗なる
甲冑槍剣旌旗の紛雑を
極写して人目を
眩惑せしめぬ。国芳の武老絵は古来
土佐派に属せし領域を奪ひ以て浮世絵の範囲を広めたるものと見るも可ならんか。余は浮世絵師中ややデラクロワ、メイソニエーを連想せしむべき画家ある事を喜ばずんばあらず。
国貞と国芳とは共に豊国歿後歌川派中の最も卓越せる画家にして、当時二家の競争は、「
葭がしげつて
渡場の邪魔になり」といふかの川柳においても想像せらるる如く、時には互に
反目嫉視せるや知るべからず。五渡亭国貞は「歌川を疑はしくも名乗り得て二世の豊国
贋の豊国」の
落首に
諷刺せられしといへどもとにかく歌川派の画系をつぎ
柳島と
亀井戸とに邸宅を有せしほどなれば、当時の地位は国芳の上にありしや明かなり。(『安政見聞録』中亀井戸辺震災の状を描ける図に歌川豊国が倉付の立派なる邸宅を見せたるものあり。)然れども画家としての手腕は余の見る
処国芳はしばしば国貞に優れり。国貞の作には常に一定の形式ありて布局の変化少くまた
溌剌たる生気に乏し。(余の友人板倉氏の説に国貞の風俗画の佳良なるものは歌麿の画題と布局とをそのままに模写したるもの多しとぞ。)余は国貞の板画においては必ず
粉本の
臭味を感ずるに反し、国芳においては時として西洋画家の制作に接する如き写生の
気味人に迫るものあるを見る。国芳が写生の手腕は葛飾北斎と並んで決して
遜色あるものにあらず。「東都名所」と題する山水画中の人物の姿勢、あるひは「
生写百面相」と題する小冊子の顔面の表情よくこれを証して余りあり。国芳は最初国貞と共に役者似顔を描きしが世評よろしからざりしかば、筆を『
水滸伝』の人物その他の方面に転じたりといへども、
今日の批評眼を以てこれを見ればこは彼に取りてはかへつて幸福なりしなり。国貞の画題は
殆ど役者と美人との
外に出でざれど、国芳に至りては山水花鳥武者並びに美人役者絵等その範囲
甚だ広し。余は「浮世絵の山水画と江戸名所」なる題名の下に
聊か国芳の事を論じたればここには新着の西洋美術雑誌に出でたる
仏人 Gaston Migeon の所論を掲ぐ。
「歌川国芳(寛政九年生文久元年歿)は国貞に優る事明かなり。国芳の描ける活気ある風景画の
或物はけだしこの
種類中の逸品たると共にまた浮世絵
板物を通じてその最も偉大なるものたり。今
Rouart 氏の所蔵せる東都名所
御廐川岸驟雨の図を見るに、前方に
大なる雨傘さして歩める人物をして対岸の遠景と
対峙せしめたる
処奇抜なり。しかして遠景の
大雨にかすみ渡れるさまは薄墨の描法
真に驚くべきものあり。
Henri Vever が蒐集中の一板画もまた甚だ
好し。図中二女を載せたる小舟の
後に立てる船頭はその姿勢不自然ならず。荒々しく
角張りたる
橋杭の
間よりは島と水との眺望あり。これ日本の風景中の最も美なるものなり。(訳者思ふにこれ永代橋下の
猪牙船を描ける「東都名所
佃島」と題する図のことなり。)
雪中の光景もまた
大に称賛せざるを得ず。
小止みもなく紛々として
降来る雪に山はその
麓なる
海辺の漁村と共に
埋れ
天地寂然たる処、
日蓮上人と呼べる聖僧の
吹雪に身をかがめ苦し
気に
山路を
昇り行く図の如きは即ち然り。(訳者曰くこれ日蓮上人一代記八枚続の
中佐渡ヶ島の図の事なり。)されど以上述べたるは皆例外の逸品にして吾人の浮世絵なる美術が
気息奄々としてしかもなほ容易にその死期に到達せざりしは全くこれら例外なる傑作ありしがためなるを知る。」(Art et D

coration, f

vrier 1914)
国貞国芳と並びてこの時代に輩出したる歌川派の画工は
国政(文政七年歿、年三十八)
国丸(文政年間歿、年三十余)
国安(天保七年歿、年三十余)
国長(文政中歿、年四十三)
国直(安政元年歿、年六十二)等
枚挙に
遑あらず。その
技倆も各自最も得意とする所を採りてこれを比較せば容易に優劣を弁じがたし。国政の作にては大きく半身を描ける役者似顔絵中甚だ良きものあり。国安国長には
浮絵(名所遠景)の
中時に賞すべきものあるを見ゆ。国丸の作にて余の管見に入りしもの国貞が文化中の美人画に類するもののみ。国直に至りては歌川派中余の最も愛好する画工にしてその板画は文化年間の作と覚しき名所浮絵、美人風俗画、殊に人情本の挿絵中に忘るべからざるもの多し。『増補浮世絵類考』に国直は豊国の門に入るに先立ちて
明画を学びまた
自ら北斎の画風に親しみ、
新に一家を成さんとの意ありし事を記せり。これは
訛伝にあらざるべし。今親しくその
画を
看るに風景美人共に国貞系統の歌川派の画工とは幾分かその趣を異にする処あり。国直の浮絵は
上野二ツ
堂、
浅草雷門の如き、その
台
樹木の背景常に整然として模様に
斉しき快感を覚えしむ。しかしてこれに配置せられたる群集
雑沓の状もまた模様風にして
宝暦頃
鳥居清満が
紅絵の風景を想起せしむるものあり。この特色は風俗画に至りて最も著しく婦女の姿態と家屋
路地等の
後景を配合せしむる事
頗る巧妙なり。
為永春水の小説『
梅暦』の続篇たる『
辰巳の
園』以下『
梅見船』に至る幾十冊の挿絵は国直の描く処にして余は春水の述作と
併せて深くこの挿絵を愛す。深川の
妓家、
新道の
妾宅、路地の貧家等は皆模様風なる
布置構図の
中自ら
可憐の情趣を感ぜしむ。試みに二、三の例を挙げんか。『辰巳の園』巻の二を
繙けば深川妓家の二階に四、五人の女寝そべりて、或者は長々しき手紙書きし
後と覚しく、
長煙管にて煙草盆の
火入を引寄せんとすれば、或者は昼寝の
枕より顔を上げ、今や盛装して出で行かんとする
朋輩の
後姿を見返りたり。或者は裾踏み乱したるまま
後手つきて
起直り、
重箱の菓子取らんとする
赤児のさまを
眺め、或者は
独り
片隅の壁によりかかりて三味線を
弾けり。
文反古にて
腰張せる壁には
中形の
浴衣かかりて、その
傍なる
縁起棚にはさまざまの
御供物賑しきが
中に大きなる
金精大明神も見ゆ。『梅見船』第一巻「お
房寄場に物の本を読む所」と題したる挿絵もまた妓家の二階にして、「火の用心」と「男女共無用の者二階へ
上るべからず」と張紙したる
傍の窓下には、女の鏡台多く
据ゑ並べありて、数人の
歌妓思ひ思ひに
艶しき身の
投ざまを示したり。若き
男女の
相倚り
相戯るるさまに至りては元より枚挙に
遑あらざれど、その
中『
英対暖語』第三巻に男は
屏風引廻したる夜具の上に起直り
楊枝箱片手に
草楊枝を使へば、
半ば開きし
障子の外の縁先には帯しどけなき
細面の女
金盥に向ひて
寝起の顔を洗はんとするさまなぞ、
柔情甚だ忘るべからざる
心地す。
余はこれらの挿絵につきて
斯の如く無限の興味を覚えて
止まざるなり。その理由は
啻に男女相思の艶態に恍惚たるがためのみに
非ず、人物と調和せるその背景が常に
清洒なる
小家の
内外を描き、
格子戸小庭
子窓より
枕屏風長火鉢箱梯子竈等に至るまで、貧し
気なれど清潔にしてまた何となく楽し気なるさまを示したればなり。国貞の『田舎源氏』はその庭園台

什器衣裳の佳麗を尽して、
能く貴公子と
仕女との遊興を描けるものとなさんか。国直が人情本の挿絵はこれに反して小ぢんまりとしたる
裏住居の生活の余裕を描き示したるものといふべし。『梅見の船』
巻七に挿入したる半次郎が
猿寺の
住家の図は、土佐派古画の絵巻物に見ると同じき方法を取り屋根を除きて
上方より
斜に家の
内外と
間取りのさまを示したり。家は
腰高の
塗骨障子を境にして
居間と台所との
二間のみなれど竹の
濡縁の
外には
聊かなる小庭ありと覚しく、
手水鉢のほとりより竹の
板目には
蔦をからませ、高く釣りたる棚の上には植木鉢を置きたるに、なほ表側の
見付を見れば入口の
庇、
戸袋、
板目なぞも狭き処を皆それぞれに意匠して
網代、
船板、
洒竹などを用ゐたれば、
今日吾人の眼より見れば貧しきこの裏屋も風流閑雅なる隠宅の如き観あり。こは少しく別問題なれども日本の器具家屋に
竹材を用ふる事の範囲並にその美術的価値を論ずるは最も興味ある事なり。これにつきては既に英人サトウ、独逸人 Hans Sporry 等の著書あり。余は
此にそれらの一例として江戸平民の
住家における竹材の用法と意匠との最も繊巧なるを見んがため、
貝殻散りたる深川の
新道に峰次郎が窓の竹格子を
間にしてお房と相語る処(『梅見船』巻九)また
柳川亭といへる
水茶屋店先の図(『梅見船』巻十)を挙ぐべし。これらの家屋は杉板と竹と網代の用法意匠余りに繊巧にして清洒なるがため風雨を
凌ぐ家屋と見んよりはむしろ精巧なる
玩具の如き観なしとせず。
歌川国直が
色摺絵本の
中に豊国の『
時勢粧』に模したる『
美人今様姿』二巻あり。豊国の作は寛政風俗を見るに便なるが如く国直の作は文政時代の風俗史料となすに足るべし。然れども絵画としては先師の模倣に過ぎざればここに論ぜず。
以上述べたる国貞国芳国直ら豊国門下の画工にはまた更に無数の門弟の随従するあり。文政天保以後の平民画壇は実にこれら歌川派の群小画家を以て満たされたり。しかしてこの系統以外に立てる画工の
中その
重なるものを
尋れば
先づ指を菊川英山渓斎英泉の
二人に屈せざるべからず。菊川英山は
狩野派の一画家菊川英二なるものの子にして、渓斎英泉また英二の門人たりし事ありといへば、この二人はその名の示すが如く同門の画家たりしなり。然れども各自の特色は相同じからず。(英泉の美人一枚絵中稀に英山に似たるものあり、文化末年の作なるべし。)
菊川英山の板画は文化の初年に始りて天保に及べり。英山は文化初年鳥居清長歿し続いて喜多川歌麿世を去りし
後初めは豊国と並び後には北斎と
頡頏して
一時浮世絵界の
牛耳を
把れり。文化六、七年より文政三、四年に至る十年間は英山の全盛時代にして
専ら歌麿の画風並にその題目を取りて三枚続または一枚絵の美人画あるひは柱かくし絵を
出しぬ。今その最も良好なるものを見るに二代歌麿の板画よりもかへつてよく先代歌麿の面影を忍ばしむ。その色彩も
黒色と
淡紅色とに対して
淡緑色または
黄色を調和せしむる所
時として清長を連想せしむ。
今日英山の価値は穏和なる模擬の手腕
能く過去の名家を追想せしむる処にありとなすも酷評にはあらざるべし。英山は晩年に至り
板元の請求に応じて北斎の筆法に模し名所絵をも出せり。然れども英山の制作を通じてこれを一覧するに役者似顔絵の如きも多くは美人を配合して常に柔和艶麗の情に富ましめたり。これこの画家の特色となすに足るべし。
漆山氏の『浮世絵年表』に従へば菊川英山は
慶応三年八十一歳にて歿したりといふ。
渓斎英泉は北斎を連想すべきその漫画と
魚屋北渓に
倣ひたる
藍摺の支那画山水とまた広重に似たる名所絵並に花鳥によりて、西洋人の著書中には十九世紀中葉の浮世絵師中
錚々たるものとなされたり。かの大判の
竪絵鯉魚滝上りの図は外人
斉しく称美する処なれども、余はそれよりも英泉の作中にては名所絵と美人画とを採らんと欲す。美人画中殊に吉原遊女の一枚絵は
巧に各楼の
妓風を書分けたるの故を以て
大に世の好評を博したりといふ。名所絵は広重に似てその筆勢やや粗放なる処あり。これその性情の然らしむる処ならん
歟。英泉は
一筆庵可候と称して
戯作の才あり。その性行
放縦無頼なりし事より推察するに画工としてもまた
頗る
覇気ありしなるべし。されば英泉は筆にまかせて種々なる題材を描きしかど当時美人役者絵の画工としては国貞のあるあり。花鳥山水には北斎広重の二家あり。武者絵にはまた北斎と国芳のあるあり。
草筆の漫画には北斎広重また
夙に世の称美する処となれり。これら知名の画家の
間に立ちて英泉は遂に望むが如き自家の地位を定むるの機会なかりしが如し。英泉は
嘉永元年に歿せり。年五十九。
安永天明間の名手勝川春章の流派はその門人
春好(文政十年歿)春英(文政二年歿)らを過ぎ、
春亭(文政三年歿)
春扇(二代春好)に至りて衰滅せり。春亭は『歌舞妓年代記』の挿絵に鳥居の古画または先師春章の縮写をなせしといへどもその画風は年と共に勝川派を捨て専ら歌川豊国に倣はんとせり。春扇も歌川風の
草双紙を描きし
後遂に
板下画より陶器の
焼付画に転じぬ。
これと共に鳥居派もまた天明寛政の名家たる清長の歿後鳥居清峰二代清満と改め
僅に家名を継げるのみ。清峰は明治元年八十二歳を以て歿するまで鳥居派世襲の本業たる江戸三座劇場の看板及
番附を描きし
傍、美人画役者絵の板刻あれども共に歌川派の画風に倣ひてしかもまた国貞に及ばず。
文政天保以後の浮世絵はかくして漸次滅亡に
近けり。北斎は嘉永二年に死し広重は安政五年の悪疫に
斃れ、国芳は文久元年を以て世を去るや、江戸の浮世絵は元治元年
古稀の長寿を保ちし国貞の死去と共にその終局を告げしとなすも不当には非ざるべし。されど事実はなほそれら諸家の門人の業をつぎて明治に及べるもの
尠からず。余は
宛ら夜半の落月を見るが如き感慨を以て明治における衰滅期の浮世絵に接せんとす。
一立斎広重をつぐに二代また三代目広重あり。国貞の
後には二代目国貞(明治十三年歿)、
五雲亭貞秀、
豊原国周(国周は二代国貞門人)らあり。国芳の門下には
芳虎芳年芳宗芳幾ら残存せり。西洋人の著書には大抵芳年を以て最終の浮世絵師となし、これに加ふるに国芳門下より出でたる
河鍋曉斎を以てし、あるひは
団扇絵摺物の板下画に
巧なるの故を以て
柴田是真を挙げ、あるひは色摺板本を出せし故を以て
菊池容斎、
幸野楳嶺、
渡辺省亭を加ふるものあり。然れども吾人が見解を以てすれば容斎楳嶺省亭の三家は浮世絵師として論ずべきものに非ざれば、余はこれを除外し代ふるに
鮮斎永濯尾形月耕の二人を浮世絵師中に編入せんと欲す。
概括してそれらの浮世絵はその価値いよいよ美術に遠ざかりて
唯風俗史料
若しくは
好事の料たるに
留る。安政開国以後江戸よりやがて東京と変じたる当時の社会及び政治風俗の変遷は一として錦絵に描かれざるはなし。衰滅期の浮世絵は全く
今日の新聞紙に等しき任務を帯びぬ。黒船渡来と
浦賀の海防
並に
異人上陸接待の
状を描ける三枚絵は
髷と
髯との対照、
陣笠陣羽織と帽子洋服との配列
寔にこれ東西文化最初の接触たり。慶応義塾図書館にはこれらの錦絵を蔵する事多し。その
中余は日本の力士を大きく
仁王の如く米国水兵を小さく
小児の如くに描き、日本の力士が
軽々と米俵を両手に一ツ一ツ持上げたるさまを見て米国水兵の
驚愕せるさまを示したるものと、また一ツは米国水兵
数多車座になりて日本料理の
膳に向ひ大きなる料理の
鯛を見て驚き騒げる様を描きしものあるを記憶す。横浜の居留地
漸く繁華となるや異人館にて異人飲食遊歩の光景、または遊廓にて異人遊興の状を描けるもの続々として出板せられぬ。余は浮世絵師が実地の観察の及ばざる処を補ふにしばしば戯作者風の
可笑味多き空想を以てし
半支那
半西洋の背景に浮世絵在来の粉本に
基ける美人を配合するなぞかへつて能く
怪訝好奇の感情を表白せる事を喜ぶ。浮世絵師の技倆は甚だ低落せしといへどもなほ感情なき写真機に
優れり。試みに五雲亭貞秀の署名ある一図(三枚続)を取りて例証とせんか。緑と
紅にて
彩どりし
花毛氈を敷詰めたる一室の正面には
大なる
硝子窓ありて、異国の旗立てし四、五
艘の商船海上に
泛びたるさまを見せたり。天井よりはビイドロの
大なる
燈明を下げその下なる
円き食卓を囲める三、四人の異人は
皆笠の如き帽子を
戴きて飲食す。その
間々なる
椅子には
裲襠着たる遊女同じく
長柄のコップを持ち、三絃
弾きゐる芸者と
打語れり。これ
岩亀楼の
娼女洋銀三枚の
揚代(この事文久三年板『珍事五ヶ国横浜ばなし』に出づ)にて異人館に招がれたる処なるべし。
時勢の変遷に従ひ名所絵も従来の「江戸名所東海道五十三次」は「東京横浜名所一覧図」(三世広重画)「東京名所三十六
戯撰」(昇斎一景画)などとなりぬ。芳虎が「東都八景」は英語にて表題を書きチョン髷のままなる市民の群れ集りて汽車汽船人力車の如き新時代の交通機関を驚き眺むる様を示しぬ。浮世絵は実にその名の示すが如く社会百般の事
挙て描かずといふ事なし。政治経済の事は二枚続または三枚続の諷刺画となりて販売せられぬ。当時
会津を主とする佐幕の諸藩と
薩長以下勤王諸藩の
軋轢は、女師匠の
稽古屋に若衆の入り込む
体を借り、あるひは
五月幟の
下に子供が
戦遊びをなす
体に倣ひて最も痛快
辛辣に諷刺せられき。
百鬼夜行の図と
鳥羽絵の動物漫画とは、さまざまなる
寓意の下に
描直され、また当時物価の高低は
富土講の登山あるひは
紙鳶の上下によりて巧に
描示されたり。これら無数の諷刺画中最も奇抜なるものは大抵国芳
狂斎二家の筆にして芳虎芳年芳幾らこれにつげり。余は
今日の新聞紙雑誌等に見るポンチ
画に比すれば、浮世絵師が滑稽
頓智の妙と観察の機敏なるに驚かずんばあらず。
浮世絵は
此の如く漸次社会的事変の報道となり遂に明治五年芳幾が一枚絵には明かに『東京日日新聞』の名称を付するに至りぬ。然れども浮世絵従来の美人並に役者絵も決して
杜絶したるには非ず。国周は専ら役者狂言の図を描き二代目の国貞(梅蝶楼と号す)は美人と『田舎源氏』とを描けり。余は
猩々狂斎の背景に二代目国貞が
新柳二橋の美人を描きたる一枚絵に時として
佳き者あるを見たり。維新当時は国事多端にして政府はなほ市井の風俗を
顧る
遑なかりしかば画工は
憚る処なく女湯の内部または『田舎源氏』の遊戯に見立てて御殿女中の裸体雪合戦を描く事を得たり。然れども
須臾にして国内平定するや政府
大に教育の道を講じ俳優芸人にも教導職の名を与ふるに及び、浮世絵師もまたその品位を高めんと欲し錦絵に歴史の画題を取りぬ。この風潮を代表するものは即ち
月岡芳年にして、余は劇壇における団十郎と浮世絵における芳年とを以て好一対の芸術家となさんとす。文政天保時代において画家北斎が文学者
馬琴とその傾向を同じうし共に漢学趣味によりてその品位を高めしが如く、芳年は王政復古の思想に迎合すべく
菅公楠公等の歴史画を
出して自家の地位を上げたり。さればその画風の
夙に北斎に倣ふ処ありて一種
佶屈なる筆法を用ひしもまた怪しむに足らず。余は芳年の錦絵にては歴史の人物よりも浮世絵固有の美人風俗画を取る。風俗三十二相(三十二枚
揃ひ)は晩年の作なれどもその筆致の綿密にして人物の姿態の余情に富みたる、
正にこれ明治における江戸浮世絵最終の
俤なりといふべし。
明治二十五年芳年は多数の門人を残して能くその
終を
全うせしが、その同門なる芳幾は依然として浮世絵在来の人物画を描きしの故か名声漸く地に落ち遂に錦絵を廃して
陋巷に窮死せり(明治三十七年七十三歳を以て歿す)。然れども
今日吾人の見る処芳幾は決して芳年に劣るものならず。もし芳年を団十郎に比せんか芳幾は正に五世菊五郎なるべし。余は芳幾の
春色三十六会席その他において、明治年間に残りし江戸
狭斜の風俗に接する事を喜ぶ。また役者絵の
中西洋写真の像より思ひ付きて俳優似顔をば線を用ひずして
凡て
朦朧たる淡彩の色を以て描きしはその奇異なる点まさに寛政の写楽が似顔絵に比するも過賞にあらざるべし。
明治年間の浮世絵は
斯の如く北斎国芳国貞ら江戸時代の画工につきて親しくその
薫陶を受けたる門人の明治に残りしもの相前後して不帰の客となるに従ひ一歩々々滅亡の期を早めたり。明治の浮世絵は実に北斎国芳国貞らが制作の余勢に
外ならざる
也。されば明治に生れて明治の浮世絵師に学びたる画工は
最早やその画風その精神共に江戸浮世絵の系統を継ぐものならず。余は今明治年間残存の江戸浮世絵師が歿年を掲げて浮世絵滅亡の
状を想見せんとす。
明治元年 鳥居清満歿 (鳥居派五世初名清峰年八十二)
明治十三年 歌川国貞歿 (二世国貞年五十八)
明治十九年 歌川豊宣歿 (初代国貞の孫なりといふ)
明治二十年 池田綾岡歿 (団扇絵摺物に巧みなり年七十一)
明治二十二年 河鍋暁斎歿 (初め一勇斎国芳門人後に狩野洞白門人年五十九)
明治二十三年 小林永濯歿 (狩野永悳門人板下画多し年四十八)
同 松本芳延歿 (国芳門人年五十三)
明治二十四年 柴田是真歿 (蒔絵師なり団扇絵摺物の板下画を好くす年八十五)
明治二十五年 月岡芳年歿 (国芳門人年五十四)
同 鳥居清満歿 (五世清満次男初名清房鳥居派六世をつぐ年六十一)
明治二十七年 歌川広重歿 (初代広重門人広政と称す二世広重家を捨るや代て広重と称す年五十三)
明治三十七年 落合芳幾歿 (国芳門人年七十三)
天保以後近世の浮世絵師が伝記並に興味ある逸話は関根氏の『浮世画人伝』その他に
委しく出でたり。よろしく参照すべし。
大正三年稿
[#改丁]
一歳われ
頻りに浮世絵を見る事を楽しみとせしがその事より
相関聯して
漸く狂歌に対する趣味をも覚ゆるやうになりぬ。我は狂歌を
以て
俳諧と『松の葉』所載の
小唄と
並に後世の
川柳都々一の種類を一括してこれを江戸時代
専庶民の階級にありて発達したる近世俗語体の短詩として
看つつあるなり。
今小唄川柳都々一の三形式については
暫く言はず、
先俳諧と狂歌とについて見るにこの二者はその歴史的関係
互に相深くその趣味また相似たる処
鮮からず。
凡そ和歌といひ
連歌といひまた狂歌といひ俳諧といふ。
各その名称と詠吟の法則とを異にすといへども、もしこれを
或形式の短詩として
看来るや、全く同工異形にしてその差別
往々弁じがたきものあり。これ既に
柳亭種彦が『
用捨箱』にいふところ。世人しばしば俳諧
附合の両句を通読して狂歌となしたるもの多きを論じ、『
犬筑波』の
月かくす花のこえだのしげきをば
きりたくもありきりたくもなし
こぎ出す船にたはらを八つみて
四こくはうみの中にこそあれ
等の例を掲げたり、
生白庵行風が『
古今夷曲集』を見れば
宗鑑貞徳ら古俳人として名ありしものの狂歌を載せて作例となせるもの多し。いづれも両者
甚相近きを知らしむるものならざらんや。
元禄以前にありては俳諧は決して
正風以後におけるが如く
滑稽諧謔の趣を排除せざりしなり。余は滑稽諧謔を以て俳諧狂歌両者の本領なりと信ずる
也。滑稽諧謔は実にこの両詩形の
因りて以て発生し来りし根本の理由にあらずして何ぞや。そもそもわが
邦人固有の軽妙滑稽の性行は仏教の感化によりて遠く戦国時代に
発芽したり。南北朝以来戦乱永く相つぎ人心
諸行無常を観ずる事従つて深かりしがその
厭世思想は漸次時代の修養を経てまづ
洒脱となり
次で滑稽諧謔に慰安を求めんとするに至れり。
一休禅師の逸事長く世人を喜ばしめたるもこれがためにあらずや。
兼好法師が『
徒然草』には既に多分の滑稽を帯び来れり。
猿楽を見るに謡曲の厭世的傾向に
相対して狂言の専ら滑稽を主材となしたるは最もよく我が所論を証明するものなり。滑稽諧謔は徳川氏の
治世に及び上下一般を通じていよいよその時代の精神をなすに至るの観あり。
浅井了意戸田茂睡井原西鶴の著作いづれもその
証となすに足る。試みに
明暦三年江戸大火の惨状を記述したる『
武蔵鐙』を見よ。一市人
酔中火災に
遇ひ
長持の
中に入れられて難を
逃れ路傍に放棄せらる。盗賊来つて長持を破るにその
中に人あるを見て驚いて逃ぐ。酔人
目覚めて
四顧焦土となれるを見その身既に地獄にあるものと誤りなす一条の如きは、即ち仏教的悲哀と滑稽との特徴をして
甚顕著ならしめたるものなり。戸田茂睡が江戸名所の記『
紫の
一本』、浅井了意が『
慶長見聞記』等また
然り。『紫の一本』上野
車坂の条を見んか、
この坂は廻りもせず、めぐりもせず、なぜに車坂といふぞ。理をつけて答へよといふ。遺佚答へてこの車坂は二つありやといふ。陶々子がいやこの坂ばかりにて一ぢやといふ。遺佚がいふ車二つあらばまはるべし、一つならばまはらぬはずよといふ。折ふし夕風涼しく行袖を留むるやうなれば遺佚がよむ。
あちこちとめぐりてこゝに車坂
打くたびれて腰をひくなり
下つて
安政大地震の事を記載せし『安政見聞録』を見るにこの変災を報道記述するに
煎薬「
妙ふりだし」をもぢり、または団十郎『
暫』の
台詞になぞらへたるが如き滑稽の
文字甚だ多し。江戸の都人は最も
惨澹たる
天変地妖に対してもまた滑稽諧謔の辞を
弄せずんば
已む
能はざりしなり。滑稽の精神は徳川時代三百年を通じて一貫せる時代精神の一部たりしや
遂に
誣ふべからざるなり。
和歌は『万葉集』の
撰ありて
後吟咏の法式厳然として一定せられたり。滑稽諷刺の意をあらはさんとするやたまたま落首の一変体ありしといへどもいまだ完全なる一形式をなすに至らざりき。徳川氏の治世に及びて一般文化の発達と共にここに俳諧狂歌の新体を生じたるは決して偶然にあらず。この二者は和歌の貴族的なるを砕いて平民的に自由ならしめたるに
外ならず。
俳諧は元禄時代
芭蕉出るに及びて革新せられたり。芭蕉のいはゆる
正風を称道したるは
按ふに当時俳諧師の品性
甚堕落しつづいて俳諧本来の面目たりし軽妙滑稽の意義
随つて
甚俗悪野卑に走りしを見て、ここに一種清新幽雅の
調を
出さんと欲したるものなるべし。然れどもその咏吟を見れば、
飯蛸の寺を持つべき顔もなし 芭蕉
弁慶は夏もかこみの羽織かな 同
なりにけりなりにけりまで年の暮 同
の如き、正風といへども決して滑稽諧謔を排斥したるに
非ざるを知るに足る。
也有が芭蕉翁画像の賛にも
富貴誠に浮雲 滑稽初めて正風
といへり。
俳諧は正風体の刷新によりてますます世の迎ふる所となりしが、狂歌は
卜養貞柳未得らの以後その吟咏に
工みなるものなかりしが故か、一時やや
振はず、
安永末年朱楽菅江唐衣橘洲四方赤良ら青年狂歌師の輩出するを待つて始めて再興せられたり。元禄
及その以前狂歌
勃興の
状を
窺ひ知らんとせば
建仁寺雄長老が『
新撰狂歌集』、
半井卜養が『卜養狂歌集』、
生白庵行風が『古今夷曲集』、
石田未得が『
吾吟我集』、
油烟斎貞柳が『
置土産』等あり。『卜養狂歌集』を見るに当時
士人の狂歌を愛吟したる消息を知るに便なるものあり。狂歌は当意即妙を旨としてしばしば寒暖応答の辞に代へられたり。
元日にある人の許へ行ければ、喰つみを出し、ことぶきをのべて後、これを題にして、めでたく歌よめと侍りければ
大だひにほんだはらをばおこし米
かきとるかやに我ぞよろこぶ
といひければ、ぬし感じて、いまだ喰つみと海老とところかちぐり残りければ、このものどもうらみ侍らん、今一首歌よめとあれば
喰つみてところとえびの髭くらべ
まけかちぐりとあらそひやせん
生白庵行風の選びたる『古今夷曲集』には狂歌の由来
甚高遠なることを知らしめんがためか聖徳太子の吟作なりとて「照る月のなかなる物の
大弓はあぞちにたちて
的にあたらず」また
和泉式部が「南無仏の
御舎利を
出す
七つ
鐘むかしもさぞな今も
双調」等の吟咏を掲げまた一休禅師
沢庵和尚らの
道歌をも
交へたれどやや
牽強附会の
嫌あり。
後年四方赤良の一派狂歌の再興を企つるや元禄前後における先人の選集中永く狂歌の模範とすべき吟咏は大抵再選してこれを『
万載集』『
才蔵集』等に載せたり。
蜀山人の狂歌におけるや全く古今に
冠たり。しかしてその始めて狂歌を吟ぜしは
按ふに
明和三、四年の
交年二十歳の
頃なるべし。『
奴労之』『
一話一言』等蜀山人が随筆を見るに江戸にて始めて狂歌の会を催せしは
四谷忍原横町に住みし
小島橘洲にしてその時集れるもの
大根太木、
飛塵馬蹄、
大屋裏住、
平秩東作ら四、五名に過ぎざる事を記したれど不幸にしてその
年月を
詳にする事
能はず。蜀山人始め
寝惚先生と号して狂詩集を
梓行せしは明和四年十九歳の時にしてその先輩平秩東作
平賀鳩渓らと始めて相知れり。さればこの時既に狂詩と共に狂歌の吟咏ありしや明かなり。安永より
天明末年あたかも
白河楽翁公の幕政改革の当時に至るまでおよそ二十年間は蜀山人の
戯作界に活動せし時にして狂歌の名またこの時において最も高かりき。
寛政改元の年蜀山人四十に達しその父を失ふ。この年あたかも楽翁公の天下に令して
奢侈の風を戒め
洒落本の作者を懲罰するあり。この前年蜀山人既に狂歌の事よりして
小普請入を命ぜらる。ここにおいて
志を改め、聖堂の試験に応じて及第するや狂歌の名を後進の
真顔六樹園にゆづりて
幕吏(支配勘定)となり事務に
鞅掌するの
傍旧記を閲覧して『
孝義録』の
編纂をなせり。然れども
文化初年長崎赴任の後
駿河台に移り住みし頃より再び文壇に接近し『
南畝帖千紫万紅』『南畝
莠言』等の
出板を見るに至れり。
文政六年蜀山人七十五歳を以て
逝く。これより先安永天明の
交蜀山人と相並びて才名を
馳せたる平秩東作、朱楽菅江、唐衣橘洲、
手柄岡持ら皆世を去り、狂歌の盛衰は
浅草庵市人、
鹿都部真顔、
宿屋飯盛、
奇々羅金鶏らの手に依托せられぬ。この道
幸にして年と共にあまねく世人の喜び迎ふる処となりしが、その
調はその普及と共に
漸く卑俗となり、
殊に
天保以降に及んでは全く
軽口地口の
類と
択ぶ処なきに至れり。
天明寛政の頃は
独り狂歌の全盛を極めたるのみにあらず江戸諸般の文芸美術
悉く
燦然たる光彩を放ちし時代なり。ここに浮世絵と狂歌とは絵本
及摺物の
板刻によりて互に密接なる関係を有するに至れり。
即北尾政演が『狂歌五十人一首』の如き、
喜多川歌麿が『絵本
虫撰』、『
百千鳥』、『
狂月望』、『
銀世界』、『
江戸爵』の如きまた
北尾政美が『
江戸名所鑑』、北尾
重政の『絵本
吾妻袂』、
葛飾北斎が『
東都遊』、『
隅田川両岸一覧』、『
山復山』等の如き美麗なる絵本並に無数の摺物は皆これ狂歌の吟咏あつてしかして後これがために板刻せられたるもの。浮世絵師
窪俊満は
尚左堂と号してまた狂歌に
工なりき。今歌麿が『絵本虫撰』の序を見るに、
けふなん葉月十四日の夜、野辺にすだく虫の声きかんと、例のたはれたる友どちかたみにひきゐて、両国の北よしはらの東、鯉ひさぐ庵さきのほとり隅田の堤に氈うち敷て、おの/\虫のねだんづけの高きひくきをさだめんとす、故ありて酒と妓とをいましめたれば、わきめよりはしは虫のゑんとやいふべき、なにがし寺のねぶちの声、虫の音にまじりてほの聞ゆるなど、かのくえんしの建立ありし姫宮の持仏堂も思ひ出られて哀れなり。されば朝市のふるものあつかひよと人いふめれど、たゝにやはとて、長嘯子のえらび玉へる諸虫歌合せの跡を追て、恋のこゝろのざれ歌をのばへ侍るに、兎角して夜もふけ侍し、江山風月常のあるじなければ、地しろをせむる大屋もあらねど、草のむしろのまらうどゐはなく、虫こそあるじなれとて、露けき方にうち向ひて、ねもころにぬかづきて立ぬ、これなん三百六十のひとつなかまのいやなりけらし
これ宿屋飯盛が文にして画賛に
尻焼猿人(
抱一)以下天明の狂歌師が吟咏を採録したり。狂歌絵本は当時最も流行し最も美麗なる製本をなせり。然れどもその起源は既に浮世絵発達の当初にあり。余いまだその書を見る事
能はずといへども
天和年間
菱川師宣が絵本『
狂歌旅枕』といふものありといふ。元禄年代には
鳥居清信が『
四場居百人一首』の如き
享保年代
西川風の『絵本
鏡百首』の如きまた
長谷川光信が
鯛屋貞柳の狂歌に絵を添へたる『
御伽品鏡』の如きものあり。
天明六年北尾政演が描ける『狂歌五十人一首』は天明狂歌の
萃を抜きたるものその板画と
相俟つて狂歌絵本中の冠たるものなり。今その
中の数首を転載しいまだ狂歌の趣味を知らざるものの参考に供せんとす。
春きては野も
青土佐のはつ
霞一はけ引くや山のこしばり
腹唐秋人
をしなべて山々染むるもみぢ葉の
朱にまじはれば赤松もあり
飛塵馬蹄
橋の名も柳がもとのつくだぶねかけて
四ツ
手をあげ
汐の
魚
山道高彦
うき涙ふるき
屏風の
蝶つがひはなれ/″\になるぞかなしき
糟句斎よたん坊
あなうなぎいづくの山のいもとせにさかれて後に身をこがすとは
四方赤良
後文化
辛未年宿屋飯盛が撰したる『狂歌作者部類』は政演の『五十人一首』に
傚ひたるものなるべし。狂歌はそもそもその当初より名所を咏ずるに適す。名所絵本と狂歌の関係の最も親密なるはけだし当然の事なり。天明七年北尾政美が絵本『名所鑑』はこの種類中の先駆にして安政三年広重の描ける『狂歌江戸名所
図会』はその最終のものの
中最も見るべきものなるべし。
維新の後
世態人情一変して江戸の旧文化漸次衰滅するや狂歌もまたその例に漏れざりき。ここに
唯独り俳句の然らざるものあり、
豈奇ならずとせんや。俳句は狂歌と同じく天保以後甚だ俗悪となりしが明治に及び日清戦争前後に至りて
角田竹冷正岡子規の二家各自同好の士を集めて
大に俳諧を論ぜしより
遽に勃興の新機運に向へり。あたかもこの時に当り小説家の
淵叢たりし
硯友杜の才人元禄文学の研究と共にまた盛んに俳句を咏ぜしは
斯道の復興に
与つて
甚力ありしなり。然れども大正年間に及びていはゆる新傾向の称道を見るに至り俳諧も遂に本来の
面目体裁を破却せられ漸く有名無実のものとならんとす。これ現代俳句界の
趨勢なり。何を以てか俳句本来の面目となすや。仏教的哀愁と
都人特有の
機智諧謔即ちこれなり。この二者あつて初めて俳諧狂歌は生れ来りしなり。然るに今や現代人の感情にはこの二者漸くその跡を絶たんとす。何が故にその跡を絶つに至れるや。これ他なし
我邦固有の旧文化破壊せられて新文化の基礎遂に成らず一代の人心甚だ
軽躁となりかつ
驕傲無頼に走りしがためのみ。江戸時代の文化には儒教
並に仏教の根拠あり西洋諸国近世の新文化にはまた宗教及び哲学の根拠
頗る確固たるものあり。然るが故に社会百般の現象時として甚だ
相容れざるが如きものありといへども
一度その
根柢に
窺ひ
到れば必ず一貫せる脈絡の存するあり。独りわが現代文化の状況に至つてはその
赴く処
渾沌として捕捉しがたし。今や文壇の趨勢既に『万葉』『古今集』以来古歌固有の音律を喜ばずまた
枕詞掛言葉等邦語固有の妙所を
排けこれに代ふるに各自辺土の方言と英語翻訳の
口調を以てせんとす。そもそも俳諧狂歌の類は江戸泰平の時を得て漢学和学の両文学
渾然として
融化咀嚼せられたるの結果偶然現はれ来りしもの、
便ち
我邦古文明円熟の一極点を示すものと見るべきなり。
然ればわが現代人のこれに対して何らの愛情何らの尊敬また何らの感動をも催さざるは現代社会一般の現象に徴して
敢て怪しむに足らざるなり。
余常に『
伊勢物語』を以て国文中の真髄となし、芭蕉と蜀山人の吟咏を以て江戸文学の精粋なりとなせり。もしこれに注釈を施すとせんか正にわが
邦古今の文学に
渉りて論ぜざるべからざるべし。
凡て根柢あるものは含蓄の
味あり含蓄の
味はいよいよ
味つていよいよ深し。
斯の如きを以て真の文明となすべきなり。
大正六年稿
[#改丁]
今日旧劇と称せらるる江戸伝来の演劇に対する改革刷新の運動も既に久しきものとなりぬ。明治二十九年の末に出版せられし
坪内逍遥氏が『
梨園の
落葉』
森鴎外氏が『
月草』の二書を
繙けば当時諸家の企てし演劇改革の状況を知るに
難からず。
依田学海福地桜痴森田思軒石橋忍月岡野紫水坪内逍遥ら諸氏の名を回想するにつけても演劇改革の事業は
今日後進の
吾人に取りては既に演劇そのものと相並びて歴史的興味を覚えしむる処
尠しとせず。芝居と呼べる徳川時代の平民美術を取りてこれを改造せんと欲したる当時の学者紳士の計画は明治十八、九年頃より三十年代に
渉りて最も盛んなりしがいつしか衰微し、現今の劇壇は
専少壮文学者の西洋近代劇の翻訳
及その試演に忙殺せられ古き芝居につきては新聞記者のいはゆる劇評以外多く論ずるものなきに至りぬ。
余は
爰に西洋審美学の学理に照して江戸演劇を解剖分析しこれを評価するの必要を見ず。そは森先生が『
月草』の書中「
思軒居士が耳の芝居目の芝居」と題する論文その他においてハルトマンが学説を引きつぶさにこれを説明せられたればなり。余は今日となりては江戸演劇を基礎としてこれが改造を企てんよりはむしろそは従来のままなる芝居として
観ん事を欲せり。演劇改革の事業とその鑑賞
玩味の
興とは
自ら別問題たるべし。
江戸演劇は舞踊と合せてこれを貴族的なる能楽に対照し
専江戸平民美術として見る時余は多大の興味を感じて
止まざるなり。これがためには
聊かの改造もかへつて
厭ふべき破壊となる。余の江戸演劇に対して感ずる興味は
凡てその外形にあり。たまたま戯曲の内容につきて感ずる所ありとなすもそは外形の美によりて偶然に感動するに
外ならず。
拍子木の
音と
幕明の
唄とに伴ひて
引幕の波打ちつつあき行く瞬間の感覚、独吟の唄一トくさり
聴きて役者の
花道へ
出る時、あるひは
徐ろに
囃子の
鳴物に送られて
動行く
廻舞台を見送る時、凡てこれらの感覚は
唯芝居らしき快感といふ
外何らの説明を付する事
能はずといへども要するに江戸演劇を
措きては
他に求むる事
能はざるものならずや。その他だんまり、セリ出し、
立廻の如き皆
然り。
依田学海福地桜痴の諸家
市川団十郎と相結びていはゆる
活歴史劇を
興すや、道具
衣裳の歴史的考証を
専とし舞台上の絵画的効果を閑却せしより、その弊風今日に及びてもなほ歌舞伎座の新作物においてこれを見る。今それらの新劇と古き芝居とを比較するに、古人が戯曲の演奏に際し色彩の調和に巧妙なりし事想像するに余りあり。市川家
荒事を始め
浄瑠璃時代物の人物についてこれを見れば
思半に
過るものあるべし。
江戸演劇は囃子、唄、鳴物、
合方、
床の浄瑠璃、ツケ、拍子木の如き一切の音楽及び音響と、
書割、
張物、
岩組、
釣枝、
浪板、
藪畳の如き、凡て特殊の色調と情趣とを有せる舞台の装置法と、典型に
基く俳優の演技並びにその
扮装とこの三要素の
綜合して
渾然たる一種の芸術を構成したるものなり。さればこの
中の一を改むれば
忽全体を
毀損するに終る。俳優にして江戸演劇の
鬘をつけ西洋近世風の背景中に立つが如きは最も
嗤ふべき事とす。一を改めんとすれば
宜しく根本より凡ての物を改めざるべからず。
釣枝、
立木、岩組、
波布、浪板の如き
甚しく不自然なる
大道具は
宛浮世絵における
奥村政信鈴木春信らの美人画の背景にひとし。その写実に遠ざかりたる色彩と形状とは
能く江戸演劇の性質に調和し、
爰に浮世絵と同じく模様風なる美術をなす。余はしばしば浮世絵の特徴につきて画中美人の衣服が周囲の居室、窓、縁側、
柴折戸等に対しいふべからざる音楽的調和をなせる事を説きぬ。この見解は
直に江戸演劇の舞台に転用する事を得るなり。本舞台いつもの処に置かれたる
格子戸は恋人を見送る娘をして
半身をこれに
倚らしめ、
以て
艶麗なる風姿に無限の余情を添へしめ、忠臣義士が決然
家を捨てて難に
赴かんとする時、一層その英姿を引立たしむる等その活用の範囲
挙げて数ふべくもあらず。『二十四孝』
十種香の
場の幕明を見たるものは必ず
館の階段に長く
垂敷きたる
勝頼が
長袴の美しさを忘れざるべし。
浅倉当五が雪の子別れには窓の格子こそ
実に恩愛の
柵なれ。
学海桜痴両
居士が活歴劇流行の
頃は
唄鳴物並に
床の浄瑠璃はしばしば無用のものとして退けられたり。彼らは江戸演劇を以て純粋の
科白劇なりと
思為したるが如し。然れどもこはいまだよく江戸演劇の性質を
究めざる者の
謬見なり。余は江戸演劇を以て
仏蘭西のオペラコミックの如き物に比較せんと欲するなり。
如何となれば江戸演劇は
三絃を主とする音楽なくしては決して成立するものにあらず。
出這入の
唄合方は俳優が演技の情趣を助け床の浄瑠璃は
台詞のいひ
尽し能はざる感情を説明す。
或論者は今なほチョボの文句の
甚拙劣にしてしかもまた無用の説明に過ぎざることを説けどもこは
徒にその辞句のみを見て三絃の
合ノ
手とその
節廻を度外に置きたるがためのみ。
例へば床の浄瑠璃の「
後には
一人母親が」とかあるひは「すかせばすやすや
幼児が」といふが如きは文字の上より見れば全く無用の説明に相違なしといへどもその語る節廻と合ノ手とは決して然らざるものなり。余は
床と
囃子の
連弾掛合の如き
合方を最も好むものなり。『
鬼一法眼』
菊畑の場にて
奴虎蔵が
奥庭に忍び入らんとして身がまへしつつ進み行くあたりの
床の三絃を聴かば誰かチョボを無用なりとせん。
江戸演劇に用ひらるる鳴物は
独り三絃の合方のみに
留まらず
本釣鐘、
時の鐘、波の音、風の音、
雨車の如きを初めとし、
谺、
碪、
虫笛、トヒヨの如き簡単に自然の音響を模したるものも皆それぞれに舞台の音楽的情調を作るに効果あり。
僅に
大太皷を
打叩きて
能く
水声風声等を想像せしむるが如き簡単なる技巧は到底複雑なる西洋オペラの企て得ざる処にして、
此の如きは
敢て芝居の鳴物のみならず文学絵画諸般の芸術を通じて東洋的特徴の存する処ならざるべからず。余は江戸演劇を鑑賞するに当りこの綜合芸術は全く江戸浮世絵とその傾向を同じうするものたる事を知れり。浮世絵は庶民日常生活の外形を模写せんと欲する娯楽的写実の精神より出でしがその表現の方法はしばしば写生を離れて特殊なる
模様風の美術をなしぬ。江戸演劇もまた通俗一般の人情を写す現実主義の芸術なれどしばしば吾人の想像すべからざる奇怪の外形を取れり。浮世絵は美麗軽快にしてまた
頗る軟弱なる芸術なり。しかして芝居には
毫も高遠の思想深刻の人生観を含む事なし。然れども時として能く人情の機微を
穿つ事あたかも浮世絵の写真に
優る事あるに似たり。浮世絵には思付きの妙あり芝居には
滑稽諧謔なくんばあらず。
本雨といひ
糊紅の
仕掛といふが如き舞台における極端なる部分的の写実は浮世絵師が婦女の頭髪と
降雨とを一本々々に描きたるに比すべし。この二種の技芸は共に徹頭徹尾その発生したる時代と人種の特色を有し
毫も外来思想の感化
若くは模倣の
痕を有せず。これ余をして深く尊敬と興味とを覚えしむる最大の理由とす。敢て絵画演劇のみにはあらず
音曲浄瑠璃絵画彫刻等の諸美術よりして広く日常一般の生活娯楽流行及思想に至るまで、江戸と呼べる鎖国の時代ほど超然として他に妨げらるるものなく能くその発達を遂げたるもの、恐らくは他国他人種の文明にその比を見ざる処ならん
歟。
余
一度び西洋より帰り来りて久しく
看ざりし歌舞伎座を看るや、日本の芝居における俳優の
科白の西洋の演劇に比して甚だしく
緩漫冗長なるに驚きぬ。俳優は皆奇異なる
鬘と衣裳とのために身体の自由を失ひたるものの如く、
台詞の音声は
晦渋にして変化に乏しきこと
宛僧侶の
読経を聞くの
思ありき。殊に余の困却したるは舞台と観客席との区域分明ならざる事なりき。演劇の幻想界と観客の現実界とは
両花道、チョボ
床、
囃子方、その他劇場一般の構造によりて甚だしく錯雑せる事なりき。然れども日に月に日本従来の生活に
馴れ、また機会あるごとに
勉めて芝居と接近するに従ひ、漸次に鑑賞と批評との興を催すに至りぬ。
凡そ人種または時代を異にせる芸術に接して能くその性質を明かにせんと欲すれば
先づそのものに密接して
怪訝の念を去らしむるにあり。江戸の演劇におけるや舞台と観客席との錯雑はむしろその特色となすべきなり。『
幡随院長兵衛』が芝居
喧嘩の場の如き、『
梅の
由兵衛』が
長吉殺しの場の如き、
殊更に俳優をして観客の群集中に出没せしむるが如きは西洋近代の文学論を以てしては
殆んど解釈すべからざるものたるべし。然りといへども
此の如きは独り芝居のみならず江戸の諸芸術にはしばしばその傾向を同じくするものなしとせず。浮世絵を見るに
強ひて画中の人物をして
屏風の山水または七福神の掛物の如き背景と相混同せしめて機智の妙を誇るあり。
染模様には文字と絵画との区別を不明ならしめて一の図案となすものあり。小説物語には作者
自ら出でて
本文と関係なき勝手の広告をなす事しばしばなり。西洋にても
伊太利亜の喜劇には
幕明に作者の現れ出づるもの往々にしてこれありといふ。要するにその時代とその国の特産物として
看る時これらの奇習は
甚尊し。
向揚幕より役者の花道に出でんとする時、大向う
立見の看客の掛声をなすは場内の空気を緊張せしむるに力ある事
唄鳴物に
優る事あり。引幕の意匠
彩色もまた大道具と並びて演劇以外の演劇に
大なる関係あり。
江戸演劇は戯曲よりも
先俳優を主とし、俳優の
美貌風采によりて常に観客の好劇心と密接の関係を
保しむるものなれば、シェーキスピヤの戯曲『ラシインの悲劇』の如く単に文学としてのみ独立して存在するものに
非ず。されば
今日の吾人が江戸演劇の演奏を見るや戯曲と合せてその時代の衣服の流行俗謡の変遷等につきてもまた全く無関心たる事
能はざらしむ。江戸演劇はこれに附随する種々なる技芸遊戯を生ぜしめたり。先づ文学としては
役者評判記また
劇場案内記等の類にして、絵画としては
鳥居勝川歌川諸派の浮世絵、流行としては
紋所縞柄染模様の類なり。その他
羽子板、
押絵、
飴細工、菊人形、
活人形、
覗機関、
声色使の雑技あり。この
中浮世絵と流行の模様とは時勢のために江戸演劇の演奏全く断絶する事ありとなすも、長くその価値を認識せらるべし。
既に述べしが如く余は江戸演劇の演奏をして能ふかぎり従来の形式と精神とを保持せしめん事を
希ふものたり。これに対して一部分の改革の如きは決して真正なる新時代の新演劇を興す
所以のものに非ず。江戸演劇の
齎す過去の習慣と伝統とは吾人の
情緒を支配すること余りに強大なり。然るが故にもし吾人にして新しき演劇を興さんと欲すれば、戯曲の制作、演技の方法、劇場の構造等、
凡て江戸演劇とは根本よりして発生の
途を別にせざるべからず。かつて
学海居士近くは坪内博士に至るまで諸先輩の企てし演劇改良策の
遂に一として永遠の成功を収むる事
能はざりしは、皆江戸演劇を基礎とし、あるひはこれより出発して新しきものを考案せんと欲せしがためなり。新演劇の構成につきて余の思ふ処は他日これを論述するの機会あるべし。
爰には専ら旧劇の完全なる保存を主張し、古芸術愛惜の精神は新興芸術の発達に対して
毫も直接の関係なき別種の事たるを
明瞭にせんと欲するのみ。こはあたかも
土佐狩野の古画と西洋油画とを区別して論ずるに
均し。余は新旧両様の芸術のためにその境界を区別するの必要を感じて
止まず。両者の混同より起る損害は一は古きものを破損し一は新しきものの発達を阻害すればなり。例へば江戸演劇の旧脚本を取り来りてこれを
改竄するが如きその罪これより大なるはなし。
余は旧劇と称する江戸演劇のために永く過去の伝統を負へる俳優に向つて
宜しく
観世金春諸流の能役者の如き厳然たる態度を取り、以て深く自守
自重せん事を切望して止まざるものなり。元来江戸演劇は時代の流行に従ひ情死喧嘩等の社会一般の事件を仕組みて衆庶の娯楽に供せし通俗なる
興行物たりしといへどもこれは全く鎖国時代の事にして、今日の如く
日々外国思潮の襲来
激甚なる時代において
此の如き自由解放の態度はむしろ全体の破壊を招かんのみ。江戸演劇は既に通俗なる平民芸術にはあらで貴重なる
骨董となりし事あたかも
丹絵売が一枚
幾文にて街頭にひさぎたる浮世絵の今や数百金に
値すると異なる事なし。
明治の革命起りて
世態人情
忽ち一変するや江戸の美術工芸にしてよく今日までその命脈を保てるもの実に芝居と
踊三味線とあるのみ。浮世絵は
月岡芳年を最後として全く絶滅し、
蒔絵鋳金の
技は
是真夏雄を失ひて以後また見るべきものなきに至りぬ。
飜つて今日の西洋諸国を見るに外来の影響は皆自国の旧文明に一新生命を与へ以てその発達進歩を促したるに
独我国にありては外国の感化は自国の美点を破却しその
根柢を失はしむるに終れり。見よ仏蘭西の美術は日本画の影響によりて
聊も本来の面目を
傷けられたる事なきに反し、日本画は油画のために全くその精神を失ひしに非ずや。西洋の工業
一度日本に
入るや日本の諸器物は全く美術としての価値を失ひしといへども西洋の諸工芸品に至りては
巧に日本の意匠を応用してかへつて一大進歩を示せり。日本人は西洋より石版銅版の
技並に写真の術を習得せんがためには浮世絵木板の技術をして全く廃滅せしめずんばあらざりき。大正改元以後西洋演劇の輸入一代の流行を
来すや、これがために江戸演劇も漸次に破壊滅亡の兆候を示さんとす。余は今日の状態にして放任せしめんか、十年を
出ずして旧劇は全く滅亡すべしと信ず。ああわが邦人の美術文学に対する鑑識の極めて狭小薄弱なる
一度び新来の珍奇に
逢著すれば世を挙げて
靡然としてこれに
赴き、また自己本来の特徴を顧みるの余裕なし。これいはゆる
矮小なる
島国人の性質また
如何ともすべからざるもの
歟。進んで他を取らんとすればために自己伝来の宝を失ふ。一を得て一を失へば要するに文明の内容常に貧弱なる事
更に何らの変る処なし。明治維新以来東西両文明の接触は彼にのみ利多くして我に益なき事
宛硝子玉を以て砂金に換へたる野蛮島の交易を見るに異ならず。真に笑ふべき
也。
この一章を草せし後図らず森先生の「旧劇の未来」と題する論文(雑誌『我等』四月号所載)を読みぬ。旧劇は最早やそのままにては看るに堪へざれば、全くこれを廃棄するか然らざれば改作するにありといふ。これ余の卑見とは正反対なるを以て余は大に※懼[#「りっしんべん+危」、184-5]疑惑の念を抱けり。余の論旨は旧劇は改作を施さざる限りなほ看るに足るべしといふにあり。何が故ぞ。余は常に歌舞伎座帝国劇場の俳優によりて演ぜらるる旧劇中殊に義太夫物の演技に至りては、写実の気多き新芸風しばしば義太夫の妙味を損せしむるに比較し、宮戸座あたりに余命を保つ老優の技を見れば一挙一動よく糸に乗りをりて、決して観客を飽かしめざる事を経験し、余は旧劇なるものは時代と隔離し出来得るかぎり昔のままに演ずれば、能狂言と並びて決して無価値のものに非らずと信ずるに至りしなり。旧劇は元より卑俗の見世物たりといへども、昔のまま保存せしむれば、江戸時代の飾人形、羽子板、根付、浮世絵なぞと同じく、休みなき吾人日常の近世的煩悶に対し、一時の慰安となすに足るべし。専制時代に発生せし江戸平民の娯楽芸術は、現代日本の政治的圧迫に堪へざらんとする吾人に対し(少くとも余一個の感情に訴へて)或時は皮肉なる諷刺となり或時は身につまさるる同感を誘起せしめ、また或時は春光洋々たる美麗の別天地に遊ぶの思あらしむ。沙翁劇を看んとせば英文学の予備知識なからざるべからず。ワグネルを解すべき最上の捷路は手づからピアノを弾じて音譜を知る事なるべし。江戸演劇を愛せんと欲せばすべからく三味線を弄ぶの閑暇と折々は声色でも使ふ、馬鹿々々しき道楽気なくんばあらざるべし。余は江戸演劇を以ていはゆる新しき意味における「芸術」の圏外に置かん事を希望するものなり。
大正三年稿