終戦後間もなく組織されたB劇団に、踊りもするし、歌もうたうし、芝居もするというような種類の女優が五、六人いた。
その中の二人は他の三、四人よりも年が上で、いずれも二十五、六。前々からきまった男を持っていた。一人は年も四十を越した一座の興行師の妾で、三ツになる子供がある。他の一人は銀座の
一座は浅草公園を打上げた後、近県の町々を一めぐり興行して東京にかえり新宿の或映画館で
酉の市に売れ残る熊手のお亀が、早く売れるものより出来がわるいと、定った訳はない。それと同じように、千代子が三人の中で一番おくれて男を知り
或日、楽屋の風呂場で、興行師の妾になっている一番年上の女が、「千代ちゃん。まだ誰も好きな人できない。」とからかった。
千代子は洋服の
「そうか知ら。捜しようがわるいんだろう。」
「でも
しかし千代子は何となく心淋しい気がしないのでもなかった。急に雨が降って来たりする帰り道、男が持っているその傘をさしかけて、女の家まで送ってやったりするのを見たり聞いたりする時など、自分もそういう親切な目に遇って見たいような気になることもあった。
する
或日次の興行の稽古に取りかかった時、いつもならば亀子が得意でするフラッパーな娘の役割が千代子に振替えられた。
序幕は月のいい晩に、男女の学生が公園のベンチで会合する場面。男の学生に扮した役者は他の劇団から転じて今度
三日目の舞台に、山室はベンチの上で力まかせにぐっと千代子の身を抱きすくめ、その
一座はその時丸の内で興行していた。千代子はその帰道が同じなので、田中と云う三枚目の役者を恋人にしている仲間の蝶子といつも連立って、地下鉄から浅草で東武線に乗りかえ、牛田という停車場から更に京成電車に乗りかえて高砂の駅で降りる。その道々千代子はいつも居眠りしかける蝶子を呼び起しては、うるさい程山室の話をするのであった。
「じゃ、あんた、まだだったの。わたし、もうとうに、そうだと思ってたわ。」或夜蝶子は驚いたような調子で笑った。
「だって、
「あんた。真実山室さん好きなの。」
「好きだわ、わたし。だけれど女の方からそんな事言い出せないわ。断られると気まりがわりいもの。」
「大抵様子でわかるじゃないの。断るか、断らないか……。」
「蝶子さん、あんたの場合、どうだったの。どっちが先に言出したの。」
「どっちッて。わたしも彼氏も、どっちからも、何とも言やしなかったわ。」
「じゃ警報なしに。突発したのね。すごいわね。」
「何さ。だから大概様子でわかるって言ったじゃないの。時機があるのよ。チャンスが必要なのよ。」
そう言われてから、千代子は毎日その話をする機会を窺っていた。その話というのは山室が結婚の約束をしてくれるか、どうかという事なのである。しかし楽屋の部屋も、外の喫茶店も人目の多いことには変りがなく、改ってしんみりした話をするにはその場所が見つからなかった。帰道にでも二人つれ立って歩きでもしたらと思うのであるが、あいにく山室は大詰の幕にはほんの一寸舞台へ出るばかり。千代子が幕切まで居残って、それから部屋に戻り化粧をおとしたり、着物をきかえたりして、道づれの蝶子と外へ出る時には、山室の姿はもう見えない。
或日千代子は思切って、
「山室さん。あなた、帰りいそぐのね。
「鎌倉から通うんだもの。東京にゃ泊れるところがないんだよ。千代子さんとこ、泊れると助かるんだ。」
無論冗談だとは知りながら、千代子は家には両親をはじめ男の兄弟もいるので、即座には何とも返事ができなかった。
する中、蝶子が病気で休んだことがあった。千代子は帰りの道づれがないのを幸、今夜こそ山室を引止め一緒に駅まででもいいから歩きながら話をしようと思い定めた、ところがその時になると、蝶子の
女達の間には一時忘れられていた編物がまた流行り出して、姉さん株の女優の一人はこの間から子供の足袋を編み始めていた。千代子は郵便貯金まで引出して鼠色霜降の糸を買い、往復の電車の中は勿論、舞台裏で「
いつかその興行も千秋楽になる日が近づいて来た。来月はまた浅草公園へ戻るという話がきまって、
初日になるという前の日、千代子は蝶子とその男の田中と三人して仲店を歩いていた時、
千代子は何の
「もうたしかに出来てるね。あの二人は。」と自分の女を
「とうのむかしからよ。二人とも早いんじゃ有名な人達だもの。」これが女の返事で、会話はそれなり途切れて
しかし千代子はこの短い会話の断片をきいただけで、
千代子は今日も毛糸の編物を
新しい狂言は闇市で汁粉を売る姉と、菓子を売る妹とが、一人の男の奪合いをするような筋で、妹に扮する千代子の失恋する場面がある。初日の舞台で、この度も千代子の役が第一の
山室は相変らず女優達の部屋へ遊びに来て、楽屋外の喫茶店へ千代子をさそった。千代子も以前と変らず、いそいそして出て行くものの、話は楽屋の部屋でするのと同じく、誰にきかれても
編物は再び千代子の手には取上げられなかった。鏡台を並べた仲間の女達が、「スェータどうして。もう出来たの。」ときくと千代子は事もなげに、「肩が凝るから当分おやめよ。」と言捨てて読みかけの小説から目をそらさなかった。
毎晩道づれになる蝶子は浅草小島町辺に二階をめっけたと言って、青砥の疎開先から引移った。演出家の女房になった亀子のお腹はいよいよ大きく張出して、
或夜楽屋を出ると雨が降って来そうな空合である。千代子はいつもよりまた一層急いで、浅草東武線の駅の階段を
千代子はお前とは役者の貫禄がちがうと言わぬばかり、姉が弟に対するような調子で、
「ねえ、
増田はわざとらしく頭を掻いて、「かッぱらうのも一仕事ですぜ。親父に目っかろうものなら、どやされるよ。」
「いいじゃないの。わたしが頼むんだもの。」
「ええ、いいです。千代子さんのお頼みなら仕様がないや。」
「その代り
「どうかお願いします。」
千代子は電車で増田と乗合すのは今夜が初てではない。彼は高砂町から一ツ先の小岩まで乗って行くべき筈なのを、その夜にかぎって千代子の降りる時一緒におりた。千代子は変だと思って、
「どこへ行くの。
「歩きます。歩きたいんですよ。」
「降って来るわよ。こんな真暗な晩……。」
「歩きます。僕歩きます。」
「イヤよ。そんな三枚目。受けやしないわ。」
「どうせそうです。僕のする事は受けません。二枚目も三枚目も。僕はとても駄目なんです。」
中川堤に添う真暗な溝川の岸を歩いて行きながら、増田は突然千代子の方に寄添い、初めて見た時から千代子さんが好きで好きでたまらなかった事を打明けた。しかしその時分には山室さんが
千代子は歩いて行く中、人通りのない真暗な夜ではあるが、一歩一歩自分の家が近くなるので、まさかの場合には声を出して逃げ出せばいいと、いくらか度胸をきめて、言いたいだけ男に口をきかせていた。男の声は
「じゃ、左様なら。」とやさしく手を出して握らせる。
「千代子さん。僕のお願いきいて下さい。僕、今夜はおとなしく帰りますから。」
「あら、とうとう降って来たわ。」
「そんな事かまいません。千代子さん、じゃお休みなさい。」
増田は千代子の手に接吻して、よろけながら歩き出そうとした。
「
「いいですよ。いいですよ。漏れてかえります。」
言捨てて男はかなり強く降り出す雨をもかまわず、すぐさま闇の中に姿を消した。その足音の遠くなるのを聞きすましている中、千代子はいつともなく物思わしい様子になった。そして家内の時計が十時を打ち初める音を聞きつけるまで、雨の
次の日から千代子は
スェータは右の片腕だけが出来ていたので、こん度は左の方に取りかかったのだ。千代子は初ての人に逃げられた心の悲しみを、次のものによっていくらか慰め忘れさせることができたので、その礼をする心持で、Aに贈ろうと思った贈物をBに廻そうとしたのである。Bのおどおどして言いたいことも言えないような様子が、Aの利口ぶった隙間のない態度に比べて、いかにも純情らしくまたかわいそうに思われたのである。
左の片腕はその時の興行も
増田は最初の晩のように、千代子の後を追いかけ、真暗な夜道を歩きながら、
いつの
今はもう楽屋中に誰一人スェータを編んでやろうと思うような好きな人はいない。しかし戸棚の奥から編物を取出して見ると、左右の腕はもう出来ている。胴も襟のまわりの面倒なところさえ大方は編み上げられているので、後はほんの一手間で仕上げてしまうことができるのだ。そう思うと、最初この仕事に手をつけさせたその人の事が一層しみじみと懐しく思返されて来る。
前の夜に何やら夢を見て、少し寝過した或日の朝、千代子は道々
山室は来月東京へ帰って来て、他分もう一度千代子の居るB劇団へ加入するだろう。今からそれを楽しみにしているというような嬉しがらせの文句が書いてあった。
千代子は、山室は到底自分と結婚してくれるような純情な男ではないとあきらめながら、そうかと云って、性のわるい色魔にしてしまうほど、悪くも考え得なかった。千代子は誰一人好きな人もなしに、暗記した台詞を繰返すばかり、毎日毎晩を舞台で暮す今の寂しさと退屈さとに比べれば、実現される望はなくとも、せめて舞台の上だけでもいいから、もう一度、顔があつくなったり、呼吸がはずんだりするような目に会いたくて堪らない気がした。
スェータは山室弘再加入の予告が劇場の壁に貼り出されたその翌日、見事に千代子の膝の上に編み上げられた。しかも胸のところに、小さく人目につかぬように、二人のイニシアルが変り色の糸で編込まれていたのである。
(昭和二十二年十月草)