或夜

永井荷風




 季子すえこは省線市川駅の待合所に入って腰掛に腰をかけた。しかし東京へも、どこへも、行こうというわけではない。公園のベンチや路傍の石にでも腰をかけるのと同じように、ただぼんやりと、しばらくの間腰をかけていようというのである。
 改札口の高い壁の上に装置してある時計には故障と書いた貼紙がしてあるので、時間はわからないが、出入の人の混雑も日の暮ほど烈しくはないので、夜もかれこれ八時前後にはなったであろう。札売る窓の前に行列をする人数も次第に少く、入口のそばの売店に並べられてあった夕刊新聞ももう売切れてしまったらしく、おかみさんは残りの品物をハタキではたきながら店を片付けている。向側の腰掛には作業服をきた男が一人荷物を枕に前後を知らず仰向けになって眠っている。そこから折曲った壁に添うて改札口に近い腰掛には制帽の学生らしい男が雑誌をよみ、買出しの荷を背負ったまま婆さんが二人煙草をのんでいる外には、季子と並んでモンペをはいた色白の人妻と、膝の上に買物袋を載せた洋装の娘が赤い鼻緒の下駄をぬいだりはいたりして、足をぶらぶらさせているばかりである。
 色の白い奥様は改札口から人崩ひとなだれの溢れ出る度毎たびごとに、首を伸し浮腰になって歩み過る人に気をつけている中、やがて折革包を手にした背広に中折帽の男を見つけて、呼掛けながら馳出し、出口の外で追いついたらしい。
 季子は今夜初てここに来たのではない。この夏、姉の家の厄介になり初めてから折々憂鬱になる時、ふらりと外に出て、蟇口がまぐちに金さえあれば映画館に入ったり、闇市をぶらついて立喰いをしたり、そして省線の駅はこの市川ばかりでなく、一ツ先の元八幡駅の待合所にも入って休むことがあった。その度々、別に気をつけて見るわけでもないが、この辺の町には新婚の人が多いせいでもあるのか、夕方から夜にかけて、勤先から帰って来る夫を出迎える奥様。また女の帰って来るのを待合す男の多いことにも心づいていた。季子はもう十七になっているが、しかし恋愛の経験は一度もした事がないので、さほど羨しいともいやらしいとも思ったことはない。ただ腰をかけている間、あたりには何一ツ見るものがない為、遣場やりばのない眼をそう云う人達の方へ向けるというまでの事で、心の中では現在世話になっている姉の家のことしか考えていない。姉の家にはいたくない。どこか外に身を置くところはないものかと、さし当り目当めあてのつかない事ばかり考えつづけているのである。
 この前来た時には短いスカートからむき出しの両足を随分蚊に刺されたが、今はその蚊もいなくなった。二人づれで涼みに来たり、子供を遊ばせに来る女もいたが今はそれも見えない。時候はいつか秋になり、その秋の夜も大分露けくなった。と思うと、ますます現在の家にいるのがいやでいやでたまらない気がして来る……。
 季子は三人姉妹きょうだいの中での季娘で、二人の姉がそれぞれ結婚してしまった後、母と二人埼玉県のある町に疎開していたが、この春母が病死して、差当り行く処がないので、この町の銀行で課長をしている人に片付いた一番年上の姉のもとに引取られたのだ。姉には三ツになる男の子がある。義兄あには年の頃四十近く、職務のつかれよりも上役の機嫌と同僚の気受を窺う気づかれに精力を消耗してしまったように見える有りふれた俸給生活者。姉も同じく、配給所の前に立並ぶ女達の中には少くとも五、六人は似た顔立を見るような奥さんである。ヒステリックでもなく、と云って、さほど野呂間のろまにも見えず華美はで好きでも吝嗇りんしょくでもない。掃除好きでもない代り、また決して無性でもない。洗濯も怠らず針仕事や編物も嫌いではないと云うような奥さんである。毎日きまった時間に夫が帰って来ると、新聞で見知った世間の出来事、配給物のはなし、子供の健康――日々きまった同じ話を繰返しながら、いつまでも晩飯の茶ぶ台を離れず、ラジオの落語に夫婦二人とも大声で笑ったり、長唄や流行歌をいかにも感に堪えたように聞きすます。そのうち台所で鼠のあれる音に気がついて、茶ぶ台を片づけるのが、その日の生活の終りである。
 そういう家庭であるから、季子はそれほど居づらく思うわけの無い事は、自分ながらく承知しているのだ。自分の方から進んで手伝う時の外、洗いものも掃除も姉から言いつけられたことはない。兄はまた初めから何に限らず小言がましく聞えるような忠告はした事がなく、郵便を出させにやる事も滅多にない。日曜日に子供も一緒に夫婦連立って買物方々かたがた出歩こうと云う折など、「季ちゃん。一緒に行くかね。」と誘うこともあるが、是非にと云う程の様子は見せず、そうかと云って留守をたのむとも言わない。季子はおのずと家に居残るようになると、かえって元気づき、声を張り上げて流行唄を歌いながら、洗濯をしたり、台所の物を片づけたりした後、戸棚をあけて食残りの物を皿まで嘗めてしまったり、配給の薩摩芋をふかして色気なくむさぼくらう。またぼんやり勝手口へ出て垣根の杭に寄りかかりながら晴れた日の空や日かげを見詰めている事もあった。
 季子はどうして姉の家にいるのがいやなのか、自分ながらその心持がわからなかったのであるが、日数ひかずのたつに従い、しずかに考えて見ると、姉の家が居づらいのではなくて、それは別の事から起って来る感情の為である事に心づいて来た。自分はさし当りここより外に身を置く処がない事を意識するのが、情けなくていやなのである。自分にはここばかりでなく、外に行く処はいくらもあるが、好んでこの家に来ていると云うようにもしも思いなす事ができたなら、自分は決していやだとも居辛いづらいとも、そんな妙な心持にはならなかったであろう。しかし実際は全くそれとは相違して、ここより外に行きどころのない身である事は明瞭である。そう思うと心細く悲しくなると同時に、何も彼もしゃくにさわって腹が立って来てたまらなくなるのである。
 どんな職業でもかまわない。季子は女中でも子守でも、車掌や札切でもいいから、どこにか雇われたいと思っているが、それは姉夫婦が許してくれそうにも思われない。人に聞かれても外聞の悪くないような会社や役所の事務員には、疎開や何かの為高等女学校は中途で止してしまったままなので、採用される資格が無い……。
 ふと思い返すと、市川の姉の家へ引取られて、わずか四、五日にしかならない頃であった。一番上の姉よりもずッといい処へ片付いている二番目の姉が鎌倉の屋敷から何かの用事で尋ねて来た時、話のついでにこの頃は復員でお嫁さんを捜しているものが多いから、季子も十七なら、いっそ今の中結婚させてしまった方がいいかも知れないと言っていたのを、かげでちらりと聞いたことがあった。
 その当座、季子は落ちつかないわくわくした心持で、茶ぶ台に坐るたびたび姉や兄の様子ばかり気にしていたが、その話は今だに二人の口からは言出されない。季子は自分の方から切出して見ようかと思ったこともあるが、気まりが悪いまま、それもいつか、それなりに、季子は日のたつと共に自分の方でも忘れるともなく忘れてしまった。

 見廻すと、あたりはいつのにか大分静になっている。荷物を枕にぐうぐう眠っていた職工もどこへか行ってしまい、下駄をはいたりぬいだり足をぶらぶらさせていた娘の立去ったあとには、子供をおぶった女が腰をかけて居眠りをしている。
 その時季子は烟草の匂につれてそのけむりが横顔に流れかかるのに心づき、何心なく見返ると、
「京成電車の駅は遠いんでしょうか。」ときくものがある。
 いつの間にか自分の隣りに、背広に鳥打帽を冠った年は二十四、五、子供らしい面立おもだちの残っている一人の男が腰をかけていた。しかし季子は自分に話しかけたのではないと思って、黙っていると、
「京成の市川駅へはどっちへ行ったらいいんでしょう。」
 季子はスマートな様子に似ず妙な事をきく人だと思いながら、
「京成電車にはそんな駅はありません。」
「そうですか。市川駅は省線ばかりなんですか。」
「ええ。」と云って息を引く拍子に、季子は烟草の烟を吸込んでむせようとした。
「失礼。失礼。」と男は手を挙げて烟を払いながら立上り、出口から見える闇市のを眺めていたが、そのまま振返りもせずに出て行った。
 列車の響と共に汽笛の声がして、上りと下りの電車が前後して着いたらしく、改札口は駈け込む人と、押合いながら出て来る人とでにわかに混雑し初めたが、それも嵐の過ぎ去るようにたちまちもとの静けさに立返る。
 季子は声まで出して思うさま大きな欠伸あくびをしつづけたが、こんな処にはもう我慢してもいられないとでも云うように、腰掛を立ち、来た時のようにぶらりぶらりと夜店の灯の見える方へと歩き初めた。
 夜店の女達は立止ったり通り過ぎたりする人を呼びかけて、
「甘い羊羹ですよ。甘いんですよ。」
「あん麺麭ぱんはいかがです。」
「もうおしまいだ。安くまけますよ。」
 道の曲角まで来ると先程駅の事をきいた鳥打帽の青年が電信柱のところに立っていて、季子の姿を見とめ、
「もうお帰りですか。」
 季子は知らないふりもしていられず、ちょっと笑顔を見せて、そのまま歩き過ると、男も少し離れて同じ方向へと歩き初める。
 江戸川堤から八幡中山を経て遠く船橋辺までつづく国道である。立並ぶ商店と映画館の燈火にあかるく照らされた道の両側には、ところどころ小屋掛をしたおでん屋汁粉屋焼鳥屋などが出ていて、夜風に暖簾のれんひるがえしている。
「お汁粉一杯飲んで行きましょうよ。」
 男はつと立止って、さアと言わぬばかり、季子の顔を見詰めながら、一人さきへ入ったが、腰掛にはつかず立ったまま、季子の入るのを待っている様子に、そのまま行ってもしまわれず、季子はもじもじしながらそのそばに腰をかけた。
 一杯目の汁粉を飲み終らぬ中、「もう一杯いいでしょう。割合に甘い。」と男は二杯目を註文した。
 季子は初めから何とも言わず、わざと子供らしく、勧められるがまま、二杯目の茶碗を取上げたが、その時には大分気も落ちついて来て、まともに男の顔や様子をも見られるようになった。それと共に、こうした場合の男の心持、と云うよりは男の目的の何であるかも、今は容易たやすく推察することが出来るような気がして来た。二人はもとより知らない人同士である。これなり別れてしまえば、互に家もわからず名前も知られる気づかいがない。何をしても、何をされても、後になって困るような事の起ろう筈がない間柄である。そう思うと年頃の娘の異性に対する好奇心のみならず、季子は監督者なる姉夫婦に対して、その人達の知らない中に、そっと自分勝手に大胆な冒険をあえてすると云う、一種痛快な気味のいい心持の伴い起るのを知った。
 汁粉屋を出てから、また黙って歩いて行くと、商店の燈火は次第に少く、両側には茅葺の屋根やら生垣やらが続き初め、道の行手のみならず、人家の間からも茂った松の木立こだちの空に聳えるのが、星の光と共に物淋しく見えはじめる。走り過るトラックの灯に、真直まっすぐな国道の行手までが遥に照し出されるたびたび、荷車や人の往来ゆききも一歩一歩途絶えちになることが能く見定められる。
 鳥打帽の男は黙ってついて来る。季子は汁粉屋にいた時の大胆不敵な覚悟に似ず、俄に歩調を早め、やがて道端のポストを目当に、逃るようにとある小径こみちへ曲ろうとした。男はぐっと身近に寄り添って来て、
「お宅はこの横町……。」
「ええ。」と季子は答えた。しかし季子の家は横町を行尽して、京成電車の踏切を越し、それからまだ大分歩かなければならないのだ。
 小径の両側には生垣や竹垣がつづいていて、国道よりも一層さびしく人は一人も通らないが、門柱の電燈や、窓から漏れる人家の灯影ほかげしんの闇にはなっていない。季子の呼吸は歩調と共に大分せわしくなっている。男はどこまで自分の後をつけて来るのだろう。線路を越した向の松原――時々この辺では一番物騒な噂のある松原まで行くのを待っているのではなかろうか。いっそ今の中、手出しをしてくれればいいのにと云うような気がして来ないでもない。
 季子が男の暴力を想像して、恐怖を交えた好奇のおもいに駆られ初めたのは、母と共に熊ヶ谷に疎開していた頃からのことで、戦後物騒な世間の噂を聞くたびたび、まさかの場合を、或時はいろいろに空想して見ることもあった。この空想は鎌倉の姉が来て結婚のはなしを匂わせてからいよいよ烈しくなり、深夜奥の間で姉夫婦がひそひそはなしをしているのにふと目を覚す時など、翌朝まで寐付かれぬ程その身を苦しめる事があった。
 突然季子は垣際に立っている松の木の根につまずき、よろけるその身を覚えず男に投掛けた。男は両手に女の身を支えながら、別に抱締るでもなく、女が身体の中心を取返すのを待ち、
「どうかしました。」
「いいえ。大丈夫よ。あなたも此辺なの。」
「僕。八幡の、会社の寮にいるんです。今夜駅でランデブーするつもりだったんです。失敗しました。」
「あら。そう。」
「あなたも誰かとお約束があったんでしょう。そうじゃありませんか。」
 生垣が尽きて片側は広い畠になっているらしく、遥か向うの松林の間から此方へ走って来る電車の灯が見えた。
 季子はあたりのこの淋しさと暗さとに乗じて、男が手をくだし初めるのはきっと此辺にちがいはない。いよいよ日頃の妄想の実現される時が来たのだと思うと、たちまち身体中が顫出ふるえだし、歩けばまた転びそうな気がして、一足も先へは踏み出されなくなった。畠の縁に茂った草が柔くくすぐるように足の指にさわる。季子は突然そこへ蹲踞しゃがんでしまった。
 季子は男の腕が矢庭に自分の身体を突倒すものとばかり思込んで、蹲踞むと共に眼をつぶって両手に顔をかくした。
 電車は松林の外を通り過ぎてしまった。けれども自分の身体には何も触るものがない。手を放し顔をあげて見ると、男は初め自分が草の上に蹲踞んだのに心づかず、二、三歩行き過ぎてから気がついたらしく、少し離れた処に立っていて、
「田舎道はいいですね。僕も失礼。」と笑を含む声と共に、草の中に水を流す音をさせ始めた。男は季子の蹲踞んだのは同じような用をたすためだと思ったらしい。
 季子は立上るやいなや、失望と恥しさと、腹立しさとに、覚えず、「左様なら。」と鋭く言捨て、もと来た小径の方へと走り去った。
 やがて未練みれんらしく立留って見たが、男の追掛けて来る様子はない。先程つまずいた松の木の梢にふくろうか何かの鳴く声がしている。
 季子はしょんぼりと一人家へかえった。
(昭和廿一年十月草)





底本:「問はずがたり・吾妻橋 他十六篇」岩波文庫、岩波書店
   2019(令和元)年8月20日第1刷発行
底本の親本:「荷風全集 第十九巻」岩波書店
   1994(平成6)年11月28日第1刷発行
   2010(平成22)年10月26日第2刷発行
初出:「勲章」扶桑書房
   1947(昭和22)年5月10日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:入江幹夫
校正:noriko saito
2021年12月27日作成
2022年2月11日修正
青空文庫作成ファイル:
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