亜米利加の思出

永井荷風




 皆様も御存じの通り私は若い時亜米利加アメリカに居たことはありますが、何しろ幾十年もむかしの事ですから、その時分の話をしてみたところで、今の世には何の用にもなりますまい。米国がいかほど自由民主の国だからと云ってその国に行って見れば義憤に堪えないことは随分ありました。社会の動勢は輿論よろんによって決定される事になって居ますが、その輿論には婦人の意見も加っているのですから大抵平凡浅薄で我々には堪えられなかった事も少くはありませんでした。ストラウスの楽劇サロメが演奏間際まぎわになって突然米国風の輿論のために禁止となった事などはその一例でしょう。ラフカジオ、ハーン(小泉八雲)が黒人の女を愛したようなことから世に容れられなくなった事なども所謂いわゆる米国風輿論の犠牲と見るべきものでしょう。露西亜ロシヤのゴルキイが本国を亡命して紐育ニューヨークに行ったことがあるが矢張輿論のために長くその地にとどまることができなかったような事がありました。しかし目下日本の情勢では亜米利加人の欠点を指摘することはできませんからそのいい方面を思出してお話をしましょう。

 私は一年ほど市俄古シカゴから汽車で四時間ばかりかかる田舎の町のカレッジで勉強して居た事があります。学年試験の時、生徒は答案を書いて居る間随時に教室の外へ出て休息しても差閊さしつかえがない事になって居ました。しかし外へ出ても互に話をしたり運動をしたりしても、決して試験問題の答案の事には触れません。しようと思えば内証でいくらでもずるい事は出来るのですが誰一人そんな事をする者は居ませんでした。自分で学力が不十分だと思えば自分から一年元級に居残る事を請願する者も居ました。試験勉強という事はその時分の米国の学生には決して見られない事でした。学校外の生活にも感心すべき事が多かったのです。煙草を喫するものはありましたが在学中酒を飲む者はありませんでした。もっとも私の見たのは今申す通り人口わずか二万人位の田舎に在る専門学校の事で、繁華な都会の有名な大学の事は知りません。米国生活の好き方面を見ようとすれば都会を去って地方の小都市へ行かなければならない。これは米国のみには限りません。仏蘭西フランスは淫奔奢侈の国のように思う人もあるがそれは巴里パリの一面を覗いただけの旅行者の言う事で、純粋なる仏蘭西人の家庭または地方の生活を見ればそうでない事はすぐに分る話です。
 米国の田舎に住んで居る人は、それほど都会の生活にあこがれて居ません。殊に専門学校の教師などしている人はその地位と職業とを終焉のものと考え、喜んで一生をその道に投じているという風があります。教師の椅子を踏み台にして立身出世をしようとあせるような風がないのです。また生徒の気受けをよくしようと思って殊更に奇論を吐いたり新しがって見せたりするような風もありません。私の居た時分、米国の田舎、地方の小邑は実に理想的な健全な処のように思われました。こう云う田舎の町を散歩するとささやかな住宅の周囲にはどこにも垣根がなく、菜園や花壇などが車の通る道路に面した処につくられて居ますが、花を手折たおったり果物を盗んだりする者はありません。暮方近い夕靄ゆうもやの立ちこめる道の上を年老いた郵便配達夫のパイプをくわえながら歩いて行くのが、いかにも呑気に見られたものでした。郵便物をポストに入れる場合に、大きな雑誌や何か、はこの口に差入れられない物は、そのまま函の下の道端に置いて行っても、盗まれるおそれが無いのでした。これも田舎の町の美風とでも言うのでしょう。かく米国は不思議な処で白日汽車や銀行を襲うギャングもあれば、道に落ちた物も人の拾わないと云うような古風な風俗も見られたのです。
 紐育市俄古あたり繁華な都会でも、普通の人の生活は決して奢侈贅沢と云う程の事は有りません。むしろ質素で毎日ほとんど同じ料理を食べて居るようでした。その頃私の見たところでは、一般に米国の女は料理が下手でもあり、またそれほどうまいものを食べようと云う心持がないようでした。これは仏蘭西やまた日本の明治時代の家庭に比較しての話です。米国では一般に野菜も魚も果実も日常の食事にその種類が少ないので、自然にそうなるのかも知れません。それを思うと仏蘭西の家庭や、また日本では明治時代の東京には甘いものが豊富にあったものでした。それは気候と風土の恵みでしょう。
 私は五年ほど米国に居たのですが、食べる物で記憶に残るほどの物は殆ど無いと云ってもよいでしょう。ミシガン州のある田舎の町に居た時、農家で、林檎を樽漬にして飴のようにしたものを御馳走してくれた事がありました。また、ミゾリ州のこれも田舎の町の酒場で、林檎から醸造した酒を飲んだ事があります。それからペンシルバニヤ州の田舎の下宿屋で晩食の菜に毎日甘藷のふかしたのを食べた事があります。日本産の薩摩芋よりもずっと甘く栗よりもいい位だったのは今に忘れられません。林檎もミシガン州あたりの寒国のものは雨の多い日本の果実よりも身がしまって居てにおいがよいのです。魚はタコマで折々海へ釣りに行ったり、また大西洋岸のものも口にした事がありますが皆大味おおあじで、日本近海の肴のような美味うまいものはありません。川魚は一度も口にした事がありませんでした。
 私はシャトウブリアンの小説ルネエを読んで北米南部の深林に異様なる憧憬の心を持ち、何とかしてその地方へ行きたいと思って居たのですが、遂にその機会を得なかったのは遺憾でした。米国の生活の真に愉快なのは、南端フロリダまで行かなければ見られないのだと、私に語ってくれた米人もありました。
 紐育市中の騒々しくいそがしい生活の中で、私の記憶している事は町のところどころにカーネギイの図書館があって、市民の証明書があればすぐ誰にも貸出しをしてくれる事です。仏蘭西の文芸書類も一通ひととおりは揃って居ました。私がツルゲネフの仏訳「猟人日記」を始めて読んだのは確か第六通の仏人の家に間借りをして居た時でした。今度日本でも婦人が参政権を得るようになったそうですが、日本の生活の日常に起る事が米国のように簡素になるのは何時いつの事でしょうか。図書館の書物が貸出しをして無事に返って来るようになるまでには相応の年月を要する事でしょう。私は今まで東京の町の古本屋で時々学校の蔵書印の押してある書籍を見た事もある位です。こう云う事を防ぐためには証明書が幾枚もいるような、面倒な手続を必要とするらしいのです。何をするにも日本では署名と捺印なついんが必要です。隣組から食料の配給をして貰うにも認印の入用いりようなのが日本現代の生活の特徴ですが、米国では預金を銀行から引出すにも署名だけで別に印鑑はいりません。日米生活の相違は印鑑の用不用の相違で万事が想像されます。今は米国の風習をほめて置きさえすればよい時代になったのですから、こんな事を云い始めたら限りがありますまい。紐育は岩の上に建てられた町ですが、東京の市街の半分は泥海どろうみが土地になった処に建てられて居るのです。ここにも何かの相違があります。
 私は兎に角前以まえもって申上げたように欧洲第一次大戦の起らない以前に西洋の世の中を見て来た老人です。今日世界の気運の那辺に向いつつあるかはもう私には分らなくなっています。私はただ一日も早く外国の新刊書が戦争以前のように丸善や三越の店頭に陳列せられる日の来らんを待って居ます。文化の中心から遠く隔絶している私達に取って、外国の文学は無くてはならない心のかてです。日本にもルネ・バザンの「優美なる仏蘭西」Douce France と云ったような真正な愛国の文学の現われ出でん事を切望して止みません。戦争中、私は不幸にして一たびも人心を奮起させるような愛国の文章に接する事を得ませんでした。街頭のポスターには種々様々な激語がしるされて居ましたが、これを例えれば「もう一押しだ。我慢しろ。南進だ。南進だ。」と云うようなものばかりで、これは寧ろ日本語の段々に洗練を失い、はなはだしく野卑粗暴になった事を痛歎せしめるに過ぎなかったのです。いずこの国に限らず、国民は祖先伝来の言語を愛護し、それを丁重に使用しなければならない責任があります。いかなる物でも放擲ほうてきして時勢の赴くままにして置けば破壊されてしまいます。絶えずこれを矯正したり訓練したりして行かねばなりません。言語と文章との崩れて行くのを矯正して行くのが文学者の任務でしょう。鴎外先生の審美綱領の中「美の世間位」と云うところに、
「国家及自治団体は、芸術を補助すべき責あり。所以者何ゆえんはなにといふに、諸芸術はこれを自由競争に一任するとき、その趣味の卑陋ひろうに陥ることを免れざればなり。今の諸国の上流社会は、資産あるものと教育あるものと相分れたり。資産あるものは、芸術を補助すべき能ありて、芸術を賞鑒しょうかんすべき能なく、教育あるものはこれに反す。これ個人に芸術を補助するに堪へたるものなきなり。このゆえし国家にして、現時の如くその資産を兵備に用ゐ尽して、また芸術を顧みざるときは、芸術は全く衰微しおわるに至らむ。芸術を補助するには二の方便あり。一は直ちに製作を助くるものにして、一は教育上多数の人をして芸術の美を享けしめむとするものなり。この補助の財源は租税に仰ぐより外なし。」云々。
 私は本年三月初に東京の住家を失い、備中岡山の町端れに避難をして居ました。平和の世になってもまだ一度も東京へ行った事がありませんから、むかしの友達にもそれなり再会する機会もなく、世の変遷については多く知るところが有りません。それ故従って目下の社会情勢に適応した事を云々する資格もない訳です。平素思っている事を秩序なく弁じ出して当面のせめふたぐというに過ぎないのです。
(昭和廿年十二月新生所載)





底本:「問はずがたり・吾妻橋 他十六篇」岩波文庫、岩波書店
   2019(令和元)年8月20日第1刷発行
底本の親本:「荷風全集 第十九巻」岩波書店
   1994(平成6)年11月28日第1刷発行
   2010(平成22)年10月26日第2刷発行
初出:「新生 第一巻第二号」新生社
   1945(昭和20)年12月1日発行
入力:入江幹夫
校正:noriko saito
2021年10月27日作成
2022年2月11日修正
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