冬の夜がたり

永井荷風




 何歳ごろの事であつたか、はつきりとは思返すことができないのであるが、然し其時の記憶は半世紀あまりを過ぎた今日に至るまで、かすかながら心の奥に残されてゐる。
 それは夏でもなければ冬でもなかつたらしい。とすれば、春も暮行くころか、さらずば秋もたけなはのころ。いづれにしても暑くも寒くもない時分であつたらう。わたくしは小石川金剛寺の坂上に住んでゐた、漢学者某先生の家で、いつものやうに、正午過るころ論語であつたか、大学であつたか、何やら素読そどくの稽古をすまし、一町とは隔つてゐない吾家の門前まで走つてきた時であつた。繁つた枳殻からたちの生垣に沿ひ、二頭立の立派な箱馬車が一台駐つてゐるのを見て、わたくしは目をまろくした。その時分辺鄙な山の手の、このあたりに馬車を見るのは絶えて無かつたことである。殊にわたくしを驚かしたのは御者台の上に二人並んで腰を掛けてゐた御者と、下におりてゐた馬丁べつたう、これも二人、いづれも大名行列のやつこに似たやうな揃ひの服装をして、何やら金ぴかの大きな紋章をつけた真黒な円い笠をかぶつてゐた其の姿であつた。
 わたくしは此の立派な箱馬車に乗つて来た人が、わたくしの家の訪問者であることを確めるまでには、少くとも二三分の時間を必要としたにちがひない。門前の道路はこの箱馬車一台だけでも、その方向むきをかへるには容易でないと思はれるほど狭いのである。この道は六十年を過ぎた今日に至つても、そのむかしと変りのないことは、折々試る散歩によつて、わたくしは能く知つてゐる。
 むかし井ノ頭上水の流れてゐた小日向水道町の道端から、金剛寺坂を登りきらずに其中程から左へ曲り、両側とも小屋敷のつゞいてゐた垣根道を行くと、道はすこし迂曲うねつた後、現在いま電車の通つてゐる安藤坂のいたゞきに出る。安藤坂も金剛寺坂もその傾斜は勿論現在よりも急激であつたので、この坂と坂とのあひだに通ずる湫路しうろには馬車はおろか、人力車を見ることさへ稀であつた。たま/\人力車の行くのを見る時、この近所の人達は車背に輝く金蒔絵の定紋に依つて、車の上の人のみならず車夫の名までを知つてゐたくらゐであつた。その頃屋敷の抱車夫の中には髷を切らずにゐたものも少くはなかつた。
 わたくしは其時揃ひの法被はつぴをきた馬丁の一人が、わたくしの家の生垣の裾に茂つてゐた笹の葉を抜取つて馬にはませてゐたのと、又他の一人が門前の溝にかけた石橋の欄干に腰をおろし煙管で烟草をのんでゐた様子やうすあひを見て、この馬車に乗つて来た人は同じやうな生垣つゞきの隣家ではなくして、わたくしの家に訪れて来たものであることを確めた。それと共にそれはどう云ふ人であらう。当時二頭立の馬車を駆るものといへば、むかし大名であつた華族様でなければ、公卿くげか参議より外にはない。
 子供ながらも突差に感じた怪訝と不安の念とに襲はれて、わたくしは訳も知らず表門からは入りかねて、溝にかけた赤子橋あかごばしといふ石橋をまたぎ、屋敷の生垣に沿ひ爪先上りの小径を登り、大きな桃の木の蔭になつた裏門をくゞつた。
 この細い横町は、現在は市電表町停留場のあるあたりに通じてゐるが、人力車一台やつと通れる程の狭い道幅は、今でもむかしと変りはないのである。事々物々変化せざるはなき東京の町中に在つて、わたくしが生れた金富町のこの横町のやうに、六十年前から、いやもつと以前から、その在りしがまゝの姿を存してゐる処は、若しこれを捜し求めたなら、まだ此のほかにも、意外な地に於て、之を見出し得るかも知れない。東京といふ都会はいかにもひろく、いかにも不思議な処である。
 わたくしは平素家人の出入する内玄関の格子戸をあけて上つた。すると四五人ゐた女中の中で、わたくしが身のまはりの世話をしてゐた一人が、「只今おかア様がお呼びでいらつしやいました。」と言つて、いつもならば脱がせにかゝる袴の紐を、その時には却てきちんと結直し着物の襟元さへ合せ直さうとした。
 わたくしは其頃家の習慣として珍客の来訪する時、どうかすると、嫡子の義務として客の前へお辞儀をしに出なければならない事を知つてゐたので、※(「日+甫」、第3水準1-85-29)やつどきの菓子をねだつたり、駄々をこねて見たりする元気もなくなつてしまつた。きちんと袴をはき小机をあひだに先生と向ひ合に端坐し、子ののたまはくと、何のことやら訳の分らぬことを棒読にして来た、素読の稽古から、家へ返るが否や、またもや客間へお辞儀に出て、しびれを切らさねばならないのかと思ふと、それがいやさに、馬車のことも忘れてしまつて、付添の女中の驚くのを見返りもせず、縁側から庭へ飛下り、植込の中へ逃込んでしまつた。
 小石川の家の庭は六十年後の今日、たま/\散歩する塀外の道路から窺ひ見るのに、庭樹の枯れて伐り去られたものは有るらしいが、さしてむかしとは変つてゐないやうである。それは土地の高低が三段になつてゐて、之を平にすることは容易でないためでもあらう。当時母家おもやの縁先から崖に沿うて庭の上を左手へ歩むと、地盤が次第に低くなつてゐて、松の木蔭に後から建増をした応接間の屋根が見えた。また右の方には碧梧、一重桜、竹藪などの生茂つた崖の降口があつて、下には平地の庭が生垣と植込とを境にして金剛寺坂上の道路に面してゐた。わたくしが素読を学びに行く先生の家はこの崖下の空庭とは、互に道を隔てゝ相対してゐたのである。そして崖を降りる段々からは木の葉の落尽すころになると、江戸川の流を越して目白の高台から早稲田の反圃たんぼ、また赤城明神の崖裏までが一目に見渡され、西の空のはづれには富士の山影を、燃立つ夕焼雲のあひだに望むことができた。
 わたくしはこの眺望を子供心にも屡※(二の字点、1-2-22)画のやうだと思つてゐたので、後年その懐しさに、これを拙作の小説中に描写して見たのも、思返せば一度や二度のことではない。「花瓶」また「狐」などと題した作品の中に見られる叙景は其の一例である。半世紀のむかし青々とした樹木のあひだに唯一つ真白なペンキ塗の家屋の点出てんしゆつせられてゐたのは、開校当初の早稲田専門学校の校舎であつたのだ。
 わたくしは付添の女中の呼留める声を後に崖の段々をかけ下り、若し強ひて呼留められるやうであつたら、時折植木屋が庭木の刈込に来る時ばかり出入をする裏木戸をあけて道路の方へと逃出す考であつた。崖には胡蝶花しやがと熊笹とが見事に繁茂し木犀もくせいと楓の古木の聳えてゐたことを今だに記憶してゐる。
 わたくしは崖をかけ下りた余勢で、危く前へのめりさうになつたのを、やつと自ら支へて平地の上に立留つた時であつた。目の前わづかに五六歩のところに、わたくしは生れてから曾て目にしたことのない異形の人物二人と、紋服を着たわたくしの母の姿を見た。
 箱馬車に乗つて母を訪問しに来た客は二人ともに西洋婦人であつたのである。母はこの珍客を案内して、応接間の縁先から別の崖道を下り、いつか平地の庭を歩いてゐたのである。わたくしは驚きのあまり、母から言はれるのを待たず姿勢を正し、直立したまゝ両手を膝の上に垂れて恭しくお辞儀をした。
 西洋婦人と母とのあひだに短い会話が取り交された。勿論何の事かわかりはしないが、会話はわたくしに関することであつたらしいのは、西洋婦人のわたくしを見る目容まなざしと微笑と、母の態度とによつて推察せられた。わたくしはこの微笑に酬るがやうに再びお辞儀をするが否や、一散にもと来た崖道へと逃げ上つた。わたくしはその後この婦人を見たことはなかつたのであるが、この瞬間の記憶は永く消え去らず、今だに其面貌と服装さへはつきりと思浮べることができる。
 一人は加特力教徒の寡婦が用ひる喪服に似た着物の裾を地に曳き、黒い面紗を垂れ、黒い小形の帽につけた黒い布を長く後に垂してゐた。後にこの婦人は英国の貴族だといふ話をきいたので、わたくしは英国に行はれる新教の信徒が用ひる喪服は、仏蘭西婦人の着用するものに酷似してゐることを知つたわけである。他の一人の婦人の衣服も黒つぽく極めて質素であつたが、然しこれは喪服ではなかつたらしく、帽は籠の如く耳と頬とを蔽ひ、後に垂れる黒い布はついてゐなかつた。二人ともにわたくしの母よりも余程年とつてゐたらしいことは、人種の相違ちがひにも係らず、初て見た子供の目にも直に感ぜられた。それと共に二人の人品が何の訳とも知らず非常に気高く思はれたが、これは初に見た二頭立の箱馬車が尊敬の念を促す準備となつたわけでもなく、又黒い喪服のなした所でもない。わたくしは凡て子供の捉はれない自由な官覚が、初めて目にするものに対しては殊に鋭敏で且その判断も亦常に正確なためであつたと考へねばならない。
 喪服の老婦人は其名をミセスコルキスと呼ばれたことは、わたくしが後に母から聞伝へたのであるが、其発音が耳に残つてゐるのみで、いかに書すべきかはつまびらかでない。他の一人は其侍婢で名はわからない。
 母はどうして、いつの頃からこの外国婦人を知つてゐたのであらう。記憶は此の貴夫人が主宰者となつて、英国風の家庭教育を日本の上流社会及び知識階級の妻女に授けようがため、赤坂見附内に残つてゐた旧松江侯の藩邸を校舎に当てゝゐた事にまでさかのぼらねばならない。
 今おもむろにその年代を考ると、明治十七八年のころではなからうか。ピヱールロツチが初て日本に来遊して鹿鳴館夜会の記を草したのもこの時代である。この推測にして誤らずば、わたくしの年齢よはひはわづか七八歳を出でなかつたのだ。
 その頃わたくしの父は内務省の官吏であつた。欧洲都市の衛生設備を視察すべき任を帯び、列国の各都市を巡歴し、露都ペテルスブルグから土耳古の首府をも見て来られたことは、後年まで長く家に残つてゐた珍奇な土産物が之を物語つてゐた。父は干役かんえきの途中羅馬で風土病に冒され一時重態に陥つた。その事は其詩稿来青閣集に収められた律詩にも見えてゐる。律詩に曰く、一病天涯死作隣。恍然我是再生身。印泥鴻爪空留迹。入夢萍蹤軽隔塵。事与志違憐老大。心如水冷笑清貧。帰来縦令居非易。未逐長安権貴人。父は官途の不遇を歎じられたのである。
 日比谷の鹿鳴館に洋風の舞踏会が催されたのは其時代の事で、日本の上流及中流社会の婦人は半強制せられて英国風の礼儀作法を学ばねばならなかつたものらしい。わたくしの母が夜会に赴きワルスを舞つたか否かは話にも聞いたことがないのであるが、しかし年々土用干の際、わたくしは紺色地にレースの飾りのついた女の洋服を見たことをおぼえてゐる。
 舞踏の流行に伴つて当時少壮の官吏は洋風の乗馬術を学び日々出勤の時馬に乗らねばならなかつたらしい。わたくしは父が役所から帰つて来た後、三崎町の原に在つた共同の厩まで、馬丁の曳き行く馬の背にまたがつて行つた事を忘れない。市中到るところに散在してゐた空地に、馬上打球の勝負が催され、また借馬を商売にするものがあつたのも、思返すと、その頃が最も盛な時であつたらしい。
 かくの如き有様で、東京に居住した一部の人々の生活は、議会創立の年の近づくにつれて、急速に英国風に化せられて行つたのである。わたくしは今批判の目を以てわたくしの幼年時代を回顧するのではない。老余らうよ※(「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2-12-81)ぼうぜんとして、走馬燈の回転するのを見るやうな、過去の追想をたのしむに過ぎない。
 英吉利の老いたる貴夫人ミセスコルキスが当時校舎と住所とに当てゝゐた松江藩の旧邸には、折々慈善事業のためバザーと称して、女生徒のつくる手藝品の陳列販売会がひらかれた。わたくしの母と祖母とは維新前、武家の屋敷にゐた頃、手遊びにつくり馴れてゐた千代紙の細工物や押絵などをこしらへて出品してゐたので、わたくしも一二度父母に伴はれて陳列場に行つたことがある。然し其場の光景と参集した人々のことについては、門外に馬車が幾台となく寄り集つてゐた事より外、別に記憶されるものもなかつた。今日でも武家時代の記念物として残されてゐる大名屋敷の表門の光景、既に取壊されたらしい表玄関から、床の高い御殿の内部に立ちつゞいた襖、長押の処々に輝いてゐた釘かくし、欄間や格天井、それから広い座敷の幾室かを見透しに海老茶色の毛氈の敷きつめられてあつた事などが、おぼろ気ながら思ひ返されるばかりである。この果敢い記憶も、実は後年わたくしが維新前に出版せられた英国人の外交に関する著書の中の絵画を見るに及んで、稍あきらかに呼戻されたに過ぎない。其一例を挙げれば、安政五年の夏来朝した英国の使節ヱルヂン伯の一行が幕府当局の有司と赤羽橋の異人接待所に会見する光景を描いた着色画の如きものである。
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 小石川の庭に始て英吉利の貴夫人を見た時から、思ふに又一二年を過ぎたころであらう。わたくしは祖母につれられて駿河台の鈴木町に住んでゐた独逸の宣教師の家に行き、茶菓を饗せられたことがあつた。これが始て西洋人に接近した二度目の記憶である。
 母と祖母とはその頃既に独逸ユニテリヤン宗の信者になつてゐて、日曜日毎に本郷壱岐殿坂上に在つた会堂に行つてゐたのである。わたくしが基督教の講話や讃美歌を耳にした始である。
 宣教師は二人ゐた。頭が禿げて顎髯のある一人はその名をスピンネル。髯がなく頭も禿げてゐない他の一人はシユミイデルと呼ばれた。祖母が下谷の家で永眠した時、牧師スピンネルが其枕辺に来て祈祷をしたことなどは、既に「下谷の家」と題した小品文にこれを述べたことがあるから、重ねて言はない。
 その時分駿河台なる牧師の家に日本の学生が四五人寄寓してゐた。その中にわたくしは三並良氏向軍治氏と呼ばれた人の居たことを其後も永く忘れずにゐた。それは二氏とも神学者として独逸語学者として、間もなく其名を世に知られるに至つた故である。
 歳月は奔流の如く過ぎ去り、それから三十年近くを経た。明治の年代もいつか末近くなり、わたくしも早く中年に達した頃である。或年三田の大学に教鞭を執る身となつた時、図らずも教員室で、わたくしは幼時スピンネルの家で見たことのある書生の一人が眼光烱々として人を射るやうな、魁偉くわいゐなる白髪の老翁になつてゐるのに邂逅した。それは向軍治さんである。
 むかふさんはわたくしの稚顔をさながほに見覚があつたと見えて、喜んでむかしの事を語り出した。向さんは当時狷介剛直な学者として他の教員からも生徒からも、或は世間からもこはがられてゐた人であつたが、わたくしに対してはいつも逢ふ毎に笑顔を以て迎へられた好々爺であつた。大正のはじめわたくしは病を得て教壇を去つてより以来、全く其消息を知らないのであるが、向先生も今はもうこの世には居られないのかも知れない。老衰と死とはそのむかし水兵服を着て祖母の手にひかれ、独逸牧師の膝の上に腰かけて、ビスケツトを食べたわたくしの身にさへも、今や将にその手を差伸べようとしてゐるのだから。
〔一九四六(昭和二一)年九月五日、筑摩書房『来訪者』〕





底本:「荷風全集 第十八巻」岩波書店
   1994(平成6)年7月27日発行
底本の親本:「來訪者」筑摩書房
   1946(昭和21)年9月5日第1刷発行
初出:「來訪者」筑摩書房
   1946(昭和21)年9月5日第1刷発行
入力:H.YAM
校正:きりんの手紙
2020年11月27日作成
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