臼木は長年もと日本橋区内に在った
或病院の会計をしていた時分から、株式相場にも手を出し、早くから相応に財産をつくっていたが、支那事変の始ったころ、年も六十近くなったので、葛飾区
立石町に引込み、老妻に釣道具と雑貨とを売らせ、自分は裏畠に花や野菜を栽培したり、近くの中川や江戸川へ釣に出たりして老後の日を楽しく送っている。
忰が一人、娘が一人あったが、忰の方は出征すると間もなく戦死し、娘はそれより以前に結婚して下ノ関に在る
良人の家に行ってしまったので、その後戦争が終った
明る年の秋、老妻に死なれた時、臼木は全く孤独の身となった。年は六十七になっていた。
葬式の時には老妻の
従妹に当るお近という産婆がその住んでいる甲府の町から、また下ノ関にいる娘常子というのが出て来て始末をしてくれたが、二人とも初七日の法事の済み次第帰ることになっていた。その日寺から戻って来て、三人夕飯の膳に向った時、
「では父さん。わたし達はあした帰りますよ。父さんはこれから先、どうなさるつもりなの。一人で困りゃしませんか。お店の番もしなければならないし。配給物も取りに行かなければならないでしょう。」と言出したのは娘の常子である。
臼木はわざとらしく別に困りもしないというような調子で、
「まア、どうにかして見ようよ。困るといったところで仕様がないからな。忰が生きていて嫁でも貰っていれば家の事だけはやってくれたろうが、死んでしまったんじゃどうにもならない。」
産婆のお近はこれもわざとらしいまで事もなげに、「おじさん。どんなもんでしょう。もう一度おかみさんを貰って見たら。」
「何を言うんだ。はははは。この年になって女房が貰えるものか。こっちで貰おうと思っても
来手があるまい。」
「そんな事はありませんよ。広い世間にゃ七十になってから茶飲みばなしの相手を貰ったような話も珍しくはありませんからね。」
「そうかね。縁は不思議なものだというから、そんな話もあるかも知れない。しかし見ず知らずの年寄同士じゃ二人顔をつき合したところで、どうなるものだか
一寸考えがつかないね。それよりか、お前達、あした帰るんならもう仕度をして置くがいいぜ。」
「帰りの乗車券は
此方へ来る時駅へ申込んで置きましたからね。いつでも買える筈です。わたしの方は山梨県だからわけはないけど、常子さんの方は食料も一日分じゃ足りますまい。」
「京都に心やすくしている
家がありますから、そこでまた
後の分は
拵えてもらいます。」と常子が答えた。
臼木は大切な用事を忘れていたと云う風で、
「
亡った人の
形身分をしなければならない。ほんとは四十五日か七十五日にやるのだろうが、ついでだから今の
中、帰りの荷物と一ツにして持って行って貰いたいね。帯でも
襦袢でも欲しいものは
選り取って持って行くがいい。」
「ええ。ありがとう。戦災から着物は全く宝物になりました。」
「その箪笥に入れてあるから、まア出して御覧。」
食事をした後の茶ぶ台もそのまま片づけずに、お近と常子とは箪笥の引出から一枚一枚衣類を取出した。
「婆さんの若い時分に着たものは、大地震の時箱崎町の家で焼いてしまったから、それはみんなその後に拵えたものだ。震災の時、常子、お前はたしか小学校へ行ったばかりだろう。婆さんの着物がそのまま役に立つようになったのかと思うと、月日の立つのは早いもんだな。」
「まったくですわ。わたしも
好加減お婆さんになってしまいました。」
「常子さん。あなた。お子さん、お
幾人です。」と産婆のお近がきいた。
「二人います。一人が十。次のが八ツになります。二人とも女ですし、たいして世話もやけませんから、年寄達に預けて参りました。」
常子の子供は臼木には孫にあたるのであるが、まだ一度も顔を見る折がなかった。臼木は初めて聞くような心持で、
「そうか。二人とも女の児か。お土産に何か買って置けばよかったが、この時節じゃア
何処へ行っても買うような物はありゃしない。常子。箪笥の中に何か赤いものでもないか。さがして見てくれ。」
「そんなにいろいろ戴いて行かなくってもよう
御在ますよ。この頃の子供は戦争から馴れてしまいましたからね。わたし達の子供時分のように食るものも着るものも、あんまり欲しがりませんからね。」と言ったが、常子はそれでも女の子の着物に仕立て直せるような、
華美な裏のついた羽織を取上げ、両方の袖まで裏返して見た。
時計が十時を打った。
従妹のお近は大島
紬の小袖と黒
繻子の帯を選み、常子は
稍荒い縞の
錦紗お
召の二枚
襲と紋附の羽織と帯とを貰うことにした。二人は座敷一ぱいに取広げた衣類をもとの箪笥にしまい、それから自分達の荷物を纏めた時には夜は早くも十二時近くであった。時々
銕橋を渡る電車の響のかすかに聞えたのも、今は
杜絶えて、空を走る風の音ばかりが耳につく。
「あした、何時にたつんだね。早いのか。」と老人は何がなしに二人の女の顔を見た。二人が
此度のようにここの家へ来合せて、自分と一所に茶ぶ台を取囲んで食事をするような折は、何か特別の事でも起らないかぎり、まず無いと思わなくてはなるまい。老人は突然何の
理由もなく、それは今夜が最後であるような気がした。この次二人がこの家に来合せるのは、自分が病気になって死ぬ時であろう。と云うような気がした。
常子は
至極気軽な調子で、「午前十一時に東京駅で乗りかえるんですから、九時にここを出れば大丈夫でしょう。おばさんの方は。」
「わたしは新宿からだからね。時間なんぞ構わずに、常子さんと一所に出掛けましょう。」
「そうか。わしもそこの駅まで送って行きたいが、今日お
墓参をするにも隣の人に留守番をして貰うような始末なんだからな。わしは行かないよ。帰ったら皆さんに宜しく言ってくれ。」
「ええ。かしこまりました。」
二人が入れ直す茶を飲んだ後、老人は二階に、二人の女達は
下座敷に寝る仕度をした。
* *
老人は
燈を消して夜具の中に這入った。今日は昼過に墓参をしたり葬式に来てくれた町内の人達のところへも
礼参に立寄ったりして、かなり疲れもしたので、眼をつぶればすぐに眠られるつもりであったが、なかなかそう思うようには行きそうもない。寝返りをするたびたび自分では思出そうとも思っていないさまざまな事が、秩序なく心の中に浮んでくるのであった。
老人は二十五の春、或専門学校を卒業して或会社に雇われたが、三年の後会社の破産に遇い、一時しのぎのつもりで或病院の会計に雇われて見たのであるが、病院は丁度建物を増築する盛況に向っていた時で、給料も会社員よりも多額であるばかりか、何かにつけて目立たない余徳もあるところから、そのまま腰を据えたようなわけであった。その時病院に石田浜子という
附添看護婦がいて、石田は埼玉県の或町からその時代の風潮に感化された若い女の例に漏れず、都会の繁華にあこがれ東京へ出て来て、初めは二、三ヶ処山の手の屋敷へ女中奉公をして歩いた後X病院の看護婦に住込んだ。さして目に立つほどの
容貌ではないが、
二十を越したばかりの
艶しさに、大学を出たばかりの薬局の助手が
忽ち誘惑しようとしたのを、臼木が窺い知ってそれとなく注意をしたのが縁のはじまりであった。
石田は一時埼玉の生家へかえり、半年ほどして再び東京へ出て来て、他の病院に住込むと間もなく、臼木の許へ手紙を出した。二人の感情はこれから次第に親しくなり、やがて結婚のはなしが成立った。その
訳は最初石田を誘惑しかけた薬局の助手はその
後不品行のため病院を解雇されてから、或未亡人を欺きその財産を横領しかけた事が警察問題となり、醜聞が新聞紙に書立てられた。それを読んだ石田はもしもあの時会計の臼木さんが居なかったなら、自分もとんだ目に遇わされたかも知れなかったと、
難有いやら懐しいやらで、臼木へ手紙を出したのであった。
臼木は箱崎町の貸二階を引払い、石田と二人で新大橋
向の
借家に新しい家庭をつくった。翌年常子と名づけた女の子が生れる。やがて震災の火は二人の家庭をも、その勤先の病院をも焼き払ってしまったが、一年たたぬ中市民の生活は市街の光景と共にまた元のようになった。平穏で単調な二人の生活には毎年節分の夜に撒く豆の数をふやすより外には何の変化もなかった。
臼木はX病院の忠実な会計のおじさんとして、病院のみならずその附近の町の人達からも信用されるような
好々爺になった。臼木は老眼鏡の
度もあまり強くならない中、紙幣を数える指先もまだ
確である中、将来家族の困らぬだけの恒産をつくって置かねばならない。それが人間生涯の目的、人間生活の真の意義だと考え、もしその目的を達することが出来たなら、それ以上人間の幸福はあるまい。そして彼はこの目的の為には職務に対する忠誠の心を失ってはならない。善行には必ず善果のあるべき筈のものだと信じていた。
ところが戦争はその所信を空しくした。国民の生活は
覆され、個人の私産は封鎖されてしまった。しかし彼はなお葛飾区立石町に建てた家屋だけ空襲の災に
罹らなかった事を、焼けて家を失った人達の不幸に比較して、無上の幸福だと諦めるだけの余裕を失わなかった。一人息子の戦死した悲しみも
事々しく人に向っては語りもしなかった。三十年連添った老妻浜子の病死もまた人間夫婦の生涯には、その中の一人が
必経験せねばならないものと諦めをつけていた。
* *
臼木はふいと暗闇の中に七十二歳まで生きていたその父の面影を見た。父はその配偶者が六十で死んだ一周忌の来ない中に、その後を追って行った。臼木がまだ専門学校在学中のことであったから何十年かの昔である。臼木は父の老後に生れた孫のような子で、早く生れた兄や姉も一人二人あったのだが、その人達はいずれも老父より先に死んでいた。
老母の病が危篤だという国元からの電報を受取り、東京から急行列車で馳けつけ、やっと葬式の間に合ったのであるが、その時来合せた親戚達が男の年寄というものは、長年連添った老妻に
先立れると、それから後一人で長く生残るものはまず少いのが通例である。平生元気のいい丈夫な老人ほどそういう場合には
却て
脆くぽっくり逝くものだとひそひそ話をしているのを耳にしたことがあった。
これは臼木が六十七歳の今日まで一度も思出したことのない遠い記憶である。長い間全く忘れ果てている事がどうして今夜突然思返されて来たのであろう。
それが訳もなく不思議に考えられるだけ、その身に取っては間違のない前兆のような気もする。もしそうだとすれば臼木自身もその父と同じように、そう長くは生残らないのかも知れない。
忰は自分より先に死んだ。娘は明日の朝遠く下ノ関へたって行く。たった一人になったその身にはもう思残すことは何もない。もし老父と同じようにその配偶者の一周忌さえ来ない中に死ぬることができたなら、それはどう考えても人生幸福の中の一つだと見なければなるまい。愚痴でもなければ、自分を欺く
空威張でもなく、強いて
粧う
空元気でもない。ましてや戦後の世の中、代用食に折々
飢を忍んでいる人達の言葉をきけば、無理に死ぬるわけにも行かないから、自然に死んでくれるのが何よりの仕合せだと言っているではないか。
臼木老人には戦争中に成人した男や女がさほど今の世の中を悲観していないように見えるのも、これまた不可思議の一つであった。近い例を取れば娘常子の様子もそうである。乗れないほど雑沓するという汽車、
硝子窓の満足なのは一つもない客車で、二日ちかく乗りつづけて行く事をも、さして難儀だとも思っていないらしい。その生れ育った箱崎町の焼跡の話やら、戦災を免れた水天宮の話などが出た時にも常子はたいした興味をも催さず、人間はどこで生れて何処で成長して、何処に住もうとも、それはその時の都合だと、飽くまで悟りきっているようにも、老人の目からは見えるのであった。
老妻の従妹になる産婆のお近は常子よりも七、八ツ年上で、もう四十を越しているのだが、この女も戦敗後の世の中についてはさしたる不安の念も抱いていないらしく、戦争中に較べると結婚する者が激増したと見え、甲府のようなところでも、どうかすると一日に七、八軒も廻らなければならないような
急しいことがあると言って、月々に
暴騰する米価や物価などは深く念頭に置いていないようにも思われた。
臼木はあの女達ももう若くはないのであるが、自分ほどには戦後の生活について底知れぬ恐怖を抱いていないらしく見られるのは、これを要するに年齢の相違に依るばかりで、外に仔細はないであろう。そう考えると、七十を目の前にひかえた自分にはもう生活と戦って行く活力のすっかり消耗している事がただ情なく思い知られるばかりであった。
下座敷に寝た二人はまだ何やら話をしている。明日の朝出発するのなら早く灯を消して眠ればいいのに。と臼木は思いながら、話声のいつか遠くなるような気がすると共に知らず知らず眠りに落ちた。
(昭和廿五年七月オール読物所載)