吾妻橋

永井壮吉





 毎夜まいよ吾妻橋あづまばしはしだもとに佇立たゝずみ、徃来ゆきゝひとそでいてあそびをすゝめるやみをんなは、梅雨つゆもあけて、あたりがいよ/\なつらしくなるにつれて、次第しだいおほくなり、いまではどうやら十にんちかくにもなつてゐるらしい。女達をんなたち毎夜まいよのことなので、たがひにそのもその年齢としもそのところつてゐる。
 一同みんなからみつちやんとか道子みちこさんとかばれてゐる円顔まるがほのぱつちりした中肉中丈ちゆうにくちゆうぜいをんながある。去年きよねん夏頃なつごろから稼場かせぎば姿すがたはじめ、川風かはかぜあきはやぎ、手袋てぶくろした手先てさきこゞえるやうなふゆになつても毎夜まいよやすまずにるので、いまでは女供をんなどもなかでも一ばん古顔ふるがほになつてゐる。
 いつもくろ地色ぢいろのスカートに、えりのあたりにすこしばかりレースのかざりをつけたしろいシヤツ。口紅くちべにだけはすこくしてゐるが、白粉おしろいはつけてゐるのかないのかわからぬほどの薄化粧うすげしやうなので、公園こうゑん映画えいぐわ堅気かたぎわか女達をんなたちよりも、かへつてジミなくらい。はし欄干らんかんのさしてあかからぬ火影ほかげにはちかくの商店しやうてんはたらいてゐるをんなでなければ、真面目まじめ女事務員をんなじむゐんとしかえないくらい、たくみにそのうへかくしてゐる。そのため年齢としも二十二三にはられるので、まこととしはそれよりふたみつツはつてゐるかもれない。
 道子みちこはし欄干らんかんをよせるとともに、真暗まつくら公園こうゑんうしろそびえてゐる松屋まつや建物たてもの屋根やねまど色取いろど燈火とうくわ見上みあげるを、すぐさまはしした桟橋さんばしから河面かはづらはううつした。河面かはづら対岸たいがんそらかゞや朝日あさひビールの広告くわうこくと、東武電車とうぶでんしや鉄橋てつけううへえず徃復わうふくする電車でんしや燈影ほかげてらされ、かしボートをわか男女だんぢよ姿すがたのみならず、ながれてごみなか西瓜すゐくわかは古下駄ふるげたいてゐるのまでがよく見分みわけられる。
 をりからかしボート桟橋さんばしにはふなばた数知かずしれず提燈ちやうちんげた凉船すゞみぶねもなくともづないてやうとするところらしく、きやく呼込よびこをんなこゑが一そう甲高かんだかに、「毎度まいど御乗船ごじようせんありがたう御在ございます。水上すゐじやうバスへ御乗おのりのおきやくさまはおいそくださいませ。水上すゐじやうバスは言問こととひから柳橋やなぎばし両国橋りやうごくばし浜町河岸はまちやうがしを一しうして時間じかんは一時間じかん料金れうきんにん五十ゑん御在ございます。」とびつゞけてゐる。はしうへかはうへにぎはひを人達ひとたち仲見世なかみせ映画街えいぐわがいにもおとらぬ混雑こんざつ欄干らんかんにもたれてゐる人達ひとたちたがひかたあはすばかり。ひとひととのあひだすこしでも隙間すきま出来できるとるとあるいてゐるものがすぐ其跡そのあと割込わりこんで河水かはみづながれと、それにうつ灯影ほかげながめるのである。
 道子みちこ自分じぶん身近みぢか突然とつぜんしろヅボンにワイシヤツををとこ割込わりこんでたのに、一寸ちよつと片寄かたよせる途端とたんなんとつかずそのかほると、もう二三ねんまへことであるが、パレスといふ小岩こいはあそしづめてゐたころ折々をり/\とまりにきやくなので、調子てうしもおのづからこゝろやすく、
「アラ、木嶋きイさんぢやない。わたしよ。もうわすれちやつた。」
 をとこ不意ふいをくらつておどろいたやうにをんなかほたまゝなんともはない。
「パレスの十三がうよ。道子みちこよ。」
つてゐるよ。」
あそんでツてよ。」と周囲しうゐ人込ひとごみはゞかり、道子みちこをとこうでをシヤツのそでと一しよに引張ひつぱり、欄干らんかんから車道しやだうやゝ薄暗うすぐらはうへとあゆみながら、すつかりあまえた調子てうしになり、
「ねえ、木嶋きイさん。あそんでよ。ひさしぶりぢやないの。」
駄目だめだよ。今夜こんやは。つてゐないから。」
「あつちとおなじでいゝのよ。おねがひするわ。宿賃やどちんだけ余計よけいになるけど。」とひながら、道子みちこ一歩一歩ひとあしひとあしをとこ橋向はしむかうくらはうへとつてかうとする。
「どこへくんだ。宿屋やどやがあるのか。」
むかう河岸かししづかないゝうちがあるわ。わたしたちなら一時間じかん百円ひやくゑんでいゝのよ。」
「さうか。おまへ彼処あつちなくなつたのは、だれきなひとができて、一しよになつたからだとおもつてゐたんだ。こんなところかせぎにてゐるとはらなかつたヨ。」
「わたし、パレスのはう借金しやくきんかへしてしまふし、御礼奉公おれいぼうこうもちやんと半年はんとしゐてやつたんだから、かアさんがきてればうちかへつて堅気かたぎくらすんだけれど、わたし、あんたもつてるとほり、とうさんもかアさんもみんなんでしまつて、いまぢやほんとの一人ひとりぼつちだからさ。こんなことでもしなくツちやくらしてけないのよ。」
 をとこ道子みちこくちからまかせになにふのかといふやうなかほをして、ウム/\と頷付うなづきながら、おもさうな折革包をりかばんみぎひだりちかへつゝ、かれてはしをわたつた。
此方こつちよ。」と道子みちこはすぐ右手みぎて横道よこみちまがり、おもてめてゐる素人家しもたやあひだにはさまつて、軒先のきさき旅館りよくわんあかりした二階建かいだてうち格子戸かうしどけ、一歩ひとあしさき這入はいつて「今晩こんばんは。」となからせた。其声そのこゑおうじて、
らつしやいまし。」とわか女中ぢよちゆうあがぐちいたひざをつき、してあるスリツパをそろへ、「どうぞ、お二かいへ。突当つきあたりがいてゐます。」
 梯子段はしごだんあがると、廊下らうか片側かたがはかほあらなが便所べんじよ杉戸すぎどがあり、片側かたがはには三でふと六でふ座敷ざしき三間みまほど、いづれもきやくがあるらしくつたふすまそとにスリツパが[#「抜」の「友」に代えて「丿/友」、U+39DE、64-6]てゝある。
 道子みちこ廊下らうか突当つきあたりにふすまのあけたまゝになつたおくへ、きやくともはいると、まくらふたならべた夜具やぐいてあつて、まど沿壁際かべぎは小形こがた化粧鏡けしやうかゞみとランプがたのスタンドや灰皿はひざらかべには春画しゆんぐわめいた人物画じんぶつぐわがくがかゝつて、其下そのした花瓶くわびんには黄色きいろ夏菊なつぎくがさしてある。
 道子みちこきやくよりもはやてゐるものをぬぎながら、枕元まくらもとまど硝子障子がらすしやうじをあけ、「こゝのうちすゞしいでせう。」
 まどしたはすぐかはながれ駒形橋こまがたばし橋影はしかげ対岸たいがんまちえる。
「ゆつくりあそびませうよ。ねえ、あなた。おとまりできないの。」
 きやく裸体はだかのまゝまどこしをかけて煙草たばこをのむをんな様子やうすながめながら、
「おまへ、パレスにゐた時分じぶん露呈症ろていしやうだつてはれてゐたんだらう。まつたくらしいな。」
露呈症ろていしやうツてなによ。」
身体中からだぢゆうどこもかくさないで平気へいきせることさ。」
「ぢや、ストリツプはみんなさうね。あつときすゞしくつていゝわ。さア、あんたもおぬぎなさいよ。」と道子みちこをとこのぬぎかけるワイシヤツをうしろからつだつてきはがした。


 道子みちこはもと南千住みなみせんぢゆ裏長屋うらながやまづしいくらしをしてゐた大工だいくむすめである。あに一人ひとりあつたが戦地せんちおくられるともなく病気びやうきたふれ、ちゝ空襲くうしふとき焼死せうしして一全滅ぜんめつした始末しまつに、道子みちこ松戸まつど田舎ゐなか農業のうげふをしてゐる母親はゝおや実家じつかはゝともにつれられてつたが、こゝも生活くらしにはこまつてゐたので、はゝ食料しよくれうをかせぐため、丁度ちやうど十八になつてゐたのをさいはひ、周旋屋しうせんや世話せわで、そのころあらたにできた小岩こいは売笑窟ばいせうくつ身売みうりをしたのである。
 をとこはまだはじめてと年頃としごろであるが、ちやうひとツで、をんなならばだれにでも出来でき商売しやうばいのこと。道子みちこ三月みつきたゝぬうち立派りつぱかせにんとなり、はゝへの仕送しおくりにはなんとゞこほりもなくやつてつたが、ほどなく其母そのはゝ急病きふびやうんでしまひ、道子みちこはそれから以後いごみせかせかねは、いかほど抱主かゝへぬし歩割ぶわりられても、自分じぶん一人ひとりでは使つかれないくらいで、三ねん年季ねんきけるころには鏡台きやうだい箪笥たんすつてゐたし、郵便局いうびんきよく貯金ちよきんまん以上いじやうになつてゐたが、かへるべきうちがないので、そのころ半年はんとしあまり足繁あししげかよつてくるおきやくなかで、電話でんわ周旋屋しうせんやをしてゐる田中たなかをとこが、行末ゆくすゑ表向おもてむ正妻せいさいにするとふはなしに、はじめはそのをとこのアパートにき、やがて電車通でんしやどほりいへけんかりると、をとこ国元くにもとから一よめつたことのある出戻でもどりのいもうとに、人好ひとずきのよくないむづかしい母親はゝおやとがたゝめ、針仕事はりしごと煮炊にたきもよくは出来できない道子みちこ手馴てなれない家庭かてい雑用ざつようはれる。はじめから気質きしつはない家族かぞくとの折合をりあひふにしたがつて円滑ゑんくわつにはかなくなり、なにかにつけておたがひかほあからめ言葉ことばあらくするやうなこと毎日まいにちのやうになつてたので、道子みちこ客商売きやくしやうばいをしてゐた小岩こいは生活せいくわつのむかしを思返おもひかへしてふてくされる始末しまつ。それにくはへてをとこ周旋業しうせんげふも一かううまくはかないところから、一年後ねんごには夫婦別ふうふわかれとはなしがきまり、をとこはゝいもうととをれて関西くわんさいく。道子みちこ其辺そのへんのアパートをさがして一人暮ひとりぐらしをすることになつたが、郵便局いうびんきよく貯金ちよきんはあらかた使つかはれてしまひ、着物きものまで満足まんぞくにはのこつてゐない始末しまつに、道子みちこはアパートに出入でいりする仕出屋しだしやばあさんのすゝめるがまゝ、戦後せんご浅草あさくさ上野辺うへのへん裏町うらまち散在さんざいしてゐるあや旅館りよくわん料理屋れうりや出入でいりしておきやくりはじめた。しか毎日毎晩まいにちまいばんといふわけにはかない。四五日目にちめ一人ひとり二人ふたりもあればいゝはうなので、道子みちこはそのころしきりひとうはさをする浅草公園あさくさこうゑん街娼がいしやうにならうと決心けつしんしたが、どのへんていゝのか見当けんたうがつかないので、様子やうすをさぐりに、或日あるひあたりのくらくなるのをち、映画見物えいぐわけんぶつかへりのやうなふうをして、それらしくおもはれるところをあちこちとあるまはつてゐるうち、いつか仮普請かりぶしん観音堂くわんおんだうまへかゝつたのにこゝろづき、賽銭箱さいせんばこに十円札ゑんさつはふあはしてをがんでゐたときである。「アラ、みつちやん」とびかけられ、おどろいて振返ふりかへつてると、小岩こいは私娼窟ししやうくつにゐたころ姉妹きやうだいのやうに心安こゝろやすくしてゐた蝶子てふこといふをんな、もとは浅草あさくさ街娼がいしやうをしてゐたこともあるといふをんななので、わけはなして、道子みちこはそのへん蕎麦屋そばやさそひ、くはしくいろ/\の事情じじやうをきいた。
 このあたりで女達をんなたち客引きやくひき場所ばしよは、目下もくか足場あしばかゝつてゐる観音堂くわんおんだう裏手うらてから三社権現じやごんげんまへ空地あきち、二天門てんもんあたりから鐘撞堂かねつきだうのある辨天山べんてんやましたで、こゝは昼間ひるまから客引きやくひきをんながゐる。つぎ瓢箪池へうたんいけうづめたあと空地あきちから花屋敷はなやしきかこそとで、こゝには男娼だんしやう姿すがたられる。方角はうがくをかへて雷門かみなりもんへんでは神谷かみやバーの曲角まがりかどひろ道路だうろして南千住行みなみせんぢゆゆき電車停留場でんしやていりうぢやうあたり川沿かはぞひ公園こうゑん真暗まつくら入口いりぐちあたりから吾妻橋あづまばしはしだもと。電車通でんしやどほりでありながらはやくからみせめる鼻緒屋はなをやちつゞく軒下のきした松屋まつや建物たてもの周囲ゐまはり燈火あかりすくな道端みちばたには四五にんヅヽをんなてゐないばんはない。代金だいきんだれがきめたものか、いづこも宿賃やどちん二三百円びやくゑんのぞいて、をんな収入しうにふきやく一人ひとりにつき普通ふつうは三百円びやくゑんから五百円ひやくゑん、一ぱく千円せんゑん以上いじやうだとふ。
 道子みちこたゞなんといふわけもなく吾妻橋あづまばしのたもとがさゝうなのするまゝ、こゝを出場所でばしよにしたのであるが、最初さいしよばんから景気けいきく、よひうち二人ふたりきやくがつき、終電車しゆうでんしやとほすぎころにつかまへたきやく宿屋やどやつてから翌朝よくあさまでとまりたいと言出いひだ始末しまつであつた。
 道子みちこ小岩こいは売笑窟ばいせうくつにゐたときからをとこにはなんふわけもなくかれる性質たちをんなで、すこみち加減かげんがわかるやうになつてからは、いかにしづかばんでもとまきやくのないやうなよるはなかつたくらい。吾妻橋あづまばしるやうになつてもきやくのつくことにはかはりがなく、つきすゑにはハンドバツグのなかれた紙入かみいれには百円札ひやくゑんさつ千円札せんゑんさつがいくら押込おしこまうとしても押込おしこめないほどであつた。
 道子みちこふたゝ近処きんじよ郵便局いうびんきよく貯金ちよきんをしはじめた。


 或日あるひあさも十すぎ毎夜まいよとまりのきやく連込つれこ本所ほんじよ河岸かし宿屋やどやて、電車通でんしやどほりでそのきやくとわかれ、道子みちこ裏通うらどほりにあるアパートへかへつてると、まどしたとなりてら墓地ぼちになつてゐるから、今朝けさ平素ふだんよりもはげしくにほひわたる線香せんかうけむりかぜになびいて部屋へやなかまでながんでくるやうにもおもはれた。
 昼寐ひるね夜具やぐきながら墓地ぼちはう見下みおろすと、いつも落葉おちばうづもれたまゝ打棄うちすてゝあるふるびたはか今日けふ奇麗きれい掃除さうぢされて、はな線香せんかうそなへられてゐる。本堂ほんだうはうではきやうこゑかねおともしてゐる。道子みちこ今年ことしもいつかぼんの十三にちになつたのだとはじめてがついたときである。れぬをんなこゑきつけ、またもやまどからくびしてると、日本髪にほんがみ日本服にほんふくおくさまらしいわかをんなと、その母親はゝおやかともおもはれる老婆らうば二人ふたりが、手桶てをけをさげた寺男てらをとこ案内あんないされて、いしもまだあたらしいはかまへつて、線香せんかうたばそなへてゐる。
 道子みちこはふと松戸まつどてらはうむられた母親はゝおやことおもおこした。その当時たうじ小岩こいはさかはたらいてゐたゝめ、主人持しゆじんもち自由じいうがきかず、ひまもらつてやつと葬式とむらひつたばかり。それから四五ねんたつた今日こんにち母親はゝおやはかるのかいのかわからないとおもふと、なにやらきふ見定みさだめてきたいがして、道子みちこいた夜具やぐもそのまゝにして、めしはず、けたまどめるとともに、ふたゝそとた。
 道子みちこ上野うへのから省線電車しやうせんでんしや松戸まつどえきりたが、てらだけは思出おもひだすことができたものゝ、その場処ばしよまつたわすれてゐるので、駅前えきまへにゐるりんタクをんでそれにつてくと、次第しだいたかくなつてみち国府台こふのだいはうへとりかけるあたり。松林まつばやしなかもん屋根やねそびやかした法華寺ほつけでらで、こゝもぼん墓参はかまゐりをするらしいひときつゞき出入でいりをしてゐた。すぐに庫裏くり玄関先げんくわんさきあゆると、をりよく住職ぢゆうしよくらしい年配ねんぱいばうさんがいまがた配達はいたつされたらしい郵便物いうびんぶつながらつてゐたので、
一寸ちよつとうかゞひますが、アノ、アノ、田村たむらをんなのおはか御在ございますが、アノ、それはこちらのおてら御在ございませうか。」と道子みちことゞこほちにきいてた。
 ばうさんは一かう心当こゝろあたりがないとふやうな面持おももちをしながら、それでも笑顔ゑがほをつくり、
御命日ごめいにちはいつごろです。お葬式とむらひ何年程前なんねんほどまへでした。」
 道子みちこ小岩こいは色町いろまち身売みうりをしたとき年季ねんきと、電話でんわ周旋屋しうせんやと一しよくらした月日つきひとをむねうちかぞかへしながら、
「お葬式とむらひをしたのは五ねんばかりまへで、お正月しやうぐわつもまださむ時分じぶんでした。松戸まつど陣前ぢんまへにゐる田村たむらといふ百姓家しやうやひとがお葬式とむらひをしてくれたんで御在ございますが……。」
「あゝさうですか。いま調しらべてませう。鳥渡ちよつとつてください。そこへ御掛おかけなさい。」
 ばうさんは日本紙にほんし横綴よことぢにした帳面ちやうめんひらきながら、て、「わかりました。わかりましたが、おはかはそれなりなんのおたよりがないので、そのまゝにしてあります。おはかはありません。あなたは御身寄おみよりかたですか。」
 道子みちこはうむられたものむすめで、東京とうきやう生活せいくわつをしてゐるのだとこたへ、「おはかいのなら、ちやんとしたいしてたいんですが、さうするにはどこへたのんだら、いゝのでせう。」
「それはこのてらつてゐる石屋いしやがありますから、そこへたのめばすぐこしらへてくれます。」
「それぢや、わたくしおたのみしたいんですけど、いしは一たいどれほどかゝるものでせうか。」
「さうですね、そのへんつてゐるやうなちひさないしでも、戦争後せんさうご物価ぶつかがちがひますからな、五六千円せんゑんはかゝるつもりでないと出来できません。」
 道子みちこ一晩ひとばんかせげば最低さいていせん五六百円ぴやくゑんになる身体からだ墓石ぼせき代金だいきんくらいさらおどろくところではない。ふゆ外套ぐわいたうふよりもわけはないはなしだとおもつた。
いま持合もちあはしてゐませんけど、それくらいでよろしいのならいつでもおはらひしますから、どうぞ石屋いしやへ、御面倒ごめんだうでもおはなししてくださいませんか。おねがいたします。」
 ばうさんはおもけないいおきやくたらしく、にはかたゝいて小坊主こばうずちや菓子くわしとをつてさせた。
 道子みちこはゝのみならずちゝはかも――戦災せんさい生死不明せいしふめいになつため、いまだにてずにあることかたり、はゝ戒名かいみやうともならべていしつてもらふやうにたのみ、百円札ひやくゑんさつ二三まいかみつゝんでした。ばうさんは道子みちこ孝心かうしんを、いまにはまれなものとして絶賞ぜつしやうし、そのかへるのを門際もんぎはまでおくつてやつた。
 道子みちこはバスのとほるのをて、その停留場ていりうぢやうまであるき、つてゐるひとみちをきいて、こんどは国府台こふのだいから京成電車けいせいでんしや上野うへのまはつてアパートにかへつた。
 なつさかりながれかけ、いつもならば洗湯せんたうき、それから夕飯ゆふめしをすますとともに、そろ/\かせぎに出掛でかける時刻じこくになるのであるが、道子みちこがけにいたまゝの夜具やぐうへよこたはると、そのゆふべばかりはつかれたまゝそとへはずにねむつてしまつた。
 つぎゆふべ道子みちこはいつよりもすこ早目はやめかせ吾妻橋あづまばしくと、毎夜まいよ顔馴染かほなじみに、こゝろやすくなつてゐる仲間なかま女達をんなたち一人ひとりが、
みつちやん。昨夜ゆうべどうしたの。なくつてよかつたよ。」
「うるさかつたのかい。わたしおつかさんの、田舎ゐなかのおてらへお墓参はかまゐりにつたんでね。昨夜ゆうべはやてしまつたんだよ。」
よひくちにははしうへ与太よた喧嘩けんくわがあるし、それから私服しふくがうるさく徘徊うろついてゝね、とう/\松屋まつやよこで三にんげられたつてふはなしなんだよ。」
「ぢや、ほんとになくつてよかつたね。たら、わたしもやられたかもれない。やつぱりおてらばうさんのとほりだ。親孝行おやかうかうしてゐるとわる災難さいなんにかゝらないでうんくなるツて、まつたくだよ。」
 道子みちこはハンドバツグからピースのはこ取出とりだしながら、見渡みわたすかぎりあたりはぼんの十四日よつかよる人出ひとでがいよ/\はげしくなつてくのをながめた。
(昭和廿八年十二月作)
〔一九五七(昭和三二)年一一月一〇日、中央公論社『あづま橋』〕





底本:「荷風全集 第二十巻」岩波書店
   1994(平成6)年10月28日発行
底本の親本:「あづま橋」中央公論社
   1957(昭和32)年11月10日発行
初出:「中央公論 第六十九年第三号」中央公論社
   1954(昭和29)年3月1日
※「鳥渡」と「一寸」の混在は、底本通りです。
※表題は底本では、「吾妻橋あづまばし」となっています。
※初出時の署名は「荷風散人」です。
入力:H.YAM
校正:きりんの手紙
2020年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「抜」の「友」に代えて「丿/友」、U+39DE    64-6


●図書カード