その年の二百十日はたしか涼しい月夜であった。つづいて二百二十日の
厄日もまたそれとは
殆ど気もつかぬばかり、いつに変らぬ残暑の西日に
蜩の声のみあわただしく夜になった。夜になってからはさすが厄日の
申訳らしく降り出す雨の音を聞きつけたもののしかし風は
芭蕉も破らず
紫苑をも
鶏頭をも倒しはしなかった――わたしはその年の日記を繰り開いて見るまでもなく
斯く
明に記憶しているのは、その夜の雨から時候が打って変ってとても
浴衣一枚ではいられぬ肌寒さにわたしはうろたえて
襦袢を重ねたのみか、すこし夜も
深けかけた
頃には
袷羽織まで
引掛けた事があるからである。
彼岸前に羽織を着るなぞとはいかに多病な身にもついぞ覚えたことがないので、立つ秋の
俄に肌寒く覚える
夕といえば何ともつかずその頃のことを思出すのである。
その頃のことといったとて、いつも単調なわが身の上、別に変った話のあるわけではない。
唯その頃までわたしは数年の間さしては心にも留めず成りゆきのまま送って来た孤独の境涯が、つまる処わたしの一生の結末であろう。これから先わたしの身にはもうさして面白いこともない代りまたさして悲しい事も起るまい。秋の日のどんよりと曇って風もなく雨にもならず暮れて行くようにわたしの一生は終って行くのであろうというような事をいわれもなく感じたまでの事である。わたしはもうこの先二度と妻を持ち
妾を蓄え
奴婢を使い家畜を飼い庭には花窓には小鳥
縁先には金魚を飼いなぞした装飾に富んだ生活を
繰返す事は出来ないであろう。時代は変った。禁酒禁煙の運動に良家の児女までが狂奔するような時代にあって毎朝
煙草盆の
灰吹の清きを欲し
煎茶の渋味と酒の
燗の
程よきを思うが如きは
愚の至りであろう。
衣は禅僧の如く
自ら縫い酒は
隠士を学んで自ら落葉を
焚いて暖むるには
如かじというような事を、ふとある事件から感じたまでの事である。
十年前新妻の愚鈍に
呆れてこれを去り七年前には妾の
悋気深きに
辟易して手を切ってからこの
方わたしは今に
独で暮している。興動けば
直に車を
狭斜の地に
駆るけれど家には唯
蘭と
鶯と書巻とを置くばかり。いつか身は不治の
病に腸と胃とを冒さるるや
寒夜に独り火を
吹起して薬飲む湯をわかす時なぞ親切に世話してくれる女もあらばと思う事もあったが、しかしまだまだその頃にはわたしは孤独の
佗しさをば今日の如くいかにするとも忍び
難いものとはしていなかった。孤独を嘆ずる
寂寥悲哀の
思はかえって尽きせぬ詩興の泉となっていたからである。わたしは好んで寂寥を追い悲愁を求めんとする
傾さえあった。忘れもせぬ
或年……やはり二百二十日の頃であった。夜半滝のような大雨の屋根を打つ音にふと目を
覚すとどこやら家の内に
雨漏の
滴り落るような
響を聞き寝就かれぬまま起きて
手燭に火を点じた。家には
老婢が一人遠く離れた勝手に寝ているばかりなので
人気のない家の内は古寺の如く障子
襖や壁畳から
湧く湿気が
一際鋭く鼻を
撲つ。
隙漏る風に手燭の火の揺れる時怪物のようなわが影は
蚰蜒の
匐う畳の上から
壁虎のへばり付いた壁の上に
蠢いている。わたしは
寝衣の
袖に手燭の火をかばいながら廊下のすみずみ座敷々々の押入まで残る
隈なく見廻ったが雨の漏る様子はなかった。
枕に聞いたそれらしい響は雨だれの
樋から
溢れ落ちるのであったのかも知れぬ。わたしは最後に
先考の書斎になっていた離れの
一間の杉戸を開けて見た。
紫檀の
唐机水晶の
文鎮青銅の花瓶黒檀の書架。十五畳あまりの一室は父が生前詩書に親しまれた当時のままになっている。机の上にひろげられた
詩箋の上には
鼈甲の眼鏡が亡き人の来るを待つが如く太い片方の
蔓を立てていた。本棚の
蠧を防ぐ
樟脳の目にしむ如き
匂いは久しくこの座敷に来なかったわたしの怠慢を
詰責するもののように思われた。わたしは
斑竹の
榻に腰をおろし燭をかざして四方の壁に掛けてある
聯や
書幅の詩を眺めた。
碧樹如クレ煙ノ覆フ二晩波ヲ一。清秋無クレ尽ル客重テ過グ。
故園今即如シ二煙樹ノ一。鴻雁不レ来ラ風雨多シ。
これは今なお記憶を去らぬ書幅の中の一首を
記したに過ぎない。わたしはいつか燭もつき風雨も夜明けと共に
鎮まる頃まで独り黙想の快夢に
耽っていた。
正月二日は父の
忌辰である。或年の除夜翌朝父の墓前に捧ぐべき
蝋梅の枝を
伐ろうとわたしは寒月
皎々たる深夜の庭に立った。その時もわたしは
直にこの事を筆にする気力があった。
長年使い
馴れた老婢がその頃
西班牙風邪とやら
称えた感冒に
罹って死んだ。それ以来これに代わるべき実直な奉公人が見付からぬ処からわたしは折々手ずからパンを切り
珈琲を
沸しまた
葡萄酒の栓をも抜くようになった。自炊に似た不便な生活も胸に詩興の
湧く時はさして
辛くはなかった。わたしは銀座の近辺まで出掛けた時には大抵
精養軒へ立寄ってパンと缶詰類を買って帰る。
底冷のする雪もよいの夜であった。二
斤ほど買ったパンは焼いたばかりのものと見えて家へ帰るまで抱えた脇の下から手の先までをほかほかと好い工合に暖めてくれた。精養軒の近処は夜となれば芸者の往来がはげしい。わたしはかつて
愛誦した『
春濤詩鈔』中の六扇紅窓掩不
レ開――妙妓懐中取
レ煖来という絶句を
憶い起すと共に
妓を
擁せざるもパンを抱いて歩めばまた寒からずと覚えず笑を漏らした事もあったほどである。
詩興
湧き起れば孤独の生涯も更に寂寥ではない。貧苦病患も例えばかの
郎士元が車馬雖
レ嫌
レ僻。鶯花不
レ棄
レ貧といい、
白居易が貧堅志士節。病長高人情というが如き句あるを思い得ばまた
聊か慰めらるる処があろう。しかし詩興はもとより神秘不可思議のもの。招いて来らず叫んで
応えるものでもない。されば孤独のわびしさを忘れようとしてひたすら詩興の
救を求めても詩興更に湧き来らぬ時憂傷の情ここに始めて
惨憺の
極に
到るのである。詩人平素独り
味い誇る処のかの追憶夢想の情とても詩興なければ
徒に
女々しき
愚痴となり悔恨の種となるに過ぎまい。
わたしは街を歩む
中呉服屋の店先に
閃く
友禅の染色に
愕然目をそむけて去った事もあった。若き日の返らぬ
歓びを思い出すまいと欲したがためである。隣の家から
惣菜の豆煮る
匂いの漂い
来るにわたしは腹立たしく窓の障子をしめた事もあった。かつてはわれも知った
団欒の楽しみを思い返すに忍びなかったからである。庭に下りて花を
植る時、街の角に立って車を待つ時、さては唯窓の
簾を
捲かんとする時吹く風に軽く
袂を払われても
忽征人郷を望むが如き感慨を催す事があった。かくては風よりも月よりも虫の声よりも独居の身に取って雨ほど
辛いものはあるまい。わたしは或日の日記に、
久雨尚歇まず軽寒腹痛を催す。夜に入つて風あり燈を吹くも夢成らず。そゞろに憶ふ。雨のふる夜はたゞしん/\と心さびしき寝屋の内、これ江戸の俗謡なり。一夜不レ眠孤客耳。主人窓外有二芭蕉一。これ人口に膾炙する少杜の詩なり。また憶ふ杜荀鶴が、半夜燈前十年事。一時和レ雨到二心頭一。然り雨の窓を打ち軒に流れ樹に滴り竹に濺ぐやその響人の心を動かす事風の喬木に叫び水の渓谷に咽ぶものに優る。風声は憤激の声なり水声は慟哭なり。雨声に至りては怒るに非ず嘆くに非ず唯語るのみ訴ふるのみ。人情千古易らず独夜枕上これを聴けば何人か愁を催さゞらんや。いはんやわれ病あり。雨三日に及べば必ず腹痛を催す。真に断腸の思といふべきなり。王次回が『疑雨集』の律詩にいへるあり。
病骨真成二験雨ノ方ト一。呻吟燈背和ス二啼※[#「將/虫」、U+87BF、112-13]ニ一。
凝塵落葉無妻ノ院。乱帙残香独客ノ牀。
附贅不レ嫌如キヲ二巨瓠ノ一。徒※[#「やまいだれ/邑」、U+24D9B、112-15]安ゾ忍ンヤ累スニ二枯腸ヲ一。
唯応シ二三復ス一南華ノ語。鑑レ井※[#「虫+餠のつくり」、U+86E2、113-1]※[#「虫+鮮」、U+27547、113-1]是薬王。
この詩正しくわれに代って病中独居の生涯を述ぶるもの。故に復これを録す。
その年二百二十日の夕から降出した雨は残りなく
萩の花を
洗流しその枝を地に伏せたが高く延びた
紫苑をも頭の重い
鶏頭をも倒しはしなかった。その代り二日二晩しとしとと降りつづけた
揚句三日目になってもなお晴れやらぬ空の暗さは夕顔と月見草の花のおずおず昼の
中から咲きかけたほどであった。物の湿ることは雨の降る
最中よりもかえって甚しく机の上はいつも物書く時手をつくあたりのとりわけ湿って露を吹き筆の軸も
煙管の
羅宇もべたべた
粘り障子の紙はたるんで
隙漏る風に
剥れはせぬかと思われた。
彼岸前に
袷羽織を取出すほどの身は明日も明後日ももしこのような湿っぽい日がつづいたならきっと医者を呼ばなければなるまい。病骨は真に雨を験するの
方となる。しかしわたしは
床の
間に置き捨てた
三味線のふと心付けば不思議にもその皮の裂けずにいたのを見ると共に、わが
病躯もその時はまた
幸例の腹痛を催さぬ
嬉しさ。三日ほど雨に
閉籠められた気晴しの散歩かたがたわたしは物買いにと銀座へ出掛けた。
わたしはその雅号を
彩牋堂主人と
称えている知人の
愛妾お
半という女がまた
本の
芸者になるという事を知ったのは、
鳩居堂で
方寸千言という常用の筆五十本線香
二束を買い
亀屋の
舗から
白葡萄酒二本ぶらさげて
外濠線の方へ行きかけた折であった。
曇った秋の日は暮れるに早い。家の門を明けると軒にはもう灯がついていた。わたしは抱えて戻った葡萄酒の栓を抜いて
直様夕飯をすますと
煙草ものまずに巻紙を取り上げた。
拝呈その後は
御無音に打過ぎ
申訳も
無之候。諸処方々
無沙汰の不義理重なり中には二度と顔向けさへならぬ処も
有之候ほどなれば何とぞ礼節をわきまへぬは文人
無頼の常と御寛容のほど
幾重にも
奉願上候。実は小生
去冬風労に悩みそれより
滅切り年を取り万事
甚懶く去年彩牋堂
竣成祝宴の折御話有之候
薗八節新曲の文章も今以てそのまゝ筆つくること
能はず折角の御厚意無に
致候不才の罪
御詫の
致方も
無御座候。されば本業の小説も近頃は廃絶の形にて本屋よりの催促断りやうも
無之まま一字金一円と大きく
吹掛けをり候ものゝ実は少々
老先心細くこれではならぬと時には
額に八の字よせながら机に向つて見る事も有之候へども一、二枚書けば
忽筆渋りて
癇癪ばかり起り申候間まづ/\当分は
養痾に事寄せ何も書かぬ覚悟にて唯
折節若き頃
読耽りたる
書冊埒もなく読返して
僅に
無聊を慰めをり候次第に御座候。寝ては起き起きては物食ひその日その日を
送行く事さへ実は
辛くてならぬ心地致され候。それ故三味線も切れたる糸
掛換へるが面倒にてそのまゝ打捨て
鶯も先日鳥屋へ戻し
遣申候。
有楽座始め諸処の演奏会は無論芝居へも意気な場所へも近頃はとんと顔出し致さず
従て貴兄の御近況も承る機会なくこの事のみ遺憾に
堪申さず候。しかしその後は薗八節再興の
御手筈だん/\と御運びの事と推察
仕をり候処実は今夕偶然銀座通にてお半様に
出遇ひ彩牋堂より
御暇になり候由承り、あまりといへば事の意外なるに
驚愕仕候次第。もとより往来
繁き
表通の事わけても雨もよひの折からとて唯両三日中には鑑札が
下りませうからとのみ
如何なる
訳合にや
一向合点が行き申さず。余りに不思議に候まゝ御無沙汰の
御詫に事寄せくだ/\しくお
尋申上候もとかく人の
噂聞きたがるは小説家の癖と
御許被下たくいづれ近々参堂御機嫌
伺上たく
先は御無沙汰の
御詫まで
々不一
彩牋堂雅契
封筒に切手を張っている時
折好く女中が
膳を取片づけに
襖を開けた。食事をしたせいか
燈火のついたせいかあるいは雨戸を閉めたせいでもあるか書斎の薄寒さはかえって昼間よりも
凌ぎやすくなったような気がした。しかし雨はまたしても
降出したらしい。点滴の音は聞えぬが
足駄をはいて女中が郵便を出しにと
耳門の戸をあける音と共に重そうな
番傘をひらく音が鳴きしきる虫の声の中に
物淋しく耳についた。点滴の音もせぬ雨といえば霧のような
糠雨である。秋の夜の糠雨といえば物の
湿ける事入梅にもまさるが常とてわたしは画帖や書物の虫を防ぐため
煙草盆の火を
掻き立てて
蒼朮を
焚き押入から
桐の長箱を取出して三味線をしまった。そのついでに友人の来書
一切を
蔵めた
柳行李を取出しその中から彩牋堂主人の
書柬を
択み分けて見た。雨の夜のひとり
棲みこんな事でもするより
外に用はない。
彩牋堂主人とは有名な
何某株式会社取締役の一人何某君の
戯号である。本名はいささか
憚あればここには
妓輩の
口吻に
擬してヨウさんといって置こう。わたしとは二十年ほど前米国の
或大学で始めて知合になった。ヨウさんは日本の大学に
在った頃俳人としてその道の人には知られていた。今でも折々名句を吐くのでもしヨウさんの俳号をいえばこの
方でも知る人は必ず知っているに違いない。しかし彩牋堂なる別号は恐らく私の
外には誰も知らないであろう。いわんや今では彩牋堂なるその家は
在っても住むものなくヨウさんは再びその名を用ゆる折がなくなってしまったのである。彩牋堂の由来は左の書簡中に
自ら説明せられてある。
拝啓御新作出勤の
途次車上にて拝読
致候。
倉皇の際
僅に前半の一端を
窺ひたるのみに御座
候得ども
錦繍の文章
直に感嘆の声を禁じ得ず身しばしば自動車の客たる事を忘れ候次第忙中かへつてよく詩文の徳に感じ申候。目下新緑
晩鶯の
候明窓浄几の御境涯
羨望の
至に
有之候。さて
旧臘以来種々御意匠を
煩はし候
赤坂豊狐祠畔の草庵やつと壁の
上塗も乾き昨日
小半新橋を引払ひ候
間明後日夕景よりいつもの連中ばかりにて
聊か
新屋落成のしるしまで
一酌致たく
存候間
御迷惑ながら何とぞ
御枉駕の栄を得たく懇請
奉候。当夜は
宮薗千斎は無論の事
宇治紫仙都吾中らも招飲致候間お
互に親類のおつきあひその御覚悟十分しかるべく候。電話も今明日中には通ずべきはづ芝○○番に御座候由
御面倒ながら貴答に接するを得ば
幸甚々々
彩牋堂主人
金阜先生碩北
二伸 かの六畳
土庇のざしき
太鼓張襖紙思案につき候まゝ先年さる江戸座の
宗匠より
売付けられ候文化時代
吉原遊女の
文殻反古張に致候処
妾宅には案外の思付に見え申候。
依てかの家を彩牋堂とこじつけ候へども元より
文藻に乏しき
拙者の
出鱈目何か
好き名も御座候はゞ御示教願はしく
万々面叙を期し申候
ヨウさんは金持であるが成金ではない。品格もあり学問もあり趣味には殊に富んでいる。わたしの処へ
寄越す手紙にはその用件の次第によって時々異った雅号が書かれてあるがそれを見てもヨウさんの趣味と学識の博い事が分る。いつぞやわたしが
天明時代の江戸の書家
東江源鱗の
書帖の事について問合した事があった時ヨウさんはその返事に
林檎庵頓首と書いて来た。
沢田東江の別号
来禽堂から思いついた戯れであろう。自動車が衝突した時見舞の返書に
富田塞南と書いて来た事もあった。次に録する手紙に
半兵衛とあるのは「
口舌八景」を
稽古していたためとまた芸者小半の事にかかわっているからであろう。
昨夜はまた/\無理に
御引留致しさぞかし御迷惑の段
御容赦被下たく候。人生五十の坂も早や間近の身を以て娘同様のものいつも側に引付けしだらもなき
体たらく
耻し
気もなく御目にかけ候
傍若無人の
振舞いかに場所がらとは
申ながら酒
醒めては
甚赤面の
至に御座候。しかし
放蕩紳士が胸中を
披瀝致候も他日
雅兄小説御執筆の節何かの材料にもなるべきかと昨夜は下らぬ事包まずお
尋のまゝ
懺悔致候次第に御座候。明後日は会社の臨時総会にて残念ながら
半輪亭のけいこ休みと致候。
但当月中には是非とも「口舌八景」上げたきつもり貴処もせいぜい御勉強のほど願はしくお花半七
掛合今より楽しみに致をり候
半兵衛
金阜先生さま
その頃までは
何の
彼のといっても私にはまだ若い気が残っていた。四十の声を聞いて日記雑録など筆を執るごとに
頻に老来の
嘆をなしたのも、思えばなお全く老いるには
到らなかった証拠であろう。
愚痴不平をいう元気のある
中はまだ真に絶望したとはいわれない。今の芸者の三味線などは聞かれたものでないなぞと人前で耻し気もなくそんな事が言われたのはまだ
色気もあり遊びたい気も
失せなかった証拠である。遊びたい気があれば勉学の心も失せない
訳である。述作の興味も
湧くわけである。一夜
或人の
薗八節を語るを聞きわたしもその古調を
味い学びたいと
思立って
薬研堀の師匠の家に
通っていた事がある。その時分ふとした話から旧友のヨウさんも
長唄哥沢清元といろいろ道楽の
揚句が薗八となり既に二、三年も前から同じ師匠を
木挽町の
待合半輪というへ招き会社の
帰掛け
稽古に熱心している由を知って
互にこれは奇妙と手を
拍って笑った。それからわたしはヨウさんに勧められるまま朝の稽古通いを
止めて夕刻木挽町の半輪へ出向く事にしたのであった。
ヨウさんは稽古の日といえば欠さず四時半
頃に会社からお
抱の自動車で
馳けつけ稽古をすますとそのままわたしを引留め
贔屓の芸者を呼んで
晩餐を
馳走した。そして十時半というと規則正しく帰り支度をする。雨の降る晩なぞわざわざわたしの家の門前まで自動車で送って来てくれる事もあった。ヨウさんの座敷に呼ばれる芸者は以前は長唄清元なぞの
名取連も
交えられていたそうであるがその頃は自然
河東一中薗八という組のものばかりに限られていたので若いといっても二十五、六より下はない。既に芸者とよりは師匠らしく見える
老妓もあった。さればその頃初めて十九になったとやらいう小半の姿は
正に
万緑叢中の
紅一点あまり引立ち過ぎて何となく気の毒にも見えまた問わずしてこの女がヨウさんの御世話になっているものと推量されるのであった。
小半はいかにも血色のよい大柄ながっしりした
身体付。眼はぱっちりして
眉も濃く
生際もよいので顔立は
浮彫したようにはっきりしている代り口のやや大きく
下
の少し張出している欠点も共に著しく目に立って
愛嬌には至って乏しく
愁もまずきかぬ顔立であった。
豊艶な女をばいつの時代にも当世風とするならば小半も
勿論その型の中に入れべきものである。当世風の小半がヨウさんの持物である事を知った瞬間にはわたしは実をいえば意外な気がしないでもなかった。しかしその心持は小半が年に似ず当世風に似ず薗八の三味線も大分その流儀になっている事を知るに及んで
直に取消されてしまった。
或晩いつもの如く稽古をすましてから勧められるまま座敷をかえてヨウさんと
盃を
交した。小半を始めいつも来るべきはずの芸者はいずれも
歌舞伎座に土地の芸者のさらいがあるとやらで九時近くまで一人も姿を見せず、その晩はまた師匠までが少し
風邪の気味だからと稽古をすますと
直様車を
頂戴して帰ってしまった。ヨウさんとわたしは女中に酌をさせながらかえって話に遠慮のいらぬのを
幸江戸俗曲の音楽としての価値及びその現代社会に対する関係から将来の盛衰についてまで、互に思う処を論じ合った。三味線は言うまでもなく二世紀以前
売色の
巷に発生し既に完成し
尽した繊弱悲哀なる芸術である。現代の社会に
花柳界と称する前代売色の遺風がそのまま存在している間は三味線もまた永続すべき力があろう。三味線は浮世絵歌舞伎劇などと同じく現代一般の社会観道徳観を以て見るべき芸術ではない。生きた現代の声ではない。過去の
呟きであるが故に
愁あるものこれを聞けばかえって無限の興趣と感慨とを催す事あたかも商女不
レ知亡国恨。隔
レ江猶唱後庭花の趣がある。これまさに江戸俗曲の現代における価値であろう。これは以前からわたしの持論である。ヨウさんは日々職務の労苦を慰める娯楽としては眼に
看る書画の鑑賞よりも耳に聞く音楽が
遥に簡易である。
豊太閤は茶を立てたが茶よりも
浄瑠璃がよい。浄瑠璃も諸流の中で最もしめやかな薗八に越すものはない。薗八節の
凄艶にして古雅な曲調には夢の中に浮世絵美女の私語を聞くような
趣があると述べた。二人の言う処はいずれにしても江戸の声曲を
骨董的に
愛玩するという事に帰着するのである。
女中が
欠伸をそっと
噛みしめながら
銚子を取替えにと座を立った時ヨウさんは何か
仔細らしくわたしの名を呼んだ。そして、「実はこの間からおはなししたいと思っていたのです。あの、小半のことです。小半はどうでしょう。うまくなるでしょうか。みっしり薗八を
稽古させて
行々は家元の名前でも継がせて見たいと思っているのですが、どんなものでしょう。」
薗八節は他派の浄瑠璃とは異り稽古するものの少いため今の
中どうにかして置かなければ早晩断滅しはせぬかと危ぶまれているものである。ヨウさんがその趣味とその富とによって衰滅せんとする江戸の古曲を保護しようという計画には異議のあろうはずがない。また小半の腕前もその年齢に似ず
望を嘱するに足るべき事はわたしもとくに認めていたので、その通り思う処を述べるとヨウさんは
徐に
一盞を傾けつつ事の次第を話した。
「何ぼ何でもこの年になって
色気で芸者は買えません。芸でも仕込んで楽しむより仕様がない。あなたの前だから遠慮なく
気
を吐きますが僕はこう見えてもこれでなかなか道徳家のつもりです。今の世の中の
紳士や富豪は
大嫌です。富豪も嫌いなら社会主義者も感心しません。
真面目な事を言ったって用いらるべき世の中じゃありませんから、わたしはむしろそれをいい事にして毎晩こうして遊んでいるんですが……まアそんな事はどうでもいいとして……わたしが芸者に芸を仕込んで見ようなぞと柄にもない事を思い付いたのはいささか
訳があります。
茶碗や
色紙に万金を
擲つのも道楽だ。芸者に芸を仕込むのも道楽にかわりはありますまい。
わたしはこれまで随分大勢の人を世話しました。真面目に世話をしましたがその結果は要するに時勢の非なるを悟るに過ぎません。現に家には書生が三人います。
惣領の
忰も来年は大学にはいるはずです。わたしは人の世話をしたからとてその人から礼を言われたいなぞとそんな卑劣な考えは
微塵も持ってはいません。失敗成功そんな事はわたしの深く問う処でない。唯いつまでも心持よく話の出来るような人物になってもらいたい。わたしの世話をしたものは皆成功しています。しかしわたしにはその成功ぶりが甚だ気に入らんのです。
名前は言いませんがもう七、八年前の事です。人から頼まれまたわたし自身も将来有望と思って或青年の画家に経済的援助を与えた事がありました。
蕪村とか
崋山とかいうような
清廉な画家になるだろうと思ったら大ちがいでした。展覧会で一、二度
褒美を
貰い少し名前が売れ出したと思うともう
一廉の
大家になりすました気で
大に門生を養い党派を結び新聞雑誌を利用して盛んに自家
吹聴をやらかす。まるで政治運動です。しかしその効能はおそろしいもので、
素寒貧の書生は十年ならずして
谷文晁が
写山楼もよろしくという邸宅の主人になりました。
もう一人成功した家の書生でわたしの閉口しているものがあります。これは教育家です。大学に通っている
時分或日わたしに俳句を教えてくれというからわたしももともと嫌いな道ではないので蔵書も貸してやる。また時にはこっちからどうだ句はまだ出来ないかと催促して直してやった事もありました。しかし後になって考えて見るとその男は別に俳句が好きというのではない、わたしが時々句をよむから御気に入ろうと思ってそんな事をきいたのでしょう。とにかくそういう
抜目のない男の事ですから学士になって或地方の女学校の教師になると間もなくその土地の
素封家の
壻養子になって今日では私立の幼稚園と小学校を経営して大分評判がよい。それだけの話なら何も悪くいう処はない。わたしも
大に感心しなければならんのですがどうも気に入らないのはその男のやり方です。教育の事業をまるで商店か会社の経営と心得ているらしい。毎年東京へ来て
朝野の有力者を訪問する。三年目には視察と称して米国へ出掛け半年位たって帰って来ると盛んに演説をして廻る。まアそれも結構です。わたしの甚だ気に入らないのは去年の事だ。やっと四十になったかならずの年輩でありながら自分の銅像をその地方の公園に建て
己れの功績を誇ろうとした事です。天下の
糸平の石碑がいかに大きかろうがそれは子孫のやった事だから致し方がない。自分の道楽からわが銅像をわが家の庭に立てる位の事なら差支えないがその男の
遣方はそれとなく生徒の父兄を説いて金を出させ地方の新聞記者を
籠絡して
輿論を作り自分は泰然としているように見せ掛けるのだから困ります。
わたしは一体に今の人たちの立身出世の仕方が気に入りません。失敗して金を借りに来ても心持さえさっぱりしていれば、わたしは喜びます。いくら成功しても正義堂々としていないものはいやです。わたしはそれらの事から真面目に人の世話をするのがいやになり馬鹿々々しくなりました。それらの事が直接の原因という訳ではありませんが小半に薗八の稽古をさせている
中わたしはいつかこの女を自分の思うような芸人に仕立てて見たらばと柄にもない気を起すようになったのです。世の中を相手にする真面目な事は皆駄目でしたから今度は芸人を養成しようかというのです。今の芸人は男も女も御存じの通りで皆仕様がありません。この
先名人上手の出ようはずもない。それに薗八なぞは
長唄や
清元とはちがって今の師匠がなくなればちょっとその後をつぐべきものもないような始末ですから、もし小半がわたしの思うようにみっしり修業を積んでくれればわたしの道楽も真面目くさっていえば俗曲保存の一事業にもなろうというわけです。」
ヨウさんが小半をひかせる事に話をきめ
妾宅の
普請に取かかったのはそれから
三月ほど後のことである。その折の手紙を見ると、
御風邪の由心配致しをり
候。
蒲柳の
御身体時節がら
殊に
御摂生第一に希望致し候。実は少々御示教に
与りたき儀
有之昨夜はいつもの処にて
御目に掛れる事と存じをり候処御
病臥の由
面叙の便を失し遺憾に存じ候まゝ酒間乱筆を顧みずこの手紙
差上申候。御相談と申すはかの妾宅の一件御存じの如く
兼々諸処心当りへ依頼
致置候処昨日
手頃の売家二軒有之候由周旋屋の手より通知に接し会社の帰途一応見歩き申候。一軒は
代地河岸一軒は
赤坂豊川稲荷横手裏に御座候。本来は
築地辺一番便利と存じ最初より
註文致置候処いまだに
頃合の家見当り申さぬ由あまり
長延候ては折角の興も覚めがちになる
恐も有之候
間御意見拝聴の上右
浅草か赤坂かの
中いづれにか
取極めたき考へに御座候。当人の小半は代地は場所がらとて便利なだけ定めし近隣の
噂もうるさかるべく少し場所はわるけれど赤坂の
方望ましきやう
申をり候。赤坂の売家は庭古びて樹木もあれど家屋はまづツブシと存ぜられ候。代地の方は建具
造作の
入替位にてどうにか住まへるかと存じ候へども場所がらだけあまり
建込み
日当あしく二階からも一向に川の景色見え申さず値段も借地にて家屋だけ建坪三十坪ほどにて先方手取一万円引ナシとは大層な
吹掛やうと存じ候。江戸
向は庭はなくとも我慢は出来申候へども川添ならでは奇妙ならず。
さて赤坂の方はこの辺もと/\成金紳士の
妾宅には持つてこいといふ場所なれば買つた上でいやになればかへつて
値売の
望も有之候
由周旋屋の
申条に御座候。地所七十坪ほど家屋
付壱万五千円の由坂地なれば庭
平ならぬ処自然の
趣面白く垣の外すぐに豊川稲荷の森に御座候間隠居所妾宅にはまづ適当と存ぜられ候。昨日見に
参候折
参詣人の
柏手拍つ音小鳥の声
木立を隔てゝかすかに聞え候趣
大に気に入り申候。地勢東北は神社の森かげとなりまづ西南向に
相見え候間古家建直しの折西日さへよけるようにすれば風通しも
宜かるべくまさか
田福が「わが宿は
下手のたてたる
暑かな」の苦しみもなかるべくと存じ候。とにかく山の手は御存じの如く都の中にても
桃隣が「
市中や木の葉も落す富士
颪」の一句あり冬の西風と秋の西日
禁物に有之候。方角は磁石失念のためしかとわからず今一応検分のつもり何とぞ貴下御全快を待ち御散歩かたがた御鑑定希望の
至に御座候。とんだ御迷惑
甚恐縮しかし昔より道楽は若い時に女。中年に芸事。老いては普請庭つくり。これさへ慎めば金が出来るとやら申す由なれど小生道楽の
階程も古人の
戒に適合致候は誠に
笑止に御座候。とてもの事に道楽の
仕納めには思ふさま
凝つた妾宅建てたきもの何とぞ
御暇の節御意匠
被下まじくや。同じ江戸風と申しても
薗八一中節なぞやるには『
梅暦』の挿絵に見るものよりは少し古風に行きたく
春信の絵本にあるやうな趣ふさはしきやに存ぜられ候。江戸趣味は万事
天明ぶりありがたし/\
冬来るや気儘頭巾もある世なら
御病気御全癒のほどこの際一日千秋の
思に御座候。
十一月 日
半兵衛

金阜先生
その
頃世の中は
欧洲戦争のおかげで
素破らしい景気であった。株式会社が日に三ツも四ツも出来た位なので以前から資本のしっかりしているヨウさんの会社なぞは利益も定めし
莫大であったに相違ない。
贅沢品は高ければ高いほど
能く売れる。米が高いので百姓も相場をやるという景気。妾宅の新築には最も適当した時勢であった。その頃旧華族が
頻に家宝の
入札売立を行ったのもヨウさんの妾宅新築には
甚好都合であった。ヨウさんは
地形もまだ出来ぬ
中から売立のあるごとにわたしを誘って入札の下見に出掛けた。
勿論俳味を
専とする処から大きな
屏風や大名道具には
札を入れなかったが
金燈籠、
膳椀、
火桶、
手洗鉢、
敷瓦、
更紗、
広東縞の
古片なぞ
凡て妾宅の器具装飾になりそうなものは価を問わずどしどし引取った。やがて普請が出来上ると祝宴の席でわたしは主人を始め招かれた芸人たちにも勧められ辞退しかねて「彩牋堂の記」なるものを起草した。それのみならず薗八節新曲の起稿をも依頼される事になった。
その翌日からわたしは早速新曲の資材となるべき
事蹟を求めたいと例の『
燕石十種』を始めとして国書刊行会
飜刻本の中に
蒐集された旧記随筆をあさり初めた。そしてこれはと思う事蹟伝説が見当ったならすぐにも筆を執る事ができるように毎夜
枕元に燈火を引寄せ「松の葉」を始め「
色竹蘭曲集」「
都羽二重」「
十寸見要集」のたぐいを読み返した。その頃わたしには江戸
戯作者のするようなこうした事が興味あるのみならずまた
甚意義ある事に思われていたので既に書かけていた長篇小説の稿をも惜まず中途にしてよしてしまった。
二葉亭四迷出でて以来
殆ど現代小説の定形の如くなった
言文一致体の修辞法は七五調をなした江戸風詞曲の述作には害をなすものと思ったからである。この
であるという文体についてはわたしは今日なお古人の文を読み返した後など殊に不快の感を禁じ得ないノデアル。わたしはどうかしてこの野卑
蕪雑なデアルの文体を
排棄しようと思いながら多年の
陋習遂に改むるによしなく空しく
紅葉一葉の如き文才なきを
歎じている次第であるノデアル。わたしはその時新曲の執筆に際して
竹婦人が
玉菊追善水調子「ちぎれちぎれの雲見れば」あるいはまた
蘭洲追善
浮瀬の「傘持つほどはなけれども三ツ四ツ
濡るる」というような
凄艶なる章句に富んだものを書きたいと
冀った。既にその前年一度医者より病の不治なる事を告げられてからわたしは唯自分だけの心やりとして死ぬまでにどうかして小説は
西鶴美文は
也有に似たものを一、二篇なりと書いて見たいと思っていたのである。『
鶉衣』に収拾せられた也有の文は既に
蜀山人の嘆賞
措かざりし処今更
後人の推賞を
俟つに及ばぬものであるが、わたしは反復朗読するごとに
案を
拍ってこの文こそ日本の文明滅びざるかぎり日本の言語に漢字の用あるかぎり千年の後といえども必ず日本文の模範となるべきものとなすのである。その故は何かというに『鶉衣』の思想文章ほど複雑にして
蘊蓄深く
典故によるもの多きはない。それにもかかわらず読過其調の清明
流暢なる実にわが古今の文学中その類例を見ざるもの。和漢古典のあらゆる文辞は『鶉衣』を
織成す
緯となり
元禄以後の俗体はその
経をなしこれを
彩るに也有一家の
文藻と独自の奇才とを以てす。
渾成完璧の語ここに至るを得て
始て許さるべきものであろう。わたしがヨウさんに勧められ「彩牋堂の記」を草する心になったのも平素『鶉衣』の名文を慕うのあまりに
出でたものである。彩牋堂記の拙文は書終ると
直様立派な額にされたが新曲は遂に稿を脱するに至らずその断片は今でも机の
抽斗に
蔵われてある。
わたしが新曲に取用いようと思い定めた題材は『江戸名所
図会』に記載せられた
浅草橋場采女塚の故事遊女采女が自害の事であった。ヨウさんの賛成を待って筆をつけようと思った時は丁度七月の
盆に近く
稽古は例年の通り九月
半まで休みになる。ヨウさんは家族をつれて
大磯の別荘に行く。わたしは暑気にあてられて十日ほど寝る。秋涼を待ち彩牋堂の稽古が始まる頃にもなったら机に向おうと思っていると、今度は師匠が病気になった。十月に入って師匠が稽古に出られる頃にはその年は
折悪しく主人のヨウさんが会社の用で
満韓へ出張という次第。帰京すれば間もなく歳暮に近くそれから正月一ぱいこれはまた芸人の習慣で稽古は休みである。
心中采女塚はそんな事ですっかり執筆の興が
失せてしまった。二月に至って彩牋堂から稽古始めの勧誘状が来たが毎年わたしは余寒のきびしい一月から三月も春分の頃までは風のない暖かな午後の散歩を除いてはなるべく家を出ぬことにしているので
筆硯多忙と称して
小袖の一枚になる時節を待った。独居の生涯は
日頃人一倍気楽なかわり
病に
臥した折の不自由もまた人一倍である。それもいっそぐっと寝就いてしまうほどの重患なればとやかくいう暇もないが看護婦雇うほどでもない
微恙の折は医者の来診を乞う折にもその車屋にやるべき
祝儀も自身に包んで置かねばならず医者の手を洗うべき
金盥や
手拭の用意もあらかじめ女中に命じて置かねばならぬ。
養痾のためにかえって用事が多くなるわけなので
風邪引かぬ用心に寒気を恐るる事は
宛ら温室の植物同然の始末である。
その年はやはり凶年であった。日頃の用心もそのかいなく鳥
啼き花落ちる頃に及んでかえって流行感冒にかかりつづいて雨の多かったためか新竹伸びて
枇杷熟する頃まで湯たんぽに腹あたためぬ日とてはなく食事の前後数うれば日に都合六回水薬粉薬
取交ぜて服用する
煩わしさ。
臥して書を読もうにも
繙く手先早くつかれ坐して筆を
把ろうにも興を催すによしなく、わずかに
書肆の
来って旧著の改版を請うがまま
反古にもすべき旧稿の整理と
添刪とに日を送ればかえって
過し日の楽しみのみ絶え間もなく思い返されるばかり。しばしば朱筆を
抛って、
収
二拾
シテ残書
一剰
ス二幾篇
ヲ一。
軽狂
ノ蹤跡廿年前。
笑
テ傾
ク二犀首
ニ一花間
ノ盞。
酔
テ扶
ク二蛾眉
ヲ一月下
ノ船。
黄祖怒
ル時偏自喜
シ。
紅児癡処絶
テ堪
タリレ憐
ムニ。
如今興味銷磨
シ尽
ス。
剰愛
ス銅鑪一
ノ烟。
と『疑雨集』中の
律詩なぞを思い出して、
僅に
愁を
遣る事もあった。かくては手ずから
三味線とって、
浄瑠璃かたる興も起ろうはずはない。彩牋堂へはそのまま忘れたように手紙の返事さえも出さず一夏を過して、秋もまた
忽ち
半に及んだその日の夕。わたしは突然銀座通りで小半の彩牋堂を去った由を知るやおのれが
無沙汰は打忘れただ事の次第を
訝ったのであった。
点滴の
樋をつたわって
濡縁の外の
水瓶に流れ落る音が聞え出した。もう
糠雨ではない。風と共に木の葉の
雫のはらはらと軒先に払い落される
響も聞えた。先ほどから
焚きつづけた
蒼朮と、
煙草の煙の
籠り過ぎたのに心づいてわたしは手を伸ばして
瓦塔口の
襖を明けかけた時彩牋堂へ
宛てた手紙を出しに行った女中がその帰りがけ
耳門の箱にはいっている郵便物を
一掴みにして持って来た。郵便物は皆しっとり
濡れていた。葉書が三枚その中の二枚は株屋の広告一枚は往復葉書で貴下のすきな芸者と料理屋
締切までに御返事下さいなどと例の無礼千万な雑誌
編輯者の文言。その
外に書状が二通あった中の一通は書体で
直様彩牋堂主人と知られた。わたしはこの際必ずお半の一条が書いてあるに相違ないと濡れたままの封筒を干す間もなく開いて見た。
久しく御消息に接せず御近況
如何に候
哉。本年は残暑の後意外の冷気に加へて昨今の
秋霖御健康如何やと
懸念に堪へず候。この分にてもう二、三日晴れやらずば
諸河汎濫鉄道不通米価いよいよ
騰貴致べしと存候。さて突然ながらかのお半事このほどいささか気に入らぬ仕儀
有之彩牋堂より元の古巣へ引取らせ申候。古人既に閑花只合閑中看。一折帰来便不鮮。とか申候間とやかく評議致すはかへつて野暮の骨頂なるべくまた人に聞かれては当方の
耻にも相なり
申べき次第。と申せば
大通の貴兄大抵は早や御推察の事かと存じ候。拙者とて芸者に役者はつきものなり大概の事なれば見て見ぬ度量は十分有之候。いはんや
外の芸事とはちがひ
心中物ばかりの
薗八節けいこ致させ
惚ねばならぬ殿ぶりに宵の
口説をあしたまで持越し髪のつやぬけてなど申すところはとりわけ
情をもたせて語るやう日頃
註文致をり候事とて「
口舌八景」の口舌ならねど
色里の諸わけ知らぬ
無粋なこなさんとは言はれぬつもりに候へども相手が誰あろう活動の弁士と知れ候ては我慢なりがたく
御払箱に
致申候。同じいやなものにても
壮士役者か
曾我の
家位ならまだ/\どうにか我慢も出来
申べく候へども自動車の運転手や活動弁士にてはいかに色事を
浄瑠璃模様に見立てたき心はありても到底色と意気とを立てぬいて
八丈縞のかくし裏なぞといふやうな心持にはなり
兼申候。この辺の心事は貴下平素の審美論にも一致致すべき次第一層御同情に値する事かと愚考
罷在候。
お半二度
左褄取る気やらまた晴れて
活弁と世帯でも持つかその
後の事はさっぱり承知致さず。折角の彩牋堂今は主なく去年尊邸より
頂戴致候
秋海棠坂地にて水はけよきため本年は威勢よく
西瓜の色に咲乱れをり候折から実の処
銭三百落したよりは今少し惜しいやうな心持一貫三百位と
思召被下べく候。まづは
御笑草まで委細
如レ件
金阜先生
雨はやっと
霽れた。霽れさえすれば年の
中で最も忘れがたい秋分の時節である。残暑は全く去って
単衣の
裾はさわやかに重ねる
絽の羽織の
袂もうるさからず。
簾打つ風には悲壮の気満ち空の色怪しきまでに青く澄み渡るがまま
隠君子ならぬ身もおのずから
行雲の影を眺めて無限の興を催すもこの時節である。曇って風静まれば草の花
蝶の
翅のかえって色あざやかに浮立ち
濠の水には城市の影沈んで動かず池の水
溝の水雨水の
溜りさえ
悉く鏡となって物の影を映すもこの時節である。
昨来ノ風雨鎖ス二書楼ヲ一。
得テ二此ノ新晴ヲ一簾可シレ鉤。
籬菊未レ開山桂落ツ。
雁来紅ハ占ム一園ノ秋。
思出すまま先人の絶句を口ずさみながら外へ出た。足の向くまま彩牋堂の門前に来て見ると
檜の自然木を打込んだ門の柱には□□
寓とした表札まだそのままに新しく
節板の合せ目に
胡麻竹打ち並べた
潜門の戸は
妾宅の常とていつものように外から内の見えぬようにぴったり閉められてあった。久しく訪わなかったのでいわれなく入って見たいような気がした。普請の好きなわたしは廊下や縁側の
木地にも幾分かさびが出来たであろう。庭の土も落ちつき石にも今年は雨が多かったので
苔がついたであろう。わたしの家から
移植えた秋海棠の花西瓜の色に咲きたる由
書越された手紙の文言を思出してはなお更我慢がならず
耳門の戸に手をかけるとすらすらと明いたのみならず、内にはいればこれはいかに、
萩垣の
彼方から聞える
台広の三味線。丁度二を上げて
一撥二撥当てた
音締。但し女にあらず。女にあらずとすれば
正しく師匠の
千斎である。わたしは二の糸の上った様子から語っているのは何かと耳を傾けるとも知らず内ではおもむろに
おもひきらしやれもう泣かしやんな――――――
と主人が中音。さては
浮橋縫之助互に「顔と顔とを見合せて一度にわつと」嘆きさえすれば後は
早間に追込んで「
鳥辺山」の一段はすぐさま語り終られると知るものから、わたしは無遠慮に
格子戸明けて中座させるも心なき
業と丁度目についた玄関の
庇に秋の
蜘蛛一匹
頻に網をかけているさまを眺めながら
佇立んでいた。
「いや君実に馬鹿々々しい話さ。
活弁に血道を上げるとは実にお話にならない。あれは全く僕の眼鏡ちがいだった。活弁の一件がないにしてもあの女は行末望みがないようだ。芸者をしている時分芸事には見込があるように思われたのはつまり非常に勝気な女で何事によらず人にまける事が嫌いだからそれで自然
稽古にも精を出したものらしい。だから商売をやめたとなると競争する
張合がない。
一月二月とたつ
中三味線の稽古はわたしへの義理一方という事になった。初めはわたしもいろいろ小言をいった。生れつき
質のわるい
方ではないのだから今の
中みっしりやって置けといい聞かしても当人には自分の天分もわからず従って芸事の面白味も一向に感じないらしい。たとえば用がなくて退屈だという時何という気もなく手近の三味線を取上げて忘れた手でも思出して見ようという気にはならないらしい。それなら何が好きなのかというと別にこれといって好きなものもないらしい。針仕事は
勿論読み書きも好きではない。
唯芝居へ行って友達と運動場をぶらぶらするとか
三越や
白木へ出掛けて食堂で物を食い
浅草の活動写真を見廻るといったような事がまず楽しみらしい。小言をいうと遂には反抗する。面倒な
思をして三味線の師匠なぞになった処で何が面白いといわぬばかりの様子を見せるようになった。これでは到底
望がないと思って
暇をやった
訳だがしかしこれはあの女ばかりに限った話ではない。今の若い女は良家の女も芸者も皆同じ気風だ。会社で使っている女事務員なぞを見ても口先では色々生意気な事をいうが
辛い処を辛抱して勉強しようという気は更にない。今の若い芸者に薗八なんぞ修業させようとしたのは僕の方が考えれば間違っていたともいえる。家の娘は今高等女学校に通わしてあるがそれを見ても分る話で今日の若い女には活字の
外は何も読めない。草書も変体仮名も読めない。新聞の小説はよめるが仮名の
草双紙は読めない。薗八節稽古本の
板木は
文久年間に彫ったものだ。お半は明治も三十年になってから後に生れた女だ。稽古本の書体がわからないのはその人の罪ではない。町に育った今の女は井戸を知らない。
刎釣瓶の
竿に残月のかかった趣なぞは知ろうはずもない。そういう女が口先で「
重井筒の上越した
粋な意見」と
唄った処で何の面白味もない
訳だ。「盛りがにくい
迎駕籠」といったところで何の事だかわかりはしない。分らない事に興味の起ろうはずはない。『
五元集』の
古板は
其角自身の
板下だからいくら高くてもかまわない買いたいと思うのはわれわれの如き旧派の俳人の古い証拠で、新傾向の俳人には六号活字しか読めないのだから
木板の本はいらない訳だ。今の芸者が三味線をひくのは唯昔からの習慣と見ればよい。丁度新傾向の俳人がその
吟咏にまだ俳句という名称を
棄てずにいるのと同じようなものだ。僕はもう事の是非を論じている時ではない。それよりかわれわれは果していつまでわれわれ時代の古雅の趣味を持続して行く事ができるか、そんな事でも考えたがよい。僕の会社でもいよいよ昨夜から同盟
罷工が始った。もう夕刊に出る時分だが今日はそんな
騒で会社は休みも同然になったのでもっけの
幸と師匠を呼んで二、三段さらったわけさ。」
ヨウさんは
溜池の
三河屋へ電話をかけわたしに
晩餐を
馳走してくれた。わたしは家へと帰る電車の道すがら丁度二、三日前から読みかけていたアンリイ・ド・レニエーが短篇小説。
MARCELINE OU LA PUNITION FANTASTIQUE
の作意とヨウさんの話とを何がなしに結びつけて思い返したのであった。レニエーの小説というのは新妻の趣味を解せざる事を悲しみ
憤る男の述懐である。男は日頃
伊太利亜もヴニズの古都を愛していたので新婚旅行をこの都に試みたが新妻は何の趣味をも感じない。男は
或骨董店で昔ヴニズの影絵芝居で使った精巧な
切子人形を見付け大金を惜まず買取ってやがて
仏蘭西の旧邸へ帰る。夫婦の仲はだんだん離れて来る。新妻の友達に
下卑ていながら妙に女の気に入る医者があって主人をば精神病の患者と診断し新妻は以後主人を狂人扱いにする。或日主人は外から帰って見ると先祖代々
住古した邸宅は一見
新に
建直されたのかと思うばかりその古びた外観を改めまた昔の懐しい家具は
椅子卓子に至るまで
悉く
巴里街頭の家具店に見られるような現代式のけばけばしい製造品に取替えられている有様、男は憤怒のあまり周囲のものを打壊して卒倒してしまう…………わたしはヨウさんに別れて家に帰ると
直様読掛けたこの小説の後半をば
蚊帳の中で読んだ。……篇中の主人公がヴニズの骨董店で買取った秘蔵の人形は留守中物置の中に投込まれていたが折から照り渡る月の光に動き出して話をしだす。感情の興奮している主人公は夢とも
現ともわけが分らなくなって遂にはどうやら自分ながらも日頃周囲のもののいっていたように真の狂人であるが如き心持になってしまう――というのがこの小説の結末であった。
蚊帳の外に手を延ばして燈火を消した時遠く鐘の音が聞えた。数えると二時らしかった。秋の夜ごとにふけ行く
夜半過わけて雨のやんだ後とて庭一面

の声をかぎりと鳴きしきるのにわたしは
眠つかれぬままそれからそれといろいろの事を考えた。一刻も早く眠りたいと思いながらわけもなく思いに
耽る思いである。あくる日起きてしまえば何を考えたのやら一向に思い出す事の出来ない
取留めのない思いである。
その後わたしは年々暑さ寒さにつけて病をいたわる事のみにいそがしく再び三味線のけいこをするような気にもならずまた
強て著作の興を呼ぶ気にもならなくなった。生きがいもなき身と折々は憂傷悲憤に堪えなかったその思いさえも年と共に次第に失せ行くようである。たまたま思当るのはフェルナン・グレイが詩に、
J'ai trop pleur

jadis pour des l

g

res!
Mes Douleurs aujourd'hui me sont

trang

res ……
Elles ont beau parler

mots mysteri

ux ……
Et m'appeler dans l'ombre leurs voix l

g

res;
Pour elles je n'ai plus de larmes dans les yeux.
Mes Douleurs aujourd'hui me sont des inconnues;
Passantes du chemin q

on eut peut-

tre aim

es,
Mais qu'on n'attendait plus quand elles sont venues,
Et qui s'en va l

-bas comme des inconnues,
Parce q

il est trop tard, les

mes sont ferm

es.
わけなき事にも若き日は唯ひた泣きに泣きしかど。
その「哀傷」何事ぞ今はよそ/\しくぞなりにける。
哀傷の姫は
妙なる言葉にわれをよび、
小ぐらきかげにわれを招ぐもあだなれや。
わがまなこ涙は枯れて乾きたり。
なつかしの「哀傷」いまはあだし人となりにけり。
折もしありなば語らひやしけん
辻君の、
寄りそひ来ても迎へねば、
わかれし
後は見も知らず。
何事もわかき日ぞかし心と心今は通はず。
なるほど情は消え心は枯れたにちがいない。
欧洲乱後の世を
警むる思想界の警鐘もわが耳にはどうやら街上
飴を売る
翁の
簫に同じく食うては寝てのみ暮らすこの二、三年冬の寒からず夏の暑からぬ日が何よりも嬉しい。胃の消化よく夢も見ず快眠を
貪り得た夜の幸福はおそらく美人の
膝を
枕にしたにも優っているであろう。しかしふと思立ってわたしは生前一身の始末だけはして置こうものとまず家と蔵書とを売払って死後の
煩いを除いた。閑中いささか多事の
思をなしたのは唯この時ばかりであった。
住み
馴れた家を去る時はさすがに悲哀であった。『
明詩綜』
載する処の
茅氏の絶句にいう。
壁二有リ二蒼苔一甑ニ有リレ塵。
家園一旦属ス二西鄰ニ一。
傷心畏ルレ見ルヲ門前柳。
明日相看レバ是レ路人。
その中
売宅記とでも題してまた書こう。
大正十年正月脱稿
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拙作『雨瀟瀟』はかつて余が
編輯せし雑誌『花月』に掲載せむがため大正七年の秋稿を起せしもの。初め「
彩箋堂佳話」と題せしがその冬雑誌の廃刊と共に転居の事などありて、そのまゝ久しく筆を断ちたり。大正九年の夏
築地より現在の家に移るに及び再び執筆の興を催し同年十二月の末に至りて稿を脱し得たり。あたかも雑誌『新小説』記者の草稿を求むるに会い浄写の時改めて『雨瀟瀟』となしぬ。大正十一年九月当時執筆の短篇小説数篇及雑録の類と
併せてこれを一巻となし
春陽堂より刊行したり。大正十三年九月『
麻布襍記』の一書を
梓するに当り、再びこの小篇『雨瀟瀟』を取りてその巻初に掲げぬ。昭和二年九月
書肆改造社の『現代日本文学全集』第廿二篇を編輯するや『雨瀟瀟』の一篇またその巻首に採録せられぬ。この
度書估野田氏またこの一小篇を取りて刊行せむとす。
依って印行の次第を記し以て序に代ふ。昭和十年
乙亥秋八月於偏奇館、荷風散人
識