東京市中散歩の記事を集めて『日和下駄』と題す。そのいはれ本文のはじめに述べ置きたれば改めてここには言はず。『日和下駄』は大正三年夏のはじめころよりおよそ一歳あまり、月々雑誌『三田文学』に連載したりしを、この度
米刃堂主人のもとめにより
改竄して一巻とはなせしなり。ここにかく起稿の年月を
明にしたるはこの書
板成りて世に出づる頃には、篇中記する所の市内の勝景にして、既に破壊せられて跡方もなきところ
尠からざらん事を思へばなり。見ずや木造の
今戸橋は
蚤くも変じて鉄の釣橋となり、江戸川の岸はせめんとにかためられて再び
露草の花を見ず。
桜田御門外また芝赤羽橋
向の
閑地には土木の工事今まさに
興らんとするにあらずや。昨日の
淵今日の瀬となる夢の世の形見を伝へて、
拙きこの小著、幸に後の日のかたり草の種ともならばなれかし。
乙卯の年晩秋
荷風小史
[#改丁]
人並はずれて
丈が高い上にわたしはいつも
日和下駄をはき
蝙蝠傘を持って歩く。いかに
好く晴れた日でも日和下駄に蝙蝠傘でなければ安心がならぬ。これは年中
湿気の多い東京の天気に対して全然信用を置かぬからである。変りやすいは男心に秋の空、それにお
上の
御政事とばかり
極ったものではない。春の花見頃
午前の晴天は
午後の二時三時頃からきまって風にならねば夕方から雨になる。
梅雨の
中は申すに及ばず。
土用に
入ればいついかなる時
驟雨沛然として
来らぬとも
計りがたい。
尤もこの変りやすい空模様思いがけない雨なるものは昔の小説に出て来る才子佳人が
割なき
契を結ぶよすがとなり、また今の世にも芝居のハネから急に降出す雨を幸いそのまま人目をつつむ
幌の
中、しっぽり
何処ぞで濡れの場を演ずるものまたなきにしもあるまい。
閑話休題日和下駄の効能といわば何ぞそれ不意の雨のみに限らんや。天気つづきの冬の日といえども山の手一面赤土を
捏返す
霜解も何のその。アスフヮルト敷きつめた銀座日本橋の
大通、やたらに
溝の水を
撒きちらす
泥濘とて一向驚くには及ぶまい。
私はかくの如く日和下駄をはき蝙蝠傘を持って歩く。
市中の散歩は子供の時から好きであった。十三、四の頃私の
家は一時
小石川から
麹町永田町の官舎へ
引移った事があった。
勿論電車のない時分である。私は
神田錦町の私立英語学校へ
通っていたので、
半蔵御門を
這入って
吹上御苑の裏手なる
老松鬱々たる
代官町の
通をばやがて片側に二の丸三の丸の高い石垣と深い堀とを望みながら
竹橋を渡って
平川口の
御城門を向うに昔の
御搗屋今の文部省に沿うて
一ツ
橋へ出る。この
道程もさほど遠いとも思わず初めの
中は物珍しいのでかえって楽しかった。
宮内省裏門の
筋向なる兵営に沿うた土手の中腹に大きな
榎があった。その頃その
木蔭なる土手下の
路傍に井戸があって夏冬ともに
甘酒大福餅稲荷鮓飴湯なんぞ売るものがめいめい荷を
卸して
往来の人の休むのを待っていた。
車力や
馬方が多い時には五人も六人も休んで飯をくっている事もあった。これは竹橋の方から這入って来ると
御城内代官町の通は歩くものにはそれほどに気がつかないが車を
曳くものには限りも知れぬ長い坂になっていて、丁度この
辺がその中途に当っているからである。東京の地勢はかくの如く
漸次に麹町
四谷の方へと高くなっているのである。夏の炎天には私も学校の
帰途井戸の水で車力や馬方と共に
手拭を絞って汗を拭き、土手の上に登って大榎の木蔭に休んだ。土手にはその時分から既に「昇ルベカラズ」の
立札が
付物になっていたが構わず登れば堀を隔てて遠く町が見える。かくの如き眺望は
敢てここのみならず、
外濠の
松蔭から
牛込小石川の高台を望むと同じく先ず東京
中での絶景であろう。
私は錦町からの帰途
桜田御門の方へ廻ったり
九段の方へ出たりいろいろ遠廻りをして目新しい町を通って見るのが面白くてならなかった。しかし一年ばかりの
後途中の光景にも少し
飽きて来た頃私の家は再び小石川の旧宅に
立戻る事になった。その夏始めて
両国の
水練場へ通いだしたので、今度は繁華の
下町と
大川筋との光景に
一方ならぬ
興を催すこととなった。
今日東京市中の散歩は私の身に取っては生れてから今日に至る過去の生涯に対する追憶の道を
辿るに外ならない。これに加うるに
日々昔ながらの名所古蹟を
破却して行く時勢の変遷は市中の散歩に無常悲哀の寂しい詩趣を帯びさせる。およそ近世の文学に現れた荒廃の詩情を
味おうとしたら
埃及伊太利に
赴かずとも現在の東京を歩むほど無残にも
傷ましい
思をさせる処はあるまい。
今日看て過ぎた寺の門、
昨日休んだ
路傍の大樹もこの次再び来る時には
必貸家か
製造場になっているに違いないと思えば、それほど
由緒のない建築もまたはそれほど
年経ぬ樹木とても何とはなく
奥床しくまた悲しく
打仰がれるのである。
一体江戸名所には昔からそれほど誇るに足るべき風景も建築もある訳ではない。既に
宝晋斎其角が『
類柑子』にも「隅田川絶えず名に流れたれど
加茂桂よりは
賤しくして
肩落したり。
山並もあらばと願はし。
目黒は物ふり
山坂おもしろけれど果てしなくて水遠し、
嵯峨に似てさみしからぬ
風情なり。
王子は
宇治の
柴舟のしばし目を流すべき
島山もなく
護国寺は
吉野に似て
一目千本の雪の
曙思ひやらるゝにや
爰も
流なくて
口惜し。
住吉を
移奉る
佃島も岸の姫松の
少きに
反橋のたゆみをかしからず
宰府は
崇め
奉る名のみにして
染川の色に
合羽ほしわたし
思河のよるべに
芥を
埋む。
都府楼観音寺唐絵と云はんに四ツ目の鐘の
裸なる、
報恩寺の
甍[#「甍」は底本では「薨」]の
白地なるぞ
屏風立てしやうなり。
木立薄く
梅紅葉せず、三月の末藤にすがりて回廊に
筵を設くるばかり野には心もとまらず……
云々。」そして其角は江戸名所の
中唯ひとつ
無疵の名作は快晴の富士ばかりだとなした。これ恐らくは江戸の風景に対する最も公平なる批評であろう。江戸の風景堂宇には一として京都奈良に及ぶべきものはない。それにもかかわらずこの都会の風景はこの都会に生れたるものに対して必ず特別の興趣を催させた。それは昔から江戸名所に関する案内記狂歌集絵本の
類の
夥しく
出板されたのを見ても容易に推量する事が出来る。太平の世の武士町人は
物見遊山を好んだ。花を愛し、風景を眺め、古蹟を
訪う事は即ち風流な最も上品な
嗜みとして尊ばれていたので、実際にはそれほどの興味を持たないものも、時にはこれを
衒ったに相違ない。江戸の人が最も盛に江戸名所を尋ね歩いたのは私の見る処やはり狂歌全盛の
天明以後であったらしい。江戸名所に興味を持つには是非とも江戸軽文学の素養がなくてはならぬ。一歩を進むれば
戯作者気質でなければならぬ。
この
頃私が日和下駄をカラカラ
鳴して再び
市中の散歩を試み初めたのは無論江戸軽文学の感化である事を
拒まない。しかし私の趣味の
中には
自らまた近世ヂレッタンチズムの影響も
混っていよう。千九百五年
巴里のアンドレエ・アレエという一新聞記者が社会百般の現象をば芝居でも見る気になってこれを見物して歩いた記事と、また仏国各州の都市古蹟を
歩廻った印象記とを合せて
En Flanant と題するものを
公にした。その時アンリイ・ボルドオという批評家がこれを機会としてヂレッタンチズムの何たるかを解剖批判した事があった。
茲にそれを紹介する必要はない。私は
唯西洋にも市内の散歩を試み、近世的世相と並んで過去の遺物に興味を持った同じような傾向の人がいた事を
断って置けばよいのである。アレエは西洋人の
事故その態度は無論私ほど社会に対して無関心でもなくまた
肥遯的でもない。これはその本国の事情が異っているからであろう。彼は別に為すべき仕事がないからやむをえず散歩したのではない。
自ら進んで観察しようと
企てたのだ。しかるに私は別にこれといってなすべき義務も責任も何にもないいわば隠居同様の身の上である。その日その日を送るになりたけ世間へ顔を出さず金を使わず相手を要せず自分一人で勝手に
呑気にくらす方法をと色々考案した結果の一ツが市中のぶらぶら歩きとなったのである。
仏蘭西の小説を読むと
零落れた貴族の
家に生れたものが、
僅少の遺産に自分の身だけはどうやらこうやら日常の衣食には事欠かぬ代り、浮世の
楽を
余所に
人交りもできず、一生涯を
果敢なく淋しく無為無能に送るさまを描いたものが沢山ある。こういう人たちは何か世間に名をなすような専門の研究をして見たいにもそれだけの資力がなし職業を求めて働きたいにも働く口がない。せん方なく
素人画をかいたり釣をしたり墓地を歩いたりしてなりたけ金のいらないようなその日の
送方を考えている。私の境遇はそれとは全く違う。しかしその行為とその感慨とはやや同じであろう。
日本の現在は文化の爛熟してしまった西洋大陸の社会とはちがって資本の
有無にかかわらず自分さえやる気になれば為すべき事業は沢山ある。男女
烏合の
徒を集めて芝居をしてさえもし芸術のためというような名前を付けさえすればそれ相応に
看客が来る。田舎の中学生の虚栄心を
誘出して投書を
募れば文学雑誌の経営もまた容易である。慈善と教育との美名の
下に弱い家業の芸人をおどしつけて安く出演させ、切符の押売りで興行をすれば
濡手で
粟の
大儲も出来る。富豪の人身攻撃から段々に
強面の名前を売り出し
懐中の暖くなった
汐時を
見計って妙に紳士らしく上品に構えれば、やがて国会議員にもなれる世の中。現在の日本ほど為すべき事の多くしてしかも容易な国は恐らくあるまい。しかしそういう風な世渡りを
潔しとしないものは
宜しく自ら譲って
退くより
外はない。市中の電車に乗って
行先を急ごうというには
乗換場を
過る
度ごとに
見得も
体裁もかまわず人を突き
退け
我武者羅に飛乗る
蛮勇がなくてはならぬ。自らその蛮勇なしと
省みたならば
徒に
空いた電車を待つよりも、
泥亀の歩み
遅々たれども、自動車の通らない
横町あるいは市区改正の破壊を
免れた旧道をてくてくと歩くに
如くはない。市中の道を行くには
必しも市設の電車に乗らねばならぬと
極ったものではない。いささかの遅延を忍べばまだまだ悠々として
濶歩すべき道はいくらもある。それと同じように現代の生活は
亜米利加風の努力主義を以てせざれば食えないと極ったものでもない。
髯を
生し洋服を着てコケを
脅そうという田舎紳士風の野心さえ起さなければ、よしや身に一銭の
蓄なく、友人と称する共謀者、先輩もしくは親分と称する
阿諛の目的物なぞ一切
皆無たりとも、なお
優游自適の生活を
営む方法は
尠くはあるまい。同じ露店の大道商人となるとも自分は髭を生し洋服を着て演舌口調に医学の説明でいかさまの薬を売ろうよりむしろ黙して裏町の
縁日にボッタラ
焼をやくか
粉細工でもこねるであろう。苦学生に扮装したこの頃の行商人が
横風に靴音高くがらりと人の
家の
格子戸を明け
田舎訛りの
高声に奥様はおいでかなぞと、ややともすれば
強請がましい
凄味な態度を示すに引き比べて昔ながらの
脚半草鞋に
菅笠をかぶり
孫太郎虫や
水蝋の
虫箱根山山椒の
魚、または
越中富山の
千金丹と呼ぶ声。秋の
夕や冬の
朝なぞこの声を聞けば
何とも知れず悲しく淋しい気がするではないか。
されば私のてくてく歩きは東京という新しい都会の壮観を称美してその審美的価値を論じようというのでもなく、さればとて熱心に江戸なる旧都の古蹟を
探りこれが保存を主張しようという訳でもない。
如何となれば現代人の古美術保存という奴がそもそも古美術の風趣を害する原因で、古社寺の周囲に鉄の鎖を張りペンキ
塗の
立札に例の何々スベカラズをやる位ならまだしも結構。古社寺保存を名とする修繕の請負工事などと来ては、これ全く破壊の暴挙に類する事は改めてここに実例を挙げるまでもない。それ故私は唯目的なくぶらぶら歩いて
好勝手なことを書いていればよいのだ。
家にいて
女房のヒステリイ
面に浮世をはかなみ、あるいは新聞雑誌の訪問記者に襲われて折角掃除した
火鉢を
敷島の吸殻だらけにされるより、暇があったら歩くにしくはない。歩け歩けと思って、私はてくてくぶらぶらのそのそといろいろに歩き廻るのである。
元来がかくの如く目的のない私の散歩にもし幾分でも目的らしい事があるとすれば、それは何という事なく
蝙蝠傘に
日和下駄を
曳摺って行く
中、電車通の裏手なぞにたまたま残っている市区改正以前の旧道に出たり、あるいは寺の多い山の手の
横町の
木立を仰ぎ、
溝や堀割の上にかけてある名も知れぬ小橋を見る時なぞ、何となくそのさびれ果てた周囲の光景が私の感情に調和して
少時我にもあらず立去りがたいような心持をさせる。そういう無用な感慨に打たれるのが何より嬉しいからである。
同じ荒廃した光景でも名高い宮殿や
城郭ならば
三体詩なぞで人も知っているように、「太掖勾陳処処
ニ疑
フ。薄暮
ノ毀垣春雨
ノ裏。〔
太掖か
勾陳か
処処に
疑う。
薄暮の
毀垣 春雨の
裏。〕」あるいはまた、「煬帝
ノ春游古城在。壊宮芳草満
ツ二人家
ニ一。〔
煬帝の
春游せる
古城在り。
壊宮の
芳草 人家に
満つ。〕」などと詩にも歌にもして伝えることができよう。
しかし私の好んで日和下駄を曳摺る東京市中の
廃址は唯私一個人にのみ興趣を催させるばかりで容易にその特徴を説明することの出来ない平凡な景色である。
譬えば
砲兵工廠の
煉瓦塀にその片側を限られた小石川の
富坂をばもう
降尽そうという左側に一筋の
溝川がある。その流れに沿うて
蒟蒻閻魔の方へと曲って行く横町なぞ
即その一例である。両側の
家並は低く道は勝手次第に
迂っていて、ペンキ塗の看板や模造西洋造りの
硝子戸なぞは一軒も見当らぬ処から、折々氷屋の旗なぞの
閃く
外には横町の眺望に色彩というものは一ツもなく、
仕立屋芋屋
駄菓子屋挑灯屋なぞ昔ながらの
職業にその日の暮しを立てている
家ばかりである。私は
新開町の
借家の
門口によく何々商会だの何々事務所なぞという
木札のれいれいしく下げてあるのを見ると、何という事もなく新時代のかかる企業に対して不安の念を起すと共に、その主謀者の人物についても甚しく危険を感ずるのである。それに
引かえてこういう貧しい裏町に昔ながらの貧しい
渡世をしている年寄を見ると同情と悲哀とに加えてまた尊敬の念を禁じ得ない。同時にこういう
家の一人娘は今頃
周旋屋の
餌になってどこぞで芸者でもしていはせぬかと、そんな事に
思到ると相も変らず日本固有の忠孝の思想と人身売買の習慣との関係やら、つづいてその結果の現代社会に及ぼす影響なぞについていろいろ込み入った考えに沈められる。
ついこの間も
麻布網代町辺の裏町を通った時、私は活動写真や国技館や
寄席なぞのビラが
崖地の上から吹いて来る夏の風に
飜っている氷屋の
店先、表から一目に見通される奥の間で十五、六になる娘が
清元をさらっているのを見て、いつものようにそっと
歩を
止めた。私は不健全な江戸の
音曲というものが、今日の世にその命脈を保っている事を
訝しく思うのみならず、今もってその哀調がどうしてかくも私の心を刺※
[#「卓+戈」、U+39B8、18-8]するかを不思議に感じなければならなかった。何気なく裏町を通りかかって小娘の
弾く
三味線に感動するようでは、私は到底世界の新しい思想を迎える事は出来まい。それと共にまたこの江戸の音曲をばれいれいしく電気燈の
下で演奏せしめる世俗一般の風潮にも
伴って行く事は出来まい。私の感覚と趣味とまた思想とは、私の境遇に一大打撃を与える何物かの
来らざる限り、次第に私をして
固陋偏狭ならしめ、遂には全く世の中から除外されたものにしてしまうであろう。私は折々反省しようと
力めても見る。同時に
心柄なる身の末は一体どんなになってしまうものかと、いっそ
放擲して自分の身をば他人のようにその
果敢ない
行末に対して皮肉な一種の好奇心を感じる事すらある。自分で己れの身を
抓ってこの
位力を入れればなるほどこの位痛いものだと独りでいじめて独りで涙ぐんでいるようなものである。或時は表面に
恬淡洒脱を
粧っているが心の底には絶えず果敢いあきらめを宿している。これがために「涙でよごす
白粉のその顔かくす無理な酒」というような珍しくもない
唄が、聞く度ごとに私の心には一種特別な刺※
[#「卓+戈」、U+39B8、19-4]を与える。私は
後から
勢よく襲い過ぎる自動車の響に狼狽して、
表通から日の当らない裏道へと逃げ込み、そして人に
後れてよろよろ歩み行く処に、わが
一家の興味と共に苦しみ、また得意と共に悲哀を見るのである。
[#改ページ]
裏町を行こう、横道を歩もう。かくの如く私が好んで
日和下駄をカラカラ
鳴して行く
裏通にはきまって
淫祠がある。淫祠は昔から今に至るまで政府の庇護を受けたことはない。目こぼしでそのままに打捨てて置かれれば結構、ややともすれば取払われべきものである。それにもかかわらず淫祠は今なお東京市中数え尽されぬほど沢山ある。私は淫祠を好む。裏町の風景に
或趣を添える上からいって淫祠は
遥に銅像以上の審美的価値があるからである。
本所深川の堀割の
橋際、
麻布芝辺の極めて急な坂の下、あるいは繁華な町の倉の間、または寺の多い裏町の角なぞに立っている小さな
祠やまた
雨ざらしのままなる
石地蔵には今もって必ず
願掛の
絵馬や奉納の
手拭、或時は線香なぞが上げてある。現代の教育はいかほど日本人を新しく
狡猾にしようと
力めても今だに一部の
愚昧なる民の心を奪う事が出来ないのであった。
路傍の淫祠に祈願を
籠め
欠けたお地蔵様の
頸に
涎掛をかけてあげる人たちは娘を芸者に売るかも知れぬ。義賊になるかも知れぬ。
無尽や
富籤の
僥倖のみを夢見ているかも知れぬ。しかし彼らは他人の私行を新聞に投書して復讐を
企てたり、正義人道を名として金をゆすったり人を迫害したりするような文明の武器の使用法を知らない。
淫祠は大抵その
縁起とまたはその
効験のあまりに
荒唐無稽な事から、何となく滑稽の趣を伴わすものである。
聖天様には
油揚のお
饅頭をあげ、
大黒様には
二股大根、お
稲荷様には油揚を
献げるのは誰も皆知っている処である。
芝日蔭町に
鯖をあげるお稲荷様があるかと思えば
駒込には
炮烙をあげる炮烙地蔵というのがある。頭痛を祈ってそれが
癒れば御礼として炮烙をお地蔵様の頭の上に載せるのである。
御厩河岸の
榧寺には虫歯に
効験のある
飴嘗地蔵があり、
金竜山の
境内には塩をあげる塩地蔵というのがある。
小石川富坂の
源覚寺にあるお
閻魔様には
蒟蒻をあげ、
大久保百人町の
鬼王様には
湿瘡のお礼に
豆腐をあげる、
向島の
弘福寺にある「
石の
媼様」には子供の
百日咳を祈って
煎豆を
供えるとか聞いている。
無邪気でそしてまたいかにも
下賤ばったこれら愚民の習慣は、
馬鹿囃子にひょっとこの踊または
判じ
物見たような奉納の絵馬の
拙い絵を見るのと同じようにいつも限りなく私の心を慰める。単に
可笑しいというばかりではない。理窟にも議論にもならぬ馬鹿馬鹿しい処に、よく考えて見ると一種物哀れなような妙な心持のする処があるからである。
[#改ページ]
目に青葉
山時鳥初鰹。江戸なる過去の都会の最も美しい時節における情趣は簡単なるこの十七字にいい
尽されている。
北斎及び
広重らの江戸
名所絵に
描かれた所、これを
文字に代えたならば、即ちこの一句に尽きてしまうであろう。
東京はその市内のみならず周囲の近郊まで
日々開けて行くばかりであるが、しかし幸にも社寺の境内、
私人の邸宅、また
崖地や
路のほとりに、まだまだ
夥しく樹木を残している。今や
工場の
煤烟と電車の響とに
日本晴の空にも
鳶ヒョロヒョロの声
稀に、雨あがりのふけた夜に月は出ても
蜀魂はもう
啼かなくなった。初鰹の
味とてもまた汽車と氷との便あるがために昔のようにさほど珍しくもなくなった。しかし目に見る青葉のみに至っては、
毎年花ちる
後の新暦五月となれば、
下町の川のほとりにも、山の手の坂の上にも、
市中到る処その色の美しさにわれらは東京なる都市に対して始めて江戸伝来の固有なる快感を催し得るのである。
東京に住む人、
試に初めて
袷を着たその日の朝といわず、昼といわず、また夕暮といわず、
外出の折の道すがら、
九段の坂上、
神田の
明神、
湯島の
天神、または芝の
愛宕山なぞ、随処の高台に登って市中を見渡したまえ。輝く
初夏の空の
下、際限なくつづく瓦屋根の
間々に、あるいは
銀杏、あるいは
椎、
樫、柳なぞ、いずれも新緑の色
鮮なる
梢に、日の光の
麗しく
照添うさまを見たならば、東京の都市は模倣の西洋
造と電線と銅像とのためにいかほど醜くされても、まだまだ全く捨てたものでもない。東京にはどこといって口にはいえぬが、やはり何となく東京らしい固有な趣があるような気がするであろう。
もし今日の東京に果して都会美なるものがあり得るとすれば、私はその第一の要素をば樹木と水流に
俟つものと断言する。山の手を
蔽う老樹と、下町を流れる河とは東京市の有する最も尊い宝である。
巴里の巴里たる
体裁は寺院宮殿劇場等の建築があれば
縦え樹と水なくとも足りるであろう。しかるにわが東京においてはもし
鬱然たる樹木なくんばかの壮麗なる
芝山内の
霊廟とても完全にその美とその威儀とを保つ事は出来まい。
庭を作るに樹と水の必要なるはいうまでもない。都会の美観を作るにもまたこの二つを除くわけには
行かない。幸にも東京の地には昔から
夥しく樹木があった。今なお
芝田村町に残っている
公孫樹の如く徳川氏
入国以前からの古木だといい伝えられているものも少くはない。
小石川久堅町なる
光円寺の
大銀杏、また
麻布善福寺にある
親鸞上人手植の銀杏と称せられるものの如き、いずれも数百年の老樹である。
浅草観音堂のほとりにも名高い銀杏の樹は
二株もある。小石川植物園内の大銀杏は維新後
危く
伐り倒されようとした
斧の跡が残っているために今ではかえって老樹を
愛重する人の多く知る処となっている。東京市中にはもしそれほどの故事来歴を有せざる銀杏の大木を探り歩いたならまだなかなか数多いことであろう。小石川
水道端なる
往来の真中に立っている
第六天の
祠の
側、また
柳原通の
汚い
古着屋の屋根の上にも大きな銀杏が立っている。神田
小川町の通にも私が
一橋の中学校へ通う頃には大きな銀杏が
煙草屋の屋根を
貫いて電信柱よりも高く
聳えていた。
麹町の
番町辺牛込御徒町辺を通れば昔は旗本の屋敷らしい邸内の
其処此処に銀杏の大樹の立っているのを見る。
銀杏は
黄葉の頃神社仏閣の
粉壁朱欄と相対して眺むる時、最も日本らしい山水を
作す。ここにおいて浅草観音堂の銀杏はけだし東都の
公孫樹中の
冠たるものといわねばならぬ。
明和のむかし、この樹下に
楊枝店柳屋あり。その美女お
藤の姿は今に
鈴木春信一筆斎文調らの
錦絵に残されてある。
銀杏に比すれば松は更によく神社仏閣と調和して、あくまで日本らしくまた支那らしい風景をつくる。江戸の武士はその邸宅に花ある木を植えず、
常磐木の中にても殊に松を
尊び愛した故に、
元武家の屋敷のあった処には今もなお緑の色かえぬ松の姿にそぞろ昔を思わせる処が少くない。
市ヶ
谷の
堀端に
高力松、
高田老松町に
鶴亀松がある。
広重の絵本『
江戸土産』によって、江戸の
都人士が
遍く名高い松として眺め賞したるものを挙ぐれば
小名木川の五本松、
八景坂の
鎧掛松、
麻布の一本松、
寺島村蓮華寺の
末広松、
青山竜巌寺の
笠松、
亀井戸普門院の
御腰掛松、
柳島妙見堂の松、
根岸の
御行の
松、
隅田川の
首尾の
松なぞその他なおいくらもあろう。しかし大正三年の今日幸に
枯死せざるものいくばくぞや。
青山竜巌寺の松は北斎の錦絵『
富嶽卅六景』中にも描かれてある。私は大久保の
佗住居より遠くもあらぬ青山を目がけ昔の江戸図をたよりにしてその寺を捜しに行った事がある。寺は青山
練兵場を横切って兵営の裏手なる
千駄ヶ
谷の一隅に残っていたが、堂宇は見るかげもなく改築せられ、境内狭しと建てられた
貸家に、松は愚か庭らしい
閑地さえ見当らなかった。この近くに山の手の
新日暮里といわれて、日暮里の
花見寺に比較せられた
仙寿院の名園ある事は、これも『
江戸名所図絵』で知っている処から、
日和下駄の歩きついでに
尋ねあてて見れば、古びた
惣門を
潜って登る石段の両側に茶の木の美しく刈込まれたるに
辛くも昔を忍ぶのみ。庭は
跡方もなく
伐開かれ本堂の横手の墓地も申訳らしく
僅な
地坪を残すばかりであった。
今日上野博物館の構内に残っている松は
寛永寺の
旭の
松または
稚児の
松とも称せられたものとやら。首尾の松は既に跡なけれど根岸にはなお御行の松の
健なるあり。麻布
本村町の
曹渓寺には
絶江の
松、
二本榎高野山には
独鈷の
松と称せられるものがある。その
形古き絵に比べ見て同じようなればいずれも昔のままのものであろう。
柳は桜と共に春来ればこきまぜて都の錦を
織成すもの故、
市中の樹木を愛するもの決してこれを
閑却する訳には
行くまい。桜には上野の
秋色桜、
平川天神の
鬱金の
桜、麻布
笄町長谷寺の
右衛門桜、青山
梅窓院の
拾桜、また今日はありやなしや知らねど名所絵にて名高き渋谷の
金王桜、
柏木の右衛門桜、あるいはまた
駒込吉祥寺の
並木の
桜の如く、来歴あるものを
捜むれば
数多あろうが、柳に至ってはこれといって名前のあるものは殆どないようである。
隋の
煬帝長安に
顕仁宮を
営むや
河南に
済渠を開き
堤に柳を植うる事一千三百里という。
金殿玉楼その影を
緑波に流す処
春風に
柳絮は雪と飛び
黄葉は
秋風に
菲々として舞うさまを
想見れば
宛ら青貝の
屏風七宝の古陶器を見る如き色彩の眩惑を覚ゆる。けだし水の流に柳の糸のなびきゆらめくほど心地よきはない。東都
柳原の土手には神田川の流に臨んで、
筋違の
見附から
浅草見附に至るまで
々として柳が
生茂っていたが、東京に改められると間もなく堤は取崩されて今見る如き赤煉瓦の長屋に変ってしまった。
(土手を取崩したのは『武江年表』によれば明治四年四月またここに供長家を立てたのは明治十二、三年頃である。)
柳橋に柳なきは既に
柳北先生『
柳橋新誌』に「橋以
レ柳為
レ名而不
レ植
二一株之柳
一〔
橋は
柳を
以て
名と
為すに、
一株の
柳も
植えず〕」とある。しかして
両国橋よりやや川下の
溝に小橋あって
元柳橋といわれここに一樹の
老柳ありしは柳北先生の同書にも見えまた
小林清親翁が東京名所絵にも描かれてある。図を見るに
川面籠る朝霧に両国橋
薄墨にかすみ渡りたる
此方の岸に、幹太き一樹の柳少しく
斜になりて立つ。その
木蔭に
縞の
着流の男一人手拭を肩にし
後向きに水の流れを眺めている。
閑雅の趣
自ら画面に溢れ何となく
猪牙舟の
艪声と
鴎の鳴く
音さえ聞き得るような
心地がする。かの柳はいつの頃枯れ朽ちたのであろう。今は
河岸の様子も変り
小流も埋立てられてしまったので元柳橋の跡も尋ねにくい。
半蔵御門より
外桜田の堀あるいはまた
日比谷馬場先和田倉御門外へかけての
堀端には一斉に柳が
植っていて処々に
水撒の車が片寄せてある。この柳は恐らく明治になってから植えたものであろう。広重が東都名勝の錦絵の
中外桜田の景を
看ても堀端の
往来際には一本の柳とても描かれてはいない。土手を下りた
水際の柳の井戸の所に唯
一株の柳があるばかりである。余の
卑見を以てすれば、水を
隔てて対岸なる古城の石垣と老松を望まんには、此方の堤に柳あるは眺望を
遮りまた眼界を狭くするの
嫌あるが故にむしろなきに
如くはない。いわんやかかる処に西洋風の
楓の如きを植うるにおいてをや。
東京市は
頻に西洋都市の外観に
倣わんと欲して近頃この種の楓または
橡の
類を各区の路傍に植付けたが、その最も不調和なるは
赤坂紀の
国坂の往来に越す処はあるまい。赤坂離宮のいかにも御所らしく京都らしく見える
筋塀に対して
異国種の楓の並木は何たる
突飛ぞや。山の手の殊に堀近き処の往来には並木の用は更にない。並木の緑なくとも山の手一帯には何処という事なく樹木が目につく。並木は繁華の下町において最も効能がある。
銀座駒形人形町通の柳の
木かげに夏の
夜の露店
賑う有様は、
煽風器なくとも天然の凉風自在に
吹通う星の
下なる一大
勧工場にひとしいではないか。
都下の樹木にして以上の
外なお有名なるは青山練兵場内のナンジャモンジャの木、
本郷西片町阿部伯爵家の
椎、同区
弓町の
大樟、
芝三田蜂須賀侯爵邸の椎なぞがある。
煩しければ一々述べず。
[#改ページ]
蝙蝠傘を杖に
日和下駄を
曳摺りながら
市中を歩む時、私はいつも携帯に便なる
嘉永板の
江戸切図を
懐中にする。これは何も今時出版する
石版摺の東京地図を嫌って
殊更昔の木版絵図を慕うというわけではない。日和下駄曳摺りながら歩いて行く現代の街路をば、歩きながらに昔の地図に引合せて行けば、おのずから労せずして江戸の昔と東京の今とを
目のあたり比較対照する事ができるからである。
例えば
牛込弁天町辺は道路取りひろげのため近頃全く面目を
異にしたが、その
裏通なる
小流に今なおその名を残す
根来橋という名前なぞから、これを江戸切図に引合せて、私は歩きながらこの
辺に
根来組同心の屋敷のあった事を知る時なぞ、歴史上の大発見でもしたように訳もなくむやみと嬉しくなるのである。かような馬鹿馬鹿しい無益な興味の
外に、また一ツ昔の地図の便利な事は
雪月花の名所や神社仏閣の位置をば殊更目につきやすいように
色摺にしてあるのみならず時としては案内記のようにこの処より何々まで
凡幾町植木屋多しなぞと説明が加えてある事である。凡そ東京の地図にして精密正確なるは陸地測量部の地図に
優るものはなかろう。しかしこれを眺めても何らの興味も起らず、風景の
如何をも更に想像する事が出来ない。土地の高低を示す
蚰蜒の足のような符号と、何万分の一とか何とかいう
尺度一点張の正確と精密とはかえって当意即妙の自由を失い見る人をして
唯煩雑の思をなさしめるばかりである。見よ不正確なる江戸絵図は上野の如く桜咲く処には自由に桜の花を描き
柳原の如く柳ある処には柳の糸を添え得るのみならず、また
飛鳥山より遠く
日光筑波の山々を見ることを得れば
直にこれを雲の
彼方に
描示すが如く、臨機応変に全く相反せる製図の方式態度を併用して興味
津々よく平易にその要領を会得せしめている。この点よりして不正確なる江戸絵図は正確なる東京の新地図よりも
遥に直感的また印象的の方法に出でたものと見ねばならぬ。現代西洋風の制度は政治法律教育万般のこと
尽くこれに等しい。現代の裁判制度は東京地図の煩雑なるが如く
大岡越前守の
眼力は江戸絵図の如し。更に
語を
換ゆれば東京地図は幾何学の如く江戸絵図は模様のようである。
江戸絵図はかくて日和下駄蝙蝠傘と共に私の散歩には是非ともなくてはならぬ
伴侶となった。江戸絵図によって見知らぬ裏町を
歩み行けば身は
自らその時代にあるが如き心持となる。実際現在の東京
中には
何処に行くとも心より恍惚として去るに忍びざるほど美麗なもしくは荘厳な風景建築に
出遇わぬかぎり、いろいろと無理な方法を取りこれによって
纔に幾分の興味を
作出さねばならぬ。
然らざれば如何に
無聊なる
閑人の身にも現今の東京は全く散歩に
堪えざる都会ではないか。西洋文学から得た輸入思想を
便りにして、例えば銀座の
角のライオンを以て直ちに
巴里のカッフェーに
擬し帝国劇場を以てオペラになぞらえるなぞ、むやみやたらに東京中を西洋風に空想するのも或人にはあるいは有益にして興味ある方法かも知れぬ。しかし現代日本の西洋式
偽文明が森永の西洋菓子の如く女優のダンスの如く無味拙劣なるものと感じられる
輩に対しては、東京なる都会の興味は
勢尚古的退歩的たらざるを得ない。われわれは
市ヶ
谷外濠の埋立工事を見て、いかにするとも将来の新美観を予測することの出来ない限り、
愛惜の
情は自ら人をしてこの堀に
藕花の
馥郁とした昔を思わしめる。
私は
四谷見附を出てから
迂曲した外濠の
堤の、丁度その
曲角になっている
本村町の坂上に立って、次第に地勢の低くなり行くにつれ、目のとどくかぎり市ヶ谷から
牛込を経て遠く小石川の高台を望む景色をば東京中での最も美しい景色の中に数えている。市ヶ谷
八幡の桜早くも散って、
茶の
木稲荷の茶の木の
生垣伸び茂る頃、
濠端づたいの道すがら、
行手に望む牛込小石川の高台かけて、
緑滴る新樹の
梢に、ゆらゆらと
初夏の雲凉し
気に動く空を見る時、私は何のいわれもなく山の手のこの
辺を中心にして江戸の狂歌が勃興した
天明時代の風流を
思起すのである。『狂歌
才蔵集』夏の
巻にいわずや、
首夏馬場金埒
花はみなおろし
大根となりぬらし
鰹に似たる
今朝の横雲
新樹
紀躬鹿
花の山にほひ袋の春過ぎて青葉ばかりとなりにけるかな
更衣地形方丸
夏たちて
布子の綿はぬきながらたもとにのこる春のはな
帋
江戸の東京と改称せられた当時の東京絵図もまた江戸絵図と同じく、わが日和下駄の散歩に興味を添えしむるものである。
私は小石川なる父の家の
門札に、第四
大区第何小区何町何番地と
所書のしてあったのを記憶している。東京府が今日の如く十五区六郡に区劃されたのは、丁度私の生れた頃のこと。それまでは十一の大区に分たれていたのである。私は
柳北の随筆、
芳幾の
錦絵[#「錦絵」は底本では「綿絵」]、
清親の名所絵、これに東京絵図を合せ照してしばしば明治初年の
渾沌たる新時代の感覚に触るる事を楽しみとする。
市中を散歩しつつこの年代の東京絵図を開き見れば
諸処の
重立った大名屋敷は大抵海陸軍の御用地となっている。
下谷佐竹の屋敷は
調練場となり、市ヶ谷と
戸塚村なる
尾州侯の藩邸、小石川なる水戸の
館第も今日われわれの見る如く陸軍の
所轄となり名高き庭苑も追々に踏み荒されて行く。
鉄砲洲なる
白河楽翁公が
御下屋敷の
浴恩園は小石川の
後楽園と並んで江戸名苑の一に数えられたものであるが、今は海軍省の軍人ががやがや
寄集って酒を呑む
倶楽部のようなものになってしまった。江戸絵図より目を転じて東京絵図を見れば誰しも
仏蘭西革命史を読むが如き感に打たれるであろう。われわれはそれよりも時としては更に深い感慨に沈められるといってもよい。
何故なれば、仏蘭西の
市民は政変のために軽々しくヴェルサイユの如きルウブルの如き大なる国民的美術的建築物を
壊ちはしなかったからである。現代官僚の教育は常に
孔孟の教を尊び忠孝仁義の道を説くと聞いているが、お茶の水を
過る度々「
仰高」の二字を掲げた
大成殿の表門を仰げば、瓦は落ちたるままに雑草も除かず風雨の破壊するがままに任せてある。しかして世人の更にこれを怪しまざるが如きに至っては、われらは唯
唖然たるより
外はない。
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杖のかわりの
蝙蝠傘と共に私が
市中散歩の道しるべとなる昔の
江戸切絵図を開き見れば江戸中には東西南北到る処に
夥しく寺院神社の散在していた事がわかる。江戸の都会より諸侯の館邸と
武家の屋敷と神社仏閣を除いたなら残る処の面積は殆どない
位であろう。明治初年神仏の区別を
分明にして以来殊には近年に至って市区改正のため仏寺の取払いとなったものは
尠くない。それにもかかわらず寺院は今なお市中
何処という限りもなく、あるいは坂の上
崖の下、川のほとり橋の
際、到る処にその門と堂の屋根を
聳している。一箇所大きい寺のあるあたりには
塔中また
寺中と呼ばれて小さい寺が幾軒も続いている。そして町の名さえ
寺町といわれた処は
下谷浅草牛込四谷芝を始め各区に渡ってこれを見出すことが出来る。私は
目的なく散歩する
中おのずからこの寺の多い町の方へとのみ
日和下駄を
曳摺って行く。
上野寛永寺の楼閣は早く兵火に
罹り
芝増上寺の本堂も
祝融の
災に
遭う事再三。
谷中天王寺は
僅に傾ける五重塔に
往時の
名残を
留むるばかり。
本所羅漢寺の
螺堂も既に頽廃し
内なる五百の羅漢のみ幸に移されてその大半を今や郊外
目黒の一寺院に見る。かくては今日東京市中の寺院にして
輪奐の美
人目を眩惑せしむるものは僅に浅草の
観音堂音羽護国寺の
山門その
他二、三に過ぎない。歴史また美術の上よりして東京市中の寺院がさしたる興味を
牽かないのは当然の事である。私は秩序を立てて東京中の寺院を歴訪しようという訳でもなく、また
強いて人の知らない寺院をさがし出そうと
企てている訳でもない。私は
唯古びた貧しい
小家つづきの
横町なぞを通り
過る時、ふと路のほとりに半ば崩れかかった寺の門を見付けてああこんな処にこんなお寺があったのかと思いながら、そっとその
門口から
境内を
窺い、青々とした苔と古池に茂った水草の花を見るのが何となく嬉しいというに過ぎない。京都鎌倉あたりの名高い寺々を見物するのとは
異って、東京市中に散在したつまらない寺にはまた別種の興味がある。これは単独に寺の建築やその歴史から感ずる興味ではなく、いわば小説の叙景もしくは芝居の
道具立を見るような興味に似ている。私は
本所深川辺の堀割を散歩する折
夕汐の水が低い岸から往来まで溢れかかって、
荷船や
肥料船の
笘が貧家の屋根よりもかえって高く見える間からふと
彼方に
巍然として
聳ゆる寺院の屋根を望み見る時、しばしば
黙阿弥劇中の背景を想い起すのである。
かくの如き
溝泥臭い堀割と
腐った木の橋と肥料船や
芥船や
棟割長屋なぞから成立つ陰惨な光景中に寺院の屋根を望み
木魚と鐘とを聞く
情趣は、本所と深川のみならず浅草
下谷辺においてもまた変る処がない。私は今近世の社会問題からは全く隔離して仮に単独な絵画的詩興の上からのみかかる貧しい町の光景を見る時、東京の貧民窟には
竜動や
紐育において見るが如き西洋の貧民窟に比較して、同じ悲惨な
中にも
何処となくいうべからざる静寂の気が
潜んでいるように思われる。
尤も
深川小名木川から
猿江あたりの
工場町は、工場の建築と無数の
煙筒から吐く煤烟と絶間なき機械の震動とによりて、やや西洋風なる余裕なき悲惨なる光景を呈し
来ったが、今
然らざる
他の場所の貧しい町を窺うに、場末の路地や裏長屋には仏教的迷信を背景にして江戸時代から伝襲し
来ったそのままなる日蔭の生活がある。怠惰にして無責任なる愚民の疲労せる物哀れな忍従の生活がある。近来一部の政治家と新聞記者とは各自党派の勢力を張らんがために、これらの裏長屋にまで人権問題の
福音を
強いようと
急り立っている。さればやがて数年の
後には
法華の
団扇太鼓や
百万遍の声全く
歇み路地裏の水道
共用栓の
周囲からは人権問題と労働問題の
喧しい演説が聞かれるに違いない。しかし幸か不幸かいまだ全く文明化せられざる今日においてはかかる裏長屋の
路地内には時として
巫女が
梓弓の歌も聞かれる。
清元も聞かれる。
盂蘭盆の
燈籠や
果敢ない
迎火の
烟も見られる。彼らが江戸の専制時代から遺伝し来ったかくの如き
果敢ない裏淋しい
諦めの精神修養が
漸次新時代の教育その他のために消滅し、
徒に覚醒と反抗の新空気に触れるに至ったならば、私はその時こそ真に下層社会の悲惨な生活が開始せられるのだ。そして政治家と新聞記者とが十分に私欲を満す時が来るのだと信じている。いつの世にか弱いものの利を得た時代があろう。弱い者が
自らその弱い事を忘れ軽々しく浮薄なる時代の声に誘惑されようとするのは、誠に
外の見る目も痛ましい限りといわねばならぬ。
私は敢て自分一家の趣味ばかりのために、
古寺と荒れた墓場とその附近なる裏屋の貧しい光景とを喜ぶのではない。江戸専制時代の迷信と無智とを伝承した彼らが生活の外形に接して直ちにこれを我が精神修養の一助になさんと欲するのである。実際私は下谷浅草本所深川あたりの古寺の多い
溝際の町を通る度々、見るもの聞くものから幾多の教訓と感慨とを
授けられるか知れない。私は日進月歩する近世医学の
効験を信じないのでは決してない。電気治療もラヂウム鉱泉の力をもあながち信用しないのではない。しかし私はここに不衛生なる裏町に住んでいる果敢ない人たちが今なお迷信と
煎薬とにその
生命を托しこの世を夢と簡単にあきらめをつけている事を思えば、私は医学の進歩しなかった時代の人々の病苦災難に対する態度の泰然たると、その生活の簡易なるとに対して深く敬慕の念なきを得ない。およそ近世人の喜び迎えて「便利」と呼ぶものほど意味なきものはない。東京の書生がアメリカ人の如く万年筆を便利として使用し始めて以来文学に科学にどれほどの進歩が見られたであろう。電車と自動車とは東京市民をして
能く時間の節倹を実施させているのであろうか。
私はかように好んで
下町の寺とその附近の裏町を尋ねて歩くと共にまた山の手の坂道に臨んだ寺をも決して閑却しない。山の手の坂道はしばしばその
麓に聳え立つ寺院の屋根樹木と
相俟って一幅の
好画図をつくることがある。私は寺の屋根を眺めるほど愉快なことはない。怪異なる
鬼瓦を起点として奔流の如く傾斜する寺院の瓦屋根はこれを下から
打仰ぐ時も、あるいはこれを上から
見下す時も共に言うべからざる爽快の感を
催させる。近来日本人は土木の
工を起すごとに
力めて欧米各国の建築を模倣せんとしているが、私の目にはいまだ一ツとして寺観の屋根を仰ぐが如き雄大なる美感を起させたものはない。新時代の建築に対するわれわれの失望は
啻に建築の様式のみに留まらず、建築と周囲の風景樹木等の不調和なる事である。現代人の好んで用ゆる煉瓦の
赤色と松杉の如き植物の濃く強き
緑色と、光線の烈しき日本固有の
藍色の空とは何たる永遠の不調和であろう。日本の自然は
尽く強い色彩を持っている。これにペンキあるいは
煉瓦の色彩を対峙せしめるのは余りに無謀といわねばならぬ。
試に寺院の屋根と
廂と廻廊を見よ。日本寺院の建築は山に河に村に都に、いかなる処においても、必ずその周囲の風景と樹木と、また空の色とに調和して、ここに特色ある日本固有の風景美を組織している。日本の風景と寺院の建築とは
両々相俟って全く引離すことが出来ないほどに混和している。京都
宇治奈良
宮島日光等の神社仏閣とその風景との関係は、暫らくこれを日本旅行者の研究に任せて、私はここにそれほど誇るに足らざる我が東京市中のものについてこれを
観よう。
不忍の
池に
泛ぶ弁天堂とその前の
石橋とは、上野の山を
蔽う杉と松とに対して、または池一面に咲く
蓮花に対して最もよく調和したものではないか。これらの
草木とこの風景とを眼前に置きながら、
殊更に西洋風の建築または橋梁を作って、その上から蓮の花や
緋鯉や亀の子などを平気で見ている現代人の心理は到底私には解釈し得られぬ処である。浅草観音堂とその
境内に立つ
銀杏の老樹、上野の
清水堂と春の桜秋の
紅葉の対照もまた日本固有の植物と建築との調和を示す一例である。
建築は
元より人工のものなれば風土気候の
如何によらず
亜細亜の
土上に
欧羅巴の塔を
建るも容易であるが、天然の植物に至っては人意のままに
猥にこれを移し植えることは出来ない。無情の植物はこの点において最大の芸術家哲学者よりも
遥によく己れを知っている。私は日本人が日本の国土に生ずる特有の植物に対して
最少し深厚なる愛情を持っていたなら、たとえ西洋文明を模倣するにしても今日の如く故国の風景と建築とを
毀損せずに済んだであろうと思っている。電線を引くに不便なりとて遠慮
会釈もなく
路傍の木を
伐り、または昔からなる
名所の眺望や
由緒のある老樹にも構わずむやみやたらに赤煉瓦の高い家を建てる現代の状態は、実に
根柢より自国の特色と伝来の文明とを
破却した暴挙といわねばならぬ。この暴挙あるがために始めて日本は二十世紀の強国になったというならば、外観上の強国たらんがために日本はその尊き内容を全く犠牲にしてしまったものである。
私は上野博物館の門内に
入る時、
表慶館の
傍に今なお不思議にも余命を保っている老松の形と赤煉瓦の建築とを対照して、これが日本固有の貴重なる古美術を収めた宝庫かと誠に奇異なる感に打たれる。
日本橋の
大通を歩いて三井三越を始めこの
辺に競うて立つアメリカ風の高い商店を望むごとに、私はもし東京市の実業家が真に日本橋といい
駿河町と呼ぶ名称の何たるかを知りこれに対する伝説の興味を感じていたなら、繁華な
市中からも
日本晴の青空遠く富士山を望み得たという昔の眺望の幾分を保存させたであろうと
愚にもつかぬ事を考え出す。私は
外濠の土手に残った松の木をば雪の
朝月の
夕、折々の季節につれて、現今の市中第一の風景として
悦ぶにつけて、近頃
四谷見附内に新築された大きな赤い
耶蘇の学校の建築をば心の底から憎まねばならぬ。日常かかる不調和な市街の光景に接した目を転じて、
一度市内に残された寺院神社を
訪えばいかにつまらぬ堂宇もまたいかに狭い
境内も私の心には無限の
慰藉を与えずにはいない。
私は市中の寺院や神社をたずね歩いて最も
幽邃の感を与えられるのは、境内に
進入って近く本堂の建築を打仰ぐよりも、路傍に立つ
惣門を
潜り、
彼方なる境内の樹木と本堂鐘楼
等の屋根を背景にして、その前に
聳える
中門または山門をば、長い敷石道の
此方から遠く静に眺め渡す時である。浅草の観音堂について論ずれば
雷門は既に
焼失せてしまったが今なお残る
二王門をば
仲店の敷石道から望み見るが如き光景である。あるいはまた
麻布広尾橋の
袂より一本道の
端れに
祥雲寺の門を見る如き、あるいは
芝大門の
辺より道の両側に
塔中の寺々
甍[#「甍」は底本では「薨」]を連ぬるその端れに当って遥に
朱塗の楼門を望むが如き光景である。私はかくの如き日本建築の遠景についてこれをば西洋で見た
巴里の
凱旋門その
他の眺望に比較すると、気候と光線の関係故か、
唯何とはなしに日本の遠景は平たく見えるような心持がする。この点において
歌川豊春らの描いた
浮絵の遠景木板画にはどうかすると
真によくこの日本的感情を示したものがある。
私は適度の距離から寺の門を見る眺望と共にまた近寄って扉の開かれた寺の門をそのままの
額縁にして境内を
窺い、あるいはまた進み入って境内よりその門外を
顧る光景に一段の画趣を覚える。既に『
大窪だより』その他の拙著において私は寺の
門口からその内外を見る景色の最も面白きは浅草の二王門及び
随身門である事を語った。
然れば今更ここにその興味を繰返して述べる必要はない。
寺の門はかくの如く本堂の建築とは必ず適度の距離に置かれ、境内に入るものをしてその眺望よりして
自ら
敬虔の心を起さしめるように造られてある。寺の門は
宛ら西洋管絃楽の
序曲の如きものである。最初に
惣門ありその次に
中門あり然る後幽邃なる境内あってここに始めて本堂が建てられるのである。神社について見るもまず
鳥居あり次に楼門あり、これを過ぎて始めて本殿に到る。皆相応の距離が設けられてある。この距離あって始めて日本の寺院と神社の威厳が保たれるのである。されば寺院神社の建築を美術として研究せんと欲するものは、単独にその建築を
観るに先立って、広く境内の敷地全体の設計並びにその地勢から観察して行かねばならぬ。これ既にゴンスやミジヨンの如き日本美術の研究者また旅行者の論ずるが如く、日本寺院の西洋と
異なる
所以である。西洋の寺院は大抵単独に
路傍に
屹立しているのみであるが、日本の寺院に至っては如何なる小さな寺といえども
皆門を控えている。
芝増上寺の
楼門をしてかくの如く立派に見せようがためにはその門前なる広い松原が是非とも必要になって来るであろう。
麹町日枝神社の
山門の甚だ
幽邃なる理由を知らんには、その周囲なる杉の木立のみならず、前に控えた高い石段の
有無をも考えねばなるまい。日本の神社と寺院とはその建築と地勢と樹木との
寔に複雑なる綜合美術である。されば境内の老樹にしてもしその
一株を
枯死せしむれば、全体より見て容易に修繕しがたき破損を
来さしめた訳である。私はこの論法により更に一歩を進めて京都奈良の如き市街は、その貴重なる古社寺の美術的効果に対して広く市街全体をもその境内に同じきものとして取扱わねばならぬと思っている。即ちかかる市街の
停車場旅館
官衙学校
等は、その建築の体裁も出来得る限りその市街の生命たる古社寺の風致と歴史とを
傷けぬよう、常に慎重なる注意を払うべき必要があった。しかるに近年見る所の京都の道路家屋
並に橋梁の改築工事の如きは全く
吾人の意表に
出でたものである。日本いかに貧国たりとも京都奈良の二旧都をそのままに保存せしめたりとて、もしそれだけの埋合せとして新領土の開拓に努むる処あらば、一国全体の商工業より見て、さしたる損害を来す訳でもあるまい。眼前の利にのみ
齷齪して世界に二つとない自国の宝の
値踏をする
暇さえないとは、あまりに
小国人の面目を活躍させ過ぎた話である。思わず畠違いへ例の口癖とはいいながら愚痴が廻り過ぎた。世の中はどうでも勝手に
棕梠箒。私は自分勝手に唯一人
日和下駄を
曳きずりながら黙って裏町を歩いていればよかったのだ。議論はよそう。皆様が御退屈だから。
[#改ページ]
仏蘭西人エミル・マンユの著書『都市美論』の興味ある事は既にわが随筆『
大窪だより』の
中に述べて置いた。エミル・マンユは都市に対する水の美を論ずる一章において、広く世界各国の都市とその河流及び江湾の審美的関係より、更に進んで運河
沼沢噴水
橋梁等の
細節にわたってこれを説き、なおその足らざる処を補わんがために水流に映ずる市街燈火の美を論じている。
今
試に東京の市街と水との審美的関係を考うるに、水は江戸時代より継続して
今日においても東京の美観を保つ最も貴重なる要素となっている。陸路運輸の
便を欠いていた江戸時代にあっては、天然の河流たる
隅田川とこれに通ずる幾筋の運河とは、いうまでもなく江戸商業の生命であったが、それと共に都会の住民に対しては春秋四季の娯楽を与え、時に不朽の価値ある
詩歌絵画をつくらしめた。しかるに東京の今日市内の水流は単に運輸のためのみとなり、全く伝来の審美的価値を失うに至った。隅田川はいうに及ばず神田のお茶の水
本所の
竪川を始め
市中の水流は、
最早や現代のわれわれには昔の人が
船宿の
桟橋から
猪牙船に乗って
山谷に通い
柳島に遊び
深川に
戯れたような風流を許さず、また釣や網の娯楽をも与えなくなった。今日の隅田川は
巴里におけるセーヌ河の如き美麗なる感情を催さしめず、また
紐育のホドソン、
倫敦のテエムスに対するが如く偉大なる
富国の壮観をも想像させない。東京市の河流はその江湾なる
品川の
入海と共に、さして美しくもなく大きくもなくまたさほどに繁華でもなく、誠に
何方つかずの極めてつまらない景色をなすに過ぎない。しかしそれにもかかわらず東京市中の散歩において、今日なお比較的興味あるものはやはり水流れ船動き橋かかる処の景色である。
東京の水を論ずるに当ってまずこれを区別して見るに、第一は品川の海湾、第二は隅田川
中川六郷川の如き天然の河流、第三は小石川の江戸川、神田の神田川、王子の
音無川の如き
細流、第四は本所深川日本橋
京橋下谷浅草等市中繁華の町に通ずる純然たる運河、第五は芝の
桜川、
根津の
藍染川、麻布の
古川、下谷の
忍川の如きその名のみ美しき
溝渠、もしくは下水、第六は江戸城を取巻く
幾重の
濠、第七は
不忍池、
角筈十二社の如き池である。井戸は江戸時代にあっては
三宅坂側の
桜ヶ
井、
清水谷の
柳の
井、
湯島の
天神の
御福の
井の如き、古来江戸名所の
中に数えられたものが多かったが、東京になってから全く世人に忘れられ所在の地さえ大抵は不明となった。
東京市はかくの如く海と河と堀と
溝と、
仔細に観察し
来ればそれら幾種類の水――即ち流れ動く水と
淀んで動かぬ死したる水とを有する
頗変化に富んだ都会である。まず品川の
入海を眺めんにここは目下なお築港の大工事中であれば、将来如何なる光景を呈し
来るや今より予想する事はできない。今日までわれわれが年久しく見馴れて来た品川の海は
僅に
房州通の蒸汽船と
円ッこい
達磨船を
曳動す曳船の往来する
外、東京なる大都会の繁栄とは直接にさしたる関係もない
泥海である。
潮の引く時
泥土は目のとどく限り引続いて、岸近くには古下駄に
炭俵、さては皿小鉢や椀のかけらに
船虫のうようよと
這寄るばかり。この汚い
溝のような沼地を掘返しながら折々は
沙蚕取りが
手桶を下げて沙蚕を取っている事がある。遠くの沖には
彼方此方に
澪や
粗朶が
突立っているが、これさえ岸より眺むれば
塵芥かと思われ、その
間に
泛ぶ
牡蠣舟や
苔取の
小舟も今は唯
強いて江戸の昔を
追回しようとする人の眼にのみ
聊かの風趣を覚えさせるばかりである。かく現代の首府に対しては実用にも装飾にも何にもならぬこの無用なる品川湾の眺望は、
彼の
八ツ
山の
沖に並んで泛ぶこれも無用なる
御台場と
相俟って、いかにも過去った時代の遺物らしく放棄された悲しい趣を示している。天気のよい時
白帆や
浮雲と共に望み得られる
安房上総の
山影とても、
最早や今日の都会人には
彼の
花川戸助六が
台詞にも読込まれているような爽快な心持を起させはしない。品川湾の眺望に対する興味は時勢と共に全く
湮滅してしまったにかかわらず、その代りとして興るべき新しい風景に対する興味は今日においてはいまだ成立たずにいるのである。
芝浦の月見も
高輪の
二十六夜待も既になき世の
語草である。
南品の風流を伝えた
楼台も今は
唯不潔なる
娼家に過ぎぬ。明治二十七、八年頃
江見水蔭子がこの地の娼婦を材料として描いた小説『
泥水清水』の一篇は当時
硯友社の文壇に傑作として批評されたものであったが、今よりして回想すれば、これすら既に遠い世のさまを描いた物語のような気がしてならぬ。
かく品川の景色の見捨てられてしまったのに反して、荷船の帆柱と工場の煙筒の
叢り立った
大川口の光景は、折々西洋の漫画に見るような一種の趣味に照して、この
後とも案外長く
或一派の詩人を
悦ばす事が出来るかも知れぬ。
木下杢太郎北原白秋諸家の或時期の詩篇には築地の旧居留地から
月島永代橋あたりの生活及びその風景によって感興を発したらしく思われるものが
尠くなかった。全く
石川島の工場を
後にして幾艘となく帆柱を連ねて
碇泊するさまざまな日本風の荷船や西洋形の
帆前船を見ればおのずと特種の詩情が
催される。私は永代橋を渡る時活動するこの
河口の光景に接するやドオデエがセエン河を往復する荷船の生活を描いた
可憐なる
彼の『ラ・ニベルネエズ』の一小篇を思出すのである。今日の永代橋には最早や
辰巳の昔を回想せしむべき何物もない。さるが故に、私は永代橋の鉄橋をばかえってかの
吾妻橋や
両国橋の如くに
醜くいとは思わない。新しい鉄の橋はよく新しい
河口の風景に一致している。
私が十五、六歳の頃であった。永代橋の
河下には旧幕府の軍艦が一艘商船学校の練習船として
立腐れのままに繋がれていた時分、同級の中学生といつものように
浅草橋の船宿から
小舟を借りてこの
辺を
漕ぎ廻り、
河中に碇泊している帆前船を見物して、こわい顔した船長から
椰子の実を沢山貰って帰って来た事がある。その折私たちは船長がこの小さな帆前船を
操って遠く南洋まで航海するのだという話を聞き、全くロビンソンの冒険談を読むような感に打たれ、将来自分たちもどうにかしてあのような勇猛なる航海者になりたいと思った事があった。
やはりその時分の話である。
築地の
河岸の船宿から
四梃艪のボオトを借りて遠く
千住の方まで漕ぎ
上った帰り
引汐につれて
佃島の手前まで
下って来た時、突然
向から帆を上げて進んで来る大きな
高瀬船に衝突し、幸いに一人も
怪我はしなかったけれど、借りたボオトの
小舷をば散々に
破してしまった上に
櫂を一本折ってしまった。一同は皆親がかりのものばかり、船遊びをする事も
家へは秘密にしていた位なので、私たちは船宿へ帰って万一破損の弁償金を請求されたらどうしようかとその善後策を講ずるために、佃島の砂の上にボオトを引上げ浸水をかい出しながら相談をした。その結果夜暗くなってから船宿の桟橋へ船を着け、宿の亭主が
舷の大破損に気のつかない
中一同
一目散に逃げ出すがよかろうという事になった。一同はお
浜御殿の石垣下まで
漕入ってから空腹を我慢しつつ水の上の全く暗くなるのを待ち船宿の桟橋へ
上るが否や、店に預けて置いた手荷物を奪うように
引掴み、めいめい
後をも見ず、ひた走りに銀座の大通りまで走って、
漸と息をついた事があった。その頃には東京府府立の中学校が築地にあったのでその
辺の船宿では釣船の外にボオトをも貸したのである。今日築地の河岸を散歩しても私ははっきりとその船宿の
何処にあったかを確めることが出来ない。わずか二十年
前なる我が少年時代の記憶の跡すら既にかくの如くである。東京市街の急激なる変化はむしろ驚くの
外はない。
大川筋一帯の風景について、その最も興味ある部分は今述べたように
永代橋河口の眺望を第一とする。
吾妻橋両国橋等の眺望は今日の処あまりに不整頓にして永代橋におけるが如く感興を一所に集注する事が出来ない。これを例するに
浅野セメント会社の工場と
新大橋の
向に残る古い
火見櫓の如き、あるいは
浅草蔵前の電燈会社と
駒形堂の如き、
国技館と
回向院の如き、あるいは
橋場の
瓦斯タンクと
真崎稲荷の老樹の如き、それら工業的近世の光景と江戸名所の悲しき遺蹟とは、いずれも個々別々に私の感想を錯乱させるばかりである。されば私はかくの如く過去と現在、即ち廃頽と進歩との現象のあまりに甚しく混雑している今日の大川筋よりも、
深川小名木川より
猿江裏の如くあたりは全く工場地に変形し江戸名所の
名残も
容易くは尋ねられぬほどになった処を選ぶ。大川筋は
千住より両国に至るまで今日においてはまだまだ工業の侵略が
緩漫に過ぎている。
本所小梅から
押上辺に至る
辺も同じ事、新しい
工場町としてこれを眺めようとする時、今となってはかえって
柳島の
妙見堂と料理屋の
橋本とが目ざわりである。
運河の眺望は深川の小名木川辺に限らず、いずこにおいても隅田川の両岸に対するよりも一体にまとまった感興を起させる。一例を挙ぐれば
中洲と
箱崎町の
出端との間に深く
突入っている堀割はこれを箱崎町の
永久橋または
菖蒲河岸の
女橋から眺めやるに水はあたかも入江の如く無数の荷船は部落の観をなし薄暮風収まる時
競って
炊烟を
棚曳かすさま
正に
江南沢国の趣をなす。
凡て
溝渠運河の眺望の最も変化に富みかつ活気を帯びる処は、この中洲の水のように
彼方此方から幾筋の細い流れがやや広い堀割を中心にして一個所に落合って来る処、もしくは深川の
扇橋の如く、長い堀割が互に交叉して十字形をなす処である。本所
柳原の
新辻橋、
京橋八丁堀の
白魚橋、
霊岸島の
霊岸橋あたりの眺望は堀割の水のあるいは分れあるいは
合する処、橋は橋に接し、流れは流れと
相激し、ややともすれば船は船に突当ろうとしている。私はかかる風景の
中日本橋を背にして江戸橋の上より
菱形をなした広い水の
片側には
荒布橋つづいて
思案橋、片側には
鎧橋を見る眺望をば、その沿岸の商家倉庫及び街上
橋頭の繁華
雑沓と合せて、東京市内の堀割の
中にて最も偉大なる壮観を呈する処となす。殊に
歳暮の夜景の如き
橋上を往来する車の
灯は沿岸の燈火と相乱れて
徹宵水の上に
揺き動く有様銀座街頭の燈火より
遥に美麗である。
堀割の岸には
処々に
物揚場がある。
市中の生活に興味を持つものには物揚場の光景もまたしばし杖を
留むるに足りる。夏の炎天
神田の
鎌倉河岸、
牛込揚場の河岸などを通れば、荷車の馬は
馬方と共につかれて、
河添の大きな柳の木の
下に居眠りをしている。
砂利や瓦や
川土を積み上げた物蔭にはきまって
牛飯や
すいとんの露店が出ている。時には氷屋も荷を
卸している。荷車の後押しをする
車力の女房は男と同じような身仕度をして立ち働き、その
赤児をば
捨児のように砂の上に投出していると、その
辺には
痩せた鶏が落ちこぼれた餌をも

りつくして、馬の尻から
馬糞の落ちるのを待っている。私はこれらの光景に接すると、
必北斎あるいはミレエを連想して深刻なる絵画的写実の感興を
誘い出され、
自ら
絵事の心得なき事を悲しむのである。
以上
河流と運河の外なお東京の水の美に関しては処々の下水が落合って次第に川の如き流をなす
溝川の光景を尋ねて見なければならない。東京の溝川には折々
可笑しいほど事実と相違した美しい名がつけられてある。例えば
芝愛宕下なる
青松寺の前を流れる下水を昔から
桜川と呼びまた今日では全く
埋尽された神田
鍛冶町の下水を
逢初川、
橋場総泉寺の裏手から
真崎へ出る溝川を
思川、また
小石川金剛寺坂下の下水を
人参川と呼ぶ
類である。江戸時代にあってはこれらの溝川も寺院の門前や大名屋敷の
塀外なぞ、幾分か人の目につく場所を流れていたような事から、土地の人にはその名の示すが如き特殊の感情を与えたものかも知れない。しかし今日の東京になっては下水を呼んで川となすことすら既に滑稽なほど
大袈裟である。かくの如くその名とその実との
相伴わざる事は独り下水の流れのみには留まらない。江戸時代とまたその以前からの伝説を継承した東京市中各処の地名には少しく低い土地には
千仭の幽谷を見るように
地獄谷(麹町にあり)千日谷(四谷鮫ヶ橋にあり)我善坊ヶ
谷(麻布にあり)なぞいう名がつけられ、また少しく
小高い処は直ちに
峨々たる山岳の如く、
愛宕山道灌山待乳山なぞと呼ばれている。島なき場所も
柳島三河島向島なぞと呼ばれ、森なき処にも
烏森、
鷺の
森の如き名称が残されてある。始めて東京へ出て来た地方の人は、電車の
乗換場を間違えたり市中の道に迷ったりした
腹立まぎれ、かかる地名の虚偽を以てこれまた都会の憎むべき悪風として観察するかも知れない。
溝川は元より下水に過ぎない。『
紫の
一本』にも芝の
宇田川を説く
条に、「
溜池の
屋舗の下水落ちて
愛宕の
下より
増上寺の裏門を流れて
爰に
落る。愛宕の下、屋敷々々の下水も落ち込む故
宇田川橋にては少しの川のやうに見ゆれども
水上はかくの如し。」とある通り、昔から江戸の市中には下水の落合って川をなすものが少くなかった。下水の落合って川となった流れは道に沿い坂の
麓を
廻り流れ流れて行く
中に段々広くなって、天然の河流または海に落込むあたりになるとどうやらこうやら
伝馬船を通わせる位になる。
麻布の
古川は
芝山内の裏手近くその名も
赤羽川と名付けられるようになると、山内の樹木と
五重塔の
聳ゆる麓を巡って
舟楫の便を与うるのみか、
紅葉の頃は
四条派の絵にあるような景色を見せる。
王子の
音無川も
三河島の野を
潤したその末は
山谷堀となって同じく船を
泛べる。
下水と溝川はその上に
架った汚い
木橋や、崩れた寺の塀、枯れかかった
生垣、または貧しい人家の
様と相対して、しばしば憂鬱なる裏町の光景を組織する。即ち
小石川柳町の
小流の如き、
本郷なる
本妙寺坂下の溝川の如き、
団子坂下から
根津に通ずる
藍染川の如き、かかる溝川流るる裏町は
大雨の降る折といえば必ず
雨潦の氾濫に災害を
被る処である。溝川が貧民窟に調和する光景の
中、その最も悲惨なる一例を挙げれば麻布の古川橋から
三之橋に至る間の川筋であろう。ぶりき板の破片や腐った屋根板で
葺いた
あばら家は数町に渡って、左右から
濁水を
挟んで互にその傾いた
廂を向い合せている。
春秋時候の変り目に降りつづく大雨の
度ごとに、
芝と麻布の高台から滝のように落ちて来る濁水は忽ち両岸に氾濫して、あばら家の腐った土台からやがては破れた
畳までを
浸してしまう。雨が
霽れると水に濡れた家具や
夜具蒲団を初め、何とも知れぬ
汚らしい
襤褸の数々は旗か
幟のように両岸の屋根や窓の上に
曝し出される。そして真黒な裸体の男や、腰巻一つの汚い女房や、または子供を背負った
児娘までが
笊や籠や
桶を持って濁流の
中に入りつ乱れつ富裕な屋敷の池から流れて来る
雑魚を捕えようと
急っている有様、通りがかりの橋の上から眺めやると、雨あがりの晴れた空と日光の
下に、或時はかえって一種の壮観を呈している事がある。かかる場合に看取せられる壮観は、丁度軍隊の整列もしくは舞台における
並大名を見る時と同様で一つ一つに離して見れば極めて平凡なものも集合して一団をなす時には、
此処に思いがけない美麗と威厳とが形造られる。
古川橋から眺める大雨の
後の貧家の光景の如きもやはりこの一例であろう。
江戸城の
濠はけだし水の美の冠たるもの。しかしこの事は叙述の筆を以てするよりもむしろ絵画の
技を以てするに
如くはない。それ故私は唯
代官町の
蓮池御門、
三宅坂下の
桜田御門、
九段坂下の
牛ヶ
淵等古来人の称美する場所の名を挙げるに
留めて置く。
池には古来より
不忍池の勝景ある事これも今更説く必要がない。私は毎年の秋
竹の
台に開かれる絵画展覧会を見ての帰り道、いつも
市気満々たる出品の絵画よりも、
向ヶ
岡の
夕陽敗荷の池に反映する天然の絵画に対して杖を
留むるを常とした。そして現代美術の品評よりも独り離れて自然の画趣に恍惚とする方が
遥に平和幸福である事を知るのである。
不忍池は今日市中に残された池の
中の最後のものである。江戸の名所に数えられた
鏡ヶ
池や
姥ヶ
池は今更
尋る
由もない。
浅草寺境内の
弁天山の池も既に
町家となり、また赤坂の
溜池も
跡方なく
埋めつくされた。それによって私は将来不忍池もまた同様の運命に陥りはせぬかと
危むのである。老樹鬱蒼として
生茂る
山王の
勝地は、その
翠緑を反映せしむべき麓の溜池あって初めて完全なる山水の妙趣を示すのである。もし上野の山より不忍池の水を奪ってしまったなら、それはあたかも両腕をもぎ取られた人形に等しいものとなるであろう。都会は繁華となるに従って益々自然の地勢から生ずる風景の美を大切に保護せねばならぬ。都会における自然の風景はその都市に対して金力を以て
造る事の出来ぬ威厳と品格とを
帯させるものである。
巴里にも
倫敦にもあんな大きな、そしてあのように
香しい
蓮の花の咲く池は見られまい。
都会の水に関して最後に
渡船の事を
一言したい。渡船は東京の都市が
漸次整理されて行くにつれて、即ち橋梁の便宜を得るに従ってやがては廃絶すべきものであろう。江戸時代に
溯ってこれを見れば元禄九年に
永代橋が
懸って、
大渡しと呼ばれた
大川口の
渡場は『
江戸鹿子』や『
江戸爵』などの古書にその跡を残すばかりとなった。それと同じように
御厩河岸の
渡し
鎧の
渡を始めとして市中諸所の渡場は、明治の初年架橋工事の
竣成と共にいずれも跡を絶ち今はただ浮世絵によって当時の光景を
窺うばかりである。
しかし渡場はいまだ
悉く東京市中からその跡を絶った訳ではない。両国橋を間にしてその川上に
富士見の
渡、その川下に
安宅の渡が残っている。
月島の埋立工事が出来上ると共に、
築地の海岸からは新に
曳船の渡しが出来た。
向島には人の知る
竹屋の渡しがあり、
橋場には橋場の渡しがある。
本所の
竪川、
深川の
小名木川辺の川筋には
荷足船で人を渡す小さな渡場が幾個所もある。
鉄道の便宜は近世に生れたわれわれの感情から全く
羈旅とよぶ純朴なる悲哀の詩情を
奪去った如く、橋梁はまた遠からず近世の都市より渡船なる古めかしい
緩かな情趣を取除いてしまうであろう。今日世界の都会中渡船なる古雅の趣を保存している処は日本の東京のみではあるまいか。米国の都市には汽車を渡す大仕掛けの渡船があるけれど、竹屋の渡しの如く、
河水に
洗出された
木目の美しい
木造りの船、
樫の
艪、竹の
棹を以てする絵の如き渡船はない。私は向島の
三囲や
白髯に新しく橋梁の出来る事を決して悲しむ者ではない。私は唯両国橋の
有無にかかわらずその
上下に今なお渡場が残されてある如く隅田川その他の川筋にいつまでも昔のままの渡船のあらん事を
希うのである。
橋を渡る時
欄干の左右からひろびろした水の流れを見る事を喜ぶものは、更に岸を
下って水上に浮び
鴎と共にゆるやかな波に
揺られつつ
向の岸に達する渡船の愉快を容易に了解する事が出来るであろう。都会の大道には橋梁の便あって、自由に車を通ずるにかかわらず、
殊更岸に立って渡船を待つ心は、丁度表通に立派なアスファルト
敷の道路あるにかかわらず、好んで横町や路地の
間道を抜けて見る面白さとやや似たものであろう。渡船は自動車や電車に乗って
馳せ廻る東京市民の
公生涯とは多くの関係を持たない。しかし渡船は時間の消費をいとわず重い
風呂敷包みなぞ
背負ってテクテクと
市中を歩いている者どもには
大なる休息を与え、またわれらの如き閑散なる遊歩者に向っては近代の生活に
味われない官覚の慰安を覚えさせる。
木で造った渡船と年老いた船頭とは現在並びに将来の東京に対して最も尊い
骨董の一つである。古樹と寺院と城壁と同じくあくまで保存せしむべき都市の
宝物である。都市は個人の住宅と同じくその時代の生活に適当せしむべく常に改築の要あるは勿論のことである。しかしわれわれは人の家を
訪うた時、座敷の
床の
間にその家伝来の書画を見れば何となく
奥床しく
自ら主人に対して敬意を深くする。都会もその活動的ならざる
他の一面において極力伝来の古蹟を保存し以てその品位を
保たしめねばならぬ。この点よりして渡船の如きは
独りわれら一個の偏狭なる退歩趣味からのみこれを論ずべきものではあるまい。
[#改ページ]
鉄橋と
渡船との比較からここに
思起されるのは立派な
表通の街路に対してその間々に隠れている
路地の興味である。擬造西洋館の商店並び立つ表通は丁度電車の往来する鉄橋の趣に等しい。それに反して日陰の薄暗い路地はあたかも渡船の
物哀にして情味の深きに似ている。
式亭三馬が
戯作『
浮世床』の挿絵に
歌川国直が
路地口のさまを描いた図がある。歌川
豊国はその時代
(享和二年)のあらゆる階級の女の風俗を描いた絵本『
時勢粧』の
中に路地の有様を写している。路地はそれらの浮世絵に見る如く今も昔と変りなく
細民の棲息する処、日の当った表通からは見る事の出来ない
種々なる生活が
潜みかくれている。
佗住居の
果敢さもある。隠棲の平和もある。失敗と挫折と窮迫との最終の報酬なる怠惰と無責任との
楽境もある。すいた同士の
新世帯もあれば命掛けなる密通の冒険もある。されば路地は細く短しといえども趣味と変化に富むことあたかも長編の小説の如しといわれるであろう。
今日東京の表通は銀座より
日本橋通は勿論上野の
広小路浅草の
駒形通を始めとして
到処西洋まがいの建築物とペンキ塗の看板
痩せ
衰えた
並樹さては処嫌わず無遠慮に突立っている電信柱とまた目まぐるしい電線の網目のために、いうまでもなく静寂の美を保っていた江戸市街の整頓を失い、しかもなおいまだ音律的なる活動の美を有する西洋市街の列に加わる事も出来ない。さればこの中途半端の市街に対しては、
風雨雪月夕陽等の助けを
借るにあらずんば到底芸術的感興を催す事ができない。表通を歩いて絶えず感ずるこの不快と嫌悪の情とは
一層私をしてその陰にかくれた路地の光景に興味を持たせる最大の理由になるのである。
路地はどうかすると横町同様
人力車の通れるほど広いものもあれば、
土蔵または人家の
狭間になって人一人やっと通れるかどうかと
危まれるものもある。勿論その住民の階級職業によって路地は種々異った
体裁をなしている。
日本橋際の
木原店は
軒並飲食店の
行燈が出ている処から今だに
食傷新道の名がついている。
吾妻橋の手前
東橋亭とよぶ
寄席の
角から
花川戸の路地に
這入れば、ここは芸人や
芝居者また遊芸の師匠なぞの多い処から何となく
猿若町の
新道の昔もかくやと推量せられる。いつも夜店の
賑う
八丁堀北島町の路地には片側に講釈の
定席、片側には
娘義太夫の定席が向合っているので、
堂摺連の
手拍子は毎夜
張扇の響に
打交る。
両国の
広小路に沿うて石を敷いた小路には小間物屋
袋物屋煎餅屋など
種々なる
小売店の賑う有様、
正しく屋根のない
勧工場の廊下と見られる。
横山町辺のとある路地の
中にはやはり立派に石を敷詰めた両側ともに
長門筒袋物また筆なぞ製している
問屋ばかりが続いているので、路地一帯が倉庫のように思われる処があった。
芸者家の許可された町の路地はいうまでもなく
艶しい限りであるが、私はこの種類の
中では
新橋柳橋の路地よりも
新富座裏の一角をばそのあたりの堀割の夜景とまた芝居小屋の背面を見る様子とから最も趣のあるように思っている。路地の最も長くまた最も錯雑して、あたかも迷宮の観あるは
葭町の芸者家町であろう。路地の内に
蔵造の質屋もあれば
有徳な人の
隠宅らしい板塀も見える。わが
拙作小説『すみだ川』の篇中にはかかる路地の或場所をばその頃見たままに写生して置いた。
路地の光景が常に私をしてかくの如く興味を催さしむるは西洋銅版画に見るが如きあるいはわが浮世絵に味うが如き平民的画趣ともいうべき一種の芸術的感興に
基くものである。路地を通り抜ける時
試に立止って向うを見れば、
此方は差迫る両側の建物に日を
遮られて
湿っぽく薄暗くなっている間から、
彼方遥に表通の一部分だけが路地の幅だけにくっきり限られて、いかにも明るそうに
賑かそうに見えるであろう。殊に表通りの向側に日の光が照渡っている時などは風になびく柳の枝や広告の旗の間に、
往来の人の形が影の如く現れては消えて行く有様、丁度燈火に照された演劇の舞台を見るような思いがする。夜になって此方は真暗な路地裏から表通の燈火を見るが如きはいわずともまた
別様の興趣がある。川添いの町の路地は折々
忍返しをつけたその出口から遥に
河岸通のみならず、併せて橋の欄干や過行く荷船の帆の一部分を望み得させる事がある。かくの如き光景はけだし逸品中の逸品である。
路地はいかに精密なる東京市の地図にも決して
明には描き出されていない。どこから
這入って何処へ抜けられるか、あるいは何処へも抜けられず
行止りになっているものか否か、それはけだしその路地に住んで始めて判然するので、一度や二度通り抜けた位では容易に判明すべきものではない。路地には往々江戸時代から伝承し
来った古い名称がある。即ち
中橋の
狩野新道というが如き歴史的
由緒あるものも
尠くない。しかしそれとてもその土地に
住古したものの間にのみ通用されべき名前であって、東京市の市政が認めて以て
公の町名となしたものは恐らくは一つもあるまい。路地は即ちあくまで平民の間にのみ存在し了解されているのである。犬や猫が垣の破れや塀の隙間を見出して自然とその種属ばかりに限られた通路を作ると同じように、表通りに
門戸を張ることの出来ぬ平民は大道と大道との間に
自ら彼らの棲息に適当した路地を作ったのだ。路地は公然市政によって経営されたものではない。都市の
面目体裁品格とは全然関係なき別天地である。されば貴人の馬車富豪の自動車の
地響に
午睡の夢を驚かさるる恐れなく、夏の
夕は
格子戸の外に裸体で凉む自由があり、冬の
夜は
置炬燵に隣家の三味線を聞く面白さがある。新聞買わずとも世間の噂は
金棒引の女房によって仔細に伝えられ、
喘息持の隠居が
咳嗽は頼まざるに夜通し泥棒の用心となる。かくの如く路地は一種いいがたき生活の悲哀の
中に自からまた深刻なる滑稽の情趣を伴わせた小説的世界である。しかして
凡てこの世界のあくまで
下世話なる感情と生活とはまたこの世界を構成する
格子戸、
溝板、
物干台、
木戸口、
忍返なぞいう
道具立と一致している。この点よりして路地はまた
渾然たる芸術的調和の世界といわねばならぬ。
[#改ページ]
市中の散歩に際して丁度前章に述べた路地と同じような興味を感ぜしむるものが
最う一つある。それは
閑地である。市中繁華なる街路の間に夕顔
昼顔露草
車前草なぞいう雑草の花を見る閑地である。
閑地は元よりその時と場所とを限らず偶然に出来るもの故われわれは市内の如何なる処に如何なる閑地があるかは
地面師ならぬ限り
予めこれを知る事が出来ない。
唯その場に通りかかって始めてこれを見るのみである。しかし閑地は
強いて捜し歩かずとも市中
到るところにある。今まで久しく草の生えていた閑地が地ならしされてやがて
普請が始まるかと思えば、いつの間にかその隣の
家が取払われて、
或場合には火事で焼けたりして
爰に別の閑地ができる。そして
一雨降ればすぐに雑草が芽を吹きやがて花を咲かせ、忽ちにして
蝶々蜻蛉やきりぎりすの飛んだり
躍ねたりする野原になってしまうと、
外囲はあってもないと同然、通り抜ける人たちの下駄の歯に
小径は縦横に踏開かれ、昼は子供の
遊場、夜は男女が密会の場所となる。夏の夜に処の若い者が
素人相撲を催すのも閑地があるためである。
市中繁華な町の倉と倉との間、または荷船の
込合う堀割近くにある閑地には、今も昔と変りなく折々
紺屋の
干場または
元結の
糸繰場なぞになっている処がある。それらの光景は私の眼には
直に
北斎の画題を
思起させる。いつぞや
芝白金の
瑞聖寺という名高い
黄檗宗の禅寺を見に行った時その門前の閑地に一人の男が
頻と元結の車を繰っていた。この景色は荒れた寺の門とその
辺の貧しい人家などに対照して、私は俳人
其角が
茅場町薬師堂のほとりなる草庵の裏手、
蓼の
花穂に出でたる閑地に、
文七というものが元結こぐ車の響をば昼も
蜩に聞きまじえてまた殊更の心地し、
文七にふまるな庭のかたつむり
元結のぬる間はかなし虫の声
大絃はさらすもとひに落る雁
なぞと
吟じたる風流の故事を
思浮べたのであった。この事は
晋子が俳文集『
類柑子』の
中北の窓と題された一章に書かれてある。『類柑子』は私の愛読する書物の中の一冊である。
私がまだ中学校へ通っている頃までは東京中には広い閑地が諸処方々にあった。
神田三崎町の
調練場跡は
人殺や
首縊の噂で夕暮からは誰一人通るものもない恐しい処であった。
小石川富坂の片側は
砲兵工廠の
火避地で、樹木の茂った間の
凹地には
溝が小川のように美しく流れていた。
下谷の
佐竹ヶ
原、
芝の
薩摩原の如き旧諸侯の屋敷跡はすっかり町になってしまった後でも今だに原の名が残されている。
銀座通に鉄道馬車が通って、
数寄屋橋から
幸橋を経て
虎の
門に至る間の
外濠には、まだ昔の石垣がそのままに保存されていた時分、今日の
日比谷公園は見通しきれぬほど広々した閑地で、冬枯の雑草に
夕陽のさす景色は
目のあたり
武蔵野を見るようであった。その時分に比すれば
大名小路の跡なる
丸の
内の
三菱ヶ
原も今は大方
赤煉瓦の会社になってしまったが、それでもまだ処々に閑地を残している。私は
鍛冶橋を渡って丸の内へ
這入る時、いつでも東京府庁の前側にひろがっている閑地を眺めやるのである。
何故というにこの閑地には繁茂した雑草の間に池のような広い
水潦が幾個所もあって夕陽の色や青空の雲の影が美しく
漂うからである。私は何となくこういう風に打捨てられた荒地をばかつて南支那
辺にある植民地の市街の裏手、または米国西海岸の新開地の街なぞで
幾度も見た事があるような気がする。
桜田見附の外にも久しく兵営の跡が閑地のままに残されている。参謀本部下の
堀端を通りながら眺めると、閑地のやや
小高くなっている処に、雑草や
野蔦に
蔽われたまま崩れた石垣の残っているのが見える。その石の古びた色とまた石垣の積み方とはおのずと大名屋敷の立っていた昔を思起させるが、それと共に私はまた
霞ヶ
関の坂に面した一方に今だに
一棟か二棟ほど荒れたまま立っている
平家の煉瓦造を望むと、
御老中御奉行などいう代りに新しく参議だの開拓使などいう官名が行われた明治初年の時代に対して、今となってはかえって淡く寂しい一種の興味を呼出されるのである。
明治十年頃
小林清親翁が新しい東京の風景を写生した水彩画をば、そのまま
木板摺にした東京名所の図の
中に
外桜田遠景と題して、遠く樹木の間にこの兵営の正面を望んだ処が描かれている。当時都下の平民が新に
皇城の門外に建てられたこの西洋造を仰ぎ見て、いかなる新奇の念とまた崇拝の情に打れたか。それらの感情は新しい画工のいわば
稚気を帯びた新画風と古めかしい木板摺の技術と
相俟って遺憾なく紙面に躍如としている。一時代の感情を表現し得たる点において小林翁の風景版画は甚だ価値ある美術といわねばならぬ。既に
去歳木下杢太郎氏は『芸術』第二号において小林翁の風景版画に関する新研究の
一端を漏らされたが、氏は進んで翁の経歴をたずねその芸術について更に詳細なる研究を試みられるとの事である。
小林翁の東京風景画は
古河黙阿弥の世話狂言「
筆屋幸兵衛」「
明石島蔵」などと並んで、明治初年の東京を
窺い知るべき無上の資料である。維新の当時より
下って憲法発布に至らんとする明治二十年頃までの時代は、今日の吾人よりしてこれを回顧すれば東京の市街とその風景の変化、風俗人情流行の推移等あらゆる方面にわたって
甚だ興味あるものである。されば滑稽なるわが
日和下駄の散歩は江戸の遺跡と合せてしばしばこの明治初年の東京を尋ねる事に
勉めている。しかし小林翁の
版物に描かれた新しい当時の東京も、僅か二、三十年とは
経たぬ
中、更に更に新しい第二の東京なるものの発達するに従って、
漸次跡方もなく消滅して行きつつある。明治六年
筋違見附を取壊してその石材を以て造った
彼の
眼鏡橋はそれと同じような形の
浅草橋と共に、今日は皆鉄橋に
架け替えられてしまった。
大川端なる
元柳橋は水際に立つ柳と
諸共全く跡方なく取り払われ、
百本杭はつまらない石垣に改められた。今日東京市中において小林翁の東京名所絵と参照して僅にその当時の光景を保つものを求めたならば、虎の門に残っている旧工学寮の煉瓦造、九段坂上の
燈明台、日本銀行前なる
常盤橋その
他数箇所に過ぎまい。
官衙の建築物の如きも明治当初のままなるものは、
桜田外の参謀本部、
神田橋内の印刷局、
江戸橋際の
駅逓局なぞ指折り数えるほどであろう。
閑地のことからまたしても話が妙な方面へそれてしまった。
しかし閑地と古い都会の追想とはさして無関係のものではない。
芝赤羽根の
海軍造兵廠の跡は現在何万坪という広い閑地になっている。これは誰も知っている通り
有馬侯の
屋舗跡で、現在
蠣殻町にある
水天宮は元この邸内にあったのである。
一立斎広重の『東都名勝』の
中赤羽根の図を見ると柳の
生茂った淋しい
赤羽根川の
堤に沿うて大名屋敷の長屋が遠く
立続いている。その屋根の上から水天宮へ寄進の
幟が幾筋となく
閃いている様が描かれている。この図中に見る
海鼠壁の長屋と
朱塗の
御守殿門とは去年の春頃までは
半ば崩れかかったままながらなお当時の
面影を
留めていたが、本年になって内部に立つ造兵廠の煉瓦造が取払われると共に、今は跡方もなくなってしまった。
その時分――今年の五月頃の事である。友人
久米君から突然有馬の屋敷跡には名高い猫騒動の
古塚が今だに残っているという事だから尋ねて見たらばと注意されて、私は
慶応義塾の帰りがけ始めて久米君とこの閑地へ日和下駄を
踏入れた。猫塚の
噂は造兵廠が取払いになって閑地の中にはそろそろ通抜ける人たちの下駄の歯が縦横に
小径をつけ始める頃から誰いうとなくいい伝えられ、既にその事は二、三の新聞紙にも記載されていたという事であった。
私たち二人は
三田通に沿う
外囲の
溝の
縁に
立止って何処か
這入りいい処を見付けようと思ったが、板塀には少しも
破目がなく溝はまた広くてなかなか飛越せそうにも思われない。見す見す閑地の外を
迂廻して赤羽根の川端まで出て見るのも
業腹だし、そうかといって通過ぎた酒屋の角まで立戻って坂を登り閑地の裏手へ廻って見るのも
退儀である。そう思うほどこの閑地は広々としているのである。私たちはやむをえず閑地の一角に
恩賜財団
済生会とやらいう札を下げた
門口を見付けて、用事あり気に
其処から
構内へ這入って見た。構内は往来から見たと同じように
寂として、更に番人のいる様子も見えない。私たちは安心してずんずんと赤煉瓦の
本家について迂廻しながらその裏手へ出てみると、僅か
上下二筋の
鉄条綱が引張ってあるばかりで、広々した閑地は正面に鬱々として老樹の生茂った
辺から一帯に丘陵をなし、その
麓には大きな池があって、男や子供が大勢釣竿を持ってわいわい騒いでいる意外な景気に興味百倍して、久米君は手早く
夏羽織の
裾と
袂をからげるや否や身軽く鉄条綱の間をくぐって
向へ出てしまった。私は
生憎その日は学校の図書館から借出した重い書物の包を抱えていた上に、片手には例の
蝙蝠傘を持っていた。そればかりでない。私の
穿いていた
藍縞仙台平の
夏袴は死んだ父親の形見でいかほど
胸高に
締めてもとかくずるずると
尻下りに
引摺って来る。久米君は
見兼ねて鉄条綱の向から重い書物の包と蝙蝠傘とを受取ってくれたので、私は日和下駄の
鼻緒を
踏〆め、
紬の
一重羽織の裾を高く巻上げ、きっと夏袴の
股立を取ると、図抜けて
丈の高い身の有難さ、何の苦もなく鉄条綱をば上から
一跨ぎに跨いでしまった。
二人は早速
閑地の草原を横切って、
大勢釣する人の集っている古池の
渚へと急いだ。池はその後に
聳ゆる崖の高さと、また水面に枝を垂した老樹や岩石の配置から考えて、その昔ここに
久留米二十余万石の城主の
館が築かれていた時分には、現在水の
漂っている面積よりも確にその二、三倍広かったらしく、また崖の中腹からは見事な滝が落ちていたらしく思われる。私は今まで書物や絵で見ていた江戸時代の数ある名園の有様をば
朧気ながら心の
中に
描出した。それと共に、われわれの生れ出た明治時代の文明なるものは、実にこれらの美術をば
惜気もなく破壊して兵営や兵器の
製造場にしてしまったような英断壮挙の結果によって成ったものである事を、
今更の如くつくづくと思知るのであった。
池のまわりは浅草公園の釣堀も及ばぬ
賑さである。
鰌と
鮒と時には大きな
鰻が釣れるという事だ。私たちは
水際を廻って崖の方へ通ずる
小径を
攀登って行くと、大木の
根方に
爺が一人腰をかけて釣道具に駄菓子やパンなどを売っている。機を見るに敏なるこの
親爺の商法にさすがのわれわれも
聊か敬服して、その前に立止ったついで、猫塚の
所在を尋ねると、爺さんは既に案内者然たる調子で、崖の
彼方なる森蔭の小径を教え、なお猫塚といっても今は僅にかけた石の台を残すばかりだという事まで
委しく話してくれた。
名所古蹟は
何処に限らず行って見れば大抵こんなものかと思うようなつまらぬものである。
唯その処まで尋ね到る間の道筋や周囲の光景及びそれに附随する感情等によって他日話の種となすに足るべき興味が
繋がれるのである。有馬の猫塚は釣道具を売っている爺さんが話したよりも、来て見れば更につまらない石のかけらに過ぎなかった。果してそれが猫塚の
台石であったか否かも甚だ不明な位であった。私たちは旧造兵廠の建物の一部をば眼下に低く
見下す
崖地の一角に、昼なお暗く天を蔽うた老樹の
根方と、また深く雑草に
埋められた崖の中腹に一ツ二ツ落ち
転げている石を見つけたばかりである。しかしここに
来るまでの崖の小径と周囲の光景とは遺憾なく私ら二人を喜ばしめた。私は実際今日の東京市中にかくも
幽邃なる森林が残されていようとは夢にも思い及ばなかった。柳
椎樫杉椿なぞの大木に
交って
扇骨木八ツ
手なぞの庭木さえ多年手入をせぬ処から今は全く野生の林同様
七重八重にその枝と幹とを入れちがえている。時節は丁度初夏の五月の事とて、これらの樹木はいずれもその枝の
撓むほど、重々しく青葉に蔽われている上に、気味の悪い名の知れぬ
寄生木が大樹の
瘤や幹の股から髪の毛のような長い葉を垂らしていた。遠い電車の響やまた近く崖下で釣する人の立騒ぐ声にも恐れず勢よく
囀る小鳥の声が鋭く
梢から梢に反響する。私たち二人は雑草の露に
袴の
裾を
潤しながら、この森蔭の
小暗い片隅から青葉の枝と幹との間を
透して、
彼方遥かに広々した閑地の周囲の
処々に残っている
練塀の崩れに、夏の日光の殊更明く照渡っているのを打眺め、何という訳もなく唯
惆悵として去るに忍びざるが如くいつまでも
彳んでいた。私たちは既に破壊されてしまった有馬の旧苑に対して痛嘆するのではない。
一度破壊されたその跡がここに年を経て折角
荒蕪の詩趣に蔽われた閑地になっている処をば、更に何らかの新しい計画が近い中にこの森とこの雑草とを取払ってしまうであろう。私たちはその事を予想して
前以て深く嘆息したのである。
私は雑草が好きだ。
菫蒲公英のような
春草、
桔梗女郎花のような秋草にも劣らず私は雑草を好む。
閑地に繁る雑草、屋根に生ずる雑草、道路のほとり
溝の
縁に生ずる雑草を愛する。閑地は即ち雑草の花園である。「
蚊帳釣草」の穂の
練絹の如くに細く美しき、「猫じゃらし」の穂の毛よりも柔き、さては「
赤の
飯」の花の暖そうに薄赤き、「
車前草」の花の
爽に
蒼白き、「


」の花の砂よりも小くして
真白なる、一ツ一ツに
見来れば雑草にもなかなかに捨てがたき
可憐なる
風情があるではないか。しかしそれらの雑草は和歌にも
咏われず、
宗達光琳の絵にも描かれなかった。独り江戸平民の文学なる俳諧と狂歌あって始めて雑草が文学の上に取扱われるようになった。私は
喜多川歌麿の描いた『絵本
虫撰』を愛して
止まざる理由は、この浮世絵師が
南宗の画家も
四条派の画家も決して描いた事のない極めて卑俗な
草花と昆虫とを写生しているがためである。この一例を以てしても、俳諧と狂歌と浮世絵とは古来わが貴族趣味の芸術が全く閑却していた一方面を
拾取って、自由にこれを芸術化せしめた
大なる功績を
担うものである。
私は近頃
数寄屋橋外に、虎の門
金毘羅の社前に、神田
聖堂の裏手に、その他諸処に新設される、公園の樹木を見るよりも、通りがかりの閑地に咲く雑草の花に対して遥にいい知れぬ興味と情趣を覚えるのである。
戸川秋骨君が『そのままの記』に霜の
戸山ヶ
原という一章がある。戸山ヶ原は旧
尾州侯御下屋舗のあった処、その名高い庭園は荒されて陸軍戸山学校と変じ、附近は広漠たる
射的場となっている。この
辺豊多摩郡に属し近き頃まで
杜鵑花の名所であったが、年々人家
稠密していわゆる郊外の
新開町となったにかかわらず、射的場のみは今なお依然として原のままである。秋骨君
曰く
戸山の原は東京の近郊に珍らしい広開した地である。目白の奥から巣鴨滝の川へかけての平野は、さらに広い武蔵野の趣を残したものであろう。しかしその平野は凡て耒耜が加えられている。立派に耕作された畠地である。従って田園の趣はあるが野趣に至っては乏しい。しかるに戸山の原は、原とは言えども多少の高低があり、立樹が沢山にある。大きくはないが喬木が立ち籠めて叢林を為した処もある。そしてその地には少しも人工が加わっていない。全く自然のままである。もし当初の武蔵野の趣を知りたいと願うものは此処にそれを求むべきであろう。高低のある広い地は一面に雑草を以て蔽われていて、春は摘草に児女の自由に遊ぶに適し、秋は雅人の擅に散歩するに任す。四季の何時と言わず、絵画の学生が此処其処にカンヴァスを携えて、この自然を写しているのが絶えぬ。まことに自然の一大公園である。最も健全なる遊覧地である。その自然と野趣とは全く郊外の他の場所に求むべからざるものである。凡そ今日の勢、いやしくも余地あれば其処に建築を起す、然らずともこれに耒耜を加うるに躊躇しない。然るに如何にして大久保の辺に、かかる殆んど自然そのままの原野が残っているのであるか。不思議な事にはこれが実に俗中の俗なる陸軍の賜である。戸山の原は陸軍の用地である。その一部分は戸山学校の射的場で、一部分は練兵場として用いられている。しかしその大部分は殆んど不用の地であるかの如く、市民もしくは村民の蹂躙するに任してある。騎馬の兵士が大久保柏木の小路を隊をなして駆せ廻るのは、甚だ五月蠅いものである。否五月蠅いではない癪にさわる。天下の公道をわがもの顔に横領して、意気頗る昂る如き風あるは、われら平民の甚だ不快とする処である。しかしこの不快を与うるその大機関は、また古の武蔵野をこの戸山の原に、余らのために保存してくれるものである。思えば世の中は不思議に相贖うものである。一利一害、今さらながら応報の説が殊に深く感ぜられる。
秋骨君が言う処
大にわが意を得たものである。こは
直に移して
代々木青山の練兵場または
高田の
馬場等に応用する事が出来る。晩秋の
夕陽を浴びつつ高田の馬場なる
黄葉の林に
彷徨い、あるいは晴れたる冬の朝青山の
原頭に雪の富士を望むが如きは、これ皆俗中の俗たる陸軍の
賜物ではないか。
私は慶応義塾に通う電車の道すがら、
信濃町権田原を
経、青山の大通を横切って
三聯隊裏と
記した赤い棒の立っている
辺りまで、その沿道の大きな建物は
尽く陸軍に属するもの、また電車の乗客街上の通行人は兵卒ならざれば士官ばかりという有様に、私はいつも世を
挙て悉く陸軍たるが如き感を深くする。それと共に権田原の林に初夏の新緑を望み、三聯隊裏と青山墓地との間の土手や草原に春は若草、秋は
芒の穂を眺めて、秋骨君のいわゆる応報の説に同感するのである。
四谷鮫ヶ
橋と
赤坂離宮との間に
甲武鉄道の線路を
堺にして
荒草萋々たる
火避地がある。初夏の夕暮私は四谷通の
髪結床へ行った
帰途または買物にでも出た時、
法蔵寺横町だとかあるいは
西念寺横町だとか呼ばれた寺の多い横町へ曲って、車の通れぬ急な坂をば鮫ヶ橋
谷町へ
下り貧家の間を貫く一本道をば足の行くがままに
自然とかの火避地に出で、ここに若葉と雑草と
夕栄とを眺めるのである。
この散歩は
道程の短い割に
頗る変化に富むが上に、また偏狭なる我が画興に適する処が
尠くない。第一は鮫ヶ橋なる貧民窟の地勢である。四谷と赤坂両区の高地に挟まれたこの谷底の貧民窟は、堀割と
肥料船と
製造場とを背景にする
水場の貧家に対照して、坂と崖と樹木とを背景にする山の手の貧家の景色を代表するものであろう。四谷の方の坂から見ると、貧家のブリキ屋根は
木立の間に寺院と墓地の裏手を見せた向側の崖下にごたごたと重り合ってその間から折々汚らしい洗濯物をば風に
閃している。初夏の空美しく晴れ崖の雑草に青々とした芽が
萠え
出で
四辺の木立に若葉の緑が
滴る頃には、眼の下に見下すこの貧民窟のブリキ屋根は
一層汚らしくこうした人間の生活には草や木が天然から受ける恵みにさえ
与れないのかとそぞろ悲惨の色を増すのである。また冬の雨降り
濺ぐ夕暮なぞには破れた
障子にうつる燈火の影、
鴉鳴く墓場の枯木と共に遺憾なく色あせた冬の景色を造り出す。
この暗鬱な一隅から僅に鉄道線路の土手一筋を越えると、その
向にはひろびろした火避地を前に控えて、赤坂御所の
土塀が
乾の御門というのを
中央にして長い坂道をば遠く青山の方へ
攀登っている。日頃
人通の少ない処とて古風な
練塀とそれを
蔽う樹木とは殊に
気高く望まれる。私は火避地のやや御所の方に近く猫柳が四、五本乱れ生じているあたりに、或年の夏の夕暮雨のような水音を聞付け、毒虫をも恐れず草を踏み分けながらその方へ
歩寄った時、柳の蔭には山の手の高台には思いも掛けない
蘆の茂りが夕風にそよいでいて、井戸のように深くなった
凹味の底へと、
大方御所から落ちて来るらしい水の流が大きな
堰にせかれて滝をなしているのを見た。夜になったらきっと
蛍が飛ぶにちがいない。私はこの
夕ばかり夏の
黄昏の長くつづく上にも夕月の光ある事を
憾みながら、もと来た鮫ヶ橋の方へと
踵を返した。
鮫ヶ橋の貧民窟は一時
代々木の
原に万国博覧会が開かれるとかいう話のあった頃、もしそうなった
暁四谷代々木間の電車の窓から西洋人がこの汚い貧民窟を
見下しでもすると国家の
耻辱になるから東京市はこれを取払ってしまうとやらいう噂があった。しかし万国博覧会も例の日本人の
空景気で金がない処からおじゃんになり、従って鮫ヶ橋も今日なお取払われず、
西念寺の急な坂下に依然として
剥ちょろのブリキ屋根を並べている。貧民窟は元より都会の美観を増すものではない。しかし万国博覧会を見物に来る西洋人に見られたからとて何もそれほどに気まりを悪るがるには及ぶまい。
当路の役人ほど馬鹿な事を考える人間はない。東京なる都市の体裁、日本なる国家の体面に関するものを挙げたなら貧民窟の取払いよりも先ず市中諸処に立つ銅像の
取除を急ぐが至当であろう。
現在私の知っている東京の
閑地は大抵以上のようなものである。わが住む家の門外にもこの両三年市ヶ谷監獄署
後の閑地がひろがっていたが、今年の春頃から死刑台の
跡に観音ができあたりは
日々町になって行く、遠からず
芸者家が許可されるとかいう噂さえある。
芝浦の
埋立地も目下家屋の建たない間は同じく閑地として見るべきものであろう。現在東京市内の閑地の中でこれほど広々とした眺望をなす処は
他にあるまい。夏の
夕、海の上に月の昇る頃はひろびろした閑地の雑草は一望煙の如くかすみ渡って、
彼方此方に通ずる堀割から
荷船の帆柱が見える景色なぞまんざら捨てたものではない。
東京市の土木工事は手をかえ品をかえ、
孜々として東京市の風景を
毀損する事に勉めているが、幸にも雑草なるものあって焼野の如く木一本もない閑地にも緑柔き
毛氈を
延べ、月の光あってその上に露の
珠の
刺繍をする。われら
薄倖の詩人は田園においてよりも
黄塵の都市において更に深く「自然」の恵みに感謝せねばならぬ。
[#改ページ]
数ある江戸名所案内記中その最も古い方に属する『
紫の
一本』や『
江戸惣鹿子大全』なぞを見ると、坂、山、
窪、堀、池、橋なぞいう分類の
下に江戸の地理古蹟名所の説明をしている。しかしその分類は例えば谷という処に
日比谷、
谷中、
渋谷、
雑司ヶ
谷なぞを編入したように、地理よりも実は地名の
文字から来る遊戯的興味に
基いた処が
尠くない。かくの如きはけだし江戸軽文学のいかなるものにも必ず発見せられるその特徴である。
私は既に期せずして東京の水と
路地と、つづいて
閑地に対する興味をばやや分類的に記述したので、ここにもう一つ崖なる文章を付加えて見よう。
崖は閑地や路地と同じようにわが
日和下駄の散歩に尠からぬ興味を添えしめるものである。
何故というに崖には野笹や
芒に
交って
薊、
藪枯しを始めありとあらゆる雑草の繁茂した間から場所によると清水が湧いたり、
下水が谷川のように
潺々と音して流れたりしている処がある。また落掛るように
斜に
生えた樹木の幹と枝と殊に根の形なぞに絵画的興趣を覚えさせることが多いからである。もし樹木も雑草も何も生えていないとすれば、東京市中の崖は切立った赤土の夕日を浴びる時なぞ
宛然堡塁を望むが如き悲壮の観を示す。
昔から市内の崖には別にこれという名前のついた処は一つもなかったようである。『紫の一本』その他の書にも、窪、谷なぞいう分類はあるが崖という一章は設けられていない。しかし高低の甚しい東京の地勢から考えて、崖は昔も今も変りなく市中の諸処に
聳えていたに相違ない。
上野から
道灌山飛鳥山へかけての高地の側面は崖の
中で最も偉大なものであろう。神田川を限るお茶の水の絶壁は元より
小赤壁の名がある位で、崖の最も絵画的なる実例とすべきものである。
小石川春日町から
柳町指ヶ
谷町へかけての低地から、
本郷の
高台を見る
処々には、電車の開通しない以前、即ち東京市の地勢と風景とがまだ今日ほどに破壊されない頃には、
樹や草の
生茂った崖が現れていた。
根津の低地から
弥生ヶ
岡と
千駄木の高地を仰げばここもまた絶壁である。絶壁の
頂に添うて、根津
権現の方から
団子坂の上へと通ずる一条の路がある。私は東京中の往来の
中で、この道ほど興味ある処はないと思っている。
片側は樹と竹藪に蔽われて昼なお暗く、片側はわが歩む道さえ崩れ落ちはせぬかと
危まれるばかり、
足下を
覗くと崖の中腹に生えた樹木の
梢を
透して谷底のような低い処にある人家の屋根が小さく見える。されば
向は一面に
遮るものなき大空かぎりもなく広々として、自由に浮雲の定めなき
行衛をも見極められる。左手には
上野谷中に連る森黒く、右手には神田下谷浅草へかけての市街が一目に見晴され
其処より起る雑然たる
巷の物音が距離のために柔げられて、かのヴェルレエヌが詩に、
かの平和なる物のひびきは
街より来る……
といったような心持を起させる。
当代の
碩学森鴎外先生の
居邸はこの道のほとり、
団子坂の
頂に出ようとする処にある。二階の
欄干に
彳むと市中の屋根を越して遥に海が見えるとやら、然るが故に先生はこの楼を
観潮楼と名付けられたのだと私は聞伝えている。
(団子坂をば汐見坂という由後に人より聞きたり。)度々私はこの観潮楼に親しく先生に
見ゆるの光栄に接しているが多くは夜になってからの事なので、惜しいかな
一度もまだ
潮を
観る機会がないのである。その代り、私は忘れられぬほど
音色の深い上野の鐘を聴いた事があった。日中はまだ残暑の去りやらぬ
初秋の夕暮であった。先生は大方御食事中でもあったのか、私は取次の人に案内されたまま
暫くの間唯一人この観潮楼の上に取残された。楼はたしか八畳に六畳の
二間かと記憶している。
一間の
床には何かいわれのあるらしい
雷という一字を
石摺にした
大幅がかけてあって、その下には古い支那の陶器と想像せられる大きな六角の
花瓶が、花一輪さしてないために、かえってこの上もなく厳格にまた冷静に見えた。座敷中にはこの床の間の軸と花瓶の
外は全く何一つ置いてないのである。額もなければ置物もない。おそるおそる四枚立の
襖の
明放してある次の
間を
窺うと、
中央に机が一脚置いてあったが、それさえいわば台のようなもので、一枚の板と四本の脚があるばかり、
抽出もなければ彫刻のかざりも何もない机で、その上には
硯もインキ壺も紙も筆も置いてはない。しかしその
後に立てた
六枚屏風の
裾からは、
紐で
束ねた西洋の新聞か雑誌のようなものの
片端が見えたので、私はそっと首を延して
差覗くと、いずれも大部のものと思われる種々なる洋書が座敷の
壁際に高く積重ねてあるらしい様子であった。世間には往々読まざる書物をれいれいと
殊更人の見る処に
飾立てて置く人さえあるのに、これはまた何という一風変った
癇癖であろう。私は『
柵草紙』以来の先生の文学とその性行について、何とはなく
沈重に考え始めようとした。あたかもその時である。
一際高く
漂い来る
木犀の匂と共に、上野の
鐘声は残暑を払う凉しい夕風に吹き送られ、明放した観潮楼上に唯一人、主人を待つ
間の私を驚かしたのである。
私は振返って音のする方を眺めた。
千駄木の
崖上から見る
彼の広漠たる市中の眺望は、今しも蒼然たる
暮靄に包まれ一面に煙り渡った底から、数知れぬ
燈火を
輝し、雲の如き上野谷中の森の上には淡い
黄昏の微光をば夢のように残していた。私はシャワンの
描いた聖女ジェネヴィエーブが静に
巴里の夜景を
見下している、かのパンテオンの壁画の神秘なる灰色の色彩を思出さねばならなかった。
鐘の
音は長い余韻の後を追掛け追掛け
撞き出されるのである。その
度ごとにその響の
湧出る森の影は暗くなり低い市中の燈火は次第に光を増して来ると車馬の声は嵐のようにかえって高く、やがて鐘の音の最後の余韻を消してしまった。私は茫然として再びがらんとして何物も置いてない観潮楼の内部を見廻した。そして、この何物もない楼上から、この市中の燈火を見下し、この鐘声とこの車馬の響をかわるがわるに
聴澄ましながら、わが鴎外先生は静に書を読みまた筆を執られるのかと思うと、実にこの時ほど私は先生の風貌をば、シャワンが壁画中の人物同様神秘に感じた事はなかった。
ところが、「ヤア大変お待たせした。失敬失敬。」といって、先生は書生のように二階の
梯子段を
上って来られたのである。
金巾の白い
襯衣一枚、その下には赤い筋のはいった軍服のヅボンを
穿いておられたので、何の事はない、鴎外先生は日曜貸間の二階か何かでごろごろしている兵隊さんのように見えた。
「暑い時はこれに限る。一番凉しい。」といいながら先生は女中の持運ぶ銀の皿を私の方に押出して葉巻をすすめられた。先生は陸軍省の医務局長室で私に対談せられる時にもきまって葉巻を
勧められる。もし先生の生涯に
些かたりとも贅沢らしい事があるとするならば、それはこの葉巻だけであろう。
この
夕、私は親しくオイケンの哲学に関する先生の感想を
伺って、
夜も九時過再び千駄木の崖道をば
根津権現の方へ
下り、
不忍池の
後を廻ると、ここにも
聳え立つ
東照宮の裏手一面の崖に、
木の
間の星を数えながらやがて
広小路の電車に乗った。
私の生れた
小石川には崖が沢山あった。第一に思出すのは
茗荷谷の
小径から仰ぎ見る左右の崖で、一方にはその名さえ気味の悪い
切支丹坂が
斜に開けそれと向い合っては名前を忘れてしまったが山道のような細い坂が
小日向台町の裏へと
攀登っている。今はこの左右の崖も大方は趣のない積み方をした当世風の石垣となり、竹藪も樹木も
伐払われて、全く以前の薄暗い物凄さを失ってしまった。
まだ私が七、八ツの頃かと記憶している。切支丹坂に添う崖の中腹に、
大雨か何かのために突然
真四角な大きな横穴が現われ、
何処まで深くつづいているのか行先が分らぬというので、近所のものは大方切支丹屋敷のあった頃掘抜いた地中の抜道ではないかなぞと評判した。
この茗荷谷を小日向
水道町の方へ出ると、今も往来の真中に
銀杏の大木が立っていて、
草鞋と
炮烙が沢山奉納してある小さなお宮がある。一体この
水道端の通は片側に寺が幾軒となくつづいて、
種々の形をした
棟門を並べている処から、今も折々私の喜んで散歩する処である。この通を行尽すと
音羽へ曲ろうとする角に大塚火薬庫のある高い崖が聳え、その
頂にちらばらと
喬木が立っている。崖の草枯れ
黄み、この喬木の
冬枯した
梢に烏が
群をなして
棲る時なぞは、
宛然文人画を見る趣がある。これと対して
牛込の方を眺めると
赤城の高地があり、正面の行手には目白の山の側面がまた崖をなしている。目白の眺望は既に
蜀山人の
東豊山十五景の狂歌にもある通り昔からの名所である。蜀山人の記に曰く
東豊山新長谷寺目白不動尊のたゝせ玉へる山は宝永の頃再昌院法印のすめる関口の疏儀荘よりちかければ西南にかたぶく日影に杖をたてゝ時しらぬ富士の白雪をながめ千町の田面のみどりになびく風に凉みてしばらくいきをのぶとぞ聞えし又物部の翁の牛込にいませし頃にやありけん南郭春台蘭亭をはじめとしてこのほとりの十五景をわかちてからうたに物せし一巻をもみたりし事あればわが生れたる牛込の里ちかきあたりのけしきもなつかしくこゝにその題をうつして夷歌によみつゞけぬるもそのかみ大黒屋ときこえし高どのには母の六十の賀の莚をひらきし事ありしも又天明のむかしなればせき口の紙の漉かへし目白の滝のいとのくりことになんありける
鶉山桜花
昔みし
田鼠うづらの山ざくら
化しての
後は花もちらほら
城門緑樹

の
魚木にのぼる青葉山わたりやぐらの
牛込の
門
渓辺流蛍
何がしの大あたまにも似たるかなかまくら
道に
出戸の
蛍は

田落月
しら露のむすべる霜のをくてよりわせ
田にはやく
落る月影
平田香稲
平かな
水田もことし
代がよくてふねのほにほがさくかとぞみる
寺前紅楓
てらまへて酒のませんともみぢ
見の
地口まじりの顔の
夕ばへ
月中望嶽
八葉の
芙蓉の花を一りんのかつらの
枝にさかせてぞみる
江村飛雪
酒かひにゆきの
中里ひとすぢにおもひ
入江の
江戸川の
末
長谷梵宇
明王のふるきをもつてあたらしきにゐはせ
寺の
法師たるべし
赤城霞色
朝夕のかすみのいろも
赤城やまそなたのかたにむかでしらるゝ
高田叢祠
みあかしの
高田のかたにひかりまち
穴八幡か
水いなりかも
済松鐘磬
済松寺祖心の
尼の若かりしむかしつけたるかねの
声々
田間一路
横にゆく
蟹川こえて
真直に通る
門田の
中ぜきの道
巌畔酒

杉のはのたてる
門辺に目白おし
羽觴を
飛す岸の
上の
茶や
堰口水碓
水車くる/\めぐりあふことは人目つゝみのせき
口もなし
去年の暮
巌谷四六君
(小波先生令弟)と
図らず木曜会忘年会の席上に
邂逅した時談話はたまたまわが『
日和下駄』の事に及んだ。四六君は
麹町平川町から
永田町の裏通へと
上る処に以前は実に
幽邃な崖があったと話された。
小波先生も四六君も
共々その頃は永田町なる故
一六先生の邸宅にまだ
部屋住の身であったのだ。丁度その時分私も一時父の住まった官舎がこの近くにあったので、憲法発布当時の淋しい麹町の昔をいろいろと追想する事ができる。一年ほど父の
住っておられた某省の官宅もその庭先がやはり急な崖になっていて、物凄いばかりの
竹藪であった。この竹藪には
蟾蜍のいた事これまた気味悪いほどで、夏の
夕まだ夜にならない中から、何十匹となく
這い出して来る蟾蜍に庭先は一面
大な
転太石でも敷詰めたような有様になる。この庭先の崖と相対しては、一筋の細い裏通を隔てて
独逸公使館の立っている高台の
背後がやはり樹木の茂った崖になっていた。私は寒い冬の
夜なぞ、日本伝来の迷信に養われた子供心に、われにもあらず幽霊や何かの事を考え出して一生懸命に
痩我慢しつつ
真暗な廊下を独り
厠へ行く時、その破れた窓の障子から
向の崖なる
木立の奥深く、
巍然たる西洋館の窓々に燈火の
煌々と輝くのを見、同時にピアノの
音の
漏るるを聞きつけて、私は西洋人の生活をば限りもなく不思議に思ったことがあった。
近頃日和下駄を
曳摺って散歩する
中、私の目についた崖は
芝二本榎なる
高野山の裏手または
伊皿子台から海を見るあたり一帯の崖である。二本榎高野山の
向側なる
上行寺は、
其角の墓ある故に人の知る処である。私は本堂の立っている崖の上から
摺鉢の底のようなこの上行寺の墓地全体を
覗き見る有様をば、其角の墓
諸共に忘れがたく思っている。
白金の
古刹瑞聖寺の裏手も私には
幾度か杖を曳くに足るべき
頗る
幽邃なる崖をなしている。
麻布赤坂にも芝同様崖が沢山ある。山の手に生れて山の手に育った私は、常にかの軽快
瀟洒なる船と橋と
河岸の
眺を専有する
下町を羨むの余り、この崖と坂との
佶倔なる風景を以て、
大に山の手の誇とするのである。『隅田川両岸一覧』に川筋の風景をのみ描き出した
北斎も、更に
足曳の山の手のために、『
山復山』三巻を描いたではないか。
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前回記する処の崖といささか
重複する嫌いがあるが、
市中の坂について少しく述べたい。坂は即ち
平地に生じた波瀾である。平坦なる
大通は歩いて滑らず
躓かず、車を走らせて安全無事、荷物を運ばせて賃銀安しといえども、
無聊に苦しむ
閑人の散歩には余りに単調に
過る。けだし東京市中における眺望の一直線をなす美観は、橋あり舟ある運河の岸においてのみこれを
看得るが、銀座日本橋の大通の如き平坦なる街路の眺望に至っては、われら不幸にしていまだ
泰西の都市において経験したような感興を催さない。西洋の都市においても私は
紐育の平坦なる Fifth Avenue よりコロンビヤの高台に上る
石級を好み、
巴里の
大通よりも
遥にモンマルトルの高台を愛した。
里昂にあってはクロワルッスの坂道から、
手摺れた古い石の欄干を越えて眼下にソオンの
河岸通を
見下しながら歩いた夏の
黄昏をば今だに忘れ得ない。あの景色を思浮べる度々、私は
仏蘭西の都会は何処へ行ってもどうしてあのように美しいのであろう。どうしてあのように軟く人の空想を刺※
[#「卓+戈」、U+39B8、91-14]するように出来ているのであろうと、相も変らず
遣瀬なき追憶の夢にのみ打沈められるのである。
その頃私は年なお三十に至らず、孤身
飄然、異郷にあって更に孤客となるの
怨なく、到る処の
青山これ
墳墓地ともいいたいほど意気
頗豪なるところがあったが今その十年の昔と、
鬢髪いまだ
幸にして霜を戴かざれど精魂漸く衰え聖代の世に男一匹の身を持てあぐみ為す事もなき苦しさに、江戸絵図を
懐中に
日和下駄曳摺って、既に狂歌俳句に
読古された江戸名所の跡を
弔い歩む感慨とを比較すれば、全くわれながら一滴の涙なきを得ない。さりながら、かの
端唄の文句にも、色気ないとて苦にせまい
賤が
伏家に月もさす。
徒に悲み
憤って身を破るが如きはけだし賢人のなさざる処。われらが住む東京の都市いかに醜く汚しというとも、ここに住みここに
朝夕を送るかぎり、醜き
中にも幾分の美を捜り汚き中にもまた何かの趣を見出し、以て気は心とやら、無理やりにも少しは居心地住心地のよいように
自ら思いなす処がなければならぬ。これ元来が主意というものなき我が日和下駄の散歩の
聊か以て主意とする処ではないか。
そもそも東京市はその面積と人口においては既に世界屈指の
大都である。この盛況は銀座日本橋の如き繁華の街路を歩むよりも、山の手の坂に立って
遥に市中を眺望する時、
誰が目にも
容易く感じ得らるる処である。この都に生れ育ちて四時の風物何一つ珍しい事もないまでに馴れ過ぎてしまったわれらさえ、折あって
九段坂、
三田聖坂、あるいは
霞ヶ
関を昇降する時には覚えずその眺望の大なるに歩みを
留めるではないか。東京市は坂の上の眺望によって最もよくその偉大を示すというべきである。古来その眺望よりして最も名高きは
赤坂霊南坂上より芝
西の
久保へ下りる
江戸見坂である。
愛宕山を前にして日本橋京橋から丸の内を
一目に望む事が出来る。芝
伊皿子台上の
汐見坂も、天然の地形と距離との
宜しきがために品川の
御台場依然として昔の名所絵に見る通り道行く人の鼻先に浮べる有様、これに
因ってこれを
観れば古来江戸名所に数えらるる地点
悉く名ばかりの名所でない事を証するに足りる。
今市中の坂にして眺望の
佳なるものを挙げんか。神田お茶の水の
昌平坂は
駿河台岩崎邸門前の坂と同じく
万世橋を眼の下に
神田川を眺むるによろしく、
皀角坂(水道橋内駿河台西方)は牛込麹町の高台並びに
富嶽を望ましめ、
飯田町の
二合半坂は
外濠を越え江戸川の流を隔てて小石川
牛天神の森を眺めさせる。丁度この見晴しと相対するものは
則ち小石川
伝通院前の
安藤坂で、それと並行する
金剛寺坂荒木坂服部坂大日坂などは皆
斉しく小石川より牛込
赤城番町辺を見渡すによい。しかしてこれらの坂の眺望にして最も絵画的なるは紺色なす秋の
夕靄の
中より人家の
灯のちらつく頃、または高台の樹木の一斉に新緑に
粧わるる
初夏晴天の日である。もしそれ明月
皎々たる夜、
牛込神楽坂浄瑠璃坂左内坂また
逢坂なぞのほとりに
佇んで
御濠の土手のつづく限り老松の
婆娑たる影静なる水に映ずるさまを眺めなば、誰しも東京中にかくの如き絶景あるかと驚かざるを得まい。
坂はかくの如く眺望によりて一段の趣を添うといえども、さりとて全く眺望なきものも
強ち捨て去るには及ばない。心あってこれを
捜らんと欲すれば画趣詩情は到る処に見出し得られる。例えば
四谷愛住町の
暗闇坂、
麻布二之橋向の
日向坂の如きを見よ。といった処でこれらの坂はその近所に住む人の外はちょっとその名さえ知らぬほどな極めて平々凡々たるものである。しかし暗闇坂は車の
上らぬほど急な曲った坂でその片側は
全長寺の墓地の樹木鬱蒼として日の光を
遮り、
乱塔婆に雑草
生茂る有様何となく物凄い坂である。二の橋の日向坂はその麓を流れる
新堀川の
濁水とそれに
架った
小橋と、
斜に坂を蔽う
一株の
榎との配合が
自ら絵になるように甚だ面白く出来ている。
振袖火事で有名な
本郷本妙寺向側の坂もまたその麓を流るる下水と小橋とのために私の記憶する処である。
赤坂喰違より
麹町清水谷へ
下る急な坂、また
上二番町辺樹木谷へ
下る坂の如きは下弦の月鎌の如く樹頭に懸る冬の
夜、広大なるこの
辺の屋敷屋敷の犬の遠吠え聞ゆる折なぞ市中とは思えぬほどのさびしさである。坂はまた土地の傾斜に添うて立つ家屋塀樹木等の見通しによって
大に眼界を美ならしむる。則ち旧
加州侯の
練塀立ちつづく本郷の暗闇坂の如き、
麻布長伝寺の練塀と赤門見ゆる一本松の坂の如きはその実例である。
私はまた坂の
中で
神田明神の裏手なる本郷の
妻恋坂、
湯島天神裏花園町の坂、また少しく
辺鄙なるを
厭わずば
白金清正公のほとりの坂、さては
牛込築土明神裏手の坂、
赤城明神裏門より小石川
改代町へ下りる急な坂の如く神社の裏手にある坂をば何となく特徴あるように思い、通る
度ごとに物珍らしくその
辺を眺めるのである。坂になった土地の傾斜は
境内の鳥居や
銀杏の大木や拝殿の屋根、玉垣なぞをば、或時は人家の屋根の上、或時は路地の突当りなぞ思いも掛けぬ物の間からいろいろに変化さして見せる。私はまたこういう静な坂の中途に小じんまりした貸家を見付ると用もないのに必ず立止っては
仔細らしく
貼札を読む。
何故というに神社の境内に近く
佗住居して読書に
倦み苦作につかれた折
窃と着のみ着のまま
羽織も
引掛けず我が
家の庭のように静な裏手から人なき境内に
歩入って、鳩の飛ぶのを眺めたり
額堂の
絵馬を見たりしたならば、何思うともなく唯茫然として、
容易くこの堪えがたき時間を消費する事が出来はせまいかと考えるからである。
東京の坂の
中にはまた坂と坂とが谷をなす
窪地を間にして
向合に突立っている処がある。前章市内の
閑地を記したる
条に述べた
鮫ヶ
橋の如き、即ちその前後には
寺町と
須賀町の坂が向合いになっている。また小石川
茗荷谷にも両方の
高地が坂になっている。小石川
柳町には一方に本郷より
下る坂あり、一方には小石川より下る坂があって、互に
対峙している。こういう処は地勢が切迫して坂と坂との差向いが急激に接近していれば、景色はいよいよ面白く、市中に偶然
温泉場の街が出来たのかと思わせるような処さえある。
市ヶ
谷谷町から
仲之町へ
上る間道に古びた石段の坂がある。
念仏坂という。
麻布飯倉のほとりにも同じような石段の坂が立っている。
雁木坂と呼ぶ。これらの
石級磴道はどうかすると私には長崎の町を想い起すよすがともなり得るので、日和下駄の歩みも
危くコツコツと角の磨滅した石段を踏むごとに、どうか東京市の土木工事が通行の便利な普通の坂に地ならししてしまわないようにと私は心
窃に念じているのである。
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東都の西郊
目黒に
夕日ヶ
岡というがあり、
大久保に
西向天神というがある。
倶に夕日の美しきを見るがために人の知る所となった。これ元より江戸時代の事にして、今日わざわざかかる
辺鄙の岡に杖を
留めて
夕陽を見るが如き愚をなすものはあるまい。しかし私は日頃
頻に東京の風景をさぐり歩くに当って、この都会の美観と
夕陽との関係甚だ浅からざる事を知った。
立派な二重橋の眺望も城壁の上なる松の
木立を越えて、西の空一帯に夕日の
燃立つ時最も偉大なる壮観を呈する。暗緑色の松と、
晩霞の濃い紫と、この夕日の空の
紅色とは独り東京のみならず日本の風土特有の色彩である。
夕焼の空は堀割に臨む白い
土蔵の壁に反射し、あるいは夕風を
孕んで進む
荷船の帆を染めて、ここにもまた意外なる美観をつくる。けれども夕日と東京の美的関係を論ぜんには、
四谷麹町青山白金の
大通の如く、西向きになっている一本筋の長い街路について見るのが一番便宜である。
神田川や
八丁堀なぞいう川筋、また
隅田川沿岸の如きは
夕陽の美を
俟たざるも、それぞれ他の趣味によって、それ相応の特徴を附する事が出来る。これに反して麹町から四谷を過ぎて新宿に及ぶ大通、芝白金から
目黒行人坂に至る街路の如きは、以前からいやに
駄々広いばかりで、何一ツ人の目を
惹くに足るべきものもなく全く
場末の汚い往来に過ぎない。雪にも月にも何の
風情を増しはせぬ。風が吹けば
砂烟に行手は見えず、雨が降れば
泥濘人の
踵を没せんばかりとなる。かかる無味殺風景の山の手の大通をば幾分たりとも美しいとか何とか思わせるのは、全く
夕陽の関係あるがためのみである。
これらの大通は四谷青山白金
巣鴨なぞと処は変れど、街の様子は何となく
似通っている。昔四谷通は新宿より
甲州街道また
青梅街道となり、青山は
大山街道、巣鴨は板橋を経て
中仙道につづく事江戸絵図を見るまでもなく人の知る所である。それがためか、電車開通して街路の面目一新したにかかわらず、今以て
何処となく駅路の
臭味が去りやらぬような心持がする。殊に広い一本道のはずれに淋しい冬の落日を望み、
西北の
寒風に吹付けられながら歩いて行くと、何ともなく遠い行先の急がれるような心持がして、電車自転車のベルの
音をば駅路の鈴に見立てたくなるのも
満更無理ではあるまい。
東京における
夕陽の美は若葉の五、六月と、晩秋の十月十一月の間を以て第一とする。山の手は庭に垣根に到る処
新樹の緑
滴らんとするその
木立の間より夕陽の空
紅に
染出されたる美しさは、下町の
河添には見られぬ景色である。山の手のその
中でも殊に木立深く鬱蒼とした処といえば、
自ら神社仏閣の境内を択ばなければならぬ。
雑司ヶ
谷の
鬼子母神、
高田の
馬場の
雑木林、目黒の不動、
角筈の
十二社なぞ、かかる処は空を蔽う若葉の間より夕陽を見るによいと同時に、また晩秋の
黄葉を賞するに適している。夕陽影裏落葉を踏んで歩めば、
江湖淪落の詩人ならざるもまた多少の感慨なきを得まい。
ここに
夕陽の美と共に合せて語るべきは、市中より見る富士山の遠景である。夕日に対する西向きの街からは大抵富士山のみならずその麓に
連る
箱根大山秩父の山脈までを望み得る。青山一帯の街は今なお最もよくこの眺望に適した処で、その他
九段坂上の
富士見町通、
神田駿河台、
牛込寺町辺も同様である。
関西の都会からは見たくも富士は見えない。ここにおいて
江戸児は水道の水と合せて富士の眺望を東都の
誇となした。西に富士ヶ根東に
筑波の一語は誠によく武蔵野の風景をいい尽したものである。文政年間
葛飾北斎『富嶽三十六景』の
錦絵を
描くや、その
中江戸市中より富士を望み得る処の
景色凡そ十数個所を択んだ。
曰く
佃島、
深川万年橋、
本所竪川、同じく本所
五ツ
目羅漢寺、
千住、目黒、
青山竜巌寺、青山
穏田水車、
神田駿河台、
日本橋橋上、
駿河町越後屋店頭、
浅草本願寺、
品川御殿山、及び小石川の
雪中である。私はまだこれらの錦絵をば一々実景に照し合した事はない。それ故例えば深川万年橋あるいは本所竪川辺より江戸時代においても果して富士を望み得たか否かを知る事が出来ない。しかし北斎及びその門人
昇亭北寿また
一立斎広重らの古版画は今日なお東京と富士山との絵画的関係を尋ぬるものに取っては絶好の案内たるやいうを
俟たない。北寿が
和蘭陀風の遠近法を用いて描いたお茶の水の錦絵はわれら今日
目のあたり見る景色と変りはない。
神田聖堂の門前を過ぎてお茶の水に臨む往来の最も高き処に
佇んで西の
方を望めば、左には対岸の土手を越して九段の高台、右には
造兵廠の樹木と並んで
牛込市ヶ
谷辺の木立を見る。その間を流れる神田川は水道橋より牛込
揚場辺の
河岸まで、遠いその眺望のはずれに、われらは常に富嶽とその麓の連山を見る光景、全く名所絵と異る所がない。しかして富嶽の眺望の最も美しきはやはり浮世絵の色彩に似て、初夏晩秋の
夕陽に照されて雲と霞は
五色に輝き山は紫に空は
紅に染め尽される折である。
当世人の趣味は大抵日比谷公園の老樹に電気燈を点じて奇麗奇麗と叫ぶ
類のもので、
清夜に月光を賞し、
春風に梅花を愛するが如く、風土固有の自然美を敬愛する風雅の習慣今は全く地を払ってしまった。されば東京の都市に夕日が
射そうが射すまいが、富士の山が見えようが見えまいがそんな事に頓着するものは一人もない。もしわれらの如き文学者にしてかくの如き事を口にせば文壇は
挙って
気障な
宗匠か何ぞのように
手厳く
擯斥するにちがいない。しかしつらつら思えば
伊太利亜ミラノの都はアルプの
山影あって更に美しく、ナポリの都はヴェズウブ火山の
烟あるがために
一際旅するものの心に記憶されるのではないか。東京の東京らしきは富士を望み得る所にある。われらは
徒に議員選挙に奔走する事を以てのみ国民の義務とは思わない。われらの意味する愛国主義は、郷土の美を永遠に保護し、国語の純化洗練に
力むる事を以て第一の義務なりと考うるのである。今や東京市の風景全く破壊せられんとしつつあるの時、われらは世人のこの首都と富嶽との関係を軽視せざらん事を
希うて
止まない。安永頃の俳書『
名所方角集』に富士眺望と題して
名月や富士見ゆるかと駿河町 素竜
半分は江戸のものなり不尽の雪 立志
富士を見て忘れんとしたり大晦日 宝馬
十余年
前楽天居小波山人の
許に集まるわれら木曜会の会員に
羅臥雲と呼ぶ
眉目秀麗なる
清客があった。日本語を
善くする事邦人に異らず、
蘇山人と
戯号して俳句を吟じ小説をつづりては常にわれらを
後に
瞠若たらしめた才人である。
故山に
還る時一句を残して曰く
行春の富士も拝まんわかれかな
蘇山人湖南の
官衙にあること
歳余病を得て再び日本に来遊し
幾何もなくして
赤坂一ツ
木の寓居に歿した。わたしは富士の眺望よりしてたまたま蘇山人が留別の一句を想い
惆悵としてその人を
憶うて
止まない。
君は今鶴にや乗らん富士の雪 荷風
大正四年四月