雨戸がしまったので午後から降出した雨の音は殆ど聞えなくなった。
女中の知らせに老夫婦は八畳の茶の間へ来て、膳の前に置かれた座布団に坐ると二人ともに言合したように身のまわりを見廻した。
昨日まで――昨日の夕飯の時までこの八畳の茶の間にはもう一脚膳が出されてあったのだ。然し今夜はもうその膳は出されていない。
去年の秋三番目の女の
清子が嫁に行くその前の年に生来病身であった二番目の娘が流行感冒で死んだ。その時から既に茶の間の膳は一つ減っていた訳であるが、その折には老夫婦はそれほど淋しい気にもならなかった。勿論娘の死を悲しみはしたものの其の悲しみは月日と共に諦のつく悲しみであった。また容易に他の事にまぎらされる悲しみであった。何故というに年中薬を飲みながら二十を越すまで生きていたのが、両親には寧ろ不思議に思われた位であったからである。家に残った三番目の清子と末子の寅雄が元気のいい笑声はいつも家中を賑にする力があったからである。
老人は静に箸を取って、「寅雄も今頃は船の食堂で食事をしているだろう。」
「雨が降出しましたけれど、船はいかがで御在ましょう。」
「いや三月になれば航海は穏かだ。わしが始めて洋行した時分の事を思えば船は三層倍も大きいし、心配する事はない。」
「寅雄の洋行ですっかり忘れて居たので御在ますが、あの今日はお父様の御命日で御在ました。」
「三月十日……そうだったな。」
「あなたが寅雄を送りにいらしった後で気がついたので御在ます。明日お墓へ行って参りましょう。」
「何年になるかな十三回忌の法事をしたのが
「お母様の方が来年丁度十年目だと思いました。」
「それでは其の中法事をしよう。」と老人は吸物を啜って、「この白魚は大変うまい。おかわりを貰おうか。」
「どうぞ。沢山御在ますから。」と老妻は給仕に坐っている女中を見返って、「掻き廻すと中のものが崩れますから丁寧によそっておいでなさい。」
「先代も晩年には白魚と豆腐がお好きであったな。老人になると皆そういうものかな。」
老人はその亡き父と母とが静な燈火の下に現在の自分と同じように物食うて居られた時の様を思い浮べた。亡き父亡き母の事を思出す瞬間だけ老人はおのれの年齢を忘れて俄に子供になったような何ともいえぬ懐しい心になる。けれどもそれは全く其の瞬間だけのことである。老人はもう六十八、其妻は五十九になった。亡き父母の享年よりも既に数年を越えている。官職に在る事二十年実業界に在る事又更に十幾年、退隠してから既に早や三年になった。
長男は結婚すると間もなく新に家を建てて別居した。次男は地方の県庁に勤めている。三男は今日の朝洋行した。娘は二人とも嫁に行った。庭ばかりでも三百坪から[#「三百坪から」は底本では「二百坪から」]ある広い邸内に残るものは老夫婦二人のみである。
老人は白魚の吸物を二杯までかえたが、飯は軽くよそって二杯ときまっているので食事は忽ち済んでしまう。夫婦とも歯が悪いので香の物はたべない。給仕の女中は十六の時から今年二十三になるまで使われているので、二杯目の御飯をよそうと黙って飯櫃から先に片付けて行く。老夫婦が湯呑から番茶を一口飲み火鉢の火に手をかざした時には膳は二つとも既に運去られて、八畳の間は一際がらりとしたように思われた。二人は再び顔を見合した。
雨は夜と共に降増って来たものと見えて、一時杜絶えた点滴の音のみならず庭樹を揺る風の音につれて雨戸ががたがたしだした。
「大分風が出た。また電燈が消えなければよいが。」
「この位な風なら大丈夫で御在ましょう。それよりか何ですかいやに蒸すようで御在ますから、地震でもなければよう御在ます。」
「梅の散る時分にはどうも時候が狂うものだ。いつだったか彼岸前に雪の降った事があったな。」
老人はその時鼠の走る音に天井を見上げた眼を床の間の方に移した。床の間には松飾に雪のつもった画幅の懸けられてある下に、盆栽の木瓜がもう散るばかりになっている。
「これは正月の掛物だ。すっかり取替るのを忘れていた。」
「わたくしも、どうしたんで御在ましょう。今年は清子がいませんから加留多会もしませんし御雛様もないものですから。」
「気のついた時取替えて置こう。また忘れてしまうから。わたしの座敷から何か持って来てくれんか。何でもよいよ。画より字の方がよいだろう。」
老妻は静に座を立って縁側の端なる老人の居間から箱に入れた掛物を二本ほど持って来た。
「どれがよろしいのかわかりませんから。」
老人は目を細くして箱の蓋を燈火にかざしながら、「これでよい。小島男爵の書もしばらく拝見せんから。これにしましょう。」
老妻は正月の画幅を下して箱の中にしまうと、老人は新に掛けた書幅の文字を読下しながら、
「男爵も此の時分はまだ
小島男爵というのは老人が勤めていた官省の次官で後に大臣にもなった。現在は宮中顧問官である。老妻も首をのばして床の間を眺めていたが、
「去年の今時分で御在ましたね。あの新聞の騒ぎは。何ですか今だに真実のことだとは思えません。」と言った。
男爵の令嬢が書生と家出した事件は一年過ぎた今日に至っても時折婦人雑誌の紙面を賑す材料にされているのである。
「魔がさすというのはああいう事だろう。」
「それを思うと宅なぞはほんとに仕合せでございます。不足をいう事は御在ません。」
「そうさ。娘は二人とも無事に片付いてしまったのだからな。」
風の向が変ったのか雨戸一面に雨の吹付ける音がした。老人は不安らしく振返ったが、また独語のように、「片付くとはよく云ったものだ。清子が嫁に行く時は荷物が一ぱいで廊下もうっかり歩かれん位だったな。」
「ほんとにそうで御在ます。
「そうさ。然しもう皆片付いてしまった。わしとお前二人きりならもうこんな広い家にいる必要もないだろう。」
「そうで御在ます。それに此頃は世間でも何ですか人の住む家や地面がないと云っているようで御在ますから。いっそ小じんまりした家の方がよいかも知れません。」
「そうさな。この屋敷を買った時分には長雄が嫁でも貰ったら建増しが出来るようにと思って裏の空地まで一所に買って置いたのだが、いらん事だった。」
「この節の若い夫婦はみんな自分の好きな新しい家の方がいいと申しますから仕方が御在ません。」
「寅雄も洋行から帰って来て嫁を貰ったら矢張別に家を持つだろうな。」
「それは無論そうで御在ましょう。姑と一緒だなぞと申しましたら此頃では嫁に来るものは御在ますまい。」
「そうして見ると妙なものだな。小島さんのお宅のことなぞは、何が仕合せになるか知れん。此の間も男爵家へ出入をする医者の話だが、家出をしたお嬢さんは今では別の人のようになったというじゃないか。御両親の傍で女中と一緒に家の用をして居られるという事だが、妙な事になるものだ。」
「家の子供や娘はあんまり学問ばかりさせ過ぎたせいかも知れません。
「子供が二人になったからいそがしいのだろう。そう又
「それもそうで御在ます。」
二人は顔を見合せて再び淋しく笑った。奥の間から置時計の鳴る音につづいて鉄瓶の湯のたぎる音が聞え出した。
「すっかり忘れていた。紹介状を頼まれていた。」
老人は火鉢の縁に両手をつき、退儀そうに座布団から腰を上げた。老妻は火鉢の火を丁寧に埋めた後茶の間の電燈を消し、奥の間の障子から縁側へとさす燈火をたよりに足音しずかに居間の方へと歩いて行った。
大正十一年四月稿