何事にも
倦果てたりしわが身の、なほ折節にいささかの興を催すことあるは、町中の寺を過る折からふと思出でて、その庭に入り、古墳の苔を
掃つて、見ざりし世の人を
憶ふ時なり。
見ざりし世の人をその墳墓に
訪ふは、生ける人をその家に訪ふとは異りて、
寒暄の辞を
陳るにも及ばず、手土産たづさへ行くわづらひもなし。
此方より訪はまく思立つ時にのみ訪ひ行き、わが心のままなる思に
耽りて、去りたき時に立去るも
強て袖引きとどめらるる
虞なく、幾年月打捨てて
顧ざることあるも、軽薄不実の
譏を受けむ心づかひもなし。雨の夜のさびしさに書を読みて、書中の人を思ひ、風静なる日その墳墓をたづねて更にその
為人を憶ふ。この心何事にも
喩へがたし。寒夜ひとり茶を煮る時の情味
聊これに似たりともいはばいふべし。
わが東京の市内に残りし古碑
断碣、その
半は
癸亥の
歳の災禍に
烏有となりぬ。山の手の寺院にあるもの、幸にして
舞馬の
災を
免れしといへども、移行く世の気運は永く
市廛繁華の間に金石の文字を存ぜしむべきや否や。もしこれ
杞人の憂ひにあらずとなさんか、掃墓の興は今の世に取残されしわれらのわづかにこれを知るのみに止りて、われらが子孫の世に及びては、これを知らんとするもまた知るべからざるものとはなりぬべし。
掃墓の
間事業は江戸風雅の遺習なり。英米の如き実業功利の国にこの趣味存せず。たまたまわれ
巴里にありてこれあるを見しかど、既に二十年前のことなれば、大乱以後の巴里の人士今なほ然るや否や知るべくもあらず。江戸時代にありて
普く探墓の興を世の人に知らしめし好奇の士は、『江戸名家墓所一覧』の一書を著せし
老樗軒の主人を以てまづはその鼻祖ともなすべきにや。『墓所一覧』の
梨棗に
上せられしは文政紀元の春なること人の知るところなり。
春秋の彼岸は墓参の時節と定められたり。しかれども忘れられたる古墳を尋ね
弔はんには、秋の彼岸には
既に傾きやすく、やうやうにして知れがたき断碑を尋出して、さて寺の男に水運ばせ
苔を洗ひ
蘿を
剥して
漫せる墓誌なぞ読みまた写さんとすれば、衰へたる日影の
蚤くも
舂きて
蜩の
啼きしきる声
一際耳につき、読難き文字更に読難きに苦しむべし。春の彼岸には風なほ寒くして雨の
気遣はるる日もまた多きをや。花見の頃は世間さわがしければ門をいづる心地もせざるべし。八重の桜も散りそむる春の末より
牡丹いまだ開かざる夏の初こそ、
老躯杖をたよりに墓をさぐりに出づべき時節なれ。長き日を歩みつづけて汗ばむ額も寺の庭に入れば新樹の風ただちにこれを拭ひ、木の根石の端に腰かくるも
藪蚊いまだ来らず、
醜草なほはびこらざれば蛇のおそれもなし。苔蒸す地の上には落花なほみだれてあり。日の光にかがやく木の芽のうつくしさ雨に打れし墓石の古びたるに似もやらねば、亡き人を憶ふ心落葉の頃にもまさりてまた一段の深きを加ふべし。
ことし
甲子の暮春、日曜日にもあらず大祭日にもあらぬ日なり。前夜の雨に
表通も砂ほこりをさまりて、吹き添ふ微風に裏町の
泥濘も大方はかわきしかと思はれし昼過。
丸の
内より
神田を過ぎて
小石川原町なる
本念寺に
大田南畆の墓を弔ひぬ。われ小石川
白山のあたりを過る時は、
必本念寺に入りて
北山南畆
[#「南畆」は底本では「南畝」]両儒の墓を弔ひ、また南畆が
後裔にしてわれらが友たりし
南岳の墓に
香華を
手向くるを常となせり。震災の時これらの墳墓いかがなりしや。殊に南畆の墓碑はこの
兆域にても形大なるものなれば、倒れ砕けはせざりしやと心にかかりてゐたりしが、この日行きて見るにその位置少しく変りしのみにて石は
全かりき。南岳の墓は
本のところに依然として立ちたり。自然石にて面に大田南岳墓。碑陰にまつくろな
土瓶つゝこむ清水かなの一句を刻す。これ南岳の句にして
小波巌谷先生書する所、石もまた巌谷翁の
貲を
捐てて建てられしものなり。われ初て南岳と
交を
訂せしは明治三十二年の頃清朝の人にして俳句を善くしたりし
蘇山人羅臥雲が
平川天神祠畔の寓居においてなりけり。南岳
諱は
亨。
野口幽谷の門人なり。
初陸軍士官学校に入らむとして体格検査に合格せざりしかば、素志を
翻して
絵事に従へるなり。その
初武を以て身を立てんと欲せしはその家世
征夷府に仕へて
徒士たりしによれるもの
歟。南岳
少くして耳
聾せり。人と語るに
音吐鐘の如し。平生奇行に富む。明治卅八年秋八月
日魯両国講和条約の結ばれし時、在野の政客暴民を
皷煽し電車を焼き官庁を破壊す。
輦轂の下
巡邏を見ざること数日に及べり。市民
各その欲する所を
恣にする事を得たりしかば、南岳白日衣をまとはず釣竿を肩にして桜田門外に至り
綸を
御溝に垂れて連日鯉魚十数尾を
獲て帰りしといふ。また大婚式記念郵便切手の発行せられし時都人各近鄰の郵便局に赴き局員に
請ひて、記念当日の
消印を切手に
捺せしむ。南岳
輙春画を描きたる絵葉書数葉を手にし郵便局の窓に
抵りて消印を請ふ。局員裏面の絵画に心づかず消印をなすこと三、四葉にして初て驚愕の声を発す。この時おそし南岳
臂を伸べ絵葉書を奪つて疾走す。後に人に語つて
曰くこれ
洵に
敝家の宝物なり。子孫の繁栄を祝するものけだしこれに優るものあるを知らずと。その
為人おほむねかくの如し。かつて上野なる日本美術協会の展覧会に出品して
褒状を得たり。褒賞授与の日
川端玉章手づからこれを南岳に与へしに、南岳一礼して手に取るや否や、寸断して脚下に放棄し、悠々としてその席に還りて坐す。満堂の画人皆色を失ふ。南岳おもむろに鄰席を顧て曰く諸君驚くことなかれ、我狂するにあらず。唯平生川端玉章の為人を好まず、従つてその手に触れしもの我これを
受ることを欲せざるのみと。爾来
復浮名を展覧会場に争はず。閑居自適し、時に薬草を後園に栽培して病者に与へ、また『田うごき草』と題する一冊子を刊刻してその効験を説く。人
戯に呼んで田うごきの
翁となせり。南岳また年々土中に
甕を埋めて鈴虫を繁殖せしめ、新凉の節を待つてこれを知友に
頒つ。南岳を知るものの家秋に入つて草虫
琳琅の声を聴かざる処なし。知友また呼ぶに鈴虫の翁を以てす。南岳は弓術の達人にしてまた
水府流遊泳の師たりき。
大田南畝が先人自得翁の墓誌を見るに、享保二十年七月、将軍吉宗公中川狩猟の時徒兵の游泳を
閲するや自得翁
水練に達したるを以て嘉賞する処となりしといふ。されば南岳の水練に巧なるけだし来由する所ありといふべきなり。大正四、五年の頃南岳四谷の旧居を去つて北総市川の里に
徙り寒暑昼夜のわかちなく
釣魚を事とせしが大正六年七月十三日白昼江戸川の水に溺れて死せり。人その故を知るものなし。あるひは言ふ水中にあつて卒中症を発したるならんと。時に年四十
又三なり。その
配中村氏は南畆先生が
外姑の
後裔なり。容姿艶麗そのいまだ嫁せざるや近鄰称するに
四谷小町の名を以てしたりしといふ。某男某女あり。
嗣子名は大。家を継ぎしが本年の春病んで歿したりしと。われこの日始てこれを寺僧に聞得て
愕然たりき。
因にしるす南岳が四谷の旧居は荒木町
絃歌の地と接し今岡田とかよべる酒楼の立てるところなり。この日兼てより写し置かんと思ひゐたりし南畝が
室富原氏の墓誌を手帳にしるす。墓誌の終に
悼亡の詩六首を刻したり。『蜀山集』に出でたればここに録せず。
本念寺を出で
白山権現の境内をよこぎりわづかに人力車を通ずべき垣根道を北へと歩み行けば、坂の下に蓮久寺とよべる法華寺あり。これ去年
癸亥七月十二日わが
狎友唖々子井上精一君が埋骨のところなり。門に入るに離々たる古松の下に寺の男の落葉掃きゐたれば、井上氏の
塋域を問ふ。導かれて行くにいまだ一周忌にも到らざれば、
冢土新にしていまだ
碑碣を建てず。
傍なる
妣某氏の墓前に香華を
手向けて蓮久寺を出づ。われは今日に至りても唖々子既に黄土に帰せりとの思をなすこと
能はず。この日子のわれと共にあらざるは前夜の酒を病みなぞして約に
背きて来らざるが如き心地のせらるるのみ。世に
竹馬の
交をよろこべるものは多かるべしといへども、子とわれとの如く終生よく無頼の行動を共にしたるものは稀なるべし。学生の頃悪少年を以て目せられしものは、
儕輩の
中子とわれとの二人なり。十六、七の頃には
倶に漢詩を唱和し二十の頃より同じく筆を小説に染めまた倶に俳諧に遊べり。わが
狎妓の
窃に子と情を通じたるものあり。子の情婦にしてわれのこれを奪ひしものまたなしとせず。けだし
這般の情事は烟花場裏一夕の遊戯にして
新五左衛門等の到底解し得べきところに
非ざるなり。われ田舎の人より短冊を乞はるることあるや常に唖々子が句を書して
責を
塞げり。われ俳才なく自作の句を記憶せず。これを
憶ふ時子の名吟まづわが念頭に浮びいづるを以てなり。旧交を追想して歩を移すほどに、いつしか
白山御殿町を過ぎ、植物園に沿ひたる病人坂に出づ。坂の麓に一古寺あり。門に安閑寺の三字を掲げたり。ふと安閑寺の灸とて名高き
艾を
售りしはこの寺なり。われら
稚き頃その名を聞きてさへ恐れて泣き止みしものをと心づけば、追想おのづから
縷々として糸を繰るが如し。その頃植物園門外の小径は水田に沿ひたり。水田は氷川の森のふもとより
伝通院兆域のほとりに連り一流の細水
潺々としてその間を貫きたり。これ旧記にいふところの小石川の流にして今はわづかに窮巷の間を通ずる
溝となれり。ああ四十年のむかしわれはこの細流のほとりに春は
土筆を摘み、夏は蛍を
撲ちまた赤蛙を捕へんとて日の暮るるをも忘れしを。赤蛙は皮を剥ぎ醤油をつけ焼く時は味よし。その頃
金富町なるわが家の
抱車夫に虎蔵とて背に
菊慈童の筋ぼりしたるものあり。その父はむかし
町方の手先なりしとか。老いて
盲目となり
忰虎蔵の世話になり極楽水の裏屋に住ひゐたり。虎蔵わが供をなして土筆を摘み赤蛙を捕りての帰道、折節父の家に立寄り
夕餉の
菜にもとて獲たりしものを与へたり。貧しき家の夕闇に
盲目の老夫のかしらを剃りたるが、
兀然として仏壇に向ひて
鉦叩き経
誦める後姿、初めて見し時はわけもなく物おそろしくおぼえぬ。わが家の女中ども虎蔵がおやぢはむかし多くの人を捕へ拷問なぞなしたる
報にて、目も見えぬやうになりしなりと噂せしが、虎蔵もやがてわが家より
暇取りし後いつか牛込警察署の刑事となり、わが十七、八の頃一番町の家に来りて、ゆうべは江戸川端の
待合にて芸者の寝込を捕へたりなぞ、その後家に来りし車夫に語りゐたりしを聞きし事ありき。極楽水の麓を
環りし細流のほとりには今博文館の印刷工場聳え立ちたれば、その頃仰ぎ見し光円寺の
公孫樹も既に望むべからず。小家の間の小道を上りて
久堅町より
竹早町の垣根道を過ぐるにかつて画伯
浅井忠が住みし家の門前より、数歩にして
同心町の
康衢に出づ。電車砂塵を
捲いて
来徃せり。道の向側は
切支丹坂に通ずる坂の下口にて、旧丹後舞鶴の藩主牧野家の黒板塀、玄関先の老樹と共に四十年のむかしに変る所なければ、なつかしさのあまり覚えず歩を止む。切支丹坂より
茗荷谷のあたりには知れる人の家多かりき。今はありやなしや。電車通を伝通院の方に向ひて歩みを運べば、ほどなく
新坂の
降口あり。新樹の
梢に遠く赤城の森を望む。新坂にはわが稚き頃大学総長浜尾氏の
邸、音楽学校長伊沢氏の邸、
尾崎咢堂が
居、
門墻を連ね庭樹の枝を交へたり。この坂車を通ぜざりしが今はいかがにや。電車通を行くことなほ二、三町にしてまた坂の
下口を見る。これ
即金剛寺坂なり。文化のはじめより大田南畝の住みたりし
鶯谷は金剛寺坂の中ほどより西へ入る低地なりとは考証家の言ふところなり。嘉永板の
切絵図には金剛寺の裏手多福院に接する処
明地の下を示して鶯谷とはしるしたり。この日われ切絵図はふところにせざりしかど、それと覚しき小径に進入らんとして、ふと角の屋敷を見れば幼き頃より見覚えし駒井氏の家なり。坂路を隔てて仏蘭西人アリベーと呼びしものの
邸址、今は岩崎家の
別墅となり、短葉松植ゑつらねし
土墻は城塞めきたる石塀となりぬ。岩崎家の東鄰には依然として
思案外史石橋氏の
居あり。
遅塚麗水翁またかつてこのあたりに鄰を
卜せしことありと聞けり。
正徳のむかし
太宰春台の
伝通院前に
帷を下せしは人の知る処。
礫川の地古来より文人遊息の処たりといふべし。さてわれは駒井氏の門前より目指せし小路を西に入るに、ここにもまた幼き頃見覚えたりし福岡氏の門あり。福岡氏は維新の功臣なり。門前の小径は
忽にして
懸崕の
頂に達し
紐の如く分れて南北に下れり。崕下に人家あり。鶯谷は即このあたりをいふなるべし。さるにても南畝が
遷喬楼の旧址はいづこならむ。文化五
戊辰の年三月三日、南畝はここに
六秩の
賀筵を設けたる事その随筆『一話一言』に見ゆ。
大窪詩仏が『詩聖堂詩集』巻の十に「
雪後鶯谷小集得庚韻」と題せるもの南畆の家のことなるべし。その作に曰く
遷喬楼在
二懸崖上
一 〔
遷喬楼は
懸崖の
上に
在り
闌干方与
二赤城
一平
闌干は
方に
赤城と
平らなり
霞気不
レ消連旬雪
霞気も
消さず
連旬の雪
万瓦渾如
レ粧
二水晶
一 万瓦は
渾て
水晶を
粧うが
如し
疑在
二広寒清
府
一 疑うらくは
広寒清虚の
府に
在るかと
四望生
レ眩総瑩瑩
四望は
眩を
生じて
総て
瑩瑩たり
主人愛
レ客兼愛
レ酒 主人 客を愛し
兼ねて酒を愛し
暇日開
レ宴迎
レ客傾
暇日 宴を
開き 客を
迎えて
傾す
衣冠何須挂
二神武
一 衣冠何ぞ
須ん
神武に
挂ることを
与
レ身并忘刀筆名
身と
与に
并て
忘る
刀筆の名
我是江湖釣漁客
我は
是れ
江湖の
釣漁の客
平生不
三曾接
二冠纓
一 平生曾て
冠纓に
接せず
十里泥濘深
レ於
レ海 十里
泥濘 海よりも深けれども
今日肯来訂
二酒盟
一 今日
肯て来たりて
酒盟を
訂ぶ
唯応
三爛酔報
二厚意
一 唯だ
応に
爛酔して
厚意に
報ゆべく
対
レ君不
レ酔作麼生 君と
対して
酔わずんば
作麼生せん〕
また
六樹園が狂文『
吾嬬なまり』に鶯谷のさくら会と題する一文ありて、
勾欄の前なる桜の咲きみだれたるが今日の風にやや散りそむといへど、今はそれかとおぼしき桜の古木もさぐるによしなし。このあたり今は
金富町と
称ふれど、むかしは
金杉水道町にして、南畆が
[#「南畆が」は底本では「南畝が」]いはゆる
金曾木なり。懸崖には
喬木なほ天を
摩し、樹根怒張して巌石の
状をなせり。
澗道を下るに竹林の間に椿の花開くを見る。人家の犬
籬笆の間より人の来るを見て吠ゆ。宛然
田家の光景なり。細径に従つて盤回すればおのづから金剛寺の
域に出づ。寺はわづかに堂宇を遺すのみにして墓田は
尽く人家となりたれば、旧記に見る所の
実朝の墓も今は尋ぬべきよすがもなし。本堂の前を過ぎ
庫裏と人家との間の路地に入るに、迂回して金剛寺坂の中腹に出でたり。路地の中に
稚き頃見覚えし車井戸なほあるを見たり。大都の
康荘は年々面目を新にするに反して
窮巷屋後の
湫路は幾星霜を経るも依然として旧観を
革めず。これを人の生涯に観るもまたかくの如き
歟。人一たび勢利の
巷に
奔馳するや、時運に激せられて旧習に
晏如たる事
能はず。たまたま鄰人の新聞紙をよみて衣服改良論を
称るものあれば
忽雷同して、腰のまがつた細君にも洋服をまとはしめ、児輩の手を引いて、或時は劇場に少女歌劇を見、或時は日比谷街頭に
醜陋なる官吏の銅像を仰いでその功績を説かざるべからず。然るに
独吾輩の如き世間無用の
間人にあつては、あたかも陋巷の湫路今なほ車井戸と
総後架とを保存せるが如く、
七夕には妓女と
彩紙を
截つて狂歌を吟じ、中秋には
月見団子を食つて泰平を皷腹するも、また人のこれを
咎むることなし。幸なりといふべし。
金剛寺坂の中腹には夜ごとわが
先考の肩
揉みに来りし
久斎とよぶ
按摩住みたり。われかつて卑稿『
伝通院』と題するものつくりし折には、殊更に久を休につくりたり。久斎姓は村瀬名は久太郎といへり。その父寅吉といへるは幕府の
御家人なりしとか。わが家金富町より一番町に移りし頃久斎は病みて世を去り、その妻しんといへるもの、わが家に来りて
炊爨浣滌の労を取り、わづかなる給料にて老いたる
姑と幼きものとを養ひぬ。わが父三たび家を
徙して、
終に
燕息の地を大久保村に卜せられし時、
衡門の傍なる
皀莢の樹陰に
茅葺の廃屋ありて住むものもなかりしを、折から久斎が老母重き病に伏したりと聞き、わが母上ここに引取り、やがて
野辺のおくりをもなさしめ玉ひけり。しん深くこの恩義に感じてや、
先考館舎を
捐てられし後は、
一際まごころ籠めてわが家のために立ちはたらきぬ。大正七年の暮われ先考の旧居を人に譲り琴書を築地の
居に移せし時、しんは年漸く老い、両眼既におぼろになりしかば、その
忰の既に家を成して
牛込築土に住みたりしをたより、次の年の春
暇を乞ひてわが許を去りぬ。去るに望みて、御用の節にはいつにても御知らせ下さりましさしづめ来月の大掃除にはお手つだひに上りませうと言ひゐたりしがそのかひもなく、一月あまりにして突然身まかりし趣、忰のもとより
言越し
来りぬ。享年六十余歳。流行感冒に
罹りて歿せしといふ。しん
逝きて後ここに幾年、わが家再びこれに代るべき良婢を得ざりき。しんは武州南葛飾郡新宿の農家に生れ
固より文字を知るものにもあらざりしかど、女の身の守るべき道と為すべき事には一として
闕くところはあらざりき。
良人にわかれて後永く
寡を守り、姑を養ひ、児を育て、誠実の心を以てよく人の恩義に報いたり。われ大正当今の世における新しき婦人の為す所を見て
翻つてわが老婢しんの生涯を思へば、おのづから畏敬の念を禁じ得ざるも
豈偶然ならんや。しんの墓は
小日向水道町なる日輪寺にありと聞きしのみにて、いまだ一たびも行きて
弔ひしことなければ、この日初夏の
のなほ高きに加へて、寺は
一牛鳴の間にあるをさいはひ杖を曳きぬ。路傍に
石級あり。その
頂に寺の門立ちたり。石級の傍別に道を開きて登るに
易からしむ。登れば一望
忽曠然として、
牛込赤城の
嵐光人家を隔てて
翠色滴らむとす。
供養の
卒塔婆を寺僧にたのまむとて
刺を通ぜしに寺僧出で来りてわが面を熟視する事
良久にして、わが家小石川にありし頃の事を思起したりとて、ここに
端なく四十年のむかしを語出せしもまた奇縁なりけり。
やがて寺のしもべ来りて
兆域に案内す。兆域は本堂のうしろなる
丘阜にあり。
石磴を登らむとする時その麓なる井のほとりに老婆の石像あるを見、これは何かと
僕に問へば
咳嗽のばばさまとて、せきを病むもの
願を掛け病
癒れば甘酒を供ふるなりといへり。この日も
硝子罎の甘酒四、五十本ほども並べられしを見たり。
霊験のほど思ひ知るべし。
日輪寺を出で小日向水道町を路の行くがままに関口に出で、目白坂の峻坂を
攀ぢて
新長谷寺の樹下に
憩ふ。
朱塗の
不動堂は幸にして震災を免れしかど、境内の
碑碣は悉くいづこにか運び去られて、懸崖の上には三層の西洋づくり
東豊山の眺望を
遮断したり。来路を下り
堰口の
瀑に
抵り見れば、これもいつかセメントにて築き改められしが上に鉄の釣橋をかけ渡したり。
駒留橋のあたりは電車製造場となり上水の流は化して
溝※[#「さんずい+賣」、178-2]となれり。鶴巻町の新開町を過れば、
夕陽ペンキ塗の看板に反映し洋食の臭気
芬々たり。
神楽坂を下り
麹町を過ぎ家に帰れば日全く
昏し。燈を
挑げて食後
戯にこの記をつくる。時に大正十三年
甲子四月二十日也。