住宅難の時節がら、桑田は出来ないことだとは知つてゐながら、引越す先があつたなら、現在借りてゐる二階を引払ひたいと思つて見たり、また忽気が変つて、たとへ今直ぐ出て行つて貰ひたいと言はれやうが、
二階を借りてゐる其家は小岩の町はづれで、省線の駅からは歩いて二十分ほど、江戸川の方へ寄つた田圃道。いづれも生垣を結ひ
桑田は一昨年の秋休戦と共に学校を出て、四ツ木町の土地建物会社に雇はれ、金町のアパートに居たのであるが、突然其筋からの命令で、同宿の人達一同と共に立退かねばならぬ事になり、引越先がないので途法にくれてゐたが、偶然或人の紹介で現在の二階へ引移つたのである。
年はまだ三十にはならないので、当分は学生の時と同様、独身生活をつゞけて行くつもりでゐたのだが、小岩の家の二階へ引越してから、とてもそんな悠長な、おちついた心持ではゐられなくなつたのである。
家の主人は桑田よりは五ツ六ツ年上で、市川の町の或信用組合へ通勤してゐる。
細君は
良人はどつちかと云ふと無口で無愛想な方らしいが、細君はそれとは違つて、黙つてぢつとしては居られない陽気な
桑田が初め紹介状を持つて尋ねて行つた時、また運送屋に夜具蒲団を持ち運ばせて行つた時、細君年子さんは前々から知合つた人のやうに、砕けた調子で話をしかけ、気軽に手つだつて、桑田の荷物を二階へ運び上げてやつた。この様子に桑田は何といふ快活な、そして親切な奥さまだらうと感心せずには居られなかつた。
「もうぢき帰つて参りますよ。遠慮なんぞなさらないで下さい。何しろ私達二人ツきりですからね。このごろのやうに世間が物騒だと、一人でも男の方の多い方が安心なんですよ。それに二階を明けて置くと、引揚者だの罹災者だの、さういふ人達に貸すやうにツて、警察からさう言つて来て困るんですよ。」と細君は一人でしやべり続けた後、配給物もついでゝすから、家の物と一ツしよに取つて来て上げる。洗濯もワイシヤツくらいなら一
桑田はこんな好い家は捜しても
然しこの喜びはほんの一ト月ばかりの間で、桑田は忽ち困りだしたのである。引越す先があつたら明日といはず
最初、どうやら身のまはりが片づき、机の置処もきまり、座敷の様子から窓外の景色にも親しみが感じられるやうになりだした頃、或日の朝である。桑田は下座敷から聞える夫婦の声に、ふと目を覚して腕時計を見た。午前七時半であつた。
「おい、寒いよ。寒いよ。風邪ひくよ。裸ぢやゐられない。」と言ふのは主人浅野の声。
「そんならもう一遍おねなさい。ボタンがとれてるからさ。お待ちなさいよ。」と命令するやうに言ふのは細君年子さんの声であつた。
それなり二人の声は途切れて、家中は静になつてゐたが、忽ち甲高な年子さんの笑ふ声。それから着物でも着るらしい物音と、聞きとれない話声がつゞき初めた。
桑田はこんな事から程なく主人の浅野は毎朝出勤する時、自分の手では洋服がきられないのか、わざと着ないのか、それは分らないが、子供が幼稚園へでも行く時のやうに、細君にきせて貰ひ、ネキタイも結んでもらふ人だといふ事を知つた。そして夕方近く勤先から帰つて来ると、洋服だけは
この事が桑田の好奇心を
主人の浅野は夕方六時前にはきまつて帰つて来る。電車に故障でも起らないかぎり、早くもならず晩くもならない。細君は時計を見ずとも其時刻を知つてゐて、夕飯の仕度にかゝるより早く、風呂へは行かないことがあつても、白粉だけはつけ直さないことはない。昼間良人の留守中、細君は配給物など取りに出る時、桑田が二階に居れば、「済みませんが、桑田さん。一寸お願ひしますよ。」と声をかけて出て行くが、いつもは格子戸と潜門とに鍵をかけ、目立たぬやうに
細君は良人の留守中、いつも
スヱータの袖を二の腕までまくり上げ、短いスカートから折々は内股を見せながら、四ツ
やがて桑田は夜もおち/\眠られなくなつた。下座敷の夫婦は晩飯をすまして暫くラヂオを聞いてゐるかと思ふと、いつの間にか寐てしまふ。毎晩、よくあんなに早く寐られると思はれるくらいで。連立つて映画を見に行つたり、買物がてら散歩に出るやうなことは殆どない。桑田が勤先からの帰り道に、鳥渡用足しでもして帰つて来ると、家の内は早くも真夜中同様、真暗闇になつてゐる。朝の出勤時間が早い為めだらうと、桑田は初の中は気にもしなかつたが、或夜何かの物音に、ふと目をさますと、宵の中に消えてゐた下座敷の電燈がいつの間にかついてゐて、しかも低い話声さへ聞える。二人して交る/″\何か読んでゐる声のすることもあつた。どういふ種類の書物であるかは推量されるが、然しその文章は聞きとれない。やがて男か女か知れぬが立つて障子をあけ、台所へでも行くやうな物音の二度三度に及ぶやうなこともある。
桑田は学生時分からアパート住ひには馴れた身の、壁越のさゝめきや物音にはさして珍しい気もせずにゐたのであつたが、今度初て、其時分の経験からは到底推察されない生活の在ることを、あり/\事実として認めねばならなかつた。桑田は是非なく、成るべく外で時間をつぶして帰らうと思ひはじめた。一度帰つて自炊の晩飯を済ましてから、また外出することもあるやうになつた。然し場末の町のこと、殊に夜になつては何処へも行くところはない。駅に近い方に一二軒カフヱーはあるが、女給はいづれも三十近いあばずればかり。そして飲物の高価なことは、桑田が一ヶ月の給料などは二三度出入をしたら忽ちふいになるかと思はれるくらい。トラツクの疾走する千葉街道の片ほとりには、亀戸から引移つて来た銘酒屋があるし、また一駅先の新小岩にも同じやうな処があるが、いづこもインフレ景気の物すごさに、桑田は唯
毎夜の睡眠不足から桑田はすつかり憂欝になつてしまつた。引越したいと思つても引越す目当がないと思ふと、無暗に腹が立つて座敷の物でも手当り次第
桑田は腹立しさのあまり、思切つて暴行を加へて見やうかと思つた。然しどういふ風に実行すべきものか、其手段がわからない。いざといふ場合になつたら、女の方が遥に強くはあるまいかといふ気もする。拭掃除に水一ぱいの大きなバケツを幾度となく汲みかへては持運ぶ様子から、半日洗濯をしつゞけても、さほど疲れた風もしないところなどを見ると、あべこべに
日はいつか長くなつて、勤先から帰つて夕飯をすませても外はまだ明く、生垣の外の畠が青く見えるやうになると、忽ちそこら中一帯に蛙の鳴く声が聞え出した。桑田はいつもに変らぬ深夜の囁きに加へて、枕元に蚊の声をも聞くやうになつた。眠られぬ夜はます/\眠られなくなるばかりである。
蚊遣香を焚いて我慢をしてゐたのも暫くの間であつた。桑田は蚊帳を釣るために釘と金槌とを借りやうと、或日下座敷へ行くと、主人の浅野は細君と二人で旅行用の
「三四日留守にしますから、何分よろしく御頼みします。田舎の親類に弔ひがあるんで、一寸行つて来ますから。」
次の日の朝、桑田が朝飯の
桑田はおそる/\其枕元まで歩み寄つて、ぢつと寐姿を眺めてゐたが、そのまゝ意久地なく台所へと立戻つて、わざと物音あらく鍋や皿を洗ひかけたが、細君はどうしてそんなに疲れたのかと寧ろ恠しまれるほど、いよ/\
桑田の煩悶は主人が居た時よりも更に甚しく、とても二階にぢつとしては居られなくなつた。
二日目の夜である。小雨が降つたり歇んだりしてゐたに係らず、勤先からの帰道、桑田は映画館で時間をつぶした後、その辺のおでん屋で平素飲まない酒を飲み、真暗な横町を足もとしどろに帰つて来た。離れ/″\に立つてゐる人家には門口の灯さへ消えてゐるところもあつた。遠くに聞える省線電車の響、蛙の声と風の音とが、さほど
桑田は危く溝に踏込まうとして道ばたの生垣につかまり身を支へたのも一度や二度ではない。やつとの事自分の家の
桑田は今夜こそ是が非にも運だめしをする決心であつたので、片足を出入口の土間に踏み入れると共に、わざとらしく声を張上げ、
「奥さん。どうも、おそくなつてすみません。」
すると闇の中から、「大変よ。桑田さん。」といふ奥様の声がしたが、それは顫へた泣声であつた。今まで一度も聞いたことのない異様な調子を帯びた声であつた。
この声に驚かされて、其方へと一歩進寄つた時、更に一層桑田をびつくりさせたのは、何物をも纒つてゐないらしい女の柔な身体に、その足がさはつたことであつた。
畳の上には土足で歩いた足跡がある。
夜がふけるに従つて、また誰か、餌をさがす狼が来はせぬかといふやうな気味悪さが、いつまでも二人を其儘一ツ座敷に坐らせてしまつた。夜があけても二人は離れることができなかつた。そのまゝ食事も一
二人はぽつ/\こんな話をした。
「ねえ、奥さん。届けるなら、暗くならない中盗まれたことになさい。」
「わたしは家に居なかつた事にしてよ。縛られたなんて、そんな事言はれないからさ。」
「でも、よく、何ともありませんでしたね。怪我しなくつてよござんした。」
「わたし、ほんとにそればつかりが心配だつたのよ。おとなしくしてゐるより仕様がないと思つたのよ。だけど、よくつて。秘密よ。絶対に秘密よ。あなただけしか知つてる人はないんだから。きつとよ。」
三日目に浅野がかへつて来た。たぶん午後に早く帰つて来たのであらう。桑田はその勤先から帰つて来て格子戸を明けた時、二人が夕飯をたべながら、いつもと変らない調子で話をしてゐる声をきいた。
桑田はそのまゝ二階へ上らうとすると浅野が、「留守中はどうも御世話さまでした。」と言ふので、黙つてもゐられず、
「お帰りですか。汽車はこんだでせう。」
「イヤ思つたより楽でした。」
「それは能うござんしたなア。」
桑田はまたもや梯子段へ片足踏みかけやうとすると、
「空巣をやられたさうですな。あなたの物でなくツて能うござんした。」と言ふので、桑田は其晩の事が既に二人の間に話し出されてゐた事を知つた。
「わたしがゐればよかつたんですが、会社へ出かけた後なもんで、申訳がありません。」
言ひながら桑田は襖際まで立戻つて、何より先に細君の顔を見た。
燈火のせいか、または
「桑田さんが帰つて来て下さつたからよかつたのよ。わたし一人だつたら、とても気味がわるくツて、夜なんぞ寝られなかつたかも知れなかつたわ。」
桑田はまアよかつたと言はぬばかり、俄に安心したやうな気がした。それと共に、人間は
あくる日、桑田はいつもより仕事が忙しかつたにも係らず、大急ぎに浅野よりも早く帰つて来て、台所で洗物をしてゐる細君の後姿を見るや、すぐさま其身近に進み寄り、
「奥さん。」と呼びかけた。
奥さんは何も言はず唯ぢつと桑田の顔を見返し、返事の代りに意味あり
桑田はその日から折々浅野よりも早く帰つて来たり、また浅野が出て行つた後昼近くまで出かけずにゐることもあつた。
二階の窓から見渡すあたりの麦畠には麦が熟して黄いろくなり、道端にも植ゑられた豆の花はそろ/\青い
桑田は再びこの二階には居たくない。今度こそ一日も早く明間をさがして引越したいと決心するやうになつた。以前のやうに夫婦の性的生活に対する羨望と嫉妬からではない。桑田は人の秘密を自分一人知つてゐることが、自分ながら不快でならなくなつたのだ。
細君は以前よりも親切に
一ヶ月ばかりして、諸処方々へ引越先を聞合してゐた結果、小松川辺の或農家の離家を見つけ、人に金を借りてまでして敷金を収め、桑田はやう/\の事で、小岩の貸二階を引上げた。見渡す青田の
(昭和二十二年六月稿)
〔一九五〇(昭和二五)年二月二〇日、中央公論社『葛飾土産』〕
〔一九五〇(昭和二五)年二月二〇日、中央公論社『葛飾土産』〕