木犀の花がさくのは中秋十五夜の月を見るころである。
甘いような、なつかしいような、そして又身に沁むような淋しい心持のする匂いである。
わたくしはこの花の香をかぐと、今だに尋常中学校を卒業したころの事を思出す。
わたくしの学んだ中学校はわたくしの卒業する前の年まで神田一ツ橋に在った。道路を隔てて高等商業学校の裏手に面していた。維新前には護持院ヶ原と言われたところで、商業学校の構内には昔を思わせる松の大木がところどころに立っていた。
わたくしがこの中学校に入って、黒い毛糸の
初に通った一ツ橋の旧校舎はもと体操練習場と称して、米国風の体操教師を養成する処であったそうである。師範学校附属の中学校になってから、大祭日や何かの時、われわれ全校の生徒が集合することになっていた広大な講堂は、体操練習場の在った頃の雨中体操場をそのまま修繕したものだと云う話であった。あまりに広過るので、平日は幾枚かの衝立で仕切られて、一方は食堂、一方は唱歌の教室、また別に倫理の教室に当てられていた。わたくしは此処で儒者南摩羽峯先生の論語講義を聴いた。羽峯先生は維新前には会津の藩儒として知られていた学者である。衝立を隔てた唱歌の教室では、後年東洋音楽学校を創立された鈴木米次郎先生から楽譜をよむ事を教えられた。今日世に流布している「四百余州を
わたくしが病気の為再度落第をした頃、羽峯先生の論語講義は廃せられ、その教室には突然畳が敷詰められて柔道の練習場にされてしまった。中学生に柔道を習わせるようになったのは恐らく此時が始めであろう。これには理由があった。
われわれの中学は後年文理科大学と改称された高等師範学校の附属であって、久しく本校師範学校の校長であった高峰先生が引退されて、新に嘉納先生という柔術家が熊本の高等中学校長から転任して来られた。初てその挨拶のある日、われわれ全校の生徒は各級受持の教師に引率せられて講堂に集ったのであるが、見れば、その時新任の校長は今までわれわれがこういう時いつも式場で見馴れたフロックコートの洋装ではなく、黒羽二重か何かの紋服に袴をはき、三人の若い門弟らしい男を従え悠然として講壇に上った。三人の弟子も皆木綿の紋服に白袴という
この風采と態度とは、その頃東京に生れ育ったわれわれ少年の目には一度も見馴れた事がなかったものなので、一見直に全校を威圧する力があった。愚図々々すればすぐに投出されるか、咽喉でも絞められはせぬかと思われたのだ。然し程なく卒業しようというわたくし達上級の生徒の中には威圧されながらも、却って漠然とした反感を抱くものが無いでもなかった。わたくしが凡そ反感という心持の何であるかを知ったのも、或はこれがそもそもの始めであったのかも知れない。
校長更迭の行れてから一週日を出でずして、われわれは稽古着を買いととのえる事を命ぜられ、学課の終った後、毎日一時間ずつ、かの白袴を穿って来た若い弟子達から柔術をならわせられることになった。然しわたくしは一時休校した程の病気を幸、これを口実にして欠席届を出した。之に倣って他にも二三人体好く逃げた生徒もあった。その中の二人はわたくしが後年まで長く交を続けた井上と島田と云う少年、もう一人は平素優れて成績が好かったにも係らず、卒業間際に突然病死した森島正造と云う少年であった。
柔道が始ってから生徒の間にそれまで曽て聞かれた事のない男色の噂が言伝えられ、「
中学校の教場が一ツ橋からお茶ノ水なる本校の構内に移されたのも、校長更迭後程もない時であった。一ツ橋の校舎は制帽に赤い
われわれの中学が本校の構内に移された当時、その運動場は二ヶ所に分れていた。一は河岸通の正門を入り、正面に本校の赤煉瓦建の高楼を仰ぎながら、左側へと奥深く行った処、他の一ヶ処は右側の坂道を登り、古びた練塀の彼方に聖廟の屋根を見るあたりで、木馬、鉄棒、棚などの設備がしてあって、その遥か
少年の頃、わたくしが或年の秋、その花香に酔うことを得た聖堂裏の木犀は、江戸時代に在って、元禄以降湯島学問所に学んだ代々の学者達の同じく仰ぎ見た其樹木である。寛政年間、大田南畝も亦ここに来って
わたくしが中学就業中、落第すること前後二度に及んだことは既に述べた。それが為、わたくしは滞りなく無事に早く卒業した人達よりも、一年ずつ同級生として机を並べた人を多く知っているわけである。それ等同学生の中には後年世に名を知られた秀才も少くはない。
一時軍閥政治の行れたころ、
わたくしが米国に遊んで市俄古を過ぎた時、偶然大学の運動場で巡り会った岩崎秀弥氏も亦竹馬の友であった。
むかし互に君僕で話し合った人達の中で、今猶記憶に存するものを挙げると、その第一は文学博士深田康算である。博士は中学に在った頃から
大学を出ると直に、その頃は専門学校と称した早稲田大学に招聘せられて哲学を講じた文学博士波多野精一氏もまたわたくしとは中学を同じくした人である。
折々政界に波瀾の起る時大臣になられる松本烝治氏とも、わたくしは
八田嘉明氏の名も、わたくしは満洲事変の際新聞紙上にこれを見て、お茶ノ水のむかしを思返したのである。
一ツ橋とお茶ノ水の学校で、わたくしが机を並べた人達は、成業の後、皆と云ってもよいほど各志す道の要処に立ち、国家と社会とに貢献するところがあった。所謂
読者はわたくしが一夜木犀の花香に酔い、突然幾十年の昔を思返し、竹馬の友として妄にえらい人達の名を列記したのを怪しむかも知れない。わたくしを以て虎威を借る狐にあらずば
昭和廿二年九月