枇杷の実は熟して
百合の花は既に散り、昼も蚊の鳴く
植込の蔭には、
七度も色を変えるという盛りの長い
紫陽花の花さえ早や
萎れてしまった。
梅雨が過ぎて
盆芝居の興行も
千秋楽に近づくと誰も彼も避暑に行く。郷里へ帰る。そして炎暑の
明い
寂寞が都会を占領する。
しかし自分は子供の時から、
毎年の七、八月をば大概
何処へも旅行せずに東京で費してしまうのが例であった。第一の理由は東京に生れた自分の身には何処へも行くべき郷里がないからである。第二には、両親は
逗子とか
箱根とかへ
家中のものを連れて行くけれど、自分はその頃から文学とか音楽とかとにかく中学生の身としては監督者の眼を忍ばねばならぬ不正の娯楽に
耽りたい必要から、留守番という
体のいい名義の
下に
自ら辞退して夏
三月をば両親の眼から遠ざかる事を無上の幸福としていたからである。
たしか中学を卒業する前の年の事かと記憶する。どういう訳か逗子へ半月ばかり行っていた時の事を半紙
二帖ほどに書いたものが、今だに自分の
手篋の底に保存されてある。
成島柳北が仮名
交りの文体をそのままに模倣したり
剽窃したりした
間々に漢詩の
七言絶句を
挿み、自叙体の主人公をば
遊子とか小史とか名付けて、薄倖多病の才人が都門の栄華を
外にして
海辺の
茅屋に
松風を聴くという仮設的哀愁の生活をば、いかにも
稚気を帯びた調子でかつ
厭味らしく飾って書いてある。全篇の題は
紅蓼白蘋録というので挿入した絶句の
中には、
已見秋風上二白蘋一。 〔已に見る秋風 白蘋に上り
青衫又汚二馬蹄塵一。 青衫又た馬蹄の塵に汚る
月明今夜消魂客。 月明るく 今夜 消魂の客
昨日紅楼爛酔人。 昨日は紅楼に爛酔するの人
年来多病感二前因一。 年来 多病にして前因を感じ
旧恨纏綿夢不レ真。 旧恨 纏綿として夢真ならず
今夜水楼先得レ月。 今夜 水楼 先ず月を得て
清光偏照善愁人。 清光 偏えに照らす 善だ愁うの人〕
なぞいうのがあった。
今日読返して見ると覚えず
噴飯するほどである。わずか十四、五歳の少年が「昨日は紅楼に爛酔するの人」といっているに至っては、文字上の遊戯もまた驚くべきではないか。しかし自分は近頃十九世紀の最も正直なる告白の詩人だといわれたポオル・ヴェルレエヌの詳伝を読み、
Les sanglots longs
Des violons
De l'automne……
「秋の
胡弓の長き
咽び泣き」という
彼の有名な
La chanson d'automne(秋の歌)の一篇の如きはヴェルレエヌが
高踏派の詩人として最も幸福なる時代の作で、その時分には妻もあり友達もあり一定の職業もあった事を伝記の著者から教えられた。して見ると、「過ぎし日の事
思出でて泣く、」といったりあるいは末節の、「われは
此処彼処にさまよう
落葉」といったのはやはり詩人の Jeux d'esprit(心の遊戯)であったのだ。しかし自分は無論
己れを一世の大詩人に比して弁解しようというのではない。
唯晩年には
Sagesse の如き
懺悔の詩を書いた人にも或時はかかる事実があったものかと不思議に感じた事を語るに過ぎぬのである。
私は
毎年の暑中休暇を東京に送り馴れたその頃の事を回想して今に愉快でならぬのは七月八月の
両月を
大川端の
水練場に送った事である。
自分は今日になっても大川の流のどの
辺が最も浅くどの辺が最も深く、そして
上汐下汐の潮流がどの辺において最も急激であるかを、もし質問する人でもあったら一々明細に説明する事の出来るのは皆当時の経験の
賜物である。
午後に夕立を
降して去った雷鳴の名残が遠く
幽に聞えて、真白な大きな雲の峰の一面が夕日の反映に染められたまま見渡す
水神の
森の
彼方に浮んでいるというような時分、
試に
吾妻橋の欄干に
佇立み上汐に
逆って河を
下りて来る舟を見よ。舟は大概右岸の浅草に沿うてその
艪を操っているであろう。これは
浅草の岸一帯が浅瀬になっていて上汐の流が幾分か
緩であるからだ。しかし
中洲の河沿いの二階からでも下を
見下したなら大概の
下り船は反対にこの度は左側なる
深川本所の岸に近く動いて行く。それは
大川口から
真面に
日本橋区の岸へと吹き付けて来る風を
避けようがためで、されば水死人の
屍が風と
夕汐とに流れ寄るのはきまって中洲の方の岸である。
自分が水泳を習い覚えたのは
神伝流の
稽古場である。神伝流の稽古場は毎年
本所御舟蔵の岸に近い
浮洲の上に建てられる。浮洲には一面
蘆が茂っていて汐の引いた時には雨の日なぞにも本所
辺の
貧い女たちが
蜆を取りに出て来たものであるが今では石垣を築いた埋立地になってしまったので、
浜町河岸には今以て昔のように毎年水練場が出来ながら、わが神伝流の小屋のみは
他所に取払われ、浮洲に茂った蘆の葉は二度と見られぬものとなった。
一通遊泳術の免許を取ってしまった
後は全く教師の監督を離れるので、朝早く自分たちは蘆のかげなる稽古場に衣服を脱ぎ捨て
肌襦袢のような短い水着一枚になって大川筋をば汐の流に
任して
上流は
向島下流は
佃のあたりまで泳いで行き、疲れると石垣の上に
這上って犬のように川端を歩き廻る。
濡れた水着のままでよく
真砂座の
立見をした事があった。
永代の橋の上で巡査に
咎められた結果、
散々に
悪口をついて
捕えられるなら捕えて見ろといいながら四、五人一度に橋の欄干から
真逆様になって水中へ飛込み、暫くして四、五間も先きの水面にぽっくり
浮み出して、一同わアいと
囃し立てた事なぞもあった。
泳ぐ事もできず
裸体で
川端を横行する事も出来ぬ時節になっても、自分はやはり川好きの友達と一緒に中学校の教場以外の大抵な時間をば舟遊びに費した。
われわれは無論ボオトも
漕いだ。しかしボオトは少くとも四、五人の
人数を要する上に、一度
櫂を揃えて漕出せば、疲れたからとて一人勝手に
止める訳には行かないので、
横着で
我儘な
連中は、ずっと気楽で旧式な
荷足舟の方を選んだ。その時分にはボオトの事をバッテラという人も多かった。
浅草橋の
野田屋や
築地の
丁字屋から
借舟をするにしても、バッテラと荷足とは一日の
借賃に非常な相違があった。
土曜といわず日曜といわず学校の帰り掛けに書物の包を抱えたまま舟へ飛乗ってしまうのでわれわれは
蔵前の
水門、本所の
百本杭、
代地の料理屋の
桟橋、
橋場の別荘の石垣、あるいはまた
小松島、
鐘ヶ
淵、
綾瀬川なぞの蘆の茂りの蔭に舟をつないで、代数や幾何学の宿題を考えた事もあった。同時にまた、教科書の間に隠した『
梅暦』や
小三金五郎の叙景文をば
目の
当りに見る川筋の実景に対照させて喜んだ事も度々であった。
かかる少年時代の感化によって、自分は一生涯たとえ如何なる激しい新思想の襲来を受けても、恐らく江戸文学を離れて
隅田川なる自然の風景に対する事は出来ないであろう。
鐘ヶ淵の紡績会社や帝国大学の艇庫は自分がまだ隅田川を知らない以前から出来ていたものである。それらの新しい勢力は事実において日に日に土手や畠や
河岸や蘆の茂りを取払って行きつつあるが、しかし何らの感化をも自分の心の上には及ぼさなかったのだ。
黒煙を吐く煉瓦づくりの
製造場よりも人情本の文章の方が面白く美しく、
乃ち遥に強い印象を与えたがためであろう。十年十五年と過ぎた
今日になっても、自分は
一度び
竹屋橋場今戸の如き地名の発音を耳にしてさえ、
忽然として現在を離れ、自分の生れた時代よりも更に遠い時代へと思いを
馳するのである。
いかに自然主義がその
理論を
強いたにしても、自分だけには現在
あるがままに隅田川を見よという事は不可能である。
自然主義時代の
仏蘭西文学は自分にはかえって隅田川に対する空想を豊富ならしめた
傾がある。
モオパッサンはその短篇中に描いたセエヌ河の舟遊びによって、
漫にわれわれの過ぎ去った学生時代を意味深く回想させ、ゴンクウル兄弟が En 18… の篇中に書いた
月夜ムウドンの
麗しい叙景は、蘆と
水楊の多い
綾瀬あたりの風景をよろこぶ自分に対して更に新しく
繊巧なる芸術的感受性を洗練せしめた。ゾラは『田園(Aux champs)』と題する興味ある小品によって、近頃の
巴里人が都会の
直ぐ外なるセエヌ河畔の風景を愛するようになったその来歴を
委しく語って、偶然にも自分をして巴里人と江戸の人との風流を比較せしめた。
ゾラの所論によると昔の巴里人は郊外の風景に対して今日の巴里人が日曜日といえば必ず遊びに出掛るような熱心な興味を感じてはいなかった。その証拠は時代風俗の反映たるべき文学を見ても、十七、八世紀の文学上には一ツとして今日の抒情詩人が歌っているような「自然」に対する感想を窺う事は出来ない。ルッソオ
出でて始めて思想は一変し、シャトオブリアンやラマルチンやユウゴオらの感激によって自然は始めて人間に近付けられた。最初
希臘芸術によって、
divinise(神らしく)された自然、仏蘭西古典文学によって度外視された自然は、ロマンチズムの熱情によって始めて
humanise(人間らしく)せられた。しかしユウゴオやラマルチンはまだ一度も巴里郊外の自然をそが抒情詩の直接の題材にして歌った事はない。それはかの通俗小説の作家として今では
最う忘れられようとしている
Paul de Kock を以て
嚆矢と
見做さなければならぬ。ポオル・ド・コックは何も郊外の風景その物を写生する目的ではないが、今から五、六十年前
Louis-Philippe 王政時代の巴里の市民が狭苦しい都会の城壁を越えて郊外の森陰を散歩し
青草の上で食事をする
態をば滑稽なる誇張の筆致を以てその小説中に描いたのである。その時代から一般の風俗は次第に変って来てポオル・ド・コックの
後には画家の一団体が盛に巴里郊外の勝地を
跋渉し始めた。今日では誰も知っている
彼の
Meudon の佳景を発見したのは自然を写生するために
古典の形式を破棄した
Franais 一派の画工である。それからずっと上流の
Mantes までを
探ったのは
Daubigny である。今まではその地名さえも知られなかったセエヌの河畔は忽ちの間に散歩の人の
雑沓を
来すようになって、最初の発見者
Daubigny はとうとうセエヌ河の本流を見捨て
Oise の支流を溯って
Anvers の遠方へ逃げ込み、
Corot はやっと水溜りや大木の多い、
Ville d'Avray に踏み
留るようになった。
この記事から
飜て
向島と江戸文学との関係を見ると、江戸の人は時代からいえば巴里人よりももっと早くから郊外の佳景に心附いていたのだ。俳諧師の
群は
瓢箪を下げて
江東の梅花に「
稍とゝのふ春の景色」を探って歩き、
蔵前の旦那衆は屋根舟に芸者と美酒とを載せて、「ほんに田舎もましば
焚く
橋場今戸」の河景色を眺めて喜んだ。
最初
河水の
汎濫を防ぐために築いた向島の土手に、
桜花の装飾を施す事を忘れなかった江戸人の度量は、都会を電信柱の大森林たらしめた明治人の経営に比して何たる相違であろう。
巴里の人たちは今でも日曜日には家族を引連れて郊外の
青草の上で葡萄酒を飲む。しかしわれわれの新しき時代は絵のような美しい伝統を破棄するの急務に追われているばかりである。
この二、三日方々から
頻に絵葉書が来る。谷川を前にした温泉宿や松の生えた
海辺の写真が来る。友達は皆例の如く避暑に出かけたのだ。しかし自分はまだ何処へも行こうという心持にはならない。
縁先の
萩が長く延びて、柔かそうな葉の
面に朝露が水晶の玉を
綴っている。
石榴の花と
百日紅とは燃えるような強い色彩を
午後の炎天に
輝し、眠むそうな薄色の
合歓の花はぼやけた
紅の
刷毛をば
植込みの蔭なる夕方の
微風にゆすぶっている。単調な蝉の歌。とぎれとぎれの
風鈴の音――自分はまだ何処へも行こうという心持にはならずにいる。
モオパッサンの短篇小説 Les S
urs Rondoli(ロンドリ
姉妹)の初めに旅行の不愉快な事が書いてある。
「……転地ほど無益なものはない。汽車で明す夜といえば動揺する睡眠に身体も頭も散々な目に逢う。動いて行く箱の中で腰の痛さに目が覚める。皮膚が垢だらけになったような気がする。いろいろな塵が髪と眼の中へ飛込む。すうすう風の這入って来る食堂車でまずい食事をする。それらは私にいわせると旅行と称する娯楽の嫌悪すべき序開である。
先この急行列車の序開があった後には旅館の淋しさ。人が一ぱいいながら如何にもがらんとした広い旅館。見も知らぬ気味悪い部屋、怪気な寝床の淋しさが続いて来る。私には何がさて置き自分の寝床ほど大切なものはない。寝床は人生の神聖なる殿堂である。人は生活を赤裸々にして羽毛蒲団の暖さと敷布の真白きが中に疲れたる肉を活気付けまた安息させねばならぬ。
恋愛と睡眠の時間。われわれが生存の最も楽しい時間を知るのは寝床である。寝床は神聖だ。地上の最も楽しく最も好いものとして敬い尊び愛さねばならぬものだ。
それ故私は旅館の寝床の毛布を引捲る時にはいつも嫌悪の情に身を顫わす。ここで昨夜は誰れが何をした。どんな不潔な忌わしい奴がこの蒲団の上に寝たであろう。私は人がよく後指さして厭がる醜い傴僂や疥癬掻や、その手の真黒な事から足や身体中はさぞかしと推量されるように諸有る汚い人間、または面と向うと蒜や汗の鼻持ちならぬ悪臭を吹きかける人たちの事を想像するし、不具者や伝染病や病人の寝汗や、人間の身体の汚いという汚いもの、醜いという醜いものを想像する。
自分が寝ようとする寝床にはそういう醜いものが寝たかも知れぬ、と思うと、私は其処へ片足を踏入れるのが何ともいいようのないほど厭である。」
これは無論西洋の旅館の話だ。日本の旅館にはそれに
優るとも
敢て劣らぬ同じ蒲団の気味悪さに、便所とそれから毎朝顔を洗う流し場の不潔が景物として附加えられてある。
便所の事はいうまい。もしこれが自分の
家であったら、見知らぬ人に
寝起のままの乱れた髪や汚れた顔を見せずとも済むものを、宿屋に泊る是非なさは、皺だらけになった
寝衣に細いシゴキを締めたままで、こそこそと共同の顔洗い場へ行かねばならない。
洗場の
流は乾く間のない水のために
青苔が生えて、触ったら
ぬらぬらしそうに
輝っている。そして其処には使捨てた
草楊枝の折れたのに、青いのや鼠色の
啖唾が流れきらずに引掛っている。腐りかけた
板ばめの上には
蛞蝓の
匐た跡がついている。何処からともなく便所の臭気が
漲る。
衛生を
重ずるため、出来る限りかかる不潔を避けようためには県知事様でもお泊りになるべきその土地最上等の
旅館へ
上って
大に茶代を奮発せねばならぬ。単に茶代の奮発だけで済む事なら大した苦痛ではないが、一度び奮発すると、そのお礼としてはいざ汽車へ乗って帰ろうという間際なぞに
極って
要りもせぬ
見掛ばかり大きな
土産物をば、まさか見る前で捨てられもせず、帰りの道中の荷厄介にと
背負い
込せられる。日本の旅館の不快なる事は毎朝毎晩番頭や
内儀の挨拶、散歩の度々に女中の送迎、旅の寂しさを愛するものに取ってはこれ以上の
煩累はあるまい。
何処へ行こうかと避暑の行先を思案している
中、
土用半には早くも秋風が
立ち
初める。
蚊遣の
烟になお
更薄暗く思われる
有明の
灯影に、
打水の乾かぬ小庭を眺め、隣の二階の三味線を
簾越しに聴く心持……東京という町の生活を最も美しくさせるものは夏であろう。一帯に熱帯風な日本の生活が、最も
活々として心持よく、決して他人種の生活に見られぬ特徴を示すのは夏の
夕だと自分は信じている。
虫籠、
絵団扇、
蚊帳、
青簾、
風鈴、
葭簀、燈籠、
盆景のような
洒々たる器物や装飾品が何処の国に見られよう。平素は余りに
単白で色彩の乏しきに苦しむ
白木造りの家屋や居室全体も、かえってそのために一種いうべからざる明い軽い快感を起させる。この周囲と一致して日本の女の最も刺※
[#「卓+戈」、U+39B8、127-5]的に見える瞬間もやはり夏の夕、
伊達巻の細帯にあらい
浴衣の
立膝して湯上りの薄化粧する夏の
夕を除いて
他にはあるまい。
町中の堀割に沿うて夏の夕を歩む時、自分は
黙阿弥翁の書いた『
島鵆月白浪』に
雁金に結びし蚊帳もきのふけふ――と
清元の
出語がある妾宅の場を見るような三味線的情調に酔う事がしばしばある。
観潮楼の先生もかつて『染めちがえ』と題する短篇小説に、西鶴のような文章で浴衣と
柳橋の女の恋を書かれた事があった。それをば
正直正太夫という当時の批評家が得意の Calembour を用いて「先生の染めちがえは
染ちがえなり。」と
罵った事をも私は明治小説史上の逸話として面白く記憶している。
いつぞや(二十三、四の頃であった)
柳橋の裏路地の二階に真夏の日盛りを過した事があった。その時分知っていたこの
家の女を誘って何処か凉しい処へ遊びに行くつもりで立寄ったのであるが、
窓外の
物干台へ照付ける日の光の
眩さに
辟易して、とにかく夕風の立つまでとそのまま引止められてしまったのだ。物干には
音羽屋格子や水玉や麻の葉つなぎなど、昔からなる
流行の浴衣が
新形と相交って幾枚となく川風に飜っている。
其処から窓の方へ
下る踏板の上には花の
萎れた朝顔や
石菖やその他の植木鉢が、
硝子の金魚鉢と共に置かれてある。八畳ほどの座敷はすっかり
渋紙が敷いてあって、押入のない一方の壁には立派な
箪笥が順序よく引手のカンを
并べ、路地の方へ向いた表の窓際には四、五台の化粧鏡が据えられてあった。折々吹く風がバタリと窓の
簾を
動すと、その間から狭い路地を隔てて
向側の家の同じような二階の
櫺子窓が見える。
鏡台の
数だけ女も四、五人ほど、いずれも浴衣に細帯したままごろごろ寝転んでいた。暑い暑いといいながら二人三人と猫の子のようにくッつき合って、一人でおとなしく黙っているものに
戯いかける。
揚句の果に誰かが「
髪へ触っちゃ
厭だっていうのに。」と
癇癪声を張り上げるが口喧嘩にならぬ先に窓下を通る
蜜豆屋の呼び声に
紛らされて、一人が立って
慌ただしく呼止める、一人が柱にもたれて
爪弾の三味線に他の一人を呼びかけて、「おやどうするんだっけ。二から這入るんだッけね。」と
訊く。
坐るかと思うと寝転ぶ。寝転ぶかと思うと立つ。其処には
舟底枕がひっくり返っている。其処には貸本の小説や
稽古本が投出してある。寵愛の小猫が鈴を鳴しながら
梯子段を
上って来るので、
皆が落ちていた誰かの赤い
しごきを振って
戯らす。
自分は唯黙って
皆のなす様を見ていた。浴衣一枚の事で、いろいろの
艶しい身の投げ
態をした若い女たちの身体の線が如何にも柔く豊かに見えるのが、自分をして丁度、宮殿の
敷瓦の上に
集う
土耳其美人の
群を描いたオリヤンタリストの油絵に対するような、あるいはまた
歌麿の浮世絵から味うような甘い優しい情趣に酔わせるからであった。
自分は左右の窓一面に輝くすさまじい日の光、物干台に飜る浴衣の白さの間に、寝転んで下から見上げると、いかにも高くいかにも
能く澄んだ真夏の真昼の青空の色をも、今だに忘れず記憶している……
これもやはりそういう真夏の日盛り、自分は倉造りの運送問屋のつづいた
堀留あたりを
親父橋の方へと、商家の軒下の僅かなる日陰を
択って歩いて行った時、あたりの景色と調和して立去るに忍びないほど心持よく、倉の間から聞える
長唄の三味線に聞取れた事がある。
歌は若い娘の声、
絃は
高音を入れた
連奏である。この音楽があったために倉続きの横町の景色が生きて来たものか、あるいは横町の景色が自分の空想を刺※
[#「卓+戈」、U+39B8、130-1]していたために長唄がかくも心持よく聞かれたのか、今ではいずれとも断言する事はできない。真正の音楽狂はワグネルの音楽をばオペラの舞台的装置を取除いて聴く事をかえって喜ぶ。しかしそれとは全然性質を異にする三味線はいわば極めて原始的な単純なもので、決して楽器の
音色からのみでは純然たる音楽的幻想を起させる力を持っていない。それ故日本の音楽にはいつも周囲の情景がその音楽的効果の上に欠くべからざる必要を生ぜしめるのはやむをえぬ事であろう。
その日は照り続いた八月の日盛りの事で、限りもなく晴渡った青空の
藍色は
滴り落つるが如くに濃く、乾いて汚れた倉の屋根の上に高く広がっていた。横町は
真直なようでも不規則に
迂曲っていて、片側に続いた倉庫の戸口からは何れも裏手の
桟橋から
下る堀割の水の
面が丁度
洞穴の中から外を覗いたように、暗い倉の中を透してギラギラ
輝って見える。
荒布の前掛を締めた荷揚の人足が水に臨んだ倉の戸口に
蹲踞んで凉んでいると、
往来際には荷車の馬が
鬣を垂して眼を細くし、蠅の
群れを追払う元気もないようにじっとしている。運送屋の広い間口の店先には
帳場格子と金庫の間に若い者が
算盤を
弾いていたが人の出入りは更に見えない。鼠色した鳩が二、三羽高慢らしく胸を突出して炎天の屋根を歩いていると、
荷馬の口へ結びつけた
秣桶から
麦殻のこぼれ落ちるのを何処から迷って来たのか痩せた鶏が一、二羽、馬の脚の間をば恐る恐る歩きながら
啄んでいた。
人通は全くない。空気は乾いて
緩に凉しく動いている。
自分はいつも忙しかるべきこの横町の思いもかけぬ夜のような
寂寞と沈滞とに、新しい強い興味に誘われながら歩いて来た時、
立続く倉の屋根に
遮られて見えない奥の方から勢よく長唄の三味線の響いて来るのを聞いたのである。炎天の
明い寂寞の
中に二
挺の三味線は実によくその
撥音を響かした。
自分は「長唄」という三味線の心持をばこの瞬間ほどよく味い得た事はないような気がした。長唄の趣味は
一中清元などに含まれていない
江戸気質の
他の一面を現したものであろう。拍子はいくら早く手はいくら
細くても真直で単調で、極めて執着に乏しく情緒の粘って
纏綿たる処が少い。しかしその軽快鮮明なる事は俗曲と称する日本近代の音楽中この長唄に越すものはあるまい。
端唄が現す恋の苦労や浮世のあじきなさも、または浄瑠璃が歌う義理人情のわずらわしさをもまだ経験しない幸福な富裕な
町家の娘、我儘で勝気でしかも優しい町家の娘の姿をば自分は長唄の三味線の
音につれてありありと空想中に描き出した。そして八月の炎天にもかかわらず、わが空想のその
乙女は
襟附の
黄八丈に赤い
匹田絞の帯を締めているのであった。
順序なく筆の行くがままに、
最う一ツ我が夏の記憶を
茲に語らしめよ。
山の手の深い堀井戸の水を浴びようとかいうので、夏は水道の水の
生温きを
喞つ下町の女たち二、三人づれで目黒の
大黒屋へ遊びに行く途中であった。茂った竹藪や
木立の蔭なぞに古びた
小家の続く場末の町の
小径を歩いて行く時、自分はふいと半ば枯れかかった杉垣の間から、少しばかり草花を植えた小庭の竹竿に、女の
浴衣が一枚干し忘れられたように下っているのを目にした。
下町でも特別の土地へ行かねば決して見られぬ
あらい肩抜の模様の浴衣である。それが洗い
晒されて昔を忍ぶ
染色は見るかげなく
剥げていた。青いものは川端の柳ばかり、蝉の声をも珍しがる下町の女の身の末が、汽車でも電車でも
出入りの不便な貧しい場末の町に引込んで秋雨を聴きつつ老い行く心はどんなであろう……何の気なしに思いつくと、自分は今までは唯淋しいとばかり見ていた場末の町の心持に、突然人間の
零落、老衰、病死なぞいう
特種の悲惨を附加えて見ずにはいられなかった。
下町の女の浴衣をば
燈火の光と植木や草花の色の
鮮な間に眺め賞すべく、東京の町には
縁日がある。カンテラの
油煙に
籠められた縁日の夜の空は堀割に近き町において殊に色美しく見られる。自分は
毎年のようにこの年の夏も東京に居残りはしまいか。
もう八月も十日近くなった……
明治四十三年八月