病來十年わたしは一歩も東京から外へ出たことがなかつた。
大正二年の夏慶應義塾講演會の大阪に開催せられた時わたしも厚かましく講演に出掛けたのが旅行の最終であつた。
今年大正十一年十月の朔日、わが市川松莚子、一座の俳優を統率して京都に赴き、智恩院の樓門を其のまゝの舞臺となし野外の演藝を試るといふ。蓋しわが劇界未聞の壯擧である。この壯擧を聲援せんが爲日頃松莚子と深交ある文人作家は相携へて共に西行せん事を約した。こゝに於てわたしも十年振りで東京の家を出る事となつた。
十年前大阪へ行く時、丸の内の東京驛停車場はまだ工事の半であつた。たしか大正四年の春松本泰君が再度英國に遊ばうとした折、又その翌年故上田博士が京都に歸らるゝ時、また大正八年松居松葉子が重て歐米漫遊の途に上らんとする際、わたしは丸の内停車場のプラツトフオームまで見送りに來た事はあつたが、然し一度もこゝから汽車に乘つた事はなかつた。
わたしの旅行は今日全く人から忘れられたかの汐留の古いステーシヨン――明治五年に建てられたとかいふ石造りの新橋ステーシヨンからのみ爲されてゐた譯である。さう思ふとわれながら微笑を禁じ得ない。同時に、今更の如くわたしの身も正に彼の古いステーシヨンと同じやうに今は全く過去のものとなつた――わが時代は既に
京都に遊ぶのはこの度が四囘目である。明治三十年の頃父母に從つて遠く南清に遊ぶ途すがら初めてこの都を見物した。次は明治四十二年清秋の幾日かをこゝに送つた事があつた。三度目は慶應義塾大阪講演會の歸途であつた。偶然
それから十年を過ぎた。十年ぶりに來て見た京都の市街は道幅の取廣げられた事、橋梁河岸の改築せられた事、洋風商店の増加した事、人家の屋根の高くなつた事なぞ十年前の光景に比較すれば京都らしい閑雅の趣を失つた處も少くはない。嘗て一度眺め賞してより終生忘れることの出來ないやうに思つた彼の
然し京都には幸にして近世文明の容易に侵略する事を許さぬ東山の
兒女の風俗も街上の光景と同じく今尚傳來の趣味を失はずに居るところが多い。洋風の束髮は岡崎公園の附近と市中のカツフエー洋食屋との外には稀に之を見るばかりである。京極の夜の巷を歩いてもわたしは銀座通りで見るやうな染色のけば/\しい飛模樣の羽織や縫取の帶を目にしなかつた。
自動車も人力車も通らない坂道の曲角、または寺院の古びたる土墻に沿うた小道なぞで、わたしは物買ひにでも行くらしい京都の女の銘仙か節糸織の縞の袷に前掛をしめた質素な小ざつぱりした姿を見るたび/\、何のわけとも知らずわたしは東京の町の女の二十年ほどむかしの風俗を思出すのであつた。
衰殘の人に對して無上の慰安を與ふるもの過去の追憶にまさるはない。わたしは此儘永く京都に止りたいやうな心になつたのもこれ等の爲である。
京都の市街はこの後果していつまで過去及現在の幽靜閑雅の趣を持續し得るものであらう。これはわたしひとりの考ふべき問題ではない。
一日粟田神社に近き一寺院の境内を過ぎた時、わたしは足駄をはいて野球を弄ぶ學生等の樹木庭園に對して何等一片の慮りをも持つてゐないらしい擧動を目撃した。都市の風致を損傷するものは獨り銅臭の資本家ばかりではない。常識なき無頼の學生とさかりの付いた野犬の如きは共に林泉の破壞者として憎まなければならない。
京都に遊ぶことを喜ぶものはおのづから僧侶を敬ひまた妓女を愛さなければなるまい。
流水と
名所古蹟の中にも遊覽者の萬人
金閣寺、永觀堂、下加茂の社の如きは其の前者に屬し、詩仙堂、三千院、修學院等の如きは後者の中に列せられべきものであらう。
名所古蹟の俗了せられたものは恰も骨董店頭の古器を觀ると變りがない。藝術家の製作品もまた名所古蹟と同じである。俗衆の歡迎ほど製作の品位を傷けるものはない。作品の生命は唯限られたる少數者の理解と同情とによりて守護せらる。
一日
東山を攀る林間の細徑にはこの丘陵の風致を保存する爲め樹木を愛惜すべき旨を認めた官廳の訓示が處々に立てられてある。
東京市中に在つて此等に類する官廳の訓示は大抵の場合却つて人をして反感輕侮の念を抱かしめる外何の用をもなさぬものである。吾等久しく御濠の樹間に見馴れたる「此ノ土手ニ登ル可ラズ警視廳」の掲示の如き其の一例である。或は既に枯死したる街路樹の幹に札を下げて樹木の愛すべきを説きたるが如き滑稽なるものもある。
然し一度京都に來つて東山の林間に逍遙すれば、何人と雖永くこゝに此の幽趣を保存しやうといふ官廳の訓示の當然なるに首肯するであらう。それと共にまた一般遊歩者の名山の草木に對していかに無情にして狂暴なる擧動をなすかを推測し得るであらう。人家の
我が郷國風土の美は僅に官權の實施を俟つて保存せられてゐるのである。
人の病は外より冒されるが爲に發するばかりではない。自ら内より發する病も
京都府廳とこの地方の林務署とは既に林中に訓示を掲げて東山の草木の保育に努めてゐる。若し其の方法にして獨りこゝに遊ぶ人間に對して訓示するのみに止まらず、進んで草木その物に對しては恰も農夫の稻に於けるが如く學者の書卷に於けるが如きものありとせば其の恩澤を蒙むるものは啻にわが國内の雅客のみならず世界の旅行者も深く其の勞を謝するであらう。

東京市中の庭園路傍の草木は塵埃煤烟の爲めに悉く生色を失つてゐる。一度病樹の巷を去つて松柏鬱然たる京都に來るや否や、わたしはまづ何より先にアナトールフランスが佳樹靜思の一語を思出したのである。
祇園の
十月一日智恩院三門演劇の壯觀は親しくこの事に參與せられた諸家の記録の[#「記録の」は底本では「記録に」]既に新演藝其の他の雜誌に掲載せられたものについて此れを見れば十分である。
わたしはこゝに當日寫眞機を携へたる新聞記者の甚しく演藝を妨害したる事を記述するに止めて置かう。
野外劇はその名の示すが如く晴天白日の下に公開せられたる演劇である。祭禮の行列ではない。野外劇は既に演劇である以上これを觀るに藝術を以てしなければならない事は普通劇場の内部に於て行はるゝ演劇に對すると少しも異る處はない。異る處は唯建築物の内に於けると否とにあるのみである。野外劇も藝術たる點に於いて普通の演劇と同じである以上、觀客と演劇との間には犯すことの出來ない境界を必要とすることは演劇の性質上已むを得ぬ事である。政談演説の如きに於ても猶聽衆の
わたしはこゝに寫眞班と稱する新聞社員の暴行を責めるのではない。寫眞班は元より事理を解し得べき程度の人物ではない。わたしは寫眞班の派出を命令する新聞編輯の當事者を責めるのである。
平素劇場に出入する事を許されたる新聞記者と雖
松と杉との茂つた河原の彼方に
車は竹の林に沿うた平な街道を北へと走つて行く。
右も左も見渡すかぎり山の麓に至るまで稻は熟して秋晴の下に金波をたゞよはせてゐる。
白い野菊と赤い雜草とは農家の垣、田の畦、道の傍に咲亂れてゐる。
間口の廣い家の前を過ぎた。黒光のした柱に行燈が掛けてある。平八茶屋である。
道は人家の間を過ぎて俄に迂囘すると急流にかゝつた橋を渡る。
左右の山は次第に相迫つて前面に聳る比叡山はいよ/\近くいよ/\險しく見え始める。牛車と
今まで道に沿うて眺めて來た谷川の流は樹の間から唯その響を聞すばかりとなつた。
樹の枝が
山は幾重にも折りかさなり道は幾條にも分れてゐる。道の分るゝ處には必道しるべの石が立つてゐる。石と共に其の書體も
幾度か車は行きちがふ牛曳と
思掛けない處に折々人家が二三軒つゞいてゐる。道もないやうな處に飛び離れて鳥居や寺の屋根が見えた。
行く事更に數丁遂に車を通ぜざる石逕に達した。また人家がある。生垣のほとりに三千院と刻した石を見た。
石逕は杉の木立の間を登つて行く。木立はいよ/\深くまばらに日の光を漏す處、苔蒸した石段の上に門が立つてゐる。
人の跫音を聞いて頻に犬の吠る聲がした。
おそる/\
時は九月晦日午下、即智恩院演劇の前日である。
東京を出發する時わたしは斯くまでに京都を愛しようとは全く思つてゐなかつた。
明治四十二年再遊の際わたしは
およそ一國には國民固有の風習がなくてはならない。都會にはまた其都會特種の情調の存すべき筈である。特種の情調なき都會の興趣に乏しきは恰も品性なき人物と面接するに同じである。匹夫は交を結ぶに難く特徴なき都市は永住の策を講ずるに適しない。現今の東京はさながらイカサマ紳士の徒に邸宅の門戸を大にして愚民を欺き驚すものと
わたしは明治四十三年の秋隅田川の汎濫と其翌年淺草の大火とを以て江戸の古蹟とまた江戸趣味との終焉を告ぐるものとなした。以後年々市區改正工事の進捗は市民が生活状態の變遷と相俟つて、僅に十年にして遂に東京市をして世界最醜の都會たらしむるに終つた。
大正八年の春の頃であつた。夜半八丁堀の溝渠に沿うて築地の
この度京都の再遊はわたしをして恰も老夫の故山に歸臥したるが如き安慰を感ぜしめた。これ獨り山水烟霞の爲ばかりではない。街頭に新聞賣の叫ぶを聞かず、電車に無禮の乘客なく、道に駄馬の斃死するを見ず、劇場に新しき文士先生の影を斷ちたるこれ皆慰安の種とすべきである。
東京の人にして東京を去り
東京では藝者が通ると人が目に角を立てゝ見る。中には罵詈するものもある。公園のベンチに若い男女の並んで腰をかけてゐるのを見て振返らない人は殆どない。東京ほど岡燒の激しい處は世界に稀である。
京都には今でも合乘の人力車がある。藝者とお客の合乘をして行くのを見ても、往來の人は別に不思議な顏もしない。
京都に來て祇園の妓を聘するのと東京に在つて新橋に遊ぶのとは全然情緒を異にする處がある。それは恰も西洋の女優踊子のたぐひを米國の都會に於て見るのと巴里のモンマルトルに於て見る時との相違に似てゐるであらう。プロテスタントの教義の嚴しい社會に在つては此等紅粉の兒女は唯淺間しく恐しきものに見えるばかりであるが、モンマルトルに來れば道徳の判斷に先じて吾々はまづドガ、ボナアル、ロートレツク等が名作とまたミユツセ、ボードレール、ゴンクール等の詩文を思ひ起す。
藝術を除外して巴里に留ることは決して巴里を知るの道ではあるまい。京都に遊んでよく山水殿堂の美を賞するものはおのづから脂粉の氣に[#「氣に」は底本では「気に」]親しまざるを得ないであらう。何故といふに、祇園の教坊は既に久しく山陽、星巖、三溪諸家の詩文によりて東山鴨水の勝景と共に今は全くクラシツクと[#「クラシツクと」は底本では「クラシックと」]なつた觀があるからである。
この度西遊するに臨んでわたしは豫め成島柳北の戲著京猫一斑といふ小册子を行李に入れて行つた。都名所※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、72-下-16]會はあまり大部であつて他に案内書となすべきものが見當らなかつた故である。柳北先生の戲文はわたしの云はうとする處を云ひ盡してゐる。採録してわたしの記事の拙きに代へる。
西京ノ地若シ祇園之妓無ンバ則幾分ノ繁華ヲ減殺シ了スベシ。祇園ノ妓若シ東山ノ勝無クンバ則亦幾分ノ聲價ヲ減殺シ了ラン。天下ノ山ハ多シ。而シテ東山ノ清秀温雅ニシテ峻ナラズ峭ナラズ望ンデ愛ス可ク登テ樂ム可キガ若キ者ハ世ニ其匹ヲ罕トス。[#「罕トス。」は底本では「罕トス 」]蓋シ東山ノ春ニ宜シキヤ探花傍柳ノ樂有リ。秋ニ宜シキヤ觀楓採蕈ノ遊有リ。緑陰納涼ノ夏ニ於ケル紅樓望雪ノ冬ニ於ケル四時ノ景宜シカラザルハ無シ。而シテ鴨東脂粉ノ光彩目ヲ奪ヒ嬋娟 觀ル可キ者亦嵐光峰影ノ奇能ク之ガ助ヲ爲ス者ニ非ズ邪。然レバ則妓輩皆山靈ノ餘澤ヲ頼ンデ衣食スト謂フモ亦不可ナル無シ。[#「亦不可ナル無シ。」は底本では「不可ナル無シ。」]余ハ東人也。西土ヲ喜バザル者。然レドモ東山ノ勝ニ至ツテハ則愛翫シ娯樂セザルヲ得ズ。故ニ此ニ遊ブ毎ニ必先山ニ對スルノ樓ヲ擇ビテ寓シ旦暮欣賞ス。一良友ト相晤語スルノ思有リ。
また曰く
世間無カル可ラザル者ハ文字也。而シテ文字ノ遊亦酒ニ非レバ則樂シカラザル也。其ノ既ニ酒有ルモ亦妓無カル可ラズ。是古今達士ノ定論ニシテ然ル也。然レドモ酒ト妓ト有ノミナレバ未其ノ凡且俗ナルヲ免レズ。必ヤ山水ノ清秀以テ酒妓ノ興ヲ佐ル有テ而シテ後以テ遺憾無シトス可シ。四條ノ地ハ固ヨリ名媛麗妹ノ淵叢ト爲ス。而シテ樓々亦芳※[#「酉+胥」、U+9191、73-上-16]佳
ニ富ム。而シテ山ノ秀ナル水ノ清ナル亦世ノ稀トスル所。宜ナル哉文士墨客ノ來テ此ノ間ニ遊ブ者皆風咏歸ルヲ忘レ贊嘆シテ以テ樂郷ト爲ス。嗚呼翠嵐清流ノ勝ヲ樂シミ妓ヲ拉シ酒ヲ載セテ以テ傲遊スル者豈翅ニ蕩子冶郎ノ色ヲ漁シ香ヲ竊ム一輩ノ人ノミナランヤ。三溪子京華雜吟アリ。今其二ヲ録シテ以テ騷流ニ告グ。

「紅袖當莚銀燭開。青衣行酒影徘徊。絲聲清絶肉聲艶。合奏三絃雙鼓來。」
「月落鳧川第幾橋。曉烟罩柳白於
。街頭千點玻
影。照到天明紅未消。」
「月落鳧川第幾橋。曉烟罩柳白於

