枯葉の記

永井荷風




     ○
おのれにもきた姿や破芭蕉やればしょう
 香以山人の句である。江戸の富豪細木香以さいきこういが老に至って家を失い木更津にかくれすんだ時の句である。辞世の作だとも言伝えられている。
 ある日わたくしは台処だいどころの流しで一人米をとぎながら、ふとなかばあけてあった窓の外を見た時、破垣の上に隣の庭の無花果いちじくが枯葉をつけた枝をさし伸しているのを見て、何というきたならしい枯葉だろう。と思った。枯葉の中にあんなきたならしいのがあるだろうかと思うにつけて、ふと香以の句が胸に浮んだのである。しなびて散りもせぬ無花果の枯葉は全くきたならしい。
 時節は十一月のはじめ、小春の日かげに八ツ手の花はきらきらと輝き木斛もっこくの葉は光沢つやを増しかえでは霜にそまり、散るべき木の葉はもう大抵ちってしまった後である。しかるに無花果の葉はしおれながらに黄みもせず薄い緑のせ果てた色さえ残しながら、濡れた紙屑の捨てられたように枯枝のところどころにへばり付いている。洗いざらしのぼろきれよりもなおきたならしい。この姿にくらべると、大きな芭蕉の葉のずたずたに裂かれながらも、だらりと、ゆるやかに垂れさがった形には泰然自若たいぜんじじゃくとした態度が見える。悲壮な覚悟があるように見える。世に豪奢ごうしゃを誇った香以が、晩年落魄らくはくの感慨を托するに破芭蕉やればしょうえらんだのははなはだ妙である。わたくしはその着眼の奇警きけいにして、その比喩の巧妙なるに驚かねばならない。その調しらべの豪放なることは杜樊川とはんせんを思わしめる。
 わたくしもすでに久しくおのれの生涯には飽果あきはてている。日々の感懐かんかいにはあるいは香以のそれに似たものがあるかも知れない。しかしわたくしには破芭蕉やればしょうの大きくゆるやかに自滅の覚悟を暗示するような態度は、まだなかなか学ばれていそうにも思われない。ぼろきれよりも汚ならしい見じめな無花果いちじくの枯葉がわたくしには身分相応であろう。
 わたくしは南京米なんきんまいをごしごしとぎながら、無花果の枯葉を眺め、飽き果てし身に似たりけり……と口ずさんだが、後の五字に行詰ゆきづまってそのまましてしまった。
     ○
 赤坂氷川ひかわ神社の樹木の茂った崖下に寺がある。墓地に六文銭の紋章を刻んだ大名の墓がいくつも倒れている寺である。
 本堂の前の庭に大きな芭蕉の、きばんだ葉の垂れさがった下に白い野菊の花が咲きみだれ、真赤な※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)はげいとうが四五本、あやうげに立っていた。ある年のある日に試みた散歩の所見である。
※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)頭に何を悟らむ寺の庭
     ○
 枯葉のことを思うと、冬枯した蘆荻ろてきの果てしなく、目のとどくかぎり立ちつづいた、寂しい河の景色が目に浮んでくる。
 かねふちのあたりであった。冬空のさむに暮れかかる放水路のつつみを、ひとりとぼとぼ俯向うつむきがちに歩いていた時であった。枯蘆かれあしの中の水溜りに、よいの明星がぽつりと浮いているのを見て、覚えず歩みを止め、夜と共にその光のいよいよ冴えてくるのを何とも知れず眺めていたことがあった。何年前の事であったやら。今思返して、その年の日誌をくり開いて見ると、詩のようなものが書いてある。
蘆の枯葉蘆の枯茎
蘆の枯穂ももろともに
そよげる中の水たまり
短き日あし傾きて
早や立ちこむる夕霞ゆうがすみ
遠きながめのけぶれるに
水のたまりに黄昏たそがれ
名残なごりの空のたゞよへる
鏡のおもに星一ツ
宵の明星ただ一ツ
影あざやかに輝きぬ。

風さつとたもとを吹く時
見渡す枯蘆にわかにさわぎ
眠りし小鳥も飛立つに
よどみし水に明星の
影は動かず冴え行きぬ。
さびしさ悲しささわがしさ
その底に一つ動かぬ星の影。
わかき人はのぞみの光
平和の光と見もやせむ。
されどわれすでに幾たびか
まどはしの影を追ひけん。
今われ望みを抱かざれば
また幻のかげを見ず。

吹け、吹けよ、夕風。
蘆の枯葉枯茎枯穂を吹け。
枯れしもの色なきもの
死せしもの皆一さいに
驚きさわぐ響にまぎれ
われはひとり泣かむとす。
暮れ行く河原の
冷き石の上に。
     ○
 はすの葉の枯れたのは日本画家の好んで描くところである。水の中に倒れて、その葉もすでに朽ち、折れた茎の乱れ立つ中に空になった蓮の実のところどころに残っている形には枯淡こたんの趣が味い得られるからであろう。冬枯の不忍池しのばずのいけを思う時、わたくしは鴎外先生が小説がんの末節に用いられた叙景じょけいの筆法を想い起さねばならない。文例はここにかかげない。読者よろしくその書についてこれを見よ。
     ○
 古本を買ったり、虫干をしたりする時、本の間に銀杏いちょうや朝顔の葉のはさんだままに枯れているのを見ることがある。いかなる人がいかなる時、蔵書を愛するの余りになしたことか。その人は世を去り、その書は転々として知らぬ人の手より、またさらに知らぬ世の、知らぬ人の手に渡って行く。紙魚しみを防ぐ銀杏の葉、朝顔の葉は枯れ干されて、紙魚と共に紙よりも軽く、窓の風にひるがえって行くところを知らない。
〔一九四六(昭和二一)年九月『来訪者』]




底本:「21世紀の日本人へ 永井荷風」晶文社
   1999(平成11)年1月30日初版
底本の親本:「荷風全集 第十七卷」岩波書店
   1964(昭和39)年7月13日第1刷発行
初出:「不易 第八卷第一號」
   1944(昭和19)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:入江幹夫
校正:noriko saito
2022年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード