駒込
辺を散策の道すがら、ふと立寄った
或寺の門内で思いがけない人に出逢った。まだ
鶴喜太夫が達者で寄席へも出ていた時分だから、二十年ぢかくにもなろう。その頃折々家へも出入をした
鶴沢宗吉という三味線ひきである。
「めずらしい処で逢うものだ。変りがなくって結構だ。」
「その節はいろいろ御厄介になりました。是非一度御機嫌伺いに上らなくっちゃならないんで
御在ますが、申訳が御在ません。」
「噂にきくと、その後商売替をしなすったというが、ほんとうかね。」
「へえ。見切をつけて足を洗いました。」
「それア結構だ。して今は何をしておいでだ。」
「へえ。四谷も大木戸のはずれでケチな芸者家をして居ります。」
「芸人よりかその方がいいだろう。何事によらず腕ばかりじゃ出世のできない世の中だからな。
好加減に見切をつけた方が利口だ。」
「そうおっしゃられると、何と御返事をしていいかわかりません。いろいろ
込入ったわけも御在ましたので。一時はどうしたものかと途法にくれましたが、今になって見れば結局この方が気楽で御在ます。」
「お墓まいりかね。」
「へえ。先生の御菩提所もこちらなんで御在ますか。」
「なに。何でもないんだがね。近頃はだんだん年はとるし、物は高くなるし、どこへ行っても面白くないことずくめだからね。退屈しのぎに時々むかしの人のお墓をさがしあるいているんだよ。」
「見ぬ世の友をしのぶというわけで。」
「宗さん。お前さん、俳諧をやんなさるんだっけね。」
「イヤモウ。手前なんざ、ただもう、酔って徘徊する方で御在ます。」
話をしながら本堂の裏手へ廻って墓場へ出ると、花屋の
婆は既にとある石塔のまわりに手桶の水を打ち竹筒の枯れた
樒を、新しい花にさしかえ、線香を手に持って、宗吉の来るのを待っていた。見れば墓石もさして古からず、戒名は
香園妙光信女としてあるので、わたしは何心もなく、
「おふくろさんのお墓かね。」
「いえ。そうじゃ御在ません。」と宗吉は
袂から珠数を取出しながら、「先生だからおはなし申しますが、実は以前
馴染の芸者で御在ます。」
「そうかい。人の事はいえないが、お前さんも年を取ったな。馴染の女の墓参りをしてやるような気になったかな。」
「へへえ。すっかり焼きがまわりました。先生お笑いなすッちゃいけません。」と宗吉はしゃがんで、口の中に念仏を称えていたが、やがて立上り、「先生、この石塔も実は今の
嚊には内々で建ててやったんで御在ます。」
「そうか。じゃ大分わけがありそうだな。」
「へえ。まんざら無いことも御在ません。親爺やお袋の墓は何年も
棒杭のままで、うっちゃり放しにして置きながら、頼まれもしない女の石塔を建ててやるなんて、いい年をしていつまで罰当りだか、愛想がつきます。石がたしか十円に、お寺へ五円、何のかのと二拾円から掛っています。」
「どこの芸者衆だ。」
「
葭町の
房花家という家にいた
小園という女で御在ます。」
「聞いたことのあるような名前だが。」
「いえ。とても旦那方の御座敷なんぞへ出た事のあるような女じゃ御在ません。第一看板がよくない家でしたし、芸もないし、手前見たようなものでも、昼日中一緒につるんで歩くのは気が引けたくらいで御在ましたからね。芸者の位というものは見る人が見るとすぐわかるので御在ますからね。」
寺の門前に折好く植木屋のような昔風の家づくりの蕎麦屋が在ったので、往来際の木戸口から小庭の飛石づたい、
濡縁をめぐらした小座敷に上って、わたしは宗吉のはなしを聞いた。
× ×
「もうかれこれ十四、五年になります。手前が丁度三十の時で御在ました。始めて逢ったのは芳町じゃ御在ません。
下谷のお
化新道で
君香といって居りました。旦那の御屋敷へ御けいこに上って御酒をいただいた帰りなんぞに逢引をした事が御在ました。その時分には、アノ、旦那もたしか御存じの通り、新橋に
丸次という色がありましたが、しかし何をいうにも血気ざかり、いくら
向からやんや言われても、いやに姉さんぶった年上の女一人、後生大事に守っちゃいられません。
御贔屓の御座敷や何かで、不時の
収入がありますと、
内所で処かまわず安い芸者を買い散らしたもんで御在ます。一人きまったのがあって、それで方々遊び歩くのは、まず屋台店の
立喰という格で、また別なもんで御在ます。ネエ、先生。はじめて湯島天神下の×××で君香を買ったのもそんなわけで御在ます。何しろ十時頃に上って十二時過には家へ帰っていようというんですから、女のよしあしなんぞ
択好みしちゃ居られません。何でも早く来るやつをと、時計を見ながら、時によると、×の来ない
中から仕度をさせ、腹ばいになって
巻烟草をふかし、今晩はといって手をつくやつを、すぐに取つかまえるというような乱暴なまねをした事もあります。その晩はまずそういった調子です。
暫くして座敷へ来たのを見ると思ったよりは
上玉でした。何も彼も忘れずにおぼえて居ります。衣裳は染返しの小紋に比翼の襟が飛出しているし半襟の
縫もよごれている。
鳥渡見ても、丸抱えで時間かまわずかせぎ廻される可哀そうな連中です。つぶしに
結った前髪に
張金を入れておっ立てているので、髪のよくない事が
却って目につきました。しかし
睫毛の長い
一重目縁の眼は愛くるしく、色の白い細面のどこか淋しい
顔立。それにまた
撫肩で頸が長いのを人一倍衣紋をつくった着物のきこなしで、いかにもしなやかに、
繊細く見える
身体つき。それに始終
俯向加減に伏目になって、あまり口数もきかず、どこかまだ座敷馴れないような風だから、いかにも
内輪なおとなしい女としか思われません。長くこんな商売をしていられる身体じゃない。さぞ辛い事だろうと、気の毒な心持になったのが、そもそも
間違のはじまりです。人は見かけによらないという事がありますが、この女ほど見かけによらないのもまず
少う御在ます。」
「柄にもない。一杯
食されたんだね。」
「まアそうで御在ます。後になって見れば、女の方じゃ別にだまそうと思ってかかった訳でも無いんでしょうが、実に妙な意地張りずくになって、先生、わッしゃ全く
人殺をしようと思ったんで御在ます。思出すと今でもぞっといたします。ところが、わたしよりも一足先に殺した奴があったんで、わたしは無事で助かりました。わたしの名前は
好塩梅に出ませんでしたが、その事は葭町の芸者殺しというんで新聞にも出ました。下谷から葭町へ住替をさせたのは、わたしが女から頼まれてやった事で、その訳はこの女には
〆蔵という
新内の
流しがついていました。
地体浮気で男にほれっぽい女とは知らないから、わたしも始めての晩、御用さえ済めば別にはなしのある訳もなし、急いで帰ろうとすると、「兄さん、お願いだから、もう一度お目にかからせてね。」と×××に
憂のきく淋しい眼元。袖にすがっていきなり泣落しと来たんだから、こたえられません。全体座敷で口数をきかない女にかぎって×へ廻ってから
殺文句を言うもんです。それから通い出して丁度
一月ばかり。逢った
度数で申そうなら七、八遍というところ。お互に気心が知れ合って、すっかり
打解ながら、まだどこやらに遠慮があって、お互にわるく思われまい。愛想をつかされまいという心配が残っている。惚れた同志の一番楽しい絶頂です。君香はきかれもしないのに、子供の時からいろいろと身の上ばなしをした末に、新内
語の〆蔵との馴れそめを打明け、あの人はお酒がよくないし、
手慰みもすきだし、万一の事でもあると困るから、
体好く切れたい。そのために一時この土地をはなれて、田舎へでも行こうかと言います。
此方はのぼせている最中だから、この場合、「うむ。そうか。じゃア行ってきなさい。」とは云えません。「お前の胸さえきまっているなら、お前のからだはおれが引受けよう。そんな無分別な事をせずと、東京にいてくれ。」と乗出さずには居られません。芸者の住替をする道は素人じゃないから
能く知っています。
周旋屋の手にかかって手数料を取られ、
碌でもない処へはめ込められるより、わたし自身で道をつけてやる方が結局女の為めだと考え、お参りからすぐに親里へドロンをきめさせ、借金もなろう事なら今までの
稼高だけでも負けさせて住替の相談をつけてやろうと考えました。君香の実家は木更津だそうで、親爺は学校か町役場の小使でもしていたらしい。
兎に
角悪い人じゃないようでした。わたしは
一先当人を親里へ逃して置いて、芸者家へは当人から病気になったから、二、三日帰れないという手紙を出させ、陰に廻って、そっと東京へ
呼戻して、
抱主との話がつくまで毎日逢っていようと言うんです。もともと逢いたい見たいが第一で、別に女を
喰物にしようという悪い腹は微塵もないんですから、逃す時にも当座の
小遣銭、それから往復の旅費、
此方へ呼もどしてから、本所
石原町に知っている者があったので、その二階を借りるやら、荷物は残らず芸者家へ押えられているから、さしずめ着がえの
寝衣に夜具も買う。わたしの身にしては七苦八苦の騒ぎです。何しろその時分は丸次の家の厄介になっていた身ですから、
公然に
余所へ泊るわけには行きません。昼間か宵の
中忍んで行くより仕様がないので、自然出稽古はそっちのけ、御贔屓のお客はしくじる。師匠からは
大小言。
忽の中に世間は狭くなる。金の工面には困ってくる。さてそうなると、いよいよつのるが恋のくせ。二度と芸者には出したくないような気がして来ます。いずれは住替と、話はきまっているものの、一日でも長くこのまま素人にさして置きたいという気になって、諸所方々無理算段をしながら、もしや、君香がそれと知ったら、済まないと思って早く住替をしようというにちがいない。そう云う気にならせまいと、わたしは何不自由もしない顔をして、丁度夏の事でしたから、
或日は
明石縮一反、或日は香水を買ってやった事もあります。貸二階にばかり引込んでいても気が晴れまいからと、人目を忍んでわざわざ場末の活動へ連れて行き帰りには鳥屋か何かで飯をくう。君香は何も知らないから嬉しがって、「兄さん、わたしこの
儘でこうして素人でいられたら。」と言って泣きます。昼間だけ逢っているんじゃ、もう、どうしても我慢ができない。一晩はお袋が病気だと、丸次の手前を
胡麻化し、その次は時節柄さる御贔屓の別荘へお伴をすると云いこしらえて、三日ばかりとまって、何喰わぬ顔で新橋へ帰って来ますと、イヤハヤ、隠すより
顕るるはなし。世間は広いようでも狭いもの。丸次の家で使っている
御飯焚の婆の家が、君香のいる家のすぐ二、三
軒先で、
一伍一什すっかり種が上っているとは夢にも知らないから、
此方はいつもの調子で、「今更切れるの、別れるのと、そんな仲じゃあるまい。冗談もいい加減にしな。」と甘く持ちかけたから
猶更いけない。「宗さん。人を馬鹿にするにも程があるよ。」ときっぱり、丸次は
長烟管で畳をたたき、「お前さん、それほどあの女が恋しいなら、わたしも同じ芸者だよ。未練らしい事を云って邪魔立てはしないから、立派に世間晴れて添いとげて御覧。
憚りながらまだ男ひでりはしないからね。痩せても枯れても、新橋の丸次といえば、わき土地へも知られている顔だよ。そうそう踏みつけにはされたくないからね。立派に
熨斗をつけて進上するから、ねえ、宗さん、後になっていざこざのないように一筆書いておくんなさいよ。その代りこれはわたしの
志さ。」と目の前につき付けたのは後で数えて見れば百円札が五枚。いくら
仕がない芸人でも、女から
手切を貰って引込むような男だと、高をくくられたのが
口惜しいから、金は
突返して、高慢ちきな
横面を
足蹴にして飛出そうと立ちかかる途端、これさえあれば君香の前借も話がつくんだと、卑劣な
考がふっと出たばかりに、何にも云わず、おとなしく証文をかいた時は、我ながら無念の涙に目がかすみ、筆持つ手も
顫えました。わたくしがその後三味線引をやめたのも芸人でなかったら、あの耻はかかされまいと、その時の無念がわすれられなかったからで御在ますよ。
しかし五百円をふところにして丸次の家を出ると、その場の口惜しさ無念さは
忽ちどこへやら。今し方別れたばかりの君香に逢い借金を返すはなしをしたら、どんなに喜ぶことだろうと思うと、もう矢も楯もたまりません。電車の来るのも待ちどしく、自動車を飛して
埋堀の家へかけつけて見ると、夏の夜ながら川風の涼しさ。まだ十二時前なのに
河岸通から横町一帯しんとして、君香の借りている二階の
窗も、下の格子戸も雨戸がしまっています。戸を
敲くと下の人が、「お帰んなさい。」と上り口の電燈をひねって、わたしの顔を見、「あらお一人。」というから、「お君は。」と問い返すと、「御一緒だと思ったら、ほほほほほ。」と何だか雲をつかむようなはなし。いつものように君香は
先刻わたしの帰るのを電車の停留場まで送って行き、それなり家へはまだ戻らないのだな。
明日の昼頃までおれの来ないのを承知しているからは、事によると今夜は帰るまい。どこへ行きゃアがった。前々から馴染のお客もないことはあるまい。一番怪しいのは新内の〆蔵だ。と思うと二階へ上ってもじっとしては居られません。何かの手がかりをとその辺をさがしても衣類道具は、まだ下谷の芸者家へ置いたままの始末だから、ここには鏡台一ツなく、押入には汚れたメレンスの風呂敷づつみが一つあるばかり。それらしいものは目にはつかないので猶更いらいらしてまた外へ出た。
埋立をした河岸通は真暗で人通りもなく、ぴたぴた石垣を
甞める水の音が物さびしく耳立つばかり。
御厩橋を渡る電車ももうなくなったらしく、両国橋の方を眺めても自動車の
灯が飛びちがうばかり。ひやひやする川風はもうすっかり秋だ。
向河岸の空高く突立っている蔵前の
烟突を掠めて、星が三ツも四ツもつづけざまに流れては消えるのをぼんやり見上げながら、さしずめ今夜はこれからどこへ行こう。新橋はもう縁が切れている。ここに持っている五百円。あんなに耻をかかされて、手出しもならず。押しいただいて貰って来たのは、そもそも誰のためだ。玉子の殻がまだ尻ッぺたにくっついている
水転のくせにしやがって、よくも一杯喰わせやがったな。胸糞のわるいこんな札びらは
一層の
事水に流して、さっぱりしてしまった方がと、お
蔵の渡しの近くまで歩いて来て、じっと流れる水を見ていますと、息せき切って小走りに
行過る人影。誰あろう、君香です。
「おい。おれだ。どこへ行く。」と
呼留めた声はたしかに顫えていました。
「あら。兄さん。」と寄り添うのを
突放して、「何が兄さんだ。ここにおれが居ようとは思わなかったろう。ざまア見ろ。男をだますなら、もうすこし器用にやれ。」
女は砂利の上に膝をついたまま立上ろうともせず、両方の
袂で顔をかくし、肩で息をしているばかり。何とも言わないから、「おい、好加減にしな。」と
進寄って引起そうとすると、君香は何か手荒な事でもされると思ったのか、その儘わたしの手にしがみつき、
「兄さん。気のすむように、どうにでもして下さい。わたし
本望なのよ。兄さんに殺されりゃアほんとうに嬉しいのよ。どうせ、生きていたって仕様のない身なんだから。」とまた土の上に膝をつき、わたしの袂に顔を押し当てあたり構わず泣きしずむ。
此方はすこし面喰って、「もういい。もういい。」と抱き起し背をさすれば、君香はいよいよ身を顫わし涙にむせび、「兄さん、みんなわたしが悪いんです。打たれても蹴られても、わたし決して兄さんの事を恨みはしないから、思い入れひどい目に会わして頂戴。ヨウヨウ。」と身を摺りつける様子の、どうやら気味わるく、次第に高まる泣声は河水に
響渡るような気もしてくるので、始の威勢はどこへやら、此方からあべこべに、「おれがわるかった。堪忍しなよ。」と気嫌を取り取りやっと貸間の二階へつれもどりました。
一時狂気のように上ずッた心持がすこし落ちついて来ると、乱れた
鬢をかき直し、
泣脹した眼をしばたたいて、気まりわるげに、
燈火を避けてうつ向く様子のいたいたしさも、みんな此方の短気からと後悔すれば、いよいよいとしさが
弥増り、いたわる上にもいたわる気になりますから、女の方では猶更嬉しさのあまり、思出したようにまたしゃくり上げる。イヤモウ、手放しの
痴言放題、何とも申訳が御在ませんが、喧嘩するほど深くなるとは、まったく嘘いつわりのない所で御在ます。
君香は芸者家のはなしが大分むずかしくなって、親元の方へ弁護士を差向けるとかいうはなしを聞き、以前世話になった周旋屋の店が、すぐ
河向の
須賀町なので、
内々様子をききに行ったのだと言うので、「そんなら早くそう言やアいいのに。」とわたしは百円札を並べて見せ、証文は
丸抱の八百円というのだから、これでどうにか一時話がつくだろうと、その夜は行末の事までこまごまと、抱き合いしめ合い、語りあかして、
翌日の朝早く、わたしは新橋の方さえ遠慮がなくなれば世の中に怖いものはないのだから、えばって、下谷の芸者家へ出かけ、きれいに話をつけて来ました。
さて
一月二月は夢中でくらしてしまいましたが、これまでに諸所方々不義理だらけの身ですから、やがて二人とも着るものは一枚残らずぶち殺してしまって、日にまし秋風が身にしむ頃には、ぶるぶる蒲団の中で顫えているようになりました。二人相談ずくといったところで、お君はもともと箱無しの枕芸者ですから、わたし一人覚悟をきめ義太夫の流しとまで身をおとしました。
「お君、お前はよっぽど流しに縁があるんだ。新内と縁が切れたら今度は
太棹ときたぜ。しかし心配するな。その
中先の師匠に泣きを入れて、どうにかするから、もう
暫くの中辛棒してくれ。」と毎夜山の手の色町を流している中風邪を引込んでどっと寝ついてしまいました。ここでいよいよ
切破つまって、泣きの涙でお君を手放す。お君は須賀町の周旋屋から芳町の房花家へ小園と名乗って二度とる
褄。前借はほんの当座の衣裳代だけで、四分六の稼ぎという話だったが、病気が直ってから、会いに行って見ると大きな違いで、前借は
分で七百円。しかもその金の
行衛は、一体どうなったんだときいて見ても、女の返事はあいまいで判然としない。わたしは内心ここ
等があきらめ時だ。長くこんな女と腐れ合っていちゃア到底うだつが上がらないと思いながら、どうもまだ未練が残っています。新橋の女からはその頃詫びの手紙が届いていながら、此方は落目になっているだけ、フム、人を安く見やアがるな。男地獄じゃねえ。さんざッぱら恥をかかして置きやがって、今更腹にもない
悪体をついたもよく言えたもんだ。それ程おれが可愛けりゃ
小色の一人や二人大目に見て置くがいい。姉さんぶった面は真平御免だと、ますますひがみ根性の痩我慢。どうかしてもう一度お君を素人にして見せつけてやりたいと意地張った気になります。とは云うものの、わたしはまた時々、どうして、あんな働きもなければ、かいしょもない、下らない女に迷込んでしまったんだろうと、自分ながら不審に思うこともありました。
年は丁度
二十、十四、五の時から
淫奔で、親の家を飛出し房州あたりの
達磨茶屋を流れ歩いて、十八の暮から下谷へ出た。生れつき水商売には向いている女だから、座敷はいつもいそがしく相応に好いお客もつくのだが、行末どうしようという
考もなく、慾もなければ世間への見得もなく、ただ愚図愚図でれでれと月日を送っている。どこか足りない処のあるような女です。それが
却て無邪気にも思われ、可哀そうにも見えて諦めがつきません。一口に言えばまず悪縁で御在ます。仕様のない女だと百も承知していながら、さてこの女と一緒に暮していますと、
此方までが、人の
譏りも世間の義理も、見得も
糸瓜もかまわぬ気になって、ただ
茫然と夢でも見ているような、半分痲痺した呑気な
心持になって、一日顔も洗わず、飯も食わずに寝ていたような始末。成ろう事なら、このまま二人乞食にでもなったら、さぞ気楽だろうと云うような心持になるので御在ます。
わたしはお君が葭町へ
去った後も、二人一緒に居ぎたなく暮した
昨日の夢のなつかしさに、石原町の貸二階を去りかね、そのまま居残って、約束通り、月に一度なり二度なりと、お君がおまいりの帰りか何かに立寄ってくれるのを、この世のかぎりの楽しみにして、待ち焦れていました。
尤も
表向は手が切れた事になったんで、中に人もはいり、師匠の方も
詫が叶い、元通り稽古を始めましたから、食う道はつくようになりました。
お君はその後二、三度尋ねて来て、わたしが気をもむのもかまわず、
或晩とまって、
翌朝もお午頃まで居てくれた事がありましたが、それなりけり。一月たち二月たち、三の酉も過ぎて、いつか浅草に年の市が立つ頃になってもたよりが有りません。忘れもしない。その年十二月二十日の夕方、思いがけない大雪で、
兜町の贔屓先へ出稽古に行った帰り道、寒さしのぎに一杯やり、新大橋から川蒸汽で家へ帰ろうと思いながら、雪の景色に気が変り、ふらふらと行く気もなく
竈河岸の房花家をたずねますと、小園を入れて三人いる筈の
抱はもう座敷へ行ったと見えて、一人もいない。亭主もいなければ女房同様の姉さんの姿も見えず、長火鉢の
向に二重廻を着たまま煙草をのんでいるのは、お君の小園をここの家へ入れた周旋屋の山崎という四十年輩の男。その
節顔は見知っているので、
「その後は。」と此方から挨拶すると、周旋屋は猫を追いのけ、主人らしく座蒲団をすすめて、
「おいそがしう御在ましょう。わるいものが降り出しました。師匠。実はちいッと御相談しなくちゃ、成らない事があるんで、この間からお
尋申そうと思いながら、今夜もこの雪でかじかんでしまいました。」と薄ッぺらな
脣からお獅子のような金歯を見せて世辞笑いをする。
「じゃ丁度好い都合だ。御相談というのは何かあの子のことで。」
「はい。小園さんのことで。丁度誰も家にはいないそうですから、今の
中御話をしてしまいましょう。」と切り出した周旋屋山崎のはなしを聞くと、お君は房花家へ抱えられると早々、どっちから手を出したのか知らないが、今では主人の持ものになり、ごたつき返した末女房同様の姉さんは追出されてしまった。ついてはどうにとも師匠の気がすむようにしようから、綺麗に小園さんを下さるようにと、主人から依頼されているのだと云う。事の意外にわたしは何とも言えず山崎の顔を見詰めていると、
「師匠、お察し申します、恥を言わねば理が聞えない。実はあの子にかかっちゃ、手前も一杯くっているんで御在ますよ。」
「何だ。お前さんも御親類なのか。」
「手前は、あの子がまだ房州にいる時分の事で、その後は何のわけも御在ませんが、何しろ十六の時から知っていますから、あの子の気質はまんざら分らない事も御在ません。どうせ、長続きのしっこは無いから、
御亭の言いなり次第、取るものは取って、一時話をつけておやんなすったがどうでしょう。まず来年も、桜のさく時分まで続けば見ものだと、わたしは高をくくっていますのさ。」
「お前さん、御存じだろう。〆蔵の方は一体どうなっているんだ。」
「ここの大将は師匠の事ばかり心配して、〆蔵さんの事は何も言わないから、手前も別にまだ
捜っても見ません。あれはまず、あれッきりで御在ましょう。」
「小園はお座敷かしら。」
「二、三日
前から遠出をしているそうで。
外の抱は二人ともあの子が姉さんになるのなら、わきへ住替えるというんで、一人は昨日この土地ですぐに話がつきました。もう一人は手前の手で、年内には大森あたりへまとまるだろうと思っています。」
「ああそうかね。実は一度逢った上でと思ったが、そうまで事が進んでいちゃア愚図愚図云う
程此方の器量が下るばかりだから、何も云わずに引下りましょう。
後の事はよかれ
悪しかれ、お前さんへおまかせしよう。その
中一度石原の方へも来て御くんなさい。」
わたしは
穏に話をして、まだ降り
歇まぬ雪の中を外へ出た。周旋屋と話をしている中、いつともなく覚悟がついてしまったので御在ます。もともと承知の上で二度芸者をさせた女の事。好いお客がついて身受になるというのなら、いかほど口惜しくっても指を
啣えてだまって見ていようが、
抱主の云うがままになって、前借も踏まず、長火鉢の前に坐って姉さんぶろうと云うからには、もうこのままにはして置けない。人形町の通へ出ると直ぐに目についた金物屋の店先で、メス一本を買い、雪を
幸今夜の中にどうかして居処をつきつけたいと、手も足も凍ってしまうまでその辺をうろついていましたが、
敵の行衛がわからないので、
一先石原の二階へ立戻り、翌日からは毎日毎夜、つけつ
覗いつしていましたが姿は一向見当りません。感付かれたと思ったから、油断をさせようと、二、三日家に引込んでいますと、その年もいつか暮の二十八日。今夜こそはと、夜店をひやかす振りで様子をさぐりに、灯のつくのを待って葭町の路地という路地、横町という横町は残りなく徘徊したが、やッぱり隙がない。よくよく
生命冥加な
尼ちょだと、
自暴酒をあおって、ひょろひょろしながら帰って来たのは、いつぞや新橋から手切を貰って
突出された晩、お君に出会った石原の河岸通。震災後ただ今では蔵前の新しい橋がかかっているあたりで御在ます。人立ちがしていますから、何気なく立寄って見ると、身投の女だというもあり、斬られて突落されたのだと云うもあり、そうじゃない、心中で、男ばかり飛込み女は巡査につかまったのだと云うもあり、噂はとりどり。訳はさっぱり分りませんが、何やら急に胸さわぎがして来ましたので、急いで家へ帰って見ますと、稽古につかう
五行本の上に鉛筆でかいた置手紙。
「急におはなしをしたい事があって来ましたけれど、あいにくお留守で今夜はいそぎますから、お待ち申さずに帰ります。三十日の晩に
髪結さんの帰りにまたお寄り申します。おからだ御大事に。君より。」
そのまま息をきって警察署へ馳けつけ様子をきくと、殺されたのは、やっぱり蟲の知らせにたがわず、お君でした。うしろから背中を
一突刺されて川の中へのめり落ち、
救上げられたものの息はもう切れていました。わたしの懐中にメスが在ったので、申訳ができず、御用になろうという時、派出所の巡査が自首した男だと云って連れて来たのは
新内流しの〆蔵だ。その
申立によると、〆蔵はお君がわたしと一緒に暮らしていた時分にも、二、三度逢引をした事もあったとやら。殺意を起したわけはわたしの胸と変りは御在ません。抱主の持物になって姉さん気取りで
納ろうとしたのが、無念で我慢がしきれなかったと云うのです。
お君は実際のところ、そういう量見で
房花家の亭主と好い仲になったのか、どうだか、死人に口なしで、しかとはわかりません。わたしへの手紙から見れば、そういう
考でした事だとも思われない。
口説かれると、見境いなく、誰の言う事でもすぐきくのが、あの女の病いでもありまた徳でもあり、そのためにとうとう生命をなくした。それにつけても、お君はあの晩わたしの家へ寄りさえしなければ、〆蔵に突かれはしなかったろう。わたしが家にいて、一緒に帰りを送って行ったら無事であったにちがいはない。それとも〆蔵のかわりに、わたしがとんだお
祭佐七になったかも知れませぬ。人の身の運不運はわからないもので御在ます。
その後あの辺もすっかり様子が変って、埋堀も御蔵橋もあったものじゃ御在ません。今の女房を持って大木戸へ引込んだはなしも一通り聞いていただきたいと思いますが、あんまり長くなって御退屈でしょうから、いずれその中、お目にかかった時にいたしましょう。」
(昭和六年辛未正月稾)