渡鳥いつかへる

軽演劇一幕四場

永井荷風




街娼鈴代 (年十九)
アパートのおかみさん (年三十)
艶歌師福井 (年廿五、六)
艶歌師松田 (年三十)
ヤクザ斎藤 (年廿五、六)
医師武田先生 (年五十四、五)
おでんや (年五十四)
私服刑事一人
電車従業員二人
酔漢一人
女巡査二人


第一場


向島都電終点附近のさびしき横町。十一月頃の夜十一時過。新内流しんないながしにて幕あくと女巡査二人下手しもてより出で上手に入る。遊び人斎藤(年廿五、六。顔にきずあり。色白の美男。洋服。)下手より出るトすぐその後より私服の刑事一人出で、
刑事 オイ一寸ちょっと待て。
ト呼止める。斎藤聞えぬふりにて上手へ行きかける。
刑事 オイ待て。貴様、斎藤だろう。
ト後から組みつく。斎藤振りほどき刑事の急処をつき上手へ駈入る。刑事起直り、
刑事 この野郎。待て。
トよろめきながら追掛けて上手に入る。
舞台暗転。

第二場


都電南千住涙橋附近の横町。十一月頃の夜十一時過。柳の立木。うしろ一面の黒幕。下手寄りに年五十がらみのおでんや屋台を出している。電車従業員らしき制服制帽の男二人屋台の前に立ち、
男の一 オイ会計だ。みんなでいくらだ。いいよ。君。今夜は僕が出しとくから。いいと言うのに。
おでんや 三百七拾円になります。
男の二 イヤ君に出さしちゃ済まない。三百七拾円だな。ああ君。僕に払わしてくれ。(ト百円札を出す。)
おでんや ヘエ参拾円のおつり。毎度ありがとう御ざい。
ト二人の客なおしばらく争いながら上手に入る。街娼鈴代。年二十位。洋装外套。ハンドバッグを提げ上手より出るとその後より汚れた作業服の職工酔いながら、
職工 姐さん。ちょいとねえさん。
ト呼びかける。鈴代一寸振返り知らぬ顔にて下手へ行きかける。
職工 一人歩きは危険だぜ。送ってッてやろう。
鈴代 いいえ。いいんですよ。うちはすぐそこですから。
職工 遠慮するな。一しょに行こう。(ト手を取ろうとする。)
鈴代 何するんだよ。このひたア。
ト突きとばす。職工よろけて倒れる。鈴代おでん屋の灯を見てかけ寄り、
鈴代 おじさんおじさん。
職工 よくも人を突飛ばしたな。承知しねえぞ。
おでんや 店の邪魔だ。止しなさい。
職工 この野郎。承知しねえぞ。
ト立ちかかって見たがおでん屋の姿に、
職工 この野郎。この野郎。
ト呼びながら下手へ入る。
おでんや 馬鹿野郎。おとといお出でだ。
鈴代 おじさん。すみません。何かおいしそうな物。取って下さいな。
おでんや アイヨ。今夜アいつもより早かないか。
鈴代 早いかも知れないわ。宵の口に狩込かりこみがあったらしいんだよ。こんな晩はどうせろくな事アありゃしないからね。好加減いいかげんにして切上げてしまったのさ。
おでんや 今夜はこの辺も馬鹿にしずかだよ。景気のわるい晩はどこも同じだと見えるな。
鈴代 お天気も毎日毎日はっきりしないわね。
おでんや 一日いいかと思うとすぐまた降りだからね。今夜アおいらもそろそろ仕舞しまおうかと思っていたのよ。ハイお茶。ぬるいかも知れねえよ。
鈴代 ありがとう。(ト一口飲み)ぬるいわ。もう少しわかしてよ。
ト茶を捨る。この前より第一場の斎藤下手より出でそっとあたりの様子を窺い上手へ行きかけ、鈴代の捨てる茶をズボンに掛けられ、
斎藤 おい、気をつけろ。
鈴代 アラ、御免なさい。
ト二人顔を見合せ、
斎藤 鈴坊すうぼうじゃねえか。
鈴代 アラ斎さん。まア久振ひさしぶりねえ。どうして。
斎藤 どうもしねえよ。相変らずだ。(ト鈴代の様子を眺め、)お前も相変らずらしいじゃねえか。
鈴代 そうよ。今時分いまじぶんこんなとこうろうろしてるんだから。気まりが悪りいわ。
斎藤 それァおれの方で言うこった。あの時分にゃ、お前にもとんだ心配をさせたが、やっぱりヤクザは止められねえのよ。今夜ここで会ったなア、やっぱり縁があったんだ。東京にゃうろうろして居られねえからどっか遠くへ、草鞋わらじをはこうと思ってるのよ。さっきも後をつけられて、すんでの事にくらい込むところよ。じゃア、あばよ。
鈴代 にいさん。気をつけてね。
斎藤 お前も身体からだ大事にしなよ。あんまり丈夫な方じゃねえからな。
鈴代 ええ。ありがとう。(トじっと思入おもいいれ。行きかける男を引止め、)兄さん。一寸待ってよ。
斎藤 何だ。何か用か。
鈴代 兄さん。わたしの外套引掛けておいでよ。今夜あたい達の方も狩込があったし、世間がそうぞうしいようだから、用心した方がいいよ。この外套貸すからパンパンに化けておいで。その方がいいよ。
ト鈴代緑色の外套をぬいで男に着せ頭巾ずきんかぶせてやる。
斎藤 でも、お前。困るだろう。外套がなかったら。
鈴代 まだそう寒かないから。そんな事心配しないでもいいよ。
斎藤 すまねえな。じゃ借りて行こう。
鈴代 兄さん。すっかりパンパンだよ。そんなら大丈夫だよ。
斎藤 じゃ、あばよ。
鈴代 気をつけてね。
ト男の後姿を見送っている。下手より艶歌師二人(福井松田)手風琴ギタラを弾き「湯の町エレジイ」か何かを唄いながら出る。
福井 ※(歌記号、1-3-28)伊豆の山々月あはく
あかりにむせぶ湯のけむり
あゝ初恋の
君をたづねて今宵また
ギターつまびく旅の鳥
トおでんやの店先に立寄り、
福井 おじさん。今晩。
おでんや 今晩。お前さん達も大分早いね。
松田 たまにゃ怠けたくなるよ。一杯つけてくんな。オヤ鈴代さんじゃないか。この間から、逢ったらお礼をしようしようと思っていたんだ。
鈴代 アラ何のお礼なの。
福井 あの晩。傘を貸してもらったお礼だよ。おいら達の家業は毎晩このとおりのお荷物だから。雨に逢っちゃ往生さ。何かいいもの、そう言いなさいよ。
鈴代 ええ。ありがとう。でも、わたしお腹一ぱいだから。
松田 遠慮しないでよ。食べたくなければ一杯どうだい。
鈴代 お酒駄目よ。じゃ勝手にたべるわ。(ト鍋の中の物を取り)わたしも実は会いたかったのよ。兄さん達に会ったら聞いてみたいと思ってた事があるのよ。
福井 どんな事だい。
鈴代 わたし、兄さん達の御仲間になって見たいと思っていたんだけど。わたしでもできるか知ら。
福井 何だと思ったら。おいら達の仲間入をして門附かどづけになろうッて言うのか。
鈴代 ええ。この商売していりゃどうにかお金にゃ困らないのよ。だけど身体が心配だしね。いつまでも長くやっていられる商売じゃないからね。そうかといって、女給やダンサーになるには衣裳がいるでしょう。だから兄さん達に相談して唄でやって行けるもんなら、やって見たいと思ってたのよ。
福井 そうか。それァいいかんがえだ。おいら達もはじめは乞食か何かになった気でやり始めたんだがね。やって見ると思ったより収入みいりはあるしね。なかなか面白いんだ。鈴代さんが仲間に入ってくれりゃ、野郎二人きりよりずっと景気が好くなる。なアまっちゃん。
松田 そうとも。女が入ればどんな晩でもあふれる心配はねえよ。
福井 じゃ。鈴代さん。ここで一曲やって御覧よ。いいも悪いも、やって見なくッちゃ話ができないからな。
松田 何がいいんだ。すうちゃんの一番好きな唄。一番お得意な唄は何だい。
鈴代 じゃ、気まりが悪いけど。わたし。「夜ごとの溜息。」あれがいいわ。
松田 よしきた。「夜毎の溜息。」はいよ。
鈴代 ※(歌記号、1-3-28)染めるルージユも誰故に。
街の酒場をわたり鳥
こんな女になりながら。チヨイト
なんであなたと逢へませう。
許してね許して。
あなた浮世だわ。
福井 いい声だ。申分なしだ。
松田 流しながら出かけよう。
鈴代 アラ。今夜からもう始めるの。
松田 善は急げさ。
ト三人つづいて次の一節を合唱しながら下手に入る。
三人 ※(歌記号、1-3-28)はなれ/″\の淋しさに
いつか迷うた恋の道……。
おでんや オイ忘れもの。会計だよ。
ト追いかけて下手に入る。
舞台暗転。

第三場


墨田区荒川町辺。艶歌師の住む汚きアパートの一室。平舞台。正面引ちがいの硝子窓ガラスまど。炭俵たらいなど置いてある。上手ふすまの破れた押入。下手出入口のドアー。その外廊下。上手寄りに鈴代シュミーズ一ツ、毛布をかけ夜具の上に眠っている。松田窓に腰をかけ手風琴を引き福井下手の火鉢にて物を煮ながら、唄の稽古をしている。四月頃の午後。鈴代眼を覚し暫く二人の唄をきいている。
鈴代 にいさん。もう何時。
松田 福ちゃん。何時だろう。もう三時頃じゃないか。
福井 (腕時計を見ながら)三時半だ。すうちゃん。今小豆が煮えるよ。お砂糖の配給があったからね。
鈴代 あら、そう。(ト起直り)わたしお湯へ行ってくるわ。
福井 お前、まだ寒けがするんだろう。お湯はよした方がいいぜ。もう一日二日我慢しなよ。
松田 お湯ばっかりじゃない。商売もすっかりよくなるまで休んだ方がいいぜ。
鈴代 イヤ。わたし今日はどうしても外へ出たいわ。一人ッきり寝ちゃいられないわ。昨夜ゆうべでこりごりしたもの。
福井 そんなに淋しかったのか。じゃ今夜は二人ともお付合つきあいに休もうよ。
鈴代 アラそんな事しないでもいいわ。お湯へ行って見れば分るわよ。お湯へ入って暖まッてもまだゾクゾクしるようだったら、おとなしく留守番するわ。
福井 そうか。そんなら今のうち行っておいで。
ト鈴代ズボンに毛糸のシャツを着て行こうとする。
福井 寒いといけない。上衣か何か引掛けておいで。
鈴代 いいわよ。すぐそこだもの。
福井 心配だから。着ておいでと言うのに。
ト無理に着せかけ親切に後から襟を直してやる。鈴代石鹸タオルを持ち下手に入る。
福井 我儘わがまま言うほど女はかわいくなるもんだ。(ト思入あって)しかし、松田、君どう思っている。
松田 何だ。
福井 彼女のことさ。彼女の健康だよ。夜の商売にゃ向かない女らしいな。僕達の仲間になったのは、たしか去年の十一月時分だったな。
松田 そう。早いもんだ。もう半年になる。
福井 時々寒けがするッて。寝るのはこれで三度目だ。見たところ顔色もわるくないし、それほど弱そうでもないんだがね。
松田 弱いどころか、馬鹿に達者だって、お前よろこんでたくせに。
福井 今だって相変らずだよ。おれの方がお勤めするような始末だがね。時々妙に寒がったり熱が出たりするのが気にかかるのよ。
松田 一度お医者に見せたらどうだ。直ぐそこに武井さんというお医者がいるじゃないか。
福井 そうだ。忘れていたよ。見てもらえと言っても面倒がって、なかなか行きそうもないからな。今の中鳥渡ちょっと行って、来て貰えるかどうか、頼んで見よう。
松田 そうしたまえ。何しろ彼女はわれわれには大事な女だ。あのうたって歩くようになってから、毎晩あふれる心配はなし、収入みいりはならし倍になっているからね。
トアパート管理人のかみさん(年三十位、厚化粧。色っぽい女。)下手より出で、
お神 あした七日分お米の配給があるよ。ちょいと印を押して下さい。
福井 松ちゃん。印はたしかあの箱の中に入ってるよ。
お神 どこへ行くの。
福井 表のお医者まで行ってくる。鈴代の病気はどうもただの風邪ばかりじゃ無さそうだからね。一度診察して貰おうと思ってさ。頼んだら来てくれるだろうね。
お神 武井先生かい。あの先生なら気軽ないい先生だから、すぐ来てくれるよ。
ト福井下手に入る。お神さんにわかに色ッぽい様子になり、
お神 松田さん。あの人あたしが来たんで、気をきかして出て行ったんじゃないかい。
松田 それだって構わないじゃないか。お神さんとおれの事はいくら隠そうと思っても福井には隠しきれないよ。
お神 それはそうさね。だけれど福井さんに知れると、すぐ鈴代さんにも知れる筈だからね。ひょっとした事から内のデコボコに感づかれでもすると面倒臭くなるからね。
松田 そんなに御亭主の事が気になるなら、一層今の中止したらどうだい。
お神 あんた止す気でも私はよさないよ。松田さん。あんた、えばった事を言うけど、毎日毎晩福井さんと彼女の仲のいいとこ見せつけられて、一人ひとりでおとなしくしていられるかい。
松田 お神さんはどうだ。若い燕なしで居られるつもりかい。
お神 だから、こうして昼間でもちょいちょいあんたの顔を見に来るんじゃないか。みんなが帰って来ない中だよ。
松田 じゃ物干へ上ろう。
お神 今日は向の十号室が空いているよ。あすこで、ゆっくり。
松田 そうか。それじゃうぐいすの谷渡りでも、達磨だるまのでんぐり返しでも何でも出来るね。
ト二人おかし味の仕草よろしく下手に入る。福井下手奥より出で、
福井 おや、どこへ行ったんだろう。不用心じゃないか。商売道具でも盗まれたら大変だ。
ト室の中に入りそこらを片づけている。鈴代鼻唄をうたいながら下手より出る。
福井 どうだ。心持。何ともないか。
鈴代 ええ。何ともないわ。もう直ったようだわ。今夜はみっしりかせがなくっちゃ、ねえ、兄さん。三日なまけてしまったから。
福井 うむ。でも、無理しちゃいけないよ。風邪は馬鹿にできないって言うからね。
鈴代 家にいるよりか外へ出る方が気が晴れ晴れするのよ。わたし今夜はどうしても外へ行くわ。家にいるのはいや。
福井 じゃ一所に出かけるとしよう。
鈴代 わたし夜になるとあかりのついたにぎやかな処へ行きたくなって、我慢ができないのよ。
ト毛糸のシャツをぬぎ化粧にかかる。福井その後姿を眺めながら、
福井 鈴代。お前、表の武井先生というお医者様。まだ知らなかったかね。さっき事務所のお神さんと話をしていたからね、ついでにここへも来て貰うように頼んだよ。一度見てお貰いよ。
鈴代 そう。でもわたし、お医者様に見てもらう程悪いような気がしないわ。風邪ひくのは癖なのよ。
福井 あのお神さんは世話ずきだからね。言いなり次第に世話になっていないとうるさいからさ。おとなしく見ておもらいよ。
鈴代 じゃ見てもらいます。
トやはり化粧をしている。五十年配の医者武井革包かばんをさげ下手より出る。
武井 福井さん。こちらかね。
福井 おいそがしいとこ。ありがとう御在ございます。
武井 今度の風邪は大事にしないといけません。一ト月たっても直らんのがありますから。患者はあなたですか。
鈴代 ええ。
武井 寝てから咳漱せきがでますか。
鈴代 ええ。どうかすると。たいした事はありませんけど。
武井 じゃ一寸ちょっと見ましょう。(ト脈を見て)おぬぎなさい。寒かありませんか。
トシュミーズをもぬがせ聴診器にて胸から背中を診察する中容易ならぬ病気だという思入おもいいれ
武井 いつごろ結婚しました。
鈴代 あの、ついこのあいだ……。
武井 じゃ新婚ですな。
福井 まだ、やっと半年はんとしです。
武井 そうですか。たいしてどこが悪いと言うのでもありませんがね。全体にひどく疲労していますからな。何でも身体からだを楽に、無理をしちゃいけませんよ。
福井 はァ、そんなに疲労していますか。
武井 今日は初て診察したんだから、もうしばらく様子を見ましょう。薬は直ぐこしらえて置きます。いつでも取りにおいでなさい。
福井 はい。後程のちほど取りに参ります。
ト医者を送りながら共に下手に入る。鈴代外出の支度をする。松田シャツのボタンを掛けながら下手奥より出で、
松田 もうへとへとだ。ひどい目にあった。(トどびんの茶をのみ)もう出掛ける支度か。
鈴代 ネエ。松田兄さん。今夜吉原の方へ流して行きたいわ。この正月だったわね。あれっきり一度も行かないから。
松田 そうだったね。戦争前にゃ吉原は賑だったぜ。見せたいようだった。三月になるとなかちょうは桜の花盛り。それから後は花菖蒲、秋になると菊の花だ。両側ともずっとお茶屋の二階。芸者が上っている。新内の流が通るね。声色屋こわいろやが来る。ボアン。ええお二階のお客さま。播磨屋。高島屋。ゆうべも宿で寝もやらず。……菊見がてらに里の露。濡れて見たさに来て見れば、案に相違の愛想づかし。
鈴代 あら。三亀松みきまつはだしだわ。
松田 おいらん。それじゃアつれなかろうぜ。
ト福井心配そうな様子にて下手より出る。
鈴代 兄さん。早く支度してよ。今日は吉原へ行って見ましょうよ。
福井 たまにゃ吉原もいいだろう。だがね。鈴代。すこし話があるんだ。おれの言うこと聞いてくれないか。
鈴代 どんな話。
福井 お前の病気のことだよ。まアおすわり。気にしちゃいけないよ。アノお医者様のはなしさ。お前の病気はこんな空気の悪い狭苦しいところに居ちゃアいけないそうだ。一ト月でも二タ月でも、暫くでいいから空気のいい静なところへ行っていろ。そうすると早く直るッて言うんだがね。
鈴代 (思入よろしく)ああそう。兄さん、わたしお医者様の言うこと、もうくわかってるわ。このままこうしていると段々わるくなって、起きられないようになるといけないって言うんでしょう。わたし、みんなの迷惑になるといけないから。じゃ、田舎のうち、木更津におばさんがいるから、そこへ行きます。(ト泣く。)
福井 鈴代。わるく思っちゃいけないよ。
鈴代 にいさん。わたしの事忘れないでね。
福井 なに言うんだよ。これッきり別れると言うんじゃない。おれも一緒に行かれるようなら、一緒に行きたいんだが……。
鈴代 兄さん。わたし自分の身体のことはお医者様に言われないでも能く知ってるのよ。ねえ、兄さん。だから、今夜だけ思切おもいきり一緒に夜通し唄ってあるかしてよ。
福井 いいとも。今夜はお前の気のすむように流して歩こう。
鈴代 嬉しいわ。兄さん。
松田 早くよくなって。早く帰って来なさいよ。迎いに行くよ。
福井 さア出かけよう。
ト福井と松田そっと涙を啜り楽器を取上げる。
舞台暗転。

第四場


同じアパートの一室。一箇月程たった或日あるひの午後。福井夜具をたたみ毛布を窓に干している。松田はシャツのボタンをつけようとして針のメドに糸の通らぬてい
松田 鈴坊がいてくれるとわけはねえんだが、男ばっかりじゃ始末がつかねえ。アいたい。
ト針をさした指をなめる。
福井 今頃はどうしているだろう。あの病気は。直ぐに直る病気じゃないからな。
ト茶棚の上に置いてある女の写真を手に取り小声に唄いながら眺めている。アパートのお神さん下手より出で、
お神 福井さん。室代に電燈料を貰いに来たよ。今月から電燈料は倍になったんだよ。
福井 そうかい。ありさえすればいくらでもいいがね。今月は天気がわるいんでカラッきし稼げないんだ。半分上げるから後は暫く待ってもらえないかね。
松田 天気がわるいばかりじゃない。彼女がいなくなってから毎晩の上りも半分せいぜいだ。女がいるのと居ないのじゃ大変なちがいなんだよ。
お神 もうかれこれ一ト月になるかね。まだよくならないのかね。
福井 しばらく便たよりがないから、心配しているんだ。
お神 そうかい。今日は電燈料だけ貰って置こう。
福井 そうしてくれると助かるよ。いくら。
お神 一燈、百二十円。
ト福井より金を受取りそっと松田に色目を使い下手に入る。
福井 おらアもう門附かどづけもいやになった。
松田 おれもそうよ。何だかつまらなくって仕様がねえ。外に何かいい商売はないもんかなア。
福井 そうよなア。靴みがきもゾッとしねえし、輪タクでも借りて、パンパンの客引きゃくひきでもするか。(トポケットを探り)煙草持っていないか。
松田 一本なしだ。火鉢の中の吹殻すいがらでも探すがいい。
ト煙草の空箱を投捨てる。下手より第一場の斎藤(見にくからぬ服装)ボストンバッグを提げて出で、
斎藤 鳥渡ちょっとうかがいます。八号室はどこでしょう。
松田 八号室はここですが。何か御用で。
斎藤 わたしは鈴代の知合いのものなんです。久しいこと会わないんですよ。方々聞合ききあわしてやっと尋ねて来たんです。
福井 そうですか。アノ折角ですが鈴代は少し身体がよくないんで、先々月木更津の家へかえりました。処番地は分っています。お教えしましょうか。
斎藤 イヤここに居なけれア、それでようございます。実は借りてたものがあるんで、この外套ですよ。これを返そうと思って尋ねて来たんです。
福井 その外套。
斎藤 彼女にそれをお見せになれば、私のこともみんな分りますから。
福井 そうですか。お名前は何と仰有おっしゃるんです。
斎藤 斎藤というヤクザ者です。あの晩。外套を借してもらったおかげで助かったようなわけなんで。これはお礼のしるしです。外套の借賃かりちんですよ。帰って来たら渡してやって下さい。では、たのみましたよ。
ト下手に入る。
松田 どういう訳だろう。さっぱり分らない。お金はいくら置いて行ったんだ。
福井 千円札だ。一枚二枚。三枚ある。ひょっとすると昔馴染なじみの彼氏かも知れない。とにかく預物あずかりものだから仕舞って置こう。
トこのとき雨の音。下手にて女の声。
女の声 雨がふって来ましたよ。洗濯物が濡れちまいますよ。
別の声 はい。ありがとう。
福井 馬鹿に降って来やがった。
ト窓に干した毛布を取入れる。
松田 この降りじゃ今日もまたおやすみか。
福井 イヤに暗いな。(ト電燈をつけ)仕様がねえから一杯飲もうや。まだ有るだろう。
松田 大丈夫。
ト一升罎からコップに酒をついで飲む。
お神 福井さん。早く来ておくれ。鈴代さんだよ。帰って来たよ。
ト下手にて呼ぶ。福井松田下手に行きかける。お神さん鈴代を抱くようにしてたすけながら、
お神 しっかりおし。
福井 びしょ濡れだ。おい。おれだよ。よく帰って来た。
鈴代 済みません。もう大丈夫よ。馳出したもんだから息が切れたのよ。水、頂戴。
ト三人して鈴代を室の中に入れてねかす。
お神 濡れたもの着せといちゃいけない。おぬぎよ。
ト上衣をぬがせ、斎藤の置いて行った外套を掛ける。鈴代つぶった眼をひらき、
鈴代 あら、このマント。
福井 さっき斎藤さんていう人が来たんだ。お前から借りたんだからって、持って来たのだ。お礼だからッてお金も三千円置いて行った。
鈴代 あ、そう。じゃあの晩、うまく逃げられたんだわ。
福井 お前のおかげで助かったと、そう言っていたぜ。
ト鈴代何とも言わずまた眼をつぶる。皆々心配そうに眺めている。鈴代福井の手を探って握り、
鈴代 兄さん。許してね。わたしほんとに淋しくって田舎の家にはいられなかったのよ。どうせ死ぬのなら東京で死にたいと思って、無理に逃げ出して来たの。
福井 すこし静にしてお休みよ。
松田 お医者呼んで来よう。
鈴代 わたし時々夢を見たわ。わたし達三人で歌って歩く夢ばかり見ていたわ。兄さん。もう一度わたしに歌わしてよ。アノ初ての晩歌ったあの唄……
福井 うむ。アノ……
松田 夜毎の溜息。そうだろう。
ト鈴代初めとぎれとぎれに唄い出す。福井と松田もつづいて唄い三人の合唱。よき程に静に幕。
(昭和廿五年五月稿)





底本:「問はずがたり・吾妻橋 他十六篇」岩波文庫、岩波書店
   2019(令和元)年8月20日第1刷発行
底本の親本:「荷風全集 第二十巻」岩波書店
   2010(平成22)年11月25日第2刷発行
初出:「オール読物 第五巻第六号」文藝春秋新社
   1950(昭和25)年6月1日発行
入力:入江幹夫
校正:noriko saito
2022年3月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について


●図書カード