鴎外記念館のこと

永井荷風




 森鴎外先生の記念館が先生の健在中その居邸の立つてゐた駒込千駄木町十九番地に建てられると云ふことで、わたくしは文京區※(二の字点、1-2-22)長井形卓三氏[#「井形卓三氏」は底本では「井形卓二氏」]、また建設委員會事務長代理中出忠勝氏の訪問を受けた。二氏はわたくしに一日も早く森先生に關する文章を書いて新聞か雜誌に載せて貰ひたいと言はれた。記念館の建築費は千五百萬圓ほどになるさうで、此の金額の寄附を募集する趣意書やら何やら、いづれも印刷せられた文書を見せて頂いた。こゝでわたくしは森先生の事について何か書いて見なければならないことになつた。
 然し先生の傳記また著書に關する事は文壇諸名家の手に成るものが既に少なからず世に公にされてゐる。又わたくし自身も、先生の舊著の改版されるたび/\出版商の依頼を受けて解説のやうなものを書いた事があつたので、今更改めて筆にすることは殆ど無いと云つてもいゝやうに思はれる。
 わたくしが始めて先生の※(「亥+欠」、第3水準1-86-30)けいがいに接することを得たのは、明治三十三四年頃先生の戯曲玉篋兩浦島たまくしげふたりうらしまが伊井一座の新派俳優によつて市村座の舞臺で演じられたのを見に行つた時であつた。その時先生は雜誌明星の主筆與謝野寛やその雜誌に關係のある人達と共に見物席に來て居られたので、幕間にわたくしは雜誌の人から紹介されたのであつた。それから一二年の後わたくしは西洋へ行き五六年過ぎて歸つて來た。彼地で上田敏先生と親しくなつた。
 上田先生は古くから森先生とは交際があつたので、わたくしは上田先生をたよりにして始めて千駄木のお屋敷へお目にかゝりに行つた。明治四十一年時分の事で、その頃には丁度森先生のところには常盤會の歌會につゞいて觀潮樓歌會が開かれたり、又雜誌スバルが創刊されやうといふ頃なので、夜晩くまでいろ/\お話を伺ふことができた。
 それから間もなく、明治四十三年になつて、先生は慶應義塾からの依頼を受け大學部文科の顧問になられ、わたくしを文科の教授に推薦すゐせんして下さつたので、わたくしは學課の事やら雜誌三田文學を創刊すること抔から、絶えず御意見を伺ふ爲め、電話でお話もするし、又陸軍省の御出勤先へもお目にかゝりに行くことが出來るやうになつた。文科の教授に就いて先生の御意見によると、教科書に使ふものは凡て西洋で出版された書物を選ぶがいゝ。學生は始めの中は讀みにくいからいやがるかも知れないが、早くから西洋のものを見馴れさせて置くと、後になつてから一生役に立つから其人の爲になると言はれたのをわたくしは記憶してゐる。
 わたくしが三田の教場に出てゐたのは大正四年までの事で、教場ばかりでなく三田文學の編輯もしてゐたので、毎月先生の創作を頂戴して雜誌へ載てゐた。先生の作物はスバルと三田文學との外には見られなかつたので、其頃文壇の呼物となつてゐた。スバルが廢刊して「我等」になつたのはわたくしが三田をやめてから後の事であらう。
 大正五年に先生は軍職を退かれ、二年ほどして後上野の博物館長になられたが、この間に先生の歴史物または考證文學は遺憾なく完成された。日々新聞に連載された澀江抽齋、伊澤蘭軒、北條霞亭などいふ儒家の傳記である。
 大正七年の暮博物館長になられてからは、帝謚考、元號考の如き純粹な考證の外に著作は見られなかつたが、大正十年の冬與謝野寛が再び雜誌明星を創刊した時、先生は第一號から「古い手帳から」の原稿を與へられたのみならず、「奈良五十首」の短歌を寄せられ、又同雜誌の編輯相談會が大正十年の十月頃與謝野寛の家に開かれた時には出席されて、わたくし等と雜談された事があつた。然しその頃から追々健康を害して居られたらしく、翌十一年の夏には全く望が無かつた。





底本:「荷風全集第十五卷」岩波書店
   1963(昭和38)年11月12日第1刷発行
   1972(昭和47)年4月5日第2刷発行
初出:「毎日新聞(大阪)」
   1959(昭和34)年5月1日
※底本のテキストは、著者自筆原稿によります。
入力:菜夏
校正:きりんの手紙
2019年1月29日作成
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