鴎外全集刊行の記

永井荷風




 森先生著述の全集十八卷いよ/\印に付せられんとす。そも/\今年七月九日先生の俄に簀を易へらるゝや、之を哭し之を悼しむ者、心竊に先生が著述全集刊行の擧の一日も速ならむことを希ひたり。蓋先生を喪ひたる文壇の損傷を補ひ、又聊吾人痛惜の情を慰むべきもの、今や纔に先生生前の著書を蒐集し、之を重印して以て後世に傳へんとするの外他に道なきを以てなり。然りと雖この事固より容易の業ならず。加るに先生の令嗣於菟君の恰海外に遊學せらるゝあり。後事は都て同君歸朝の日を待たざるべからざるが故に、全集刊行のことは輕々しく之を口にするものはあらざりき。
 七月十二日先生の柩は谷中墓地齋場より向嶋弘福寺の塋域に移されたり。越えて七月十六日森家にては葬儀の折立働きたる人々を、上野精養軒に招ぎて、厚く當日の勞に酬ひられけり。その折にも全集刊行の事は未話題に上らず、唯與謝野君のわれに向ひて、吾等は先生の尺牘雜筆など散佚の虞あるものを、今より心して集め置くべしと語られたることありしのみ。上野公園はその夜博覽會花火の催にて雜※(「二点しんにょう+鰥のつくり」、第4水準2-89-93)しゐたり。吾等はこの雜※(「二点しんにょう+鰥のつくり」、第4水準2-89-93)をよそにして、賀古先生がむかしがたりに亡き森先生が壯時洋行中の逸事より、又そが初めての小説うたかたの記の由來なぞ聞知るにつけて、更に哀悼の思を新にしたりき。
 八月となりて殘暑は日に日に甚しく、われは常のごとく家にのみ引籠りて人に逢ふ事も稀なりしかば、庭樹に鳴く蝉の聲より外何事もきかず、いつか九月を迎へたり。その月六日突然與謝野君の電話に接しぬ。森先生全集刊行の機漸く到來せり。即刻御足勞ありたしといふ。赴き見るに平野萬里小嶋政二郎の兩氏既に來たまへり。與謝野君の曰く先生の著書にして一たび刊行せられしものは、大略先生の生前手づから類を分ちて整理したまへるもの、千朶山房に藏せられたり。過日森家より右の藏本を基として全集編纂に從事すべき旨交渉ありたり。又遊學中なる御令息にも、既に電報にて御意見を問ひ畢りたりと。而して全集の編纂に參與すべき人員もその折大略定まりてありき。いづれも森家及びその近親の方々の意向に基きしものなりといふ。我はわが名の其中より漏れざりしを見て感激の情押へがたきものありき。唯こゝに一瑣事の少しくわが心に問うて平なること能ざりしは、全集刊行書肆の中に新潮社の名の加へられたる事なり。是につきては包まず與謝野君に向つてわが思ふところを告げたればこゝには記さず。
 十一月二日重て與謝野君より電話あり。同夜富士見町五丁目なる明星發行所に赴くに、宮内省圖書寮編修官吉田増藏、慶應義塾教授小嶋政二郎、明星社同人平野萬里の三氏、及び國民圖書會社取締役中塚榮次郎座に在り、森先生の著述にして一たび刊行せられたるもの、既に明星發行所の床の間に山をなしたるを見ぬ。吾等一同はまづ此大部の著述の果して能く豫定の卷册に收載する事を得べきや否やを議し、次に全集刊行主意書の草案につきて、其の文體は口語にすべきや、文章にすべきや、全集の體裁よりして文章體然るべしなぞ語合ひたる後、草案は漢文に巧みなる吉田編修官を煩すことに決したり。全集に名くるに先生が壯時の雅號鴎外を以てする事に決したるもこの夜のことなり。鴎外漁史の名は水沫集の著ありて以來人口に膾炙すと雖、晩年先生の著書には卻て是を見ず。されば今之を取つて全集に名くるは、或は先生をして地下に眉を顰めしむるものなるや知るべからず。然れども全集表裝の題字を擔當せられたる中村不折翁の、既に鴎外全集と書せられしもの、與謝野君の机上に在り。同君の談話によれば、此のたびの題書につきては不折翁の苦心尋常ならず、今遽に改題して再び翁を煩すに忍びずと。又傍より圖書會社の中塚氏、書名は人口に膾炙せしものに如くはなしと。かくて鴎外の二字を全集に冠らしむることゝはなれるなり。卓上の珈琲は與謝野夫人の玉手に酌みかへらるゝ事兩三囘。夜もいつか初更を過ぎたり。吉田編修官は家遠しとて先に暇を告げられしが、吾等は居殘りて外濠を過る電車の響の木枯に交りて鋭く耳立つ頃まで、何かと打かたらひたり。
 一週日を經て吉田君起草の刊行主意書の印刷成りたれば、與謝野君はいざ此の擧を汎く世の讀書家に告ぐべしとて、まづ東京横濱兩市の新聞社中特に文事の報道を擔當する記者を築地精養軒に招飮す。此夜編輯部員の出席するもの、賀古入澤の兩先生を初め、小山内薫、平野萬里、小嶋政二郎、吉田増藏、鈴木春浦、與謝野寛、及國民圖書會社の中塚榮次郎、書肆春陽堂主人和田利彦と余とを加へて十一人なり。
 十一月十五日に至り編輯委員は重て京橋鴻の巣に集りて、全集十八卷の中各部門の編纂及び印刷校正の任に當るべき人員を選定したり。全集は科學文藝醫學衞生等其項目甚浩瀚なり。されば一科專攻の士の獨能く之を擔當し得べきものならず。之に由つて觀るも、先生の學術才藝一人にして十人を兼ねたるを知るべし。全集印刷の校正につきて漢字國語の疑義あるものは、吉田増藏、山田孝雄の兩家に問うて之を訂し、史傳考證に關するものゝ質疑は濱野知三郎君之を判定すべく、醫事衞生に關するものは入澤賀古小金井の三先生について其監修を請ひ、拉甸及び歐洲各國語の校正は平野小山内兩君專ら之を擔當し、又現代の口語體を取りたる小説戲曲等の創作につきては、小嶋政二郎君校正の任に當ることゝなせり。猶先生の令弟森潤三郎君は先生の舊記雜筆人文の編纂を擔當せらるべし。各部門に渉りて以上諸家の勞を助け補ふ者に與謝野鈴木の二氏あり、余亦その驥尾に附す。
 全集の印刷校正は吾等編纂者一同の最難事となす所なり。全集十餘卷紙數幾千枚を通じて魯魚の誤を絶無ならしめん事を期するや豫め先生一家の用語を心得置かざる可からず。古來一世の文豪の文章を見るに、必一家獨特の句法文體あり。又特に個人の嫌忌する文字のあるあり。森先生の使用せらるゝ漢字は大抵説文に基くものにして、俗語體の小説戲曲の文中にも古來襲用の誤字を訂し、審に之を改め用ひられたり。之を以て現代人の用語と先生の措辭とは往々相同じからざるものあり。例へば構を搆となし譯を訣となし窓に窗を用ひ飜に翻を用るのたぐひなり。慶應義塾教授小嶋政二郎氏は多年先生に師事して親しく質疑したるの結果、先生が用語例に通曉すといふ。小嶋君はこのたび全集の印刷校正に際し、先生が用語の大略を列次して其便覽を作り、之を編纂同人竝に印刷所に送り、以て全集校正の完璧を期すべしといふ。鴎外全集はかくの如くにして、今や將に大方讀書家の購讀豫約を促すに到れるなり。
右は大正十一年十一月廿一日鴎外全集購讀者豫約募集の際某新聞紙上に掲載するため執筆したるものなり。





底本:「荷風全集第十五卷」岩波書店
   1963(昭和38)年11月12日第1刷発行
   1972(昭和47)年4月5日第2刷発行
底本の親本:「荷風全集 第十三卷」中央公論社
   1950(昭和25)年8月25日発行
初出:「時事新報」
   1922(大正11)年11月21日〜23日
※初出時の表題は「鴎外全集刊行私記」です。
入力:菜夏
校正:きりんの手紙
2019年6月28日作成
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