武士を夷ということの考

喜田貞吉




一 緒言


 国史地理学上、本邦の種族調査の一部として、さきに「夷俘・俘囚の考」と「東人あずまびと考」とを発表したる余輩の研究は、ここに中世において武士をえびすと称したることの理由を説明すべき順序となれり。「えびす」とはいうまでもなく古史に見ゆる蝦夷、すなわち今日北海道になお約二万の遺※(「(屮/師のへん+辛)/子」、第4水準2-5-90)を存するアイヌ族のことなり。その住所東方にあるがゆえに、あるいはこれを東夷という。平泉中尊寺なる藤原清衡の「願文」に、「弟子者東夷之遠酋」とあるものこれなり。源頼朝、征夷大将軍に任ぜられ、幕府を鎌倉に開く。京師の※(「てへん+晉」、第3水準1-84-87)紳これを賤みて東夷と貶称し、さらに一般に武士のことをも「えびす」という。鎌倉・南北朝ころの日記・記録・古文書等にはなはだ多く散見するところなり。征夷大将軍はもと東夷を征する三軍に将たるものの称なり。しかしてかえってみずから東夷の称を受く。すこぶるその義に反す。幕府被管の武士は多く名家右族の後と称す、しかもその源たると、平たると、藤たると、橘たるとを問わず、ひとしく夷をもって目せらる。またきわめてその所由いわれなきに似たり。しかるに、他より往々これを言うのみならず、時としてまたみずからこれを認むることあり。奇怪の現象たらずんばあらず。
 解すのものは曰く、東国はもと夷の地なり。ゆえにその地に起れる武家政府を賤みて、東夷と称するなりと。この解はきわめて簡単明瞭なるに似たれども、しかも事実にあらず。なるほど有史以前の時代には、東方諸国実に蝦夷の巣窟たりしなるべし。否、ただに史前時代のみならず、雄略天皇の御事なりと解せらるる倭王武の宋に遣わし給える「国書」に、祖宗以来武をもって国を立て、東「毛人えみしを征する五十五国」とあり。また承和二年陸奥国司の「解文げもん」に、白河・菊多の関を置きてより今に四百余歳とある文等を玩味するに、『常陸風土記』の記事等と相啓発して、有史以後においても、なおある期間は関東地方に蝦夷の蟠居せしことを認めざるべからざるなり。しかれども、奈良朝ころの人士は、早くすでにその事実を忘却したり。当時の著作なる『古事記』『日本紀』等には、景行天皇朝に日本武尊の経略し給える蝦夷の日高見国をも、当時の蝦夷蟠居の域なる北上川下流地方に擬定せるなり(拙著『読史百話』所載「日高見国と日高見川」参照)。されば、平安朝以後の人士はもちろん、鎌倉・室町ころにおいても、常に奥羽のみをもって蝦夷の本国と解したり。文治五年の鎌倉の「掟」に、「出羽・陸奥に於ては夷の地たるによりて、度々の新制にも除き訖りぬ。偏に古風を守り、更に新儀なし」とあるは、当時の実情を述べたるものなれば、必ずしも古代の証となすには足らざるものなれども、『江次第抄』が俘囚を解して、「俘囚はもと是れ王民、而して夷の為に略せられて遂に賤隷となる。故に俘囚或は夷俘といふ。其の属陸奥出羽にあり。後遷りて諸国に居る」とあるものは、明かに俘囚の本国を陸奥・出羽両国なりとするものといわざるべからず。しからば源氏が関東に幕府を開きたりとのゆえをもって、これをこれ東夷なりと指斥すべき理由は存せざるなり。
 解するものまたあるいは曰く、武士はすなわち孔子のいわゆる北方の強者にして、元来夷狄の長とするところなれば、当時文弱に流れ、優美を宗とせる京師の※(「てへん+晉」、第3水準1-84-87)紳より、これを賤みて夷と称せしものならんと。しかれども、これまたわが邦に適せざるの解なり。わが皇祖皇宗、由来武をもって国を立て、歴朝東征西伐の結果として、この大帝国は成れり。したがって古来決して文をのみ尊み、武を賤むの事実あることなし。大宝令の官制にも武官の設あり、貴紳・名族多くこれに任ぜられて怪しまず。しかして、鎌倉武士また多く源平藤橘等、諸名家の族なりと称す。なんぞ彼らが武勇者なるのゆえをもって、目するに北方の強者たる夷狄の称をもってし、これを蝦夷として貶することあるべけんや。
 しからば中世京師の※(「てへん+晉」、第3水準1-84-87)紳が、武士を夷と称せしは果してなんのゆえぞ、請う、種族的研究のうえより、いささかこれが解説を試みん。

二 東夷および夷の称呼


 蝦夷すなわち古代のアイヌを目して東夷とし、または夷と称せしことは、ここに説明するまでもなし。「えみし」の語はすでに神武天皇御製と称する歌詞の中に見え、東夷の称は景行天皇朝武内宿禰復命の文中に出づるなり。しかしてそのこれを「えびす」と呼ぶは、単に、「えみし」の一転訛のみ。ただし、宿禰の復命には、
 東夷の中日高見国あり、其の国人男女並に椎結文身し、人と為り勇悍なり。是をすべて蝦夷といふ。
とありて、蝦夷すなわち東夷なりとは言わず。また景行天皇の群卿に仰せ給える「詔」の語にも、
 今東国安からず、暴神あらぶるかみ多く起る。亦蝦夷悉く叛いて屡※(二の字点、1-2-22)人民を略す。誰人を遣はしてか、以て其の乱を平げん。
とありて、東国の騒擾には蝦夷以外他に暴神多きことを認め給えり。さらに天皇の日本武尊に下し給える「詔」には、
 朕聞く、其の東夷や識性暴強、凌犯を宗となす。村に長なく、邑に首なく、各※(二の字点、1-2-22)封堺を貪りて並に相盗略す。亦山に邪神あり、郊に姦鬼あり、衢に遮り、径に塞ぎ、多く人を苦しましむ。其の東夷の中蝦夷是れ尤も強し。男女交り居り、父子別なく、冬は則ち穴に宿し、夏は則ち樔に住む。毛を、血を飲んで昆弟相疑ひ、山に登る事飛禽の如く、草を行く事走獣の如し。恩を承けては則ち忘れ、怨を見ては必ず報ゆ。是を以て箭を頭髻に蔵め、刀を衣中に佩き、或は党類を集めて辺界を犯し、或は農桑を伺ひて以て人民を略す。撃てば則ち草に隠れ、追へば則ち山に入る。故に往古よりこのかた未だ王化に染まず。云々。
とありて、明かに蝦夷を東夷中の一種と説き給えるなり。ここにおいて世あるいは蝦夷以外にも、わが東国の古代には他の異族ありしことを認めんとするものあり。『常陸風土記』にも、在昔常陸には蝦夷すなわち山の佐伯さえき、野の佐伯のほかに、土蜘蛛すなわち八掬脛やつかはぎなるものの住せしことを説けるによりて、いっそうこの説に根拠あらしめ、ために余もまたかつて、か考えたることありしが、今にして思うにしからず。ここにいわゆる東夷とは、『日本紀』の編者が漢史の用字を借りて、漫然とこれを記述せしものにして、必ずしも事実武内宿禰がしかく伏奏し、景行天皇がしかく詔示し給いきと解することを要せず。したがってまた蝦夷以外他に異族ありきと解するをも要せざるべし。
 なお、さらに思うに、すでに「夷俘・俘囚の考」中にも詳論したるがごとく、わが古史に蝦夷とあるものは、普通にその生蕃のみを指し、彼らの熟化したるものは、虜または俘囚としてこれと区別せるなり。『日本紀』の編者は、その当時の思想をもって宿禰の言、天皇の語を録したるべければ、当時蝦夷以外の俘囚もしくは東人として認められたるものの祖先をも総称して東夷と称し、特にその中の最強者たる生蕃のみを指して、蝦夷と呼びたりと解する、また妨げず。『唐書』に「倭国の東北、大山を限り、其の外は即ち毛人」とあるは、斉明天皇遣使当時の実際を示せるものにして、必ずしも太古の状態を説くものにあらずといえども、また倭国と毛人との間に他の夷族あるを言わず。前引、倭王武の「国書」にも、単に東方毛人国を征することをのみ説いて、他に及ばざるを見れば、少くも有史時代においては、東国において毛人すなわち蝦夷以外に有力なる異族あらざりしことを承認せざるべからず。東夷はとうてい蝦夷の称と解すべきなり。単に夷というまた同一なること勿論なりとす。
 しかるに、鎌倉時代において京師の※(「てへん+晉」、第3水準1-84-87)紳が目して東夷もしくは夷となすものは、往々にして鎌倉幕府を指し、あるいは一般に武士を示すの語となれり。『太平記』俊基朝臣東下りの道行のうち、池田宿の条に、
 元暦元年の比かとよ、重衡の中将の、東夷の為に囚はれて、此の宿に付き給ひしに、「東路の、丹生はにふの小屋のいぶせきに、古郷如何に恋しかるらん」と、長者の女がよみたりし、其の古へのあはれまでも、思ひ残さぬ泪なり。
とある「東夷」を始めとして、『経光卿記』に、後嵯峨天皇御即位の時のことを記して、帝位は東夷の計のごとし。とあるなど、その例、枚挙にいとまあらざるなり。また、兼好法師の『徒然草』に、
 人毎に我身にうとき事をのみぞ好める。法師は兵の道をたて、夷は弓引くすべ知らず。仏法知りたる気色し、連歌し、管絃をたしなみあへり。
とある夷は、明かに一般の武士を指すなり。また同じ書に、
 心なしと見ゆるものも、よき一言は言ふものなり。或る荒夷あらえびすの恐ろしげなるが、かたへに逢ひて、御子おはすやと問ひしに、一人も持ち侍らずと答へしかば、さては物のあはれは知り給はじ。情なき御心にぞ物し給ふらんと、いとおそろし。子故にこそ、万の物のあはれは思ひ知らるれと言ひたりし。さもありぬべきことなり。
とある荒夷も、物のあわれを知らぬげに見ゆる武骨一遍の勇士のことを言いたるものなり。
 これらはいずれも都人より関東武士を指せるものなれども、関東武士自身また、他より然か言わるることを覚り、時としてみずからこれを口にすることあり。『貞永式目』に関して北条泰時より六波羅探題に遣わせる「消息」に、
 所詮従者は主に忠を致し、子は親に孝あり、妻は夫に従はば、人の心の曲れるをば捨て、直きをば賞めて、自ら土民安堵のはかりことにや候とて、斯様に沙汰候を、京辺には、定めて物も知らぬ夷どもの書き集めたることとて、笑はるる方も候はんずらん。
とあるがごときこれなり。これらは大宮人が安倍宗任を夷なりと嘲り、藤原清衡がみずから東夷の遠酋、俘囚の上頭をもって任じたると趣を異にし、事実蝦夷ならぬものを指して、東夷または夷と称するものなり。
 されど、これらの時代においても、必ずしも、幕府もしくは武士のみを夷として指斥するにあらず。真の蝦夷を指す場合また少からざるなり。金沢『称名寺文書』に、
当寺祈祷事、蝦夷已静謐之間、法験之至、殊感悦候、謹言
 文保二年五月二十一日
高時(花押)
   称名寺長老
とある蝦夷は、言うまでもなく当時なお奥羽の北部に蟠居せし蝦夷を指せるなり。また『保暦間記』に、
 元亨二年の春、奥州に安藤五郎三郎、同又太郎と云ふ者あり。彼等が先祖安藤五郎と云ふ者、東夷の堅めに、義時が代官として、津軽に置きたりけるが末なり。此の両人相論ずる事あり。高資数々賄賂を両方より取りて、両方へ下知をなす。彼等が方人の夷等合戦をす。是によりて関東より打手を度々下す。多くの軍勢亡ひけれども、年を重ねて事行ぬ。
とある東夷または夷は、いずれも蝦夷そのものを指せるなり。しかして、同じ東夷もしくは夷の称をもって呼ばれたる鎌倉幕府または一般武士は、実に京師の※(「てへん+晉」、第3水準1-84-87)紳よりして、また蝦夷として認められたりしものならざるべからず。

三 東夷および夷の称呼(つづき)


 前節に『徒然草』その他の数書を引きて、中世に武士を夷と言い、特に東国武士を東夷と言える実例数項を掲げたりしが、今さらにその稿をつぎて、遺れるを補うべし。
『夫木抄』読人知らずの歌に、
 武士もののふの八十宇治川の夷島落ちくる水のたけくもある哉
 これは宇治川にある夷島えびすじまのことを詠めるものなれども、武士と夷とその勇猛なることを取り合せたること、言うまでもなし。しかしてこれ、必ずしも東夷の謂にあらずして、一般武士を言えるものなりとす。
『増鏡』つげの小櫛の条に、
 御子みこは十月三日御元服し給ひて、久明の親王と聞こゆめり。同じき十日の日、院よりやがて六波羅の北の方、さきざきも宮の渡り給ひし所へおはして、それよりぞあずまに赴かせ給ふ。同じ二十五日鎌倉へ着かせ給ふにも、御関迎へとてゆゆしき武士ども打ち連れて参る。宮は菊のとれんじの御輿に御簾あげて、御覧じならはぬ夷どもの打ち囲み奉れる、頼もしく見給ふ。
 これは警固の勇士を夷といえるなり。
 同書、春の別れの条に、
 宣房の中納言御使にてあずまに下る。おほかた古き御代より仕へ来て、年も長けたるうへ、此比は天下にいさぎよく、むべむべしき人に思はれたる比なれば、此の事更に御門みかど(後醍醐天皇の御事)の知ろし召されぬよしなど、けざやかに言ひなすに、荒き夷どもの心にも、いと忝き事となごみて、無為なるべく奏しけり。
 これは幕府の吏員を夷といえるなり。
 長門本『平家物語』に、
 義盛が申しけるは、如何に和殿は何処へとてましますぞ、屋島の城は追落して焼き払ひたるぞ。大臣殿は生捕られ、左衛門尉殿は討死、新中納言・能登殿こそいしかりつれ。和殿の父阿波民部殿は降人に参りてましましつるを、義盛がもとに預け奉りて候ぞ云云。之を聞きて三千余騎の兵ども、国々より馳せ集まれる夷なれば、我先きにとぞ落ちにける。
 これは東国武士ならで、平家方の諸国より烏合せる兵士を言えるなり。
 この武士をエビスということにつきて、近刊の文学士菊池仁齢氏著『奈良平安時代の奥羽経営』(『奉公叢書』第二編)には、はなはだ簡単に左のごとく説明せり。
 蝦夷は、古これをエミシといへり。(中略)中世にては、これをエビスと訛る。(中略)アイヌ語の Emusエムシ とは、今太刀、刀の意なれども、もともと勇敢なる武士、郎党より転化したるものなり。エミシは即ちこれなるべし。
 すなわち氏はアイヌの古語において勇敢なる武士・郎等のことをエムシと言いたりとせらるるなり。もし果してかくのごときことあらんには、武士を夷ということは、この古語のたまたま邦人間に伝われるものとも見るべく、解説きわめて簡単なりとす。しかれども余輩はいまだアイヌの古語なるものを知らず。またこれを知るの方便を有せず。菊池氏何によりてこれを言うか、不審なきにあらず。氏はさらに説を進めて、
 東夷あずまえびすは、もと関東地方に蝦夷住みて、勇猛なりし事実より、これらの地に割拠せる武士を目して、後世名づけたる称号ならむか。
と言わる。これは前説とはいささか矛盾の観あり。言うまでもなく東夷とは、もと蝦夷そのものを指せるものにて、古史の記するところ歴々徴すべく、また関東武士を東夷と称するは、必ずしもその地がかつて夷の住所たりしことに由来せざるべきは、前すでに説きたり。氏自身の説によるも、すでに古えアイヌ語にて勇敢なる武士郎等をエムシと称せし事実あらんには、その勇敢なる東国武士を東夷あずまえびすと称せんこと、単にその語のみよりして解すべく、さらにその地にかつて蝦夷が住みたりとの事実を提供して、廻り遠き説明を下すを要せざるに似たり。
 坪井博士は『考古学雑誌』(第四巻第三号)に「蝦夷考」を発表せられ、
 タケル(梟師)が遂に尊称となりし如く、エミシも亦貴名となり了りぬ。蘇我氏の一大臣は蝦夷とも蝦※(「虫+夷」、第4水準2-87-46)とも正史に出でたり。エミシを又エビスとも云ひたり。其孰れが原語なりや未だ調査せざるも、要するに同語なるは明白なり。後世に至りて関東武人をアヅマエビス(東夷)、一般武人をエビス(夷)と呼びたるも、罵詈の綽名に非ざりしが如し。されば、エミシ・エビスの元義は勇士・武人の意なりしならんか。
と疑われたり。博士がかく疑わるるは、現代のアイヌ語にもっぱらエムスを刀の義に用うれども、これをヨーロッパの類例に徴するに、古えデーガン等の語は青年・豪傑・郎党を意味せしに、現代ドイツ語にてはデーゲンを軍人等が佩用する剣の義に用うるに過ぎざるより類推して、もしエムシ・エムスなるアイヌ語が古代にも存せしならば、その元義は勇士・武人の意なりしならんかと推測せられたるもののごとし。しかもこれ一の仮定説を学界に提供せられたるに過ぎざるなり。
 しかるに菊池氏は、百歩をこれに進めて、一躍ただちに「アイヌ語のエムシは今太刀・刀の意なれども、もともと勇敢なる武士・郎党より転化したるものなり」と断言せらる。氏はここに博士の説に基づけることを言わず。したがって氏の説は博士とは独立に研究せられたるものと見るべく、博士の仮定説は氏によりて偶然完成せられたるものと解すべきものなり。しかも余輩は、いまだアイヌの古語に、エムシなる語が果して存せしや否やを知らず。またよしや存したりとするも、これが勇敢なる武士・郎等を意味せしものなることを知るを得ざるがゆえに(博士もエムシなる語の古えに存せしことを断言せられざるなり)、しばらく論説発表の時期の前後よりして、菊池氏の説は博士の所説に基づけるものと解すべく、しかも氏はこれを誤解し、自説として発表せられしにはあらずやとの疑いを禁ずる能わざるなり。もし果してしからんには、氏のために深くこれを遺憾とせざるを得ず。
 ちなみにいう。菊池氏の『奈良平安時代に於ける奥羽経営』なる書は、さすがに三上・萩野両博士のその公刊を勧告せられしほどありて、多くの史料をよく按排し、巧みに他人の諸説を引用して、当時の対夷事情を見るに便利なる好著なり。されどあまりに濃厚なる蝦夷という色目鏡を掛けて古史を見たるがために、夷人なりと認むるになんらの証左なき者をまでも多く夷人として列挙したるの嫌いありて、大勢を知るうえにすこぶる遺憾の点あり。
 その他人の説を引用する場合においては、あるいはその名を録するあり、あるいは録せざるあり。名を録せずとも、その説がすでに文書をもって学界に公表せられたるものならんには、なお恕すべき点あらんも、そのいまだ公刊せられず、その人においてこれを公表するの意志ありや否や不明なるものをまでも無断引用せるあるに至っては、本書と本著者とのために切にこれを惜しまざるを得ず。ことにこの場合において、もしその原説者の名を隠せるものあらんには、たとい著者においてなんらの悪意なかりしとするも、その結果はただに学説を剽竊したりというのみに止まらず、学界に対してこれが先取権を登録せしむるの結果とならざるべからず。しかしてもし原説者において、すでにその説の他人によりて公表せられたるに心附かずして、他日みずからこれを発表せんには、情を知らざる第三者は、必ずこれをもってかえって剽竊なりとなすべきなり。寒心せざるべからず。
 余のはじめ本書を見るや、往々にして余がいまだ世間に公表せざる学説、すなわち教場における講義、同人の会合における座談等において、少数識者間にのみ限りて発表せる所説と符合するものあるに驚きたり。もしこれ偶然の暗合ならんには、余はここにこの新進の同論者を得たるを喜ぶといえども、不幸にしてその説が直接、間接に余の学説と関係を有するものならんには、学界のために、はた本書のために、ことにこの新進の本著者のために、遺憾はなはだ多しとなす。およそ学者が少数識者間にのみ発表したる学説が、文書をもって公刊したるものとはすこぶるその性質を異にするくらいのことは、何人も心得べきところにして、これを口より耳に伝うる場合には、時にあるいは言い誤り、聞き誤りのことなしとも限らざるものなれば、これを引用せんとする場合においては、まず本人に質してその誤りなきを明かにし、さらにこれを発表するの可否については本人の承諾を経ざるべからず。いわんやその説者の名を隠して、自己の学説のごとく装うがごときにおいてをや。こはあえて本書について言うにあらず、本著者が故意にこれを為したりとするにあらねど、その論ずるところ往々にして本編に触るるあり、他日余が発表せんとするところと符合するものまた少きにあらざるがゆえに、筆のついでに附記するのみ。

四 佐伯部と武士


 大伴宿禰の族たる佐伯宿禰統率のもとに、宮門警衛の任に当りし佐伯部なる部隊が、蝦夷族より組織せられたりしことは、「夷俘・俘囚の考」中においてこれを述べたり。このことにつきては、すでに異説の発表せられたるものあり。『国学院雑誌』第二十巻第三号所載、斎藤美澄翁の駁文のごときこれなり。翁の所説は、同じくこれを佐伯部というが中にも、もと二種ありて、日本武尊の捕虜の後なる佐伯部は蝦夷の族なれども、禁門守備の佐伯部はその首帥なる佐伯宿禰と同じく、天押日命の後にして、天神の族なるべしと言わるるなり。しかも余輩不敏、そのしかるを暁る能わず、ただちに同誌翌月号においてこれが答弁を掲載せしが、今に至りてなおその再諭を得る能わず。したがって余は今なおこれをもって同じく蝦夷の族なりと信ずるなり。その管見の主意は、「夷俘・俘囚の考」中の「蝦夷と佐伯部」、および『国学院雑誌』第二十巻第四号所載「佐伯部は夷人なりとの事に就きて斎藤翁に答ふ」の文中につまびらかなれば今再説せず。
 要するに蝦夷をもって武人とすることは、少くも佐伯部隊編成の時、すなわち雄略朝以来すでに存在するなり。しかもこはただ佐伯宿禰に属して、禁門の守備に任ずるもののみのことなり。いわゆる佐伯部なるものはなお他にも多く存す。『日本紀』には、その編纂当時、すなわち奈良朝初期において、播磨・安芸・阿波・讃岐・伊予の五国に、武尊捕虜の後と伝えられたる佐伯部の存在せしことを記するなり。しかしてこれらの佐伯部が、必ずしも禁門守備の任に当るもののみにあらざることは、その播磨の佐伯部に関する『新撰姓氏録』の記事によりても察するを得べし。播磨の佐伯部はもと武尊捕虜の後と称すといえども、かつては山間に幽棲して、全く世と隔絶し、久しくその存在をすら忘れられたりきと伝うるなり。また仁徳天皇朝には、摂津猪名県の佐伯部が、天皇の愛し給いし菟餓野の鹿を射殺して献じたることあり。天皇これを恨み思おし、これを安芸に移し給う。これまた奈良朝初期に現存せる安芸国渟田の佐伯部の祖なりとあり。この渟田の佐伯部の族は、その後にもすこぶる盛んなりしものと見え、天応元年五月、正六位上佐伯部三国に外従五位下を授け、さらに延暦二年六月に、姓佐伯沼田ぬた連を賜わりしことあり。彼は当時右京に貫せしも、沼田連の姓を賜わりしことによりて、もと安芸なる渟田の佐伯部なりしことを知るべきなり。
 このほかにも、古え佐伯部は諸国に多かりき。その後世に郷名として存するもの、丹波・美濃・越後等に見ゆ。仁賢天皇五年、佐伯部売輪うるわの忠死を憐れみ、あまねく諸国に散亡せる佐伯部を求めてこれをその子孫に与え、佐伯造とす。『新撰姓氏録』には、佐伯造をもって天雷神あめのいかずちのかみの孫天押人命の後となし、天神の族に列す。このもの果して売輪の後なる佐伯造と同一なりや否やを明かにせざれども、とにかく売輪はそれ自身佐伯部にして、その子孫の統率のもとに属せしめられたる諸国散亡の佐伯部と同じく、蝦夷の族なりと断言するを憚らざるなり。これらの諸国に散亡せる佐伯部は、いかなる状態のもとにありしか、今これをつまびらかにするを得ずといえども、『姓氏録』に播磨の佐伯部が世と隔絶して山間に住し、谷川に青菜の葉の流れ来りしによりて、始めて川上に人あるべきを知りたりといい、猪名県の佐伯部が鹿を射殺したりしことなどを合せ考うるに、依然として蝦夷の旧態のあるものを存し、わずかに野菜を栽培するくらいのことを解せしも、その生業としては主として狩猟にありしもののごとし。さればその性素樸勇悍にして、君に仕えては「海行かば水浸みづく屍、山行かば草生す屍、大君の辺にこそ死なめ、のどには死なじと言ひ来る人たち」なりしなるべく、アイヌの性状を見るものは、これと比較してよく当時の彼らの状態をも理会するを得べきなり。むべなるかな、彼らが選ばれて禁門守備の武人に採用せられしこと。
 されど、彼らはひとり禁門守備の武人とのみ採用せられしにはあらざりき。前顕佐伯部売輪のごときは、実に市辺押磐皇子の帳内たりしなり。帳内これを「トネリ」と訓ず。舎人あるいは近習・資人などとあるものと同じく、その仕うる人の身辺に近くさむらいて、その用を弁じ、その身を護りしものなり。しかしてこれ実に中世以後家人けにんもしくは郎等の称をもって知らるる武士その物と性質を一にす。奈良朝における中衛府の兵士これを東舎人あずまのとねりと称す。東人あずまびとをもって組織せる兵士の義なり。同じころにおける授刀衛の兵士またこれを授刀舎人と称す。「トネリ」の義もって解すべし。後世武士を「サムライ」と称するまたその主にさむらうの意にて、帳内・近習・舎人などいうものと同一なり。市辺押磐皇子の帳内佐伯部売輪は、実に後世にいわゆる武士すなわち「サムライ」とその実質を一にするものなりしなり。仁徳天皇の皇子住吉仲皇子の近習に刺領巾さすひれと称する隼人あり、瑞歯別皇子に誘われ矛を執りて仲皇子を刺し殺す。また実に「サムライ」なりき。当時異族たる隼人また貴紳の従者として使役されたりしなり。しかして夷人佐伯部が貴紳の帳内として使役されたりしは、これとその義を一にするものなり。これ単に一例なり、しかももって他を類推するの料となすべく、武士と夷とその相関係するところ、由来古しといわざるべからず。

五 夷俘・俘囚と武士


 夷俘および俘囚がともに夷種たるべきことは、前に「夷俘・俗囚の考」中にその委曲をつくしたりと信ず。その夷俘が蝦夷なるべきことにつきては古来異議なけれども、「俘囚はもと是れ王民なり」との『江次第抄』の記事は、しばしば俘囚をもって内地人の夷のために略せられたりしものの後なりとするの説を生じ、この論すこぶる世に喧伝せられたれば、余輩はこの点につきて、特に力説するところありき。その後さらに新説あり。俘囚はその実浮囚と書けるを正しとし、夷種にあらずして内地の浮浪の民を辺境に移植屯田せしめたるものなりと解するなり。文は載せて『芸文』第六年第六号(大正四年六月発行)にあり。着眠奇警にして、在来の俘囚はもと是れ王民にして夷のために略せられたりというものと出発点を異にし、また一説とすべし。しかれども余輩は、すでに「夷俘・俘囚の考」中に引用せるがごとく、俘囚を虜といい、蛮と呼び、異類となし、あるいは夷俘の後にして内地に土着し、すでに位階を有して決して浮浪の徒ならざるものを俘囚と称し、後には夷俘と俘囚とを全然混同して区別せざるに至れる等、彼らがまた夷人なるべき証左はなはだ多きをもって、今に至りてなお前説を保持せんとするなり。
 夷俘すなわち蝦夷が兵士として使役せられしこと、また由来すこぶる古し。雄略天皇の崩ずるや、征新羅将軍吉備尾代の率いたる五百の蝦夷これを聞き、相いいて曰く、わが国を領制する天皇すでに崩ず、時失うべからざるなりと、なお相聚結して傍郡を侵寇す。ここに征新羅軍に従いし五百の蝦夷は、当時征夷の結果として、あるいは虜にせられ、あるいは帰降せしものなるべし。同じく夷種にして、一を佐伯部といい、一を蝦夷というは、前者がつとに内地に住し、したがってその俗もすこぶる変じたるものあるに対し、後者がなお夷地に住して、依然生蕃のままなるを区別せしものと解すべし。雄略朝征夷のこと『日本紀』これを記せず。されど『宋書』所載、倭王武の「国書」に、祖宗以来東の方毛人五十五国を征したるのことあれば、この朝にもまた必ずその挙ありしを察すべく、『新撰姓氏録』中臣志斐連条には、「雄略の御世に東夷不臣の民あり、人毎に強力にして朝軍を押防す、是に於て意富乃古連、甲冑五重、進んで敵庭に跨り、官軍を労するなく一朝に夷滅す。云々」などあれば、もって当時の事情を想像するを得ん。
 異族を征してこれを軍隊に使役することは、ひとりわが蝦夷に対する場合のみならず、古今東西その例多し。シナに「夷を以て夷を征する」の語あり。わが邦またこれを輸入し、奈良・平安時代征夷の軍、多く夷俘・俘囚を使役し、往々にして「夷を以て夷を征するは是れ古の上計」などの語を繰り返すなり。しかもそのこれを使役する、必ずしも征夷のためのみならず、右記するがごとく雄略朝にはこれを征新羅軍に用いんとしたるなり。あるいはこれを九州海岸の防衛に役し、あるいは内地の山賊、海賊の追捕に用うる等のこともありて、いちいち例証するの煩に堪えざるほどなり。内地における佐伯部の族ようやく他と同化して、その蹟を邦人中に没するに及び、夷俘・俘囚の使役ますます多く、平安朝の中ごろに至りては官兵無力用をなさず、難事に遭遇するごとにこれを夷兵、夷警に俟たざるを得ざりしなり。しかれども、彼らはただに兵士もしくは警官として使役せられたるのみにあらざりき。その有力者は往々にして位階勲等を有し、衛府の武官として任用せられたるものまた少からず。かつて本誌第二十一巻第四号(大正二年四月発行)に掲げたる「坂上田村麻呂は夷人なりとの説」中に論及せる、近衛員外中将兼播磨守陸奥大国造正四位上道嶋宿禰嶋足のごときは、その著しきものなりとす。しかしてもし坂上田村麻呂にして、果して前九年の役ごろの奥州人間に信ぜられしごとく、また俘囚の類ならんには、さらにその栄達せる実例として数うべきものなりとす。
 かく夷俘・俘囚らは、武官もしくは兵士として採用使役せらるるほか、彼らまた実に武士すなわち「サムライ」の起原と見るべき帳内・資人として、多く使役せられたりしがごとし。『続日本後紀』承和六年九月の条に、
 制す。選叙令に帳内・資人は並に八年を以て限りとす。神亀五年の格に、外五位の資人は十年を選となす。自今而後外五位資人の選限は、宜しく令によりて之を行ふべし。唯神宮司・禰宜・祝・国造・外散位・郡司及び俘夷の類は此の限にあらず。
とあり。この文すこぶる曖昧にして、解釈困難なるものあれども、一般俘夷に選叙の年限あるべくもあらねば、ここには帳内・資人の任限を定め、俘夷にしてこれに採用せらるるものは、必ずしも八年の限りに拘らざれというものと解せざるべからず。俘囚にして貴紳の従者たるもの、往々にしてその例あり。貞観のはじめ前越後守伴龍男の従者吉弥きみこの広野ひろのの、その主の犯罪を官に密告せる書生物部稲吉を殴殺せしがごときその一なり。『将門記』に、平将門の駆使に丈部はせつかべ子春丸あり。その姓と所在とを案ずるに、また俘囚の属なるべし。『陸奥話記』に源頼義が藤原経清を斬るに当り、汝先祖相伝余が家僕たりとなす。しかして経清の子清衡は、みずから東夷の遠酋と称し、俘囚の上頭にいると号するなり。これまた俘囚が※(「てへん+晉」、第3水準1-84-87)紳の家僕たる一例とすべし。
 鬚髯の長く生いたるいわゆる毛人は、実に郎等としての理想的典型たりき。『今昔物語』に余五将軍平維茂の郎等太郎介のことを記して、
 年五十余計の男の、大きに太りて、鬚長く、爛く怖ろしげなり。つはものかなと見えたり。
とあり。郎等の名称、起原については、種々の説もあれども、大体においてかつて帳内・資人など呼ばれたりしものとその性質を一にし、時勢によりてややその形を異にしたるものにて、実に一の「サムライ」なりき。しかしてその郎等には、鬚長く怖ろしげなる蝦夷式偉丈夫をもって、「げに吉き兵かな」と思わしめたりしなり。この帳内・資人の類より変形したる郎等は、実に後に武士と呼ばるるものなり。武士と夷と、その相関するところ、由来深しといわざるべからず。

六 東人と武士


 東国における武士の興起。これ歴史地理学的に古代東国の状態を明かにせんとする余輩にとりて、絶好の一研究題目なりとす。しかしてその内容、本編と相関するところきわめて多きがゆえに、余輩が本編起稿当初の腹案にては、詳細これに論及して、もって武士を夷ということの具体的証明を完からしめんとするにありき。しかるに叙述思いのほかに長びき、誌上の掲載すでに年を踰えたるがうえに、次号以降また他に発表すべき事項の多く堆積するものあれば、本編は便宜これを本号において完結せしむることとし、ためにこれに関する研究を他日の発表に譲り、ここには単に平安朝中葉以降東国に起れる武士は、主としていわゆる東人に属するものなりとの断案をのみ記して、さらに歩をその上に進めんとす。
 東人の何者なるかにつきては、本誌第二十三巻より第二十四巻にわたり掲載せし「東人考」において、ほぼその要をつくしたりと信ず。彼らは実に、佐伯部の兵士がかつて「海行かば水浸みづく屍、山行かば草す屍、大君の辺にこそ死なめ」と言立ことたてて、一心に君を守り奉りたると同じく、「額には箭は立つとも背は箭は立たじと云ひて、君を一つ心をもちて護り奉る」ものとして、聖武天皇の御信頼を得し勇士なりき。古え佐伯部の兵士の禁闕を護るや、彼らは久米部の兵士とともに左右の宮門を分担するの制なりき。久米部はもとこれを西国人に資る。されば、かりに佐伯部をもって東人に当てんには、久米部は西人もしくは筑紫人とも称すべきものなりき。しかして久米部・佐伯部左右に相対し、誠忠と武勇とをもって称せられたりしなり。しかるに奈良朝のころに至りては、この筑紫人もいつしか懦弱に流れ、もはや兵士として用をなさず、九州海岸の防衛すら、遠く東人を派してこれに当らしむるほどとなれり。しかもその往還すこぶる煩多きがゆえに、一時これを廃して筑紫人を用いしが、辺防たちまちにして荒廃せり。天平神護二年の大宰府の「上言」に、
 賊を防ぎ辺を戍るはもと東国の軍を資る、衆を持し威を宣するはただ筑紫の兵にあらず。
とあるは、その状を示して余りありというべきものなり。奈良朝においてすでにしかり、平安朝以後において、勇悍にして武を練磨し、その主すなわち「頼うだ」人のためには命を鴻毛の軽きに比し、忠実に奮闘してひたすらその名を惜しむというがごときいわゆる武士道は、ひとりこの東人の間においてのみ望むべかりしなり。東国に武士の起れる事情もって見るべからずや。
 西国といえどもまたもとより武士絶無にはあらず、しかもその武勇と忠実と、ともに東国武士の比にあらざりき。『源平盛衰記』に斎藤別当実盛の言を記して、
 坂東武者の習とて、父が死せばとて子も引かず、子が討たるればとて親も退かず、死ぬるが上を乗り越え乗り越え、死生知らずに戦ふ。御方の兵と申すは畿内近国の駆武者なれば、親手負はば其れに事づけて一門引連れて子は退く。主討たるれば、郎等はよき次でとて、兄弟相具して落ち失せぬ。
とあり。その懸隔のはなはだしきもって観るべし。むべなるかな、東国を根拠とせる源氏の前に、西国を根拠とせる平氏の脆くも敗北せしことや。かく鎌倉時代における武士は、ほとんど東人の専有するところとなりき。ここにおいて余輩は、いわゆる東人の何者なるかにつき、曩時の研究の結果をここに繰り返さざるべからず。曰く、
一、東国に移住せる天孫種族の民の子孫
二、蝦夷とこれらの移住民との雑婚より生じたるものの子孫
三、天孫種族に同化せし蝦夷の子孫
と。余輩今においてなお東人の要素として、右の三者を数うるものなり。もとよりその委曲に渉りてこれを論ずれば、韓漢帰化人の後もあるべし。いわゆる天神地祇の裔孫もまたこれなきにあらじ。しかも大体においては右の三者を列挙すべく、しかしてその天孫種族に属するものといえども、その居地によりて影響を受け、素樸勇悍の風に染みて都会の文弱に遠ざかりしものなれば、たといその血はどうにもあれ、精神的には東夷の長所を取りて、いわゆる「額には箭は立つとも背は箭は立たじ」との性格を得、天孫種族本来の美点と相俟って、「君を一つ心をもちて護り奉る」の武士的気風を養成せしものなりといわざるべからず。
 この東人の祖先中には、古伝説に、ひろく東夷として呼ばれたりしものをも含蓄するものなることを忘るべからざるなり。『日本紀』には東夷の中に蝦夷あることを言えり。しかして蝦夷以外の東夷に擬すべきものは、実に東人の祖先以外にこれを求むべからざるなり。もちろん後に中国よりこれに移住せしものは多々これあるべし。しかも彼らは夷人の感化影響を受け、東人と成りおわりたるものなれば、京畿の※(「てへん+晉」、第3水準1-84-87)紳より目してこれを夷となす、またゆえなきにあらず。武士と夷とその相関係するところ、由来久しといわざるべからず。

七 東人と氏姓


 東国武士として後世にまで武勇を賞賛せらるる東人は、多くは源・平・藤・橘等名家右族の姓を称す。実に彼らはみずから皇裔神胤の後と信じ、他よりもまた、然か認められたりしもの多かりしなるべし。しかしてそのある者は実際上正しく皇裔神胤の後なりしなるべし。しかれどもまた一方には、そのある者が明かに仮托に出づるものなることの証明を有するもの少からず。奈良朝以来俘囚にして、夷地に勢力ありし安倍・大伴・上毛野等旧家の姓を賜わりたるものはなはだ多し。東奥六郡を占有して、王師に抗せし安倍貞任の祖先のごとき、またその一なるべきか。仙北の首領清原氏、平泉に拠りし御館藤原氏また実に俘囚をもって目せられたりしものにして、ことにその藤原清衡のごときは、みずからまた俘囚なることをもって任じたりしなり。しかも彼らはその系図においては清原深養父の後と称し、藤原秀郷の裔と号せらるるなり。
 ただしこれらの系図果して彼らの当時より行われしか否か疑いなきにあらず。『百錬抄』には、清原武衡のことを記して平武衡となす。当時あるいは平姓を冒したりしものか。御館藤原氏は秀郷以来あるいは鎮守府将軍たり、あるいは下野守たり、その他相当の地位を有せしもののごとく伝う。しかも清衡の父経清は、実に祖先以来源家相伝の家僕たりしなり。源家相伝の家僕にして、なんぞ鎮守府将軍たり、もしくは下野守たるがごときことあるべけんや。経清は亘理権太夫と称す。当時いまだこれを秀郷の後となすの説なかりしものなるべし。否、ただに経清のみならず、その子清衡、志を得て、六郡を領するに及びてもなおかつみずから俘囚をもって任ず。なんぞ同時に鎮守府将軍秀郷の後と称することあらん。仮托の起れる、けだしその後にある知るべきなり。しかも『吾妻鏡』文治五年九月七日条には、由利八郎の語を録していう、「故御館(泰衡)は秀衡将軍嫡流の正統たり。已上三代鎮守府将軍の号を汲む云々」と。当時すでにこの系図は信ぜられたりしなり。その藤原氏を冒せしことは、その家代々藤原氏荘園の地頭たりしによるものか。しかして秀衡、鎮守府将軍たらんとするに及び、その系を秀郷将軍に托せしにてもあるべし。しかもその鎮守府将軍たりしは、ただ秀郷一代のみ。そのこれに任ぜらるるや、九条兼実嘆じて曰く、「乱世の基なり」と。事は日記『玉葉』にあり。しかるに秀郷の子泰衡の代となりては、その臣由利八郎はすでに御館三代鎮守府将軍たりしことを傲語するに至る。偽系図の認めらるることの速かなる、驚くべきなり。
 御館藤原氏すでに俘囚たり。その族人また実に同族ならざるべからず。『吾妻鏡』文治二年八月十六日条に、西行のことを叙して、「陸奥守秀郷入道は上人の一族なり」とあり。西行は俗名佐藤則清にして、みずから秀郷朝臣以来九代嫡家相承と称する弓馬の家なりしなり。奥州より出でて源義経に従いし佐藤継信・忠信また秀衡の一族なり。同書文治二年九月二十二日条に、「佐藤忠信者鎮守府将軍秀衡近親者也」とあり。しかもこれらは皆立派なる武士として世に認められたりしなり。これ一例なり、もって他を類推すべからずや。
 御館藤原氏が俘囚として、もしくは夷狄として認められたりしことは、平安朝末の記録のひとしく記するところ。源頼朝、征夷大将軍に任ぜられて、これを討伐す。名実相副うものなりといわざるべからず。しかして鎌倉の記録たる『吾妻鏡』、また実に陸奥・出羽の両国が夷の地たることを認むるなり。しかるにもかかわらず、本書を始めとして、鎌倉時代の記録文書、一もこの敗軍の将たる泰衡らのことを記するに、夷をもって貶称するものあることなし。これ後世の人々が、一般に彼らの俘囚たることを信ずるを難んずるゆえんなれども、つらつら思うに、ひとり則清と継信と忠信とのみならず、堂々たる武士の中にも、これと出自を同じうするもの少からず存し、しかして当時においては、もはや彼らを夷族としては認めざりしものにてもあるべし。ことにその家人・郎等など比較的下級に属するものの中には、ことにこの族多かりしものと察せらる。徳川時代に至るまでも、鬚奴ひげやっこの称ありて、武家の従者はなお余五将軍の郎等、太郎介と同じく、鬚多きをもってしとせしなり。けだしえびすすなわち毛人を理想とせるものなるべし。武士と夷とその相関係するところ、由来多しといわざるべからず。

八 結論


 以上論述したるところ、ほぼ武士と夷との関係をつくしたりと信ず。蝦夷は実に古えにおいて佐伯部もしくは夷俘・俘囚の名のもとに、すでに兵士として用いられ、また貴紳の従僕として役せられ、事実上、武士すなわち「サムライ」たるもの少からざりき。しかして彼らは勇悍にして、かつ忠実なるものとして重んぜられたりしなり。その間また東人なるものあり。直接、間接に蝦夷の影響を受けたるのものにて、同じく兵士として用いられ、貴紳の従僕として役せられき。彼らまた事実上、武士すなわち「サムライ」たるもの少からざりしなり。官兵※(「兀のにょうの形+王」、第3水準1-47-62)弱に流れ、他地方の民また怯懦たるに当りては、この夷俘・俘囚と東人とのみ、ことに武人として信頼せられき。後には夷俘・俘囚らも次第に同化して、いわゆる東人と相択ばざるものとなり、ここに東国より奥羽に渉りて武士なる一階級を生じたり。彼らはいわゆる武士道を重んじ、その主すなわち「頼うだ人」のためには身命をも惜しまず、進むを好み、退くを恥じ、ひたすらに、名を重んずること、古えの佐伯部が「海行かば水浸く屍云々」と称えられ、東人が「額には箭は立つとも背は箭は立たじ」と賞せられたりしと同一なりき。
 さればよしや血統の上に彼らが蝦夷となんらの関係なく、またみずからその関係なきを信じ、他よりもまた然か認めらるるものにありても、そのひたすらに武をのみ重んじて、文を軽んじ(関東武士の無学なりしことは「東人考」中に述べたり)、挙動、風采、粗野なるにおいては、京畿の※(「てへん+晉」、第3水準1-84-87)紳がこれを目して夷となさんは、自然の勢いなりといわざるべからず。いわんや事実上彼らの中には、夷人と直接、間接に関係を有するものの少からざるべきをや。されば武士を夷ということにつきては、もとよりこれを貶称するの意味もあるべきなれど、種族的にこれが解説を求むること、また一の見解たるを失わざるべしと信ずるなり。





底本:「喜田貞吉著作集 第九巻 蝦夷の研究」平凡社
   1980(昭和55)年5月25日初版第1刷発行
初出:「歴史地理 第二六巻第四号、第六号」
   1915(大正4)年10月、12月
   「歴史地理 第二七巻第一号」
   1916(大正5)年1月
※編注は省略しました。
入力:しだひろし
校正:Juki
2013年4月9日作成
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