われわれはいかにするともおのれの生れ落ちた浮世の片隅を忘れる事は出来まい。
もしそれが
賑な都会の中央であったならば、われわれは無限の光栄に包まれ感謝の涙にその眼を曇らして、一国の繁華を代表する偉大の背景を
打目戍るであろう。もしまたそれが見る影もない
痩村の
端れであったなら、われわれはかえって底知れぬ
懐しさと同時に悲しさ愛らしさを感ずるであろう。
進む時間は一瞬ごとに追憶の甘さを添えて行く。
私は都会の北方を限る
小石川の丘陵をば一年一年に恋いしく思返す。
十二、三の頃まで私は自分の生れ落ちたこの丘陵を去らなかった。その頃の私には知る
由もない何かの事情で、父は小石川の邸宅を売払って
飯田町に家を借り、それから丁度
日清戦争の始まる頃には更に
一番町へ引移った。今の
大久保に地面を買われたのはずっと
後の事である。
私は飯田町や一番町やまたは新しい大久保の
家から、何かの用事で小石川の高台を通り過る折にはまだ
二十歳にもならぬ学生の
裏若い心の底にも、
何とはなく、いわば興亡常なき支那の歴代史を通読した時のような淋しく物哀れに夢見る如き心持を覚えるのであった。殊に自分が
呱々の声を上げた旧宅の門前を過ぎ、その
細密い枝振りの
一条一条にまで
ちゃんと見覚えのある
植込の
梢を越して屋敷の屋根を窺い見る時、私は父の
名札の後に見知らぬ人の名が掲げられたばかりに、もう一足も門の中に
進入る事ができなくなったのかと思うと、なお更にもう一度あの
悪戯書で塗り尽された部屋の壁、その窓下へ掘った金魚の池なぞあらゆる
稚時の古跡が尋ねて見たく、現在
其処に住んでいる新しい主人の事を心憎く思わねばならなかった。
私の住んでいる時分から家は随分古かった。それ故、間もなく新しい主人は門の塀まで改築してしまった事を私は知っている。
乃ち私の稚時の古跡はもう影も形もなくこの浮世からは
湮滅してしまったのだ……
*
寺院と称する大きな美術の製作は偉大な力を以てその所在の土地に動しがたい或る特色を生ぜしめる。
巴里にノオトル・ダアムがある。
浅草に
観音堂がある。それと同じように、私の生れた小石川をば(少くとも私の心だけには)あくまで小石川らしく思わせ、他の町からこの一区域を差別させるものはあの
伝通院である。滅びた江戸時代には芝の
増上寺、上野の
寛永寺と相対して大江戸の三霊山と仰がれたあの伝通院である。
伝通院の
古刹は地勢から見ても小石川という高台の絶頂でありまた中心点であろう。小石川の高台はその源を関口の滝に発する江戸川に南側の麓を洗わせ、
水道端から登る幾筋の急な坂によって次第次第に伝通院の方へと高くなっている。東の方は
本郷と相対して
富坂をひかえ、北は
氷川の森を望んで
極楽水へと
下って行き、西は丘陵の延長が鐘の
音で名高い
目白台から、『忠臣蔵』で知らぬものはない
高田の
馬場へと続いている。
この地勢と同じように、私の幼い時の幸福なる記憶もこの伝通院の古刹を中心として、常にその周囲を離れぬのである。
諸君は私が伝通院の焼失を聞いていかなる絶望に沈められたかを想像せらるるであろう。外国から帰って来てまだ間もない頃の事確か十一月の曇った寒い日であった。ふと小石川の事を思出して、
午後に一人幾年間見なかった伝通院を
尋た事があった。近所の町は見違えるほど変っていたが
古寺の
境内ばかりは昔のままに残されていた。私は所定めず
切貼した本堂の
古障子が
欄干の腐った廊下に添うて、凡そ幾十枚と知れず淋しげに
立連った有様を今もってありありと眼に浮べる。何という不思議な縁であろう、本堂はその日の夜、私が追憶の散歩から帰ってつかれて眠った夢の
中に、すっかり灰になってしまったのだ。
芝の増上寺の焼けたのもやはりその頃の事だと私は記憶している。
半年ほど過ぎてから、あるいは一年ほど過ぎていたかも知れぬ。私はその頃日記をつけていなかったので確な事は覚えていない。或日再び小石川を散歩した。
雨気を含んで重苦しい夕風が焼跡の石の間に生えた雑草の葉を吹きひるがえしているのを見た。
何しろあれだけ大きな建物がなくなってしまった事とて境内は
荒野のように広々として重苦しい夕風は真実無常を誘う風の如く
処を
得顔に勢づいて吹き廻っているように思われた。今までは本堂に
遮られて見えなかった裏手の墳墓が黒焦げになったまま立っている杉の枯木の間から一目に見通される。
家康公の母君の墓もあれば、何とやらいう名高い
上人の墓もある……と小さい時私は年寄から幾度となく語り聞かされた……それらの名高い尊い墳墓も今は荒れるがままに荒れ果て、土塀の崩れた土から生えた灌木や
芒の茂りまたは倒れた石の門に這いまつわる
野蔦の葉が無常を誘う夕風にそよぎつつ折々軽い響を立てるのが何ともいえぬほど物寂しく聞きなされた。
伝説によれば
水戸黄門が犬を斬ったという寺の門だけは、幸にして火災を逃れたが、遠く後方に立つ本堂の背景がなくなってしまったので、美しく彎曲した彫刻の多いその屋根ばかりが、独りしょんぼりと曇った空の下に取り残されて立つ有様かえって
殉死の運命に遇わなかったのを
憾み悲しむように見られた。門の前には
竹矢来が立てられて、本堂
再建の寄附金を
書連ねた生々しい木札が並べられてあった。本堂は間もなく寄附金によって、
基督新教の会堂の如く半分西洋風に新築されるという話……ああ何たる進歩であろう。
私は記憶している。まだ六ツか七ツの時分、芝の増上寺から移ってこの伝通院の住職になった老僧が、紫の紐をつけた
長柄の
駕籠に乗り、随喜の涙に
咽ぶ群集の
善男善女と幾多の僧侶の行列に送られて、あの門の下を
潜って行った目覚しい光景に接した事があった。今や
D
mocratie と
Positivisme の時勢は日一日に最後の美しい歴史的色彩を抹殺して、時代に
後れた詩人の夢を覚さねば止むまいとしている。
*
安藤坂は平かに地ならしされた。
富坂の
火避地には
借家が建てられて当時の
名残の樹木二、三本を残すに過ぎない。
水戸藩邸の最後の
面影を
止めた
砲兵工廠の大きな赤い裏門は何処へやら
取除けられ、古びた
練塀は赤煉瓦に改築されて、お家騒動の絵本に見る通りであったあの
水門はもう影も形もない。
表町の通りに並ぶ商家も大抵は目新しいものばかり。以前この辺の町には決して見られなかった西洋小間物屋、西洋菓子屋、西洋料理屋、西洋文具店、雑誌店の
類が驚くほど沢山出来た。同じ糸屋や呉服屋の店先にもその品物はすっかり変っている。
かつては
六尺町の横町から
流派の
紋所をつけた柿色の包みを抱えて出て来た稽古通いの娘の姿を今は
何処に求めようか。
久堅町から
編笠を
冠って出て来る
鳥追の三味線を何処に聞こうか。時代は変ったのだ。
洗髪に
黄楊の
櫛をさした若い職人の女房が松の湯とか小町湯とか書いた
銭湯の
暖簾を掻分けて出た町の角には、
でくでくした女学生の
群が地方
訛りの嘆賞の声を放って活動写真の広告隊を見送っている。
今になって、誰一人この
辺鄙な小石川の高台にもかつては一般の住民が踊の名人
坂東美津江のいた事を土地の誇となしまた
寄席で
曲弾をしたため家元から破門された三味線の名人
常磐津金蔵が同じく小石川の人であった事を尽きない
語草にしたような時代のあった事を知るものがあろう。現代の或批評家は私が芸術を愛するのは
巴里を見て来たためだと思っているかも知れぬ。しかしそもそも私が巴里の芸術を愛し得たその Passion その Enthousiasme の根本の力を私に
授けてくれたものは、
仏蘭西人が Sarah Bernhardt に対し
伊太利亜人が Eleonora Duse に対するように、坂東美津江や常磐津金蔵を崇拝した当時の
若衆の溢れ
漲る熱情の感化に外ならない。
哥沢節を産んだ江戸衰亡期の
唯美主義は私をして二十世紀の象徴主義を味わしむるに余りある芸術的素質をつくってくれたのである。
*
夕暮よりも薄暗い入梅の午後
牛天神の森蔭に
紫陽花の
咲出る頃、または
旅烏の
啼き騒ぐ秋の夕方
沢蔵稲荷の
大榎の止む間もなく
落葉する頃、私は散歩の杖を伝通院の門外なる
大黒天の
階に休めさせる。その度に堂内に安置された昔のままなる
賓頭盧尊者の像を
撫ぜ、幼い頃この小石川の
故里で私が見馴れ聞馴れたいろいろな人たちは今頃どうしてしまったろうと、そぞろ当時の事を思い返さずにはいられない。
そもそも私に向って、母親と
乳母とが話す桃太郎や
花咲爺の物語の外に、最初のロマンチズムを伝えてくれたものは、この大黒様の
縁日に欠かさず出て来たカラクリの
見世物と
辻講釈の爺さんとであった。
二人は何処から出て来るのか無論私は知らない。しかし私がこの世に生れて初めて縁日というものを知ってから、その
後小石川を去る時分までも二人の爺は
油烟の
灯の中に幾年たっても変らないその顔を見せていた。それ故あるいは今でも同じ
甲子の
夜には同じ場所に出て来るかも知れない。
カラクリの爺は眼のくさった元気のない男で、盲目の歌うような物悲しい声で、「
本郷駒込吉祥寺八百屋のお七はお小姓の
吉三に惚れて……。」と節をつけて歌いながら、カラクリの
絵板につけた綱を引張っていたが、辻講釈の方は歯こそ抜けておれ眼付のこわい人の悪るそうな爺であった。よほど遠くから出て来るものと見え、いつでも
鞋に
脚半掛け
尻端折[#「尻端折」は底本では「尻端打」]という
出立で、帰りの夜道の用心と思われる
弓張提灯を腰低く前で結んだ
真田の三尺帯の
尻ッぺたに差していた。縁日の人出が三人四人と次第にその周囲に集ると、爺さんは
煙管を
啣えて
路傍に
蹲踞んでいた腰を起し、カンテラに火をつけ、集る人々の顔をずいと見廻しながら、
扇子をパチリパチリと音させて、二、三度つづけ様に鼻から吸い込む
啖唾を音高く地面へ吐く。すると始めは極く低い
皺嗄れた声が次第次第に専門的な雄弁に代って行く。
「……あれえッという女の悲鳴。こなたは
三本木の
松五郎、
賭場の帰りの一杯機嫌、真暗な松並木をぶらぶらとやって参ります……」
話が興味の中心に
近いて来ると、いつでも爺さんは突然調子を変え、思いもかけない無用なチャリを入れてそれをば聞手の群集から金を集める前提にするのであるが、物馴れた敏捷な聞手は早くも気勢を洞察して、
半開きにした爺さんの扇子がその鼻先へと差出されぬ
中にばらばら逃げてしまう。すると爺さんは逃げ
後れたまま立っている人たちへ
面当がましく、「
彼奴らア人間はお
飯喰わねえでも生きてるもんだと思っていやがらア。
昼鳶の
持逃野郎奴。」なぞと当意即妙の毒舌を振って人々を笑わせるかと思うと罪のない子供が知らず知らずに前の方へ押出て来るのを、また何とかいって叱りつけ自分も
可笑そうに笑っては例の啖唾を吐くのであった。
縁日の事からもう一人私の記憶に浮び
出るものは、
富坂下の
菎蒻閻魔の近所に住んでいたとかいう
瞽女である。
物乞をするために急に三味線を
弾き初めたものと見えて、年は十五、六にもなるらしい大きな
身体をしながら、カンテラを
点した
薦の上に坐って調子もカン
処も合わない「一ツとや」を一晩中休みなしに弾いていた。その様子が可笑しいというので、縁日を歩く人は大抵立止っては銭を投げてやった。二年三年とたつ
中に瞽女は立派な専門の
門附になって「春雨」や「梅にも春」などを弾き出したがする
中いつか姿を見せなくなった。私は
家の女中が何処から聞いて来たものか、あの瞽女は目も見えないくせに男と
密通いて子を
孕んだのだと噂しているのを聞いた事がある。
これも同じ縁日の
夜に、
一人相撲というものを取って銭を乞う男があった。西、
両国、東、
小柳と呼ぶ呼出し
奴から
行司までを皆一人で勤め、それから西東の相撲の手を代り代りに使い分け、
果は
真裸体のままでズドンと
土の上に
転る。しかしこれは間もなく警察から
裸体になる事を禁じられて、それなり縁日には来なくなったらしい。
*
金剛寺坂の
笛熊さんというのは、
女髪結の亭主で大工の本職を
放擲って
馬鹿囃子の笛ばかり吹いている男であった。
按摩の
休斎は盲目ではないが生付いての
鳥目であった。三味線弾きになろうとしたが非常に
癇が悪い。
落話家の前座になって見たがやはり見込がないので、遂に按摩になったという経歴から、ちょっと踊もやる
落話もする
愛嬌者であった。
般若の
留さんというのは背中一面に般若の
文身をしている若い大工の職人で、大タブサに結った
髷の
月代をいつでも
真青に剃っている凄いような美男子であった。その頃にはまだ髷に結っている人も大分残ってはいたが、しかし大方は四十を越した
老人ばかりなので、あの般若の留さんは
音羽屋のやった
六三や
佐七のようなイキなイナセな昔の職人の最後の面影をば、私の眼に残してくれた忘れられない恩人である。
昔は水戸様から
御扶持を頂いていた家柄だとかいう
棟梁の
忰に思込まれて、
浮名を近所に
唄われた風呂屋の女の何とやらいうのは、
白浪物にでも出て来そうな旧時代の淫婦であった。江戸時代の遺風としてその当時の風呂屋には二階があって
白粉を塗った女が入浴の男を捉えて
戯れた。かくの如き江戸衰亡期の妖艶なる時代の色彩を想像すると、よく西洋の絵にかかれた美女の
群の戯れ遊ぶ
浴殿の歓楽さえさして羨むには当るまい。
*
小石川は東京全市の発達と共に数年ならずしてすっかり見違えるようになってしまうであろう。
始めて
六尺横町の貸本屋から昔のままなる
木版刷の『
八犬伝』を借りて読んだ当時、子供心の私には何ともいえない神秘の趣を示した
氷川の流れと大塚の森も取払われるに間もあるまい。私が最後に
茗荷谷のほとりなる
曲亭馬琴の墓を尋ねてから、もう十四、五年の月日は早くも去っている……。
明治四十三年七月