荷風戰後日歴 第一

永井荷風




昭和廿一年一月一日(熱海にて)

 

一月初一。

晴れて風なし。またとはなき好き元旦なるべし。去年の暮町にて購ひ來りし暦を見て、久振に陰暦の日を知り得たり。今日は舊十一月廿八日なるが如し。世の噂によれば諸會社株配當金も去年六月以後皆無となりしのみならず、今年は個人の私有財産にも二割以上の税かゝると云。今日まで余の生活は株の配當金にて安全なりしが、今年よりは賣文にて餬口の道を求めざるべからず。去秋以後收入なきにあらねど、そは戰爭中徒然のあまり筆とりし草稿、幸にして燒けざりしをりしが爲なり。七十歳近くなりし今日より以後、余は曾て雜誌文明を編輯せし頃の如く筆執ることを得るや否や。六十前後に死せざりしは此上もなき不幸なりき。老朽餓死の行末思へばおそろし。朝飯あさめしを節するがため褥中に書を讀み、正午に近くなるを待ち階下の臺所に行き葱と人參とを煮、麥飯の粥をつくりて食ふ。食後炭火なければ再び寐床に入り西洋紙に鉛筆にて賣文の草稿をつくる。
 

一月初二。

晴。ヒユースケン墓の事をかきて墓畔の梅と題し、時事新報社に送る。
 

一月初三。

半晴。風寒からず。新生社青山氏來話。※(「日+甫」、第3水準1-85-29)下大雨。
 

一月初四。

晴。暖。草稿を青山氏に郵送す。
 

一月初五。

半晴。風寒し。銀座町にて饅頭を買ふ。一箇金三十圓。甘いこと請合うけあひなりと言へり。
 

一月初六。

日曜日。半晴。洋傘を買ふ。貳百九拾圓。
 

一月初七。

晴。移轉の日も遠からねば座右の物を整理す。
 

一月初八。

晴。風甚寒し。
 

一月初九。

南風、稍暖。森銑三氏來書。
 

一月十日。

晴。時事新報記者石川輝氏來話。
 

一月十一日。

晴。籾山梓月子來書。
 

一月十二日。

晴。寒甚し。此地の鳶頭とびがしらしげさん來りて轉居の荷づくりをなす。
 

一月十三日。

日曜日。
 

一月十四日。

晴。暖。東京の諸友に市川へ轉居の事を報ず。
 

一月十五日。

晴。木戸氏來話。
 

一月十六日。

晴。早朝荷物をトラツクに積む。五叟の妻、長男、娘これに乘り朝十一時過熱海を去る。余は五叟、その次男、田中老人等と一時四十分熱海驛發臨時列車に乘る。乘客雜沓せず。夕方六時市川の驛に着す。夜色暗淡。歩みて菅野二五八番地の借家に至る。トラツクの來るを待てども來らず。八時過に及び五叟の細君その娘と共に來りトラツク途中にて屡故障を生じたれば横濱より省線電車に乘換へたりと云。長男十時過に來りトラツク遂に進行しがたくなりたれば目黒の車庫に至り、運轉手明朝車を修繕して後來るべしと云ふ。夜具も米もなければこれを隣家の人に借り哀れなる一夜を明したり。
 

一月十七日。

晴。荷物を積みし車の來りしは日も既に暮れ果てし後なり。米炭その他ぬすまれしもの少からずと云。
 

一月十八日。

晴。近巷空地林園多くして靜なり。時節柄借家としては好き方なるべし。省線市川の停車場まで十五分ばかりと云。
 

一月十九日。

晴。寒甚しからず。荷物を解き諸物を整理す。省線停車場前に露店多く出づと聞き午後行きて見る。京成電車踏切近くなる門構の家に汁粉一圓四十五錢との貼札出せるを見、入りて食するに片栗粉を團子のやうになし汁は薄甘き葛湯なり。汁粉といふ語も追々本來の意を失ひ行くものゝ如し。
 

一月二十日。

日曜日。晴。暖。午下中央公論社小瀧穆氏來話。頃日專賣局賣出しの卷烟草ピース一箱を贈らる。深更雨。
 

一月廿一日。

細雨霏々午に至つて霽る。風暖にして春既に來るの思あり。驛前の露店にてわかさぎ佃煮を買ふ。一包貳拾圓なり。夜机に向はんとせしが隣室のラヂオに妨げられて歇む。
 

一月廿二日。

晴。暖氣春の如し。疥癬愈甚しければ午前近巷の醫師を尋ねて治を請ふに、傳染せし當初なれば治し易き病なれど、全身に蔓衍しては最早や藥治の能くすべきところならず。硫黄を含む温泉に浴するより外に道なしと言へり。醫師また言ふ。これ歸還兵の戰地より持ちかへりし病にて、國内傳染の患者甚多しとなり。驛前の市場にて惣菜物蜜柑等を購ひ、京成線路踏切を越え松林欝々たる小徑を歩む。人家少く閑地多し。林間遙に一帶の丘陵を望む。通行の人なければ樹下の草に坐し鳥語をきゝつゝ獨り蜜柑をくらふ。風靜にして日の光暖なれば覺えず瞑想に沈みて時の移るを忘る。この小徑より數丁、垣根道を後に戻れば寓居の門前に至るを得るなり。この地に居を移してより早くも一週日を經たれど驛前に至る道より外未知る處なし。されど門外の松林深きあたり閑靜頗る愛すべく、世を逃れて隱れ住むには適せし地なるが如し。住民の風俗も澁谷中野あたり、東京の西郊にて日常見るものとは全く同じからず、所謂インテリ風に化せざるところ大に喜ぶべし。されど道路の地質及び四方一帶の地勢よりして考ふるに、秋冬の交大雨の際河川汎濫の事なきや否や。慮ふべきは唯この一事のみ。
 

一月廿三日。

快晴。暖昨日の如し。本年寒中の暖氣、盖し異例なるべし。
 

一月廿四日。

晴。暖。午前病院の歸途近巷を歩む。生垣つゞきの屋敷町、いづこの横町も人通りなく、處々の庭園に南天燭、梅もどきの實の霜に染みて紅玉の如きを見る。熱海より轉送の郵便物到着す。進駐軍開封檢閲の痕あり。※(「日+甫」、第3水準1-85-29)下中村光夫氏來話。コクトオの戯曲 Les Parents Terribles を貸さる。燈刻微熱あり。
 

一月廿五日。

陰。後に晴。
 

一月廿六日。

陰。午前病院。晩食後小説の腹案をなさむとす。忽にしてラヂオに妨げられて歇む。燈下讀書執筆ふたつながら思ひのまゝならず。悲しむべきなり。
 

一月廿七日。

日曜日。細雨須臾しばらくにして歇む。※(「日+甫」、第3水準1-85-29)下凌霜子來り話す。去年一月廿五日、新富町の別宅、その近傍は空襲の火災に罹りしが、幸に無事なりしを以てその紀念にとて鮓と萩の餅とをつくりたりとて、各數箇を携來りて贈らる。又栗本鋤雲の匏庵遺稿、鶴梁文鈔を貸與せらる。夜に入り雨。
 

一月廿八日。

晴。風あり。小堀杏奴來書。
 

一月廿九日。

雪もよひの空なり。昨今屡強震あり。
 

一月三十日。

陰。
 

一月卅一日。

晴。燈刻中村光夫氏來りミユツセ詩集其他貸與。
 

二月初一。

雨。午後より雪。
 

二月初二。

陰。午後より日輝きて稍あたゝかになりぬ。病院の歸途驛前に至り見るに雪後の泥路をいとはず露店の賑平日の如し。甘藷は禁止になりしとて賣るものなし。菓子ぱん(一枚一圓)五六片を購ひ京成電車線路に沿へる靜なる林下の砂道を歩みながら之を食ふ。家なき乞食になりしが如き心地して我ながら哀れなり。
 

二月初三。

日曜日。晴。風寒し。午近く米飯の代りに片栗粉の汁粉啜りて飢を凌がむと、それを賣る家まで至り見しに、二月中當分休の札を出したり。市川に移り住みてより數日の後、京成電車通にふと此店を見つけ、初は少しく惡臭あるに苦しみしが、寒さをしのぐにもよければ、毎日のやうに行きて食ふやうになりしなり。何事も其日其場かぎり、長續きせぬは今の世の中是非なきことなるべし。夜小川丈夫氏來話。
 

二月初四。

立春。晴。風甚寒し。
 

二月初五。

晴。午前扶桑書房主人來話。饂飩一包惠贈。小川氏來話。※(「日+甫」、第3水準1-85-29)下川端康成氏、鎌倉文庫社員來話。夜小川氏松戸市傳染病研究所勤務醫學博士近藤奎三氏を伴來りて病を診察す。明朝一應檢尿の後投藥すべしとなり。近藤氏も小川氏と同じく近隣に住すと云。
 

二月初六。

陰。寒嚴しからず。晩間近藤博士來診。
 

二月初七。

午下雪。
 

二月初八。

陰。
 

二月初九。

陰。後に晴。薄暮近藤博士來診。
 

二月十日。

日曜日。小川氏來話。夜藥湯に浴す。
 

二月十一日。

陰。春寒料峭。雪ならむとしてわづか[#「纔」の「口」に代えて「免−(危−厄」)−儿」、11-6]に晴る。午後凌霜子來り萩の餅を惠まる。舊著二三册、文明花月合本等を貸す。勝部氏來話。
 

二月十二日。

晴。暖。正午小山書店主人來話。小川氏より魔法焜爐を貰ふ。薄暮近藤博士來診。
 

二月十三日。

晴。午後凌霜子來りて疥癬治療の藥品、湯の花其他を惠まる。
 

二月十四日。

晴。暖。
 

二月十五日。

晴。暖。
 

二月十六日。

雨。
 

二月十七日。

日曜日。晴。梅花開く。新貨幣發行。また本日より銀行預金拂戻停止の布令出づ。突然の發令なれば人心騷然たり。生田葵山去年十二月卅一日世田ヶ谷代田の家にて逝去の由。未亡人より通信あり。行年七十一と云。余生田氏とは十年來交を斷ちゐたりしが、木曜會俳席に行きし頃には巖谷撫象氏と共に時々その家を訪ひ、左の如き絶句を贈りしこともありき。
尋君偶到澁溪西。一路春風穿菜畦。
不問先知故人宅。竹林深處午※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)啼。
生田氏の家は去年空襲頻々たりし頃にも幸に火災を免れしが如し。
 

二月十八日。

晴又陰。市川驛前露店の賑ひ、新令布告後も更に變るところなし。夜また藥湯に浴す。
 

二月十九日。

陰。餘寒料峭。午後新生社々員來話。罹災日録續稿交附。燈刻近藤國手來診。小堀杏奴氏來書。
 

二月二十日。

陰。後に晴。林間の夕陽甚佳。夜橘南谿の東遊記をよむ。簡易流暢の文、余の常に軌範となすところ。藤樹先生傳の如き即その一例なるべし。
 

二月廿一日。

晴。風あり。銀行預金拂戻停止の後闇市の物價また更に騰貴す。剩錢つりせんなきを以て物價の單位拾圓となる。
 

二月廿二日。

晴。風甚寒し。
 

二月廿三日。

晴。風寒きこと昨日の如し。熱海のとびしげ來話。熱海の梅花既に落しと云。
 

二月廿四日。

日曜日。陰。午後中央公論社小瀧氏來話。この日正午より水道涸渇。隣家井戸の水を貰ひ飯を炊ぐ。夜雨瀟々。
 

二月廿五日。

雨歇みしが空晴れず。寒稍寛なり。午後より日光を見る。
生田葵山の事
余始て生田氏を知りしは明治三十二三年の頃なるべし。麹町元園町なる巖谷小波先生が木曜會の席上に於てなり。京都の人にて其家は成田屋といひて富める酒問屋なりし由。破産の後小説家三宅青軒をたよりて東京に來り小波山人が五番町の家に寄寓し、二十歳頃より文筆を以て口を餬しゐたり。余の初めて知りし時は三番町の立身館といふ下宿屋にゐたり。黒田湖山人、西村渚山人、生田葵山人の三氏は當時小波門下の才子として一部の人には早く其名を知られゐたり。文才なきにあらざりしかど小學校卒業程度の學歴を有するのみなれば遂に人後に落ち其名も次第に文壇より忘れ去らるゝに至りしなり。大正二三年の頃獨逸に行きしが歐洲大戰の間際にて久しく居ること能はず、英國に赴き半歳ほどにて東京に歸り一時泉岳寺畔に僑居す。大正十年頃妻を娶りて世田ヶ谷代田に移り住みたり。著作の小説頗る多けれど人の記憶に留るもの殆無きが如し。余が米國遊學の頃(明治三十八九年)中央公論誌上に掲載せられし※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の腸、和蘭陀皿の如きは佳作なりき。※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の腸は新宿の娼妓を描きしものなりき。
 

二月廿六日。

陰。銀行預金封鎖の爲生活費を得んとて中央公論社顧問囑託となる。右につき同社より電報來る。燈刻近藤博士來診。病荏苒たり。
 

二月廿七日。

陰。暖。深更雨。
 

二月廿八日。

天氣快晴。春光洋々。正午小瀧氏來話。※(「日+甫」、第3水準1-85-29)下凌霜子來話。
 

三月初一。

雨霏々。町會より紙幣に貼る印紙(一人に付百圓ヅ丶)を配布す。
 

三月初二。

陰。舊紙幣通用本日限り。銀行郵便局前に群集列をなすこと二三丁に及ぶ。驛前の露店雜貨を賣るものばかりにて、飮食店は一軒もなし。肴屋八百屋も跡を斷ちたり。汁粉賣るもの唯一軒目にとまりたれば一椀を喫して歸るに、五叟の家人恰も新聞をひろげ汁粉にて死したるものあり。甘味に毒藥を用ひしが爲なりと語り合へるところ。余覺えず戰慄す。惜しからぬ命もいざとなれば惜しくなるものと見ゆ。
 

三月初三。

日曜日。昨夜の雨いつか雪となり居たりしが午前中に歇みたり。餘寒甚し。夜また雨。
 

三月初四。

陰。汁粉の毒にあたりはせぬかと一昨日より心配しゐたりしが、今日に至るも別條なし。但し數日來面部に浮腫むくみあり。身體何ともなく疲勞す。
 

三月初五。

晴。暖。午後小山書店來話。新圓通用以來肴屋八百屋店を閉ぢ人皆副食物なきに苦しむ。余は幸にして新生社より貰ひし米國製ハム鑵詰、又山形縣の人より贈來りし干柿あれば四五日の間は平日の如く箸を取り得べし。昏暮近藤國手來診。病大方癒ゆ。
 

三月初六。

毎朝鶯語をきく。幽興限なし。
 

三月初七。

陰。鶯頻に鳴く。近巷の園梅到る處滿開なり。農家の庭には古幹に苔厚く生じたる老梅あるを見る。東京には無きものなり。籬笆茆舍林下に散見する光景おのづから俳味あり。正午鳶重熱海より來り話す。糟漬のセルリーを贈らる。風味頗佳し。
 

三月初八。

晴。北風烈しく寒甚し。正午新生社主人來り新紙幣二千圓を惠まる。昨年來ユーゴーの詩集を繙くこと日課の如し。徹宵風歇まず。
 

三月初九。

晴。風歇みて稍暖なり。午前小川氏來り草稿の閲讀を乞ふ。淺草の囘想記なり。町を歩みて人參を買ふ。一束五六本にて拾圓なり。新圓發行後物價依然として低落の兆なし。四五月の頃には再度インフレの結果私財沒收の事起るべしと云。去年此日の夜半住宅燒亡。藏書悉く灰となりしなり。
 

三月十日。

日曜日。正午雪。新聞紙に米國製の鑵詰また煙草を所持するもの、米國憲兵の知るところとなれば捕へらるゝ由の記事あり。余が手許には新生社また時事新報社より貰ひし物少からず、現に朝夕ハムを食す。空鑵をいづこに捨つべきや。午後凌霜子來り館柳灣が林園月令を貸與せらる。又疥癬の妙藥を惠まる。雪歇まず。
 

三月十一日。

晴。北風。寒甚し。午前小川丈夫氏來話。森銑三氏書あり。その一節に曰く、
御稿爲永春水(中略)早速拜讀仕候。春水と其作品とに就きては江戸文學專攻家を以て任じ居候人々も一向問題に致さず、何やら賤しむべき作家の如く見られ居候處、玉稿に依りて大に其眞價を認められ候事、第一に春水自身地下に感泣候事と存じ申候。人の尻馬に乘りてかれこれ申すやうな人のみ多き折から、玉稿はひとしほ嬉しく拜讀仕候事に御座候。恕軒學海の兩翁が春水を認められ居候事、さすがと存候が、それにつきて思出し候は菊池三溪も亦梅暦を愛讀致され候ものゝ如く、その一節を漢譯候もの有之、同翁の著譯準綺語にそれも加へられ居候に、同書刊行に際し校訂者佐伯篁溪氏下らぬ遠慮よりして、その章を取除き遂に活字にならずにしまひ候。其原稿は先年佐伯氏方にて一見、多分無事に存し居り申すべく何かの機會に世に出したきものと存じ申候。なほ坪内博士の小説神髓は小生まだ讀むに及ばず候へども其内には馬琴を貶し春水を稱せられ居候ことも有之には無之や。小生など春水を讀む資格を缺き居候者に候へども、京傳より更に後れて文筆生活に入り天保の惡しき時代に行逢ひ候事氣の毒なる事、京傳などにしてもあまりに弱氣にて作家としての矜恃を持つに及ばず候ひし事を遺憾と致し居候が、春水に對して一層その感を深く致申候。但しそれだけに又玉稿によりてそのよさの力説せられ候事を喜ばざるを得ず候。猶々些事に候へども種彦の祿高は寛政重修諸家譜にて判然候べく、不日いづこかにて一覽の上御報告に及び申すべく候(以下略)
 

三月十二日。

晴。餘寒料峭。燈刻近藤博士來診。初更より雪。電燈消ゆ。
 

三月十三日。

雪また雨。春寒殊に甚し。午後に霽る。
 

三月十四日。

晴。午後凌霜子來り過日神田今川小路の古き筆匠玉川堂にたのみ細筆を注文いたし置きしにこの程出來上りしとの手紙を得たれば購來れりとて、不換金と名づけしもの數枝を贈らる。厚情感謝に堪へず。今川小路より猿樂町の一部は幸に火災を免れしが如し。余の初て玉川堂の名を聞きしは一番町に在りしころなれば四十餘年のむかしなり。思ふに現在の店もむかし在りし處なるべし。その頃店の裏手に小庭を前にせし貸席ありて折々俳諧謠曲の會などの催しをなすものありき。余は荒木竹翁につきて琴古流の尺八を學びゐたれば翁父子及び門下の人々と一二度さらひの會に赴きしこともありしなり。その頃の事を思返せば三崎町の靜なる横町に庭ひろき藥湯ありて、閑人等浴後半日碁など打ちゐたるを見しこともありき。徃事茫々都て夢のごとし。
 

三月十五日。

晴、春風嫋々。市川驛前の闇市にて一老婆のふかしたる里芋賣りゐたるを見、花見頃のむかしを思出でゝこれを購ふ。但し一つ一圓とは驚くべし。木戸氏來書。島中氏來書。生活費の事につき懇切に心配すべき趣しるされたり。午後朝日新聞記者來訪。夕刊紙上連載の長編小説がほしき由。
 

三月十六日。

晴。午後陰。風寒し。
 

三月十七日。

日曜日。雨まじりの雪、朝まだきより降りて歇まず。電氣も來らず電氣焜爐も使用すること能はざれば炭火にて粥を炊ぐ。戰後生活の不便思ふべし。午後小川氏來話。午後電氣復舊。
 

三月十八日。

彼岸の入なるに雨降りて寒し。
 

三月十九日。

晴。暖。町會にて蚊帳を買ふ。金拾參圓なり。
 

三月二十日。

雨。正午扶桑書房主人來り新圓貳千圓および米國製食料品を贈らる。午後小瀧氏來り中央公論社顧問給料金五百圓を贈らる。頃日郵便物檢閲の爲遲延數日に及ぶと云。川端康成氏來り辭書言泉を贈らる。
 

三月廿一日。

春分。晴。午後うさぎや主人來話。馬鈴薯砂糖草餅を贈らる。
 

三月廿二日。

晴。
 

三月廿三日。

雨。
 

三月廿四日。

日曜日。晴。東京にてはいよ/\米の配給なくなり粗惡なるパンにて人民露命をつなぐやうになりしとの噂あり。川一筋隔てしのみなれば市川邊も遠からずこの憂目にあふなるべし。人より句を請はれて、
葛飾に住みて間もなし梅の花
紅梅にまじりて竹と柳かな
鶯や借家の庭のほうれん草
 

三月廿五日。

晴。風烈し。江戸川堤を歩す。
 

三月廿六日。

晴。暖。午後漫歩。手兒奈堂に賽す。境内の借家にかの贋筆製作者依然として住めるが如し。店の窓に紅葉山人の書幅を掛け玩具など置き並べたり。出版商佐藤恆二氏來話。鎌倉文庫より使の人單行本印税金新圓にて金五千圓持參す。薄暮近藤氏來診。
 

三月廿七日。

晴。春風嫋々。市中の園林到る處梅花を見ざるはなし。午後うさぎや谷口氏、朝日記者某氏。扶桑書房主人。新生社主人來話。扶桑主人白米五升を贈らる。夜新生社の爲に昭和十六年日誌を寫す。
 

三月廿八日。

晴。暖。午前床屋をさがし歩む。漸くにして菜圃の間に之を見出し入りて理髮せしむ。去年の暮熱海にて刈りしまゝなれば蓬の如くになりゐたりしなり。夜雨。初更近藤博士來り種痘をなす。深情謝すべし。
 

三月廿九日。

陰。東南の風強し。漫歩驛前の闇市にて買物。
インキ 一合 金八圓
状袋  一枚 十錢ヅヽ
洗面器 一個 五拾圓
 

三月三十日。

晴。暖氣初夏の如し。コクトーの戯曲 Les Parents Terribles を讀む。
 

三月卅一日。

晴れて好き日曜日なり。鶯と雀の聲に早く目覺めたり。扶桑書房主人白米また五升を惠まる。午後より烈風夜に入るも歇まず。電燈終夜點ぜず。
 

四月初一

(舊二月[#改行]晦)晴。銀行封鎖預金毎月三百圓引出し得べき筈なりしに當月より金百圓となる。政府に一定の方針なく朝令暮改の窮状笑ふべく憂ふべきなり。農家の庭に桃の花さき、畠に麥青く、菜の花またし。
 

四月初二。

晴。春色漸く酣なれど、家内の火鉢に火なければ朝夕は手足の先猶寒きをおぼゆ。
 

四月初三。

晴。午後新生社員酒井氏來話。
 

四月初四。

雨。新生社主人青山氏谷崎氏が上京を機會に、同氏と余とを招飮したき趣、昨日社員酒井氏を遣はされしかど、病後のつかれ猶痊えざれば、江戸川の堤に近き郵便局に至り電報にて辭意を報ず。省線驛前を過るに繁華の四辻に立ちて衆議員選擧候補者らしきもの演説をなす。人だかりに交りて聞くに、其言ふところ西洋人向ホテルの番頭の挨拶の如く、又明治のむかし横濱に在りし商館番頭のお世辭に異らず。一國の人民一たび戰に敗るゝや、かくまで卑屈になり得るものかと覺えず暗涙を催さしむ。一時歇みたる雨また降來りたれば甘藷※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)卵を買うてかへる。岡本氏越前よりボードレール英譯本また菅茶山が黄葉夕陽村舍詩一帙を贈らる。小堀杏奴氏信州蓼科より來書。薄暮中村光夫氏來話。
 

四月初五。

晴。小川氏來り座布團を贈らる。五叟子信州より取寄せし荷物の中より余が先考の墓誌搨本を見出したりとて示さる。其文左の如し。
正四位勳五等永井君墓志
永阪周撰并書
君名久一郎。字耐甫。初名温。字伯良。號禾原。舊名古屋藩士永井匡威君長子。幼好學。明治元年王政維新。君年甫十七。竭力國事。走四方。二年志于西學。負笈入東京。三年爲大學南校貢進生。四年游學美國。六年歸朝。尋拜工學少師。後任文部内務統計院參事院諸官。十七年奉命赴歐羅巴各國。考査博覽會及衞生事項。廿四年任文部省會計局長。遷參事官。廿六年進文部書記官高等官三等。廿八年陞叙勳五等。賜瑞寶章。廿九年叙正五位。三十年致仕。特旨叙從四位。同年入日本郵船會社。爲上海支店支配人。三十三年轉横濱支店長。三十九年贈雙光旭日章。四十五年擢爲維新史料編纂會委員。大正二年一月四日病卒。距生嘉永五年八月二日。春秋六十二。葬東京雜司谷。其病革。特旨叙正四位。盖異數也。配鷲津氏生三男一女。長曰壯吉。嗣。次曰貞二郎。出襲鷲津氏。三曰威三郎。留學獨逸。女夭。君性温摯。任事不撓。博渉書史。最善詩。著有來青閣集。
 

四月初六。

絲雨殘梅に滴る。風冷なり。或人よりメリヤス下着(上下千圓)ワイシヤツ(二百圓)を買ふ。
○噂のきゝがき
數日前のことなるべし。大阪にて警吏朝鮮人の闇賣をなすもの多數を捕へしに、同國人之を取返さんとて警察署を襲ふ。警吏こゝに於て日日驛前に開かるゝ闇市を包圍し誰彼の差別なく引致せんとす。闇屋の中には日本人も交りゐたりしが、これも朝鮮人の身方となり警吏と爭ひ、遂に雙方ピストルを放つに至る。この騷に米國憲兵の一隊事情に通ぜざれば機關銃を放ち亂鬪する日鮮人及び警吏を追拂ひたり。死傷者少からざりしと云。此事件米人檢閲の爲新聞紙には記載せられず。米人口には民政の自由を説くといへども、おのれに利なきことは之を隱蔽せんとす。笑ふべきなり。
 

四月初七。

日曜日。風冷。微邪。
 

四月初八。

晴。昭和十七八年空襲猶甚しからざりし頃、芝口の茶漬飯屋金兵衞にて心やすくなりし深澤さんといふ人(茅場町洋食店大米樓の若主人)突然尋ね來り、その頃余が修繕を依頼せし服部製の懷中時計をとゞけくれたり。その後東京は焦土となり今日まで余が避難先を知らざりし爲お預りの時計もそのまゝになし置きしが、過日偶然この地においでの由聞知りしと言ふ。四五年ぶりにて懷中時計を眺め時間を知るも何やら物珍らしき心地す。暮方出版商二人來話。應接厭ふべし。
 

四月九日。


 

四月十日。

陰。※(「日+甫」、第3水準1-85-29)下凌霜子來話。築地宮川の※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)肉を贈らる。
 

四月十一日。

陰。午前小川氏を訪ふ。在らず。燈刻中村光夫氏來り拙稿ひとりごと六月の雜誌展望に掲載したしと言ふ。晩飯すませし頃文學狂とおぼしき洋裝の一婦人來り面會を求む。取次の家人不在なりと答へしに、其家遠ければ一晩泊めてもらひたしとてなか/\去らず。取次の人こまり果てしが幸にして事なきを得たり。余は物陰にかくれて其樣子を見ざりしかど、年は三十前後、容貌十人並、住所姓名は口にせざりしと云。蓐中ひとりごと草稿閲讀。改題して問はずがたりとなす。
 

四月十二日。

晴。櫻花既に散り初む。
 

四月十三日。

晴。知る人の世話にて八幡町の洗湯に入る。裏口よりそつと入るなり。闇値貳圓と云。食鹽兩三日來品切。醤油ソースの類いづれも鹽氣なし。已むことを得ず澤庵漬梅干等を買ひて惣菜の代とす。食鹽一升の闇値は白米二升引替なりと云。戰爭以來意想外の事多けれど鹽一升百圓以上に上りしは唯驚くの外なし。
 

四月十四日。

日曜日。晴。風冷。薄暮種田生來話。
 

四月十五日。

晴。風冷。昨日の如し。此頃米兵暴行掠奪の噂頻々たり。黄昏銀座通にて毆打せられし上紙入を奪はれしものありと云。日本人の追剥亦少からず。夜間外出は何處いづこに限らず愼しむべしとなり。小堀杏奴、伊藤秀子來書。
 

四月十六日。

晴。近巷の園林に桃李、木瓜、雪柳、小米櫻、其他百花次第に爛漫たらむとす。麥早くも舒びて穗あり。正午扶桑書房清水氏來り青森の林檎、新宿中村屋ドーナツ其他を贈らる。小川氏來話。共に八幡町の闇湯に浴す。
 

四月十七日。

雨。夜初て蛙聲をきく。去年岡山の西郊にて聞馴れしものとは其音調少しく異るところあり。人に各郷音あるは言ふを俟たず。蛙聲亦之に類するは今夜初て知る所。甚興味あり。
 

四月十八日。

晴。南風烈し。午後八幡町の湯屋に行きしが休の札出したれば歸途垣根道の曲り行くに從ひ歩みを運ぶに、老榎古松欝然として林をなす處、一宇の廢祠あり。草間の石柱を見て初て白幡天神社なるを知る。
 

四月十九日。

晴。午前小川氏來話。炭二俵を買ふ。(一俵八十圓)正午扶桑書房主人來話。※(「日+甫」、第3水準1-85-29)下時事新報記者來話。
 

四月二十日。

晴。凌霜子來書。簡末に句あり。
出汐まつ舟の灯や春の雨  凌霜
佗住や足袋干すほどの春日影  凌霜
 

四月廿一日。

日曜日。晴。風冷。昨日の如し。築地の空庵子麹町平安堂製細筆を贈らる。蓋し災前製作の良品なり。午後凌霜子來話。筍を惠まる。大森驛前の露店禁止せらると云。
 

四月廿二日。

快晴。近巷漫歩。某女史に贈る返書の末に、
隱れ住む菅野の里は松多し來て君もきけ風のしらべを
朝夕に松風ばかり吹く里は人のたよりも絶えて久しき
夜ふけても調はやまぬ松の聲都のたより時にきかせよ
みだれ行く世のゆくすゑは松風の騷ぐ音にもおもひ知られて
松風のさわぎも止まぬ或宵は浪路さすらふ夢も見るかな
 

四月廿三日。

快晴。靜岡より柳橋新誌審美綱領を惠贈せられし未知の人あり。正午新生社青山氏來り余が先考の詩集西遊記を得たりとて此を贈らる。燈刻中村光夫氏來話。小説問はずがたり草稿を交附す。
 

四月廿四日。

晴又陰。南風烈しく松籟颯々たり。深更雨。再び某女史に送る返書の末に雜吟を書す。次の如し。
蠶豆の花もいつしか實となりぬ麥秋ちかき夕ぐれの風
いくまがり松の木かげの垣根道もどるわが家を人に問ひけり
小雨ふる芽出しもみぢの庭をみてわれにもあらず歌よみにけり
雨ふれば小米ざくらや雪柳いちごの白き花さへもよし
うぐひすも心して鳴けあかつきは短きゆめの名殘をしめば
松多きいけ垣つゞき花かをる菅野は實にもうつくしき里
傘さゝで人やたづねむ雨の日も松かげ深き小道あゆめば
 

四月廿五日。

雨歇まず。青山氏使の人に西洋菓子を持たせ遣さる。燈刻前凌霜子來り話す。新生六月號の草稿をつくる。題して假寐の夢となす。
 

四月廿六日。

雨。風甚冷。村田武雄氏來書。
 

四月廿七日。

晴。中央公論社小瀧氏來書。※(「日+甫」、第3水準1-85-29)下小川氏を訪ふ。在らず。家人餅を燒きて饗せらる。
 

四月廿八日。

日曜日。配給の煙草ます/\粗惡となり今は殆ど喫するに堪へず。醤油には鹽氣乏しく味噌は惡臭を帶ぶ。亡國の兆悲しむべし。燈刻近藤博士來りて句を請ふ。
行春や小米ざくらに雨すこし  荷風
牡丹散つてまた雨をきく庵かな  同
 

四月廿九日。

晴。風あり。午前江戸川堤を歩む。堤防の斜面にも麥植ゑられ菜の花猶咲殘りたり。國府臺新緑の眺望甚よし。路傍の蕎麥屋に代用食ふかし芋ありますとの貼紙あり。入りて憩ふ。一皿五圓なり。三十前後のおかみさん澁茶を汲みながら、其夫去年沖繩に送られしまゝ今だに生死知れず。子供三人あれば女の手一ツにては暮しも立ちがたしと語れり。歸途手古奈堂に近き町の古本屋にて武江年表活字本を買ふ。(三十五圓。)家に至るに凌霜子來りて待てり。大森邊の古本屋にて井上唖々の猿論語を得たりとて示さる。又築地宮川の※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)肉を惠まる。
 

四月三十日。

晴。雜誌我觀の記者某脅迫状に類する書簡を送來りて囘答を求む。文壇も世間一般の例に漏れず追々物騷となれるが如し。
 

五月初一

(舊四月[#改行]一日)午下雨。扶桑書房主人來話。夜半風雨。電燈消ゆ。
 

五月初二。

雨歇まず。
 

五月初三。

陰。
 

五月初四。

陰。午後阿部雪子來話。白米惠贈。林龍作氏去年蘆屋にて兵火に襲はれ秘藏の樂器及び奇玩を燒きしと云。
 

五月初五。

日曜日。夜半雨。小説起稿。
 

五月初六。

陰。森銑三君來書。夜また雨。
 

五月初七。

晴。午後八幡町混堂の歸途白幡天神の境内を歩む。新緑よし。近くに牛乳パンを賣る農家あり。一合三圓。品質東京のものに比すれば遙によし。
 

五月初八。

晴。午前小川氏來話。午後八幡の國道を歩む。南側に八幡不知やはたしらずやぶあり。竹林の中に一片の石碑あれど石垣を圍らしたれば入りて見ること能はず。老榎欝蒼。道の半を蔽へり。北側に八幡神社の華表立ちたり。境内廣くして松杉欝然たり。山門の前に植木屋さま/″\の苗木を賣る。茶見世一軒あり。たすきがけあねさま冠りの女房何やら貝のむきみを燒きて賣りゐたり。鳥居前國道の兩側にもパン心太など賣る店多し。一皿皆十圓なり。省線驛前にも露店立並びたり。夜小説執筆。
 

五月初九。

陰。風凉し。午後再び葛飾八幡の境内を歩む。祠前の常夜燈に明和五年丙子の年號を見る。繪馬堂の額、神功皇后武内宿禰を描けるもの二枚、唐人管絃遊戯の圖あり。いづれも嘉永安政頃のもの、畫工もさしたる名家にてはあらざるが如し。されど近年かくの如きものを見ること稀なれば淺草觀音堂のむかしなど思出でゝ杖をとどむること暫くなり。歸宅後一睡。寤めて後小説執筆。
 

五月十日。

晴。借家の庭に躑躅つゝじ牡丹薔薇藤その他の花樹多し。昨日の散歩にて近巷に植木市の立つを知り、前に住みし人皆そこより購ひ來りしを知りぬ。窓前今まさに百花爛漫の趣をなす。殊に牡丹花紅白數株ありて各妍を競ふ。流寓の身圖らず花を見て喜びかぎりなし。駄句を得たり。
日は長くさかりの花も牡丹かな
世のさまも知らぬ顏なる牡丹かな
戰ひに國おとろへて牡丹かな
 

五月十一日。

細雨。後に歇む。午前扶桑書房主人來話。晝飯後散策。露店にて※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)卵を買ひ八幡祠前の休茶屋にて牛乳を飮む。歸途緑蔭の垣根道を歩みつゝユーゴーの詩集をよむ。砂道平にして人來らず唯鳥語の欣々たるを聞くのみ。此の樂しみも市川に來るの日まで豫想せざりし所なり。家にかへるに放送局の來書あり。煩累厭ふべし。
 

五月十二日。

くもりて歩むによき日なれば午後八幡の村道を歩み水田の北方に連る丘陵に登る。松林の間に稻荷の祠と思はるゝものあり。祠後にまた一小祠あり。小さき土製の瓶數知れず奉納せられたるを見る。何の祠たるを知らず。岡を下りて田間の小徑を行くに牧場あり。葡萄畠、梨畠あり。用水の流に河骨の花咲き、畦道には金ぽうげ、又蒲公英に似たる黄き花咲きつらなり、鷺草らしきもの亦花をつけたり。麥は既に熟し農婦頻に水田を耕すは稻の種まく仕度なるべし。
 

五月十三日。

雨。午後に晴る。
 

五月十四日。

晴。混堂に行く。農婦甘藷の苗を背負ひて賣り歩むを見る。夜また雨。
 

五月十五日。

雨。湯淺氏靜岡より露伴先生舊著※(「言+闌」、第4水準2-88-83)言長語二卷を贈らる。毎日執筆倦まず。午後雨小止をやみしたれば門外松下の小徑を歩み行くに、梅多く植ゑたる庭の垣際に菖蒲茂りて花多く咲きたり。空くもりて木蔭くらければ花の色殊に美しく見えたり。菖蒲、あやめ、かきつばたの種別は余之を審にせず。その花大ならず紫の色濃きは何と呼ぶにや知らねど、これ余の最も好むものなり。曾て堀切の園にありし花大にしてしぼりの色さま/″\なるは俗にして品下れり。八幡の村道を行くに女學校門外の溝に黄色の花さきし菖蒲多くあり。西洋種なるべし。
 

五月十六日。

積雨初て霽る。此頃の物價左の如し。
※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)卵   一個  大四圓貳拾錢 小四圓也
一葡萄糖糟 百匁  四拾五圓也
一梅干   百匁  拾圓也
辣韮らつきよう   百匁  拾圓也
一蕪    大たば 拾圓也
一人參   大たば 拾五圓也
一牛乳   一合  貳圓五拾錢也
一牛肉   百匁  四拾圓也
 

五月十七日。

晴。草稿を新生社使の人に交附す。深夜雨。
 

五月十八日。

晴。時※(二の字点、1-2-22)雨。清潭氏書あり。
 

五月十九日。

日曜日。晴。午前扶桑書房主人白米五升を贈らる。午後門外を歩むに耕したる水田に鳥おどしの色紙片々として風に翻るを見る。稻既に蒔かれしなるべし。時に白鷺二三羽貯水池の蘆間あしまより空高く飛去れり。余の水田に白鷺の歩むを見、水流に翡翠の飛ぶを見たりしは逗子の別墅に在りし時、また曉明吉原田圃を歩みし頃の事にして、共に五十年に近きむかしなり。今年馬齒七十になんなんとして偶然白鷺の舞ふを見て年少氣鋭の徃時を憶ふ。市川寓居の詩趣遂に忘るべからざるものあり。
 

五月二十日。

晴。夕陽明媚。
 

五月廿一日。

陰。
 

五月廿二日。

晴。庭の薔薇花ひらく。
 

五月廿三日。

晴。午前小川氏來話。午後雷雨。燈刻川端康成氏來り、鎌倉文庫支拂印税金一萬圓を贈らる。
 

五月廿四日。

陰。午前新生社酒井氏來話。午後下谷うさぎ屋來話。共に八幡驛前の露店を見る。
 

五月廿五日。

終日雨。去年此夜中野のアパートにて火に襲はれしなり。東京より清潭子來書。その一節に曰く「大歌舞伎は繁昌乍ら戰爭以來技藝の低下甚しく困り入候事に御坐候。芝居道の事例に依て昨日の話と今日の話にては全然計畫を異にいたし目下の處にては前便申上候脚本の件はもはや忘れたるが如く何とも申參らず候を、當方も却て仕合せに存居候。」云々。
 

五月廿六日。

雨。一昨日天皇陛下ラヂオを通じて米穀缺乏の事につき人民に告げらるゝ所ありしと云。巷説紛々たり。
 

五月廿七日。

晴。白雲新緑相對照して田園の眺望甚佳し。東京より某氏の書簡中、「過日宮城へ押掛候連中の指導者の家には隱匿米隨分澤山有之候趣、池袋闇市の商人同士にて話し居候を立聞仕候て、如何にもありさうな事と世の中面白く存申候。西鶴でも居候はゞと存候事に御座候。」とあり。夜初更驟雨雷鳴。
 

五月廿八日。

陰。獨活うどを煮て晝餉を食す。余老來好んで菜蔬を食す。蠶豆、莢豌豆、獨活、慈姑の如きもの、散歩の際これを路傍の露店又は農家について購ふことを得べし。東京の人に比すれば幸多しと云ふべし。飯後出でゝ鬼越の田間を歩す。梨畠多し。
 

五月廿九日。

晴又陰。熱海永見徳太郎氏來書。
 

五月三十日。

晴。午後小瀧氏來話。
 

五月卅一日。

陰。早朝種田氏來話。玉の井私娼窟本年正月頃三十軒ばかりなりしが、今は百軒以上となれり。客は和洋まじりにて洋客百三四十圓、邦人百圓内外の相場なり。京成沿線立石にもあり。省線沿線には龜有、新小岩、小岩の町々にも在り。いづれも去年三月龜戸玉の井燒亡後直に出來たるものなりと。
 

六月初一

(舊五月[#改行]二日)晴。風凉し。
 

六月初二。

日曜日。晴。午前扶桑書房主人來話。午後森銑三氏來話。
 

六月初三。

陰。
 

六月初四。

雨。
 

六月初五。

雨又晴。既に梅雨の如し。深夜腹痛。
 

六月初六。

晴。時に驟雨。正午扶桑書房主人來り白米を惠まる。腹痛歇まず。食を絶つ。夜に入り氣分少しく快くなりたれば起きて机に向ふ。忽夜分に至る。枕に就かむとする時五叟子その兒と共に奧の座敷にて三味線をひきはじむ。眠るべくもあらず。さりとて再び筆も執りがたければ露伴先生の※(「言+闌」、第4水準2-88-83)言を取りて讀む。曉二時に至るも絃歌歇まず。讀書も困難なれば平日無音に打過ぎし諸友に送るべき手紙をしたゝめ、絃歌の歇むを待ちて初て眠に就きぬ。貸間の生活勉學に適せず、されど今俄に移るべきところもなし。悲しむべきなり。
 

六月初七。

晴。※(「日+甫」、第3水準1-85-29)下近藤國手を訪ふ。在らず。夜國手來りて病を診す。此夜屋内に絃歌の聲なく安眠するを得たり。
 

六月初八。

晴。俄に暑し。燈刻近藤博士來診。
 

六月初九。

日曜日。晴。
 

六月十日。

晴。南風烈しく欝蒸甚し。八百屋の店頭に時新の野菜を見る。胡瓜一本五圓。枇杷一粒二圓ヅヽなり。配給米五日間にて僅に三合となる。夜雨。
 

六月十一日。

晴。午後省線新小岩町の私娼窟を歩す。省線驛前に露店並びたる處より一本道の町を歩み行くこと七八丁。人家漸く盡きむとする町端に在り。災前平井町に在りし藝者家と龜戸に在りし銘酒屋の移轉せしものと云。女は思ひしほど醜からず。揚代客の和洋を問はず五拾圓と云。燈刻勝部眞玄氏、齋藤書店主人、中村光夫氏、近藤博士等來話。
 

六月十二日。

晴。
 

六月十三日。

晴。正午新生社主人來話。
 

六月十四日。

晴。屋後の水田を望むに農婦三※(二の字点、1-2-22)※(二の字点、1-2-22)※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)秧にいそがはし。白雲丘陵の頂に搖曳し、松籟颯々、凉氣水の如し。小堀杏奴氏來書。
 

六月十五日。

晴。正午新生社寫眞師來る。
 

六月十六日。

日曜日。晴。夜雨。菅茶山の集を讀む。
 

六月十七日。

晴又陰。午後京成電車にて中山に至り法華經寺の境内を歩む。
 

六月十八日。

晴。溽蒸忍ぶべからず。今日より廿三日まで日中も水道斷水の由。
 

六月十九日。

晴又雨。凌霜子來話。
 

六月二十日。

晴。午後中央公論社小瀧氏來話。夜近藤博士來話。
 

六月廿一日。

晴。炎暑土用中の如し。門外の松林に入りて讀書。
 

六月廿二日。

晴。立葵の花滿開。
 

六月廿三日。

日曜日。炎暑昨日の如し。※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)秧の時節人々雨なきを憂ふ。扶桑書房主人來書に東京市中米の配給なくなりてより文學書類の賣行俄に惡しくなりしと云。
 

六月廿四日。

晴。
 

六月廿五日。

陰。風俄に凉し。
 

六月廿六日。

半陰半晴。露店に莢豌豆、南瓜、枇杷、胡瓜の如き時新を賣る。いづれも十圓を單位とす。
 

六月廿七日。

晴。午後京成電車にて船橋に至る。樹間に近く海を見る。熱海を去りてより早くも半年再び海を見る。愉快言ふ可からず。
 

六月廿八日。

晴。午後岩崎雅通氏來り佛蘭西書籍十餘册を貸さる。小説浮沈校正刷校了。去年此日岡山にて火に遭ふ。
 

六月廿九日。

晴。風秋の如し。
 

六月三十日。

日曜日。晴。
 

七月初一

(舊六月[#改行]三日)雨。後に晴。※(「日+甫」、第3水準1-85-29)下阿部雪子來話。
 

七月初二。

晴。午前扶桑書房主人來話。
 

七月初三。

※(二の字点、1-2-22)雨。眞間の雜誌店にて東京市街戰災燒亡早見地圖を買ふ。四圓五十錢。これを見るにわが生れし小石川金富町の家も、又先考の世を去りし牛込餘丁町の家も皆灰となりしが如し。夜近藤博士來話。
 

七月初四。

晴。夜雨。下痢。
 

七月初五。

陰。
 

七月初六。

晴。下痢腹痛。
 

七月初七。

日曜日。小川氏より赤飯を貰ふ。
 

七月初八。

雨。
 

七月初九。

陰。清潭子より※(「さんずい+(壥−土へん−厂)」、第3水準1-87-25)東綺譚を脚本に仕組みたき趣の手紙來る。
 

七月十日。

晴。晩風歇みて蒸暑し。
 

七月十一日。

晴。梅雨あけしが如し。
 

七月十二日。

午後雷鳴驟雨。
 

七月十三日。

晴。夜松竹社※(二の字点、1-2-22)員齋藤徹雄氏其他一人來り拙作上場のことを請はれしが、事情明かならざれば辭退す。
 

七月十四日。

日曜日。午前近藤小川二氏來話。午後小川氏の家にて田毎美津江に逢ひ、もとオペラ館に在りし踊子等の近況を知る。米兵の妾になれるものも少からず。新小岩驛前のアパートに住める□□子は黒人の子を生落したりと云。色町は新小岩のみならず小岩の町端にも在り。こゝは白人のみにて黒人は來らざる由。午後凌霜子來話。この日朝の中より炎暑甚し。夜月よし。門外を歩す。
 

七月十五日。

晴。燈刻中村光夫氏來話。
 

七月十六日。

晴。酷暑退かず。華氏九十五度。
 

七月十七日。

晴。夜小川氏來話。熱海永見氏來書。
 

七月十八日。

陰。苦熱机に向ひがたし。
 

七月十九日。

晴。
 

七月二十日。

晴。午後白幡天神の林下に讀書す。
 

七月廿一日。

日曜日。陰。
 

七月廿二日。

晴。午後種田氏來話。
 

七月廿三日。

扶桑書房主人白米を惠まる。午後驟雨。
 

七月廿四日。

晴。門外の松林にラヂオを避く。
 

七月廿五日。

隣室のラヂオと炎暑との爲に讀書執筆共に爲すこと能はず。毎日午後家を出で葛飾八幡また白幡天神境内の緑蔭に至り日の稍傾くころ歸る。ラヂオの歇むは夜も十時過なり。この間の苦惱實に言ふべからず。今日は空くもりて風すゞしく燈火漸く親しむべき思をなすと雖机に向ふを得ず。早く寢に就きて曉明の來るを待つのみ。此日より郵便三十錢。葉書十五錢に値上げ。
 

七月廿六日。

陰。午前籾山梓月氏來話。昨來風俄に凉し。百日紅、夾竹桃、凌霄花、合歡花皆滿開。百合、向日葵、百日草、晝顏、亦花のさかりなり。路傍の草中撫子の花を見る。農家の垣に木槿花ひらき唐もろこし既に熟す。札幌より其地の物價を手紙にて書越せし人あり。左の如し。
白米一升   金參拾五圓也
大豆一升   金拾五圓也
小麥一貫目  金八拾五圓也
蕎麥粉一貫目 金六拾圓也
牛肉百匁   金拾五圓也
馬鈴薯一俵  金百圓也
蜂蜜一升   金貳百圓也
 

七月廿七日。

晴。凉風秋の如し。
 

七月廿八日。

日曜日。晴。朝日の光秋の如く隣家に人のくさめする聲も聞ゆ。午後中河與一氏來話。
 

七月廿九日。

午後風雨。
 

七月三十日。

天候昨日の如し。燈刻中村光夫氏來話。
 

七月卅一日。

晴。午後白幡天神の樹下に書を讀む。この地一帶に蝉の聲少きは地質砂多きが爲なるべし。
 

八月初一

(舊七月[#改行]四日)時々驟雨あり。日の暮稍早くなりぬ。午後外出中小瀧氏來訪。單行本日かげの花校正刷を置きて去る。夜隣室のラヂオ堪難ければ暗夜の道を歩みて小川氏を訪ふ。十一時近く家にかへる。
 

八月初二。

※(二の字点、1-2-22)驟雨。午前小瀧氏來話。昨日より驛前闇市取拂となり八百屋にも野菜少し。白幡祠畔の氷屋心やすければ其畠につくりし茄子胡瓜を買つてかへる。銀行封鎖預金いよ/\沒收の風聞あり。隣室のラヂオ今夜もまた騷然たり。
 

八月初三。

晴又陰。隣室のラヂオ午前中既に騷然たり。頭痛堪難ければ出でゝ小川氏を訪ふ。夕飯後机に向ふにラヂオ再び起る。鉛筆手帳を携へ諏訪神社の林下に至り石に腰かけて原稿數行を草する中、夜色忽ち迫り來り蚊も亦集り來る。國道を歩み歸宅後耳に綿をつめ夜具敷延べて伏す。この有樣にては五月以來執筆せし小説も遂に脱稿の時なかるべし。悲しむべきなり。
 

八月初四。

日曜日。晴雨定りなし。午前扶桑書房主人來り白米五升を惠まる。夜近藤博士來話。
 

八月初五。

陰。正午新生社※(二の字点、1-2-22)員來話。
 

八月初六。

陰。早朝より家内のラヂオ轟然たり。午後出でゝ小岩小松川邊を歩む。驟雨に逢ふ。
 

八月初七。

晴。夜小川氏を訪ふ。
 

八月初八。

立秋。くもりて蒸暑し。
 

八月初九。

晴。
 

八月十日。

晴。不在中正岡容氏夫妻來訪。
 

八月十一日。

日曜日。晴。午後正岡容氏を眞間の家に訪ふ。夜菅原明朗氏來話。
 

八月十二日。

月明晝の如し。舊七月の望なるべし。門外の松林を歩む。草中既に蟲聲をきく。蟋蟀きり/″\す促織こほろぎか定かならず。多年東京にて聞馴れしこほろぎとは其の鳴き方少しく異るところあり。
 

八月十三日。

晴。夜机に向はむとするに隣室のラヂオ喧騷を極む。苦痛に堪へず。門外に出るに明月松林の間に昇るを見る。ラヂオの歇みたるは十時過なり。其時まで林下の小徑を徘徊するに露氣肌に沁みて堪難く、蟲の聲は昨夜よりも更に多し。家にかへるに疲勞して何事をも爲す能はず。悄然燈を滅して寢に就く。
 

八月十四日。

晴。市川八幡ともに一ト月おくれの盆。
 

八月十五日。

晴。正午小瀧氏日かげの花校正刷持參。
 

八月十六日。

晴。殘暑甚し。夜初更屋内のラヂオに追出されしが行くべき處もなければ市川驛省線の待合室に入り腰掛に時間を空費す。怪し氣なる洋裝の女の米兵を待合すあり。町の男女の連立ち來りて凉むもあり。良人の東京より歸來るを待つらしく見ゆるもあり。案外早く時間を消し得たり。驛の時計十時を告げあたりの露店も漸く灯を消さんとす。二十日頃の月歸途を照す。蟲の聲亦更に多し。
 

八月十七日。

晴。午後白幡祠畔の樹下に讀書す。日も稍傾く頃かへる。夜はまたラヂオを避けむとて市川驛待合室に至る。此日高島屋未亡人來書。中野高圓寺に家を買ひて移ると云。
 

八月十八日。

日曜日。晴。腹痛。午前扶桑書房主人來話。
 

八月十九日。

晴。朝夕の風俄に肌さむくなりぬ。八時を過ぎてもメリヤスシヤツなくては居られぬ程なり。※(「日+甫」、第3水準1-85-29)下阿部雪子來話。昨來蟋蟀の聲いよいよ多し。
 

八月二十日。

晴。殘暑再來。新紙幣封鎖の噂頻なり。
 

八月廿一日。

晴。午後凌霜子來話。
 

八月廿二日。

晴。午後驟雨。夜田毎美津江來り舊オペラ館踊子、其他公園藝人の近況を語る。珍談頗多し。
 

八月廿三日。

晴。
 

八月廿四日。

雨。午後中村光夫氏來話。
 

八月廿五日。

日曜日。陰晴定りなし。正午村田正雄氏來話。音樂雜誌創刊のよし。
 

八月廿六日。

陰。夜に入り雨。凉氣襲ふが如し。
 

八月廿七日。

晴。
 

八月廿八日。

晴。殘暑甚し。日暮凌霜子來話。船橋市海神町なる其別宅に案内せられ晩餐を饗せらる。晝の中は家人悉く外出し留守宅も同樣なれば隨時に執筆讀書に御使用なされたしとなり。夜十一時最終の京成電車にてかへる。蟲の聲雨の如し。
 

八月廿九日。

晴。小瀧氏來話。
 

八月三十日。

晴。日中殘暑猶甚し。
 

八月卅一日。

晴。扶桑書房清水氏來話。
 

九月初一。

日曜日。扶桑書房來話。罹災日録草稿交附。小瀧氏來り日本酒及料理を惠まる。夜小川丈夫氏來話。
 

九月初二。

晴。午前正岡容氏來話。外出中凌霜子來りオランヂ砂糖漬を惠まる。
 

九月初三。

晴。
 

九月初四。

晴。燈刻中村光夫氏來話。小説來訪者製本見本を示さる。
 

九月初五。

晴。秋蝉初て鳴く。
 

九月初六。

晴。澤田卓爾氏來話。
 

九月初七。

晴。夜九時隣室のラヂオに驚かされ耳を掩うて門外に出づ。十日頃の月松林の間に懸る。電車にて國府臺に至り河上の月を賞す。
 

九月初八。

日曜日。陰。午前扶桑書房主人來話。夜またラヂオを避けんとて菅野驛停車場に至り暗き燈下に讀書し時刻を計りて家にかへる。明月皎々。
 

九月初九。

晴。久しく雨なし。胡瓜枯れ大根の種蒔不良の由。夜暑し。
 

九月十日。

晴。早朝鰯賣の聲をきく。明治時代の東京を思起さしむ。※(「日+甫」、第3水準1-85-29)下阿部雪子來話。この夜中秋。月色清奇。
 

九月十一日。

晴。凌霜子が海神の別宅に招飮せられ共に十六夜の月を賞す。
 

九月十二日。

晴。正午島中雄作氏來話。月くもる。
 

九月十三日。

陰。國府臺上に賣家ありと聞き朝十一時頃尋ね行きしに、一歩おくれにて既に買手きまりし後なりき。このあたり土地爽※[#「土へん+豈」、U+584F、55-12]にして市川の町中より來れば空氣更に清凉なるを覺ゆ。粟、もろこし、岡穗の稻熟せし畠つゞきたる彼方に水道淨水場あり。松林あり。囘向院といふ寺あり。風景よし。家にかへるに中河與一氏來りて待てり。夜阿部春街氏來話。
 

九月十四日。

晴。後に微雨。
 

九月十五日。

日曜日。晴。午前地所周旋屋に導かれ眞間京成線路側の賣家を見る。十五坪ほどの小家六萬圓と云。
 

九月十六日。

晴。八幡町八幡神社祭禮。簑笠其他農具の市立つ。見世物もありて群集雜沓す。
 

九月十七日。

晴。
 

九月十八日。

雨。夜雷雨。
 

九月十九日。

陰。午後凌霜子來話。東京某生の來書に、芝口もと太田屋牛肉店前の道路に朝九時頃洋裝の若き女黒人の兒を分娩し苦しみゐるを、見る人大勢いづれもざまを見ろ、いゝ氣味だと云はぬばかりの面持おもゝちにて、笑ひ罵るのみ、誰一人醫者を呼びに行つてやる樣子もなかりし。戰後人情の酷薄推して知るべし。云※(二の字点、1-2-22)
 

九月二十日。

晴。
 

九月廿一日。

晴。午後八幡町阿部氏を訪ひ近傍の賣家を見る。思はしきものなし。
 

九月廿二日。

日曜日。晴。神田の和書製本師池上氏小包にて枕山絶句鈔。春濤詩鈔。服部愿卿詩集鐘情集惠贈。午後白幡祠畔の賣家を見る。夜に入り雨。
 

九月廿三日。

雨。
 

九月廿四日。

秋分。晴。洋服を注文す。洋服屋白髮の老人、もと深川冬木町に住し昨年三月罹災、現在小岩に住すと云。背廣千五百圓、外套二千五百圓と云。
 

九月廿五日。

陰。正午小瀧氏來話。
 

九月廿六日。

晴。午後凌霜子來話。共に海神町の別墅に至る。海神町は東葛飾郡に在り。船橋市の西端なり。むかしはワダツミと言ひしが如し。凌霜子所藏の弘化年間印行の地圖を見るにワダツミと假名振りてあり。京成電車敷かれてより音讀するに至りしなるべし。
 

九月廿七日。

晴。燈刻古田中村二氏來話。小説來訪者初板五千部印行すと云。
 

九月廿八日。

微雨。
 

九月廿九日。

日曜日。陰。
 

九月三十日。

快晴。酒泉空庵氏手紙にて尾上菊五郎余が新作舞踊一幕是非とも所望の由、至急諾否の返事きゝたしと云。
 

十月初一。

晴れて暑し。午後小川氏來話。門巷到るところ木犀の花香人を醉はしむ。
 

十月初二。

晴れて暑し。屋内のラヂオを避けんとて午下海神町凌霜子の別宅を訪ふに折よく主人來りて在り。閑話半日。日募近傍の田園を歩む。無線電信所の建物あり。米兵駐屯すと云。晩餐を饗せらる。九時過家にかへる。松林の間に弦月の沈むを見る。
 

十月初三。

陰晴定らず。南風烈し。午後海神凌霜子別宅にて執筆。近巷氏神の祭禮なり。
 

十月初四。

陰。蒸暑夏の如し。午後海神に在り。歸宅後深更雨。
 

十月初五。

秋晴愛すべし。午後海神にて執筆。
 

十月初六。

日曜日。半陰半晴。午後海神に行く。新小岩その他戰後の私娼窟米兵を迎ることを禁ぜらると云。
 

十月初七。

雨。午後小瀧氏來り小説浮沈表紙の意匠を請ふ。燈刻種田生來り信州飯田行の旅費を請ふ。
 

十月初八。

昨日よりラヂオ同盟罷業にて放送なし。家内靜なれば海神に徃かず。此日甚暑し。
 

十月初九。

陰晴定まらず。市川眞間祭禮。午後海神執筆。日短くなりて歸途燈火を見る。
 

十月十日。

晴。午後海神町國道を歩す。道少しく登るところ陸橋あり。南方に海灣を望む。人家その垣に海草を干す。半時間ほど東方に歩み行けば船橋の町に至ると云。この夜九月十五夜の月よし。蟲猶鳴く。
 

十月十一日。

陰。午後海神。
 

十月十二日。

雨。特に雷鳴あり。午後谷口(うさぎや)樋口(萬年堂)二氏來話。余が先考の來青閣集を贈らる。樋口氏今春滿洲より歸還せしとて戰後かの地の状況を語る。鎌倉文庫より印税金送附あり。
 

十月十三日。

日曜日。晴れてあつし。日暮海神に至るに主人在り。晩餐を馳走せらる。明月皎然。歸途電車沿線の風景絶佳なり。海上に漁火星の如し。
 

十月十四日。

晴また陰。午後海神に至る。路傍の雜草中つゆ草の花猶咲き殘れるを見る。紫青の色殊に愛すべし。
 

十月十五日。

雨。午前扶桑書房主人來話。午後海神にて賣文製作。日暮雨歇む。
 

十月十六日。

快晴。午後海神。日暮歸らむとする時、主人東京より來りまた/\晩餐を馳走せらる。
 

十月十七日。

晴。菅野白幡天神祭禮。正午新生社主人青山氏來話。午後海神に至る。
 

十月十八日。

快晴。午後海神にて執筆。歸途國道を歩み葛飾驛停留場より電車に乘る。晩霞松林の間に燦然たり。
 

十月十九日。

快晴。海神。短篇小説靴脱稿。
 

十月二十日。

日曜日。晴。午後海神。
 

十月廿一日。

晴。猪場毅余の小説來訪者の事に關し復讐をなすべき由。不穩の噂あり。午後船橋散歩。海神に立寄りてかへる。
 

十月廿二日。

雨。午後海神。夜十時過寢に就かむとする時、隣室より絃歌の聲起る。十一時になりても歇む樣子もなし。已むことを得ず家を出で暗夜の町を歩む。
 

十月廿三日。

雨午に晴る。海神に行く。
 

十月廿四日。

雨中午後海神に至るに主人在り。昨日關宿に遊びたりとて利根河畔の所見を語る。※(「日+甫」、第3水準1-85-29)下雨晴れ夕陽燦然たり。
 

十月廿五日。

晴。海神。
 

十月廿六日。

晴。午前森銑三氏來話。午後新小岩の歸途春街氏を訪ひ重ねて買宅のことを依頼す。夜九時隣室のラヂオ轟然たり。ラヂオ本月初より同盟罷業にて放送なく、精神大に安靜なりしが今宵再びこの禍あり。出でゝ小川氏を訪ふ。過日九州旅行中、錦帶橋の知人より其地の美酒を贈られ持ち歸りしとて之を勸めらる。閑話淺酌夜半に至る。
 

十月廿七日。

日曜日。快晴。午後海神。
 

十月廿八日。

晴。風寒し。午後海神。
 

十月廿九日。

晴。新寒脉々たり。午後海神に至るに主人在り。晩餐を饗せらる。
 

十月三十日。

晴。午前正岡容氏來話。正午海神への途次船橋を散歩す。細流あり。水に從つて行くに國道とおぼしき大道に出づ。漁家櫛比し水田渺茫として海に連る。岸に近きところ蘆荻の間に樓閣の聳るあり。行きて見るに是酒樓の門なり。園丁門前を掃きゐたれば景況を問ふに、小人數の客よりも宴會を引受けるを主とす。十一月中は申込多く明いた日は一日もございませんと言へり。此邊に遊郭もあるとか聞きしが何處いづこなるやと問ふに、それは國道の北側より横町を一丁ほど行きて右へ曲るべしと教ゆ。行きて見るに横町の兩側にはカフヱー酒場軒をつらねたれど大方休業中の如し。娼家は七八軒、皆二階建にて上口には金泥の衝立ついたて置きし店もあれど娼妓の姿を見ず。いづれも旅館また料理店に商賣替をなして、日猶淺きが如き樣子なり。京成電車にて海神に至り日暮家にかへる。
 

十月卅一日。

陰。正午歩みて中山に至る。法華經寺の境内鬼子母神祠前の繪馬堂を見る。一孟齋芳虎の描ける烏帽子武者人物あり。又油繪の西洋風景畫あり。色彩剥落し畫布半破れたれど珍しければ奉納者の名を見るに、「干葉縣下長柄郡□□□□大字五井、片岡□□米國サンフランシスコ在留せんまつ」とあり。いかなる女にや。二時頃海神の凌霜庵に至る。床の間に蜀山人の狂詩一幅をかけたり。
忠義空傳國姓爺。 終看韃靼奪中華。清風一自掃頭上。
四百餘州瞿粟花。 蜀山人。
 

十一月初一。

晴。海神。不在中阿部雪子來訪。
 

十一月初二。

晴。午下萬年堂主人來話。炭團を惠まる。
 

十一月初三。

日曜日。晴。午後海神に行く。日暮扶桑書房主人來話。
 

十一月初四。

※(二の字点、1-2-22)雨。午後海神に行く。日暮主人の東京より來るに會ふ。夜九時家に歸るに絃歌騷然たり。再び出でゝ市川驛待合室に至り木村芥舟の菊※(「片+總のつくり」、第3水準1-87-68)偶筆を讀み十一時過時刻を計りてかへる。細雨歇まず。
 

十一月初五。

晴又陰。午後海神への途上中山の町を歩み省線停車場待合室に入りて休む。出でゝ野菜を買はむとする時、洋傘を置忘れしに心づき、倉皇として待合室に立戻りて見るにわが傘意外にも腰掛に寄掛けられしままなり。今の世にはあり得べからざることなるべし。此夜また家に居ること能はず市川驛待合室に至り時間を空費す。
 

十一月初六。

陰。鷲津貞二郎未亡人より書信あり。長男郁太郎滿洲より未歸らず、次男信太琉球にて戰死し本月九日芝増上寺にて遺靈祭執行の由。午後海神、夜雨。燈下罹災日録校正摺を見る。
 

十一月初七。

陰。午前扶桑書房主人清水氏來話。午後海神に至る。
 

十一月初八。

陰。午前新生社※(二の字点、1-2-22)員來話。澤田卓爾氏來り獨逸人レオナルド、フランツ作小説「カルヽとアンナ」英譯本貸與。午後海神に至り草稿執筆。日いよ/\短くなりて五時過にはあたり暗し。蟲聲全く絶ゆ。
 

十一月初九。

時々微雨。日暮小岩の町を歩す。
 

十一月十日。

日曜日。陰。午前小瀧氏來話。「草枯」原稿交附。午後海神にて小篇「或夜」脱稿。池上氏小包にて南畝帖を贈らる。此書大坂の板にて加茂季鷹の序には二種あるが如し。
 

十一月十一日。

陰。午後海神に至る。電車沿線の眺望時候と共に一變す。雜木雜草の黄葉亦見るによし。甘薯悉く取去られし後※(「土へん+龍」、第3水準1-15-69)圃には葱、蕪、大根の葉の緑色やはらかに、白菜の葉殊に佳し。日暮かへる時雨。
 

十一月十二日。

未明腹痛。晴また陰。正午中央公論社小瀧氏來話。午後海神。
 

十一月十三日。

晴。日あたりの縁に坐するに額おのづと汗ばむ。本年初冬の暖氣例年見ざるところ。午後海神に至る途すがら葛飾の畠地を歩む。微風嫋々。眺望曠然、蔬菜の緑葉毛氈を敷きしが如し。樹陰に坐してバルビユツスの露西亞觀察記をよむ。
 

十一月十四日。

晴又陰。午前凌霜子來話。午後海神無線電信所附近の畠地を歩す。葱大根白菜菠薐草をつくる。土地に高低あり。此方なる高處に立ちて松林の間に彼方なる低き田疇を望めば冬の日うらゝかに野菜の葉を照したる色彩の妙言ふべからず。燈刻中山の町にて鰻蒲燒(一串十五圓)を購ひ歸る。
 

十一月十五日。

晴。午後海神。日中火鉢なきも猶机に向ふべし。夜小川丈夫氏來り赤飯を惠まる。
 

十一月十六日。

晴。古書商辰巳屋來り歐洲賣色史を示す。金五百圓と云。獨逸の原書を佛譯せしもの。(Prof. Dr. Paul Englisch, Histoire de l'Erotisme en Europe, Adaptation fran※(セディラ付きC小文字)aise par Jacques Goroil.)
 

十一月十七日。

日曜日。雨。海神に行く。歸途雨歇み淡烟糢糊。樹林の濃淡描くが如し。
 

十一月十八日。

晴。後に陰。午後海神。夜近藤國手來話。
 

十一月十九日。

晴。新生社※(二の字点、1-2-22)員來話。正午葛飾驛停車場より無線電信所の柱を目標となし田間の一路を歩す。左手に中山競馬場の建物を松林の間に望み、右手に電信處の營舍を見る。路傍の樹陰暗きところ廢祠あり。引戸をあけて窺ひ見るに薄べりを敷き陶器の手あぶり一箇あれど祭れる神はなし。田夫野孃の密會所なるにや。怪しむべし。農家の庭を見るに一家相寄り冬日を浴びつゝ稻を打つ。人間の幸福これに若くものなし。柿は大方取り盡され菊花爛漫たり。凌霜庵に至り日暮にかへる。
 

十一月二十日。

晴。午に近く小瀧氏來り日かげの花製本見本を示す。午後海神に行く。
 

十一月廿一日。

半陰半晴。午後海神にて小篇羊羹脱稿。歸途菅野の齒科醫吉原氏を訪ひ病齒を拔く。外出中扶桑書房清水氏來訪。夜七時過清水氏再び來り新生社拙著腕くらべ印税金到底支拂できまじき由を告ぐ。
 

十一月廿二日。

晴。午後海神に行かむとする途上驟雨に會ふ。凌霜庵に至り見るに主人來りて在り。款語半日。晩食を饗せらる。夜九時過辭してかへる。雨歇む。
 

十一月廿三日。

晴。暖。午後新小岩邊漫歩。燈下木村芥舟の黄梁一夢をよむ。
 

十一月廿四日。

日曜日。晴又陰。午前小川氏來り炬燵の枠木を作る。午後海神に至る。凌霜庵床の間に柳灣の絶句をかけたり。次の如し。東山賞春罷。歸※(「筑」の「凡」に代えて「卩」、第3水準1-89-60)曳殘霞。囘首下山路。鐘聲送落花。東叡看花。柳灣老人。
 

十一月廿五日。

快晴。暖。午後海神。歸途買宅の事につき八幡町牛乳店六平また阿部奎一氏を訪ふ。
 

十一月廿六日。

快晴。暖。午後中山競馬場附近を歩む。松林田疇の眺望この邊最佳なるを見るにつけ競馬場建築の俗惡いよ/\惡む可し。田間の一路を歩みて海神に至る。
 

十一月廿七日。

陰。午後海神。夜雨。
 

十一月廿八日。

晴、暖、後に陰。午後海神にて執筆。歸途八幡町にて※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)肉を買ふ。(五十匁金三十五圓)
 

十一月廿九日。

陰。稍寒し。午後海神に行く。
 

十一月三十日。

陰。初て火鉢に炭火を置く。午後小瀧氏來話。魔法罎に銀座ルパンの珈琲を入れて持來る。厚情謝すべし。夜半月あり。
 

十二月初一。

日曜日。陰。午前扶桑書房清水氏來り新生社振出し封鎖小切手を示さる。新生社との關係これにて斷絶す。午後海神。
 

十二月初二。

寒雨霏※(二の字点、1-2-22)。午後海神に至る。日暮主人の歸り來るに逢ふ。晩餐の馳走になる。九時過辭して門を出るに雨既に霽れて半月明なり。
 

十二月初三。

晴。余の生れし日なり。午後阿部雪子來話。
 

十二月初四。

晴。暖。午後中山法華經寺の境内を過ぎ人家つゞきの道を歩み奧の院門前より競馬場の塀外に出づ。田間の細徑を歩みて海神に至る。
 

十二月初五。

晴。午前阿部奎一氏來りよき貸間をさがしたりと言ふ。現在の寓居より四五丁隔たりし松林の間なる古き邸宅なり。主人は年四十ばかり外務省の官吏なりと言ふ。阿部氏に導かれ夫人に面會し座敷を見る。午後海神に徃く。
 

十二月初六。

快晴。微風あり。正午省線電車にて沿道の風景を見んがため千葉に至る。市街燒亡の後バラツク多く建てられおでん汁粉を賣る。京成電車にて海神に戻り凌霜庵にて執筆例の如し。歸途月よし。
 

十二月初七。

晴れて暖し。午後海神にて短篇指環脱稿。
 

十二月初八。

日曜日。陰。寒。午前扶桑書房主人校正刷を持來る。共に出でゝ國道の林屋喫茶店に少憩して後海神に行く。歸途雨。
 

十二月初九。

晴れて風あり。夜小西氏招飮。月明晝の如し。
 

十二月十日。

晴。昨來寒甚し。午後小西氏邸内の一室を借りラヂオ避難所となす。晩間新小岩散歩。屋臺店に飮む。
 

十二月十一日。

晴。午前扶桑書房主人來話。午後小西氏方貸間にて執筆。
 

十二月十二日。

晴。暖。午後海神。燈刻船橋より省線にてかへる。
 

十二月十三日。

晴。午後小西氏方に在り。
 

十二月十四日。

晴。暖。午前正岡氏小川氏來話。小瀧氏來り日かげの花製本見本を示さる。午後眞間の混堂に浴す。
 

十二月十五日。

日曜日。陰。正午阿部雪子來り洋書二册を贈らる。燈刻海神。晩餐の馳走になる。
Charles Sarolea: Ce que j'ai vu en Russie Sovi※(アキュートアクセント付きE小文字)tique.
Max Eastman: Depuis la mort de L※(アキュートアクセント付きE小文字)nine.(Paris 1925)
 

十二月十六日。

晴。午後小西氏邸内貸間に行く。
 

十二月十七日。

晴。暖。午前扶桑書房主人來話。
 

十二月十八日。

晴。午後小西氏邸内。燈刻扶桑書房主人來り新生社閉店近き由を告ぐ。
 

十二月十九日。

晴。北風寒し。正午凌霜子來話。共に出でゝ林屋に一茶す。午後小西氏貸間。燈刻に歸る。
 

十二月二十日。

晴。北風寒し。午後貸間にて短篇畦道脱稿。燈刻家にかへるに中村光夫氏來りて待つ。來訪者印税殘金貳萬八千餘圓交附。隣室のラヂオ連夜喧騷を極む。
 

十二月廿一日。

晴。午前辰巳屋來る。燈刻貸間より歸るに小瀧氏來りて待てり。共に林屋に一酌す。(酒一合六拾圓。天麩羅一人前五拾圓。)
 

十二月廿二日。

日曜日。陰。※(「日+甫」、第3水準1-85-29)下海神凌霜庵に至る。主人在り。冬至の佳節なればとて家人柚湯をたく。晩食を饗せらる。外出中扶桑書房來訪。北海道宗谷の人阿部清八氏鹽鮭其他の名産を贈らる。
 

十二月廿三日。

晴。風氷の如し。銀行また/\預金封鎖の風聞あれば貯金六萬圓また別口貳萬圓を引出す。午後小西氏邸に行く。歸途※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)肉を買ふ。五十匁四拾圓となる。
ハム 五十匁 金四拾圓
牛肉 五十匁 金三十五圓
鳥肉 五十匁 金四十圓
玉子 一ツ  金八圓
 

十二月廿四日。

晴。正午阿部奎一氏來話。午後小西氏方に在り。夜半下痢一囘。
 

十二月廿五日。

くもりて寒し。終日家に在り。
 

十二月廿六日。

晴。執筆興なし。午後小西氏方にて讀書、燈刻家にかへるも小兒少女の騷ぐ聲に何事をもなす能はず早く寢に就く。これ市川に來りてより毎夜の事なり。
 

十二月廿七日。

微雨。南風稍暖。午後小西氏邸内。
 

十二月廿八日。

陰。午前正岡容花園某女來訪。白米を贈らる。午後小西氏邸。燈刻小瀧氏日かげの花上製本持參。共に出でゝ林屋に飮む。五日頃の月あり。
 

十二月廿九日。

日曜日。晴。午後眞間の混堂に浴す。湯錢一圓となる。※(「日+甫」、第3水準1-85-29)下江戸川堤を歩す。
 

十二月三十日。

晴。暖。午後小西氏邸にて昇曙夢譯クープリンの魔窟をよむ。昨夜窃盜小西氏の※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)一羽を盜み去りしと云。
 

十二月卅一日。

陰。後に晴。正午扶桑書房主人來話。林屋に行き茶を喫す。午後小西氏方にて讀書。不在中凌霜子來りて餅を惠まる。蓐中讀書唯睡魔の來るを待つのみ。今年ほど面白からぬ年は我生涯に曾て無し。貸間の生活の讀書詩作に適せざることを初めて經驗せしなり。この外言ふべき事、記すべき事なし。隣室のラヂオに耳を掩うて戰敗の第二年目を送ると爾云。





底本:「葛飾こよみ」毎日新聞社
   1956(昭和31)年8月25日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「十二月廿九日」の行には、底本では行頭空きがありません。
入力:H.YAM
校正:米田
2012年10月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「纔」の「口」に代えて「免−(危−厄」)−儿」    11-6
「土へん+豈」、U+584F    55-12


●図書カード