現代文士の生活も年月を経るに従って今では
殆一定の形式をつくりなすようになった。ここに文士の生活と言ったのは何であるか。
則現代の青年が専門の学校を卒業した後、世の雑誌新聞に文章を掲げその報酬を以て生計を営むことを
謂うのである。これ等現代の文士はまだ学業を
卒らぬ
中から早くも学校内で広告がわりに発行している雑誌または新聞紙に草稿を投じ、その編輯を担任している先進者の推挙を待ち、やがてその後任者となる。これ等が文士生活の第一歩であろう。学校の経営者も今日の世に在っては教育事業も商業の一種となった事を意識している。そして自分等も校長とか教授とか
或は監事とか評議員とかいう職務を踏台にして、折もあらば他に栄達の道を求めようとしているので、第一には学校の広告となり、第二には学生の
気受をよくしたいがために、校内で新聞や雑誌を刊行することを許可しているのである。さて学生にして校内発行の印刷物に関係することを得た者は、また絶えず機会を窺って世間知名の専門文士、或は世の新聞雑誌の記者、或は書肆出版商に接近し漸次に文士生活に入るべき道を習い覚えるのである。文士生活を営むに
最必要なるは政治家の政治運動をなすと同じく、常に集団をつくって勢力を張ることである。是がそも/\過去の文士生活とは全く趣を殊にする所である。むかしの青年文士は
互に心置きのないもの四、五輩相寄れば、往々行先も定めず、近郊の散策に好晴の半日を消し、帰途牛肉屋か蕎麦屋の二階に登って、陶然一杯の酒に途次獲たところの俳句でも示し合って、款語するくらいの事を無上の
娯みとなしたに過ぎない。現代の文士に至っては俳句の一首さえも知名の俳人と一堂に会して膝を接するに
非らざればこれを吟ぜず。一たび吟じたならばまた知名の士とその名を連ねて世の新聞雑誌の紙上にこれを掲げることを忘れない。彼等はその友人の中にたまたまその著述を出版するものがあれば狼の如くその周囲に集り来って、祝賀の宴を張る。その状況を見るに彼等同臭の文士は自ら立って発起人となりまずその姓名を連署した往復端書を印刷しこれを知名の文士新聞記者等の許に郵送する。著者とは一面識なきものでも、或は著者の思想とは全く傾向を異にしている者でも、それ等の事には更に頓着せず、ただ一人たりとも多く人を集め一銭たりとも多く会費を獲ようとする。かくの如き宴会には当夜の幹事が飲食店に対して往々満足に支払いをしないこともあるとやら。
さてかくの如き出版祝賀の宴会が催されると、彼等同臭の青年文士は更にまた往復葉書を印刷して、先に出版物を贈呈して置いた文士連の許にこれを発送し期限を定めて、かの出版物に対する批評または感想録の如き返書を請求し、やがてこれを雑誌に掲載して、著者に向っては
頻に友誼を重んずるがために犬馬の労を惜しまなかったことを説く。しかしその実は著者の羽翼を借りて自分達の名を弘めようとするのである。
当代の文士にして少しく名を成したものは機会ある毎に、好んで学校教会等に聴衆を集めて講演会を催す。文士の講演を喜び聴くものは重に地方から上京している男女の学生であって、平生出版物を購読しているものである。文士連より見れば、最大切な顧客である。文学を愛好する男女の学生は、文士連に対しては特に尊敬の念を抱いているわけではない。ただその面貌言語に接して見たいという軽い好奇心を持っている。これを満足させるがため講演会に集り来ること、
恰芝居
好の町娘が役者の素顔を見ようと楽屋口を徘徊するようなものである。演壇に立つ文士にして経験のあるものは聴衆の心理を洞察しているが、しかしわずか二、三十分間講演をしていれば謝礼の外にその日の晩飯くらいは馳走になれると内心胸算用をしているので、講演会の幹事に対しては表面はいかにも迷惑そうに、不精無精に承諾して置きながら、いざ演壇に立つとなると、聴衆は自分等が著書の購読者だと思うので、成るべく前受のよさそうな演題を
択び、有りもせぬ智慧をしぼって時々は滑稽なことも言って聴衆を倦ませぬようにと
力めるのである。こうなっては文士も落語家と更に択ぶところがない。
尤も字典には舌耕という古語も見えているから、文士が筆のあい
間に舌で稼ぐこともあながち今に始ったわけでもないらしい。
大正十一年頃からラジオの放送が行われてから文士の舌耕はますます
盛になり、今日では文学の講演は文士の定業の如き状況となった。聞く所によればラジオ放送所の文士に贈る講演料は一回五、六拾円を以て最高の価としているそうである。わたくしは生来
訥弁であるので、公会の席で講演をする事を好まない。また人の講演を聴く気にもなったことがない。講演をきかなくとももしその人に著述があったなら
静にそれを
把って読めばよいであろう。わたくしは講演と称するものの大抵は無趣味なるを知ると共に、また会場の光景の殺風景なるを嫌うのである。またわたくしは日本人の面貌と言語と音声とはいずれも講義や演舌には最も適せざるものと思っている。日本人の面貌は表情に乏しく、陰険にして
且下賤に見えるので、聴者に不快の感を起さしめる。その音声は低く濁っているのみか平坦にして更に抑揚がない。その言語は散漫にして且無意義なる剰語が多い。一言半句を発する毎に
必デアリマス。デゴザリマス。ト云ウワケデスの如き剰語が反復せられる。
暫く聴いているとこれ等の剰語ばかりが耳について他の必要な言語は聞取れないようになる。翻って文章のことを思うに言文一致体の文においても心ある詞芸家は筆を
秉るに当って文勢の緩漫に流るることを
慮り、成るべくデアルの剰語の反復を避けようと苦心している。講演においては目に見る文章よりも一層これ等の注意が無くてはならぬ筈であろう。日本人の相貌は今
遽にこれを
奈何ともすることができない。しかしその音声と言語とはなお練磨することができる。今日
試にラジオの講演について耳を傾くるに、世の講演者にしてこれ等の事について苦心の痕を示したものはまだ一人もないようである。西洋人の言語音声は演説に適している。西洋には
夙くより即興詩の朗読が行われた。また演劇について見るも彼国には長き独白があって、しかも聴客を倦ましめない。これに反して我国に在っては台詞の長きものは「曽我」の対面と「
暫」とのつらねの如きに過ぎない。これまた彼我音声言語の相違を示す一例となすに足りるであろう。
当世文士の副業を挙ぐれば講演の外には色紙短冊の揮毫が行われている。
曽てわたくしも大正七年の頃亡友
井上唖々子と個人雑誌を刊行していた時、出版費の損失を補うがために誌上に広告を掲げ、
塗鴉を試みて銭に替えたことがあった。この事が累をなして雑誌廃刊の後に至ってもわたくしは今だに折々揮毫を強いられている。当初は興に乗じ悪筆を
慚る暇もなかったが一たび自分は書家でも俳諧師でもないのにと心づいてからは、これを再びする気にはなれなくなった。まして近頃は依嘱者の中にその兇悪なること無頼漢にも
均しきものが陸続としてわが門に迫るようになっては、俳句も今は文墨の遊戯だと言ってもいられない。ここに二、三の実例を挙げるのはその人を筆誅する意ではない。事実について時勢の変遷と人心の下ったことを証明するためである。
埼玉県下の某邑に居住する某生なる者が一日果実一籃を携えてわたくしの家に来り、短冊二、三十葉を出して俳句の揮毫を求めた。旬日を経てその男は以前の短冊を受取りに来た際、帰りがけに更にまた二、三十枚の短冊に拾円紙幣一枚を添え、重ねて揮毫を請うて去った。その後幾度となく催促に来たがわたくしは再びその男の短冊には筆を秉らなかった。しかし二、三個月の後あまり度々催促に来るので、わたくしは拾円札と短冊とをその
儘郵便で返送してやった。するとその男は一回催促に出京する毎に往復一、二円の車賃をつかった。計算すると二、三十円になるがこの損失は一体どうしてくれるのか。このままには済まされないという返書を寄越した。
次には関西の某市で書画の販売を業としている者がわたくしの許に訪い来って短冊に俳句を書いてもらいたいと云う。わたくしは暇があったら書いてもよいと答えると、商賈はその翌日短冊二、三百枚ほど運んで来て、紅黄緑白およそ五彩に分った短冊に、その赤いものには春季の句、青いものには夏の句を書いてもらいたいといろいろな注文をする。わたくしは黙々として聞いていたが、心中
窃にかの商賈の言う所はさながらむかしの大名が
平生出入扶持を給して置く
抱の儒者に命じて詩をつくらせると同じようであると思ったので、そのまま打ち棄てて筆を染めなかった。商賈は
頻に前約の履行を迫り既に国内の諸新聞に広告を掲げ短冊購求者の募集をした上は期限までに是非とも書いていただかなければ店の信用にかかわると言う。わたくしはこれに答えて、しからば御遠慮なく公にわたくしが違約の罪を鳴らして損害賠償の法を講じたらよいではないか。わたくしは商賈の奴僕となろうよりは
寧懐中の銭を空しくした方が遥に心持がよいと言った。この事件は半歳に渉って
頗紛擾を極めたが、一友人の仲裁を
俟って辛うじて無事に済んだ。古人芭蕉の句を誦して※
[#「燗のつくり」、U+9592、113-8]寂を味おうとする心持と、当世の商人の貪慾なることとを思比べると、今の世に在っては十七字の戯れさえ人には知られぬように用心していなければならぬのである。
森先生の短篇小説に「あそび」と題せられたものがある。「あそび」は官吏にして公事の余暇文筆を執って久しくその名を世に知られている男の一日の行動を叙述したものである。その男が
或新聞社から懸賞応募脚本の選定を依嘱せられている。これはその男が平生身に寸暇もないところから
甚迷惑に思っている事であるが、無理やりに押しつけられて已むことを得ず承諾したのである。たまたまその男は或日朝餉の際にその日の新聞紙を見た。新聞紙は懸賞脚本を募集した社の発行するものである。紙上にはその男の芸術を評して
殆価値なきものの如くに断言した論文が掲載せられていた。その男はこれを読んで学問上の公憤を禁じ得なかった。そしてかくの如き誤れる批評を草している筆者と、喜んでこれを掲げている新聞社とを同一のものと
見做した。その紙上にかくの如き批評を掲載して憚らざる以上には、新聞社は
挙ってその論旨を是認していると見ねばならぬとなした。そうなると、かの新聞社は誤れる芸術家に大切な脚本の選択を依嘱したわけで、これは彼我両者に対して甚
怪しからぬ事である。主人公は新聞社から電話で選評の催促を受けたがはっきりした返事をせず懸賞脚本は用箪笥の上に
投り上げて遂に見ようともしなかった。是によって主人公は
纔に公憤の報復に代えたと云う。主人公は木村と名付けられている。篇中終りの一節を見るに、「微笑の影が木村の顔を掠めて過ぎた。そしてあの用箪笥の上から当分脚本は降りないのだと、心の中で思った。昔の木村なら「あれはもう見ない事にしました。」なんぞと云って、電話で喧嘩を買ったのである。今は大分おとなしくなっているが、彼れの微笑の中には多少の Bosheit がある。しかしこんな、けちな悪意では、ニイチェ主義の現代人にもなられまい。」云々。
わたくしは森先生が「あそび」の篇中から更にまた左の数行を抄出して置きたい。平生わたくしは現時文壇のわたくしに対する毀誉両面の月旦に対して常に平なること
能わざるものがある。この憤懣は左の数行の文を得て大に慰撫せられるが故である。
「木村はただ人が構わずに置いてくれれば好いと思う。構わずにと云うが、著作だけはさせて貰いたい。それを見当違に罵倒したりなんかせずに置いてくれれば好いと思うのである。そして少数の人がどこかで読んで、自分と同じような感じをしてくれるものがあったら、
為合せだと、心のずっと奥の方で思っているのである。」云々。
わたくしが三田文学を編輯していた頃、わたくしに対してのみならず、森先生や上田先生に対しても野卑なる文字を連ねて殆人身攻撃に均しき事を
敢てしたのは雑誌「新潮」である。新潮はわたくしが「三田文学」を去って二、三同臭の士と雑誌「文明」なるものを発行していた時までも、毎号依然としてわたくしに対して中傷の記事を掲げて止まなかった。わたくしの事は今
姑く言わない。大正十一年七月森先生が即世の際「新潮」はその翌月の誌上に次の如き記事を掲げた。
森鴎外博士が死んだ。新聞の報道だけを見ると、死んだ人は皆それ相当に褒められて居る。生前随分批難の的となって居た人間でも、死んだとなると手の平を返すように褒められる。人情としてさもあるべきことだ。鴎外博士もやっぱりその通りである。生前イヤな奴だと思って居ても死後その人の逸話や私生活を知ると何となく好きになって来る人がある。ちょっとした逸話にその人の人間らしい面目が見えて、生前の反感が打消されて了うような人がある。原敬だの山県有朋だの出羽の海だのは、生前イヤであったが、死んでから割合に好感を持てた。ところが生前もイヤな奴で死後もなおイヤな奴がある。大隈だの森鴎外だのがそれだ。彼等の死後業々しく報道される彼等の人となりを知れば知るほど、一層親しみが持てない。鴎外博士は飜訳こそしたが彼の仕事が文壇に取ってどれだけ意義あるものかは疑わしい。鴎外が飜訳をしなくたって、馬場孤蝶だって、米川正夫だって、誰かが多分飜訳してくれるだろう。それを読めば十分だ。ただ鴎外は飜訳の先鞭をつけたというだけのものだ。結局鴎外はお上の月給取りというだけのもので、彼が死んだことの為に文壇は少しも騒ぐに当らないと思う。」云々
右の文には署名がない。しかし前後の体裁より推知するに、当時新潮社の内部に在って同誌の編輯をなしつつあった者の手に為された事は
明である。わたくしはここにおいて雑誌新潮誌上の該記事は文学書肆新潮社全体の是認しているものと見做した。新潮社は森先生が六十年の生涯に為された事業は我日本の文壇には何等の意義をもなさぬものと断定したのである。しかるにかくの如き暴言を吐いたその舌の根のまだ乾きもやらぬ中、新潮社は同年十一月与謝野寛氏が鴎外全集刊行のことを企るや、氏に請うて遂に全集出版書肆の中に加った。森先生は新潮社に取っては死んでもなおイヤな奴ではないか。そしてその著述は何等の意義なきものだと言うのではないか。意義なきものの出版に強いて自ら参加したのはどういうわけであろう。さほどに意義なきものが出版したくば
独森先生の著述のみを選ぶには及ぶまい。新潮社は言行の相一致せざる破廉耻の書肆である。翌年大正十三年十一月二十一日に至って新潮社は店員何某をわたくしの家に派遣して現代小説選集とか称する予約出版物に拙著をも編入したい趣を伝えた。店員はその際わたくしの問いもせぬのに不可解なる事を申訳らしく言添えた。その言葉は「中村さんも近頃は大変後悔して居られますから。」と云うのである。わたくしは今だに何の意であるかを解しない。しかしわたくしは森先生が物故の際聞くに堪えざる毒言を放った書肆に、わたくしの著述を出版せしめることは徳義上許さるべき事ではないので、断然これを拒絶し、
且店員に向っては重ねて
敝廬の門を叩くなと戒めて帰した。わたくしは新潮社に関係する文士とその社から著述を公にしている文士輩とは、誰彼の別なく彼の新潮の記事を公平だと是認している者と思っているので、それ等の輩とはたとえ席を同じくする折があっても言語は交えないつもりでいる。宋儒の学説を奉ずるものは明学を入れる雅量はないであろう。わたくしは狷介固陋を以て残余の生涯を送ることを自ら快しとなしている。