葉山の別邸に父を訪ねた。玄關からは上らずに
柴折戸を潜つて庭へ這入ると、鼈甲の大きな老眼鏡をかけた父は
白髯を撫でながら、縁側の日當りに腰をかけて
唐本を讀んで居られたが、自分の姿を見ると、何より先に、去年來た時よりも庭の石に大分苔がついたであらうがと云はれた。庭はさして廣いと云ふではないが、歩むだけの
小徑を殘して、一面に竹を植ゑ、
彼方此方に大きな海岸の巖石を据ゑ立てゝ、其の
傍には陶器の腰掛を竝べた。振向くと十疊の座敷は新しい疊の表ばかりが妙に廣々として白く光つて、其の片隅の床の間には、何處かの古碑から寫したらしい石摺の掛物がかゝつて居る。盆栽の梅が置いてあつて、其の
傍には唐本の
套が二ツばかり重ねてある。明け放した襖越しに見える次の間の書齋には、敷き延べた毛氈の上に唐紙の卷いたのが載せてあつた。縁側近くに置いた
古銅の手あぶりから盛に香の薫りが流れて來る。
「東京はまだ寒いか。」と父は唐本の間に眼鏡をはさんで下に置いた。蟲の喰つた表紙に杜詩全集と書いたのが僅に讀まれた。
「風が吹くと
夜なぞは隨分寒いです。」
「梅はまだ咲かないか。百花園なぞへは行つて見んか。」
「向島ですか。行きません。」
「日比谷の公園なぞへは大分若い人が行くやうだな。世の中は代つたものだ。昔は詩佛老人が東西南北客爭來といふ聯を書いた百花園も、どうやら維持が出來んで賣物になつとるさうだな。」
「日本の名所古跡は
皆な破壞されて
電車道になるんでせう。情けない國です。」
自分はさう云つて
白髯の父を見た。百花園の問題は自分には別に何等の感動も與へないのであるが、自分は父に向つて日本の現在に滿足しない事を知らしめ、合點せしめて、其れから段々話を進ませて自分はいかにもして再度の外遊を企てたいと思つて居る、其の計畫に賛成の意を表はして貰ふ下心であつたのだ。一年でも二年でも、若し滯在費の支出を仰ぐ事が出來ないなら、一般の苦學生が取る樣な方法を敢てするも苦しくはない。自分は唯だ
一言、老父を殘して外國に去つてもよいと云ふ承諾を得たいのである。然し父の話は一向に自分の思ふやうな壺に
篏つて來ない。父は其の心の根柢に、功成り名遂げて
身退くと云つたやうな大きい滿足を感じてゐると同時に、退いた後の世間に對しては、乃ち
白眼を以て此れを看る、極めて冷靜な唯我主義の態度を取つて居る人だ。自分はいくら熱烈な雄辯を
振つて、墳墓の地に住む事の不平を訴へた處で、相手の心を動す事は出來まいし、と云つて、此の儘無爲無能に父の財産を坐食して居た處で、自分の父は世間の親のやうに報恩と云ふ收穫をば急いで其の子から得やうと
急りはしない。
「もう二三年行つて來たいですな。」
自分はどう云ふ返事を聞くかと思つて、突然に切り出して見た。父は更に驚く樣子もなく、縁側に置いた杜詩全集を再び膝の上に取上げたが別に讀むでもなく、
「西洋はそんなに面白い處かね。」
「面白いです。」力を入れて云つたものゝ、自分は其のまゝ二の句がつげなかつた。燃え切つてしまふ前に火鉢の香は青い煙をなびかして一段高く薫り渡つた。
其の時庭の柴折戸を開けて、父よりはもつと年取つて居るらしい老人が、質素な
綿服に夏中海水浴で
冠る麥藁の帽子を冠つて、弓の折れを杖にしながら這入つて來る。來るが否や、「いゝ薫りです。」と云つて心安く縁に腰をかけて香の話をし出した。
「倅が上海に行つて居りますので、いつも取り寄せて貰ひますがな、香にしろ、筆墨にしろ、何に限らず日本のものはどうも
雅でありません。」
老人は父の讀んで居た唐本を覗いて見て、此の頃盛んに朝鮮から賣物になつて來る古本の話をつづけた。
「詩集ばかりはどうしても唐本でないと讀む氣になれない。妙なものです。はゝゝゝは。」と父は答へて笑つた。
來客の老人は近頃
愈曲園の題書を手に入れたが日本の表具師に頼むと何となく俗にして了ふから困ると云ふ事を語る。自分は席を辭したまゝ、
海邊の冬の日の暖かさに
家へは上らず、獨りで海の方へと歩いて行つた。
靜かな砂道の兩側に、四五軒づゝ並んだ漁夫の
家の草屋根の上に軟い日光は何とも云へぬ平和な光を投げてゐる。人は一人も通らない。松の林の彼方に幽な波の音がして、眞青な海は間もなく曲つた木の幹の間から見え初めた。處々に大きな岩が立つてゐる。自分は直ぐと地中海を思出した。今
目の
當り見る景色が其れに似て居ると云ふのでは決してない。明い日光、青い海、赤い岩……と自分が勝手に考へ出した名詞其のものが、南歐の風景を想像せしめたからである。自分は最早や何事に限らず、一度び外國語によつて外國の藝術を通して見た
後でなくては、自國の風物人情の凡べてに感動する事が出來ないのだ。Banlieue と云ふ外國語を發音すると、千住や新宿や、凡て街はづれの景色が何となく床しく思はれ、inn とか auberge とか云ふと田舍の宿屋も惡くないと云ふ氣になる。「散歩」「晩餐」「晝過ぎ」「五月」「暖爐」「夕の鐘」なぞ云ふ日本語が、若し一部の若い日本人の心に何か知ら訴ふる處があるとするならば、其れは日本語の發音が有する力からではない。
自分は今喜んで松の木蔭に腰を下して海を眺めた。然し斷つて置く。自分は謠曲の「風早や……」と歌ふ文句を思出した爲めではない。Massenet の音樂に「松の木蔭」と云ふ短い Po
me symphonique を聞いて感じた事があるからだ。
自分は實に自分を疑ふ。自分と同じ民族の運命を疑ふ。老いたる自分の父は、老いたる來客と共に、冬の
日光の
下で、漢學から得た支那趣味の閑談清話に耽つてゐる。自分はいかに外國の藝術に迷つてゐても、猶古今集の幾首かを暗記してゐるが、維新の改革に勳功のあつた者の
中には漢字以外に何物も知らない人が尠くなかつた。漢字趣味は
廢れて西歐趣味が此れに代つて勢力を得たが、
何人も今だに「日本」と云ふ Originalit
を求めやうとするものは無い。求めても日本には Originalit
がなかつたやうな氣がしてならぬ事すらある。
自分は松林を出てから歸り道に、この頃に讀んで見た D'Annunzio の小説 Il Fuoco の事を思ひ出した。主人公の詩人 Stelio Effrena は自分より
異つた人種のものは悉く野蠻人であると云つて、Wagner の音樂を罵り、大に Latin 魂の向上を絶叫したではないか。Alphonse Daudet は自分の生れた南方 Midi と云ふ
語に無限の強い自信をもたせた人で、同じ南方人と云ふ意味ばかりでナポレオン大帝の凡ての人格を判斷しやうとしたと云はれてゐる。近世の音樂を見れば殊更に、獨逸の Wagner でもスカンヂナビヤの Grieg でも、音樂としての價値生命の如何は全く民族的であると云ふ一語に盡きて居る。音樂にしろ、建築にしろ、繪畫にしろ、文字にしろ、自分は若し日本の藝術にして飽くまで民族的なるものを求めやうとしたら、果して如何なるものを得るであらう……
再び庭の柴折戸から別莊に歸つた。見れば
白髯の老父は大きな鼈甲の眼鏡をかけて、次の間の書齋一面に廣げた
唐紙の上に、太い筆で大きな象形文字を書いて居られた。村の富豪から依頼されたのだと云ふ事である。