森鴎外先生の記念館が先生の健在中その居邸の立つてゐた駒込千駄木町十九番地に建てられると云ふことで、わたくしは文京區

然し先生の傳記また著書に關する事は文壇諸名家の手に成るものが既に少なからず世に公にされてゐる。又わたくし自身も、先生の舊著の改版されるたび/\出版商の依頼を受けて解説のやうなものを書いた事があつたので、今更改めて筆にすることは殆ど無いと云つてもいゝやうに思はれる。
わたくしが始めて先生の

上田先生は古くから森先生とは交際があつたので、わたくしは上田先生をたよりにして始めて千駄木のお屋敷へお目にかゝりに行つた。明治四十一年時分の事で、その頃には丁度森先生のところには常盤會の歌會につゞいて觀潮樓歌會が開かれたり、又雜誌スバルが創刊されやうといふ頃なので、夜晩くまでいろ/\お話を伺ふことができた。
それから間もなく、明治四十三年になつて、先生は慶應義塾からの依頼を受け大學部文科の顧問になられ、わたくしを文科の教授に
わたくしが三田の教場に出てゐたのは大正四年までの事で、教場ばかりでなく三田文學の編輯もしてゐたので、毎月先生の創作を頂戴して雜誌へ載てゐた。先生の作物はスバルと三田文學との外には見られなかつたので、其頃文壇の呼物となつてゐた。スバルが廢刊して「我等」になつたのはわたくしが三田をやめてから後の事であらう。
大正五年に先生は軍職を退かれ、二年ほどして後上野の博物館長になられたが、この間に先生の歴史物または考證文學は遺憾なく完成された。日々新聞に連載された澀江抽齋、伊澤蘭軒、北條霞亭などいふ儒家の傳記である。
大正七年の暮博物館長になられてからは、帝謚考、元號考の如き純粹な考證の外に著作は見られなかつたが、大正十年の冬與謝野寛が再び雜誌明星を創刊した時、先生は第一號から「古い手帳から」の原稿を與へられたのみならず、「奈良五十首」の短歌を寄せられ、又同雜誌の編輯相談會が大正十年の十月頃與謝野寛の家に開かれた時には出席されて、わたくし等と雜談された事があつた。然しその頃から追々健康を害して居られたらしく、翌十一年の夏には全く望が無かつた。