冬日の窓

永井荷風




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 窓の外は隣の家の畠である。
 畠の彼方に、その全景が一目に眺められるような適当の距離に山が聳えている。
 山の一方が低くなって樹木の梢と人家の屋根とにその麓をかくしているあたりから、湖水みずうみのような海が家よりも高く水平線を横たえている。
 これが熱海の町端まちはずれある家の窓から見る風景である。九月の初からわたくしは此処ここに戦後の日を送っている。秋は去り年もまた日に日に残少くなって行こうとしている。
 しかしわたくしのへやにはまだ火鉢もない。けれども窓に倚る手先も更に寒さを感じない。日は眼のとどくかぎり、畠にも山にも空にも海にも、隈なく公平に輝きわたっている。思返すと、空の青さは冬になってから更に濃く更にあかるくなり、山は一層その輪廓を鮮かに、その重なり合う遠近と樹林の深浅とをあきらかにしたように思われる。初め熱海の山は樟と松のみに蔽われているように見られていたが、冬になってから、暗緑の間にちらほら黄ばみを帯びた紅葉の色が見え初め、日に増しその範囲がひろくなるにつれてその色もまたこまやかに染められて行く。
 目近く、窓の外の畠に立っている柿の紅葉は梅や桜と共にすっかり落ち尽し、樺色した榎の梢も大方まばらになるにつれ、前よりもまた一層広々ひろびろと、一面の日当りになった畠の上には、大根と冬菜とが、いかにも風土の恵みを喜ぶがように威勢好くその葉をのばしている。常磐木ときわぎの茂りの並び立つ道の彼方から※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の声がきこえる。
 わたくしは永年住み慣れた東京の家にいた時にも、毎年小春の日光に山吹の花の返咲きするのを見れば、いつも目新しく祖国の風土と気候とに関して、言い知れぬ懐しさと、それに伴う感謝の念を覚えて止まなかった。日本の冬の明さとあたたかさとはおそらくは多島海の牧神をしてここに来り遊ばしむるもなお快き夢を見させる魅力があったであろう。柿の葉は花より赤く蜜柑の熟する畠の日あたりにはどうかすると絶えがちながら今だに蟋蟀こおろぎの鳴いている事さえあるではないか。
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 過去日本の文学は戦闘の舞台として、しばしば伊豆の山と海とをわれわれに紹介している。その事実をわたくしは疑わない。しかし今わたくしが親しく窓から見る風景と、親しく身に感じる気候とは、かくの如き過去の記録をして架空な小説のようにしか思惟させない。それほどまでに、風景はおだやかに気候はやわらかなのだ。わたくしは如何いかなる神秘な伝説をも、(もし在ったなら、)それを信ずるに躊躇しないであろう。美の女神エヌスの海上出現を希臘ギリシャの海から、伊豆の浜辺に移し説くものがあっても、あながちそれを荒唐無稽だとは言わぬであろう。
 わたくしは昭和現在の時勢におもねる心でこれを言うのではない。日本の自然のあらゆる物は子供の時からそういう心持をさせていたのである。わたくしは既に幾度いくたびか、物に触れ時に感ずるたびたび、日本の風景草木鳥獣から感受する哀愁にいて、古来の詩歌文学を例証として、飽くことなくこれを筆にしていた。詩興の源泉をいつもここから汲み取ろうとしていた。萩や桔梗ききょうの花の色と、時鳥ほととぎすや鹿の鳴く声――風土固有の動植物までがいかなる感情を誘い出したかと云う事である。わたくしは今更自分の旧著について云々することを欲しないが、その中に「冷笑」また「父の恩」の如き拙作のあった事を記憶している読者は、容易にわたくしの心境を推察してくれるであろう。
 わたくしがここに繰返して言おうとするのは、その国の気候風土のかくまで穏和なるに反して、何故なにゆえにその歴史が戦乱の断続によって綴り成されているかと云う事である。風土の穏和は何故にその感化を民族の心情におよぼすことが少かったのであろう。わたくしは他の民族との間に起った戦争については、事態の複雑多面なるが故にしばらく言うことを避けよう。わが過去の物語は寺院の僧徒にさえ兵器を携えさせた時代のあった事を教えている。彼等はかねを打ち木魚を叩くよりも薙刀なぎなたを持つことを名誉となした。
 平和は史乗しじょうの生るる以前より一たびも樹立したことがなかったのであろう。闘争は人間生活の常時で、平和はわずかにこれを為さんがための準備期もしくは休憩期間たるの観なきを得ない。「勝利」と云う言葉は、そもそもいずれの時初めて人の口から発せられて文字となる事を得たのであろう。この言語が廃滅してその意を失う時、初て真の平和が見られるものと思わねばなるまい。
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 昨日までわれわれは「平和」を口にすることを堅く禁じられていた。戦って勝とうがためには、「平和」は呪詛と見られていた。戦いに敗れて、人は再び平和を知るに至った。或人は敗衂はいじくの賜物としてこれを迎えた。敗衂なければ平和は遂に来なかったように思われていたからであろう。平和は民族の種の絶え果つる時、つめたい月の光のように枯木としかばねとを照すものと思われていた。
 敗衂はわれわれを救った。敗衂のために救われたわれわれの前途はどうなるだろう。われわれは日々あまりに多くの言論に耳を聾せんとしている。言論の声は爆弾の響に代ったのだ。そして生命の不安は依然として変るところがない。しかるに誰一人、立ってわれわれの前途を指さし示すものはない。その人らしく見えるものは、昨日まで勝たざる「勝利」のためにわれわれを欺き、われわれを死地に陥らしめた悪魔の、衣裳だけを着換えて来たものらしく思われる。
 われわれの耳にする人の声は果してわれわれを救う目標となすに足りるであろうか。昨日は戦いの為めに、今日は翻って平和の為に奔馳する人の呼ぶ声は、おのれを取巻く仲間だけのものを呼集よびあつめて、平和の賜物を壟断しようとするためかも知れない。
 武器の優劣は何人の目にも見える勝敗の原因である。隠れたものは尋ねにくい。日毎にその言論と行動とを取替える人達の情操の如きも、隠れたる勝敗の原因とまた全く関係がないとも言われまい。正義観念の確立は民族の光栄を守る強力の武器である。これ無きところに平和の基礎は置き得ぬであろう。
 正義の観念は何に依って養われるか。一たび養い得るも、時あればまたこれを失うことがあるだろう。百年のむかし亜墨利加アメリカ[#「亜墨利加の」はママ]船は相模の浜辺に来て江戸の都を脅した。当時の政治家は国民の一人をさえ傷けず、しかもまた名実ともに、敗衂亡国の汚名から国を救った。今日の事態は全くそれと相反している。原因は何か。その探究は現在のみならず将来を戒しめ将来を安全ならしめる道を示す手段になるであろう。現在の窮乏を救おうが為に、政体の変革を叫ぶものもある。しからざるものもある。各観るところ信ずるところに依るのであろう。これに対してわたくしはただ是非判別の識見に富まざることをかなしまなければならない。しかしただ一言、わたくしは言うべき事を知っている。事の勝敗はその事に当る人物の如何いかんに因る。ただこの一語である。人物の如何とは、即ち誠実の有無、正義観の強弱をさすのである。信念の如何をうのである。
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 畠に沿う道のかなたに車のとまる音と村の子供の声が聞える。葉の落ちた梅林を透して米兵に連れられた日本ムスメのキモノの閃くのが見える。冬の日は少し斜めになっただけかえって近く照りつけて来たように思われる。彼等はムスメと相携えてむこうに見える山腹の蜜柑園に登って行くのであろう。手にする行厨こうちゅうはムスメを喜ばす甘い物に満たされているのだろう。冬の日は短くとも彼等が歓を尽すにはまだ十分の時間があろう。日の光はもとより公平である。わたくしもまた窓の明るさ暖さに心急がずこの文を草し終るであろう。
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 爆弾はわたくしの家と蔵書とを焼いた。わたくしの家には父母のみならず祖父の手にした書巻と、わたくしが西洋からたずさえ帰ったものがあった。わたくしは今辞書の一冊だも持たない身となった。今よりして後、死の来るまで――それはさほど遠いことではなかろうが――それまでの間継続されそうな文筆生活の前途を望見する時すこぶる途法に暮れながら、わたくしは西行と芭蕉の事を思い浮べる。
 歌人となろうが為めでもなければ、また俳諧師となろうがためでもない。わたくしはただこの二人の詩人がいずれも家を捨て、放浪の生涯に身を終ったことに心づいたからである。家がなければ平生へいぜい詩作の参考に供すべき書巻を持っていよう筈がない。さびしき二人の作品は座右の書物から興会を得たものではなく、直接道途の観察と※(「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2-88-38)きりょの哀愁から得たものである。
 一人は宮中護衛の職務と妻子とを捨て、他の一人もまた同じように祖先伝来の家禄を顧みず、共に放浪の身の自由にあこがれ、別離の哀愁に人の運命を悲しんだ。いずれにしても希望の声を世に伝えたものではない。
 しかるに一時栄えた昭和の軍人政府は日蓮宗の経文の或辞句をさえ抹消させながら、世に山家集と七部集の存することを忘れて問わなかった。徳川幕府の有司は京伝きょうでんを罰し、種彦たねひこ春水しゅんすいの罪を糾弾したが、西行と芭蕉の書のあまねく世に行われている事には更に注意するところがなかった。酷吏の眼光はサーチライトの如く鋭くなかったのだ。
 西行は鎌倉幕府の将軍に謁見を許され銀製の猫を賜わるの光栄に浴したが、用なきものとしてこれを道に遊ぶ児童に与えて去った。今の世の学者詩人にして政府の与るものを無用となして道に捨てたなら、恐らく身の安全を保つことは出来まい。鎌倉時代は武断の世であっても今に比すればなお余裕があった。
 芭蕉の声を聞いてその門に集ったものの中には武士も少くなかった。彼等はしばしば夜を徹して無用なる文字の遊戯に耽ったが、人の子をそこなうものとしてその会合は禁止せられずその門徒は解散せられず時勢と共にますますさかんになった。中央公論社や改造社の運命よりも遥に安全であった。
 今日のわれわれよりして芭蕉の生涯を見ると、芭蕉はその文徳を慕って集り来る門弟に別れを惜しみながらも、一所に安住することが出来ず、終生※(「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2-88-38)旅の寂寞を追究して止まなかった。芭蕉が旅の目的は寂寞であって、これなくしては自然の美も詩興を呼ぶに足りなかったように思われる。寂寞と詩興とは一致して離すべからざるものであったらしい。仏蘭西フランスの人モーパッサンにも寂寞を追求して止むあたわざる病的の性癖があった。或時は北亜弗利加アフリカの沙漠にさまよい、或時は地中海の暗夜に孤舟を漂わせたのも、その目的とするところは無人の境に寂寥の悲愁を探求したに他ならない。巴里パリの繁華もモーパッサンの眼には人生寂寞の影を宿す処に過ぎなかった。
 芭蕉とモーパッサンとは時代と民族とを異にしていながら、何が故にその求むるところに変りがなかったのであろう。わたくしは二人とも人生の浮誉名声に安んじ得なかったが為だと思う。浮誉名声は人間相互の関係から、人の行動と心情とを拘束する嫌いを生じる。ここにおいて心の自由と境地の寂寞とはまた一致して分ちがたいものとなる。人生の真相は寂寞の底に沈んで初めてこれを見るのであろう。
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 亜弗利加の沙漠に天幕の生活を営んでいる遊牧の民には、一定の家がない。家のない民族には歴史も芸術も存しない。存する必要がない。これはモーパッサンの紀行に見る所である。歴史なく芸術なき民族の世は虚無である。史乗なければ過去は暗夜に等しく芸術がなかったら現実も刻々に消えて行く影に過ぎまい。これ等のものなき人の世の寂しさは一度文化に浴したわれわれのく堪え得べき所であろうか。
 われわれの生活はにわかに亜米利加人のそれと密接な関係を生ずるようになった。それは今後二十幾年続くべき筈だと云う。戦争前銀座丸の内あたりの光景は、或人の眼には、既に著しく米国風に化せられていた。今後世態人情の転化し行く処の何であるかは、火を見るよりもあきらかであろう。しかし世運は常住するものでない。物極まればかならず変転するのは自然の法則である。われわれの子孫が再び古き日本を追想すべき時も来ずには居まい。回顧の資料は書籍に優るものはない。われわれは現在において既に民族文化の宝物たるべき書物の大半を失った。将来これを得ることは至難であるかも知れない。けれども難事は難事であるが故に、心あるものには却て一層の精力を奮起させるもといになるであろう。奇を猟り稀を求めんとする欲望は生命の力のあるかぎり人の心より消え尽すものではない。われわれが江戸の文物を追慕したように、われわれの子孫もまた彼等には最も近かった現代を回顧せずにはいないであろう。半世紀のむかしとなった明治の世を語るのも、また戦敗の今日を記録に留めるのも、われわれ現代人の為すべき任務の一つでない事はあるまい。
 戦敗は言うをたず、民族に取って不幸の最大なるものだ。しかし戦勝のみが民族の光栄であるとも限られまい。文化の影響を広く他の民族に及し、その民族をして幸福と智識の開発に利する所多からしめるのが、勝者たる光栄の最大にして不朽なるものであろう。支那も、印度も、希臘も、一たびは不朽なるこの光栄を担った民族であった。匈奴きょうどの西欧侵略は何等の痕跡をも他の民族の文化には留めなかった。これに反してサラセン人が侵略の跡は西班牙スペインの文化に固有の跡を残す力があった。印度北方の仏像には希臘芸術の痕跡が見られる。仏蘭西印象派の絵には江戸浮世絵の影響がある。北米人の勝利は如何いかなる感化を形において、精神において、日本文化の上に残すであろう。わたくしは希望する――食前の祈祷と、街頭における夫婦の接吻と、ジャズが持っている世界風靡の魔力ばかりに限られない事を。
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 日の暮はさむしい。どんな人にも日の暮はさむしいだろう。なぜだ。そしてどういう寂しさだと、われながら問うても答えられぬかすかな寂しさである。
 日の暮は子供の心にもさむしいらしい。思出はわたくしの心にも、絶えずそれを語ってくれる。
 窓から見える畠は日かげになった。畦の枯木に干された洗濯物を人が取りおろしている。雑木林の向うから、
「もういいかい。」
「もういいよ。」と呼んだり応えたりする子供の声がきこえて来る。かくれんぼをする声だ。
 その声も夕風の音にまじって、わたくしの耳にはさびしく聞える。
 子供はもっと外で遊んでいたいのだ。暗くならないうち、すこしでも余計に、もうしばらく遊んでいたいのだ。遊び友達と別れて家へ帰るのが残り惜しくてならないのだ。この心持が、日のかげるに従い、呼び合う声の中に籠められて、きく人の耳にさびしさと悲しさとを送って来るのだろう。
 この心持は小鳥の声にも含まれている。日ねもす日の暖さに恵まれていた冬草の葉末にも見られるような気がする。
 日の暮のさびしさを思知るのは、日の最も短い冬のなかばくはない。まだかと思っている中いきなり暗くなるからだ。断罪の宣告のように急激に来るからであろう。日の暮を悲しむ心は後悔と絶望のおもいに似通っている。すっかり暮れ果ててしまった後、月の光、もしくは灯火とぼしびのもとに、どうやら落ちつく心持は「あきらめ」の静けさに似通っている。
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 今年もやがて冬至の節になろうとしている。
 わたくしには――現在のわたくしには、このごろの暮方が悲しく思われて堪えられない。
 このの窓にさす冬の日の暖なうちに、手先の冷える寒さの来ない中に、紙一枚でも多く胸にある事をかいて置きたいと思うからだ。海辺の宿りを去って町の家にかえれば、寒さはたちまち筆持つことを許すまいと危ぶむからだ。老の身には若き人のように来る年の春を待つ余裕がない。慾張よくばりの婆が明日の命を知らず爪に火をともして銭を数えるように、わけもなく筆が取りたいのだ。読残した書物が読みたくてならないのだ。何の為だ。何の為にもならない事を知っていながら、追われるようにあせっているのだ。老いて後、寸陰を惜しむ心ほど、思えば我ながら浅ましく悲惨なものはない。
 わかかりし日を、如何にして送ったか。師と親とは教えたり戒しめたりしなかったか。後悔と慚愧とは虱の如く身をさいなむ。
 迷蔵戯かくれんぼする子供の声は、小鳥の声と共にもう聞えない。小鳥も子供も安んじて明日の日を待つのだろう。雨の降る日のあることも今からは予想せずに。
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 日は暮れてしまった。何も見えなくなった。窓の外には闇がだんだん濃く深くなって行く。その彼方から、遠くかすかにかね叩く音がきこえて来る。道を隔て、谷川を渡り、山径を登る林の奥に寺がある。その寺から聞えて来るのだろう。
 その寺はむかしむかし西の方の都から彷徨さまよって来た尊い人が、初めて庵を結んだ跡だと云う。その人はわたくしが日本の史上に最も尊崇する人物の一人なのだ。その人は戦勝の後栄えるべき筈の世の中が、善からぬ政治のために再び敗れる事を予想し、世と人とを見限って姿を隠したのだ。破るるを知って戦うのも、世を逃れて姿を隠すのも、結果は同じ絶望のさせた事だろう。一人は花やかに、一人はしずかに、各その身の職分に応じて最後の処置を取ったのだ。罪は世の中に在る。時代に在って、人には無い。大廈たいかの覆る時、一木はこれを支える力がない。時の運はその力その価なき匹夫にも光栄を担わせ、その才ありその心ある偉人にも失墜の恥辱を与える。いつの世にも歴史は涙の詩篇ではなかったか。
 江戸三百年の事業は崩壊した。そして浮浪の士と辺陬へんすうの書生に名と富と権力とを与えた。彼等のつくった国家と社会とは百年を保たずして滅びた。徳川氏の治世より短きこと三分の一に過ぎない。徳川氏の世を覆したものは米利堅メリケンの黒船であった。浪士をして華族とならしめた新日本の軍国は北米合衆国の飛行機に粉砕されてしまった。儒教を基礎となした江戸時代の文化は滅びた後まで国民の木鐸となった。薩長浪士の構成した新国家は我々に何を残していったろう。まさか闇相場と豹変主義のみでもないだろう。
 くだる亜米利加に肌を濡らさじと言って自害した烈婦の出ない事を、今の世に問うて慨嘆するのは無理であろう。江戸時代にも長崎や下田に残った綺譚が幾らもあるではないか。
 わたくしは好んで「後庭花」の曲を聞こうとするものではない。けれども洋人を見れば、ぞろぞろその後についてチョコレートを貰おうとする子供を憎むまい。道に落ちたシガーの吸殻を拾う紳士を嘲るまい。彼等をして、欺くなさしめたのは誰ぞ、誰の罪ぞ。
 わたくしはホテルの食堂でふと心安くなった洋人から、その国の雑誌と新刊書を貰った。喜んで貪るようにこれを読んだ。口にうえを覚えるように、心にもまた常に飢を覚えている故である。珈琲コーヒーの香も嗅ぎたい。アラン・ポーの詩もよみたい。町のムスメを憎しみ嘲けるに先だって、おのれの身を省みねばならない。首陽山のわらびは大むかしの話である。智慾の乞食は哀である。
(昭和二十年十二月十日草)





底本:「問はずがたり・吾妻橋 他十六篇」岩波文庫、岩波書店
   2019(令和元)年8月20日第1刷発行
底本の親本:「荷風全集 第十九巻」岩波書店
   1994(平成6)年11月28日第1刷発行
   2010(平成22)年10月26日第2刷発行
初出:「新生 第二巻第二号」新生社
   1946(昭和21)年2月1日
入力:入江幹夫
校正:noriko saito
2021年11月27日作成
2022年2月11日修正
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