わたくしはその頃身辺に起つた一小事件のために、小説の述作に絶望して暫くは机に向ふ気にもなり得なかつたことがある。
小説は主として描写するに人物を以てするものである。人物を描写するにはまづ其人物の性格と、それに基いた人物の生活とを観察しなければならない。観察とは人を見る眼力である。然るにわたくしは身辺に起つた一瑣事によつて、全然人を見る眼力のないことを知り、これでは、到底人物を活躍させるやうな小説戯曲の作者にはなれまいと、
平生わたくしは文学を以て交る友人を持つてゐない。たま/\相見て
二客はその年齢いづれも三十四五歳、そして亦いづれも東京繁華な下町に人となつた江戸ツ子である。一人はその名を木場貞、一人は白井巍と云ふ。木場は多年下谷三味線堀辺で傭書と印刻とを業としてゐた人の家に生れたので、明治初年に流行した漢文の雑著に精通してゐる。白井は箱崎町の商家に成長し早稲田大学に学び、多く現代の英文小説を読んでゐる。
わたくしは其時年はもう六十に達し老眼鏡をかけ替へても、古書肆の店頭に高く並べられてある古本の表題を見るのに苦しんでゐたので、折々二
木場は或日蜀山人の狂歌で、画賛や書幅等に見られるものの中、其集には却て収載せられてゐないものが
一年あまりの月日が過ぎた。木場は北千住に住んでゐたのであるが、
「木場が人形屋を始めたと云ふはなしだが、景気はいゝかね、
「細君の小遣くらゐになればいゝのでせう。」
と言ふ白井の返答で、わたくしは、初て木場の妻帯してゐることを知つたのである。
「細君はきれいかね。」
「なか/\きれいです。」
「さうか。震災前のはなしだから君達は知らないだらうが、画家竹久夢二の細君が
「愛嬌には少し乏しいやうですが、色が白くて痩形で兎に角わるくありません。」
「素人かね。」
「高嶋屋デパートの売子でした。」
「さうか、それでは僕も市川まで人形を買ひに行くかな。いづれ訳があつたのだらうな。」
「坂本町のアパートにゐた時分部屋が向合せだつたさうです。」
「さうか、寒い晩に帰つて来て鍵をなくしたのが縁のはじめだつたら、まるでプツチニのボヱームだね。」
「木場は初め妹の方に思召があつたんださうです。姉さんが売子、妹は上野のPPといふ喫茶店の女給で、姉さんよりはずつとモダーンでした。わたしも時々木場と一緒で、随分通つたもんです。木場は或晩時期はもう熟した頃だと思つて、夜なかに其
白井は猶わたくしの問に応じて、木場の経歴を語つた。木場は父が死んでから母と共に静岡の
わたくしは白井ほど自分の事を語らない人には、今まで一度も逢つたことがない。その親類が新川で酒問屋をしてゐる事、その細君は白井より一ツ年上で、その家は隣りあつてゐた。女は女学校、白井はまだ中学を出ないのに、いつか子供をこしらへ、其儘結婚したのだと云ふ事などは白井が木場の事を語つたやうに、わたくしは木場の口から悉くこれを
わたくしは白井の生活については、此等の事よりも、まだその他に是非とも知りたいと思つてゐる事があつた。それは白井が現時文壇の消息に精通してゐながら、今日まで一度もその著作を新聞にも雑誌にも発表したことがないらしい。強ひて発表しようともせぬらしく頗悠々然としてゐる。この悠々然として居られる理由が知りたいのであつた。
わたくしは白井が英文学のみならず、江戸文学も相応に理解して居るが上に、殊に筆札を能くする事に於いては、現代の文士には絶えて見ることを得ないところでありながら、それにも係らず其名の世に顕れない事について、更に悲しむ様子も憤る様子もないのを見て、わたくしは心窃に驚歎してゐたのであつた。わたくしは白井の恬淡な態度を以て、震災前に病死したわたくしの畏友深川夜烏子に酷似してゐると思はねばならなかつた。
わたくしはこゝに至つて、少しくこの前後の時代に於ける文壇の風潮について思ふところ、観るところを述べねばならない。明治三十年代も日露戦争の頃まで、文壇の風潮、文士の気風は明治十年、或は溯つて江戸時代のそれと多く異るところがなかつた。江戸文壇の風潮を承継したとも言へる。又前代の風潮が次第に変遷しながらも、まだ全く滅びてしまはなかつたとも言へる。その頃には小説戯曲は一種の遊戯であつて、これに従事するものは、俳優落語家の輩と同一に視られてゐた。学海、桜癡、逍遙、鴎外の諸家が文学を弄びながら、世間から蔑視されなかつたのは文壇以外に厳然たる社会上の地位があつた故である。譬へば柳亭種彦が小説をつくり、細井栄之が浮世絵を描きながら両者ともに旗本の殿様であつたと同様である。当時われ/\は小説家が遊惰の民として世人より歯せられず、父兄より擯斥せられてゐたが故に、反抗的に却てこれを景仰し自分達も亦その後塵を追ふことを欲した。されば成功して文名を博し得ても、その名誉は同好の人の間にのみ限られて、世間一般とは何の関係もない事は初めから承知してゐた。われ/\は豪然として富貴栄達を白眼に視る気概を喜んでゐたのである。
わたくしは喋々の辯を費すよりも、当時我国に於いて、学士会員及び博士の称号が学者にのみ許されて、小説戯曲の作家には許されてゐなかつた事を見ても思半に過るものがあるであらう。森槐南先生が病歿するに際し、文部省が博士の称号を贈つたのは、詩人としてではなく、生前帝国大学に於いて杜甫の詩を講じた事があつたからである。
明治三十三四年の頃だと記憶してゐる。石橋思案が文藝倶楽部の主筆であつた時、富豪大倉喜八郎が同誌に好小説を掲げた作家に、賞金五百円を贈ることを謀つた。然るに当時の操觚者は文士を侮辱するものとして筆を揃へてこの事を罵つた。かくの如き文壇の気風は日露戦争後に至り漸次に変化し、大正の初には文士は憚るところなく原稿料の多少を口にするやうになり、震災の頃になつては、文学は現代社会の一職業と見られ、之によつて産を成すものさへあるやうになつた。
わたくしは日露戦争の後、実業家の重立つたものが爵位を授けられた事、政党政治の確実に成立せられた事、帝国劇場と三越百貨店との建設せられた事等を以て、一新時代の出現と見る。文士小説家が社会の一員として認識せられた事もこの新現象の中に加へべきものであらう。政党政治は震災前後の時代より腐敗の醜状を世人の前に暴露するやうになり、文壇もこの時代より漸次に沈滞し腐敗して来た。文士も亦政治家の顰に傚ひ集団をつくり、之に依つて名を成さんことを務め、其主義理想の如何を問はなくなつた。後進の文士は集団運動に参加せざるかぎり其文を公にする道がないやうになつた。大正時代の文士中社会主義を奉ずるものの多かつたのは、これを今日より回顧すれば全く売名の方便となしたに過ぎなかつたのである。かくの如く文学が商業と化した如く教育も亦商業と化し、学校の経営者は一人でも多く生徒を吸集せんがために野球の勝負を催すの傍、文学部の教授に流行小説の作者を招聘して広告の代用品たらしめた。
世を挙げて営利に奔馳する時代に在つて、わたくしは偶然この時代の風潮に同化せざる木場白井の二青年に邂逅したのである。わたくしは喜びのあまり、二生がいかなる理由、いかなる閲歴によつて、現代営利の風潮に化せられなかつたかを深く考究する遑がなかつた。草木には偶然変り種が出るやうに、いかなる世にも畸人の出ない事はない。曲学阿世の風が盛であつた宝暦の時代にも馬文耕といひ志道軒といふが如き畸人が現れた。木場白井の二生が昭和の世に存在するのも亦怪しむには及ぶまい。わたくしは先そんな風に考へてゐた。
木場も白井も身長は普通であるが痩立の体質は二人ともあまり強健ではないらしい。木場はいつも洋服、白井はいつも和服で、行儀よく物静なことは白井は遥に木場に
丸善あたりには盛に新刊の洋書が並べられてあつた頃なので、わたくしは其年のゴンクール賞を得た仏蘭西新作家の著作などについて所感を語り、興に乗じてわたくし自身のものまで憚らず其抱負を口にした事もたびたびであつた。
「中途でよしてしまつた原稿も随分ありますよ。脚本なんか脱稿しても上演されさうもないと思つたものは其儘発表しないでしまつてあります。」
「拝見させて戴けませんか知ら。」
「読んだら遠慮なく批評してくれたまへ。」
わたくしは草稿を入れた大きな紙袋の三ツ四ツ、
白井はその頃千葉県稲毛に家を借り東京へ出て来て帰りの汽車に乗りおくれる時には、木場の鴻麓堂に泊ると云ふ。わたくしは謝礼として車賃若干を贈ることにした。
白井は蟲干の手つだひをしながら、初め鉛筆で蔵書の名を手帳に記入して持帰つた後、一ヶ月ばかりして半紙に毛筆で清書した目録一冊を見せてくれた。細字の楷書で、其の能筆なることはむかし筆耕を業としたものの手に成つた写本に劣らず、洋字も極めて鮮明であつた。
「君、どこか図書館にでも勤めてゐたことが……。」
「いえ、御在ません。わたし唯本が好きなもんで、索引もこしらへて見ました。」
わたくしは更に一枚五円ヅツと計算して蔵書目録作製の労に報いた。どんな生活をしてゐるか知らないが、豊でないらしいことは問はずと知れてゐたからである。交際してから早くも二年あまりになるので、長女が女学校に通つてゐる事、細君の生家が二三年前まで箱崎町で何か商ひをしてゐた事など、わたくしは其後談話の際に聞いてゐたので、細君の方にも幾分の恒産があり、白井の家も其隣りであつたと云ふから、矢張商家で地面か、貸家の二三軒くらゐは持つてゐて清貧に甘じてゐられるだけの収入はあるものと、わたくしは勝手に臆断してゐたのである。
その頃から白井も木場も来訪する度数が俄に少くなつて来た。心づくと三月ばかり音沙汰がないので、病気ではないのかと、真間の鴻麓堂へ手紙で問合すと、安房郡××村へ引越したと云ふ返事がきた。別に是非とも面談せねばならぬ用事があるわけでもなく、またわたくし自身の気儘な性情から推察して、文士の気まぐれを責める心がないところから、それなりにして置いた。
するとそれから又半年あまり過ぎた頃である。箱根でむかしから代々旅館を業としてゐる人の息子で、嘗て本郷の大学の国文科に学んでゐた時分、折々わたくしを訪問しに来たものがある。その時分頻に明治初年の小説雑著のたぐひを蒐集してゐたので、それについて、わたくしの卑見を叩きに来たのである。名を岩田といふ。岩田は俄に手紙を寄せ数年来の無沙汰を謝し近頃不思議な写本を手に入れた。西銀座の
わたくしはいつぞや旧稿を収めた紙袋を白井に貸したことを思出した。紙袋は白井の手から返付せられたまゝ、もとの棚の上に
怪夢録はその題の示すが如く睡眠中に遭遇した事件を筆にしたもので、わたくしがまだ牛込の旧廬に居た中年の頃の作であるが、雑誌などには出せさうもないと思つて、後に浄写して袋の中に入れて
何しろ三十年前に書いたもので、委しい事は自作ながら忘れてゐる。旧稿をよみ返して見るのも、時には他人のものを見るやうで、意外の興を催し得ることがあるから、わたくしは旧作怪夢録を開いて、巻首の自叙から仔細に全文を読返して見た。
発端に夢のことがなが/\と書いてある。夢には映画に見るやうに人や化物に追ひかけられ、追ひ詰められて目をさますのが通例である。小説の主人公「わたくし」なる者は多年神経衰弱のために眠るかと思ふとすぐ妙な夢に襲はれ、熟睡することができなくなつてゐる。或日夢に玉川上水の流れてゐる郊外を歩いてゐる。(
夜になり川添ひの小料理屋に上つて飯を食ふ。料理屋は宿屋を兼ね、酌婦が四五人ゐる。その一人に挑まれて泊る。この酌婦の肉体には一種不思議な魅力があつて、主人公は数年来熟睡し得なかつた苦痛を、この夜初て忘れることができた。別れて家へかへるとまた眠られなくなるので、三日に上げず通ひつめる。今まで知らなかつた限なき楽しみをこの女によつて知る。借金を返してやつて妾にする。その中に夢の間にまた夢を見る。鸚鵡よりも綺麗な蝙蝠が窓に来て、あの女に接してゐると一年を出でずして殺されることを告げる。主人公は驚いて家を逃れ出で諸所をさまよひ、松林に蔽はれた小山の上の廃祠に隠れ、こゝに自炊の生活をする(風景は作者が中学生の頃夜行遠足を試みた時に見た井の頭池の近傍である。)枯枝を拾ひ/\崖のほとりに出ると、夕日が麓の野を蔽ふ枯尾花に映じて、見渡すかぎり火の海をなしたやうに思はれる。一人の女が小径を歩いて来る。火の中をさまよふものと思ひ、助けてやらうと走り寄つて見ると、それは彼の女である。女は金の壺を持つてゐて、これは印度に産する金の蛇を漬けた酒だから飲めと勧める。驚いて道を択ばず逃げ走る。鉄道線路に出で踏切番の小屋を見つけて逃げ込む。中に木の瘤のやうな顔をした婆がゐて、若き主人公を見るや、気味のわるい笑を浮べ、いやらしい様子で挑みかゝる。小屋の外には金蛇の酒を提げた女がうろ/\してゐる。絶体絶命、主人公は悶絶する自分の声に驚いて目を覚ますと、波斯小説の上に頬杖をついて
今日これを読返して見ると、編中の叙景は東京近郊のひらけなかつた頃の追憶に基くもので、それが執筆の目的であつたらしい。酌婦が病弱の文士にいろ/\生の快楽を教へたり、老婆が若い男に挑みかゝる叙事などは批評の限りにあらずだ。
読終ると共にわたくしは内心白井の行為について少からざる恐怖を感じた。偽本をつくつたものは白井に非ざれば木場である。白井は紙袋をわたくしの家から借出して木場の鴻麓堂に止宿し、二人してわたくしの旧稿を閲読して其類本を製作した。その時の興に乗じたものか。或は金に替る好餌の為か。いづれにしてもこれが商估の手に渡つて、購つたもののある以上、その罪は道徳上、並に法律上とを兼ねたものである。
わたくしはまづ其買主に面会し其物を一見する必要があると思ひ、早速箱根の岩田に返書を送り其来訪を求めた。
「その後は御無沙汰ばかりしてゐました。申訳がありません。この本で御在ます。」と岩田は縮緬の袱紗を解いて、その購つた怪夢録の一書を示した。
「安くあるまいね、商売人の手にかゝつたら。」わたくしは偽書本を閉ぢて岩田に返し、「百円もしたかね。」
岩田は不満らしい
「もつと高いんですか。それぢや雑誌なんぞに出して原稿料を貰ふよりも余程割がいゝ、僕も何か一ツ浄写して見ようかな。」
「西銀座の巽堂には一葉女史の手紙と草稿がありました。一まとめに買つてくれと言はれたんですが、一寸手が出ませんでした。」
「みんな一手に出たものだらうね。誰が持つてゐたんだらう。」
「先生のものは、先生も御存じがないんですか。」
「心当りはあるけれど……。」
「先生お願ひしたいのですが、これに先生の裏書、鑑定書のやうなものを一筆お願ひしたいんですが。」
岩田は再び怪夢録の偽書本をわたくしの方に向けて、テーブルの上に載せる。わたくしは数日前に読返したまゝ机の上に置いた原本怪夢録を取り、「君の買つた物と、これと交換しよう。この方を君の蔵書にして置きたまへ。」
「それでは、わたしの買つたのは。」
「贋だよ。」
これから後のはなしは岩田がわたしから木場白井二生の事を聞き、偽筆本をつかまされた口惜しさに、其知人で興信所に雇はれてゐるものがあるのを幸、其者に依頼して二生の身辺を探偵させた。その報告書に基いてわたくしのこしらへたものになるのである。
秘密探偵の書綴る報告書は裁判所の速記録と同じくところ/″\古めかしい漢文調の熟語、「二人ハ奇貨措クベシトナシ」なんど言ふ語句と、極めて卑俗な口語とが混用されてゐて、時には却つて筆者の面目を躍如たらしむる処に別種の面白味がある。然るにわたくしの書直した此の物語にはヱノケンの舞台を見るやうな突飛な写実もなければ、偶然の可笑味もない。絵画よりも写真を真実となして喜ぶ人は、わたくしが報告書に基いて冗漫なる物語を綴つた徒労を笑ふであらう。或は無用の文飾と迂回した筋道とが、却て真相を誤らせるものとして、其罪を責めるかも知れない。
白井が稲毛の寓居を引払つた理由は、家賃を一年あまり滞らせ、遂に家主から追はれた為らしいが、さてその引越先をどうして安房郡××村に択んだものか、その理由はわからない。
××村の借家はその家主と隣り合つてゐる。もとは家主の住宅の離座敷であつたのを、主人が病歿した後、若い未亡人が手入をして貸家にしたのである。死んだ主人はもと深川冬木町の材木問屋で、胸の病気があるため、その妻と共に転地療養の目的で××村へ引籠り、三年ならずして世を去つた。その時年は三十、妻は二十三四であつたとやら。
白井は引越した当日、隣の家主へ挨拶をかね敷金を持つて行つて、初めて未亡人を見た時、その年の若いのと、姿形のすらりとして美しいのに、旦那の留守をしてゐる人妻だと思つた。襟付のお召に縫取をした小紋の羽織を引掛けた衣裳の好み、髪をまん中から分けて、ゆるく首筋へ落ちかゝるやうに結んだ様子、どうやら素人でもなく正妻でもないやうにも見られた。
間もなく未亡人は白井の細君と心やすくなつた。二人とも東京の下町に成長したので、田舎に移住してから互に話相手がほしくてならなかつた故である。二三度晩飯に招かれたり招いたりする間柄になつた。
或日白井は未亡人と東京へ行く汽車に乗り合せた。白井はまだ乗らない中、早くも未亡人が
××村からこの駅までは、一時間置きに出るバスに乗らねばならぬので、時候のいゝ四月中旬の午後であつたが、乗車場に列車を待つ人は四五人に過ぎず、その中の二人は洋装した女の行商人、
白井は引越した其日に、初て見た時の驚歎を、今更のやうに繰返すと共に、その身元、その経歴を知りたい好奇心のいよ/\激しくなるのを禁じ得なかつた。車に乗つても白井はわざと少し離れてゐながら、やがて女が心づいた時話しかけることの出来るやうな席を計つて、徐に腰をかけた。車が動き出しても女は見馴れた窓の風景をよそに、読みかけた小説に目を注いでゐる中、次の停車場に着きかける頃、初めて白井の予想どほり、女は本から目を離して何と云ふこともなく車内を見廻し、白井のゐるのを見て、美しく静な微笑を以て挨拶に代へた。
白井は帽子を取ると共に、女に対する礼儀のやうに見せて席を立ち「東京へお
「はい。ちよいと。」
「陽気もよくなりました。」と白井は車中のすいてゐるのを幸、さり
「ほんとにさうで御在ます。然しこの頃はお花見時分でもふだんと変りませんのね。」
「どこも唯込み合ふばかりで、東京は全くつまらなくなりました。」
「電車なんぞ、いやで御在ます。でも、たまに参りますと何ですか、いやだいやだとは思ひながらやつぱり
「房州はもう御長う御在ますか。」
「はア、今年でもう四年になります。」
「皆さん。東京にいらつしやるんですか。」
「いえ、それなら、とうに越してしまつたんですけれど。宅は前々から主人とわたくし二人ぎりだもので。」
「それではわたくしどもと御同様です。」
「でも、お宅さまはお嬢さまもおいでで、お賑でよろしう御在ます。」
「いや、どうも。女の子ばかり三人ですから賑かすぎます。」
「お楽しみですね。大きいお嬢さん、もうぢき御卒業でせう。」
白井は長女が十八になり、しかも数日前千葉の女学校を卒業をしてしまつたのであるが、明かに答へることを躊躇した。白井は学生のころ十八で、一ツ年の多い隣家の娘と通じ忽ち子供をこしらへてしまつたので、誰にきかれても家庭の事は言ひたくないのであつた。何となく老人臭く、気が
髪はいつものやうに油気を避けた
姑く話の途切れてゐる間、二人とも窓の景色に目を移してゐたが、やがて未亡人が思出したやうに袂から巻煙草を出すのを見て、白井は素早くマツチを摺りながら、
「東京はどちらです。わたくし、以前は箱崎に居りました。」
「さよですか。それでは向ひ合せで御在ます。わたくし佐賀町が生れましたところで、それから冬木町に居りました。」
「辨天さまが御在ましたな。」
「はい。辨天さまから和倉の方へ寄つたところで御在ました。宅は何しろ病身で御在ませう、わたくしが参りますと間もなく店をたゝみまして、こちらへ引越したんで御在ます。子供が御在ませんから淋しう御在ますけれど考へやうでは却て苦労が御在ません。」
白井は話題が漸く思ふところへ運ばれて来たと思つた。
「全くお淋しいでせう。然し佐賀町の方は皆様御丈夫なんでせう。」
「いゝえ、あなた。里の方はとうのむかし、わたくし、ほんの
列車が千葉の駅へつく。二人はとも/″\省線電車へ乗りかへようとする急しさに、折角糸口のつきかゝつた身の上ばなしはそれなり中絶して、込合ふ電車は稲毛から船橋八幡を過ると、早くも国府台の森が見えるやうになつた。白井は名残惜しげに、
「それでは、お先へ。」
「おいでですか。」といつもの低い声なのを、すぐに聞きつけて上り口の障子を明けたのは、ちゞらし髪をうしろで巻きとめ、臙脂色の目に立つ大柄模様の銘仙に、薄色鶸茶の事務服を羽織代りにした細面の、年は二十五六。もとは高島屋デパートの売子だつたといふ木場の妻よし子である。
「どうぞ。」と白井のぬいだ履物を片よせながら、「白井さん、いらしつてよ。」
「手紙を出さうと思つてゐたんだ。」と机の前から少し居ざり出で、木場は白井が坐らぬ中、「
「何だつて。」と白井は気のない返事をしながら八畳の間の床に掛けた××氏の自賛の俳句、鴨居に鴻麓堂の額、押入に添ふ三尺の壁にかけた湖龍斎の柱懸などを見廻しながら煙草の烟。
「怪夢録のことさ。買つたお客から苦情が出たさうだ。」
「直接、鑑定でもして貰つたんだらう。」
「君、あつちは鼬の道か。僕もあれツきりだが。」
「どの道、ぼろの出る時分だからね。方面を変へるさ。既刊本へ署名するのが一番世話がない。」
二人は現代名家の著書を古本屋から買取り、それに好加減な寄贈者の名と、著者の署名を書く。これは白井の仕事。木場は偽印を刻つて捺し別の古本屋に売るのである。床の間の隅にはやがてさうされべき書物が積んである。
「天気がいゝから、ぶらついて見ようぢやないか。」
白井は実のところ今日は短冊色紙の偽筆、そろ/\時節を当込んで扇子団扇の偽筆揮毫をもするつもりで、筆も一二本用意して出て来たのであつたが、途中で別れた未亡人の姿が目にちらついて、仕事なんぞする気になれなくなつた。外へ出たからと云つて、行く当もなく見るものもないのであるが、花見時分の好天気に世間一体何となく浮立つてゐるので、遊び歩く女の中に未亡人に似た姿でもあつてくれたら目の保養になると思つたからである。
「ぢや、そこまで一所に行かう。君が来なかつたら実はこのあひだの話をきいて来ようと思つてゐたんだから。」と木場は座を立つて兵児帯を締め直した。然しこれは細君よし子の前を胡麻化すだけの申訳である。もしたゞの散歩となつたらよし子を連れて行かねばなるまい。さうなると、まづ隣へ留守をたのむ。その礼に土産物も買はなくてはなるまい。殊によれば夕飯三人前も自分が負担せねばなるまい。木場は白井とはちがつて、よし子と同棲してから四年たつても、今だに生計の真相は知られないやうにしてゐる。偽筆の事も無論である。
これに反して白井の方は隠したくても隠しきれない境涯に陥つてゐる。株式仲買人であつた其父の死んだ時、白井は自分の一生くらゐは楽に遊んでくらせる遺産は十分あると思の外、精算すると借財の方が多かつた始末。また細君の里の運送屋も震災後
白井は学生の時から読書はきらひでは無かつた。然し読書は実行の出来ない事を空想したり、また目的なく時間を空費する無二の方便に過ぎないと思つてから、筆を取つて物をかく気にはならなくなつた。先輩に頼まれて、初に謝礼を渡されゝば飜訳物の下ごしらへ、新聞や婦人雑誌向の小説の代作も直にやれるが、自分から立案するとなると、つまらない編纂物さへ手を下すのが面倒になる。座談なら世事人物の酷評もするが、まとまつた評論はかき得ないのであつた。
現代文士の草稿や短冊の偽筆も、主謀者木場に勧められたのがもとで、販売の方法は凡て木場がやつてゐる。仕事は木場の住ひでよし子を先に寝かしてしまつた後、二人とも酒も菓子も口にしないので唯雑談しながら遊び半分取りかゝるのであつた。
二人が最初この事を思ひついたのは三四年前、丁度今日のやうに浅草公園をぶらついた帰途、三好町の河岸通のとある天麩羅屋の二階へ上つた時張交の衝立に木場が一時書生に住込んでゐた文壇の名家××先生の名をかいた萬葉振りの短歌一首。似ても似つかぬ贋物を見てからであつた。
「これで通るなら訳はない。」
その晩白井が泊つたので、木場は所蔵する現代諸家の短冊や書簡を取出し、白井が能書の才に任して試に似たものをつくつて見た。翌日木場が以前から知つてゐる下谷西町の古本屋へ行つて相談すると、案外値をよく引取つてくれたので、それから二人は計画を立て、予めその偽筆を作らうと思ふ文士の家を訪問し其の書斎の様子を窺ひ、蔵書を借りたり、また返事の貰へるやうな手紙を出したりした。かくして二人は贋物を製作した後、虚心平然たる心持に返つて、これを打眺め、自分ながら案外だと思ふやうな出来栄を見る時、一種冷やかな皮肉な微笑がおのづから口元に浮んでくるやうな満足を覚えたのである。
この心持は二人とも未だ曾て経験したことのない新しい快感であつた。無名の身が直に原物の筆者と同様の才学名声のある者になつたやうな心持もする。現実に於いて無名有名の差別が存在してゐるのは、才学力量の相違からではなく、他の情実に因るものである事が、立派に立證されたやうな心持もするのであつた。又一変して、窃に人の妻と通じた翌日、欺かれた夫の顔を見る時の恐怖と勝利との混雑した感情も推察される。また更に一変して、言寄ることのできない片恋の苦しみにつかれ果てた暁、それと瓜二ツ、生写しと云ふやうな女を、偶然売色の巷に見出して思を遂げる時の心持が、最も適切であるやうな気がした。二人は心理上異様な衝動を覚え、抑制することのできない誘惑を感じるやうになつた。そして其誘惑が生計の足しになることが確められては猶更の事である。まじめに文筆を執ることは出来なくても、この仕事の妙味には徹夜も一向苦にはならなかつた。
「ぶら/\歩きも行先を考へるのが厄介だ。」
「光月町に
「どこだ光月町といふのは。」
「そら、お
「ぢや吉原の裏だね。」
「君、××先生のところで、女中の騒があつた時分だ。頼まれて隠家をさがしに行つたことがあつたぢやないか。あのすぐ
木場がまだ××先生の家に居たころの事。女中に無理を言掛けて逃げられながら、先生は思切れず、木場をたのみ逃去つた先をさがしてくれと言はれて、木場はその親友白井をさそひ、龍泉寺町の裏路地をさまよひ歩き、夜になつて雨に逢ひ、しやう事なしに吉原の河岸店に上つて一夜を明したことがある。
「あの晩は実に困つた。忘れられないな。」
市川の駅近くへ来ると、今しがた電車が通つたばかりと見えて、追はれるやうに後から/\と引きも切らず早足に歩いて来る男女さま/″\な人の群に行き合ひ、ぶらぶら歩きの二人はおのづから片方へ道を譲りかけた時、突然群集の中から染色の目に立つ羽織と金の糸のぴか/\ひかる肩掛とが、風になびく花のやうに、二人の方へと動いて来て、「アラ兄さん。」といふ声。
すこし伸び過ぎたパマの髪を耳のうしろからリボンで結び、額の上にも髪を下げて口紅思ふさま濃く、眉をかいた厚化粧、
「いつもお揃ひね。」とてる子は五六年前、上野の喫茶店で二人を迎へた時のやうな笑顔と調子で白井へ挨拶をする。白井は黙つてゐる。
木場は鼻先のつき合はぬばかりに進寄り、「よし子は家にゐるよ。何か用……。」
「えゝ。姉さんばかりぢやないわ。」
白井は木場がその
白井はその後未亡人に言寄る機会を窺つてゐた。隣家のことなので、未亡人がこの間のやうに東京へでも出かけるやうな時があつたら、逃さず後を追ひかけようと思つてゐたが、それなり外出した様子もなかつた。或晩白井は家族と共に食べ終つた夕飯の茶ぶ台から立たうとすると、茶碗の中で象牙の箸をちやら/\ゆすぎながら、茶を飲みかけてゐた妻の花子が、
「あなた、
花子はめつたに東京へ行つた事がない。両親の命日と盆とに浅草北三筋町の寺へ墓参に行くくらゐなので、白井は不審な顔つき、
「何だえ、お盆までまだなか/\だよ。」
「おとなりから頼まれた用があります。」
「藤田さん?」
「えゝ。」
藤田と云ふのは未亡人の事、名は常子といふのである。
「朝から出かける?」
「さうね、お
「藤田さん、さつぱり姿を見せないが……。」
「お
「そんな事なら僕でもいゝのに。」
「でも、お金の事ですもの。」
「はゝは、大きにさうかも知れない。何の株だ。余ツ程持つてゐる。」
「きかないから知りません。銀行は日本橋の第百ですつて。」
「藤田さんは深川で育つたといふ話だが、お里はやつぱり材木屋かね。旦那がなくなつて遺産があつちや、このまゝ永くあゝしても居られないだらう。」
白井は細君の花子がどういふ返事をするかと思つて、それとなくその顔を見た。
「お里は人のいやがる商売だつていひますからね。」と花子は小声になり一寸勝手の方を顧みた。
「どういふ商売だ。」
「蛇屋ですつて。」と細君は未亡人の親元はもと佐賀町で相応の米問屋であつたさうだが、父は相場で失敗して自殺した後間もなく母にも死別れた。容貌が好いので、望まれて和倉の材木屋へ嫁入をしたのだと、女中から聞いた話をつたへた。
「
「いくら美人でも珍らしくつても、
「日高川でも思出すのか。はゝゝは。」
次の日、長女は先月女学校を出てから○○市の銀行へ、二人の妹は国民学校へ、細君花子は隣から書類を包んだ袱紗を受取り、
「お留守のやうですよ。」
「書留です。」
白井は勝手をのぞくと使に出たのか、女中もゐないらしい。
「奥さん。おやすみですか。」
台所から茶の間に入り座敷の襖の引きちがひになつた其隙間から内を覗くと、未亡人常子は仰向きになつて、顔の上に開いた小説本を載せ、羽毛蒲団を下の方に、浴衣を重ねた襟付お召の寝間着の胸に片手を置き、青竹色の伊達締の端の解けたのも其まゝ、片手を敷布の上に投出して、すや/\眠つてゐる。白井は襖際からすこし離れて、
「奥さん、郵便です。奥さん。」
「
「おそれ入りました。薬を取らせにやつたもので。」
常子は寝間着の前を引合せもせず、其まゝ茶の間へ出て長火鉢の引出から認印をさがした後静に伊達締を結び直し、
「こんな風をしまして。失礼ですけど、どうぞ……。」
座布団を寝床の傍に敷き、自分は夜具の上に坐る。
「余程おわるいんですか。起きていらつしやらない方が……。」
「それ程でも御在ません。今日は奥さまをお
「いえ、なに。東京なら大よろこびです。これから、どうぞ御遠慮なく。」
「えゝ、ありがたう。」と礼のしるしにと
「どうぞお構ひなく。お酒はいけない方ですから。」
「これは甘いんですよ。酔ひません。」
常子は茶棚からグラスを取らうと、下についた片手の
「あなた。余程あがれさうですな。」
「いゝえ、二三杯やつとですけれど、たまにはいゝもんですわ。」
常子は枕元にあつたポートワインをグラス二ツにつぎ、白井の飲むのを見て、自分も一口、そして敷蒲団の下から懐紙を出して口の端をふく。
白井はグラスを下に置くと共に、枕元に置かれた書物と雑誌の中から一冊を取り上げ、
「マノン、レスコー、×××訳。」と表題をよみ、「現代小説よりも飜訳がお好きなんですか。」
「別にさうとも限りません。ですけれど、その小説、わたし泣かされましたわ。」
「女のマノンが悪くつて男の方がかはいさうになるんでせう。」
「さうですわ。女が男のために苦労するのは当りまへですもの。浮気なマノンを思つてゐる男は、わたし何となく切られ与三みたやうな気がしましたわ。」
「さうですね、男が地位も名誉も何もかも捨てゝ恋人と一緒に囚人の流されるフロリダに行く――成程お富与三郎のやうです。」
「護送されて行く途中から、向へ着いてからもいろ/\難儀をするところなんぞ、実にかはいさうねえ。」
「与三郎のはなしは講釈種らしいんですが、日本の小説であのくらゐ男の未練をかいたものは有りませんよ。」
「お富はあれほど思はれてるのに、どうして与三郎を幸福にしてやれなかつたんでせう。わたしだつたら……。」と言ひつゞけてゐる中、常子は突然くさめを
「いけません。横におなりなさい。」と白井は促すやうに膝を進めて羽毛蒲団の端をつかむ。
常子は横になりながら額を押へて、「大丈夫ですわ。」
「軽はづみなすつちや……。」
白井はこの機会をのがさず
「熱なんぞ、もう無いでせう。」
「ないやうですけれど……。」そのまゝ暫くぢつと顔を見てゐる中、いきなり大胆に手を握つた。
常子は何とも言はず静に瞼を合せて眠るやうな振りをしたが、その頬は上気して赤らみ、胸の動悸は音するばかり俄に激しく、切迫した熱い呼吸が何事かを促すやうに白井の折屈んだ顔に触れる。白井は握つた手に力を
藤田未亡人の家には六畳三畳
「あの二階は静でいゝ。仕事ができるよ。この春、○○先生から頼まれた飜訳も、もう一
白井は出放題にこんな事を言つて、その
白井は常子が空閨を守るやうになつてから一年あまり、夫が病褥に就いてからの月日を加へたら三年近く男を断つてゐた
二階の
「
「どうしようかと思つてるの。あなた。一緒にいらつしやいよ。たまには外で逢つて見たいわ。」
「場所が変ると気分がちがふから、いゝでせう。」
「ほんとうよ。」
「それに、こゝは少し警戒の必要があると思ふんです。」
「さう。感付いたやうなの。」と言つたが常子はさして驚き恐れる様子もなく、それも当りまへだと言はぬばかり平気な顔をしてゐる。白井は女の額に垂れかゝる
「今朝一寸お庭へ出て見たんです。すると飛石の側に赤いものが落ちてゐるから何だらうと思つて、拾つて見ると、女洋服のボタンです。二三日前、辰子が
辰子といふのは白井が十八の時、隣の娘の花子に生せた長女である。
「辰子が何しにお庭へ来たのか、一寸不思議です。内々様子を見て来いとさう言はれてゐるのかも知れません。」
「様子を見て来ないだつて、あなたが二階で勉強してゐることは誰しも知つてる筈ぢやありませんか。」
「わたしぢやない。あなたがさ。二階にゐやしないか。そして何をしてゐるだらう。そろ/\そんな事が気になりだしたんだらうと思ふんです。」
「奥さん、まだ何とも言ひません。」
「あれは強情張で、何があつても口へは出しません。わかつてゐても。」
「こわいわね、祈られでもすると。」
「藁人形に五寸釘ですか。はゝゝは。兎に角一度外で逢ひませう。やつぱり東京がいゝでせう。目立たなくつて。」
「さうねえ。ぢやいつ行きませう。今日は九日ね。」
「同じ日に出かけちやまづいから。わたしは一日先に出掛けませう。
「この前、あなたにお会ひしたあの時間がいゝわ。」
「ぢや、わたしは明日の午後に出かけます。あなたは十一日の午後にしますね。」
「えゝ。」
次の朝、都合よく、誂へたやうに真間の木場から手紙が来たので、白井はわざとらしくそれを花子に見せ、いつものやうに書物一冊と傘とを持つて家を出て行つた。
× × × × ×
白井の留守宅では、隣の常子がハンドバツクと頃合の風呂敷包とを持つて出かけた其日の晩方、夕飯をすませた後、花子と長女辰子との二人はいつものやうに裁縫、二人の妹は学課の復習をした後、千代紙の細工物をして先に寝てしまつた。最終のバスが生垣つゞきの表通を行過る物音も次第に遠く消去つてしまふと、やがて幽に聞える鐘の音が夏ながらいかにも寂しく、夜もふけ渡つたやうな心持をさせる。
辰子は横坐りの足の裏をしたゝか藪蚊に刺され、縁側に置かれた蚊遣の煙草盆を引寄せ、「かアさん、済みませんがお線香取つて下さい。たまらないわ。」
「そこに無ければもうお仕舞ですよ。」と花子はさして蚊を苦にしないらしく「もう何時だらうね。」
「十時よ。」と辰子は浴衣の袖口をまくり腕時計を見ながら大きな
「ぢや、片づけてそろ/\寝ませう。」
「かアさん。明日か
「日曜だと、みんな一ツしよに行かれるんだけれど。」
「今日、日曜日よ。だからその次は十八日になつちまふわ。」
「あら、さう。」と花子は思出して、「うつかりして気がつかなかつた。お隣の奥さん、門の外でお目にかゝつたら銀行へ行くつて
「日曜日に東京の銀行へ……。」娘の辰子はぢつと母の顔を見詰めてゐたが、いかにも口惜しさうに「かアさん、お
「何だね、この人は。」
「言はうと思つたけれど、よすわ。わるいから。」
母の花子はいよ/\不審さうにその顔を見返すので、辰子は漸く決心したらしく、
「かアさん、藤田さんは銀行へ行つたんぢやないわ。わるい人よ。パパもパパだわ。かアさん、今の中に何とか言つてやつた方がいゝと思ふわ。」辰子の眼は次第にうるんで来る。
「辰子、わかつたよ。」と花子は少し声を顫したが、強ひて驚かぬ風を粧ひ、「辰子、どうしてお前、そんな事を知つてるのだい。」
「このあひだ、どこの犬だか、お向の家のチヤボを
「さう、辰子、そんな事誰にも言つちやいけませんよ。」と花子は出来るだけ重々しい調子で、猶且つ飽くまで平然とした様子を見せようとした。
「えゝ、言はないわ。でも、いやらしいわね。」辰子は
「もう寝ませう。片づけてから、お仕事した後は一寸掃く方がいゝのよ。針なんぞ落ちてゐないやうに……。」
言ひながら花子は押入から夜具と蚊帳を引出す。辰子は妹の寝てゐる次の間の方へ行きかけた時、遠くかすかに聞える船の汽笛がまた更にあたりを淋しくさせた。辰子は眠らうとしても眠られない。――かアさんも襖一重隣の座敷の蚊帳の中で矢張眠られずにパパの事を考へてゐるにちがひない。パパは今頃東京の何処でランデブーをしてゐるのだらう。いろ/\さま/″\な光景が映画のやうに闇の中に現はれては消えて行く。する中に隣のおばさんとマヽの姿とが一ツになつたり二ツに分れたりして、どれがどれだか差別がつかないやうになつた。
辰子は物心づいてから、父の白井と母の花子とが自分の親になつた時の年齢が世間一般の親達よりも甚しく若過ぎてゐる事(父は丁度現在の自分と同じ年齢の時にパパになつてゐた。)それから母が父よりも一つ年上である事などについて、訳なき不安と疑問とを持つてゐた。この春女学校を出て世間の事を見きゝするにつけ、此疑問の解答を求めようとする心は日に増し激しくなつた其の矢先、辰子は隣の未亡人と父との関係を目撃したのである。辰子はいはれなく、母が自分を
この想像は辰子には非常に不愉快極るものであつた。自分がこの世に生れ出た理由が甚
こんな不快な汚い家に居るよりも、一日も早く自分ひとり独立した生活がして見たい。現在働いてゐる銀行で、もすこし給料を出してくれゝば自分は明日にでもこの家を出て行くだらう。辰子は将来自活すべき女の職業の何がいゝかを考へはじめた。
この時、母の花子も
花子は自分の身はもうすたり物で、今更いかに後悔しても仕様がない。みんな運命だとあきらめもしようが、罪のない娘三人がかわいさうだ。これまで既に幾度も決心したやうに実家の兄か母をたより娘をつれて出て行くより外に道はない。長女は既に給料を取る身になつてゐる。後の妹二人も二三年たてば学校を出て就職する。もう愚図々々してゐる時ではない。
花子は飛起きて荷づくりさへしたいやうな気になつたが、又思直して見ると、自分が娘三人をつれてこの
白井は前にゐる花子を広げた膝のあひだにはさみ、初の中は軽く手を握るくらゐに止つてゐたが灯のない屋根の上、人々は空に上る花火に気を取られてゐるのを好い事に後から大胆に花子を抱きしめて頬ずりをした。花子はあたりの人達に見られまい、気づかれまいと思ふ一心に、白井の為すまゝにさせて置くより仕様がない。いやだの、およしなさいなど言つて制したら何をしてゐるかを、わざと知らせるやうなものになる。白井はこの様子に花子はもう何事をも自分に許すやうな心になつてゐると思込んでその次の日、隙を見て、中学生のよく書くやうな長々しい艶書を花子に手渡した。その頃白井の家に十六七の美しい小間使がゐた。花子は白井の要求をすげなく退けたら、その小間使が白井の愛情を奪ひはしまいか、それが嫉しく思はれたので、花子はわけもなく白井の言ふがまゝに箱崎川の真暗な物揚場で忍び会ふやうになつた。長女の辰子はこの密会の
双方の親達は花子の姙娠に驚き世間体を胡麻化す為、急いで二人を結婚させたのであつた。
夏の夜は明易く、襖の彼方と此方で
白井と常子の二人連が××駅の改札口を出ると、□□行のバスが間もなく発車するとおぼしく、其辺に立話をしてゐた運転手の一人が手袋をはめながら車へ乗らうとしてゐるところであつた。白井は絶えずあたりへ気をくばりながら手にした買物の紙包を常子に渡し、
「あなた、一
「さうね、一しよにのつちやまづいわね。」
「別にまづいと云ふわけもないんですが。……もし何かきかれたら汽車の中でお目にかゝつたと言へばいゝのです。」
「ぢや、一しよに乗りませう。」
常子は同じ列車から降りた四五人の旅客を先立たせて、その後から一番おくれてバスの踏台に足をかけたが、白井はやはり立止つたまゝ、
「次の停留場まで歩きます。」
「ぢや、わたし先へ行つてよ。晩に入らつしやい。御飯がすんだら。」
「えゝ。行きます。」
「待つてますよ。きつと
自動車はもう動きかけてゐる。そして常子が腰をかけながら
白井は今まで半年ちかく、其目には何の意味をもなさなかつた田舎のこの眺望が、忽然一変して歓喜と幸福とを意味する一幅の名画になつたのを知るや否や、バスの走り行く一条の砂道が迂曲する運命の跡のやうに神秘らしく思はれて来る。白井は涼しい夕風に夏羽織の袂を吹かせながら、
白井は家へ帰る前に、心のゆくかぎり一人しづかに、常子其人とも姑く別れて、唯一人しづかにこの追憶に耽つて見たくてならなかつたのである。
常子と
白井は夏のあつい時でも朝目を覚してから夜具の中でまづ巻煙草の一本くらゐ烟にしてしまつた後でなければ起上れないのに、妻の花子は――子供の世話をしなければならないので、目をさますと共に時計を見ながら
いつかバスの停留場についた。藍色した夏のたそがれも漸く尽きて、夜にならうとする澄渡つた空のはづれに三日月と宵の明星とが涼しげに輝き、生垣のつゞく道端の家からは焼肴の塩の焦る匂がしてゐる。
白井はバスの来るのを待つて、それに乗り、やがて
白井は座敷の床の間に書物の包みと麦藁帽とを置き、机の前に坐つたが、細君も娘も白井の帰つて来たのには心づかないやうな風をして、勝手に雑談しながら茶漬をかき込んでゐる。その様子に白井はいよ/\昨日の事がばれたのだなと思つた。それにしても両国から行かへりの電車は勿論、東京へ行つてから浅草公園を歩いてゐる中も油断なく注意してゐたのに、不思議な事もあればあるものだと、又しても昨日から今日へかけての行動を思返しながら、白井は机に肱をついて庭の方へ目を移すと、低いカナメ垣を隔てゝ隣の庭には座敷の灯がさしてゐる。見上げると二階の裏窓にも
常子は着物をきてゐる時には首筋から肩へかけて痩過ぎたやうに弱々しく見えながら、裸体になると、下腹や
「きぬぎぬのわかれに今朝は雨さそふ。蝉と蛍をはかりに掛けて。」といふ哥沢節であつた。
昨夜尾久の茶屋で泉水の向の離座敷から大方連込の泊客らしい女が爪びきで唄を唱つてゐたのを聞き、白井は
歌は進んで「泣いて別れうか、焦れてのきよか。」といふ
「あなた。」と呼ぶ細君の声。「御飯。上らなければ片づけますよ。」
白井は一寸その方を見返つたが、心は全く隣の歌に奪はれてゐるので、即座には返事ができない。すると、見る/\中茶ぶ台は勝手の方へ持運ばれ長女の辰子と、十六になる次の妹春子とが音高く皿小鉢を洗ふ音がしだして、
「むかし思へば見ず知らず」といふ最終の一くさりはそのために殆ど聞えなくなつた。すると、今度は隣の下女が勝手口へ来て、「奥様、家のお風呂がわきましたから、よろしければどうぞ。」と言ふ声。
「はい。ありがたう御在ます。折角ですが家ではみんな昨夜はいりましたから、どうぞ、よろしく仰有つて下さい。」これが花子の挨拶である。
白井はつと立上り、「ばアやさん、わたしお後で一浴び浴びさせて戴きますよ。」
洗物しながら話をしてゐた娘も、そこらを片づけてゐた細君も一度に申合せたやうに黙つてしまつて、狭い家の中は人のゐないやうに寂としてしまつた。白井は羽織を縁側にぬぎすてたまゝ、勝手口から下女と一しよに隣の台所へ上つて行つた。すると、茶の間と座敷との間の襖が明放してあつて、手拭浴衣に半帯をしめた常子が箪笥の前に横坐りに坐つてゐる姿が見える。白井は座敷へ行かうか、それとも茶の間からすぐに二階へ上つてしまはうかと、台所の板の間に立ちすくむ。その物音に常子は
常子は白井が坐る間もなく、つゞいて二階へ上つて来るが否や、膝の上にしなだれかゝつて、
「
「大分険悪です。飯も食はせません。」
「丁度いゝわ。わたしもまだなのよ。お湯へ入つてから一ツしよにたべませう。」
「さうもしてゐられなさうです。今夜は。」
「まア、そんなに険悪なの。ねえ、あなた、東京へ引越しませうよ。昨夜相談したやうに。アパートでも貸間でも、何でもいゝわ。一時仮越しをして、それからゆつくり落つくとこを捜しませう。」
「ぢや早速、あした行きませう。見つかり次第電報を出します。」
「さうして下さい。」と常子は始終女中の上つてくるのを気にしながら「わたしお湯に
半帯の解けかゝるのを後手に押へながら常子は階段の足音さへ忍ばせながら降りて行つた。
× × × × ×
白井が勝手口から自分の家へ入らうとすると、一二寸手をかける隙だけを残して雨戸はしめられ、そして家中の灯はまだ夜の九時を過ぎたばかりなのに一ツ残らず消してあつた。
手さぐりに縁側から座敷へ
「あゝ、こゝに在つたのか。」
わざと聞えよがしに独言を言つて、夜具の上に坐つたまゝ寝間着をきかへながら様子を窺ふと、花子は眠つたふりをしてゐるらしく身動きもしない。白井はそのまゝ後向きに自分の夜具の上に寝ころんだが、あくる日の朝になるのをおそしと、白井は娘達の出かけた後、花子が台所の用をしてゐる隙を窺ひ、朝飯もくはず停車場へかけつけ、まづ木場の住居をたづねた。タオルを
「お早いこと。昨晩どちらへお泊り。」
「いえ、家から来ました。夏は早い方がいゝです。」
よし子はわざとらしくバケツの音高く格子戸の外へ水を流しながら、
「あなた、もうお起きなさい。お客さまよ。」といふ声に木場は蚊帳から這ひ出し、「誰かと思つてびつくりした。早いな。雨がふるよ。」
「くもつて涼しいから今日は貸間をさがしに行くんだ。あれば家一軒でもいゝんだが。」
「また引越すのか。」
「いや僕だけさ。家に居ると、あの狭さぢや、何もできない。どこか、君、心当りはないか。」
「よし子、お前の兄さん、まだ引越してしまつたんぢやないのだらう。」と木場は古ぼけた浴衣の寝間着の帯をしめ直しながら外へ出て、円タクの運転手をしてゐるよし子の実兄清太郎といふ者が二三日前たづねて来て、自分の車をあづけるガレーヂの近所へ越したいと言つてゐた話をした。
「鉄砲洲だとか言つてたね。まだ引越しはしまいと思ふんだが……。」
「さあどうでせう。」と言ひながらよし子は座敷をかたづけに家へ上る。
「何番地だつたね。」
「京橋区湊町○丁目○○番地で加藤といふ荒物屋です。」
「荒物屋の加藤。」と白井は番地を繰返し、「兎に角一寸行つて見ませう。帰りにまたお邪魔します。」
白井は茶も飲まず、そのまゝ立去つて、午後の一時過に汗をふき/\還つて来た。
「兄さんは仕事に出て居なかつたがね。荒物屋のおかみさんが貸二階なら、心やすいところから頼まれてゐる。越前堀のお岩様の側で煙草屋だと言つて教へてくれた。越前堀なら八丁堀の川一筋むかうで、わけはないから行つて見たよ。電車通を大川の方へ、川沿の倉庫について曲つて行くと、突当りは大嶋へ行く汽船の乗り場だ。片側にさびれきつた宿屋が、それでも四五軒つゞいてゐる。その間を曲る横町で、一寸人の知らない寂しいところだが、しもた屋つゞきの二階には簾がさげてあつたり植木鉢が置いてあつたり、三味線の音が聞えたりして、まんざらでもない処だ。世をしのぶ隠家には持つて来いだと思つて、早速きめてきたよ。」
その晩、白井は木場の家へ泊り、次の日の昼前きのふ電報で打合せをして置いた時間を計つて、両国の停車場に常子を迎へ、円タクで越前堀の貸間に行つた。横町はお岩稲荷へお百度を踏みに来る藝者の行来に、昨日見た時よりも案外賑になまめかしく、両側に立ちつゞく人家の中には
貸二階の窓から顔を出すと、筋向に石塀のつゞいた狭からぬ一構がお岩稲荷で、この境内に立つ樹木を
「静で、さう寂しくもないし、僕はいゝと思つてきめたんです……。」
常子は頷付きながら通り過る藝者の姿をながめ、「お岩さまつて、あすこなの。話にはきいてゐたけれど、わたし初てだわ。」
「二人づれでお参りしちやいけないんださうですよ。辨天様と同じで焼餅の神様ださうです。」
間もなく
その夜二人は三越から買つて来たボイルの寝間着浴衣にきかへ、窓を閉めて蚊遣線香までつけ、すつかり寝支度をしたのであるが、風のなくなつた夜の蒸暑さは、昼間の涼しさに引替へふけるにつれてます/\激しくなるのに堪へかね、涼みに外へ出て見た。横町にはまだ軒下の涼台に団扇を使つてゐるものもある。気のせゐか河岸通から風が流れてくるやうに思はれるので、二人は見馴れぬあたりの珍しさに、横町を真直に川端へ出て見ると、空も水も唯真暗な中に、近くは石川島から月島へかけ、それから更に遠く越中嶋の方へと燈火の点々として続いてゐる広い大川口の夜景が
石垣の下に泛んでゐる泊り船から船員の浪花節、ハーモニカ、尺八、女の笑ふ声も聞えて、水の上は河岸通よりも案外さむしくはない。石垣に寄せる漣の音がさゝやくやうに軟く二人の情緒を刺戟する。それにつれて顔さへ見えぬあたりの暗さは明い室内では言ひにくい事まで遠慮なく言はせる勇気を与へる。
白井は女の肩の上にその顔をよせかけ、
「常子さん、何だか忘れられない晩ぢやないですか。新派の
「ほんとうね、わたしこんな嬉しい晩、全く生れて始てよ。」
「わたしも、さうです。」
「これが、あなた。一生涯つゞいてくれるといゝんだけれど……そんな事思ふと悲しくなるわ。」
「それはあなたよりも、わたしの方がどんなに悲しいか知れません。あすこに大嶋へ行く船が泊つてゐます。三原山へ行つた彼等は勇気があつた。彼等は幸福だ。三十越すと心持はいくら純真でも二十代の決断と情熱がなくなります。」
「あなた。そんなにわたしの事思つてゐて下さるの。嬉しいわ。」と常子は感情の激動に身を
白井は女の背をさすりながら
二人は貸間に戻り一つしかない枕を共にして幅の狭い貸蒲団の上に寝ころんだ。とても眠られまいと思つた夜の蒸暑さも、やがて壁隣りの家の時計が二時を打つ音のはつきりと耳にひゞき、遠くさびしげに吠える犬の声の杜絶えた頃には、常子の休みなき団扇づかひの手もおのづと休められるやうになつた。
「あした、眠いから我慢してもう寝ませう。」と常子が言ふ。
白井はぬぎすてた寝間着を引寄せながら立つて電燈を消すと、常子の方は間もなく静な寝息を立てるやうになつたが、白井は先刻物揚場にゐた時から我ながら怪しむ程感興の動くのを覚え、このまゝ起きて筆を取つて見たら、短篇小説の一篇ぐらゐは出来さうな気がしてならないのであつた。中年の男が蛇屋の娘であつた若い未亡人に愛され、痴情に溺惑して妻子を捨てた挙句、その未亡人にも別れて路頭に迷ふといふやうな筋立で。文壇に名を出しそこなつた自分を主人公にするのであるから流行おくれの所謂わたくし小説になるわけであるが、若い未亡人の淫蕩な一面を取つてこれを描写したら、この点で何とか評判を取ることができるかもしれない。この腹案を木場に話したら何と言ふだらう。××先生に頼んだら中央公論か改造の編輯者に紹介してくれないだらうか。こんな事を取りとめもなく考へつゞけてゐる中、いつの間にか夜が明けたと見えて、永代橋を渡るらしい電車の音の轟然として河水に響くのがきこえた。
常子はその夜から二晩泊つて三日目の朝、一まづ××村の家へかへり、今の女中を、安心して留守番のできるやうな者に取替へ、当分この二階へ引移りたいと言つて出かけて行つたが、その夜十時過忽ち立戻つて来た。そして白井が問ふのを待たず、
「あなた、奥さんもお嬢さんも、知らない中に引越しておしまひなすつたのよ。敷金もそのまゝだし、何かお便りがありやアしません。お手紙か電報か。」
言ひながら常子は自分の居なかつた間に、白井の家族の誰かゞこの二階に来てはしなかつたかと、様子を窺ふらしくも見えた。白井は常子の眼色と表情とに初て猜疑と嫉妬の情の鋭く動くのを認めた。
「いや何とも言つて来ません。こゝの番地を知つてゐる筈がないし……一体どこへ引越したんでせう。」
「きのふの朝トラツクで荷物を運んだんですつて。」
「千葉に
白井はさつぱりしていゝと云ふやうな気もするし、何やら出し抜かれて呆ツ気に取られた心持もするのである。「まア勝手にさせて置く方がいゝです。家に鬼がゐなくなれば何だかこの二階の必要もなくなつたやうな気がします。」
「でも折角さがしたんだから。それにわたし田舎よりやつぱり東京にゐたいのよ。あした、家をかたづけに一ツしよに帰つて下さいな。」
白井と木場との二人がわたくしの旧稿怪夢録といふものの手沢偽本をつくり、岩田といふ者が知らずにそれを買つた事を憤り、興信所に依嘱して二人の生活状態を探偵させたはなしは前に述べたとほりである。興信所の報告書は白井と藤田未亡人とが京橋区湊町二丁目○○番地に二階借りをしてゐる事、それから白井の妻花子が良人の不しだらに呆れて娘三人を連れて千葉市××町に隠居してゐる実母の許へ引越し其地の郵便局へ通勤して生活の道を立てゝゐる事で終つてゐる。猶又
わたくしはこれを読んだ当座は好奇心と不愉快と不安とを混じた心持になり、番地をたよりに其辺を歩いてない/\未亡人の姿なりと見て置きたいやうな気にもなつてゐたが、三日四日と日は過ぎ、半年一年と年を経るに従ひ、二人の行動は
わたくしの家に出入する古書肆の中で、其主人がわたくしの嗜読する種類の書冊を能く承知してゐて、さういふものが
折好く数日の後、わたくしは偶然木場が日本橋の白木屋前で電車を待つてゐるのに出会つた。木場は
「いや、御無沙汰ばかりして居りまして。」
一筋縄ではいけない男だと、わたくしは胸中憤りに堪へなかつたが、往来のまん中で面罵して見たところで仕様がない。傍観するものから見たら、大きな声を出して罵るものより、おとなしく罵られてゐる者の方が気の毒にも見え、又正しいやうにも思はれるであらう。わたくしは寧この邂逅をさいはひに彼を懐柔して二人がその後の動作を探つて見るに如くはないと思定め、何事も知らぬやうな風を装ひ、
「どうだね、鴻麓堂の景気は。暇があつたらちよい/\やつて来たまへ。」
「えゝ、お邪魔させて頂きます。」
「白井はどうしたね。やつぱり
「越前堀へ越しました。勉強してゐるやうです。」
「それは結構だ。時代はもうすつかり変つてゐるからね。これからは君達の雄飛する時代だよ。」
「いや、いつになつても、相変らず落伍者で、どうも……。」
その日はその儘別れたが、二三日すると木場はひよつくり尋ねて来た。取留めのない雑談から、木場は問はれるまゝにやがて白井の消息について、仔細らしく
「何もお聞きになりませんか。彼は先の細君と別れて、さう、もう何のかのと二年越し別の女と一ツしよになつてゐるのです。その事を材料にして鏡花風の小説を書かうと言つてゐました。このところ半年ばかり会ひませんから、もう出来上つてゐるかも知れません。」
「白井は鏡花を私淑してゐるのかね。」
「私淑といふほどでもないでせうが、二階借りをしてゐる場所がお岩様の横町で、その女はもと八幡前の蝮屋にゐたと云ふ事で、それから二階を貸してゐる煙草屋のおかみさんがむかし洲崎のおいらんだつたとか云ふやうな話で、背景と人物がすつかり鏡花式に出来上つてゐるんで、引越して来た当座から書いて見たくなつたんださうです。」
「うむ、成程鏡花の世界だ。「葛飾砂子」の世界だな。」
「新四谷怪談と云ふんださうです。題の方が先に出来たんださうです。」
「兎に角場面はあつらへ向だ。久しく散歩しないが、あの辺はむかしと大して変つちやゐまい。
「時々引越すのも文学者にはいゝやうです。実はわたしも近い中に越さうと思つてゐます。家賃が段々高くなるんで、
「行先の見当がついてゐるのかね。」
「葛西町へ引越すつもりです。実は柴又か、さうでなければ篠崎辺がいゝと思つたんですが家がないので……。」
「葛西町といふのは砂町から放水路を渡つて行く……あすこの事かね。」
「さうです。城東電車で境川からバスに乗ると二十分位でせう。さびれた処ですが、往来に海苔舟が干してあつたり、茅葺屋根のカツフエーがあつたり、をかしな処です。」
木場はその中またお邪魔に上りますと云つて立ち去ると、程なく印刷した転居通知の葉書をよこした。
わたしは白井が鏡花風の小説をつくつたと云ふ事をきゝ、大に興味を催し、贋手紙の事なんぞは姑くそのまゝにして、俄に白井を尋ね怪談に関する文藝上のはなしがして見たくなつた。わたくしは鶴屋南北の四谷怪談を以て啻に江戸近世の戯曲中、最大の傑作となすばかりではない。日本の風土気候が伏蔵してゐる郷土固有の神秘と恐怖とを捉へ来つて、完全に之を藝術化した民族的大詩篇だと信じてゐたからである。葛飾北斎と其流を汲んだ河鍋暁斎、月岡芳年等が好んで描いた妖怪幽霊の版画を以て世界的傑作品となすならば、南北の四谷怪談は其藝術的価値に於て優るとも劣るところはない。然るに現代の若き文学者は此の如き民族的藝術が近き過去に出現してゐたことさへ殆ど忘却して顧ない傾がある。わたくしは白井がその創作の感興を忘れられたこの伝説から借り来つたことを聞いて、心ひそかに喜びに堪へなかつたのである。
時節も丁度怪談に適した梅雨の最中で、三四日歇む間もなく降続いた後、その日も僅に雨こそ落ちてゐなかつたが、昼間から
どうやら留守らしいやうな気もしたので、一度通りすぎてまた歩み戻つたりしてゐる中、わたくしは突然二人が恋のかくれ
「チヱリーを。」と言ひながらわたくしは硝子戸を明け「白井さん、お留守ですか、市川から一寸用があつて来たんですが。」
「たつた今方お出かけになりました。」
「夕方はお帰りでせうか。」
「病院へお見舞ですから、たぶんあちらでお泊りでせう。」
「奥さんですか。おわるいのは。」
「はい。」
「入院ぢや余ツ程おわるいんですね。」
「いゝえ、それほどの事でもないやうで御在ます。二三日前ちよつと御見舞に行つて見ましたが……。」
「さうですか。突然つかぬ事を伺ふやうですが実はすこし金談の事でお尋ねしたんですが、アノ、お宅さまの方は毎月間代なんぞ、お延しになるやうな事は御在ませんか。」
「いえ、こちらは、あなた。何もかも御入用お構ひなしですよ。足袋も肌襦袢もみんな洗濯屋へお出しなさるし、夕方は毎日のやうに仕出屋さん、さうでなければ御一しよにお出かけなさいます。」
おかみさんは客足の途絶えた雨もよひの薄暗い昼過、話相手がほしいやうにも見られたので、わたくしは店先へ腰をかけ、口から出まかせに、
「そんなら少しづつでも結構だから、わたしの方へも払つて下さればいゝのに。もう二年越しきまりがつかないんで困つてゐるんです。どこかお勤めですか。」
「そんな御様子ぢやありません。大抵ぶら/\家にいらつしやいますよ。」
「ぢや、暮しの方は奥さん持ちなんですか。どうも羨しいなア。」
わたくしは貸した金の取れない怨みがあるやうに見せかけると、おかみさんは
「奥さん孝行さへしてゐれば毎日遊んで居られるんでせう。こんどの奥さんにはまだ一度もお目にかゝつたことがありませんが、年でもちがつて御面相がよくないとでも云ふんですか。」
「どうして/\。お目にかけたいやうな、綺麗な方ですよ。然し並大抵な男ぢやつとまりません。もう、あなた。この近所ぢや寄ると触るとその評判です。白井さんも
ぼつ/\雨がふり出して来たのと煙草を買ひに来た人があるのを、
「わたくしの来たことは内證にして置いて下さい。どうもお邪魔さまでした。」
その年の夏は過ぎ秋もやがて末近く、町の角々には二千六百年祭とやらの掲示が目につき初めた頃になつた。木場はどういふ風の吹きまはしか、また突然、
「白井も一ツしよに伺ふ筈でしたが、すこしごた/\した事がありまして。よろしくお詫をしてくれと言つて居りました。」
「新四谷怪談はどうしたね。まだ何処へも発表しないやうだね。」
「あれは出来ずじまひでせう。小説よりも事実がすつかり怪談になつてしまひました。」
「どうしたんだね。」
「この間。それでも何のかのと、一月ばかりになります。ふらりと葛西町の家へ尋ねて来まして、あの女(お常さんと云ふんです。)とても一緒には居られなくなつたから逃げて来た。二三日とめて貰ひたいと言ふのです。一口に言へばヒステリイの強いんでせう。それに前々から胸の病気もあるし、去年頃から一体に身体がよくなかつたさうです。夕方時々熱がでたり軽い

「自殺か。」
「毎日白井をさがして歩き廻つてゐる中、円タクに
その後、木場は鼬の道を切つたやうにまた来なくなつたので、従つて白井の消息もわからなかつた。日米戦争になつてからは、雑誌や新聞記者の来訪するものも全く跡を断つたやうになつたので、わたくしは年々世事に
(昭和十九年四月稿)
〔一九四六(昭和二一)年九月五日、筑摩書房『来訪者』〕