○家が焼けてから諸処方々人の家の
空間をさがして
仮寐の夢を結ぶようになって、ここに再び日本在来の家の不便を知るようになった。
襖障子を境にしている日本の家の居室には鍵のかかる処がないので、外出した後の用心をすることができない。
空巣ねらいの事はさて置き、
俄雨の用心には外出のたびごとに縁側と窓の雨戸をしめて帰るとまたそれをあけなくてはならない。むかしから雨戸と女房に具合の好いものはないという
諺がある。日本の家に住むにはまず雨戸の繰出し方から演習して行かねばならない。雨戸も二三枚ならばよほど楽であるが、五枚六枚とつづく長い縁側の雨戸と来たら、指先を傷めぬように手袋でもしてかからねばなるまい。ピエールロチのたしか日光紀行に旅館の女中が夕まぐれに何枚と知れぬ雨戸を巧みに繰出す技芸を見て嘆賞するくだりがあった。日本人が家居の様式は江戸時代から明治を経て昭和の今日に至るも、大体において変るところがない。政治は変っても日本人の生活は一二世紀前のむかしと
一向変っていないのだ。戦いに負けて政体を
云々する人の声も聞かれるようだが、それらの人の住む家と雨戸の不便とはこの後も長くむかしのままにつづくのであろう。紙がないと言いながら襖や障子の代りになるものは誰も考案しないようである。政治は口と筆とさえあればこれを論ずるに
難くはないが、戸障子の
如何は実際の問題で空論ではないからであろう。
○半紙だか
美濃紙だか、また西の内だか何だか知らぬが、とにかく
楮の樹皮から製した日本紙を張った障子の美は、もう久しい前から、田舎の旧家とか寺とかいう特別な処に行かないかぎり見られないものになっていた。しかしわたくしにはその記憶だけは今でもどうやら消えずに残されている。暗く曇った日に、茶室の障子の白さを茂った若葉の蔭に見る快感は西洋の家には求めても得られない。昼過の
軟な日光に、冬枯れした庭木の影が
婆娑として白い紙の上に描かれる風趣。春の夜に梅の枝の影を窓の障子に見る時の心持。それはすでに清元浄瑠璃の
外題にも取入れられている。赤く霜に染みた木の葉や木の実に対照する縁先の障子の白さの如きはとうてい油絵には現せないものであろう。戦争は日本固有のさまざまなる
好き物を滅した中に、障子の事も数え入れられるであろう。
○人の家の貸間に住んで見ると、家屋も庭園も他人のものであるから、地震にも暴風雨にも何の心配もいらない。垣が倒れようが戸が破れようが、間借りの人は主人をさし置いてとやかく言うことはできない。差出口をするのは
僭越であり失礼であろう。
雨漏がしていられなくなれば引越先をさがすより仕様がない。引越す目当がなければ枕元に
盥でも持出して
徐に空の晴れるのを待つばかりだ。国家社会に対するわれわれ庶民の生活もまずこれに似たものらしい。治世の
如何は
台閣の諸公の任意に
依るもので、庶民の力の及ぶべきところではない。間借の人の義務は
滞りなく間代を払い
畳に
[#「畳に」は底本では「畳にに」]焼焦しをしなければよいのである。間代を払っても古家の雨漏りは速急に直るものではない。家賃や間代を先取した家主が
店子に向って濡れた着物の損害を
償ってやった話は聞いた事がない。大岡政談などにも無かったようである。庶民の
蒙る敗戦の被害は貸間の雨漏りに似ていると思えば間違はないであろう。
○二十余年前震災で東京が焼原になった時、誰が言出したのか
頻に
遷都の説が伝えられた。これを聞いてわたくしは心
窃によろこんでいた。帝都の
遷されるべき処のいずこであるかは知るよしもなかったが、もしその事が実行せられる日には、この東京に居残るものは直接社会に関係のないものと、ことに東京の風土を愛するものとばかりになるであろう。そして東京の町々はひっそりとして江戸のむかしを追憶するに適する処になるであろうと思った故であった。東京は徳川氏の都城にした処である事は言うに及ばない。薩長の軍隊は戦勝の結果この都城を占領し、諸侯の空屋敷を兵舎と官庁に当て、ここに新しい政府を建設した。何の事はない。他人の建てた古家に住込んで手当り
次第間に合せの手入をしたようなものである。かくして半世紀あまりの月日は過ぎ、間に合せの大都会は突然地震のために焼払われ、どうやら見直せるようになったかと思ったのもしばらくのあいだで、たちまちもとの焼原に
還ったのである。兵火を
免れた町のところどころには今だに震災当時のバラックが立っているではないか。元来安政のむかし黒船の砲火に焼き払われるべきはずの都会であったのだから、事ついにここに至ったのも避け難い宿命であったのかも知れない。東京の町々が
新に建て直されるのはいずれの時誰の力に
依るのであろう。隅田川はいかなる風景を現出するのであろう。浅草観音堂は永くむかしの場所に在ることを許されるだろうか。ここにふと思出したのは米国ボストンの美術館は江戸浮世絵を多く保存しているので世界に名を知られている事である。その研究者の
中最も有名であったのは、フェノロサで、それは米国人であった。もし米国人が、将来東京の建直しに助力するような事があるとしたら、それは明治のむかし薩長人が手入をしたよりも
遙に美術的ではあるまいかというような気もする。
○戦後復興するものの中でその最も
目覚しげに見えるのは文芸書類と雑誌の刊行である。在来われわれの見聞した国情から
推せば文芸の如きは
微々としてますます振わぬはずのものであるが、物資欠乏の世に在って雨後雑草の生える勢を示している。その原因はそもそも
奈辺に在るか。売る者があっても買うものがなければ事は
休むわけである。図書出版の
殷盛は購求者の多きを
證するもの。これ今の世において見る不可思議中の不可思議ではないか。むかしの人は世が衰えると、遊び場が栄えると言ったが、これが真実ならば現在は
邦家衰頽の
極に至ろうとしている時である。銀行預金の封鎖から、やがて
平価切下の
噂が事実となるに至れば、文芸はますますさかんになるのであろう。
○一時古書の
翻刻がさかんに行われたころの事であった。古書も必ず読まねばならぬものは容易に翻刻されず、然らざるものばかりが行われると、鴎外先生の言われた事をおぼえている。昨今雑誌屋の店頭に並べられるものを見れば誰しもこの感を深くするであろう。わたくしは数年前から飯を炊く時、その煮える間鍋の
傍に立って
平素読まない書物を読むことにしていた。飯は鍋の傍についていないと知らぬ間に焦げつく恐れがあるからだ。わたくしは初め
四書の
仏蘭西訳本を原本に対照して読むことにした。米の煮え終るまでに四五章はゆっくり読むことが出来た。四書をよみ終ってからはこれも和仏の両書を対照しながら新約聖書を読んだ。江戸時代を知るにはぜひとも儒学の一般を
窺って置かねばならない。それと同じく西洋の事を知ろうとするには何がさて置き
基督教の何たるかを知って置かねばならぬと、
晩蒔ながら心づいた故である。
罹災の後わたくしは今だに空しくそれらの書をさがしている。それにつけても遊戯の書は、砲火の
歇むと共に数知れず
坊間に現われたのを見てわたくしは鴎外先生の言葉を思い出さねばならなかったのだ。去年岡山の
町端れに避難していた頃、同行のS氏は朝夕炊事の際片手に仏蘭西文典をひらき、片手の
団扇で七輪の火をあおぎながら、時たま初学者の読むものを読むと
大に得るところがあると言っておられた。
○今年は五月の節句に
武者人形を飾ってもいいかしらと心配しているものがある。どうしようと問われてもわたくしには返事ができない。五節句の
祝儀はもともと封建時代の遺習で、明治のむかしすでに廃止の布告が出ている。よすもよさぬも各人思いのままにしてよい事であるのに、満洲占領の頃から百貨店やカフェーの店頭に
神功皇后や
楠公の人形が飾り出されて旧習復興の有様を呈するようになった。節句につき物の柏餅も砂糖がなくて出来なければ、世は花より団子のたとえで節句の飾物もいらない訳である。その頃祭日に国旗を出さぬと
獅子ならぬ志士があばれに来ると聞いて下町の横町などでは驚いて三越へ旗を買いに行ったという話をきいた事もあった。もしも節句の武者人形や
鯉幟に
軍閥の臭味があるとしたら、鳥居の立っている日本国内の神社は
稲荷と天神とを除いて大方武将を祭ったものであるから、八幡様を初めとして十中の八九は片端から取払いをしなければなるまい。町内
氏神の祭礼も七五三の祝儀も、自由主義を迎える世には遠慮しなくてはならなくなる。心配は
参詣をする
氏子よりも
御幣を振る
神主と
提灯屋のふところ都合であろう。
○わたくしは仏寺の庭や墓地に対するほど神社の
境内については興味を感じていない。神社は何やらわたくしには縁もゆかりもない処のような気がする。いずこの寺の門内にもよく在る
地蔵尊を始め、迷信の
可笑味を思い出させる
淫祠も、また文人風の禅味を覚えさせる風致も、共に神社の境内には見られない故でもあろう。
華表の形や
社殿の様式も寺の
堂宇や
鐘楼を見る時のような絵画的感興を
催さない。いずこの神社を見ても鳥居を前にした社殿の階前にはきまって石の
狛犬が二つ向合いに置かれている。狛犬は後脚を折曲げて
行儀好く居ずくまり、前の片足を上げて何やら人を招くような形をしていながら、
吠えでもするように角張った口を開いて
牙を現し、近寄れば飛付きそうな恐しい顔と態度とを見せている。階下の
賽銭箱を見守るつもりかも知れない。通りがかりに交番に立っている巡査を見るといわれなく狛犬の態度が思い出される。神社の広大なものには寺の三門と同じような門があって、裸体の
仁王尊の代りに矢を背負い弓を持った人形が
塵だらけになって金網の中に
胡坐をかいているが、いやに取りすましたその顔は、受付口の役人のように、もし何かきかれたら係りがちがうから
他所へ行ってきけと言うようにしか見えない。神社の境内に在るものでわたくしの興をひくのは
絵馬堂と
神楽堂ばかりである。絵馬堂は奉納の絵額と俳諧の献句が見られ、神楽の催しには仮面の可笑味がある故である。日本人の
面貌は神楽に
用る面によって代表されていると言った人がある。色白く鼻の高い
尊の面は貴族を代表し、
手拭で
頬冠をした、口のまがった、目っかちの
ひょっとこは農夫、もしくは一般の人民の顔を代表したもの。
般若はヒステリーの女、
おかめは普通一般の女の顔で、日本人男女の面貌はことごとくこの四種類の中に含められて、例外のものはほとんどないと云っても
差閊はないというのである。わたくしはこの説に
左袒しているのであるが、近年神楽や
馬鹿囃子もすっかりすたれて、お亀やひょっとこの仮面も
玩具屋の店頭には見られぬようになった。男女衆議院議員当選者の容貌はどれに属するものだろう。
○日本の文書に
羅馬字綴を用うべきや否や。これがまた近頃問題になっているそうだ。しかしこれはもう問題にすべき事ではあるまい。生活の全体がすでに勝者の手中にあるかぎり言語文字の如きは我らの考慮すべき問題ではない。つらつら思うに日本人の多くは維新以後自国の言語文字。自国の文化については何の
考をも持っていなかったようである。特にこれを愛重する心は無かったようにも見られる。祖国の風土草木に対してもまた
確乎とした考はなかったようである。明治の初年日本人は電信を布設するために風土の美を
顧ず東海道の松並木を伐採しかけた。それを妨げ止めたのは英国の公使パークスであった。神道の研究を
称え初めたのもまた英国人チャンバレンであった。博物館の創立もまた西欧人の勧告に
基く所だと聞いている。吾々は今日吾々の生活や風俗について言うべき何物をも何らの権能をも持っていない。現在家族と共に
起臥している家屋すらある場合にはこれを捨てねばならないのだ。国字国語の如きは時勢の
趣くままに
任すより
外はない。
○明治二十三年初めて議会の開かれた時分にはいずこの学校にも官省にも西洋人が教師また
顧問として
招聘されていた。時の人が
御雇教師と言ったものである。わたくしの通学していた神田一ツ橋の中学校にも元英国海軍士官であったシーモル先生という人がいた。その頃から内地雑居と称して外国人も邦人と同じく市中随意の処に住むことができるようになったのであるが、やはり旧居留地であった
築地明石町が主なる居住地で、次は麻布と小石川辺とであった。汽車停車場の掲示は皆英語で一等客車にはほとんど西洋人ばかりしか乗っていなかった。避暑地では軽井沢日光
逗子鎌倉あたりが西洋人向で立派な別荘は大抵西洋人の建てたものであった。その頃の西洋人の生活に関する事は当時の英国公使フレーザーの夫人が
著した書に
委しく述べられている。麻布今井町に住んでいた英国人アーノルドも日本に関する二三の書を著している。この人は日本の文字を解し和歌をよんだらしい。
海と陸と題した書中、今井町の家の事があったので、わたくしは
読過の際手帳にその大意を
訳載して置いた。幸に焼けなかったからここに次の如く写し直して置こう。
東京の市中には草の青々とした空地、庭園、小高き
丘阜が随処に散在している。人家の密接している街路と小道とはただ一区域においてこれを見るばかりである。余の
寓居した今井町の高台などは遠い田舎に行ったようで空気は新鮮で
煤烟が無いから、住宅や商店のあるは黒くあるは白く引続いているあたりを越して、向側にも
此方と同じような青々とした坂が幾筋もある
辺までずっと見渡すことができる。坂の上には余の住んでいる此方の高地と同じように、樹木と庭園とに
囲れた軽快なる住宅、心地好げな別荘らしい家屋が幾軒も見える。余は家に置いてある人力車に乗って一走り走らせると、わけなく、絵画的な群集の
雑している
真直な広い街路、また狭い町の
只中に達することができる。それ故余は都会生活の
煩累なくしてしかも万事に
便宜な田舎の生活をする事ができるのだ。日が暮れるとあたりは全く田舎の村のように静になって、門外を過る
按摩の声と、
夜廻の打つ
拍子木の響が聞えるばかり。空気はいつも清涼で、人口の多いにも係らずどこの家でも炭火の
外に
燃すものがないから従って
烟突というものがないため、山岳中の女王とも称すべき富士の山は六十五マイル隔っているけれど、毎日西方の空に雪を
戴いたその頂上を見せている。今日この頃の時節は日本では厳寒の最中なので花の見られる時ではなく、夜の寒さは庭のささやかな
蓮池にも厚い氷をはらせるのであるが、それでも
薔薇と
椿の花を
絶すことはない。またさまざまなる
常磐木は、日本の風土に
馴れた
蘇鉄や竹などと一緒になって、四季不変なる緑色の着物を着ている。春を待って紅白の花をつけるはずの梅と桜の梢はまだ裸のままで一枚の葉さえもない。(略)
わたくしがまだ焼かれずに麻布の家にいた時であるからこの記事に少からず興を催したのである。
○東京市内から西洋人の姿の
追々稀になって行ったのは、日露戦役の頃からであろう。官省会社等に顧問として雇われていた西洋人は
大方任を解かれるようになった。西洋人の教を待たなくとも日本人だけで
差閊はないというようになったのだ。日本人のこの得意と慢心とが四十年の
後今日の失敗を招いたのではあるまいか。それはともかく、今日より以後近き将来において、吾々は再び内地雑居の頃に似たような時勢の光景に接するのであろう。すばらしい最新式の自動車を走らせるものはこれ洋客。国内形勝の地に
宏壮な
楼閣を築いて
夜宴を張るものはまたこれ洋客といったような光景を見るのであろう。むかし市中の寄席に英人ブラックの講談が毎夜聴衆をよろこばしたことがあった。倫理学者デニング先生の講義は
江戸児流の
巻舌と滞りなき日本語とによって聴客を驚かせた。これから先の世の中にもそれに似たような事が続々として現われずにはいないであろう。
(昭和廿一年四月廿五日稿)
〔一九五四(昭和二九)年二月『裸体』〕